2023-10-02

日野市立図書館市政図書室とは何か―現代公共図書館論を考えるための一里塚

 9月30日(土)に、東京渋谷の実践女子大学でJissen Librarianshipの会 特別シンポジウム 「公共図書館の地域資料サービス:日野市立図書館の実践から考える」が開かれた。これに、元小平市立図書館長蛭田廣一氏、前日野市立図書館長清水ゆかり氏とともに登壇して、私は「日野市立図書館市政図書室の21世紀的意義」と題するお話しをさせていただいた。お二人とも、三多摩地域資料研究会を通じて四半世紀になるお付き合いで、さまざまな刺激を受けて私はこの分野の重要性を問い続けてきた。2018年3月には「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」の公開シンポジウムを開き、その報告をブログ上で行っている。

蛭田さんは地域資料関係の本の執筆や講演を続けているこの分野のエクスパートで、地域資料サービスの全体像と小平市立図書館がいろいろと革新的な地域資料サービスを実施してきたことについてのお話しがあった。その本については、ブログの次のところを参照していただきたい。清水さんはこれから話題にする市政図書室で20年間勤務した方だが、お話しは日野市立図書館の歴史と中央図書館や市政図書室他の図書館の地域資料サービス全般だった。そういう展開になることは予想できたので、私は市政図書室に絞った話しをすることに決めていた。ここでも、お二人のお話しから示唆を受けたことも含めて、市政図書室の意義について書いてみたい。

設置の経緯と理念

まず、市政図書室は日野市役所が1977年に移転し建設されたときに、市役所の一角に位置づけられたものである。清水さんのお話しだと、最初は普通の分館をつくりたかったが、スペースとして140平米しか割り当てられなかったので、機能を限定した図書室としたということである。場所は下の写真で黄色の円で示しているところで、市役所の建物の1階の端にあって、市役所と入り口は別である。利用者は地域資料や行政資料を利用しに来る市民、職員、議員以外に予約した資料を取りに来る人や新聞や雑誌を見に来る人も多いということである。


この図書館の写真は同館のHPにある。次はSDGsの案内コーナーである。













この図書室の開設の理念として、これまで、市民、行政、議員三者の情報共有体制をつくることによって、「資料提供」の論理の自治体行政への貫徹ということが言われてきた。後に述べる、第二代目館長の砂川雄一はそのことを明確に述べている。そのことの妥当性とそれがなぜ他の図書館に波及しなかったのかという問題を取り上げることにしたい。この図書館は市役所の一角に拠点を構え、資料として日野市、近隣自治体、東京都、国の資料を階層的に集約することと、とくに市政にかかわる専門資料をしっかり集めることによって、それら三者のための「専門図書館」足り得ることができた。専門図書館はサービス対象を明確に設定することで成立する。ここは、とくに市政に関する専門雑誌のコンテンツシートサービス(「市政調査月報」、これは2018年に終了)、新聞切り抜き速報を市役所内の各課に配布、そしてそのための専門職員体制(正規職員司書3名配置 )を確保した。それは現在でも続いているということである。現在は正規職員3名+嘱託職員1名分(週20時間雇用*2名)の体制で運用している。

地域資料についてのおさらい

さて、地域資料提供の考え方としては、1950年の図書館法3条に、「図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望に沿い」「郷土資料、地方行政資料、美術品、レコード及びフィルムの収集にも十分留意して、図書、記録、視聴覚教育の資料その他必要な資料を収集し、一般公衆の利用に供すること。」が挙げられているのが根拠になる。ここに「郷土資料」という用語が使われているが今なら「地域資料」と呼ぶべきだろう。レコードとかフィルムというような旧メディアしか書かれておらず、図書館法はずっと放っておかれていることがわかる。

