2020-12-22

博士論文(「教育改革のための学校図書館」)について

本年2月に慶應義塾大学から「教育改革のための学校図書館」の研究業績により博士(図書館・情報学)の学位を頂戴した。その経緯について書いておきたい。

私たちの世代の文系の研究者は、大学院博士課程を単位取得退学のまま就職し、そのまま定年近くまで博士の学位なしの人が多い。当時、文科系では、博士はある分野に長期間携わって一定の成果を上げた人のための名誉的な称号であるという見方が支配的で、若いうちにとることは一部の分野(心理学、社会学、経済学などの実証科学的分野)を除くとあまり考えられていなかった。だから、外国の研究者人と交流して博士号がないというと少し肩身が狭い思いをしながらそのような事情を話さざるをえないことも何回かあった。私自身は、一定の研究分野でじっくりと研究を継続することができず次々といろんなことに手を出して中途半端にしたまま違うことに手を染めることを繰り返してきたので、博士号をとることもないだろうと思っていた。ところが、一昨年から昨年にかけて『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)をまとめてみて、ひとつの手応えを感じたことと、もう学究生活も最後になることだからもし学位につながるならチャレンジしてみようかという山気が生じたことで、博士号の請求手続きをしてみた。

もう一つラッキーだったのは、慶應の大学院文学研究科では論文博士を認めていて、それも刊行済みのものが審査対象になることを知ったことである。これがお隣の社会学研究科だとそうはいかず、論文博士でも基本的には博士課程に在籍していたことが要求される。実は、最初、社会学研究科にある教育学専攻に論文を提出しようかと思って相談したらこの理由のために門前払いだった。そのために文学研究科に提出することにした。

著書を準備する過程で一つの手応えを感じたというのは、この本は全体はいくつかのパートに分かれているが、重要なのは最初の部分で、占領期の教育改革時に学校図書館がどのような位置づけにあったのかを明らかにしたことである。すでに、中村百合子『占領下日本の「学校図書館改革」』と今井福司『占領期の日本の学校図書館』の2冊の先行研究が出ているところに加えて、あらためて占領期の学校図書館政策の全体像を整理し、とくに教育行政と教育学界における教育改革の議論との関係についてクリアにしてみた。

占領期教育改革が占領軍の民間教育情報局(CIE)主導で始まり、コアカリキュラムなどアメリカ流の教育方法や教育課程を導入して始まったばかりのときに、冷戦体制による「逆コース」によってそうした試行は断絶し、かつてのものに戻っていった。この状況において、学校図書館は当初、新教育を支える一つの制度的な手段と考えられ具体的な導入が文部省内で検討されていたし、学校図書館法によってすべての学校に図書館が義務設置された。けれども結局のところ法的にはあくまでも「設備」扱いであり人の手当てができなかったことがあとあとまで尾を引いたと言える。このあたりを明確に描き、それがその後の教育改革とどのような関係にあるのかについて描こうとした。ここの部分を描くことで、日本の教育制度は上からの改革に従うだけで、天皇制を傘にした軍国主義だろうが、CIEによる米国民主主義改革だろうが、55年体制以降の自民党一党支配による保守的な政治体制だろうが、自縄自縛になっていて自主的に動けないことが明らかになったと思われる。学校図書館は、本来、学習者の自主性を前提とした教育方法の下でしか生かされないから、これが義務設置されたことで日本の「上からの教育システム」に突き刺さった棘となったことを確認できたことが大きいと考えている。

現在、博士論文は機関リポジトリで公開することになっている。慶應の場合はKOARAというリポジトリで管理されている。ここには通常は論文の本文が掲載されているのだが、すでに公刊されているものについては「要約」を提出することで代えられる。「要旨」以外にもう少し詳しい「要約」があるのはそういう理由である。



「審査報告」で指摘されている本論文の3つの「限界」(下線部)について応答しておこう。

1..学校図書館に配置される専⾨職の職務内容についての検討はほとんどなされていない点である。いくつかの国内外の事例研究も提⽰されているが、それぞれの学校において、配置されている専⾨職がどのような仕事をいかに⾏なっているのかについて、体系的な分析は⾏われていない。また国外の事例研究も印象論を超えたものではないことは否めない。特にフランスが、どのような経緯を辿って新たに学校図書館を制度として導⼊したのかについては、今後の研究が待たれる。また、体系的な事例研究を踏まえ、異なる専⾨職の職務の組み合わせ⽅のパターンを学校規模などに応じて整理されることも今後の研究に待たれる。

本論文は、占領期からしばらくの時期に形成されようとしたが実現されなかった日本の学校図書館モデルをまず記述し(第1部)、それが戦後の教育状況のなかでその後どのように扱われたのか(第2部)、モデル形成において参照していたアメリカの学校図書館及びそれとは別の政策動向から展開したフランスの学校図書館はどういうものであるのか(第3部)、モデルを実現させるための議論の動向と課題(第4部)を明らかにしたものである。本論文が政策動向とそれをもたらした要因をマクロに分析することを主たる目的としていたため、審査委員会で指摘されている専門職の職務問題の内実にまで踏み込まなかったというのがひとまずの回答である。第2部、第4部の立論の根拠として、学校図書館で何が行われているのかについて体系的分析を行えればそれに越したことはないが、いずれもそのときどきの現場報告や評論的な言説に基づいて論を進めた。専門職についての先行研究は比較的最近のものはあるが、20世紀にはあまり行われていない。外国の事例については、アメリカとフランスを参照する根拠が何であるのかについては個別には記したが、十分には伝わらなかったのかもしれない。フランスを参照することの意義に関しては、確かに20世紀末と日本と同時期にあったフランスの教育改革においてなぜ学校図書館を含めることになったのかを明らかにできれば説得力を増したであろう。

2. 占領期とその直後については教育改⾰と学校図書館の関係について詳細に検討しているが、80 年代以降については記述が粗くなっている点である。臨教審は⼤きな分岐点であったはずだが、その中でも学校図書館の位置づけに進展がほとんどなかっ た原因の分析などがなされていない。また、いわゆるゆとり教育を導⼊した教育改⾰の下では、図書館の活⽤を展開する機会であったはずであるが、どうしてそのような機会とはならなかったのかの分析も明確にはなされていない。戦前の、⼤正・昭和初期の新教育運動における学校図書館の流れがいかに戦後反映されたのかについての研究も待たれる。

第2部の後半以降の議論が粗くなっているというのは確かにそうかもしれない。これは同時代史をやるときの問題であり、研究の蓄積がないために論点が明確になっておらず、論点づくりそのものを試行錯誤的にやらざるをえないし、それゆえ何をもって一次資料とすべきかも明確ではないからである。論点が明確になれば資料の探索や関係者へのオーラルヒストリーを行うところだが、全体像を明らかにすることを優先したためにこうなった。ゆとり教育導入下で学校図書館が生かされなかったということなどはその典型であるが、ゆとりが週5日制の導入や授業時間の短縮、そして教育方法の改善などを意味するときに、それがすぐさま学校図書館に結びつくということは学校教育の世界ではありそうもない。それくらい、教育課程に学校図書館を組み込むことは学校教育では異質なことなのである。そのことは強調したつもりであるが、個別に論じているので粗くなっているというのはその通りだろう。異質性を明確にすることはその後も続けている。臨教審の考え方が実を結んだとすれば、それは文字・活字文化振興法や子ども読書推進法だろう。図書館は読書推進の場としての認識はされていても教育課程や教育方法と関わりあうという考え方はほとんどなかったと考えられる。また新教育運動との関係についても少し言及したが、明治末からある新教育との関係の整理は今後の課題だろう。

3. 系統主義から経験主義さらには構築主義への変化という、教育が依って立つ 考え方の変化を説明する枠組みに基づいた全体を通しての説明は非常に明快であるが、 日本の、80 年代以降の教育政策と実践についての説明枠組みとしてはやや粗いものと なってしまっていることは否めない。論文中には、系統主義への揺り戻しがあっても、 実際には経験主義や構築主義への流れが確実にあることが繰り返し指摘されている。とすれば、日本における経験主義への変化をさらに繊細に捉える説明の枠組みが編み出されたとしたら、日本における経験主義の定着の兆しとその動きの特徴を描き出すことが 可能になるのではないだろうか。

そのとおりだと考えているが、少し言い訳させていただきたい。今回、論文を展開するために教育学(教育方法学やカリキュラム論)で、こうした議論がどうなっているのかをレビューしてみた。しかしながら、教育史的に戦後、系統主義から経験主義の導入、そして系統主義への揺り戻しが議論されていたが、1980年代以降の構成主義(構築主義)への展開について頼りになるような先行研究はあまりなかった。教育学の世界は教授者と学習者の行動や関係を心理学や認知科学、社会学などの方法で切り取って記述する研究は多数あるが、こうした大きな理論的枠組みで議論することがあまり行われていない。頼りになる研究がないので、自分で仮説的に議論を提示する必要があった。とくに、構成主義への展開の動機付けとしては、OECDのPISAを典型として国際的な教育政策の動向が影響していることについては述べておいた。日本の教育学者およびそれと密接な関わりをもつ教育諸学(教育社会学や学校教育学)の関係者は、自らが依って立つ基盤がどのように形成されているのかを無視して政策的な議論をしているように見える。今後は教育学研究者とも協同しながらこうした研究を進めていくつもりであり、すでに国際バカロレアを対象にした研究を開始しているところである。

