2021-12-26

国立国会図書館デジタルコレクションの凄さ

日本のデジタル化が遅れているという認識の下に、国がデジタル庁をつくって音頭取りをするというご時世だが、国がやっているデジタル関係の事業で文句なくすばらしいと言えるものは国立国会図書館(以下NDL)のデジタルコレクションのサービスである。これは私が同館に関わりがあることを差し引いても断言できる。そしてこれが来年からさらに拡張されて、誰もが来館せずにネットアクセスできることになっている。このことはあまり知られていないのでここで自分で利用した体験を含めて紹介してみたい。

これまでのデジタルコレクション制度の概要

国立国会図書館は国の唯一の法定納本図書館である。法定納本制度は、国内で新しい出版物を出したらそれを同館に納入することを出版者に義務付けるものなので、同館には国内出版物が網羅的に所蔵されていることになる。もちろん実際には出版物の定義の問題があるし、制度の実効性の問題があり、納入されていないものもかなりあるのだが、主たるものは入っていると考えてよい。

そこでこのデジタルコレクションサービスとは何かというと、NDLが法定納本制度ほかの方法で収集した資料(図書、雑誌等)のなかで絶版になったものを保存目的でデジタル化し公衆に向けて公開(公衆送信)するものだ。デジタルコレクションのページはここある。このページでキーワードを入れてみてほしい。そのキーワードを含む書誌データ(目次に含まれるメタデータ(文字列)も含む)が検索される。

デジタルコレクションのトップページ










これは2012年の著作権法改正(31条2項、3項の新設)で可能になった。概要は次のとおりである。全体の正確な条文は他を参照してほしい。

2項 国立国会図書館において、図書館資料の原本を保存し公衆の利用に供するため、又は絶版等資料を自動公衆送信(送信可能化を含む)に用いるためディジタル化することで記録物を作成できる。

3項 国立国会図書館は、絶版等資料に係る著作物について、図書館等又はこれに類する外国の施設で政令で定めるものにおいて公衆に提示することを目的とする場合には、前項の規定により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて自動公衆送信を行うことができる。この場合において、当該図書館等においては自動公衆送信される当該著作物の一部分の複製物を作成し、当該複製物を一人につき一部提供することができる。 

要するにNDLは資料保存や絶版等資料の提供のために資料をデジタル化し、絶版等資料のデジタル化したものを図書館に公衆送信して利用者に利用させることができるし、コピーの提供もできるということである。

第2項はそのなかで絶版になったもの、つまり、市場で入手できなくなったものをデジタル化することが可能なことを規定している。 こうして絶版等資料(図書・雑誌・博士論文等)の網羅的デジタルコレクションがつくられている。そして、第3項はそれを公衆送信することで図書館等の機関で公衆に提供できることが規定されている。

ところで、インターネットでNDLのデジタルコレクションが見られるのは著作権の保護期間が過ぎたことが確認できる一部にすぎない。現在デジタル化資料が約276万点あり、うち55万点がインターネット公開、 約152万点が図書館を通じての利用、 約55万点がNDLの館内利用ということである。だから現在は図書館への公衆送信を利用しないと多くのデジタル資料は見られないことになる。

図書館でデジタルコレクションを利用してみた

これまで、図書館への公衆送信のものが利用できるとかNDLに行けば全部を見ることができるということは知ってはいても、利用しようという気にはなれなかった。それは身近に紙ベースの図書館がありそれを使っていれば事足りていたからである。ところが、以前から、戦後の占領期の図書館制度や戦後新教育の研究などをやっていたのだが、改めてこれを見直そうと思ったときにこのデジタルコレクションを使えるのではないかと考えた。それで先程のページで検索をかけてみて驚いた。これまで、WebOPACやCiNii Articlesなどで検索して数十の文献しかヒットしなかったものがいきなり数百のオーダーでヒットしたからである。

その理由はすぐに分かった。従来の図書館の目録は図書を検索し、CiNii Articlesは雑誌論文を検索していたが、今では両者を同時に検索することができる。しかし、デジタルコレクションの強みは図書に含まれる目次単位のメタデータが検索対象になることである。文献資料には、論文集とか全集・著作集、講座ものなど複数の人が寄稿する集合的な著作物がある。これらにある個々の論文・記事は目次で示されるが、これを著者名付きで検索できるようにしたことがこのシステムの大きな特徴である。従来、これらは表示されることはあっても正式な検索の対象になることはあまりなかった。最近の出版関係の書誌データベースで目次情報がついているものは多いが、著者名まで入っているものは少ないし、それを著者名という特性で検索できるようにしているものは少ない。NDLのデジタルコレクションはこれを入れて著作内の個々の文献の著者名検索を可能にしている。それにはNDLの長年の書誌情報作成のノウハウが生きていると考えられる。

下が「深川恒喜」(戦後の文部省で最初に学校図書館行政を担当した人)で検索した例である。ここには個別に図書館で探せばコピーできた資料もあるが、この検索で初めて存在を知った資料もかなり含まれる。特に「目次」とあるものはNDLがデジタルコレクションを作成する際に入力したメタデータであり、これに助けられている。

「深川恒喜」での検索例

それで多くの文献がヒットすることは分かったが、このコンテンツを利用するためには図書館に行かなければならない。現在これが使える図書館は全国に1250館ほどあるらしい。公立図書館でも中央図書館的位置づけのところならたいていは使えるようだ。ということで、行きつけの市立図書館に行ってみた。3階に専用の端末が置いてあり、そこで使用したい旨を告げるとすぐに使えた。これにより一気にデジタル化資料276万点中の207万点が使えるようになった。使い勝手はすごくいい。検索画面は分かりやすく、検索レスポンスは速い。また、検索結果の画面は見やすい。コンテンツを見ようとすると瞬時に表示してくれるし、見開きのページを拡大縮小するのも楽だ。表示をタイトル順や出版年順に並べ直すことも、別のページに跳ぶことも容易にできる。もちろん、戦後まもない頃の質の悪い紙に印刷してあるので色が変わっていてその意味では読みにくいがこれは仕方ないだろう。NDLのそもそものデジタル化の目的はそうした資料を保護することにあった。プリントしたければ著作権法の範囲で可能で、ページ番号を知らせれば手作業で職員がプリントしてくれる。プリントの質を自分で調整する機能もついている。ということで、ソフトウェア技術の進歩に驚かされた次第。

後日、NDL本館に行ってこれを使ってみた。本館の1階のかつてカード目録が並んでいたエリアは全て端末が並んでいて壮観だ。本館全体で370台の利用者端末があるそうで、そのうち1階エリアに何台あるのかは不明だがその半分くらいはありそうだ。そこで他の図書館と同じように使用可能だが、ここで使うことにはさらに2つのメリットが加わる。ひとつは、NDLでしか見ることができないデジタル資料のコンテンツを見ることができることだ。もうひとつはプリント機能が自動化されていて自分でページを選択してプリント請求をすることができ、最後にまとめてプリントアウトを入手できることだ。料金は若干高い(といっても白黒A3までなら1枚17円)が使い勝手はいいし、時間がかからない。受け取るための待ち時間もあまりない。

デジタルコレクションの一般公開

今のところこのようなサービスはNDLないしは最寄りの図書館に行かなければ受けられない。だが本年度の著作権法改正により、来年より利用登録すればどこからでもこのコレクションにアクセス可能になるという制度改革が行われた。細かいところは省略してどのような制度改革が行われかを見ておこう。同法31条3項の改正と4項から7項の追加が行われたのであるが、法改正の際の説明資料がわかりやすいので、そこからコピーした図を使って説明する。朱字の部分が今回の改正で可能になるところである。要するに、図書館に行かないと見ることができなかった資料を利用登録さえすれば自宅からでも自由に見ることができるし、プリントもできるというのである。





利用できる資料の範囲であるが次のようになっている。












一般に入手困難であるとされる資料に限定されるのは、もともと資料保存対策から始まっているからである。NDLでは民間の商業出版やサービスに影響を与えないことを優先してこれを実施しようとしている。だから、商業雑誌、コミック、すでに出版されている博士論文をここに含めることは予定されていないようだ。著作権の保護期間が2018年より50年から70年に伸びた。ということはネットで自由に利用可能になるには著者の死亡後70年過ぎなければならないことになり、1968年までの著作物が2038年になってその後1年ずつ保護が解けることで著作権切れ著作物が増えていくことになる。

だから、この事業の価値は著作権が継続する資料群のなかで「絶版等資料」をできるだけ広い範囲で認定することにあるだろう。現在の書籍出版においてはたいてい電子データが作成されるから、電子書籍化が作成可能である。そうなると常に入手可能になるからここでいう「絶版等資料」の範囲は狭められることになる。現在、商業出版社はそのことを想定して電子書籍の開発を進めており、だからこのようなNDLのデジタルコレクションの動きにも反対していないのだろう。つまり、商業出版と図書館の役割の分担は今後も続くことが前提になっていると思われる。

とはいえ、この新しいシステムは人文社会系の研究者のみならず一般の人も含めて20世紀に出た書籍のかなりのものが自宅で読める可能性をもたらす。紙資源をデジタル化してアーカイブ的活用することで重要な貢献となるものと思われる。願わくは、これが一般公開されたときの使い勝手やレスポンスなどにおいて現行レベルのものが保持されることだ。今回、じっくり使ってみて素晴らしいと感じたのでのまま使えるようになってほしい。



2021-12-23

『地域資料サービスの展開』『地域資料のアーカイブ戦略』の刊行

新しい本が出ました。蛭田廣一さん編の地域資料に関する2冊の論集です。前に書評した同氏著『地域資料サービスの実践』の続編で、2冊でデジタルも含めた地域資料実践の全体像が把握できます。このなかの2冊めの最後の第7章「図書館の地域アーカイブ活動のために」を書きました。

個人的には2冊めのタイトルが「アーカイブ戦略」となっているのが気に入りました。デジタルアーカイブ戦略ではないのですね。デジタル戦略はその前のアーカイブ戦略がなければ立てられないことは明白です。しかし、デジタルがいろんなものを動かしていることも事実で、そのあたりの戦略論は山崎博樹さんの第1章を読むといいと思います。

JLAのHPからとりましたが、著者名を補っています。なぜ、こういう目次に著者名がないのか。誰が書いているのかは大事な情報でしょうに。このあたりに公務員職場特有の職務著作と個人著作の区別がはっきりしていない体質が現れています。専門職は自分の責任で仕事をすべきだからその範囲でどんどん書くべきなのにと思います。目録規則の「責任表示」という概念は個々の章にも適用すべでは?


『地域資料サービスの展開』(JLA図書館実践シリーズ 45)

著者・編者:蛭田廣一編

発行:日本図書館協会

発行年:2021.12

判型:B6判

頁数:240p

ISBN:978-4-8204-2110-8   本体価格:1,900円

内容:2019年に刊行された『地域資料サービスの実践』(JLA図書館実践シリーズ41)をさらに進めるため,同書の著者がさらに踏み込んで2冊の書を編みました。そのうちの1冊が,各図書館等の実践事例を集めた本書です。いずれもそれぞれの地域特有の資料を丁寧に掘り起こし,保存・提供しようとする強い意気込みを感じることができます。地域資料への熱い思いをいだく図書館員の実践と経験が豊富に紹介された書籍です。


【目次】

1章 置戸町図書館の資料とデジタルアーカイブ(今西輝代教)

2章 調布市立中央図書館の組織化とサービス(海老澤昌子、武藤加奈子、越路ひろの)

3章 地域と紡ぐ地域資料-桑名市立中央図書館の地域資料サービス(松永悦子)

4章 モノと資料から考える今と未来-瀬戸内市の地域資料サービス(嶋田学)

5章 都城市立図書館の移転と貴重な未整理資料(藤山由香利)

6章 秋田県立図書館の120年とこれから(成田亮子)

7章 岡山県立図書館の魅力発信と「デジタル岡山大百科」(神田尚美、隈元恒、佐藤賢二)

8章 沖縄県立図書館の取り組みと移民のルーツ調査支援(大森文子、原裕昭)


『地域資料のアーカイブ戦略』(JLA図書館実践シリーズ 46)

著者・編者:蛭田廣一編

発行:日本図書館協会

発行年:2021.12

判型:B6判

頁数:160p

ISBN:978-4-8204-2111-5   本体価格:1,700円

内容:2019年に刊行された『地域資料サービスの実践』(JLA図書館実践シリーズ41)をさらに進めるため,同書の著者がさらに踏み込んで2冊の書を編みました。そのうちの1冊が,地域資料の収集・保存だけでなくデジタルアーカイブとして市民に広く公開する実践事例を集めた本書です。いずれもそれぞれの地域特有の資料を丁寧に掘り起こし,保存・提供しようとする強い意気込みを感じることができます。地域資料への熱い思いをいだく図書館員の実践と経験が豊富に紹介された書籍です。

1章 地域資料とデジタル化(山崎博樹)

2章 地域住民と協働したデジタルアーカイブ(西口光夫、青木みどり)

3章 学校教材としての地域資料のデジタル化(新谷良文)

4章 地域資料のオープンデータ化と活用(澤谷晃子)

