2020-12-22

博士論文(「教育改革のための学校図書館」)について

本年2月に慶應義塾大学から「教育改革のための学校図書館」の研究業績により博士(図書館・情報学)の学位を頂戴した。その経緯について書いておきたい。

私たちの世代の文系の研究者は、大学院博士課程を単位取得退学のまま就職し、そのまま定年近くまで博士の学位なしの人が多い。当時、文科系では、博士はある分野に長期間携わって一定の成果を上げた人のための名誉的な称号であるという見方が支配的で、若いうちにとることは一部の分野(心理学、社会学、経済学などの実証科学的分野)を除くとあまり考えられていなかった。だから、外国の研究者人と交流して博士号がないというと少し肩身が狭い思いをしながらそのような事情を話さざるをえないことも何回かあった。私自身は、一定の研究分野でじっくりと研究を継続することができず次々といろんなことに手を出して中途半端にしたまま違うことに手を染めることを繰り返してきたので、博士号をとることもないだろうと思っていた。ところが、一昨年から昨年にかけて『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)をまとめてみて、ひとつの手応えを感じたことと、もう学究生活も最後になることだからもし学位につながるならチャレンジしてみようかという山気が生じたことで、博士号の請求手続きをしてみた。

もう一つラッキーだったのは、慶應の大学院文学研究科では論文博士を認めていて、それも刊行済みのものが審査対象になることを知ったことである。これがお隣の社会学研究科だとそうはいかず、論文博士でも基本的には博士課程に在籍していたことが要求される。実は、最初、社会学研究科にある教育学専攻に論文を提出しようかと思って相談したらこの理由のために門前払いだった。そのために文学研究科に提出することにした。

著書を準備する過程で一つの手応えを感じたというのは、この本は全体はいくつかのパートに分かれているが、重要なのは最初の部分で、占領期の教育改革時に学校図書館がどのような位置づけにあったのかを明らかにしたことである。すでに、中村百合子『占領下日本の「学校図書館改革」』と今井福司『占領期の日本の学校図書館』の2冊の先行研究が出ているところに加えて、あらためて占領期の学校図書館政策の全体像を整理し、とくに教育行政と教育学界における教育改革の議論との関係についてクリアにしてみた。

占領期教育改革が占領軍の民間教育情報局(CIE)主導で始まり、コアカリキュラムなどアメリカ流の教育方法や教育課程を導入して始まったばかりのときに、冷戦体制による「逆コース」によってそうした試行は断絶し、かつてのものに戻っていった。この状況において、学校図書館は当初、新教育を支える一つの制度的な手段と考えられ具体的な導入が文部省内で検討されていたし、学校図書館法によってすべての学校に図書館が義務設置された。けれども結局のところ法的にはあくまでも「設備」扱いであり人の手当てができなかったことがあとあとまで尾を引いたと言える。このあたりを明確に描き、それがその後の教育改革とどのような関係にあるのかについて描こうとした。ここの部分を描くことで、日本の教育制度は上からの改革に従うだけで、天皇制を傘にした軍国主義だろうが、CIEによる米国民主主義改革だろうが、55年体制以降の自民党一党支配による保守的な政治体制だろうが、自縄自縛になっていて自主的に動けないことが明らかになったと思われる。学校図書館は、本来、学習者の自主性を前提とした教育方法の下でしか生かされないから、これが義務設置されたことで日本の「上からの教育システム」に突き刺さった棘となったことを確認できたことが大きいと考えている。

現在、博士論文は機関リポジトリで公開することになっている。慶應の場合はKOARAというリポジトリで管理されている。ここには通常は論文の本文が掲載されているのだが、すでに公刊されているものについては「要約」を提出することで代えられる。「要旨」以外にもう少し詳しい「要約」があるのはそういう理由である。



「審査報告」で指摘されている本論文の3つの「限界」(下線部)について応答しておこう。

1..学校図書館に配置される専⾨職の職務内容についての検討はほとんどなされていない点である。いくつかの国内外の事例研究も提⽰されているが、それぞれの学校において、配置されている専⾨職がどのような仕事をいかに⾏なっているのかについて、体系的な分析は⾏われていない。また国外の事例研究も印象論を超えたものではないことは否めない。特にフランスが、どのような経緯を辿って新たに学校図書館を制度として導⼊したのかについては、今後の研究が待たれる。また、体系的な事例研究を踏まえ、異なる専⾨職の職務の組み合わせ⽅のパターンを学校規模などに応じて整理されることも今後の研究に待たれる。