粗くなった部分についてはマクロな見方を好む個人的資質にもよる。どちらかというと、日本の学校図書館の問題点を明らかにするとか、学校図書館職員が働きやすい場にするというよりは学校図書館という素材を分析することで、日本の教育の問題点を析出することに重きが置かれていたことは否定できない。この論文は、おおざっぱに戦後日本の教育における学校図書館の位置づけを学校教育における異質な存在として位置づけようとしたものである。そしてこれは今後、日本の教育文化の深層構造解明という課題に取り組むための出発点であると考えている。

先に学校図書館は法によって義務設置されたことによって日本の学校社会において突き刺さった棘であると書いた。ずっと放置されてきた棘はやがてじくじく膿を出してくる(比喩として言っているので関係者には失礼だがお許しいただきたい)。新しい学習指導要領は「探究学習」を前面に出しているが、ここでも学校図書館はそれほどの位置づけはない。しかしながら、著作権の権利制限の議論において著作権法31条の「図書館等」にずっと位置づけがなかった学校図書館を入れるかどうかの議論があったということはけっこう大きな変化ではないだろうか。ブログの他の項目で書いているように、探究学習は学習の基本であり、そこでは学校図書館(的な仕組み)は不可欠である。今、それを国際バカロレアを中心に見ようとしている。今後、徐々に変わっていくものと考える。本論文が、膿を出し切って学校現場に本当に定着するための力になるものと信じている。

最後に、本論文の主査を務めて下さった池谷ひとみ教授をはじめ、審査委員の倉田敬子教授、外部から加わって下さった山本正身教授(教育学専攻)、 堀川照代教授(⻘山女子短期大学)には年末のお忙しいときに面倒な論文をていねいに読んでくださり、貴重なご意見をいただいたことに対して心より御礼を申し上げたいと思う。

2020-12-21

「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)中間まとめ」についての意見

現在、著作権法において図書館関係の権利制限規定の見直しの議論が文化審議会著作権分科会で進められている。すでに、法制度小委員会の議論の中間まとめが公表されていて、これに対してパブリックコメントが求められている。 

文化審議会著作権分科会法制度小委員会「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)に関する中間まとめ」に関する意見募集の実施について

こうしたものに個人の立場から意見を出してもどれだけ取り上げられるのか疑問はありながらも、以前よりも開かれた場で議論を進めようとしていること自体は望ましいものと思われるので、意見を伝えることにした。図書館関係者の間では今回の議論は唐突に来たもののようにも受け止められているが、背景には安倍ー管政権が進めようとしているデジタル庁の動きがあり、これに連動していることは明らかだ。そしてそのときに図書館がもつコンテンツに着目しているわけである。そのことについては中間まとめを参照していただきたい。


————————{回答内容}——————————————————————

1)総論 (第1章 問題の所在および検討経緯を含む)

 知的財産推進計画2020にある「研究目的の権利制限規定の創設」についてきちんと言及されていないように思われます。現行の31条第1項は「調査研究の用に供するため」とありますが、この範囲を超えた権利制限規定をつくろうとしているのかどうかがよく分かりません。どうもそうではなさそうですが、そうならばその旨言及していただきたいです。


(2)第2章第1節 入手困難資料へのアクセスの容易化(法第31条第3項関係)

① 対応の方向性

 私は現在国立国会図書館に設けられた納本制度審議会委員を務めています。現在、納本制度の一環でオンライン資料の納入範囲を議論するなかで、「民間リポジトリ」を納入対象からはずすことが検討されています。民間リポジトリが運用されることにより、そこに含まれるオンライン資料は「一般に入手することが困難な図書館資料」ではなくなります。これ自体は著作権の制限と直接関係ないのですが、今後民間リポジトリ等が普及することにより、「入手困難な資料の容易化」という目的の実効性があやうくなるのではないかということを危惧します。つまり、現在、出版物は電子テクストが先につくられそこから印刷されたり電子書籍化されたりするわけですが、今後そうしたものはすべて民間リポジトリに置かれて、国会図書館から送信される資料は古いものに限られることになってしまいます。もちろん古いものの入手が容易になること自体にも意味はありますが、国民(とくに研究者)が期待していることとずれるのではないでしょうか。そのあたりの議論がされてこういう提案がなされているのかどうか疑問に思いました。「デジタル化」の看板が先行し、中身が伴っていないように思われます。


(4)第3章:まとめ(関連する諸課題の取扱いを含む)

 学校図書館を31条の「図書館等」に追加することはぜひ進めるべきだと考えます。これは、現在の国際的な教育改革の動向、とくに2021年実施の学習指導要領で「探究」関係の教育課程が増えたこと、文字・活字文化振興法や子ども読書活動推進法の趣旨等から言って当然のことです。

 しかしながら、現在の学校教育法施行規則や学校図書館法の条文では学校図書館は学校の「設備」扱いになっています。ということは法的には学校図書館への専門職員配置等がされにくいわけで、司書教諭は名目だけであり、学校司書の専門性は重視されていません。そのために「図書館等」に含めるために必要な著作権法の研修等が可能なのかなどの検討をすべきだと思います。

 そもそも、学校図書館や職員の位置づけについて、文科省の総合教育政策局や初等中等教育局を含めた場での基本的な合意をとらないと進められないものではないかと思われます。著作権法が対象とする著作物は教材ないし教育資源として大きな可能性をもっていて、21世紀の残りの時期に教育課程および教育行政において大きな位置づけを占めるものです。(以上のことは拙著『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)および1月刊行予定の『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)で詳説しています。)

 デジタル庁が開かれることを機会に、文化庁から文科省の他の部門に対して、著作権行政の観点から、図書館における著作物の権利制限条項が教育政策の要になることをもっと強く主張すべきではないかと思います。

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2020-12-19

『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の表紙について

編集者から本書のカバーとして、何か提案はありませんかというお誘いがありました。前に『情報リテラシーとしての図書館』を出したときは、その数年前にヨーロッパに行ったときに撮った図書館の写真から1枚を選んで表紙の写真にしました。ときどきあの写真はどこの図書館ですかと聞かれるときがあるのですが、北欧のどこかの公共図書館のはずだが分からなくなっています。行った記録と写真をもう一度きちんと整理したいと思っているのですがそのままになっています。

今回図書館の写真はもういいだろうということで編集者側と一致しました。修道院図書館の写真など使いたいものも多く、パリの国立図書館リシュリュー館閲覧室も候補に挙げてはいましたが、最終的には却下しました。最終的に選んだのは、下記の青線に囲まれたコミックのような挿絵です。まだ公開されてはいませんが、これが何を意味するのかは本文中に書いてあるので下記に引用します。オトレとはPaul Otlet(1858-1944)のことで、ブリュッセルで国際書誌協会を立ち上げて後の国際ドキュメンテーション運動の創始者となった人です。日本語版のWikipediaに詳しい伝記情報が掲載されています。この図は彼が晩年に書いた『ドキュメンテーション概論』という本に出てくるもので、要するに書物にある知が書誌やドキュメンテーションの媒介作用によって利用可能になり、人間の知として展開されて再編成される様を表現しています。途中の分類表や目録カードのようなものが書物を経由して学術的な知とつながるところがおもしろいということで、これを採用することにしました。

「言葉を知に変える」という考え方はきわめて多様なものを含んでいて、この本では多様性全体を扱っていますが、とくに図書館情報学につながる部分としては書誌や目録、分類、索引などが重要で、オトレらの考え方は20世紀初頭のベルエポック期の理想主義を基にそれを展開したものです。本書第8講でこれについて述べています。


====以下『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』からの引用=======

オトレが書誌からドキュメンテーションへの構想をわかりやすく図示した「世界、知識、学術、書物」をみておきます(図23)。彼が遺した著書『ドキュメンテーション概論ー書物についての書物、理論と実践』(Traité de documentation: le livre sur le livre, théorie et pratique, 1934)に収められているもので、彼の思想をよく示しています。一番下の段の「分類 La Classification」はUDCの分類表であって、ここに知識が秩序化されて示されており、通常はここからアプローチします。下から 2段目「体系知 L’encyclopédie」は知の個々の単位がカードの形態をとって分類の秩序に従って配 列されている状態を示しています。ここにマイクロフィルムや地図や論文が連携すれば、知へのアクセスは容易になります。下から3段目「書誌 La Bibliographie」はその個々のカードである書誌を示しています。これが手がかりに なって知にアクセスします。次の下から4段 目「書物 Les Livres」の段は、書物の形をと って学術の知識内容が文字列あるいは写真で 取り出されている状態を示します。下から5 段目「学術 La Science」(上から3段目)は知識が取り出されて思考の枠組みと対応づけら れている様を表します。下から6段目(上か ら2段目)「知識 Les Intelligences」は受けた人がそれぞれ事物について思考している状態 です。下から7段目(一番上)「事物の世界 Choses」はこうして得られた世界、宇宙についての知ないし真理です。下の方は書誌的プロセスを示し、ドキュメンテーションは書誌によって得られたものが知識として再構成される過程までを含んだ構想であることが分かります。(本文 p.189-190)


図23 「世界、知識、学術、書物」 (Otlet, Traité de documentationより)