5章 デジタルアーカイブ福井の展開(長野栄俊)

6章 民間資料の保存をめぐる現状と課題-多摩地域を中心に(宮間純一)

7章 図書館の地域アーカイブ活動のために(根本彰)


2021-12-01

図書館サービスの経済学のために

3回続いた『図書館雑誌』巻頭の「窓」欄の最後の回(2021年9月号)は、「図書館サービスの経済学のために」です。このテーマは以前から関心をもっていたもので、とくに出版流通との関係を考えるときに避けては通れないものです。

なお、このテーマで年明けに別の記事をアップする予定にしていますので、お楽しみに。



2021-11-25

国立歴史民俗博物館企画展示「学びの歴史像ーわたりあう近代」

先日 午後、千葉市に行く用事があったので、朝早く出て朝の一番に佐倉の歴博に入った。昔、できてまもない頃に一度行ったきりなので、たぶん30年ぶりくらいになる。企画展示(「学びの歴史像ーわたりあう近代」)があって日本の近代化の過程で「学び」がどのように位置づけられたのかがテーマとなっていたので、ぜひ一度見ておきたいと思い行ってみた。というのは、『アーカイブの思想』で幕末から明治にかけての知の制度化の歴史を概略おさらいしたから、このテーマは現在、もっとも関心が高いものの一つであるからだ。

結論からいうと見ごたえは十分にあった。全体が6つのパートに分かれている。

第1章 世界と日本の認識をめぐる〈学び〉

第2章 明治の文化・教育と旧幕臣

第3章 博覧会がめざした「開化」「富国」

第4章 「文明」に巣くう病

第5章 アイヌが描いた未来

第6章 学校との出会い

このなかでとくに関心をもったのは、第1章の「世界と日本の認識をめぐる学び」と第5章の「アイヌが描いた未来」である。これらを中心に紹介するが、第2章では旧幕臣や洋学者も含めて新しい明治政府の行政府や学問所に登用されていく過程が描かれる。第3章は西洋にならった博覧会が新しい文明のサンプルを展示して普及させる場として機能したことを示す。第4章は伝染病や感染症が従来の隔離から西洋医学の対象となっていく有様が語られる。第6章は、寺子屋ではない学校に西洋式の体操や唱歌が入ったり、奉安殿がつくられることで学校が村において果たす役割が分かる。

第1章「世界と日本の認識をめぐる〈学び〉」は幕末に、日本人が世界や日本についての知識をどのように獲得して深めたのか、また欧米の人々がどのようにして日本をめぐる情報を獲得し蓄積していったのかを、言語資料と地理情報によって見ている。言語については、ヨーロッパ系の情報がオランダ語と漢語を経由して入ってきたことが示される。最初はオランダ語だったものがその後、英語とフランス語になるというのも地政学的には納得できるが、ヨーロッパの情報が漢語を通じて入ってきたというのも知識としてはあっても、それを示す漢文資料を見ると納得させられる。鎖国によって間接的にしか情報が入ってこなかったのが、直接欧米生活を体験した福沢諭吉が『西洋事情』を書いて活躍する時代になると、彼の書いたものの偽版が出回り、彼ができたばかりの明治政府に対して取り締まるように訴える書状を出したというのもおもしろい話しだ。その間にそれほどの時間の経過はない。急激に外国の情報が入ってきてそちらにシフトしていったことを意味する。

それと地図上に示された日本人および外国人による日本国土と海岸線の描き方が面白かった。伊能忠敬が実測量によって描いた地図は幕末に外国人にも伝えられる。しかしヨーロッパ人は伊能図前にもかなり正確に日本列島を描いていたことを示す地図(ク―ゼルシュテルン図)が残されている。また、ペリーが下田に来たときにつくった海港図とその翌年に来航したロジャーズ艦隊の海港図を比べるとはるかに精細度が上がっているというようなものである。そして19世紀後半にはヨーロッパ人はかなり正確な日本近海の海図を作成していた。また、1871年(明治4年)には長崎と上海を結ぶ海底電信ケーブルが引かれ、日本は大陸と電信線でつながれた。陸上も東京までつながっている。岩倉使節団が明治政府との連絡に使用したという話しもあった。このように西洋のアーカイブに残された地図や海図が描き出す日本像を通して近代化の過程を示している。

第5章「アイヌが描いた未来」であるが、まず民族としてのアイヌは言うまでもなく、蝦夷地(北海道)だけでなく沿海州、アリューシャン列島、サハリン、千島にかけて幅広く住んでいた人たちを指す。それが19世紀後半になって国家による国境線が引かれて分断されることになる。蝦夷は北海道と名前を変えて、明治政府は開拓使を置いた。「内地」からの移住者が「開拓」していった際に、先住民としてのアイヌは居留地を限定され、日本への同化を余儀なくされる。その際に、入れ墨の禁止や日本語の習得の強要が行われる。なかには東京に集団で移転させられて学校で日本語を学び農業に従事することを強いられた人たちもいた。アイヌは文字をもたない民族だったが、日本の近代化の過程に取り込まれることによって、「学知」を習得し自らの権利や文化の保存を試みる人たちもいた。それらの記録が展示物で表現される。アイヌ語をカタカナで保存する試みはその後現在まで継続されている。

感想(1) テーマについて

展示は6つの章が別々の観点で別々の展示を行っている。展示の責任者や資料の出所が全国の博物館や図書館、文書館に渡っている。たくさんの研究者による異なる切り口から、幕末から明治への転換点において知的な分野がどうであったのかを描き、それらによって新しい近代像を表現しようとしている。第1章と第5章はその意味で外部の眼が強調されていたところであり、その意味で従来にない視点のおもしろさがあった。

展示テーマの副題が「わたりあう近代」とあるのにはいろんな意味を込めているように思われる。たとえば6つの章がそれぞれ扱うのは幕末から明治、大正、昭和前期にかけて「学び」に関わる多様な側面であるが、それらがばらばらに作用しながらも全体として日本の近代を形成しそれが一つの国家をめざす過程のいずれかの要素となったという意味合いがあるだろう。また、個々の章のなかでも複数の要素や観点が検討されるわけで、それらがやはり近代化の像が多様にありまた、地域や時代によっても多様に展開したことが見て取れる。どちらにしても、「わたりあう」という言葉は「よりあわさる」とか「まとまる」の対義語であり、国民国家形成が多事争論のなかにあり、簡単にひとつのものがつくられたわけではないことが主張されているように思われる。

感想(2) 展示の手法について

博物館の特別展を見ることは少なくないが、通常、モノの展示が中心になる。美術、歴史、考古学、民俗学いずれにしても、作品なり歴史的事物なり、遺品なり、出土物なりのモノを見せそれに解説をつけることで展示企画がなりたつ。さらには建物や室内の復元、舞踊や歌、朗読のようなパフォーミングアーツのビデオや音声の再生などの手法も用いられる。しかしながら、「学びの歴史像」というのはそれ自体がやや抽象的なテーマであり、とくに近代知とか学知といったものを展示しようとするとき困難に突き当たる。それが絵や地図、写真で表現できればまだわかりやすい。上に紹介した地図や海図のようなものはいい。けれども「知」を表現しようとするとどうしても、書物のページや文書のようなものが多くなり、文字を読むことが必要になる。もちろんそれを補うべく、絵図、図版や写真と組み合わせたり、音声の記録やビデを見せるなどの工夫があるが、図書館の展示と同様、文字が多いとだんだんと見ていくのがつらくなっていく。これは言葉で知を伝えるという本質的な作用につきまとう困難さだろう。

おもしろかったのは、「蛍の光」がもともとはスコットランドの民俗歌謡(Auld Lang Syne)であったものを宣教師が世界各地にもたらし、それぞれの土地で賛美歌、学校唱歌、軍歌、流行歌などに変容して歌われていったという話しである。日本に来る伝道のルートとして、スコットランド人がアイヌに伝えて歌われたものや、19世紀はじめにアメリカに渡りそれが明治期に日本に伝えられさらに台湾や中国に伝わったものがあるという過程があり、それが地図上で示されている。また、この歌の歌詞と楽譜が示され、元歌、日本、韓国、中国でどのように歌われているのかを聴くことができる。学知といってもこうした人間の行為として見たり聞いたりすることで興味を引くことができる。

改めて、こういう企画を立て、資料を集め、配置し、展示として解説し、さらに解説本を書いて出版するのはたいへんな事業だと感じた。だからこそ、こういう企画展示は多数の博物館等の資料を借り、またそれらの博物館のキュレーターが関わって成り立つ。だが、展示が終われば返される一時的なものである。アーカイブ機関としての博物館企画のアーカイブという意味で、解説本は残されるとしてもそれで十分なのかという疑問も残った。特別展から新しい本が書かれたり、展示にあたった人たちが研究チームを継続することもあるがそれは稀なケースだろう。しかし展示として終了させざるをえないのだからもったいないと感じたことも確かである。



2021-11-14

IBDPの「知の理論(TOK)」「課題論文(EE)」が図書館情報学に示唆するもの

 本日(2021年11月13日)の三田図書館・情報学会研究大会で表記の発表を行った。オンラインでの画面共有ができず、皆さんに助けていただきながらの発表だった(冷汗)。司会の福島幸宏さん、事務局の宮田洋輔さん、助け舟を出してくださった池谷のぞみさんには感謝申し上げたい。

ここでは、予稿集の原稿パワーポイントのファイル(読み上げのノート付き)をダウンロードできるようにしておく。今回、発表時間が15分しかなかったので原稿を読むことにした。ほぼ読み上げノートと同じ内容の口頭発表を行っている。

質疑でのやりとりについて、一部補足しながら再現しておきたい。

1)強調したい点などがあったら補足していただきたい。

 予稿集の原稿で強調したが口頭であまり触れられなかった点として、国際バカロレアのカリキュラムは西洋の知的伝統である人文主義(フマニタス)の思想をそのまま継受しているが、図書館情報学も同じ系譜のなかで生まれ発展したことがある。つまり両者はルーツを共有していると言える。今回、こういう発表を行ったのはこの共有したものどうしの相互関係が、国際バカロレアの学校図書館問題という形で現れていると思われるので、関係を見ることにした。

2)国際バカロレアのカリキュラムは個々の国の学校で実際にどのように展開されるのか。同じようにはできないのではないか。

 知の理論(TOK)のなかの知識領域に「土着の知識体系」というのがある。あまり訳がよくないと思うがこれはvernacular knowledgeの訳語と思われる。こういうところで、それぞれの土地の事情のようなものが扱われるけれども、それ以外は国際的に共通のカリキュラムとなっている。国際的な高大接続をうたうのでできるだけ統一的に扱うことが重要だということだ。(補足:IBの課程認定はかなり厳密な規準があり、IB本部からの委員が現地視察とインタビューも行う。また、5年おきに再認定になる。ちなみに図書館員へのインタビューを行うこともあるという。)ただし、本当にここで説明したようなカリキュラム運営がどれだけできるのかについてはまだ十分に把握はしていない。とくに日本の一条校の学習指導要領に基づくカリキュラムとはかなりの違いがあるから、日本の学校で実施するのはなかなか困難になるのではないかと思われる。(補足:だからこそ、このカリキュラムが文科省の音頭取りで導入されたことは驚きだし、それが日本の学校にインパクトを与えるのではないかと期待している。)このことについて、今回翻訳したアンソニー・ティルク氏の著書で、国際的に見ても教育学と学校図書館学(school librarianship)の交流があまりないことが指摘されている。発表で述べたように、TOKやEEのかなりの部分は図書館情報学の課題と重なっているので、この分野の研究や実践がIBDPにも影響を与えうると考える。

3)TOKの数学の授業の例があったが(スライドの6〜10)、これは一般的な数学とどのような違いがあるのか。本当にこういうものを実施しているのか。

 TOKの知識領域と教科科目とは区別されている。(補足:予稿集ではTOKと教科科目にある哲学との違いについて日本の先行研究があることに言及している。)教科科目は、日本の一般的な学校で実施している数学と方法的には違いはあっても内容的に基本的に違いはない。学術としての数学の入門コースである。それに対してTOKは、数的な認識や社会において数学がどのように使われているのか、数学の歴史といったものを学ぶ。スライド10に具体例があるが、フェルマーの最終定理がどのように着想されたのかのビデオを見るとか、「モンティホール問題」というテレビ番組で一見単純な数学クイズを出したら数学者もなかなか解けなかったという事例から数的思考を学ぶというようなことを行うようだ。ただ、こういう思考法や教授法に教員もどの程度対応できるのかという疑問は残されている。図書館情報学をはじめ諸学の知見を加えていけば、TOKはもう一つの知識理論として主張できるのではないかとも思える。


*補足:こうしてみると、IBDPのカリキュラムにはヨーロッパでかつてあったエリート主義的な高大接続の考え方が反映されていると思われる。大学のリベラルアーツの先取りということも言われる。ただこれはIBDPに限らず欧米に広くあるものだろう。フランスでは中等教育で哲学教育を行いバカロレアで哲学の論述問題を出して4時間かけて書くなどというのがその典型であるが、ヨーロッパ社会も移民が増え大衆社会化して、なかなかその水準を守るのはたいへんとも言われる。他方、徹底的に自らの思考を鍛えるという教育法自体が多くの人にとってプラスになるという見方もある。(坂本尚志『バカロレア幸福論:フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』星海社新書, 2018)