また、「地方行政資料」や「記録」が挙げられている。つまり、図書館は地域性を重視して地域の資料を集めて提供するのだが、そこには行政資料や記録(文書)も含まれるということである。文書記録について言えば、今でこそ、公文書管理や情報公開、公文書館設置の条例などもつくられているが、もともと地域に関わる情報を扱う公的機関は図書館しかなかったから、図書館にそうした資料が集められている場合が少なくない。山口県立図書館には、戦前から山口県庁の行政文書や県庁県史編纂所が収集した古文書などが所蔵されていた。1952年に旧長州藩主毛利家から約5万点の藩政文書(毛利家文書)が山口県へ寄託されることとなり、県立図書館で保管されることとなったことをきっかけとして、1959年に図書館にあった文書記録類を分離して山口県文書館とした。これが日本で最初の近代的文書館である。だから、文書や記録類は本来、公文書館を設置してそこで管理すべきなのだが、一般的に基礎自治体で公文書館があるところは限られているから、図書館は周年史で集めた資料の受け皿になっているところがある。蛭田さんに小平の図書館のなかで公文書館的機能を含めて条例制定がなされたという話しを聞いたので最後に触れたい。

さて市政図書室だが、まさに郷土資料・地方行政資料のための図書室としてつくられたものである。それが1970年代後半の現代公共図書館サービスが形成される黎明期につくられたこと、それも、そのサービス体制の原点にある日野市立図書館につくられたことの意義はきわめて重い。公共図書館関係者はそのことについて見てみぬふりをしてきたと思われる。それは、図書館サービスは『市民の図書館』(1970)が設定した貸出サービスによる資料提供というテーゼに縛られて現在に至っているからである。以下、この論考はそのことについて、検討したい。

日野市立図書館の歴史的位置づけ

1963年に、日本図書館協会は『中小都市における公共図書館の運営』(通称「中小レポート」)を刊行する。これが現代的な「資料提供論」の始まりである。これを仕掛けたのは当時の有山崧事務局長であり、その前年に石川県七尾市の図書館員だった前川恒雄を日図協事務局に引き抜き中小レポートのための研究会の事務局を任せた。有山は日野市の旧家の生まれで、戦時中は文部省の嘱託職員で中央図書館制度のお膳立てをした人であるが、戦後は文部省から離れて、逆に地方自治を支える地方図書館の重要性を説く。前川は旧制第四高等学校を卒業し金沢大学工学部を卒業した後に市の職員となった人である。調査対象は地方の「中小都市」で、人口5万人くらいの市立図書館の調査から始まった。中小レポート策定の事実経過についてはWikipediaに概要が示されている。そこに示された中小レポートから市民の図書館への流れはオーソドックスな史観によるものである。中小レポートに示された「資料提供」という考え方はそれ以前の資料保存や勉強部屋、あるいは「文化機関」というような捉え方を批判することで成立した。

中小レポートが発表された翌々年に有山は日野市の市長選挙に自民党推薦の候補として立ち当選した。もともと地元の素封家の生まれであり保守系の地盤から市長になったわけだが、すぐに図書館の設置条例をつくり前川を初代図書館長に据える。つまり、日野市を中小レポートで示された図書館振興策のモデルケースとするという考え方がここにあった。日野市の図書館がBMのひまわり号で団地や学校、幼稚園、公民館などを周り利用者に直接本を届けることからサービスを始め、そうしたサービス拠点ができたところに分館をつくっていったことは伝説的に語られている。ここで重視されたのが資料貸出であり、また子どもに読み聞かせや紙芝居、ストーリーテリングをするような児童サービスである。

そして中小レポートで抽象的に定義された資料提供は、貸出と児童サービスを中心に展開されるという見解が示されたのが、1970年に日図協から刊行された『市民の図書館』という小さな本である。これは前川が大部分を書いたことが分かっている。つまり、これは日野市の初期の図書館サービス実践を基にしたものであった。日野市の図書館サービスは資料貸出の全域サービス網をつくることを目標にしていたが、1973年に中央図書館が開館する。そこでは1階が資料貸出に対応した開架スペースと児童のスペースがあり、2階はレファレンスサービスと地域資料対応の市民資料室が置かれた。ここまでは前川が館長を務めていたわけだから、2階の部分も含めることで資料提供の理念が実現できることだったはずである。