2020-12-14

新著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の予告

『パブリッシャーズ・レビュー』という東京大学出版会・白水社・みすず書房が順番で編集していたPR紙が最終号だそうだ。今回最終号という報道を見て、初めてこれが東京大学出版会が5月・11月、白水社が1月・4月・7月・10月、みすず書房が3月・6月・9月・12月を担当して発行してきたということを知った。紙での出版にこだわってきた人文系の出版社もプロモーション手段としてのDMというのはもう使わないということだろう。

その12月15日発行の最終90号に私が書いた本の出版予告が掲載されている。発行日は1月中旬の予定である。ちょうど1ヶ月前になったところで広報が始まっている。アマゾンをみたらやはり予告が出されていた。

根本彰著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021年1月中旬刊行予定

そこには「日本ではアーカイブが必須の社会基盤とみなされていないのではないか。西洋社会と比較しつつ、これからの図書館が向かうべき道を照らす。」という文言が書かれていた。『パブリッシャーズ・レビュー』の方はもっと長い紹介文であるが趣旨は同じである。著者としては、これは執筆の趣旨と少しずれているのではないかと編集の方をやりとりをしているところだ。確かに広い意味では図書館論であるが、残念ながら「図書館が向かうべき道を照らす」ものと主張すると図書館関係者の期待には沿えそうもない。ほとんどの部分が西洋思想史をベースにした文化論・教育論であって、それに照らして日本の近代化を論じているからだ。要するにこの本は図書館も含めた文化の知識伝達機能を「アーカイブ」と名付けて、その発展が西洋思想の展開に基づいていることを主張しているのである。私が前から主張しているように、日本の教育がかたちだけ西洋的な学校制度を取り入れたが中身と方法が西洋のものとかなり異なったものとなった理由を解明し、それが近代日本の図書館の発展にとってマイナスに働いた事情を明らかにしたものである。

目次

第1講 方法的前提   

はじめに
用語の整理 
アーカイブとアーカイブズ
〈文書〉と言語論的転回 
文化翻訳論 
日本文化の三層性 
言語の透明性と構築性

第2講 西洋思想の言語論的系譜   

ロゴスとは何か 
プラトンとイソクラテスのパイデイア 
ロゴスとしてのアリストテレスの著作群
12世紀ルネサンス
ルネサンス 
フマニタス(人文主義)と近代科学
近代後期におけるロゴス 
パイデイアのその後

第3講 書き言葉と書物のテクノロジー   

書くとはどういう行為か 
書物と文書・記録との違い 
書物のテクノロジー 
古代・中世の書物 
グーテンベルクの活版印刷術

第4講 図書館と人文主義的伝統   

図書館はどのように始まったか 
アレクサンドリア図書館とは何か 
中世から書物の共和国へ 
読者の誕生
修道院と読書 
コレクションとミュージアム
学術知の成立

第5講 記憶と記録の操作術   

ユーグの読書論 
記憶術とは何か 
レファレンス書の完成 
書誌と分類 
書物の共和国の図書館

第6講 知の公共性と協同性   

百科全書と啓蒙主義 
教養とは何か 
研究型大学と大学図書館 
都市に埋め込まれた知 
公共図書館の制度化 
図書館専門職の誕生 
知の大衆化と図書館サービス

第7講 カリキュラムと学び   

陶冶とディセルタシオン 
バカロレアの哲学問題 
パイデイアの世紀的展開 
媒介される知と行動に移される知 
学校改革のための図書館的知 
国際バカロレアにおける学校図書館

第8講 書誌コントロールとレファレンスの思想   

世界書誌の夢 
書誌とドキュメンテーション 
FRBRモデル
分類法と主題 
知的コンテンツのメタデータ 
書誌コントロールという課題 
レファレンスとレファレンスサービス

第9講 日本のアーカイブ思想   

日本人の言葉とアーカイブ 
江戸のリテラシー
会読の重要性 
書物のアーカイブ戦略 
近代世界システムにおける明治維新 
殖産興業と学術知 
博覧会、博物館、図書館 
近代の学校教育制度 
江戸から明治へのアーカイブ戦略 
教養主義と「買って」読むこと 
近代日本の知の在り方

第10講 ネット社会のアーカイブ戦略   

世紀のハイパーメディア構想 
テキストとマルチメディア 
カノン(正典)とは何か 
育たなかったアーカイブ装置
国立国会図書館と憲政資料室 
アーカイブの活かし方

エピローグ   

知のネットワークとアーカイブ 
カノンとフーガ 
独学と在野の知

あとがき  

索引 


本書執筆の経緯について書いておきたい。2020年春にCOVID-19が世界を危機に陥れた。私は3月に大学を退職予定で最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していた。これについてはブログでも案内し、多数の参加希望者があった。これが開催できなくなったことは学究生活を終える私個人にとってはもちろんのこと、ここで予定していた重要な問題提起ができなくなったことについての学術的な損失という意味でも悔しく思っている。今ならオンライン開催も可能だろうが、それはまたの機会ということになった。

4月から同じところで非常勤講師として学部の「図書館基礎」という授業を継続する予定にしていたのだが、これがオンラインでやってほしいということである。それも教材をデポジットする方法でやることが推奨されていた。そこで一計を案じたのが、この際、自分が考えている図書館論を書いて学生に読んでもらってコメントをもらい、それに対して筆者としての応答をするという方法で授業を進めることであった。そうして書いたのがこの本である。第1講から始まって第10講まであるのは授業の10回分であることを示している。1週間に1講分の原稿を書くのはかなりハードだったが、これまで考えてきたりしてきたことなので、こういう機会に一気に書き下ろすというのは楽しい作業でもあった。また、こういうときにしかできないことだということも感じた。こういうときというのは、退職後で自分の時間をフルに使えることや、パンデミックの危機的状況のなかで緊張感をもって書くこと、また、読者が想定されて(待って?)いるということである。3ヶ月でほぼ書き終えて、その後、手を入れて原稿とした。という背景のなかで書いたものなので、かなりいろんな思いが詰め込まれていて読みにくいと感じることもあるかもしれない。しかしながら、この危機下に何者かを残すことができたという安堵感は残っている。


追記

本書に帯する書評についてブログで補記しています。

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(1) 2021-04-28

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(2) 2021-09-04

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(3) 2021-09-04


2020-11-10

『公共図書館が消滅する日』への疑問

昨日届いた『図書館界』72巻4号を開き、新出さんによる、薬師院仁志・薬師院はるみ著『公共図書館が消滅する日』(牧野出版, 2020)の書評を読んでみて、喉のつかえがとれた感じがしました。というのは、この本が何を主張しているのかがよく理解できず、もやもやしていたのに対して、すっきりと問題点を整理してくれているからです。この書評をきっかけとして、この本の問題点について論及しようと思います。

戦後の日本の公共図書館界では、国の統制を避けて個々の図書館(員)が住民と連帯しつつ自発的な活動をすることで発展できるという論理を組み立ててきました。ここに関わる団体としては、日本図書館協会(日図協)、全国公共図書館協議会(全公図)、図書館問題研究会(図問研)、日本図書館研究会(日図研)などがあります。日図協は言わずと知れた『中小レポート』と『市民の図書館』というこの考え方を推進した大元の団体です。関わる団体も一枚岩ではないのですが、書評に、全公図が日図協の公共図書館部会から分かれて行政的なプレッシャーグループとして活動することを目的としてつくられたとあるように、相互に関わりをもちます。図問研は日図協が敷いたレールの上で活動する現場図書館員の議論を集約する場であり、日図研は主として関西の図書館員と研究者が関わって日図協の活動を牽引したり後ろから押したりする役割を果たしてきました。

この本の著者らは、日図協を中心とする団体の活動および関係者の言説に対して批判を展開するのですが、私はこうした批判によってどのような対抗的な議論が行われているのかが不明と感じていました。新さんの書評では、本書が大胆に戦後図書館史を分析しようとしていることは評価しつつも、細部に問題が多いことの代表的な例を示し、そもそも土台の部分も怪しいという議論をしています。このあたりはまったく同感であり、こうした分析がされることでなるほど著者たちはこういうことを言いたかったのかと気づかされることも少なくありませんでした。

書評では、「「主流の物語」を批判するために、資料から自説を補強できる部分のみを引用して、別の「物語」を構築しているように受け取れる」(p.196)と述べられています。私には、その構築された「物語」が「本書が批判対象とした既存の図書館の発展史観と似かよっている」というところはよく理解できていませんでした。タイトルは「公共図書館が消滅する日」とありますから、国家的なプランとつながったり、外部からの提案を活かすチャンスは何度かあったのだが、図書館関係者はそれをことごとく自ら潰し、自壊の道を歩んできたと言いたいのかと思います。とすれば、これはとても「発展史観」とはいえないのではないか。というのは、潰してきたプランや提案の主体は、GHQの担当者だったり、図書館協会の理事だったり、図書議員連盟だったり、文部省だったり、日本書籍出版協会や文芸家協会だったりというように、時代が違えば、主張の背景も主体もばらばらだったし、図書館を推進しようという思惑もそれぞれ異なっていたからです。