本日昼過ぎの学会シンポジウムで吉見俊哉さんが強調していたことに、日本の大学は学生も教員も忙しすぎるという話しがあった。授業科目数が多すぎるという話しである。これは小中高にも当てはまる。要するに西洋では思考法を学べば知識そのものは網羅的に学ばなくともよいという考え方であるのに対し、東アジアでは知識内容の網羅的な習得と再現が重要という、知識観の違いに基づくのではないか。発表のなかで、規制緩和で大学設置基準の図書館問題が議論になっていたが、この授業時間数の緩和がむしろ重要だと思われる。このことについては、私のテーマでもあるのでまた考察したい。

 






2021-10-18

戦後学校図書館政策のマクロ分析

 2021年日本図書館情報学会研究大会にて、表記の発表をした。

その発表論文はここに置いてある。

また、使用したパワーポイントファイルはここに置いてある。


次の質問を受けたので補足しつつ回答しておく。

①教育課程行政への位置づけについての考えを示してほしい

学校図書館と教育課程の関係について、すでにいろいろと研究がされていることは知っている。ここで言いたかったことは、研究の成果が内輪向けのものであってはならず、教育学研究者のコミュニティと共有されるような性格のものになっていくべきだということだ。具体的には、探究学習をするのに教室外の情報源へのアクセスは必須でありそのために学校図書館が存在するということを説得的に主張するために、教科教員と協力してカリキュラムを策定して、チームティーチングをしたり学習支援したりして、それを評価するといったような研究だ。そういう研究成果を教育学系の学会で発表することで学校図書館の必要性が理解される。そうした知見が文科省の審議会や学識経験者の会議で論じられて初めて政策に取り入れられる可能性が出てくる。

②アメリカから来たディベートを教育方法に取り入れようとしてもうまくいかない。日本の学校の系統主義が強く作用するなかで、探究学習とか総合学習といってもうまくいかないのでは?

おっしゃる意味はよく理解できる。日本で系統主義が経験主義とか構成主義カリキュラムに短期間で転換できるとは考えていない。おそらく、今回の指導要領改訂もあまりうまくいかないだろう。しかし、国が系統主義から離脱し始めて40年になる。とくに新学力観に基づく教育課程を受けたいわゆるゆとり教育世代は早い人だともう社会の中堅どころになっていて、彼らが上の世代にない何か新しいものを産み出しつつあることも言われている。それが教育課程の変化の影響かどうかはすぐには分からない。だが、教育にかかわることはかなり長期的な視点をもって見ていくべきだと考える。自分が今行っているこうした研究は、どちらかというと研究の枠組みを示したり、実践も含めた今後の政策の方向付けを示したりすることで、今後の世代に学校図書館の研究を継承するために行っているつもりだ。

③最後に示した解決方策についてとくに情報リテラシー教育との関係についてどう考えるか?

教育課程にかかわるものとして、探究学習、デジタル教材や外部情報資源の提供、言語力と読書の効果の評価などを挙げた。これらは基本的には教育課程の一部なので教員が主導して行うものである。これに学校図書館がかかわる場合に「学習情報センター」というような概念規定では十分でないと考える。基本的には、情報や知識を学習者自ら獲得するプロセスを支援するということであり、これを「情報リテラシー能力」と名付ければスローガンとしてはわかりやすくなる。「メディアリテラシー」という言い方もあるが、外部の情報へメディアを通してアクセスする局面に限られるように思われる。情報リテラシーは、情報を獲得するだけでなく、発信したり、書いたりという過程が含まれるという考え方があり、進めたい。


追加:

この研究を通じて明らかになってきたのは、教育政策を主導するのは文部科学省であるが、1990年代以降の学校図書館政策はほとんどが読書力や言語力ということを口実にして業界団体が政治家の力を借りてアジェンダを示し実現していることだ。今、その政治的な構図について問わないとしても、これだと非正規学校司書の配置で十分ということになってしまう。このブログで出版界で児童書出版の売り上げが安定していることに疑問を呈したことがある。それは朝読や学校図書館図書整備のような子ども読書推進政策のおかげであるが、これが本当に言語力向上につながっているのかは検証されていない。(参照:「子どもの本離れは解消されたのか— 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む)ところが、教育改革の方向は学習者の一人一人の主体的な学びにあり、それは単に読書を習慣にするという程度では到底身につかない。業界団体主体の在り方に大きな疑問が沸いてくる。

ちなみに私は言語力とか読書力を否定しているのではなくて、むしろ逆である。ただ今の教科教育の存在を前提とした教育課程行政の枠組みでは、言語力や読書力、情報リテラシーのようなものがうまくいかないという意見をもっている。余談に近いことだが、子どものうちはしっかりと本を読ませ、中等教育以上はしっかりと知識を学ぶべきだとして、今の受験体制と系統主義を裏側から推進しているのは、大手新聞社AMや大学教員を中心とした「リベラル」勢力である。リベラルが世紀を超えると守旧派に転じる様子がよく見える。旧い教養主義の考え方では対応できないようなメディアや社会状況の変化があるのだが、大学ランキングと偏差値を組み合わせた日本の受験地図を肯定する限り、中等教育、高等教育とも主体的な学習者を生み出さずに終わってしまう。探究学習や学校図書館に期待をもつのはそれらと違った論理をもって今のメディア環境に対応できる「独学の人」を生み出すのではないかと思われるからだ。

そこで学校図書館が学習者の学びへの直接的貢献をするための方向付けを考える必要がある。学校図書館行政はかつては初等中等局だったのが現在は総合教育政策局に移されており、従来の教科教育や学習指導要領とは異なった道筋が示唆されているのではないかということだ。つまり、教育課程や教科教員養成とは別に「総合教育政策」の名の下に新しい教育分野が拓ける可能性だ。そこではまず、学校図書館行政と公共図書館行政の関係が近くなっていることがある。また、生涯学習という大きな枠組みが前提としてあり、そこにおいて、読書や言語力、探究学習や情報リテラシーというような新しい課題が取り上げやすくなっているのではないかと思われる。これらがどのような意味で教育政策の重要な柱なのか、また学校図書館がこれらにどのように貢献できるのかといったことを研究を通じて明らかにしていくことが大事である。

そうそう付け加えるのを忘れていたけれども、国際バカロレアをやっているのもこのような文脈においてである。文科省で国際バカロレアは大臣官房国際教育課の担当であってやはり初中局とは別組織で推進している。こうなるのも初中局モンロー主義では教育問題は解決しないことがはっきりしたからではないかな。(10/19日追加)




2021-10-12

なぜ国際バカロレアを取り上げるのか?

「国際バカロレアなんて関係ないと思っているあなたに:

これは日本の学校教育の根底を揺さぶるもので、文科省は大臣官房にそのセクションを置いて支援しています。この動きは新学習指導要領で「探究」学習が位置付けられたことと関わります。そして探究するには図書館は必須なのですね。」フェイスブックへの書き込み 2021年9月24日

2021-09-23

「国際バカロレアと学校図書館」公開シンポジウム(追加:翻訳書割引購入のお知らせ)

国際バカロレアと学校図書館」公開シンポジウム





主催:「国際バカロレアと学校図書館」研究会(科学研究費補助金19K12721)

後援:文部科学省IB教育推進コンソーシアム事務局

日時:2021年11月23日(火・祝日)午後2時〜午後5時

開催方法:Zoomによるオンライン会議方式、事前申し込み制、参加無料


[開催趣旨]

アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館——探究学習を支援する』(根本彰監訳、中田彩・松田ユリ子訳、学文社刊)の刊行を機に、国際バカロレア・ディプロマプログラム(IBDP)のカリキュラムの中心にある探究学習を進めるのにあたり、学校図書館がどのような位置づけをもつのかについて、広く関係者の意見交換の場にする。

[プログラム]

総合司会  松田ユリ子(神奈川県立新羽高等学校司書)

主催者挨拶 根本彰(東京大学名誉教授)

ビデオメッセージ(日本語字幕付き)

  アンソニー・ティルク(オランダ・ハーグ、アメリカンスクール図書館長)

<発言>

ダッタ・シャミ(岡山理科大学教授・日本国際バカロレア教育学会副会長)

「探究を基盤とした教授学習と学校図書館」

梶木尚美(前大阪教育大学附属高等学校池田校舎教諭)

「DP歴史の授業と学校図書館ー教科担当教員の立場よりー」

高松美紀(東京都立狛江高等学校指導教諭)

「国際バカロレアが示唆する日本の学校図書館の課題と可能性―21世紀型の学びのキーとなる図書館/ライブラリアン―」

<休憩>

小澤大心(文部科学省IB教育推進コンソーシアム事務局長)

文部科学省としてのIB教育推進の取り組み」

<パネルディスカッション>

司会 中田彩(大阪市立水都国際中学校・高校司書教諭)

・ダッタ・シャミ(兼英語通訳)

・梶木尚美

・高松美紀

・小澤大心

・アンソニー・ティルク


[参加方法]

参加希望者は、次のサイトで申し込みとアンケートへの回答をお願いします。

https://forms.gle/BDxwASgMWvctcPFH8


[アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館』の購入]

参加申し込みをすると、本が1割引き(消費税・送料込み2200円)で購入することができます。申し込みの確認メールに注文方法が書いてあります。


【問い合わせ先】

ibdp.sl.inquiry@gmail.com



2021-09-16

メタファーとしての図書館

次のショートエッセイはある理由で、予定していた出版物への掲載を控えたものですが、せっかく書いたものなので、ここに公表することにします。


メタファーとしての図書館 Ⓒ根本彰

ヒューマンライブラリー(坪井, 横田, 工藤,2018)とかシードライブラリー(種の図書館)(Conne,2015)という運動がある。ヒューマンライブラリーは個人の人生を語ることで人間の相互理解を深めることを目的にし、シードライブラリーは植物の種子の保存と育成法を通して持続可能な社会を目指すという目的をもつ。前者は人そのもの、そして後者は植物の種を「貸し出す」という方法をとる。これらは資源の蓄積と再利用という図書館の手法を比喩として用いて実践的な活動を行うものである。コンピュータプログラミング用語にも「ライブラリ」があり、共通の機能をもつプログラムを再利用可能なかたちで用いるもので、同様の発想に基づくネーミングである。

他方、図書館について「大学の盲腸になってしまわないように…」とか「大学の馬の尻尾」といったようなネガティブな比喩で語られることがあった。19世紀後半にアメリカで研究大学構想を打ち立てたジョンズ・ホプキンス大学のD. C. ギルマン総長は「大学図書館は大学の心臓である。もし心臓が虚弱であれば他の全ての機関の機能はにぶる。もし心臓が強かったら, 溌刺として踊るであろう」と言ったとされる(山崎,1996)。これらは人体部位を図書館の比喩として用いる例である。研究大学で文献資料は血液であり現代的な図書館サービスはそれを送り出す心臓との位置付けをもった。

●迷宮、バベルの図書館 

西洋では古代ギリシア、ローマの著述家の写本が修道院や教会、そして大学のコレクションとして引き継がれ、あるものは東方のイスラム圏を経由して中世末期にヨーロッパに伝えられた。近代の人文学は、そうした多ルートで伝わった書物の蓄積からテクストを読み解き、相互関係がどうなっているのかを明らかにすることから始まった。こうして、多数の系譜により蓄積され相互に連関する書き言葉(テキスト)やドキュメントの集合体を図書館というメタファーでとらえることは、多くの思想家、文学者が試みてきた。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』に出てくる北イタリアの修道院図書館はキリスト教神学と異端思想の拮抗の場として描かれている(エーコ,1990)。村上春樹の『図書館奇譚』は日常性の裏側に恐怖が潜む空間をめぐる物語である(村上,2014)。いずれも迷宮であるという点で共通している。

作家でアルゼンチン国立図書館長も務めていたボルヘスによる小説集『伝奇集』に描かれた「バベルの図書館」は、巨大な球体でありそのまんなかに無限階分の閲覧室が六角柱の連なりに穿たれたもので成り立っている。各階の6つの壁にはそれぞれ5段の書棚があり、各段に32冊の本が収納される…という記述で始まる。この図書館に納められた無数の本は、ありとあらゆる言語のありとあらゆる主題について書かれながら相互に内容的な関係をもちつつ同じ内容のものはない。それを管理する司書たちはその本の書誌学的な研究をしながら管理しているというものである(ボルヘス,1993)。

●夜の書斎とアルシーヴ

 ボルヘスの奇想は同時代の思想家フーコーの幻想の図書館論と通じている。彼は、夜の書斎においては一冊の本が別の本とつながり、ある本の一節から記憶の片隅の別の一節が浮かび上がるがその連想がどこから来るのか説明がつかないとし、「朝の書斎が見通しのきくまっとうな世界秩序をあらわすとしたら、夜の書斎はこの世界の本質ともいうべき、喜ばしい混乱をことほいでいるように思える」と述べる(フーコー 2006, p164)。夜の書斎はバベルの図書館の部分集合である。フーコーの初期の研究では、西洋の知の伝統のなかに臨床医学や精神医学、刑務所などの制度が立ち上がる瞬間を記述する方法としてアルシーヴの考古学あるいは系譜学を主張した。(フーコー 2012)ここでアルシーヴとはこのような相互にリンクし合うテクストの集合体であり、人文学はその関係の読み取りを行う取り組みである。そこに従来の図書館情報学で重視してきた著者性(authorship)の要素は希薄である。