本論文は、占領期からしばらくの時期に形成されようとしたが実現されなかった日本の学校図書館モデルをまず記述し(第1部)、それが戦後の教育状況のなかでその後どのように扱われたのか(第2部)、モデル形成において参照していたアメリカの学校図書館及びそれとは別の政策動向から展開したフランスの学校図書館はどういうものであるのか(第3部)、モデルを実現させるための議論の動向と課題(第4部)を明らかにしたものである。本論文が政策動向とそれをもたらした要因をマクロに分析することを主たる目的としていたため、審査委員会で指摘されている専門職の職務問題の内実にまで踏み込まなかったというのがひとまずの回答である。第2部、第4部の立論の根拠として、学校図書館で何が行われているのかについて体系的分析を行えればそれに越したことはないが、いずれもそのときどきの現場報告や評論的な言説に基づいて論を進めた。専門職についての先行研究は比較的最近のものはあるが、20世紀にはあまり行われていない。外国の事例については、アメリカとフランスを参照する根拠が何であるのかについては個別には記したが、十分には伝わらなかったのかもしれない。フランスを参照することの意義に関しては、確かに20世紀末と日本と同時期にあったフランスの教育改革においてなぜ学校図書館を含めることになったのかを明らかにできれば説得力を増したであろう。

2. 占領期とその直後については教育改⾰と学校図書館の関係について詳細に検討しているが、80 年代以降については記述が粗くなっている点である。臨教審は⼤きな分岐点であったはずだが、その中でも学校図書館の位置づけに進展がほとんどなかっ た原因の分析などがなされていない。また、いわゆるゆとり教育を導⼊した教育改⾰の下では、図書館の活⽤を展開する機会であったはずであるが、どうしてそのような機会とはならなかったのかの分析も明確にはなされていない。戦前の、⼤正・昭和初期の新教育運動における学校図書館の流れがいかに戦後反映されたのかについての研究も待たれる。

第2部の後半以降の議論が粗くなっているというのは確かにそうかもしれない。これは同時代史をやるときの問題であり、研究の蓄積がないために論点が明確になっておらず、論点づくりそのものを試行錯誤的にやらざるをえないし、それゆえ何をもって一次資料とすべきかも明確ではないからである。論点が明確になれば資料の探索や関係者へのオーラルヒストリーを行うところだが、全体像を明らかにすることを優先したためにこうなった。ゆとり教育導入下で学校図書館が生かされなかったということなどはその典型であるが、ゆとりが週5日制の導入や授業時間の短縮、そして教育方法の改善などを意味するときに、それがすぐさま学校図書館に結びつくということは学校教育の世界ではありそうもない。それくらい、教育課程に学校図書館を組み込むことは学校教育では異質なことなのである。そのことは強調したつもりであるが、個別に論じているので粗くなっているというのはその通りだろう。異質性を明確にすることはその後も続けている。臨教審の考え方が実を結んだとすれば、それは文字・活字文化振興法や子ども読書推進法だろう。図書館は読書推進の場としての認識はされていても教育課程や教育方法と関わりあうという考え方はほとんどなかったと考えられる。また新教育運動との関係についても少し言及したが、明治末からある新教育との関係の整理は今後の課題だろう。

3. 系統主義から経験主義さらには構築主義への変化という、教育が依って立つ 考え方の変化を説明する枠組みに基づいた全体を通しての説明は非常に明快であるが、 日本の、80 年代以降の教育政策と実践についての説明枠組みとしてはやや粗いものと なってしまっていることは否めない。論文中には、系統主義への揺り戻しがあっても、 実際には経験主義や構築主義への流れが確実にあることが繰り返し指摘されている。とすれば、日本における経験主義への変化をさらに繊細に捉える説明の枠組みが編み出されたとしたら、日本における経験主義の定着の兆しとその動きの特徴を描き出すことが 可能になるのではないだろうか。