だが、「市民の図書館」で示された貸出、児童サービス、そして全域サービスの考え方が、その後の全国的な図書館サービス展開のなかで基本的な方針とされることになった。なぜそうだったのかについてはいろいろと検討しなければならなかったことがある。1970年代から90年代にかけて地方財政にゆとりがあり、自治体は競って文化会館、ホール、スポーツ施設、図書館、博物館などをつくった。これらは一括してハコモノ行政の対象と考えられた。地方自治法で規定された「公の施設」で、21世紀になると指定管理制度の導入対象となる。これらのなかでも、確かにハコだけのものと図書館や博物館のようにコンテンツをもちそれを管理しなければならないものとの違いがあることは明らかだが、そのあたりの区別は余り明確ではなかった。学校教育法で教員配置等が厳密に規定されている学校と、基本的に任意行政である社会教育施設との違いもあった。ともかく図書館がどんどんつくられる過程で、「市民の図書館」の考え方でいく限りはハコの管理扱いでもよいという考え方が一般的になっていった。

日野では司書系の正規職員が多数働いていて「市民の図書館」が成立するという考え方だったが、それが普及するときに職員問題は曖昧にされた。ただし、児童サービスに関しては日図協、東京子ども図書館、児童図書館研究会などの全国的な組織があって研修が行われていたから、その専門性は一定程度は担保されていたと言える。もうひとつ職員問題を考えるときには1980年代から90年代の普及期が同時に図書館システムの導入期であったことを指摘しておかなければならない。それ以前に図書館員の専門性の柱は目録や分類のスキルということになっていた。印刷カードはあったといっても、個々に資料登録と資料整理をする事を前提に図書館業務は成り立っていたが、図書館システムとMARCの導入以降はそれは徐々に軽減され、現在は全国的に流通している資料を端末で発注すれば、自館システムに登録されてOPACも含めて資料管理ができるようになっている。これは、これから述べる地域資料が疎んじられる理由ともなる。つまり、独自に資料収集をして目録や分類をしなければならない地域資料は、そうした全国的に流通したものをシステム化するタイプの資料管理になじまず、面倒だと感じられるわけである。これは地域資料を考える際の重要なポイントである。

以上のことから分かるように、『市民の図書館』が打ち出した貸出を中心とする図書館サービスは住民からの支持も強く、利用も多い。できるだけ人件費を削って効率的な施設管理を目指す公共経営論的な方針にも合っていたから、どんどん拡がっていった。それは窓口業務も図書館専門職の仕事という『市民の図書館』の考え方とは相容れないものだったが、状況に押し流されていく。地域資料のようなサービスは軽視されていった。

地域資料とは何を指すのか

市役所の一角にある市民と職員と議員のための専門図書館的な図書室が市政図書室である。ここは日野市および周辺自治体、東京都、国の資料と市政に関する専門図書、雑誌を集め公開している。ここで行政資料と一般的に呼ばれているものが何なのかについて考えてみよう。参考になるのが2016年に全国公共図書館協議会が行った地域資料に関する調査である。これは私が主査になって行った全国調査でかなり細かい調査票を用意して回答していただき分析をおこなった。ちょうどオープンデータが話題になった時期だったので、事務局の都立中央図書館の方には無理をいって集めたデータを再度使えるようにオープン化もしていただいた。

そのなかで収集する資料の範囲については、第2章でまとめている。地域資料は把握が困難でグレイなものが多いと言われるが、一般的な図書館資料(図書、雑誌、視聴覚資料)のカテゴリーに入らない形態のもの(ポスター、絵葉書、マイクロ資料、電子資料)については市町村立図書館では収集対象としていないというところが多い(図2.2, 図2.4)。それはご確認いただくことにして、とくに次のグラフに注目しているので抜き出しておく。
















これは「現物資料」とされるもので、古文書・古記録から始まってどちらかというと文書館・公文書館や博物館・美術館が扱うような資料群である。「収集対象としていない」というところやせいぜい「寄贈による収集を中心としている」ところが多いが、このタイプのものでも積極的に収集しているとか、基本的なものを収集しているという回答も少なくない。最後に「行政文書」というカテゴリーがあって、これは他のものよりも収集対象としている図書館が多いことが分かる。ただし、これが何を意味するものとして理解されたかはわからないところもある。つまり、公文書扱いのものなのか、印刷されて配布される行政資料扱いのものなのかという点である。おそらくは両方が含められているのだろうが、少なくとも公文書扱いのものについて「積極的な収集対象としている」ところがこんなにあるはずはないと思われる。