●AI図書館とシュワの墓所

電子図書館は、数値データ、テキスト、画像、音声、動画といったコンテンツがインターネットにハイパーテキストで相互にリンクされた状態でオープン化されて、アクセス可能になっている状態のことであり、そこでは検索エンジンが目録の役割を果たすというイメージが広く共有されている。これが拡張された現代的普遍図書館の考え方である。検索エンジンの仕組みは言語処理による検索タームの一致度に基づいている。AIもまたその延長上にあり、インテリジェンスといっても個々のコンテンツに付与された、あるいは、そこから抽出された言語タームを一定のルールに基づいて統計的に処理する技術の集合である。検索エンジンはディープラーニングの仕組みを備えた一種のAIであり、多くの人が日常的にスマートフォンやタブレットでグーグル検索をしているのだから、図書館の領域ではシンギュラリティ(技術的特異点)に近づいているという見方もできる。

科学知識とそれを応用する技術を組み合わせて発展してきた近代文明の究極の展開として、AI的な知的装置を描いたフィクションでは多くの場合、最終的に文明はAIに裏切られるかAIの失敗によって崩壊する。宮崎駿の長編漫画『風の谷のナウシカ』の終盤で、主人公の少女ナウシカは、すべての知・記憶や生命を技術やアルゴリズムでコントロールする仕組みである「シュワの墓所」の主に対して、この仕組みを否定し、混沌と汚濁のなかからこそ文明や生命が生み出され、秩序の欠けた環境こそがよりどころになると宣言する(宮崎 1994, 第7巻)。

一見すると秩序づけられた空間に無数の本を納めたように見える図書館ではあるが、実は知の世界がもつ無定形性と相互連関のいずれの特性をも示している。図書館を実体的にとらえる立場においても、このようなメタファーから出発することで新しい視野が開ける可能性がある。


【引用文献リスト】

1 Conne, Cindy(2015)Seed Libraries: And Other Means of Keeping Seeds in the Hands of the People, New Society Publishers

2 エーコ, ウンベルト 河島英明訳(1990) 『薔薇の名前』上下, 東京創元社

3 フーコー, ミシェル 小林康夫他編 (2006)『フーコー・コレクション 2 文学・侵犯』筑摩書房

4 フーコー, ミシェル 慎改康之訳(2012)『知の考古学』河出書房新社

5 ボルヘス, J. L.,鼓直訳(1993)『伝奇集』岩波書店

6 坪井健, 横田雅弘, 工藤和宏編(2018)『ヒューマンライブラリー:多様性を育む「人を貸し出す図書館」の実践と研究』 明石書店

7 宮崎駿(1994)『風の谷のナウシカ』全7巻, 徳間書店

8 村上春樹(2014)『図書館奇譚』新潮社 

9 山崎賢二(1996)「図書館の比喩としての「心臓」」『医学図書館』43巻2号, 252-256


2021-09-04

『アーカイブの思想』の書評(3)

根本彰『アーカイブの思想——言葉を知に変える仕組み』(みすず書房, 2021)に対する書評(2)の続きです。

書評者:中野目徹氏『日本史学集録』(筑波大学日本史談話会) 42号, 2021年7月, p.49-52.  (アクセスはこちら

【謝辞】この雑誌は筑波大学関係者を中心とした研究会の雑誌であるが、オープンジャーナルとなっていないのでなかなかアクセスしにくい。そこで評者の許諾を得てこのブログで読めるようにした。掲載を許可していただいた評者に御礼申し上げる。

はじめに

中野目氏は筑波大学で近代日本思想史を担当している歴史学者である。この書評の最初に出てくるように、2020年3月に私が慶應義塾大学を退職するにあたって最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していて、そのときに招待してお話しを伺おうとした方である。そのイベントはコロナ禍で中止になった。どういうイベントが予定されていたかに関心があればここを見ていただきたい。拙著自体がそのときの最終講義で予定していた内容を大きく展開したものであったが、氏の書評もまたそのイベントでお話しになる予定であったところから出発しているということだ。このような形でお返しいただいたことに感謝申し上げたい。

実は氏と20年前からの因縁があったことは、この書評の後半に、拙著『文献世界の構造——書誌コントロール論序説』(勁草書房, 1999)で述べたことが北海道文書館職員(当時)青山英幸氏の著書『記録から記録史料へ——アーカイバル・コントロール論序説』(岩田書院, 2002)で方法として用いられ、青山氏の著書の書評を中野目氏が書いていたとあることから分かる。書誌コントロールとアーカイバル・コントロールとの関係は図書館の方法と文書館の方法の関係に相当する。私自身は青山氏から同書をいただいていたが、あまりそのことを考察しようとしていなかった。改めて考えてみると20年越しで『アーカイブの思想』を書いたことの遠因に両者の関係の重要性に気づかされたことがあったのかもしれない。今なら、もう少し知識組織化の方法の議論に踏み込むところなのだろうが、今回は少し触れただけであり今後の課題の一つとなる。

以上のことは措いても、中野目氏は思想史学者であるが筑波大学に赴任する前に国立公文書館にいらして『近代史料学の射程』の著書もあるように、公文書や公文書館について詳しいし、現在でも筑波大学文書館の責任者を務めている。つまり、私が図書館の専門家であるとすればアーカイブズの専門家でもある。だから本書が「アーカイブ」を名乗りながら実は「アーカイブズ」についての記述が弱いことはすぐに見抜いただろう。ただ、そのことはおくびにも出さず、本書をintellectual historyの視点から読んでくれたという言う。これはたいへんありがたい。

私にとって思想や歴史という領域は今でこそ身近となったが、かつては遠い領域であった。1970年代前半に文系の大学に入ったものとして、錚々たる人たちが侃々諤々の議論をしている思想や歴史の壁はたいへん高く厚く思え、まったく違ったアプローチをとることを選択した。そういう自分が半世紀してそうした領域に近づくことは冒険でもあった。本書で何度か言及したように、西洋の人文知の成り立ちを意識する見方を日本の人文社会科学の領域にぶつけてみることこそが、下手の横好きとか大風呂敷とか言われようとも、本書の独自性であり、それを正面から読み取ろうとしてくれたということがうれしいものであった。

アーカイブとドキュメントの違い

書評では本書の構成に沿って全体を紹介した上で、最後に3点の著者に「教示願いたい点」を指摘している。これに答えるのが著者の務めであるだろう。以下、襟を正して批評への応答を試みたい。

まず、本書の冒頭で「アーカイブ」と「ドキュメント」を定義しその違いと関係について述べている。評者はこれが「アーカイブズ(文書館)と図書館(さらにアーカイブズ学と図書館学)の関係にほかならないが、両者の位置関係が不明瞭であり、本書の主題と対象の不明瞭さにつながっている」と感じられたとしている。とりわけ、日本の近代化を論じた第9講について、「今後より一層検討を加えていく必要がある」と述べている。第9講が近代思想史家の眼からするとずさんな議論にも見えるだろうとは予測できることである。この分野について、日本史学なり近代思想史学なりの蓄積がすでに大量にあり、それからつまみ食い的に取り出して論じているようにも見えるだろうからである。だから、問われるべきは、そのつまみ食い的取り上げ方の正当性を主張するための方法的根拠である。そして評者は、著者がそれをアーカイブとドキュメントの違いを基に展開していると読んだのであろう。

本書の立場を言い換えると、「アーカイブ」とは起源へと回帰するベクトルであり、「ドキュメント」とは逆に未来へ向けて拡散するベクトルであるということになる。アーカイブと歴史、ドキュメントと知を対応させているのはそのためである。歴史学は現在を構成するものの最初がどうであったのかを問い、それを明らかにするのがアーカイブズ(オリジナルな文書や記録類)であるとする。他方、それ以外の人文社会系の学問は本書の立場から言えば起源後の現象の展開についての知である。知を獲得する方法はそれぞれの学問毎にあるが、それで構成された知はいずれも仮説にすぎない。そして、知は自らの支持者を増やすために拡散の方向で展開する。書物、論文、ネットいずれもがコピーであり拡散のためのツールである。実は歴史学の問いも現在を説明するために行うものであり、起源を問いながらなおかつその解釈を行うという意味で他の人文社会諸科学と変わりはない。つまり、歴史学もそれ以外の人文社会科学もいずれもアーカイブ、ドキュメント両方のベクトルをもちながら、自らを形成してきたと考えるべきなのだろう。

極論すれば、アーカイブはオリジナル、ドキュメントはコピーを志向するが、その関係は相対的にしか決まらないということになる。文書館と図書館の関係もここから導かれる。一点しかない文書、その写本、版本、影印本、文書を集めて編纂して活字化した資料集、この文書を解説した書物があるとして、文書館はどれを集めてコレクションにするのか、図書館はどうか。どこまでがアーカイブズでどこからがドキュメントか。それは一律には決まらないが、しかしながら論理は明快である。

あらゆる学問において先行研究の確認が行われる。たとえば理系の研究で先行研究と言えば、当該領域の最新の研究成果である。だが、研究史を遡ってその研究を手掛けた最初の論文にはすでに研究上の価値はなくなっている。とはいえ、STAP細胞事件のようにひとたびその研究がフェイクの疑いがかけられたとき、たちまち当初の論文は研究史的な意味でのアーカイブとなり検証の対象になる。このことを逆に言えば、理系の研究論文は最初の論文が査読を通り公表された段階でアーカイブの段階からドキュメントの段階になり拡散の道をたどるということである。そして通常、アーカイブを問題にすることはない。アーカイブの真正性がドキュメント拡散のプロセスに埋もれているからである。ただし、この場合でもアーカイブは常に検証の対象として存在している。

このように、アーカイブはいずれドキュメントに変わる。そのタイミングが自然科学と人文社会科学では異なっているということである。また、ドキュメントの分析自体を行う文学や哲学などの領域はドキュメントをアーカイブととらえているとも言える。たとえばゲーテでもルソーでも福澤諭吉でもいいが、文学や思想研究者がいちいち著者のオリジナルの原稿を読みにアーカイブズに行くことはないと言ってよい。原稿のファクシミリ版のようなようなものを読む場合、刊本になった全集本を読む場合、さらにはその翻訳の文庫本を読む場合でも、それはアーカイブを読んでいるわけである。それは書誌学的な校訂を受けて原典と同一である、あるいは原典にもっとも近いものとして読んでいる。翻訳ですら、原典を忠実に訳したものとして扱われる。これらもドキュメントであると同時にそういう手続きを経てアーカイブが埋め込まれていると考えられる。

中野目氏の疑問に戻ると、だから両者の関係が曖昧に見えるのは仕方がない。さらに、両者の原理的な違いと相互関係は文書館や図書館の制度的違いとは対応しにくいところもでてくる。たとえば、内閣文庫(現国立公文書館)のようにドキュメントをもつアーカイブズがあったり、憲政資料室のようなアーカイブズを国立国会図書館が部門としてもったりすることがあるわけである。両者の関係は、戦後改革でGHQ/SCAPが図書館を重視したことによって、一時的に図書館が制度化されたことにより、関係者が国立国会図書館を文書館として用いたことにある。だが、同館のモデルになったアメリカ議会図書館(LC)は近くに国立公文書館(NA)があるのに、アーカイブズのセクションをもち大量の資料を集めて公開しているから、別に日本の特殊事情とは言えないだろう。公文書館法、公文書管理法以降の日本では、公文書館を発展させている状態で図書館や博物館などにあったアーカイブズを改めて文書館に移管することも進行している。ようやくアーカイブズが公文書館で扱われるような事態が生まれつつある。

東洋の書物と文庫

次に、本書が欧米の人文学的なコンテクストのなかで図書館のことを語り、中国や日本の書物や文庫などの知の系譜との関係の整理が十分ではないとの点である。本書では第8講まで西洋の知の系譜について述べて、第9講で日本の対応するものがどうなのかという議論をしている。江戸期の書物とその蓄積および流通と知識人の交流について少し述べ、また幕末には会読のような西洋で行われていた知の交流と深化させる方法があったことについても述べている。しかしながら、それが明治政府が本格的に稼働するにつれて、国力を強化することが目標になり、知の領域も蓄積しながら自由な交流を前提にするのではなくて、知を輸入して翻訳して配布するようなものが中心であったと述べている。内部に蓄積しつつ新しい知を創造するのではなく、外部からの翻訳学問が中心になっていくことや、国民自体を国力と位置付ける観点から、学校教育における知および倫理の在り方を国家が統制していったことについて批判的な議論を行った。

