2017-07-31

故子安美知子さんの追悼会

7月30日(日)の午後、早稲田大学国際会議場で開催された故子安美知子さんの追悼会に出席してきた。子安さんは、早稲田大学でドイツ語を担当するかたわら、ミヒャエル・エンデの紹介やシュタイナー教育の紹介・実践で知られた人である。

本日のプログラムについては夫の子安宣邦さんのブログにあるので参照いただきたい。http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/

登壇者のお話しによると、子安さんは最後のお仕事である『日本のシュタイナー学校が始まった日』(精巧舎出版)が刊行される直前の6月10日に倒れて、3週間ほどの集中治療室での治療のあと7月2日未明に亡くなった。最後のこの本にかけた執念はすごいものがあったということだが、それで無理がたたった部分もあったのではないかということだった。

ここでは子安美知子さんの業績やシュタイナー教育あるいはエンデについて語ろうとは思わない。今日あったことを淡々と語ることにしたい。前半が子安さんの薫陶を受けた人たちの話しで、後半が宣邦さんと娘の子安ふみさんのお話し、そして、彼女が出演したNHKのドキュメンタリーの短縮版の上映であった。

今日の会は早稲田大学でやったので、前半は彼女の教え子たちが登壇することになったのだろう。前半の話しの最初の二人は彼女の下でドイツ語を学びそれを活かした仕事についたひとたちであった。後の二人はドイツ語を学ぶだけでなくさらに、その後にそれぞれエンデそして、シュタイナー教育との関係に関わることになった人たちだった。今日初めて知ったこととして、子安さんが早稲田の言語文化研究所のドイツ語を担当していて、そこに来た若い学生たちがその後、彼女がエンデやシュタイナー教育に関わる際の大きな力となっていったということである。学生時代にドイツ語を学んだことが単に言葉を学ぶのにとどまらず、一生涯、ドイツとの関係で仕事をし続けることなったことについて、それぞれの話者が自分たちの生い立ちを含めて熱くあるいは淡々と語ってくれた。

  日本のシュタイナー学校について語る鈴木一博氏

シュタイナー思想は日本のアカデミズムや教育の現場でまだ異端的な扱いしか受けていないのは、日本社会の根源的なところに作用するパワーを秘めているからで、子安さんも含め本日登場の人たちは何らかの意味でその一端に触れて、魅せられたのではないかと思う。子安さんはその紹介者そして実践者として、後半生のすべてを費やした。今日参加者した人たちの多くはそれに連なる人たちだったと思われる。

彼女がやりかけたことはあまりにも大きく、それは短期的に実現することは難しかった部分もあった。ご本人が「終活」とおっしゃっていたさきほどの本は、その関係者の貴重な証言集である。新しい組織を立ち上げることの困難さが生々しく伝わってくる。

だが、世代交代のなかで着実に次の担い手に引き継がれつつある。本日はそのような継承の儀式でもあった。今日、最後に登壇した子安ふみさんは、ほとんど日本人と思えない話しぶりで意外な感じをもったが、彼女こそが実践的後継者になるのではないかとの予感ももった。それは、あの追悼の場に娘として登壇しながら、何度も「母親に反発を感じて」という発言があったことから伺われる。彼女流の追悼の仕方ではなかったのかと思われるのだ。


*2020年12月19日追記
たまたま、子安宣邦氏の著書『日本近代思想批判—国知の成立』『漢字論』を読みながら、この方は今どうしているのだろうと思って検索をかけてみたら、同氏のTwitterおよびブログでお元気で講演や執筆活動を続けておられることことを知った。また、ブログにおいてこの追悼会のために用意された文章がアップされていることも分かった。それが「2017年08月01日「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話」である。私の文章と前後してアップされていたので、存在に気づかなかったのであるが、二人の思想家の魂のふれあいを感じさせる文章でありリンクしておきたい。

2017-07-16

小田の祇園夏祭り

朝、7時に花火が打ち上がった。7月15日は小田の祇園祭りがあるしらせだ。これに4年ぶりに参加した。小田の街はふだんは人通りもあまりないのだが、このときばかりはどこから来るのかと思うほど人がいっぱいになる。

夕方6時くらいから、太鼓の音が聞こえ始まる。そして男たちのかけ声が聞こえるので行ってみる。前は小田の真ん中の通り沿いに屋台が出ていたが、昨年、長島家跡地が広い駐車場になったので、そこにたくさんの屋台が置かれていた。

この祭りの最大のイベントは、小田中部の大獅子と小田西町の神輿が通りのこちら側と向こうから近づき激しくぶつかり合った後に退却するのを何度か繰り返すというものだ。今夜は6時くらいから始まって、終わったのは9時半過ぎだった。詳しい考証は省くが、獅子舞はさまざまな形式が各地に伝わるが、これは神楽系ということだ。獅子の胴体部分は人が入るほどではなく、棒で高い位置で担ぐようになっている、長崎くんちの龍踊り(じゃおどり)に似た感じだ。