これは具体的に自らの自治体発行資料の収集状況を示したものである。これをみると、自治体史や広報紙・誌、例規集、行政の事務概要、年報、統計書、計画書、議会議事録、調査報告書などは収集されている。それに対して、公報(国の官報に対応するもの)、議案書、予算書・決算書、監査資料などの資料は収集対象としていないとするところも多い。こうしたものは逐次刊行物として発行されるものなので、一回収集対象にすれば毎年(あるいは毎回)収集し、蓄積されることで経年的な市政の状況が把握できることになる。

市政図書室は日野市のものについてはこれらを基本的にすべて集めているだけでなく、周辺自治体、都、国のものもその必要性に応じて収集している。聴衆からの質問のなかに学校資料をどのように集めるかというものがあったのだが、清水さんに伺ったところによると、学校資料について、毎年、春の最初の校長会の場で市政図書室から職員が行って基本的な学校要覧、PTA会報、周年史などを集めるための協力要請を行い、年度末に入ってこないものについては依頼をしているとのことで、こうして市立学校の資料を集めている。*そのようにすることで、網羅的な資料収集が可能になるということだ。

*近年学校の統廃合が増えて学校資料の収集保存が歴史家のあいだで話題になることが多くなっている。地方史研究協議会『学校資料の未来』(岩田書院, 2019)を読むと、歴史家が問題にする学校資料は、教育計画、児童名簿、学習指導案、時間割、学校日誌といったものであって、図書館が集めるものはそうした文書や記録とは異なった印刷配布レベルのものである。

専門図書館としての市政図書室

前にも紹介したことがあるのだが、2017年に日野市の職員を対象にした質問紙調査を行った。これは今回実施された実践女子大学が日野市にもキャンパスがあって日野市役所と密接な連携があるということから、そのルートで特別に調査をさせていただいたものである。繋いで下さった方には御礼申し上げたい。

興味深い結果が選られているので一部を披露する。まず、質問紙は総務部企画経営課を通じて配布し,市のすべての部門の係を単位として原則的に課長、課長補佐、係長、係員1名に対して行った。配布数381通で回収数282通で回収率は74.0%だった。

まず職員が他の自治体や国の行政情報を入手したいときに最初にどうするのかという質問である。次のグラフで明らかなように「インターネットでの利用」が圧倒的に多く、次いで「直接問い合わせる」が多い。このあたりはだいたい予想どおりということになる。あとは「庁内LAN」が続く。部署に備え付けられてものや、市政図書室の利用や私的なものの利用は限られることがわかる。やはりアクセスしやすいものに頼ることになるが、市政図書室の利用も全体としてみれば半数の職員は利用していることが分かる。
















次に市政図書室の利用状況を職位別に見たものである。係員だと「行かない」人が半数近くになるのに対して、係長、課長と職位が上がるとそれが減って利用者が増えていくことが分かる。これは二通りの解釈が可能だろう。一つは年齢が上の課長より若い人ほどネット情報を使うのに慣れていてそちらを使うというという事である。もう一つは、わざわざ市政図書室を利用するのはそれなりに判断を要する場面の多い多い職位が上の人だからというものである。おそらくは両方の要因が絡んでこのような結果になっているものと思われる。















市政図書室が作成している新聞記事のクリッピングサービスである「新聞記事速報」の利用状況を職位別に見たものである。これだと係員も含めて大多数の人が利用していることが、職位が上がるほど利用する割合が上がることも分かる。やはり各課へのデリバリーをしているから読まれるのだろう。














以上のことから、市政図書室は市の職員によってよく利用されていることが分かる。ここが専門図書館的なサービスを提供する特別なところだということは以上のことから言えるだろう。図書館の側から市政にかかわる情報を各課に積極的に提供することによって、各課もまた図書室に資料を提供するという相互関係が生まれるわけである。一般の図書館の地域資料や行政資料サービスはその辺りの相互関係が必ずしもないから、図書館法に基づく任意行政の範囲だと職員が直接利用することはあまりない。そのために,行政資料も集まってこないということになる。