評者はもとより日本思想史の研究者として、それでは江戸期までの知の蓄積との関係がよく見えないという批判をお持ちなのだと思う。本書でも国学的伝統が天皇制国家の知的倫理的水準を決定づけたことについては言及しているが、氏が指摘している、明治のジャーナリスト徳富蘇峰の成簣堂文庫に和漢洋の資料の蓄積があることで分かるように、明治の知識人が決して漢学や国学の伝統だけではなく、中国、仏教、洋学のさまざまな知を吸収しながら議論していったことは確かだろう。明治初期の啓蒙主義者のなかで天皇制の推進者になった人が少なくないことは確かであるが、このあたりの事情を十分に把握して論じることはできていない。また、中国や日本の文庫的伝統や類書、考証、類聚、編纂物といった「書物のアーカイブ戦略」(本書p223以降)についての考察や日本の教養主義と修養主義の関係、そして出版と知の流通の考察(p246以降)はあるが、全体としてきちんと検討が進めらることはできていない。それは西洋の知の系譜を基準にして日本のことを議論したことによる限界であることは自覚している。

ただ、一点言い訳のように付け加えておけば、西洋の知的伝統の在り方とアーカイブの思想が近しいものであり、それが図書館や文書館といった制度面に現れていることを強調したかったことは確かである。これは、図書館情報学という分野が制度としての図書館が十分に展開しないと成り立たないという弱点をもっていることと関わっている。近代日本の書物の問題は私自身の課題であると同時にこの時代のさまざまな領域の研究者が進めてくれているので今後ともいっしょに考えていきたいことである。

デジタルアーカイブについて

多くの記録物がボーンデジタルで発生し、すぐにネットで使用可能になる状況についても十分に議論していない。また、評者があえて「デジタルアーカイブズ」と表記された文書・記録史料類のデジタル化についても本書では述べていない。私自身は入っていないがデジタルアーカイブ学会の活動もあり、近しいけれども遠巻きに眺めているという感じである。というのは、これは今のデジタル庁創設の動きとも密接にからむもので、国のICT対策が出遅れているという危機感を先取りしてデジタルコンテンツの創出を目指すが、やはりそうした時流に乗った動きとも見えるからである。時流に乗ることもときには重要でむしろ図書館の領域は乗るのに失敗してきた歴史とも言えないことはない。ただ、どうも気質的にそういうものから離れたがるところがある。

もう少しこれまで述べてきたことの延長上で議論すれば、デジタルアーカイブはアーカイブといいながらドキュメントの拡散をデジタルネットワークの上で目指す手法である。確かに一点しかないアーカイブズがどこにいても画面上で見ることができるというメリットがあることは何にもまして否定できない。これは図書館の領域でも同様で、国立国会図書館のデジタルコレクションがネット上で公開されたことで人文社会系の研究者が今まで知らなかった、あるいは入手できなかった古い資料に容易にアクセスできるようになったことを歓迎する声をいろんなところで耳にする。だから、日本の貧弱なアーカイブ環境を改善する重要な手法であることは間違いない。これに、ジャパンサーチの横断検索の機能によって個別の機関がつくるデジタルコンテンツへのアクセスがさらに容易になることが拍車を掛けている。

だが、物事には両面があるもので、この手法がアーカイブと名付けられ、これによってアーカイブ問題が解決すると考える人が出てくるとしたらそれは大きな問題だろう。これはアーカイブズ関係者には自明のことだが、デジタルアーカイブの素はあくまでもすでにある紙ないしはパッケージ系のメディアであり、過去存在していたが消失したり行方不明になっものを掘り出してアーカイブ化することではないし、また、これによって、公文書の移管手続きが進んだり、ボーンデジタルの公文書類が保存されるようになることでもない。つまり制度として問題になっている公文書の保存公開や公文書館への移管問題とは直接関係ないのだが、そうした問題が存在することの目くらましの効果もあることに不安を覚えているということである。

言い換えれば、私が考えるアーカイブズの世界においては、アーカイブズの存在を認識しそれを意識的に残すことから始まり、あとは組織的に保存し、必要に応じて公文書館に移して組織化して利用可能にするところまでを含むのだが、デジタルアーカイブはその最後の部分にはきわめて有効だが他の部分には影響がないということである。全体としてバランスのよい展開を考える必要があると思う。

おわりに

思いがけず真摯な書評をいただいたので、余計なことを含めて書きすぎてしまったかもしれない。本書のなかで大元の図書館情報学に当たる部分は全体のごく一部で、中心は歴史学、哲学・思想史、教育史・教育哲学、文学史・文学理論などに拡がっている。自分にとって他分野の方からのレスポンスをいただくことも経験した。また、そうした交流によって新しい分野が開けていることも分かってきた。21世紀も20年がすぎて本格的な新世紀の相貌が現れつつある昨今であるが、知の状況を俯瞰的に見る方法論を探るのが楽しいという実感はある。

『アーカイブの思想』の書評(2)

 前回の書評紹介に続けて、その後に出た書評を紹介し、若干の応答をしておきたい。

書評者:福島幸宏氏『図書館界』(日本図書館研究会刊)73巻2号, 2021年7月 p.146-147. 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/toshokankai/73/2/73_146/_article/-char/ja/ (エンバーゴによって現在は会員以外は半分しか読めない。発行1年後にエンバーゴが解けたら全部読める)

自主的な研究会で直接コメントしていただいたものと基本的に同じ内容なのでそのときの回答文書を転載しておく。なお、福島氏は現在、慶應大学の文学部図書館・情報学専攻に所属している。それも奇しくも私が出た後の机を使っておられる。部屋ではなく机である。というのは、この専攻の教員が大部屋にいることは知る人ぞ知ることであり、それはここがジャパンライブラリスクールだった頃からの伝統である...

応答 1

 東アジアと日本との関係について、西洋中心主義ではない見方をすることの重要性は言うまでもないのですが、私のとりあえずの役割は日本の学問が20世紀までに依って立っていた基盤をもう一度点検して、そこにアーカイブなり図書館なりを位置づけをすることにありました。それはお話ししたように、一部の分野を除くと大学での学問が西洋の学問を基にして形成されてきたからです。そこで、古代ギリシア以来の人文学の系譜を記述し、その系譜のなかで使える概念装置を選択し、それを基にして日本の近代化を点検するという方法をとりました。ウォーラーステインは必ずしもヨーロッパ中心主義ではなくて歴史的に大きな地域ブロック間のダイナミックな関係を描き出そうとしていましたが、資本主義の発展を前提としている限り、ヨーロッパ近代の拡張という視点は避けられなかったわけです。それを本書で扱っている文化領域に当てはめて議論できないという批判はありえると思います。しかしながら、本書の目的がアーカイブに対する政策的な視点を強調するところにあったので、国民国家の成立とそこでの教育政策なり文化政策の(西洋的発展を基準にした)歪みということにならざるをえませんでした。

 これが東洋的なあるいは中国的な統治思想を前提としたアーカイブ構築を考えると、確かに官が効率的に情報操作をするような在り方がもう一つのモデルとなり、日本の政府が目指しているのも実はそうしたもののような気もします。とすると、西洋対東洋の統治思想の対立という視点から再度見直すことも可能かもしれません。福澤諭吉を思想的淵源とする慶應義塾での授業であり、そうした問題設定は次の課題として西洋的なものを前提として語ったというところです。

2. 日本—中国—西洋という3層構造という図式はかなりナイーブであまり学問的な議論になじまないものだと思います。これはイントロダクションで学生に対して扱う領域がきわめて広汎であることを告知するためのレトリックということにさせてください。

応答2

国民国家から帝国主義の時代のナショナルな制度と文化を中心に語ったのはそのとおりです。これもまた戦後政治の枠組みを意識すればそこからスタートせざるを得ないからです。バブル崩壊=冷戦終了の後の状況を考えると、「次」の考察が十分でないことも自覚はしています。ただ、それについては迷いがあるのですね。

西洋的な知の伝達モデルが結局のところ産業社会を生み出し、経済成長が個人の幸福と結びつくという神話になったわけですが、その先に何があるのかということです。この神話は中国を典型として専制主義+資本主義の組み合わせを生み出しています。これは日本の近代化過程を参考にしているわけですが、現在の日本は西洋的な市民主義的デモクラシーとそうした統制されたデモクラシーの中間にあり、今後、どちらを目指すのかについて明確なビジョンが得られていません。

他方、GAFAのようなグローバルなICT資本はデジタル・プラットフォームを駆使して国家を超えた新しいネット生活を提案しつつあります。図書館情報学はGAFAの存在の産みの親的な位置付けでもあったはずだということを本書中に少し触れました。人と情報を結びつけるという基本的な枠組を考えればこの問題にもっとコミットしてよいと思います。たとえば、出版と図書館との関係は結局のところ、書かれたものを管理するシステムの経営管理に帰着するわけで、私は前から出版流通の経済学が必要と言ってきたのですが、ネットワーク市場と公共経営をどのように組み合わせてモデル化するかということに帰着します。

迷いの二つ目は、本書では知と言葉の関係を議論してきたのですが、マルチメディアをどう考えるかです。19世紀後半以降の大衆社会の発現においては、読書やジャーナリズムよりも映像や音声、写真等のマルチメディアが無意識に働きかけていることが無視できなくなっています。これはメディア論でさんざん言われてきたことです。今の若い人は本を読むよりも効率的にニュースサイトやSNSの書き込みを読み、YouTube等の映像を行動の参考にしています。書き言葉の問題は19世紀で終了して、知はマルチメディアの作用によって媒介されるものとみるべきなのかという問題です。

三つ目は、日本的あるいはアジア的なロゴスとパイデイアの伝統をどのように考えていくかということです。これが地域的な知の在り方とも密接にからむのでしょう。文章中には、アルファベットとカナ・かな・漢字の関係とか言霊とか身体知などについて触れてはいますが十分な展開ができませんでした。一定の見通しはあるのですが、いずれ取り組みたいテーマです。







2021-09-03

『国際バカロレア教育と学校図書館—探究学習を支援する』の刊行(10月30日発売)

 
カバーイラスト|タカハシタケシ/TAKESHI TAKAHASHI
カバーデザイン|松本泉/IZUMI MATSUMOTO

アンソニー・ティルク著『国際バカロレア教育と学校図書館——探究学習を支援する』(根本彰監訳、中田彩・松田ユリ子訳)学文社, 2021.

原著:Anthony Tilke, The International Baccalaureate Diploma Program and School Library: Inquiry-Based Education, Libraries Unlimited, 2011.

(Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4762031062

が刊行されました。(店頭に並んだのは10月30日からです)

本書の著者アンソニー・ティルク氏は現在はオランダのハーグ・アメリカンスクールにいますが、かつて横浜インターナショナルスクールに8年いたことがある日本通の学校図書館員です。この著書は国際バカロレアと学校図書館の関係について概説した唯一の図書であり、国際バカロレアのカリキュラム展開において学校図書館および学校図書館員の存在が不可欠であることを理論的、実務的に記述しています。

11月23日開催の公開シンポジウム「国際バカレアと学校図書館」の詳細については→こちら

シンポジウム参加者には1割引(送料・消費税込2200円)での特別販売を行います。(10月13日追加)

次は本書掲載の「監訳者による序文」と目次です。


2021-06-03

「アーカイブ」と「アーカイブズ」は違う

『図書館雑誌』2021年5月号の「窓」欄に表記の文章を掲載してもらった。

著者としてはこれ以上言うことはないのだが、図書館現場でこれがどのように受け止められているのかについての感想や意見を聴いてみたいと思う。





2021-05-01

オンライン資料の納本制度の改定について(2)

 オンライン資料の納本制度についての私論

前項に続いて、このオンライン資料やデジタル資料の利用についていささかの私見を述べておく。関連の論考として、根本彰「知識資源のナショナルな組織化」(根本彰・齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020, p134-162)があるので併せて参照されたい。なお、オンライン資料以外の、従来の納本制度の対象資料と対応するデジタル資料の納本制度の必要性については最後に述べておきたい。

NDLのデジタル化戦略

デジタル資料を梃子にしてNDLの現代化を図るというのは、かつて2007年から2012年にNDL館長を務めた長尾真氏が取り組んだものである。長尾氏の館長時代にNDLは資料のデジタル化、納本資料に電子出版物やオンライン資料を含めること、そしてインターネット資料の自動収集制度を始めた。これらは従来の図書館が対象とする資料の範囲をデジタル資料の方向に大幅に拡張することになっただけでない。国立国会図書館法改正だけでなく著作権法の改正も行っているように、官庁、自治体、出版社、著作者を巻き込んだかなり大きな制度改革である。

まずインターネット資料の自動収集であるWARPは国および地方自治体の機関のみ対象だが、ネット上で発信した政府情報や自治体情報を定期的にアーカイブ化を行って蓄積するものであり、こうした情報の保存・公開という意味できわめて重要である。そしてオンライン資料という新しい概念を用いた納本制度というのは、たぶん苦心のアイディアなのだと思われるが、ネット上のデジタル資料で従来の図書館資料のイメージにもっとも近い図書と逐次刊行物形式のものを納本対象にしたということだ。これが重要なのは、民間の出版社にとって紙からデジタルへの移行における試金石になるということだ。