祇園祭りというと京都八坂神社のそれが有名で、山鉾巡行をはじめ様々な行列が繰り出すというイメージなのだが、ここはまったく違っていて、大獅子と神輿が本当に戦うのだ。神輿は土地の神様の遣いで大獅子は異国から来た異形のものであり両者がぶつかりながら、国を造っていったことを表現しているのだろうか。伎楽においてこのような闘うものが全国的にどのように分布しているのかはよくわからない。しかし、小田という土地は平安から戦国時代にかけて戦乱で明け暮れた時期を経ているから、江戸期になって落ち着いた時期につくられたものではないだろうか。

YouTubeにある小田祇園祭りの映像



2017-07-09

ノウゼンカズラの花とクロアゲハ

夏になると、うちのゲートのところにはノウゼンカズラの花がいっぱいに咲く。花はオレンジ色で大きい。これがどんどん蕾をつけて競うように咲く。なかなかにぎやかな演出だ。

この花の写真を撮ろうと近づいたら、クロアゲハがやってきて花の蜜を吸っている。これはと思いシャッターチャンスを待った。それで撮ったのが次の2枚である。



今日も30℃を超え快晴の日が続く。もう梅雨明けなのかもしれない。幸いなのは、夜が涼しいことだ。夕べは満月が煌々と照っているのに誘われ外にでると夜風が気持ちよかった。


2017-07-02

ヤマモモの収穫

気を取り直して。

庭のヤマモモが赤い実をつけていたので収穫した。

今年は梅の実はあまり収穫できなかった。これは他でも聞いたのでこのあたりでは一般的な傾向なのだろう。その代わり、ヤマモモが大量になった。




それほど大きくはない木だが数百個の実がなっている。食べられそうな熟した実だけでもボールで4つ分くらいを収穫できた。これを食べご近所にも上げたりしたが、それでもかなり残ったので、ジャムにするのと、焼酎に漬けるのとをやろうとしているところだ。

以前に漬けた梅酒や梅果汁を漬けたものがかなりボトルに入っている。夏の時期に漬けたものが 何年もかけてさらに熟成が進むのを待つのは楽しみなものだ。前の梅をとりだしてボトルを空ける必要がある。

2017-07-01

ジャスミンの香り(すみません。タイトルを裏切る内容です。不快に思われる方がいるかもしれません。ご注意ください)

最近、匂いに敏感になっている。職場の部屋が3階にあり、季節によってどうも煙臭い感じが漂っている感じがするのだが、同僚に聞くと特に感じないという。とくに冬の時期に感じていて、外を歩いていても感じるときがある。車の排気ガス、あるいは焚火の煙などのような気もしたが、まあ、気のせいだということにしていた。

ある日、屋外のその建物の側に喫煙コーナーがあり、そこで継続的にタバコを吸っている人がいるのが原因ではないかと気づいた。その場所と部屋は高さも違うし、通路が一直線にあってかなり離れているのでつなげて考えていなかったのだが、ちょうど3階に通気口があり、風向き等によってはそこから吸引された煙が廊下を伝わって入ってくるのではないかと思ったのだ。真相は不明だが、嗅覚が異常に敏感になっているのは確かなようだ。

一方、季節季節に街を歩きながら花の芳しい香りを楽しみにしている。初春の梅から始まって、沈丁花、白檀、バラ、クチナシ、金木犀、山茶花といったものである。しかしなかには、これはどうもというのもあり、代表的なものはクリとかスダジイの花が発する匂いだろう。

今の季節にどうも好きになれない匂いがある。それが白い花を可憐に咲かせるジャスミンだ。ジャスミンは香水にも使われているくらいだから一般にはよい香りとされるのだろうし、私自身もよい香りと感じるときもある。だが、どうにも動物の糞が腐敗しているような匂いと感じられることが多い。

前からこの匂いがする場所があり、まさかあの瀟洒な家の門側の生け垣の白い花から来るものではないだろうと思って鼻を近づけるとまさにこれだった。たぶん、芳香を放つものとして植えられているのだろうから、やはり私の嗅覚が人と違うのだろう。

調べてみると、ジャスミンに含まれる成分にスカトールという物質があり、これがその匂いの元らしい。スカトールはスカトロジーという言葉と共通の語素をもつ。だが、低濃度だと芳香と感じられるということだ。香りあるいは匂いが物質を介して嗅覚に何らかの生理的刺激を与えるものだとすれば、それを快ととるか不快ととるかはほんの僅かな差でしかなく、容易に逆転もしうることを示しているのかもしれない。



探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...