本書の帯には、「真の目的と存在意義が、いま、失われようとしている」と大きく書かれています。本書に言う、公共図書館の「真の目的」とは何なのか最後までよく分からなかったというのが正直なところです。「はじめに」では、欧米の図書館が公共に開かれたものになっているのに対して、日本の図書館が商業主義的な原理に依拠し、指定管理を導入したり、非正規職員を大量に導入したりして、図書館運営や貸出の多さを競うようなサービス方針になっているが、これでは公共図書館とは言えないと主張しています。けれども、著書全体を通して個別の批判に終始し、このような「目的と存在意義」を実現するための制度とは何なのか、それをどのように実現するのかについては議論されていません。著者らは図書館法の法改正が必要だという議論をしたかったのかもしれません。書評では、著者の一人薬師院はるみさんの論文を引いてそのような読み取り方をしているように見えます。けれども、それは必ずしも前面に出てはいません。

こういう政策的議論には、戦略的な視点をもって歴史的分析を行い、現状分析をする必要があるのですが、本書には戦略的視点も、現状分析もありません。あるのは西欧的な公共性をベースにした個別の歴史的分析と批判だけです。また分析をする際の一貫した歴史観は感じられません。書評でも言われているように、これだけの視野で大量の現代図書館史の文献を集めて分析しようという作業は貴重だとは思います。また、これまで日本の公共図書館論に使える戦略的視点がどれだけ用意されているかというとそれも疑問です。だから、著者らにはここで展開されている論理の枠組みを明確にして、批判のための批判に終わらないポジティブな議論を今後展開されることを期待したいと思います。

私は直感的に著者らの批判は、個別にはともかく政策論としては有効でないと感じます。というのは、貸出を熱心に行う図書館も、指定管理の図書館も、居心地の良さを市民にアピールする図書館も、紆余曲折に見えて、日本の図書館が自立するためには必要な過程だったと思われるからです。それだけ日本人には、著者らがいう「図書館」とは何なのかが分かっていなかったとも言えるのですが、この間に、市民は日本的図書館を見いだしてきたのではないでしょうか。その証拠には、コロナ禍で図書館活動がストップしたときに、図書館サービスの復活を望む声が早い時点でさまざまな方面から上がったことが挙げられますし、今、文化庁の審議会で著作権法を改正して図書館が著作物の一部のデジタルデータを公衆送信できるような議論を行おうとしていることにも示されます。これらは、『市民の図書館』から50年目にして、ようやく目に見える動きとして現れたものです。文化的な事象はそれだけ時間を掛かけて熟成するということではないでしょうか。

追記(11月11日):その後、Facebook上で、評者の新さんとも議論して改めて思ったことですが、第一著者薬師院仁志氏が欧米社会および社会学の視点から社会批評をしてきた人であり、橋下行政への批判などもしてきたことを考慮すると、この本は、日本社会が欧米水準から見て不足しているものがあるという視点から、冷戦体制時には保革政治の荒波に揉まれ、その後は新自由主義を背景にした消費社会に変貌していくなかで、図書館関係者が住民要求というワードに脚をとられ、市民的公共性に照準を合わせることができていないことに対する批判であると受け取るべきなのでしょう。





2020-10-23

子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書, 2020年7月刊)に目を通した。読んだとは言えないのは、この本の第1章「子どもの読書環境はいかに形成されてきたか」が目当てで、あとの章はマンガ雑誌が売れている理由や『おしりたんてい』をはじめとするヒット本の分析に充てられているので走り読みしたからだ。それでも1章と「おわりに」は読む価値があると感じた。これまで、出版流通やベストセラーについて書かれた本で図書館が言及されるとすれば、それは図書館での貸出しが作家、出版社、書店などの関係者から問題視されている文脈でのことが多かった。大量の複本貸出が売り上げを損ねているというたぐいのものである。それがこの本はおそらく初めて、子どもの本というジャンルの話しではあるが、図書館(というより公費)が重要な市場を形成する要因となっていることについて論じたものだ。

子どもたちの読書量は増えているのか

本書の帯には「直近20年間で14歳以下人口は約200万人減ったが、児童書は市場規模を堅持、本を読まない子どもは減少し、小学生の読書冊数は倍増!「子どもの本離れ」はいかにして終わったのか?」とある。本離れが終わったというのが初耳なのでこれはどういうことかと思いながら読み始めた。

p11にあるグラフから14歳以下人口が1998年に1920万人だったのが2019年に1520万人であることが読み取れるので、実際の減少はその倍の400万人である。(これは間違い?)同じグラフから、児童書販売額が1998年の1400億円から2001年に1800億円と急に増え、その後は市場規模を維持して2019年に1750億円ということが分かる。p13のグラフ(これと次のグラフは全国SLAの学校読書調査からとったもの)が示す子どもたちの不読者率(5月1か月で1冊も本を読まなかった子どもの割合)は小学生が1998年の15.6%から2019年の6.8%と下がり、中学生に至っては1998年の47.9%から2019年の12.5%へと大幅に下がっている。また、p12のグラフからは、1998年の小学生の5月1か月の書籍の読書冊数が6.3冊だったのが2019年には11.3冊に上がり、中学生は1.8冊から4.7冊へといずれも大幅に増えている。子どもたちの読書について数値上はこの20年間に大幅な増加傾向を示している。

ということで、子どもの数が大幅に減少しているのに、児童書販売額は倍以上になり子どもの読書冊数も延びているというたいへんめでたい状況が示されている。ただし統計値による議論の根拠が怪しいということはありうる。たとえば販売額にコミックが含まれかなりの割合になるはずだが、学校での読書ではコミックは推奨されていないはずだから、これらのマクロなデータでどこまでのことが言えるのか。しかしここで論じたいのは、それでも子どもの読書量はこの20年間で増えているとして、これを手放しで喜んでいいのだろうかということである。

この本の第2章以降では、子どもたちがどのような本を好んで読んでいるのかについて、詳細な分析が行われている。そこで描かれているのは、子どもの本の造り手が子どもたちのニーズをいかに把握しながら商品づくりをしているのかということだ。『コロコロコミック』と『少年ジャンプ』との棲み分けの話しや大ベストセラー『おしりたんてい』がなぜ売れたのか、『かいけつゾロリ』の著者が本を読まない子にどのように読んでもらうような仕掛けをしているのか、子どもの目線から「悪い大人をやっつける」宗田理『ぼくら』シリーズが累計2000万部を売った理由、といったように展開されている。そこで取り上げられているのはマンガ雑誌、絵本、コミック、男子向け・女子向けのジュブナイル本など多様であるが、なるほど、子どもたちの日常生活のストレス解消や身近なところで満たされない夢を追うことなど、明確に存在しているニーズに対応しようと子どもたちが読みたい本を供給していることが分かる。

読書推進の行政的働きかけ

他方、第1章の後半で強調されているのは、学校図書館行政の仕掛けである。学校図書館は戦後教育改革で一時的に注目されたがその後はあまり光が当たらない存在だった。しかし、世紀の変わり目に政治的働きかけから子ども読書活動推進法(2001)ができて、それ以来、国の資金が自治体行政に入ったことにより公立図書館や学校図書館での児童書購入が増え、また、ブックスタート、朝の読書や読書のアニマシオンが行われ、子ども読書へのインセンティブが強まった。とくに朝の読書は学校の生活時間に読書の時間が組み込まれている訳だから、その効果はきわめて高い。職員配置がなかった学校図書館にも複数校配置の非正規職員にせよ人的サービスが始まった。これらの仕掛けが相まって子どもたちは本を読むようになった。要するに、学校図書館が整備され、さらに学校教育の枠組みのなかで朝読のような読書推進の時間が設けられたことが、子どもたちの読書意欲を高めていることは確かだ。子どもの本が売れた理由は公的な財政支援の効果が大きいということを示している。

ただ、先に挙げたような本の購入に公費が充てられているのだとすれば、それでいいのだろうかという疑問が沸いてくる。二つの論点がある。ひとつは、児童書市場と大人書籍市場とに分けて考えたときに児童書市場だけが政策的に支えられている状況が望ましいのかということがある。他方では図書館に当てられた公費が出版市場に負の影響を与えているという主張もあるように、大人書籍の市場関係者から異論はないのだろうかという疑問である。もう一つはそれと関わるが、こうした本は短期的な読書量を増やすのに貢献しているのだろうが、本当に読書振興につながっているのかという疑問である。こうした本を読んだ子どもたちが成長し大人になっても本を読み続け、出版市場を支える人になるのだろうか。

子どもの本が売れているといっても、売れているのは子どものニーズに寄り添う娯楽的な本が中心であり、公費投入によって結果的に推進されることになるのはどちらかというと消費的な読書である。それでも、こうした子どもの読書行為が将来の出版市場の買い手を育成することにつながっているなら正当化されるかもしれないが、読書習慣の育成につながるのかどうかはかなり怪しいのではないだろうか。そもそも子ども読書推進の動きは、子どもたちがゲームやスマホに浸かっているよりも、どんな本であれ読書する行為そのものを無条件に肯定する考え方が背後にあるように思える。

ところが、著者は、2010年代になって一般家庭での児童書購入の割合が増えていると言う。それは教育改革によって学校図書館が調べ学習や総合学習の場に転換しつつあり、それにともなって学校図書館の資料購入が読み物中心から調べるための資料にシフトしつつあり、その分、家庭での購入に廻ったからだという。(p.128-130)学校図書館の本の貸出しの統計データはつくられていないし、ここで購入資料が調べ学習や総合学習用にシフトしているというのも特定の事例に基づく論なので、どうも根拠がはっきりせず、著者の推測によるとしか言えない。