そのとおりだと考えているが、少し言い訳させていただきたい。今回、論文を展開するために教育学(教育方法学やカリキュラム論)で、こうした議論がどうなっているのかをレビューしてみた。しかしながら、教育史的に戦後、系統主義から経験主義の導入、そして系統主義への揺り戻しが議論されていたが、1980年代以降の構成主義(構築主義)への展開について頼りになるような先行研究はあまりなかった。教育学の世界は教授者と学習者の行動や関係を心理学や認知科学、社会学などの方法で切り取って記述する研究は多数あるが、こうした大きな理論的枠組みで議論することがあまり行われていない。頼りになる研究がないので、自分で仮説的に議論を提示する必要があった。とくに、構成主義への展開の動機付けとしては、OECDのPISAを典型として国際的な教育政策の動向が影響していることについては述べておいた。日本の教育学者およびそれと密接な関わりをもつ教育諸学(教育社会学や学校教育学)の関係者は、自らが依って立つ基盤がどのように形成されているのかを無視して政策的な議論をしているように見える。今後は教育学研究者とも協同しながらこうした研究を進めていくつもりであり、すでに国際バカロレアを対象にした研究を開始しているところである。

粗くなった部分についてはマクロな見方を好む個人的資質にもよる。どちらかというと、日本の学校図書館の問題点を明らかにするとか、学校図書館職員が働きやすい場にするというよりは学校図書館という素材を分析することで、日本の教育の問題点を析出することに重きが置かれていたことは否定できない。この論文は、おおざっぱに戦後日本の教育における学校図書館の位置づけを学校教育における異質な存在として位置づけようとしたものである。そしてこれは今後、日本の教育文化の深層構造解明という課題に取り組むための出発点であると考えている。

先に学校図書館は法によって義務設置されたことによって日本の学校社会において突き刺さった棘であると書いた。ずっと放置されてきた棘はやがてじくじく膿を出してくる(比喩として言っているので関係者には失礼だがお許しいただきたい)。新しい学習指導要領は「探究学習」を前面に出しているが、ここでも学校図書館はそれほどの位置づけはない。しかしながら、著作権の権利制限の議論において著作権法31条の「図書館等」にずっと位置づけがなかった学校図書館を入れるかどうかの議論があったということはけっこう大きな変化ではないだろうか。ブログの他の項目で書いているように、探究学習は学習の基本であり、そこでは学校図書館(的な仕組み)は不可欠である。今、それを国際バカロレアを中心に見ようとしている。今後、徐々に変わっていくものと考える。本論文が、膿を出し切って学校現場に本当に定着するための力になるものと信じている。

最後に、本論文の主査を務めて下さった池谷ひとみ教授をはじめ、審査委員の倉田敬子教授、外部から加わって下さった山本正身教授(教育学専攻)、 堀川照代教授(⻘山女子短期大学)には年末のお忙しいときに面倒な論文をていねいに読んでくださり、貴重なご意見をいただいたことに対して心より御礼を申し上げたいと思う。

2020-12-21

「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)中間まとめ」についての意見

現在、著作権法において図書館関係の権利制限規定の見直しの議論が文化審議会著作権分科会で進められている。すでに、法制度小委員会の議論の中間まとめが公表されていて、これに対してパブリックコメントが求められている。 

文化審議会著作権分科会法制度小委員会「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)に関する中間まとめ」に関する意見募集の実施について

こうしたものに個人の立場から意見を出してもどれだけ取り上げられるのか疑問はありながらも、以前よりも開かれた場で議論を進めようとしていること自体は望ましいものと思われるので、意見を伝えることにした。図書館関係者の間では今回の議論は唐突に来たもののようにも受け止められているが、背景には安倍ー管政権が進めようとしているデジタル庁の動きがあり、これに連動していることは明らかだ。そしてそのときに図書館がもつコンテンツに着目しているわけである。そのことについては中間まとめを参照していただきたい。


————————{回答内容}——————————————————————

1)総論 (第1章 問題の所在および検討経緯を含む)

 知的財産推進計画2020にある「研究目的の権利制限規定の創設」についてきちんと言及されていないように思われます。現行の31条第1項は「調査研究の用に供するため」とありますが、この範囲を超えた権利制限規定をつくろうとしているのかどうかがよく分かりません。どうもそうではなさそうですが、そうならばその旨言及していただきたいです。


