2019-03-23

【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』

【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』商事法務, 2016.

日本図書館情報学会誌 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。


この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。

近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。 

本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。

アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。

Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。

米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。

訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。

2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。

本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。

他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。

しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)

アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。

本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)

本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。

注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.

2019-03-11

故金森修氏の蔵書の行方

金森修氏は『サイエンスウォーズ』『バシュラール』などで知られる科学思想史家で、東大教育学研究科勤務当時の私の同僚だった方である。彼が会議等を休みがちだったというのは知っていたが、私は2015年に慶應に移ったので、コースが違うこともあり具体的な事情は知らないままでいた。そうしているうちに、2016年5月に逝去されたというニュースを知りたいへん驚いた。享年62歳だった。

科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。

さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。

奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.


著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。

金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。

日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。

これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。

日本人の言語論的基盤を探る本

以下は、雑誌『みすず』2019年1月/2月号に寄稿したものです。

「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

 日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。

 最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。

 だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。

 日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。

 近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...