だが、学習指導要領で探究学習が明示されつつあり、学校図書館が学校図書館法で規定する本来のかたちであれば、読書振興だけでなくて教科の学習を支援することが必要であり、そちらの方向に進むことは自然である。本書で著者は、どちらかというと子どもの本離れが解消されつつあることと、本の造り手が子どもの視点を重視しているという点を強調している。だが、その裏でこのような移行が進行していることをも示してくれている。また、最初に書いたように、この本が出版市場における公費による支援や図書館市場、学校市場の存在を明確に示し、児童書出版ではそれがかなり大きいことを示唆したことは重要な指摘だと思う。

高校以降の読書

小中学校の「読書量」が増えているというのは確認できたが、高校、大学、そして大人にそれがつながっていない。先ほどの2019年学校読書調査で5月の1ヶ月で一冊も本を読まなかった不読者の率は高校生だと55.3%である。過半数は不読者ということになる。平均読書冊数も1.4冊であり、これらの数値は1998年とあまり変わっていない。また、全国大学生協連が実施した2019年の「学生生活実態調査」で、大学生の48.1%が1ヶ月の読書時間が0分で、平均読書時間は30分という数字が公表されている。高校が受験その他で忙しく読書の余裕がないとはよく聞く話しだが、大学生になっても変化はない。小中生の読書とのギャップはあまりにも大きい。さらに2019年(平成30年)の文化庁「国語に関する世論調査」は16歳以上の男女に対して読書についても尋ねているが、回答者の47.3%は1ヶ月に1冊も読まないと回答している。これらの統計は、高校以降の人たちの半数は読書をしないことを示している。

実は、読書をしない回答者が半数という読書に関する大学生の状況は1998年の中学生の状況に近い。一番いいのは、大学受験と読書を結びつけるようなプログラムがもっと豊富にあるべきだということである。高校で始まる「総合的探究の時間」はそれを可能にするものになるのだろうか。しかしながら、やはり大学がもっと「知の在り方」をきちんと教育する場であることが求められているのではないか。教養科目や一般教育科目が軽視され、専門科目の下請け的な位置づけになっている今の大学の現状では、読書と知、そして専門教育が結びつけられていない。大学教員に、大学が総合的な知を育成する場という意識があまりないのが最大の問題であると思う。

大学図書館に対して資料費や職員配置のための財政補助を行い、カリキュラムに教養書や学術書を読むための枠を設けることを積極的に行ったり、ビブリオバトルや作家や著作者の講演会他のイベントを行うなどの積極策をとれば効果があることは確かだろう。実は、アメリカの大学は1960年代に大学進学率が50%を超えて大衆化が進行したときに、政府の資金により大学図書館を整備し、授業で大量の文献を読ませる方法を積極的に導入した。研究図書館と別に学部生図書館(Undergraduate Library)を設置したところも多く、大学の授業はともかく書物や論文を読むことを中心にすることが改めて確認された。

日本でも国が子ども読書振興にそれほどまでにこだわるなら、それを高校や大学まで継続するためのビジョンをもつべきではないだろうか。大学は国がカリキュラムや大学生に読ませるべき書籍の内容に口を出すのは拒否するだろうが、読書振興を名目に補助金を出すことは歓迎だろう。私は電子書籍の導入やネット環境の整備にもましてこういうことの方が大学生の学習意欲向上と環境整備に効果があると考える。

『教育改革のための学校図書館』を書いた私としては、本を読む機会が与えられればいいというだけの考え方には与したくない。図書館、学校図書館は出版市場という民間セクターに公的資金が導入されている場であり、その意味で知の公共性に関わっている。






2020-10-04

国際バカロレアと学校図書館との関係

大学をやめてから半年が経過して、ブログの更新も停止していましたが、そろそろ再開しようと考えています。本日は、日本図書館情報学会研究大会があり、そこで「国際バカロレアにおける図書館の位置づけ」という報告をしたので、これについて、この場で公開したいと思います。

抄録

日本でも,50校ほどで導入されている国際バカロレアディプロマプログラム(IBDP)の歴史と現状,学校図書館がどのように位置づけられているのかについて,IB本部の公式文書および外国での研究成果を基に整理した。1970年代から始まったプログラムは探究学習を中心とし,学校図書館は必置であるが,専門職員配置については曖昧であった。2000年代に進められたA. Tilkeの研究及び実践は専門職員配置について一定の成果をもたらしつつある。


本文ファイル

パワーポイントファイル


いくつか質問があったのでお答えしました。補足しながらまとめておきます。

Q アメリカの一般的学校のカリキュラムと学校図書館との関係と、IBのカリキュラムと学校図書館との関係は同じようなものと考えてよいのか。

A アメリカの学校といっても公立か私立か、州の違いなど個別のケースによってかなり違うが、20世紀後半以降、カリキュラムは探究型に転換しつつある。IBはアメリカのみならず欧米の学校カリキュラムで採用されている構成主義をもとにした探究的な学習法の動向を先取りしている。探究とは学習資源(これは、人、教材、学校図書館資料、データベース、ネット上の情報資源を問わず)を素材として使って自らの知を構築することである。この学習資源全体の管理と仲介機能を果たすのがlibrary/ianの役割とすれば、探究学習をするのにlibrary/ianは必須であるという理解は共通している。IBはそのような動向を先取りして制度化しつつあると言える。


Q 国際バカロレアのカリキュラムの推進に図書館が関わるという考え方はどこから来ているのか。それが日本で定着する必然性はあるのか。

A もちろんカリキュラムの推進は教員の役割であり、司書や司書教諭はそれを支援するというのは他の学校図書館とも同様である。発表でも述べたように、IBの本部は学校図書館員を専門職とみなして要求しているので、日本も含めて総じて図書館員の専門性、独立性は認められており、そのために教員と対等の立場で支援することがしやすいのだろう。定着するかどうかは今後の展開次第であり、そのためにこうした研究を行っている。


Q 国際バカロレアが日本の教育改革にどのような影響をもたらすと考えるか。そのときに学校図書館への影響は。

A IBのカリキュラムは2020年代の学習指導要領の方向性とぴったり合うものであり、その意味ではIBが国内の一般的な学校の実践に何らかの波及効果をもたらす可能性はある。その場合に、学校図書館にもよい影響を与えるかもしれない。とは言え、文科省が率先して導入をはかろうとしているが、これはカリキュラム改革というよりも国際教育という文脈で考えたほうが理解しやすい。なぜなら、IBを担当しているのは大臣官房の国際教育のセクションであり、カリキュラムは初等中等教育局の管轄なので別だからだ。だから、公立学校でIBを導入したところも県の教育委員会肝いりの特別の位置付けにある実験校にな(ってい)る可能性は高く、IB校が教育改革に対してプラスの影響を与える存在なのかはまだよくわかっていない。けれども、数十年単位での長期的展望を言えば、今後の学習方法のモデルを提示することは間違いないと思われる。







2020-03-31

言語と知識,国語教育 ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(2)

政権党党首であり総理大臣である人が,国会答弁や記者会見の質疑において質問の意図を「ずら」して答えることで切り抜けようとしていることが話題になった。答えにならない答えをしていても,それについて責任が問われない状況はなぜ生じているのだろうか。これは行政官庁において官僚が公文書の作成をためらい,作られたものを恣意的に管理することと関わっている。話し言葉はずらされ,書き言葉はなかったことにされる。

こうした状況は今に始まったことではないかもしれないが,少なくとも20世紀後半には政治家も官僚ももう少し言葉に対して責任をもっていたと思う。図書館情報学は言語表現された媒体を扱う領域であるから,言葉がこのように軽く扱われることについては大きな危機感を覚える。考えてみれば,日本で公文書管理がずさんであることや公文書館が貧弱であることと,図書館はそれなりにつくられていても司書を専門職としてこなかったこととは密接な関係があるだろう。文書は一回性の事象の証拠となるドキュメントであり,図書は普遍的な知を記録したドキュメントである。どちらも記録して集め組織化してあとで再利用するものである。日本社会は,ドキュメントの再利用に抵抗があるようだ。おそらくは,同質集団における関係が前提となった身体的なコミュニケーションがベースにあるからだろう。

ここ数年,ロゴスという言葉に惹かれてきた。これは,古代ギリシア語に端を発する概念で,言語,理性,法などの意味を有するとされる。この言葉が西欧の哲学のなかでどのような位置づけになるのかは,岩田靖夫・坂口ふみ・柏原啓一・野家啓一『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(有斐閣 1993)に概説されている。重要なのは西欧の思想が今に至るまで一貫して,このロゴス(理性主義)を基軸として形成されてきたということである。この本でも,中世にはキリスト教神学がギリシア哲学のロゴスを否定的に扱ったことが書かれているし,近代以降ロゴスがもたらした科学技術が人間社会に与えた負の遺産が語られている。だが,ロゴスの発動が西欧社会の発展をもたらしたことについていささかもゆらいではいない。