しばらく前に課題解決サービスの一環で行政支援サービスが話題になったことがあるが、一部の自治体を除いてうまくいっていないのはそのことと関わる。図書館サービスの恩恵はこのように踏み込んで行くことによって可能になる。だが、踏み込むサービスということで言えば、日野市がもともと始めたBMによるサービスも、固定した施設に来てもらうのではなく、図書館の側が住民の生活の場に出ていってサービスを行うものだった。その意味では市政図書室もまた、同じ資料提供の論理を追求したものだと言えるだろう。


市政図書室のできるまでの図書館界の議論

前後するが、このような図書室がどのような経緯でできたのかについて図書館関係者がどのように考えていたのかを検討する。ある種の偶然に生じたようでもあるが、中小レポート以来の発展過程で生まれた必然であったという見方も可能かもしれない。しかしながら、図書館政策においてその意味を見通した人は少なかった。後でその数少ない一人、日野市立図書館二代目館長砂川雄一に語ってもらう。

しかしながら、それを述べる前に中小レポート以来の発展過程についてもう少し補足する必要がある。それは、中小レポートが出た歳と同じ1963年から、郷土の資料委員会が日図協の臨時委員会としてつくられ研究活動を行ったことの意義である。これが、地方都市の公立図書館が置かれた状況を基に新しい方向を探るという意味では中小レポートとルーツを共有しながら、向かう方向は一見して逆方向を向いているものと受け止められたことは不幸だったかもしれない。一般に、郷土資料は古文書や古い刊本など歴史的な資料を扱うことを中心にしていると考えられており、中小レポートには、そうした資料の保存や資料解読のようなことをしているから発展はないので、資料は住民のニーズに基づき提供されるべきだという明確なメッセージがあった。別に郷土資料の扱いを否定しているわけではないが、新しい運営方針を意識した図書館員は郷土資料の扱いには批判的だった。*
*そのことを示すのは野田の興風図書館館長佐藤真がその批判に応えて書いた「舌なめずりする図書館員」という文章である。2023年7月14日のブログを参照。

ところが実はこの委員会があえて「郷土の資料」としたのは郷土資料に対して新しい考え方を打ち出したからである。そもそも最初の提案者長野県立図書館長叶沢清介は「郷土の資料」にはいわゆる「郷土史料」に加えて「地方行政史料、農工水産関係等今日的な資料収集を重視する」と述べていた。そして、実際に1965年の研究集会は富山市で地方行政資料をテーマに議論された。この集会をどう評価するかはきわめて重要なポイントとなる。これについて私は若い頃に「戦後公共図書館と地域資料:その歴史的素描」という文章を書いたので図書館で参照されたい。今回書いているものはその意味ではこの文章の続篇という性格もある。(日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会編『情報公開制度と図書館の自由』日本図書館協会刊, 1987, p.62-93)

詳細は省略するが、その前の集会は近世文書の扱いを中心にしていたのに対して、富山では叶沢が挙げた地方行政資料や農工水産関係資料を含めた現代的な資料を図書館がどのように扱うかがテーマだった。そして、議論は行政資料の扱いや行政文書をどうするか、さらには当時富山では神通川流域のイタイイタイ病の患者の存在が大きな社会問題になっていたが、こうしたものも産業資料として扱うべきかということも含めて議論は大きな拡がりをもっていた。そしてそこに集まった図書館員は熱い議論を取り交わした。

しかしながら、郷土の資料委員会は1967年に終了してしまう。それがどのような理由によるのかについては今後の解明に待ちたいが、察するところ、1960年代後半の政治的な主張が声高にされる時代にあって、図書館界のリーダーたちは、政治的な問題に直面しかねない「郷土の資料」を検討し続けるよりも、もっと現実的で効果的な「資料提供論」を選択したのであろう。その際に、彼らの目に日野市立図書館のBMから始めた活動が好ましく映り、これを1970年代以降の基本的な方針に据えたと考えることができる。