というのは、従来紙の図書は刊行したものの1部をNDLに納本するのは取次が代行しており、あまり気にかけずに済んでいた。納本制度が始まったばかりの頃には戦前の検閲制度の記憶も濃厚にありさまざまな抵抗があったものだが、今のような仕組みになって安定的に運用されていた。が、今回、有償オンライン資料の納入が義務化されることで、電子書籍や電子雑誌の納本について改めて一からすべてを議論しなければならないだろう。その際に、改めて納本制度とは何なのか、国はなぜ民間が出版した資料の納入を義務づけているのか、さらには納入した資料はNDLでどのように利用されるのか、次に述べる長尾氏の構想とどのような関係になるのかなどについて問われるはずである。

長尾構想とは何か

長尾氏は、館長就任後間もない2008年に私案として「電子出版物流通センター」構想を発表した。それは次の図のようなもので、ここには少々修正したかたちで2015年に再度提示されたものを掲げている。出版社から納本された出版物をNDLがデジタルのまま受け取り「デジタルアーカイブ」に置かれる。カッコ付きの納本制度としてあるのはまだ法制度が整っていないからである。紙のものはデジタル化されて「デジタルアーカイブ」に納められる。これは館内の利用者が利用できるし、公共図書館等を通じて館外の利用者にも利用できるようになる。また、デジタルアーカイブから新たにつくられる「電子出版物流通センター」にデータが「無料貸し出し」されて、ここが「販売」「有償貸し出し」「権利者へのアクセス料金の配分」の業務を行うことになる。要するに、NDLの外側にできる電子出版物流通の拠点が納本制度によって集められた電子出版物をもとにビジネスを行う拠点になるということである。

長尾真「知識情報の活用と著作権」『デジタル時代の知識創造』角川学芸出版 2015 p30 より


立法府に所属する一見すると地味な図書館がこのようなデジタルコンテンツの収集・提供を行うという発想が型破りでありインパクトはあった。だがこれは館長の私的な構想であって、実際にこの図のように事が進展したわけではない。

まず、オンライン資料の納本制度についてはようやく今回の制度改革でカバーされるようになった。この図の左側の国立国会図書館の部分については構想後13年目にして実現されようとしていると言える。また、(1)で述べたように著作権法改正の議論が進んでいて、デジタル資料の国民への無料での直接送信や公共図書館等を経由しての提供はこの図が示すもの以上に進展することになる。他方、「電子出版物流通センター(仮称)」はつくられなかったし、今後もつくられる様子はない。

長尾構想は、日本で電子書籍や電子雑誌の発行が遅れているからNDLが率先して納本制度を梃子にして国民への安価な提供システムをつくろうという趣旨で提案されたものである。だが、電子書籍市場は今でもコミック中心であり、あとは紙で刊行されたものが少し遅れて電子書籍化されて市場に登場しているが、それは紙の出版物の一部である。電子書籍市場において、納本制度はこれまでは無償でDRMなしの出版物のみが対象であったから目立ったものとはなっていない。また、紙のものはNDLに直接納本されるのではなくて、取次が代行しているから、官主導で流通を促進するという議論が出版関係者にピンとこなかっただろう。

雑誌は学術雑誌は確実に電子雑誌化しているが、それ以外の商業的分野では紙ベースの雑誌市場は縮小されつつある。休刊になった雑誌記事の一部は新聞社や出版社のサイトからのオンライン記事として発信されたり、新書版の書籍として出版されたりしている。図書も雑誌もまだ成熟した電子出版物市場はつくられていない。遅れた理由ははっきりはしないが、コミック以外の電子書籍の市場形成が十分ではないことを意味するのだろう。そこには、図書館での利用を前提とした法人市場がうまくつくれていないことも含まれる

民間オンライン資料の納本制度の成否

出版関係者には電子書籍や電子雑誌の納本制度について、すでに一定のイメージができあがっているように見える。それは電子出版物の納本はやっかいだということである。というのは、紙のものなら1部納本してそれがNDL内で利用されてもあまり販売に影響がない。むしろ確実に保存してくれるというメリットがある。しかし、電子的なものは納本されればそれが容易に外部に発信可能になる。デジタル出版物は所有権、著作権にもましてそれをどのように使うかのコントロール権が重要なのだが、DRMをはずすということはそれを他者に与えることに等しいから問題になる。

しかしながら、オンライン資料の館外送信についてはまず著作権上の問題がある。外部送信のためには著作権が切れているものが対象でなおかつ絶版になったものしかできない。ここにTPP協定により著作権法が改正され、保護期間はかつて著作者が亡くなってから50年だったものが2018年末から70年に変更になった。これにより、NDL所蔵のデジタル資料の著作権は1968年までに亡くなった著作者のものについてはフリーになったが、1969年から1989年までに死去した著作者の著作については50年差の2019年以降にフリーになるのではなくて、70年後の2039年以降に1969年から順に1年ごとに繰り下がってフリーになっていくことになる。つまり、著作権法で保護される期間が20年間延長されたことの影響は大きい。このことを出版社やベンダーは十分に理解していないのではないか。(*下線部は最初の稿で間違っていたので修正した。2021/05/06)

次に電子書籍への移行により、「絶版」という概念がなくなりつつあることも指摘しなければならない。かつてなら印刷された部数が売れて在庫がなくなった段階で増刷しなければ絶版とされたが、それでもどれが絶版なのかは曖昧だった。ところが電子書籍はデータがあればいつでも販売可能だから絶版という状態はないことになる。だから電子書籍化され販売されている限り、それがNDLから無料でインターネット上で利用可能になることはありえないことになる。

以上のことから、著作権保護期間延長があり、電子書籍化によって絶版がない状況がつくられるとオンライン資料として納本されたものも外部送信しにくくなり、出版社や著作者にとっては不都合な状況を避けることができることになる。紙の本のように取次一括で納本されるのでないから、出版社や著作者の心配ないし誤解をていねいに解かなければなかなか納本は進まないだろう。このあたりについて、報告書は、金銭的補償にこだわらず、政策的補償に相当するインセンティブが必要であるとか、著作の真正性の証明、データバックアップ機能、統合的検索サービスから本文情報へのナビゲートがインセンティブとして期待されるというように、納本することが著者や出版社にとって著作物の文化的な保全をもたらすものであることを述べている。このあたりも含めてオンライン資料の納本の重要性をどの程度説得的に示せるかにかかっている。

オンライン資料以外のネット上デジタル資料

最初に述べたように、納本制度は伝統的な9種類の資料を対象としていた。再度示すと、

 一 図書
 二 小冊子
 三 逐次刊行物
 四 楽譜
 五 地図
 六 映画フィルム
 七 前各号に掲げるもののほか、印刷その他の方法により複製した文書又は図画
 八 蓄音機用レコード
 九 電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により文字、映像、音又はプログラムを記録した物

である。今回の改定で1の図書と3の逐次刊行物に相当するオンライン資料が納本の対象となることになったが、それ以外のものでデジタル化されてネット上にあるものは対象にならないのかという問題が残されている。2の小冊子と7の複製した文書又は図画というのは曖昧な概念で、ひとまず図書と逐次刊行物に含まれると考えてよいだろう。しかし、それ以外の楽譜と地図は別の資料であり、それらのデジタル版は多様な展開を示していると考えられる。また、6の映画フィルムと8の蓄音機用レコードのデジタル版は9に含まれることになる。総じて、9に該当しインターネット上でアクセス可能になっているものをどう扱うかという問題である。おそらく9の概念をつくったときに、それがネットワーク上に置かれているものについてどう扱うかという問題意識はあったものと思われるが、今回までの改定ではそれについては触れてこなかった。

この問題については、最初からこれをNDL一館でやることは難しいのではないかと考える。たとえば、6の映画フィルムについては、国立国会図書館法の附則で納入を免ずるとあってNDLは納入機関になっていない。実質的には東京国立近代美術館国立映画アーカイブ(旧名:フィルムセンター)が1970年に開設されて以来こちらが、映画資料の保存機関であった。(http://archive.momat.go.jp/FC/filmbunka/index.html)つまり図書や逐次刊行物は図書館が扱うのに適するが、それ以外のマルチメディア資料についてはNDLが納本図書館という原則そのものに無理があったというのは早い時期から知られていたのである。

ちょうど昨年の8月からジャパンサーチが本格稼働していて、これは国や大学等の博物館、資料館、公文書館、資料館、図書館の資料(現物、デジタルアーカイブ)の横断的サーチを行うものである。ここには国立映画アーカイブも含まれている。オンライン資料の納本についても、「リポジトリ」で扱えるものはそちらに委ねるという方針が採用されている。これを延長すれば、マルチメディア資料およびそのデジタルアーカイブについてはそれぞれの専門機関が扱い、NDLは印刷物を原形とするものを対象とするというような切り分けによる分担の制度が必要になっているように思われる。

最後に、残された問題として、ネット上のコンテンツの納本制度をどう考えるかがある。映画の法的納本制度が免除されていたわけだが、マルチメディアの各種資料について改めて納本制度をつくることが可能なのか、あるいはそれは必要なのかということである。複数機関での分担アーカイブを前提とするとすでにそれは難しくなっているように思われる。
 

オンライン資料の納本制度の改定について(1)

 今年の3月25日に、国立国会図書館(NDL)の納本制度審議会が開催され、その場で「オンライン資料の制度収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」が承認された。この審議に参加した者として、これが何を意味するのかについて解説し、さらに今後の課題について述べておく。

答申のURL

納本制度審議会HP

これは、10年以上前の国立国会図書館長の諮問「平成 22 年 6 月 7 日付け納本制度審議会答申『オンライン資料の収集に関する制度の在り方について』におけるオンライン資料の制度的収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」(平成 23 年 9 月 20 日)に対する答申であり、中間答申「オンライン資料の制度的収集を行うに当たって補償すべき費用の内容について」(平成 24 年 3 月 6 日)を経て、最終的にまとまったものである。なぜ、そんなに時間がかかったのかだが、これはNDLの中長期的な経営戦略と関わっている。じっくり時間をかけて関係者と協議しながら実績をつくり実現させる必要があったということだと思われる。これを理解するには、よく使われる次の図を見るとよい。これは納本制度に関わる資料の配置を示したもので、全体としては図の上に矢印で示してある「有形」と「無形」の区別と右にある「公的機関発行」「民間発行」の区別が重要である。今回の制度変更は従来のオンライン資料の納本範囲を拡げ、そのための合意づくりをしたということにある。















背景

 NDLの納本制度は以前はパッケージ系の資料のみを対象とするものだった。それがこの図の「有形」とある左側の黄色の部分である。これも創立まもない時期から国立国会図書館法の24条から25条の2にある次の資料群(これが一番左の「伝統的な出版物」)

 一 図書
 二 小冊子
 三 逐次刊行物
 四 楽譜
 五 地図
 六 映画フィルム
 七 前各号に掲げるもののほか、印刷その他の方法により複製した文書又は図画
 八 蓄音機用レコード

に加えて、2000年の同法の改正で次の項目を追加している。

 九 電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により文字、映像、音又はプログラムを記録した物

つまり、その時点で電子的なパッケージ系資料を納本対象としたわけである。これは、CDやDVDの形式で文字、音声や映像、そしてプログラムを記録する電子資料が現れて出版物として認知されたことを示している。この当時すでにインターネットが使われていたが、当初は電子メールや電子データ、HTMLによる文字、画像、音声を組みあわせたウェブサイトのようなものが中心であり、まだ出版物に対応するものは少ないと見なされていた。それが、徐々に、学術論文や電子出版物の交換のためのリポジトリが置かれたりするようになり、インターネット上にある電子コンテンツを無視することができなくなった。

そのために、NDLでは「オンライン資料」という概念を新たにつくって、インターネット上にある出版物の一部を納本対象にしようとした。図では、右の「無形」の資料のうち、赤の点線で囲まれた長方形で示されている。納本制度は国および地方公共団体の出版物と民間(私人)の出版物を分けて収集している。これには歴史的経緯があるがここではその議論はしない。国と地方公共団体の無形の資料については、「インターネット資料収集制度」により定期的に自動収集するソフトウェアWARPが動いていて、これによって収集できている。これに対して、民間のものについても収集が必要ということで、「オンライン資料」について平成23年(2011年)館長諮問で、それに翌2012年に中間答申をしたものがこれまでの制度状況である。オンライン資料は、もともとの館法24条から24条の2にある伝統的出版物の「一 図書」「三 逐次刊行物」に当たると考えられる。

オンライン資料収集制度

インターネット等で出版(公開)される電子情報で、図書または逐次刊行物に相当するもの(電子書籍・電子雑誌等)が「オンライン資料」で、NDLでは、2013 年 7 月私人が出版したオンライン資料のうち、無償かつ DRM(技術的制限手段)の付されていないオンライン資料を収集することにした。これが図のオレンジ色の長方形のうちの「A 無償出版物(DRMのないもの)」の部分である。それ以外のオンライン資料については、収集や補償の在り方に検討を要することから、当分の間、国立国会図書館法の規定により、国立国会図書館への提供を免除することになった。だから法的には本来AからDまでのオンライン資料全体が納本の対象だが、検討期間を設けて一番問題がないAの部分の収集を行ってきたということができる。