ロゴスが言葉であり理性であるというのは,人は言葉を発し,書き記すことで自らの思想を生み出しそれを他者に伝え,蓄積し,必要に応じて取り出して参照するという,そうした知的営為が結果として社会を発展させる原動力になったということである。そこでは,図書館や文書館のようなアーカイブの機関が重要な役割を果たす。それはアーカイブこそが権力とそれにまつわる知の源泉を示すものだからだ。諸元に帰ることで権力と知のありようについて再考する機会を重視する再帰的な作用が組み込まれている。西欧の近代図書館は,中世以来の教会や修道院の図書館とともに,王侯貴族が宮廷に知識人の交流の場としてつくらせたものであった。そこでは知の言葉を凝縮した書物を置くことで,徹底してロゴスの機関であることを誇った。図書館情報学の出発点もそこにある。

明治政府の近代化路線は西欧社会の模倣で始まった。そこではこうした知的営為は限定されたかたちでしか導入されなかった。なぜならば,知は輸入して翻訳すれば手に入ったからである。帝国大学はそのための機関であり,西欧的な知を導入して日本的なコンテクストに置き換えて再配布することを使命としていた。日本の近代化はロゴスの自律的発動を嫌い,入れるべき知を限定し,国定教科書にまとめ直し,学校で習得させた。暗記中心の教育になるのはそのためである。

私は図書館情報学の研究をするうちに,以上のような日本社会,とくに教育システムがもつ歴史的な特性と限界に気づいた。日本人は江戸期までは中国というモデルがあり,近代以降は欧米というモデルがあり,いずれもその知を自らのコンテクストに合わせて咀嚼しながら導入した。それは現在に至るまで教育システムを支配してきた。これは自ら問題意識を構築し解決する人の出現を妨げてきた。モデルに倣って近代化を進めるうちはよかったが、近代化を達成した後は逆にそれが桎梏となっている。

最後に,国語教育の話をしておきたい。学校教育が自ら考える市民の育成を目的とせず,国に従属する臣民教育であったのは事実である。学校図書館は本来,学校における各教科のための知的基盤を構成するための施設のはずだったが,読書推進の役割しかもてなかったのは,学習者が知を自ら構築するという考え方が欠如していたからである。今,新しい指導要領において「探究」の言葉が散見されるわけだが,教育関係者がどこまで本気でカリキュラムを変更しようとしているのかは疑問である。

読書というと誰もがよいものであるということで思考停止してしまう。ともかく小学生までに読書の習慣を身に付けましょうといい,かなりの国家予算が子ども読書推進に充てられているが,実は,今の中等教育および高等教育を進めるだけでは,本を読み考える市民は生まれない。むしろ本を読ませるべきは中高生,および大学生なのだ。論理国語はこのようなコンテクストにおいてとらえるべきだろう。

私は国語という教科は数学と並んで方法の教科であると理解している。方法の教科というのは言葉や記号を操作することで思考を自ら進めるための手段となるものである。いろんな機会にお話ししているのだが,日本の数学はきわめて高度で,四則演算から始まり,解析学(微分・積分)や線形代数の基礎までをやる。これは理系教育ばかりか社会科学も含めた方法的な基盤を提供している。自然科学系のノーベル賞が連続して出ているのはその有効性を示している。

では,人文的な分野の方法はなにかといえばそれは言語に基づくものである。言語を理解し,発し,やりとりする力である。数学があれほど一貫した体系で進められているのに,国語はそうではない。漢字の読み書きができるようになるとあとは文学的鑑賞を中心とするものに移行していた。本当はクリティカル・シンキングを含めた文章の読み書きの方法を学び大学での学びにつなげていかなければならないのに,そうではなかったのだ。

今後は,これらの問題について,歴史,思想,国際比較の観点から研究を続けていくつもりである。



図書館情報学をおもしろがって ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(1)

3月末日をもって,35年にわたる大学教員生活に終止符を打つことになった。本来であれば,3月21日に予定されていた公開シンポジウムの場で「最終講義」と題して語るべきであったことの一部についてここに書きつけておこうと思う。この公開シンポジウムはこの間のコロナウィルス騒ぎ(この騒ぎがもつ意味についてはまた書いてみたいと思う)で延期になった。これが最終講義として実施されることはおそらくはないだろう。

用意したレジュメ(今のところ非公開)の最後の部分に「役に立つ学問とおもしろがる学問」という表題をつけていた。考えてみると,私がやってきた学問は徹底的に自分だけが「おもしろがる学問」だったと思う。逆に言えば,本来,「役に立つ」ことを要請されていたのに,あまりその方面には関心をもてなかったことがある。そのために関係領域の方々には失望の念を与えたことがあったかもしれない。最近出した『レファレンスサービスの射程と展開』で私は2本の論文を書いたが,そのうちの第4章「レファレンス理論でネット情報資源を読み解く」は私がもつ「おもしろがる資質」が前面に出た論文である。たぶんこれを読んでおもしろがってくれる読者が少数であることは覚悟している。

こういうスタンスで書くのはなぜかというと,これは私の母校であると同時に20年間勤めた東京大学教育学部の性格と関わっている。ここは戦後教育改革で設置された「ポツダム学部」と呼ばれたものの一つであり,戦前の皇国史観を支えた師範教育を否定し,戦後民主主義に基づく教育制度を新たに構築するために帝大系大学に設置されたものである。アカデミズムをベースにして教育の営みを批判的に読み解き新しい教育理論を構築することが要請された。「現場」に寄り添った議論を特色としていたが,よく知られているように冷戦体制下においては教育は保守対革新に分かれた政策論が中心になり,ここの教員は日教組に近い立場をとる人が多かった。また,それに対する反発から逆に極端に保守的な議論をする教員もいた。私はそこで前提になっていた教育政策論が結局は教育を政治的道具と位置づけていることの限界を感じる一方で,戦後新教育において確かに図書館は一定の位置づけがあったはずなのに教育政策においてはまったく語られないことに対する絶望的な気持ちもあり,違ったアプローチをとることにした。

図書館情報学はもともと図書館員(司書)を養成するための領域であった。私がここ5年間所属した慶應義塾大学文学部図書館・情報学専攻は,戦後改革の時期の1951年に占領軍の後押しでできたJapan Library Schoolを発展させたものであり,大学で図書館員を養成するための拠点として設置されたものである。それは慶應義塾がもつ本質的に実用主義(プラグマティック)な性格とも合っていた。設置当初から1970年代くらいまではその役割を果たしていたと思われる。当時の企業はここを卒業した学生を図書館や情報の仕事をする専門職として雇用してくれていた。だがそれも高度成長からバブル経済の時期までである。その後,企業に経営の体力がなくなるとそうした雇用はなくなった。戦後社会と図書館員養成との関係については,1979年に開学して2004年に廃止になった国立図書館情報大学の運命といっしょに語らなくてはならないのだが,それもいずれかの機会にということにしておきたい。ともかく,今では慶應の図書館・情報学専攻を卒業して図書館員になる学生は卒業生の1割もおらず,そもそもの設置目的からするとだいぶずれてきている。


私は,これを日本社会において(西欧的な意味での)図書館は必要とされる機関ではなかったと考えている。なぜそうなったのかについてはすでにいろんなところで書いたし,今後はこれを歴史をさかのぼって検討する予定である。ともかく,私はこのような状況そのものを「おもしろがる」ことにしたのである。文科省や東大教育学部を含んだ日本の教育関係者が図書館を無視してきたことは事実であり,そのこと自体が今後の教育政策を考える上で重要なテーマとなるのではないかと考えた。それを追及した『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』の二冊の本は教育学の総本山から離れたことで書くことができた。


教育と図書館との関係を考えるためにはいくつかの媒介項が必要になる。言語,情報,カリキュラム,学習方法,教材・教具,教育評価といったものである。これらの全体の最新の理論研究を見てきて,これが図書館情報学が対象としてしてきたものを別の角度から見ていると考えるようになった。ただし,米国経由で入ってきた日本の図書館情報学と同じように,教育政策の議論でも欠けているように見えるのが,言語と知識との関係の捉え方が欧米と日本とでかなり異なることである。これについて,次のブログで簡単に述べておきたい。

2020-03-24

PISA 2018, コンピテンス, そして「翻訳」

以下は、雑誌『みすず』2020年1月/2月号に寄稿したものです。

 「2019年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

PISA2018で日本の子どもたちの読解力がまた下がったと大騒ぎである。また、大学入学共通試験実施に関して、英語の4技能試験や記述式試験の導入を先延ばしにするというニュースがかけめぐっている。そこで問題になっているのは「公平性」である。しかしながら、試験における公平性とはなんであろうか。そこでは社会的、経済的な条件が違っても受験者が臨む試験は唯一無二の神聖な競争の場であり、同じ条件が確保されなければならないという規範が覆っている。試験は差別化のための方法なのだからそれ自体が形容矛盾であり、すでにある「公平な」条件が一人歩きしていることは明らかである。

改めて、渡辺雅子『納得の構造:日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社, 2004)を読み返し、20世紀の日本の教室では子どもたちの自然な発話と共感とが最大の価値であったことを確認した上で、福田誠治『ネオリベラル期教育の思想と構造:書き換えられた教育の原理』東信堂, 2016)を読むと、21世紀になって急に前面に現れたOECDのPISAが追求しているものが、グローバライゼーションに基づく自由主義的競争の下で賢く振る舞うことのできる能力(コンピテンス)であり、この数十年で生じた両者の違いがひしひしと感じられる。受験期の子どもたちはそのギャップを一身に受け止めざるをえない。