砂川雄一メモについて

砂川雄一は「図書館に関する覚え書き」(『図書館研究三多摩』第6号 2012, p.65-81という文章のなかで、市政図書室ができた経緯とこのサービスが広がらない理由について述べている。できた経緯については、清水さんの報告どおり図書館側から希望を出したものということである。彼はこのメモの最初に自ら「市民の図書館」=派であると言っている。つまり自らの活動は「市民の図書館」の延長上にあると宣言している。

市役所の引っ越しにあたり資料の廃棄が予想されるので、新庁舎に移さない文書類はすべて図書館が廃棄のためのチェックを行うことと、部課に分散してあった例規類等は図書室に集中することを交渉して可能にした。また砂川が国立大学図書館にいた人であることが重要で、それまでの公共図書館で行われていたものと異なったものをいくつか仕掛けている。もともと大学図書館で科学技術系の雑誌のコンテンツシートサービスをやっていたがこれを「市政調査月報」として市政図書館ができる前から実施していた。また、新聞記事のクリッピングを編集した「新聞記事速報」は市政図書室になって実施した。網羅的でしっかりしたコレクションをつくり、それを利用者に提供する際のツールを工夫するというところには、貸出を通じての資料提供に加えて次の段階の資料提供の考え方が最初から含まれていたということである。

砂川メモで重要なのは、市政図書室のサービスが他の図書館で拡がらない理由について、5点挙げているところである。第一に、こうした住民と職員と議員が同じ資料をもとに議論するための基盤をつくるという市政図書室の考え方に対して、図書館側が確固とした信念をもてるかという点である。第二に、このサービスは図書館専門職員が図書館サービスとして行うことの重要性を述べている。類似の総務課や広報課にある行政資料室ではだめだということである。第三に、このサービスは為政者や権力者に都合の悪い資料も提供するからその意味での「政治的中立性」が保てるのかという点である。第四に、サービスは議員にも行うわけだが党派を問わずサービスすることが重要だということである。これも政治的中立性の一つであるだろう。第五に、利用者の秘密を守ることを挙げている。

1979年に「図書館の自由の宣言」の改訂があって、図書館にさまざまな政治的行政的な圧力がありうるときに、それにどのように対処するのかを議論した。そしてその延長で「図書館員の倫理綱領」(1980)も出されている。そうした過程を経てきた今から見ると当然のようにも思えるが、先の富山での議論にも現れていたように政治の季節を過ぎたばかりのときにここに挙げたような問題に明確に対応できる考え方がないとこうしたサービスは実施できないというのである。彼は「いろいろな条件と図書館側に確固とした信念、覚悟がないと出来ないのは間違いの無いことである。」(p74)と結んでいる。

これはそんなことは不可能だという反語であるが、ではなぜ日野では可能だったのだろうか。地元の素封家の出で文部省から日本図書館協会事務局長を務め、市長選に出て市長になった有山と、地方の図書館から出発したが類い稀な構想力とリーダーシップで新しい図書館のビジョンを開拓した前川のコンビが(市役所のトップに)いたからこそ、砂川は自らの実務能力を発揮することができたのだろうか。メモではその点については言及を避けている。今後、有山と前川の著作集を読み込み関係者に聞き取りをすることで戦後日本の図書館思想の中核部分に迫ってみたい。

日野市立図書館の発展をどのように評価するか

このシンポジウムでは、「『市民の図書館』の改訂版がなぜ1970年代後半に書かれなかったのか」という問いを掲げておいた。私は『市民の図書館』の考え方が日本の図書館の繁栄をもたらした反面、貸出を中心とするサービスの画一化をもたらしたと考える。とくに公共経営論に切り替わった1990年代以降は、貸出数を経営指標とする状況をもたらし、それは、一方で作家や出版社による図書館の貸出への批判をもたらし、他方では窓口業務は誰でもできるということで非正規職員への切り替えが進んだと考える。何事にも功罪があるから、図書館の数が増え広場としての図書館や交流の場としての図書館として使われていればそれはそれでいいのではないかという見方もありうる。しかし、モデルになった日野市立図書館の現状を考えると、『市民の図書館』も状況に合わせて進化すべきではなかったとも思うのである。