(2)第2章第1節 入手困難資料へのアクセスの容易化(法第31条第3項関係)

① 対応の方向性

 私は現在国立国会図書館に設けられた納本制度審議会委員を務めています。現在、納本制度の一環でオンライン資料の納入範囲を議論するなかで、「民間リポジトリ」を納入対象からはずすことが検討されています。民間リポジトリが運用されることにより、そこに含まれるオンライン資料は「一般に入手することが困難な図書館資料」ではなくなります。これ自体は著作権の制限と直接関係ないのですが、今後民間リポジトリ等が普及することにより、「入手困難な資料の容易化」という目的の実効性があやうくなるのではないかということを危惧します。つまり、現在、出版物は電子テクストが先につくられそこから印刷されたり電子書籍化されたりするわけですが、今後そうしたものはすべて民間リポジトリに置かれて、国会図書館から送信される資料は古いものに限られることになってしまいます。もちろん古いものの入手が容易になること自体にも意味はありますが、国民(とくに研究者)が期待していることとずれるのではないでしょうか。そのあたりの議論がされてこういう提案がなされているのかどうか疑問に思いました。「デジタル化」の看板が先行し、中身が伴っていないように思われます。


(4)第3章:まとめ(関連する諸課題の取扱いを含む)

 学校図書館を31条の「図書館等」に追加することはぜひ進めるべきだと考えます。これは、現在の国際的な教育改革の動向、とくに2021年実施の学習指導要領で「探究」関係の教育課程が増えたこと、文字・活字文化振興法や子ども読書活動推進法の趣旨等から言って当然のことです。

 しかしながら、現在の学校教育法施行規則や学校図書館法の条文では学校図書館は学校の「設備」扱いになっています。ということは法的には学校図書館への専門職員配置等がされにくいわけで、司書教諭は名目だけであり、学校司書の専門性は重視されていません。そのために「図書館等」に含めるために必要な著作権法の研修等が可能なのかなどの検討をすべきだと思います。

 そもそも、学校図書館や職員の位置づけについて、文科省の総合教育政策局や初等中等教育局を含めた場での基本的な合意をとらないと進められないものではないかと思われます。著作権法が対象とする著作物は教材ないし教育資源として大きな可能性をもっていて、21世紀の残りの時期に教育課程および教育行政において大きな位置づけを占めるものです。(以上のことは拙著『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)および1月刊行予定の『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)で詳説しています。)

 デジタル庁が開かれることを機会に、文化庁から文科省の他の部門に対して、著作権行政の観点から、図書館における著作物の権利制限条項が教育政策の要になることをもっと強く主張すべきではないかと思います。

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2020-12-19

『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の表紙について

編集者から本書のカバーとして、何か提案はありませんかというお誘いがありました。前に『情報リテラシーとしての図書館』を出したときは、その数年前にヨーロッパに行ったときに撮った図書館の写真から1枚を選んで表紙の写真にしました。ときどきあの写真はどこの図書館ですかと聞かれるときがあるのですが、北欧のどこかの公共図書館のはずだが分からなくなっています。行った記録と写真をもう一度きちんと整理したいと思っているのですがそのままになっています。

今回図書館の写真はもういいだろうということで編集者側と一致しました。修道院図書館の写真など使いたいものも多く、パリの国立図書館リシュリュー館閲覧室も候補に挙げてはいましたが、最終的には却下しました。最終的に選んだのは、下記の青線に囲まれたコミックのような挿絵です。まだ公開されてはいませんが、これが何を意味するのかは本文中に書いてあるので下記に引用します。オトレとはPaul Otlet(1858-1944)のことで、ブリュッセルで国際書誌協会を立ち上げて後の国際ドキュメンテーション運動の創始者となった人です。日本語版のWikipediaに詳しい伝記情報が掲載されています。この図は彼が晩年に書いた『ドキュメンテーション概論』という本に出てくるもので、要するに書物にある知が書誌やドキュメンテーションの媒介作用によって利用可能になり、人間の知として展開されて再編成される様を表現しています。途中の分類表や目録カードのようなものが書物を経由して学術的な知とつながるところがおもしろいということで、これを採用することにしました。