今回、文科省の関係者は、高大接続を合い言葉に入試改革を梃子にして念入りに準備をしたはずなのだが、最後は拙速になった 。おそらくそれは、江戸から明治の移行期に、西欧諸国に範をとって、法制度や行政の仕組み、科学技術や学術その他国のインフラになるものすべてを導入しようとしたときに、新しい言葉とともに、概念や言葉に付随するもろもろの制度・文化を無理矢理導入したときに始まったのだろう。「翻訳」が単に二つの異なった言語間の対応関係にとどまらないことは、近年のトランスレーション・スタディーズが示している。長沼美香子『訳された近代;文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版会, 2017)は、明治政府が辞書編纂を通して対応づけを行った記録を分析したものである。ここまで遡らないと、日本の急ぎすぎた近代化が教育にもたらした負の遺産は明らかにできない。そして教育や文化が時間の関数であることを改めて確認したい。

なお、私の専門分野では、デビッド・ボーデン/リン・ロビンソン(塩崎亮訳)『図書館情報学概論』勁草書房, 2019)が出て、他分野からの見通しがつきやすくなったことを報告しておきたい。

2020-03-04

『レファレンスサービスの射程と展開』の刊行


暗い話題ばかりの昨今ですが、少し前向きの(?)話題を。

日本図書館協会から『レファレンスサービスの射程と展開』という本が出ました。












































この論集は2018年3月に逝去された故長澤雅男教授の教え子に当たる人たちを中心として、「レファレンス」をテーマに一冊にまとめたものです。レファレンスというともう古いとか、ネットで代替できているという反応が一般的です。論集でも少し触れられていますが、むしろ「レファレンスって聞いたことがない」「リファレンスというのが正しいでしょう」という人も少なからずいます。そういうなかで、図書館員が自信をもってレファレンスサービスを実施できるようにという思いを込めて、研究者がその重要性を理論的、実践的に明らかにしたものです。

日本の図書館界でレファレンスサービスといえば、第二次大戦後の占領期にアメリカ図書館学の影響を強く受けて導入されたものと考えられています。図書館界では志智嘉九郎の神戸市立図書館での実践がよく知られていように、1950年代60年代には図書館員の専門性を示すサービス戦略としても重要視されていました。しかしながら、その後は知られているように「資料提供」を中心とした人的サービスを前面に出すことでレファレンスはサービスを支える一要素として背後に置かれたとみられています。さらにはネット社会の到来とともに、サーチエンジンやSNS、Wikipedia、 Q&Aサイトで大方の疑問は解決するし、図書館での検索もWebOPACがあれば十分となっています。それとともに質問件数も減りました。

では、レファレンスサービスの重要性は下がったのでしょうか。この本ではむしろネット社会の普及によって日本人が初めて、外部情報源の存在を知ることができるようになったという立場をとります。そして外部情報源(というのはむろん図書館資料も含みます)へのアクセスも含めた情報アクセス全体を考えるのが図書館のレファレンスであり、その意味では課題解決サービスも、展示やイベントも、ビブリオバトルも、読書相談も、ネットでの情報発信もすべてレファレンスと捉えようというものです。そのため扱っている内容は多岐にわたっていて、一方では、知識哲学や記号論を援用した議論があり、 他方では、情報システムの解説や情報を知識として扱うための手法の説明、さらには図書館でのレファレンスサービスの運営法や情報リテラシー教育についての議論があります。


『レファレンスサービスの射程と展開』(根本彰・齋藤泰則編)

Ⅰ部 理論・技術
1章 知識の論理とレファレンスサービス (明治大学文学部教授 齋藤泰則)
2章 レファレンスサービスの要素技術 (筑波大学図書館情報メディア系准教授 高久雅生)
3章 レファレンスサービスの自動化可能性(南山大学人文学部准教授 浅石卓真)
4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)

Ⅱ部 情報資源の管理と提供
5)章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界 (慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子) 
6章 知識資源のナショナルな組織化 (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)
7章 パーソナルデジタルアーカイブは100 年後も「参照」されうるか(聖学院大学基礎総合教育部准教授 塩崎亮)
8章 『広辞苑』に用いられた媒体の移り変わり (鳥取大学講師 石黒祐子)
    
Ⅲ部 図書館レファレンスサービスと利用者
9章 日本のレファレンスサービス 七つの疑問(慶應義塾大学名誉教授 糸賀雅児)
10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)
11章 米国の大学図書館界における教育を担当する図書館員に期待される役割と能力の変化(帝京大学高等教育開発センター准教授 上岡真紀子)
12章 探究学習における学校図書館の役割(京都ノートルダム女子大学国際言語文化学部教授 岩崎れい)

私が書いた序文を読めるようにしておきます。
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序文

17世紀バロック期に微積分学の基礎をつくった万能の天才ライプニッツはハノーバー宮廷の司書を務めていた人である。彼が構想した「普遍百科事典」は今インターネットとGoogleの組み合わせとして実現されようとしている。というのは、Googleはそもそも開発者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジによって、所属していたスタンフォード大学のデジタル図書館計画として構想されたものに起源があるからだ。「ページランク」と呼ばれるその検索アルゴリズムは、被引用回数、引用メディアの重要性、引用者の重要性など学術論文評価システムの考え方をそのまま踏襲していた。インターネットが検索エンジンと組み合わされて普遍百科事典あるいは巨大な図書館となっているというのは、単なる隠喩ではなくて、実際にそれを実現しようという構想からスタートしているのである。 これにより、 図書とその他の情報源の区別をするのが難しくなっている今日、何を調べるのにもまずGoogleを検索するのが日常になっている。

続く

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論集のなかで私が注目しているおもしろい論文を2本紹介しておきます。

 5章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界(慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子)

橋詰さんは 、IFLA LRM(図書館参照マニュアル)を中心とした、書誌記述の新しい動向を研究した論文で慶應義塾大学で博士号をとりました。LRMのRはReferenceのことで参照と訳されています。参照とは何であるのかは、私が書いた4章「レファレンス理論でネット情報源を読み解く」の中心的テーマですが、IFLA LRMでは従来の書誌記述が著作の標題紙にあるようなデータに加えて内容を概括的に把握した主題や分類記号を付与するのにとどまっていたのに対して、著作がもつ内部構造や他の著作ともつ関係を記述する方向に向けて踏み出しています。これまでも著作と著作との関係は版や翻訳、シリーズものなどで表現されていたわけですが、さらには、原著作の解説書やインスピレーションを受けて発展させてできた著作(翻案)、映画やコミックなど同じ原作をもとにするものなどの多様な「関連」が表現できるというものです。書誌や目録の世界とレファレンスの世界が思いのほか近いことがわかります。

10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)

福永さんのこの論文は、読書相談サービスがレファレンスサービスの一部なのか、別物なのかという、かつてあった議論を受けてこれを厳密に検討しようとしたものです。その際に、レファレンスサービスは回答するにあたって典拠(情報源)を示すことが必要となる のに対して、読書相談は相談員自体のもつ専門的知識が回答の根拠になることが求められると述べられています。これは第1章の齋藤泰則さんの議論や第4章の私の議論で、レファレンスサービスが成立するためには何らかの「権威authority」に寄り添う必要があり、その権威は一つには典拠とするレファレンスブックやレファレンスツールにあるが、もう一つはそれを使うための図書館員のスキルにあるとしていることに関わります。読書相談において何らかの図書の推薦を求められた場合に、やりとりによって当該相談者がどういう人であり、何を求めているのかを理解することに関してはレファレンスサービスのスキルと同様のものが求められますが、その後はレファレンスサービスではツールをもとに回答を出すのに対して、読書相談ではツールから相談者に適合するものを選択するという行為が必要になります。この行為のトレーニングができるのかどうかについて、選書、調査業務、児童図書館員の行為などを参考にしながら論じています。

以上の2本は、著作と著作との関係や著作と人間の関係に関わる問題を扱っていることは明らかであり、レファレンスサービスはすぐれて応用知識学と呼べるような領域をカバーしていることに気づきます。1章、4章は知識それ自体の在り方を議論しているものです。こちらにもチャレンジしてみてください。





2020-02-11

iPad Mini+キーボード(携帯用の文字入力機・続編)

この記事は2019年4月20日のブログから継続している。

今の学生はスマートフォンで配布された教材を読み、また、入力もスマホですませる。しかしこの歳になると小さな字を読むことがつらくて、とてもスマホを文字入力の機械として使うことはかなわない。前から、通勤途上で使う軽くて入力しやすい端末機を試すことが課題であった。

紆余曲折の後、昨年の4月にはポメラDM200という文字入力機で再度、落ち着こうとしていたことは報告した。ポメラは文字入力に特化した携帯機器で確かに小さくて軽く持ち運びがしやすいし、何より、開くととすぐに入力を始められる簡便性がよかった。ATOKが搭載されていて文字入力も快適である。けれども問題はそこで入力したテクストをPCに取り込んで使うための連携性である。PomeraSyncというファイルを同期するためのソフトやBlueToothやWifiで送信することがうたい文句になっていた。

しかしながら、使えない。入力してから同期するために一手間も二手間も必要になる。この機器は文字入力専用機であるから価値があるというファンが多い。ネットに接続されているとすぐにネット検索をするのに気が散るというのだが、私にとってはネット接続は必要であり、また、ファイルが他のPC等とすぐに同期することが重要なのだ。