日野市立図書館の発展をみれば、1960年代までのBM・分館時代と1970年代以降のプラス中央館・市政図書室時代に分けられる。『市民の図書館』は1970年に刊行され、基本的にBM・分館時代をモデル化したものだ。1976年に増補版がでているが、貸出を中心としたサービスが発展しており、地域文庫や住民参加の図書館づくりの動きも活発であり、あとは「障害者等へのサービス」という展開があることを述べている。すでにできていた中央図書館のことを入れた記述に改訂できたはずなのに、触れられておらず貸出を中心としたサービスをどのように展開するのかについて述べている。清水さんのお話しの最初に、分館であっても積極的な郷土資料サービスを行っていることが出てくる。なぜこの本は、中央図書館の役割や、レファレンスサービス、郷土資料や行政資料サービスなど日野が1970年代に展開したサービスのことを含めた改訂をしなかったのか。

これについては増補版の「はじめに」に明確に次のように述べている。「「市民の図書館」はこのままでまだ果たさなければならない使命があり」「公共図書館振興の新しいプロジェクトに取り組まなければならない。」これは、日野から始まった貸出と児童サービスを中心としたサービス方針は十分に手応えがあるので、このままこれを全国展開することが重要だとしたことを意味する。この部分を書いているのはこの当時の日図協事務局長叶沢清介である。あの郷土の資料の委員会を立ち上げた人が10年以上ののちにかなりの方針転換を示しているところは興味深い。この委員会が1960年代に終焉を遂げた理由とも関わっているのだろう。

ここまで砂川を中心に描き、初代館長前川恒雄についてはあまり触れなかった。市民の図書館の問題を解く鍵として、前川が地方出身者であったのに、日野の貸出モデルを推進できた理由としてイギリスへの視察があったことが言われる。中小レポートや郷土の資料委員会は基本的に地方の図書館を中心に振興策を検討していたが、前川は当時の図書館先進国イギリスの公立図書館が日常的にどのようなサービスをしているのかを見て、貸出サービスの重要性に気づいた。そのことは彼の『われらの図書館』(筑摩書房, 1987)の最初に出てくる。だが、彼はイギリスの図書館でもレファレンスサービスも郷土資料もサービス体制にしっかりと組み込まれていたことについてすぐには言及しなかった。しばらく貸出でいくことにして、それが現代公共図書館論の基本的テーゼとなった。先ほどの『われらの図書館』にはレファレンスも市政図書室もでてくるのだが、彼の本で一番読まれたのは同じ出版社から出た『移動図書館ひまわり号』(1988)である。一度敷かれたレールが頑健で容易に変更が効かないことを示している。


終わりに

あと4点のことを指摘しておきたい。一つは、日野に図書館が設置された1960年代中頃は日野は東京西部の中小都市(1963年市制施行)にすぎなかったから、中小レポートの考え方を実践するのには適切な場だと考えられても無理はない。しかしながら、1960年に人口4万人だった日野市は1960年代に団地ができはじめ、急激に人口が増え、1970年には9万8千人、1980年に14万5千人となって東京都心への通勤圏になり、完全に都市型の街に変貌した。実際にBMも団地を廻ることがスタートしているが、これは要するに貸出サービスを展開するのに好適の都市環境であった。しかしながら、地方都市や農村地域の町村で同じモデルが適用するのかどうか。日図協は2000年代になって町村図書館には別の考え方が必要とのことからその振興策を進めたが、地方都市では市民の図書館モデルの図書館づくりが進められた。そこで郷土資料は片隅に置かれ、あまり利用もないままに置かれた。レファレンスは貸出サービスの定着を前提とするとされた。しかしながら、それらを振興するための戦略は用意されなかった。