今回の改正は、さらにB〜Dの部分を納本対象にするものである。いくつかの点について議論があった。

 収集対象について

現在でも収集対象となる無償DRMなしのオンライン資料は外形基準を設けて特定のコード(ISBN、ISSN、DOIのいずれか)が付与されたもの、又は特定のフォーマット(PDF、EPUB、DAISYのいずれか)で作成されたものとしている。これらはパッケージ系の出版物がもっている形式に近いものを選んでいることは明らかである。そして、今回の改正でもこの二つの基準はそのまま適用することになっている。

ここで若干議論になったのは、出版社や報道機関のオンラインニュースサイトやジャーナリズムの記事発信サイトである。新聞は今でも紙のものが出ているからニュースサイトはさし当たってはいいとしても、かつてなら週刊誌や月刊誌で報道されていた記事の多くは現在は新聞社や出版社のサイトから発信されている。たとえば朝日新聞社の月刊誌『論座』は2008年で休刊になり、2010年からWEBRONZA(2019年から「論座」)で発信が始まっている。当然、NDLには紙版のものは入っているがネット上のものは蔵書になっていない。ネット上の「論座」がオンライン資料かどうかだが、上記のコードもなければフォーマットとしてもHTMLであり、どちらにも該当せず今回の納本の対象にならないことが確認されている。

国立国会図書館法25条3にあるオンライン資料の定義は「電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により記録された文字、映像、音又はプログラムであつて、インターネットその他の送信手段により公衆に利用可能とされ、又は送信されるもののうち、図書又は逐次刊行物(機密扱いのもの及び書式、ひな形その他簡易なものを除く。)に相当するものとして館長が定めるものをいう。」とある。それに続いて納本の目的としては「文化財の蓄積及びその利用に資するため」とある。雑誌『論座』が「文化財」として蓄積され同館の蔵書として利用されていたのに対して、その後継の「WEBRONZA」、そして「論座」にある記事が「文化財」ではないと言い切れるのかということである。パッケージ系の逐次刊行物の形式を重視した基準をあてはめればオンライン資料ではないとしても、内容面や文化財の蓄積・利用という目的面から考えて、もっと議論が必要ではなかったかと思われる。

報告書では、オンライン資料全般について出版流通状況の変化等に応じて不断に見直すことが重要であるとされている。今、『論座』を例にとって述べたが、報道機関、言論機関は普段から紙メディアとオンラインメディアを組み合わせて発信している。そのなかで、どれが「文化財」として納本されるべきなのかを含めて、著作者、出版者も含めて議論を継続する必要があるのではないか。なお、市場において DRM が付された状態で流通しているオンライン資料についても、DRM が付されていない状態のファイルを収集するということになっているが、そのためには出版社ないしベンダーの協力なしに進めることは難しいから、今後さまざまな議論を積み化される機会は増えるのではないかと思われる。

収集除外について

もう一つ議論されたこととして、営利企業で構成される組織が運営するリポジトリを、国立国会図書館法その他の適用法規の定めるところにより収集対象から除くことができるものとした点である。ここでいうリポジトリとはオンライン資料をまとめて蓄積管理して外部に提供するところを指している。実は、従来から学術情報の世界では「機関リポジトリ」と呼ばれて大学や学会が雑誌論文を提供していた。それらをまとめて扱っていたJSTやNIIは国の機関であるが、これは納本対象にせずに例外的にそちらに委ねるという分担の政策を採用してきた。今回これに準じて、長期継続性、利用の担保、コンテンツの保全の観点からリポジトリとして認定できるかどうかをあらかじめ確認することが議論された。たとえば電子書籍の販売サイトなどもこのリポジトリに該当するとして納本を回避するようなことがないようにしっかりとした運用を行うということである。併せて、コンテンツの散逸防止やメタデータ連携についても覚書等により担保する必要があるとされた。これらはすでにNDLが全部のオンライン資料を抱え込むのではなくて、しっかりとした運営体制をもったところと連携しながら文化財の蓄積保存を行うということである。

利用等について

納本された資料は有形の図書館資料と同等の利用(同時アクセス制御のうえ館内閲覧、著作権法で認められる範囲内のプリントアウト)は出版ビジネスの阻害や権利侵害には当たらないとして、これまでと同様の館内利用等を行うものとしている。 出版業界には、これが将来的な利用拡大につながるのではないか、特に外部送信に対する懸念や不安がある。これは、同じ時期に文化審議会著作権分科会で、NDLのデジタルコレクションのインターネット上での個人向けの送信を拡大することが議論されていたこともあるだろう。電子書籍の提供についてはNDLがらみで進められているからである。なので、 関係する権利者の利益保護と一般利用者の利便性向上という両面への配慮が必要であることが報告書でも述べられている。また、有形・無形を問わずに日本国内で発行された出版物を統合的に検索する仕組みやアクセシビリティへの配慮が必要である。これは納本制度が国内で出版されたものの網羅的記録となる全国書誌のベースにあることについてオンライン資料についても変わらないということである。

補償について

今回の答申はこの補償の部分が中心であるが、小委員会でも審議会でもあまり議論はなかった。それは、たぶん事前に関係者間で話し合いが行われていて合意があったからなのだろう。しかしながら、全体に補償は行わないという原案が示されたときに少し驚いたことも確かだ。紙の出版物については定価の半額までの補償金が支出されることになっている。これは納本制度が始まった当初、民間のものについて、戦前の検閲のための納本ではないのだから、義務的な納本を要請するのに補償無しはありえないという議論があったことから来ている。それが、「ファイル本体について提供するための複製費用は軽微であり、また、有形の図書館資料と同等の利用を前提とすれば特別な経済的損失は発生しないため、補償を要しない。提供に係る手続費用について、最小限の作業(メタデータ付与、送信等)に限れば軽微であり、また、DRM が付される前のファイル提供を前提とすれば DRM 解除に係る特別な作業は発生しないため、補償を要しない。」となっている。ただし記録媒体に格納して送付する場合の媒体費用と送料については、補償が必要である。要するに実際にコストがかかるかどうかで考えれば全体に無視できる費用しかかからないという考えによる。

これは紙資料の印刷や製本と違って電子的な資料に複製や送信の費用がかからないというところから来ているのだろう。経済学的な限界費用という観点からすると論理的な表現なのだろう。しかし、出版のための費用という視点から考えると制作にかかる費用は印刷、製本、輸送などの物理的なものの経費は全体の一部にすぎず、多くは人件費になっているはずであり、それは電子的資料についても同様である。だから一部余分につくったり送ったりする費用という考えをとらずに、最初から全コストを発行部数で割り、その一部を補償金にするという考え方もあったのではないだろうか。

だが、電子資料についての補償金がいかにあるべきかを考えるには、従来の出版物と異なった考え方をとるというのが、すでに2012年の中間答申であった考え方のようだ。だから、制度収集の実効性を高めるためには、金銭的補償にこだわらず、政策的補償に相当するインセンティブが必要であるとか、著作の真正性の証明、データバックアップ機能、統合的検索サービスから本文情報へのナビゲートがインセンティブとして期待されるというような報告書の記述はそのことを示している。 (つづく)




2021-04-28

『アーカイブの思想』の書評

 今年の1月に刊行された『アーカイブの思想』はおかげ様で多くの読者を得つつある。あえてタイトルに「図書館」を入れないで出版してもらったことで版元には心配を掛けたが、それ自体は杞憂に終わった。確かに「図書館市場」というのがあって、そこに焦点を当てれば一定の部数が捌けるのだろうが、今回はこちらの我が侭を通させてもらった。4月に増刷されて当初の目標の販売部数は確保できたものと思う。

最初に、『週刊読書人』4月9日号に掲載された、「アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす 対談=根本彰・田村俊作『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に」を紹介しておく。

https://dokushojin.com/reading.html?id=8084

田村俊作さんは慶應の図書館情報学専攻にずっとおられた方で辞められた後に、私が入れ替わりで入った経緯がある。その意味で互いによく分かっている者同士の話し合いということになった。田村さんはレファレンスサービスを中心に図書館現場のことをよくご存じでありその点からの話しのふりがあり、私はそれに対してそれをもっと広い観点から応じるという感じで展開した。この号全体が図書館特集という感じになっていることもあって、図書館周りの話しで終始したと思う。そこに地域資料、読書、独学など日本独特の知のシステムの問題について少し言及した。

新聞に出た本書の書評として次のものがある。

日経新聞(2/27) 評者:佐藤卓己(京都大学教授)

評者の佐藤さんは京大の教育学研究科でメディア史を担当している方で以前より交流がある。そのためにこの書評も「アーカイブ」のメディア的側面について紹介するものになっている。GAFAがいずれもbookにこだわりをもっていて「デジタル文明の基礎が書物であること」や、文書(記録)は歴史に関わり原点に視線をたえず引き戻すものであるのに対して、書物は道の読者にコピーを広めるという意味で思想形成に関わるもので両者は逆向きのベクトルになっていることなどが上手に提示される。このあたりは筆者自身でもユニークな視点と感じていたところであり、このように書いていただくとありがたい。また、幕末の「会読」がフンボルト理念のゼミナール方式と似ていて、いずれも学ぶ内容よりも学ぶ方法を重視しているということで、こうした観点で一貫している本書は「知の系譜学」と言えようかと評して終わっている。

山陰中央新報(4/3)沖縄タイムス(4/3)、岩手新報(4/4)、下野新聞(4/4)、新潟日報(4/4) 評者:永江朗(ライター)

共同通信によって地方紙に配信されているもので、他にもあると思われるが未確認である。著者のフリーランス・ライター永江さんは某会議でご一緒させていただいているなじみの方である。「アーカイブ」ということばをよく聞くようになったが、古代ギリシャに遡るもので、人間と言葉(あるいは情報)との関係の長い歴史がその背景にあるという描き出しから始まって、本書の副タイトル「言葉を知に変える仕組み」が秀逸としている。そして西洋で、図書館が知を共有するための機関として機能してきたのに対して、日本ではただで本を借りる「無料貸本屋」というレッテルが貼られているように、「過去」をうまく知として活かしていない。本書全体が知をどのように活かすかというテーマで一貫していることを見抜いていらっしゃる。


日刊ゲンダイ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/288115 (4/20)

こちらは今でもネット上で読むことができる匿名の書評。「アーカイブとは何か。本書は簡潔に「後から振り返るために知を蓄積して利用できるようにする仕組みないしそうしてできた知の蓄積のこと」という。要はしっかり、きちんと残して、後でいつでも使えるようにするということ。そこに初めて本物の「知」は生まれるのだというわけだ。この伝でいくと近ごろの役人など「痴」もいいところだろう。」で始まる。見方としては永江さんの書評と一緒だと思われる。


公明新聞電子版 2021年06月28日付(創価大学副学長・教授 神立孝一評 ) 

https://twitter.com/rv68SqkoDVoe0CS/status/1409245404621795331/photo/1

著者は創価大学で日本経済史を担当している方で、近世史料にも詳しいようだ。西洋思想史をたどりながら日本近代と接合させたストーリー展開を紹介した上で、知と知がネットワークでつながる仕組みであるアーカイブを活かそうという本書の趣旨を次のように述べている。「「アーカイブの思想」をうまく利用することで、現在を生きる我々は、知の営みをより充実させ、豊かにしていくことができるのではないか。本書は、こうした基本的な課題を提起する書物であり「アーカイブ」なのである。」とある。


以上、対談と4つの新聞書評を紹介した。他にもネット上の書評はいくつか出ている。これまで確認できる限りでは、本格的な学術的書評として『図書館界』73巻2号に福島幸宏さんの書評と『日本史学集録』(筑波大学日本史談話会) に中野目徹さんの書評が出たので今後応答していく予定である。筆者としては、このような見方が図書館情報学だけでなく、アーカイブズ学、歴史学、哲学・思想史、メディア論、教育学など本書が言及している人文系の領域でどのように論じられるのかについて関心を寄せている。個々によく知られているものを「アーカイブ」という観点で一貫して系譜を見てみたというのが本書である。だから人によっては物足りないように見えるかもしれない。しかしながら、本書はまさに「アーカイブ」という見方が従来のディシプリンを超えるものであることを主張しているものである。

今後は理論的な整理をしてみたい。実はアーカイブは20世紀後半以降にフランスの思想家達によって思想として論じられていたし、それについてほんの少しだけ言及してもいる。今後、余裕があれば理論面にとりくみ図書館とアーカイブの関係についてさらに論じることを考えている。基本的には、本書ではフーコーのディスクール、エノンセ、アルシーヴの区別の議論を踏まえているが、さらには、デリダのアルシーヴ論、そして、リクールのアルシーヴ論などとの関係を自分なりに整理しておく必要がある。また、ところどころで触れている声と文字の関係、言霊論、オーラルな文化あるいは身体性との関係、エクリチュールの現代的展開(野間秀樹、下田正弘など)、他方、教育コミュニケーションにおける構成主義的立場の問題など、考えてみたいことは多い。これも、ここまでやってようやく関係が見えてきたということでもあるので、今後少しずつ進めたい。