実は、ハードウェアの進歩ばかりに気をとられているうちに、ネットワーク技術が飛躍的に進展していたことにあまり気づかないでいた。このあたりについて詳しく書く必要はないだろう。要するに、PC、タブレット、スマホを結びつけるクラウド型ネットワーク技術によって、ファイルの同期や文字入力環境が飛躍的に向上していたことを知らないでいたのである。

昨年春に、iPad Miniを購入した。これは8インチ弱で重量300gの小さな筐体だが一通りのタブレット機能をもっている。タブレットとは小さなPCであり、入力こそ画面上のインターフェースによるが、それ以外はMacに準じる働きをするというものだ。これを試してみようと思った。ただし、最初はポメラに置き換えて使うつもりはなかった。何よりもキーボードがないから文字入力には不利だと考えていた。また、以前からタブレットとキーボードを組み合わせるやり方があることは知っていたが、立てると不安定で膝の上での安定した入力には向かないと思っていた。

だが、導入してみてまずiCloudでファイルを同期できることに気づいた。これが最初の設定を行えばかなり楽なのである。Macが自宅と研究室にあるのだが、ファイルをクラウド上にフォルダ構造をつくりファイルを読み書きすればそれがそのままどちらからでも読み書きして修正できる。これは2011年からサービスが始まっていたらしいのだが、そういう使い方はしておらず、USBでファイルを持ち歩いていた。何よりも自分のファイルをネット上に置いておくということの不安が先立って積極的にやろうと思わなかった。しかし、考えてみればUSBという物理的なファイルもなくしたり、破損したりという危険性と隣り合わせであり、どちらがいいと一概に言えないところがあったことも自覚していた。

この際ということで自宅のMacを最新のものに入れ替えたついでに、iCloudを全面的に導入したところ、これが使いやすい。現在ではUSBによるファイルの持ち歩きはやめてiCloud上のものを読み書きしている。さらに、カレンダーとメモもiCloudを使い始めた。カレンダーについてはずっと手書きの手帳を使ってきたのだが、2019年にはiCloudと手書きのものを併用し、2020年から手書きをやめた。これもどこかから入力したらそれがすぐに反映されるので便利だ。ただし、スマホについてはAndroidを使っているので連携に問題があった。AndroidでiCloud上のカレンダーを読み書きできるソフト(SmoothSync)を導入していたが、今はGoogleCloud上のカレンダーに切り替えている。これはGoogleの方がカレンダーとリマインダーなどを一つのアプリ上で実現しているので使いやすいからだ。メモは、iCloudのものを使っている。これはシンプルで使いやすく気に入っているからだ。Androidでメモを使うことは諦めている。

さて、いよいよiPad Miniの話しだ。教材提示など仕事上の必要から買ったのだが、同時にプライベートも含めた入力端末として使えるかどうかが問題だ。そこで、キーボードとの組み合わせを再度検討してみたところ、思った以上にいろんなタイプがあるし、価格が下がっていることに気づいた。そして購入したのが、Mini本体を差し込んで二つ折りにすればPCのように使えるキーボードである。ただ物理的に差し込むところがミソで、きわめてシンプルな仕組みだ。キーボードの重さは220g程度で、Miniと合わせると500g少しになる。これは現在キーボードを使える機器の最小重量だろう。Miniの方が重いから開くと不安定になるかと思ったが、そうなるぎりぎりのところ(確か130°)までしか開かず、絶妙なバランスで設計されている。
Arteck超薄型Bluetoothキーボード

この写真はAmazonにある商品写真であるが、ほぼこれと同じように使えている。これを見ると小型PCに見えるが、確かに使い勝手はPCそのものだ。Miniそのもののサイズが小さいから、キートップが小さいことはやむをえないが、それほど違和感なく使えている。通常は二つ折りにしていてそのまま鞄に入れておき、出して開きMiniのボタンを押すとすぐに使える。キーボードとMiniの接続はBluetoothによる。たまにその同期が悪かったりすることがあるし、また、キー入力に関して何かののタイミングで入力されずにやり直すことがあるが、まあ使えるレベルかと思う。

ということで、ここ数ヶ月はこの機器を持ち運びして入力に使用している。なによりも軽さと、開くとすぐ使える使い勝手のよさがある。手帳替わりにメモやカレンダーを使えるし、iPadとして使うときには横向きで立てることができるから、ネット検索や映像・音楽の視聴も問題ない。PDFファイルの文書にタッチペンを使って添削するというような場合はキーボードをはずして使う。当面これで行けそうだが、このブログを前から読んでいる人は、この筆者は移り気だからまた他のものに移るだろうと予測するかもしれない(笑)。

私の執筆活動は最初の卒論、修論までは手書きだったが、1980年代になるとすでにワードプロセッサの時代になって以来、いろんなハード・ソフトを試してきた。移動用の機器の快適さを求めるなどは当初望めなかった贅沢な話しではある。ただ、最近は、そうしたテクノロジーの問題以前のことに関心が移っている。それは、日本語入力に漢字かな変換がある限り、欧米のアルファベットのブラインドタッチは望めないわけで、それが日本語の入力に大きな影響を与えているということが一点。それから、そのことは日本語が漢字とかなを組み合わせた(和漢折衷の)ハイブリッドの記号体系を基盤にしていることを意味し、これが日本人の知的生活にいろんな影響をもたらしているということがもう一点。こうした問題も今後考えていきたい。







2020-02-03

延期になりましたーシンポジウム「近代日本の知識資源システムー図書館、出版、アーカイブの観点から」


このシンポジウムは延期になりました。(2月27日)





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会場が同じ校舎の524教室に変更になりました。(2月14日)

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3月21日(土)午後に公開シンポジウムがあります。

何とも大げさなタイトルと思う方も多いでしょうが、けっこう本気でやろうとしています。なぜこんなことを考えたのかはそのときにお話ししますが、入試改革や公文書の取り扱いで今炙り出されるようになっている問題は、日本の近代化の制度設計にあったある種の偏差がもたらしたものというのが基本的な問題意識です。今後継続して行う共同研究の出発点にあたります。

 今回、日本の出版の事情にお詳しい上智大学の柴野京子さんと日本の政治思想史がご専門で公文書の問題にお詳しい筑波大学中野目徹さんのお二人にも登壇いただき、皆で議論をしたいと思います。

近代日本の知識資源システム

―図書館,出版,アーカイブの観点から―

  • 開催趣旨
  • 幕末期から明治期に時代が移ってゆく中で、政府によって、またそれ以外のルートの影響も受け、日本における知識、それを用いるためのメディア(知識資源)、そしてそれを蓄積、流通させるためのしくみ(知識資源システム)のありようは大きく変わっていった。本シンポジウムでは、(1)明治期になって知識資源システムがどのように変容していき、(2)それが現代に対してどのような影響を与えたのかについて、アーカイブ、出版、そして図書館という3つの分野を中心に見て行く。それぞれの分野のエキスパートとして、アーカイブ:中野目徹、出版:柴野京子、図書館:根本彰の3氏を招き、それぞれの分野について発表をいただき、その後パネルディスカッションを行う。

  • 日時:2020年3月21日(土)14時〜17時(開場13時30分)
  • 場所:慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎524教室  https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html (キャンパスマップの5番の建物)
  • 参加:無料。ウェブから事前にお申込みください。https://forms.gle/7TtVPitG1K5yV8SQ9
  • 主催:知識資源システム研究会
  • 後援:日本図書館協会,三田図書館・情報学会
  • プログラム
  • 最終講義:根本 彰(慶應義塾大学文学部教授)
    「図書館情報学の新たな射程:知識資源システムの提案」
  • 報告1:柴野京子(上智大学文学部准教授)
  • 報告2:中野目徹(筑波大学人文社会系教授)
<休憩>
  • ディスカッション
司会:河村俊太郎(東京大学大学院教育学研究科准教授)




2020-01-27

三田図書館・情報学会月例会「教育と図書館との関係を考える」(改訂版)


三田図書館・情報学会月例会(202021日(土) 慶應義塾大学三田キャンパス)のために用意した原稿をアップする。A4で8ページあり、今後これをもっと展開する予定であるが、現時点で一区切りのものをお示しする次第である。(2月9日改訂)


内容的には、西欧の情報哲学と図書館理論が密接なかかわりをもつことを示した上で、西欧から移入された図書館が日本でうまくいかない理由は、知識をどのように獲得するかの考え方が大きく違っていたことにあったと論ずる。現行の教育改革に抵抗が大きいのは、拙速に進めたことの問題である以前に、知識の獲得方法が社会成立の根幹にかかわることであり、明治から100年以上かけてつくられたものを容易に修正できないことを意味する。


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教育と図書館の関係について考える


       慶應義塾大学文学部 根本彰

1    はじめに
『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』の2冊の本に取り組んでみて、図書館の問題を図書館の文脈だけで考えても非力だと思えるようになった。また、図書館情報学がもともとアメリカのプロフェッショナルスクールから来ているものであり、アメリカ社会特有の状況を離れないと理論化は難しいと考えるようになった。これはとくに情報行動や制度にかかわる領域でそうである。また、その際に知をパッケージとして扱う従来の図書館情報学の方法では限界があることは明らかである。本日は、教育と図書館の関係を情報の哲学の理論を用いながら議論することで、この問題の一つの展開可能性をお話してみたい...

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