「言葉を知に変える」という考え方はきわめて多様なものを含んでいて、この本では多様性全体を扱っていますが、とくに図書館情報学につながる部分としては書誌や目録、分類、索引などが重要で、オトレらの考え方は20世紀初頭のベルエポック期の理想主義を基にそれを展開したものです。本書第8講でこれについて述べています。


====以下『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』からの引用=======

オトレが書誌からドキュメンテーションへの構想をわかりやすく図示した「世界、知識、学術、書物」をみておきます(図23)。彼が遺した著書『ドキュメンテーション概論ー書物についての書物、理論と実践』(Traité de documentation: le livre sur le livre, théorie et pratique, 1934)に収められているもので、彼の思想をよく示しています。一番下の段の「分類 La Classification」はUDCの分類表であって、ここに知識が秩序化されて示されており、通常はここからアプローチします。下から 2段目「体系知 L’encyclopédie」は知の個々の単位がカードの形態をとって分類の秩序に従って配 列されている状態を示しています。ここにマイクロフィルムや地図や論文が連携すれば、知へのアクセスは容易になります。下から3段目「書誌 La Bibliographie」はその個々のカードである書誌を示しています。これが手がかりに なって知にアクセスします。次の下から4段 目「書物 Les Livres」の段は、書物の形をと って学術の知識内容が文字列あるいは写真で 取り出されている状態を示します。下から5 段目「学術 La Science」(上から3段目)は知識が取り出されて思考の枠組みと対応づけら れている様を表します。下から6段目(上か ら2段目)「知識 Les Intelligences」は受けた人がそれぞれ事物について思考している状態 です。下から7段目(一番上)「事物の世界 Choses」はこうして得られた世界、宇宙についての知ないし真理です。下の方は書誌的プロセスを示し、ドキュメンテーションは書誌によって得られたものが知識として再構成される過程までを含んだ構想であることが分かります。(本文 p.189-190)


図23 「世界、知識、学術、書物」 (Otlet, Traité de documentationより)




2020-12-14

新著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の予告

『パブリッシャーズ・レビュー』という東京大学出版会・白水社・みすず書房が順番で編集していたPR紙が最終号だそうだ。今回最終号という報道を見て、初めてこれが東京大学出版会が5月・11月、白水社が1月・4月・7月・10月、みすず書房が3月・6月・9月・12月を担当して発行してきたということを知った。紙での出版にこだわってきた人文系の出版社もプロモーション手段としてのDMというのはもう使わないということだろう。

その12月15日発行の最終90号に私が書いた本の出版予告が掲載されている。発行日は1月中旬の予定である。ちょうど1ヶ月前になったところで広報が始まっている。アマゾンをみたらやはり予告が出されていた。

根本彰著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021年1月中旬刊行予定

そこには「日本ではアーカイブが必須の社会基盤とみなされていないのではないか。西洋社会と比較しつつ、これからの図書館が向かうべき道を照らす。」という文言が書かれていた。『パブリッシャーズ・レビュー』の方はもっと長い紹介文であるが趣旨は同じである。著者としては、これは執筆の趣旨と少しずれているのではないかと編集の方をやりとりをしているところだ。確かに広い意味では図書館論であるが、残念ながら「図書館が向かうべき道を照らす」ものと主張すると図書館関係者の期待には沿えそうもない。ほとんどの部分が西洋思想史をベースにした文化論・教育論であって、それに照らして日本の近代化を論じているからだ。要するにこの本は図書館も含めた文化の知識伝達機能を「アーカイブ」と名付けて、その発展が西洋思想の展開に基づいていることを主張しているのである。私が前から主張しているように、日本の教育がかたちだけ西洋的な学校制度を取り入れたが中身と方法が西洋のものとかなり異なったものとなった理由を解明し、それが近代日本の図書館の発展にとってマイナスに働いた事情を明らかにしたものである。

目次

第1講 方法的前提   

はじめに
用語の整理 
アーカイブとアーカイブズ
〈文書〉と言語論的転回 
文化翻訳論 
日本文化の三層性 
言語の透明性と構築性

第2講 西洋思想の言語論的系譜   

ロゴスとは何か 
プラトンとイソクラテスのパイデイア 
ロゴスとしてのアリストテレスの著作群
12世紀ルネサンス
ルネサンス 
フマニタス(人文主義)と近代科学
近代後期におけるロゴス 
パイデイアのその後