第二に、経済や生活レベルの段階と公共サービスの関係を考えておく必要がある。1960年代以降の高度経済成長、バブル経済、そしてバブル崩壊という経済史的な流れのなかで、先ほどのハコモノ行政も税収増によって可能になった。図書館は市民の要求に応える場であるというときに、学習権とか知る自由というような高邁な理念を持ち出すことが多い。確かに国が貧しかったときには公的費用をそこに充てることに意味があった。しかし、全体に豊かになったときに娯楽的な読み物を無料で大量に貸すことがあるとすれば、それは大衆の欲望に寄り添った無料貸本屋サービスと批判されることも覚悟しなければならない。著作権法38条で著作物(映画以外)の非営利で無料の貸与を認めているが、それは大きくは著作権法の目的である「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること」に叶うことが前提である。

第三に、長期的視点に立った職員の育成である。市政図書室タイプの地域行政資料の提供は日野のような特別なところでしか成り立たないのかもしれないが、鳥取県立図書館の県庁内図書室(現在は県議会図書室と併合)や多摩市立図書館行政資料室が市の庁舎内につくられている例がある。都道府県、政令市、中核市などの規模の図書館はそれなりにしっかりとした地域資料(郷土資料)コレクションをつくっている。そのなかで日野の優位は職員を育成するところに現れている。清水さんが議論のなかで、最初に日野に(司書採用で)入ったときに図書館ではなく、総務部門に配属になり数年いたという話しをしていた。その後市政図書室に移って20年そこで働いたということである。これは長期的なビジョンがあって専門的な職員を育てているということである。本来『市民の図書館』改訂版にはそういうことも含めて書くべきではなかったか。増補版の最後に職員の専門性のことが出てくるが、その主張は、司書としての職制をつくることと、特に館長を図書館専門家にすることが中心である。現在、司書採用であってもさまざまな部門を3年くらいで異動することが一般的だという。更なる専門性をもった専門職の育成はどうすれば可能なのだろうか。日図協は地域資料の本を出してくれたが、それ以上、地域資料にコミットするつもりはないようである。今、貸出サービスについて政治的な議論があるわけだが、図書館サービスの意義をどこの場で議論することが可能なのだろうか。もしかしたら、学芸員とかアーキビストの養成や研修プログラムといっしょに考えた方がいいのかもしれない。

第四に、図書館と公文書管理の関係についてである。最初に仄めかしておいたが、図書館と公文書館の関係は難しい。山口県のように図書館から分離したものがあり、図書館と同じ施設に文書館が入っているところがあるが、その連携は必ずしもうまくいっていない。都道府県や政令市を除いた基礎自治体で公文書館をもつところは少ない。先にも見たように、公文書(行政文書)と行政資料の境界は実は曖昧であるし、図書館員の認識も怪しいところがある。境界があいまいだとは言え、原文書と印刷物(あるいは複製物)の違いと言えばかつては理解しやすかった。しかし、今はボーンデジタルの資料がどちらになるのか、そもそもそうした資料はどうなっているのか。かつては紙で入っていたものがデジタルになったら、プリントして紙資料として提供するという話しを聞いていたが、これも移行の対応であるだろう。公文書の管理とボーンデジタルの行政資料のアーカイブは別の概念であり、どの部門がどうするのかという問題は避けられない(最近のカレントアウェアネス(No.357)に竹田芳則「自治体発行オンライン資料の収集:近年の公立図書館の取り組みを中心に」https://current.ndl.go.jp/ca2049があった。参考になる)

先日のシンポジウムの際の講師間の雑談で、蛭田さんから小平市では公文書等の管理に関する条例の規定により、令和4年10月から保存期間を満了した公文書のうち、歴史公文書に該当する公文書の中央図書館への移管及び特定歴史公文書の利用が開始されたということを聞いた。つまり、図書館が公文書館のような役割を果たすという事例である。これについては次のところに情報がある。
小平市立図書館は長年、古文書資料を保存管理してきた実績がある。これが公文書館的な役割と結びついたわけである。*

*ただしこれを近代的公文書館と呼ぶことはできない。公文書館は保存公文書をアーキビストが選定するところからコミットする施設である。小平市も公文書館条例は制定していない。利用は情報公開条例によるとしているので、制度的には公文書管理と情報公開の枠組みで公文書担当部門が歴史公文書を選別し、それを開示する窓口を図書館に置いたことになる。

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

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