第3講 書き言葉と書物のテクノロジー   

書くとはどういう行為か 
書物と文書・記録との違い 
書物のテクノロジー 
古代・中世の書物 
グーテンベルクの活版印刷術

第4講 図書館と人文主義的伝統   

図書館はどのように始まったか 
アレクサンドリア図書館とは何か 
中世から書物の共和国へ 
読者の誕生
修道院と読書 
コレクションとミュージアム
学術知の成立

第5講 記憶と記録の操作術   

ユーグの読書論 
記憶術とは何か 
レファレンス書の完成 
書誌と分類 
書物の共和国の図書館

第6講 知の公共性と協同性   

百科全書と啓蒙主義 
教養とは何か 
研究型大学と大学図書館 
都市に埋め込まれた知 
公共図書館の制度化 
図書館専門職の誕生 
知の大衆化と図書館サービス

第7講 カリキュラムと学び   

陶冶とディセルタシオン 
バカロレアの哲学問題 
パイデイアの世紀的展開 
媒介される知と行動に移される知 
学校改革のための図書館的知 
国際バカロレアにおける学校図書館

第8講 書誌コントロールとレファレンスの思想   

世界書誌の夢 
書誌とドキュメンテーション 
FRBRモデル
分類法と主題 
知的コンテンツのメタデータ 
書誌コントロールという課題 
レファレンスとレファレンスサービス

第9講 日本のアーカイブ思想   

日本人の言葉とアーカイブ 
江戸のリテラシー
会読の重要性 
書物のアーカイブ戦略 
近代世界システムにおける明治維新 
殖産興業と学術知 
博覧会、博物館、図書館 
近代の学校教育制度 
江戸から明治へのアーカイブ戦略 
教養主義と「買って」読むこと 
近代日本の知の在り方

第10講 ネット社会のアーカイブ戦略   

世紀のハイパーメディア構想 
テキストとマルチメディア 
カノン(正典)とは何か 
育たなかったアーカイブ装置
国立国会図書館と憲政資料室 
アーカイブの活かし方

エピローグ   

知のネットワークとアーカイブ 
カノンとフーガ 
独学と在野の知

あとがき  

索引 


本書執筆の経緯について書いておきたい。2020年春にCOVID-19が世界を危機に陥れた。私は3月に大学を退職予定で最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していた。これについてはブログでも案内し、多数の参加希望者があった。これが開催できなくなったことは学究生活を終える私個人にとってはもちろんのこと、ここで予定していた重要な問題提起ができなくなったことについての学術的な損失という意味でも悔しく思っている。今ならオンライン開催も可能だろうが、それはまたの機会ということになった。

4月から同じところで非常勤講師として学部の「図書館基礎」という授業を継続する予定にしていたのだが、これがオンラインでやってほしいということである。それも教材をデポジットする方法でやることが推奨されていた。そこで一計を案じたのが、この際、自分が考えている図書館論を書いて学生に読んでもらってコメントをもらい、それに対して筆者としての応答をするという方法で授業を進めることであった。そうして書いたのがこの本である。第1講から始まって第10講まであるのは授業の10回分であることを示している。1週間に1講分の原稿を書くのはかなりハードだったが、これまで考えてきたりしてきたことなので、こういう機会に一気に書き下ろすというのは楽しい作業でもあった。また、こういうときにしかできないことだということも感じた。こういうときというのは、退職後で自分の時間をフルに使えることや、パンデミックの危機的状況のなかで緊張感をもって書くこと、また、読者が想定されて(待って?)いるということである。3ヶ月でほぼ書き終えて、その後、手を入れて原稿とした。という背景のなかで書いたものなので、かなりいろんな思いが詰め込まれていて読みにくいと感じることもあるかもしれない。しかしながら、この危機下に何者かを残すことができたという安堵感は残っている。


追記

本書に帯する書評についてブログで補記しています。

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(1) 2021-04-28

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(2) 2021-09-04

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(3) 2021-09-04


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