追記:今後の課題で英米圏の図書館論についても言及しておくと、Charles B. Osburn, The Social Transcript: Uncovering Library Philosophy (Libraries Unlimited, 2009)という本がある。副題にあるように図書館の哲学を整理した本で、なかではピアース・バトラー、ジェッシー・シェラ、ランガナタンなど現代図書館学の古典を検討した上で、図書館哲学は確立されていないという。そこで手がかりにするのは、アメリカの経済思想家ケネス・ボールディングのsocial scriptという概念である。transcriptは転写などと訳すが、script(台本、脚本、原稿、筆記)にtransをつけたもので、要するに文化が書かれたものによって媒介されることを指す。ボールディングが1956年に書いたThe Image: Knowledge in Life and Society (University of Michigan Press)は1962年に誠信書房から『ザ・イメージ』という邦題で翻訳も出ている。このなかで、当時の文化人類学の知見なども活かしながら社会において知が言葉によって伝えられる際に書かれたものの役割が重要であることを強調した。オズバーンはボールディングの議論を再評価して、図書館についてのみならず社会における知の伝達を論じている。その意味で、私が使ったアーカイブの概念と近いことは確かで、きちんと読んでみたいと思う。ただし、書評(by Wayne Bivens-Tatum, portal: Libraries and the Academy,11(1), Jan. 2011, p. 584-585, http://muse.jhu.edu/journals/portal_libraries_and_the_academy/summary/v011/11.1.bivens-tatum.html)にあるように、この本は多分野の議論を参照しているがいささかまとまりに欠けるところがあるように思われる。ボールディングが文化人類学の知見を参照して、西洋文明 vs. 「未開文明」の対抗軸を枠組みにしているのに対して、単に、図書館の作用を抽象化して示すだけでは本質が見えてこないのではないかと思われる。

公開 2021年4月28日 10:30

改訂 2021年4月28日 17:00

第2改訂 2021年6月3日 11:30

第3改訂 2021年6月28日 10:13

第4改訂 2021年7月15日 17:48

第5改訂 2021年9月4日 11:19


<追記> 2022年9月20日(火)

本書の書評について次の3回のブログで紹介している。

 2021年9月4日

   2021年9月4日

 2022年9月16日






2021-03-15

「サブジェクトライブラリアンの将来像」に参加して

本日3月15日、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門の主催で標記のシンポジウムがオンラインで開かれ参加した。この図書館は昨年10月に開設され、この4月からここに3名の「サブジェクトライブラリアン」が配置されるということである。東京大学にこうしたポストができるというのは画期的なことであるだろう。

http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/mh4

プログラム

[ 第1部 ]
9:30 〈開会の辞〉 蓑輪 顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
9:35 〈アジア研究図書館の紹介〉 小野塚知二(アジア研究図書館館長、経済学研究科教授)
9:50 〈趣旨説明〉 中尾道子(U-PARL特任研究員)
10:15 〈報告1〉 吉村亜弥子(シカゴ大学図書館日本研究ライブラリアン)
■  米国サブジェクト・ライブラリアンの現状:「博士号オンリー」日本研究専門ライブラリアンによる現場報告
10:35 〈報告2〉 福田名津子(松山大学人文学部准教授)
■  通訳としてのサブジェクト・ライブラリアン:図書館の言語、研究の言語
10:55 〈報告3〉 渡邊由紀子(九州大学附属図書館准教授)
■ 九州大学大学院ライブラリーサイエンス専攻による大学図書館員の人材育成
11:20 〈来賓特別報告〉 三宅隆悟(文部科学省研究振興局参事官(情報担当)付 学術基盤整備室長)
■ 大学図書館に対する期待 -大学図書館を巡る政策動向の視点から-
11:35 〈コメント1〉 大向一輝(人文社会系研究科准教授)
11:45 〈コメント2〉 北村由美(京都大学附属図書館准教授)

[ 第2部 ]
12:05 〈パネル・ディスカッション〉
モデレーター: 蓑輪顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
パネリスト : 小野塚知二, 吉村亜弥子, 福田名津子, 渡邊由紀子, 大向一輝, 北村由美
12:50 〈閉会の辞〉 藤井輝夫(理事・副学長)

<感想>

最初の主催者側の説明で、新しいポストは博士号をもっている人を対象にしており、その意味で研究者とアジア資料を結んで研究者的視点と図書館員的視点の双方を生かした役割を果たすことが強調された。ただ、これから始まるので、すでに動いているところの関係者から実態や課題などを聴取したいというのがこの会の目的だったようだ。今回の登壇者のうちサブジェクトライブラリアンとしてのキャリアがあったと言えるのは最初の吉村さんと次の福田さんであり、その次の渡邊さんとコメンテータの北村さんはどちらかというと教育者的な位置づけにある図書館員であり、コメンテータの大向さんはシステム開発から図書館に関わった研究者という位置づけだ。登壇した人たちはいずれも博士号をもっていた。

最初の報告者である吉村さんは修士課程からアメリカの大学院で研究し現代民俗学の博論を書いた人で、長らくシカゴ大学の東アジア図書館で日本語コレクションのサブジェクトライブラリアンをしてきた。田中あずささんのサブジェクト・ライブラリアン:海の向こうアメリカの学術図書館の仕事でも紹介されているアメリカの事情はある程度は知られているが、生の声をきくとそれはそれで非常に参考になる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門領域とLISのダブルマスターが標準だが、主題領域の博士号しかもたない人も一定割合いるという。また、司会者からあったサブジェクトライブラリアンのキャリア形成についての質問では、多くの場合は一旦その職につけば長く勤めるのが普通であり、せいぜい一回ほかに転職するくらいではないかということだった。つまり安定した職として存在しているということである。また、なかでのプロモーションは存在しており、それは職務の評価と表裏の関係にある。シカゴの場合は、教員職と事務職員のあいだにacademic appointeeと呼ばれる教育研究の専門職があって、サブジェクトライブラリアンはその位置づけにあり待遇は悪くはないとのことだった。

福田さんは社会思想史研究で学位をとったときに、ちょうど一橋大学にできた社会科学古典文献センターの助手として採用され、10年間勤めたときの経験を話してくれた。現在は別の大学にいるのでそのポストは恒久のものではないのだろうし、お話しのなかで主題研究者としての研究時間があった方がよいという意見があり、どちらかというと研究者の意識が強い方のように伺った。それに対して渡邊さんと北村さんは、ファカルティステイタスをもった図書館員としての仕事をしている人としての発言やコメントだったと思われる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門職としてのステイタスと待遇があり、また、日本フィールドのサブジェクトライブラリアンだけで50人程度いるというから、場合によってはその間の職の異動もありうる、人材のプールが可能である。日本ではまだこうした職の位置づけは模索中であることがわかる。

そのあたりの関心は主催者も参加者も共有していたらしく、最後の方の質疑では職の在り方に集中していた。とくに「博士号をとった若手研究者の腰掛けの職」にならないかという質問については、そうでないものを考えたいというのが公式見解であったが、実際に「日本型サブジェクトライブラリアン」がどのようなものなのか、いかにして可能かについてはいろいろと考えなければならないものと思われる。

まず、職の中身がどうなるのかについては一応のものは示されていたが、主題知識をもってライブラリアンの仕事をするというときに主題知識はいいとして、ライブラリアンの仕事をどう考えるのかである。選書、資料組織化、レファレンスサービスに資料展示やデジタル化などが上がっていたと思われる。しかしながら、これらの知識や技術をどのように獲得するのかの話しがまったくなかった。採用にあたって司書資格は問わないのだろうが図書館員としてのキャリアがあることは有利になるのか、入ってから図書館情報学について何かの研修があるのか、それは自己研修に委ねるのかといったことである。実は図書館員がもつべき主題知識と研究者がもつ主題知識も同じではないはずでそのあたりの摺り合わせも必要だろう。こうしてみると、アジア研究図書館の運営の前提として、このポジションに就く人は最低、選書と展示企画ができればよいし、レファレンスサービスも含めて研究者がもつ主題知識でこなせると考えているフシがある。どうもこのあたりに、先の「腰掛け」の指摘があながちジョークですまされない憶測をもたれる理由がある。

サブジェクトライブラリアンとして仕事をしてきたシカゴ大学の吉村さんも一橋で仕事をしてきた福田さんも、その職に就く前に図書館でアシスタント的な仕事をしていたという話しがあった。また、九州大学の渡邊さんからは、今は国立大学職員は勤めながら自分の大学の大学院に入れる仕組みがあり、彼女の図書館に他の国立大学から異動してきて大学院の博士課程を修了した人が二人いるという発言があり、博士号を持った人を採用するだけでなくて、図書館員が主題分野の博士号をとるという道もあるのではないかという話しをしていたのは示唆的だった。(*追加注1)また、今日の話しにはなかったが、国内にはアジア系の文献を扱うサブジェクトライブラリアン的なポジションは国立国会図書館やアジア経済研究所にもある。他の国の機関の職員やそれ以外の専門職的人たち、また、アメリカのサブジェクトライブラリアンとの人事交流も視野にいれるべきではないか。

ただし気になる点として、この研究部門は寄付口座で運用されているのでこれらのポストは時限付きになるのではないかということがある。このあたりが「腰掛け」の議論と相まってよく分からなかった点である。シンポジウムの最後に次期東大総長になる藤井副学長の挨拶があったがその点についての言及はなかった。これが定員に組み込まれるような恒久的なものになるのかどうかは重要なポイントである。このような公開の場でサブジェクトライブラリアン構想について語ったからには、「日本型」という表現で逃げないで本気でこの職をどのように構築していくのかについて疑問に答える必要があるように思う。また、4月から採用ということだからすでに内定している人がいるはずであり、それらの人たちが実際にどのように仕事をしていくのかについて見守っていく必要がある。いずれにせよ、このポストは今後の図書館専門職のキャリア形成についての試金石になる可能性がある。(*追加注2、追加注3)

*追加注1(3月16日) その後読み返して渡邉さんの発言は、主題分野の博士号ではなくて、彼女が教鞭をとっている九州大学の大学院ライブラリーサイエンス専攻のようなところを指しているのかなとも思えた。となると、サブジェクトライブラリアンになるためには最低でも主題分野でマスターも必要になるだろう。そういえば、現在、国立大学図書館の正規職員になる人はマスターをもっている人が多いという話しがあったことも記憶している。つまり、主題分野の博士をもつという選択肢と主題分野の修士+LIS関連の博士という選択肢の二つがありうるということだと思われる。

*追加注2(3月18日) 3ポスト(准教授1、助教2)は昨年秋に公募されていたことに改めて気がついた。それはここに残っている。ただし、「公募要領」はすでに削除されている。ここの説明を読むと、「アジア研究図書館は、研究支援及び研究機能を持った図書館になります。その中核を担う方が、このたび公募しますサブジェクト・ライブラリアン教員です。従来、東京大学の図書館には教員は配置されてきませんでしたが、昨今の研究領域の多角化、情報の多様化の現状に鑑み、大学教員または学生(学部学生・大学院学生)の研究支援ならびに蔵書構築等の図書館運営を主たる任務とする教員を、正式に附属図書館に配置することになりました。」とあり、<正式に配置>となっている。正式の中身を確認したいのだが、今となっては分からない。どなたか<こっそりと>教えてもらえませんか。

*追加注3(12月11日)9月15日づけで匿名の方からのコメントがあり、このポストは附属図書館に正式についたものであることが示されていた。(「こっそり」だったので今まで気づかなかった)それによると、UPARL(寄付研究部門)は大学当局にこういうポストの重要性を提案し、それを承けてこれらのポストが新設されたらしい。改めて、UPARLと附属図書館との関係を整理してみると次のようになる。東京大学アジア研究図書館は、2010年から進められてきた、東京大学附属図書館・新図書館計画の中核として、2020年10月に開館したもので、アジア地域の多言語資料を対象に総合図書館に開架スペースと書庫をもって図書館サービスも行う施設となっている。アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門(UPARL)はそこに設けられた研究部門であり、それとは別にアジア研究図書館研究開発部門(RASARL)が設けられてこのブログで紹介したサブジェクトライブラリアンはここに所属する。HPを見ると本文で書いた公募によってすでに3人のスタッフが着任していることも分かる。また本文で書いた寄付講座による人事の不安定性の心配はこのコメントによって払拭されている。コメントありがとうございました。しかしながら、着任したスタッフのサブジェクトライブラリアンとしての働きぶりについてはまだよく分からないところが多い。






2021-03-01

情報爆発、万葉集、苦学そして日本語

恒例の月刊『みすず』2021年1月/2月号「最近読んだ本」への寄稿です。 

なお、4以外は拙著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)でも取り上げています。このうち、1は図書館情報学を学ぼうという人は必読の基本書ではないかと思います。(3月22日タイトルを変更)


根本彰(図書館情報学・教育学)

1 アン・ブレア(住本規子ほか訳)『情報爆発—初期近代ヨーロッパの情報管理術』中央公論新社、2018年

原書名はToo Much to Know(「知識の増加に追いつけない」)で、「感染爆発」が現実のものとなった今なら訳書のタイトルはこうはならなかったろう。この本は15世紀に活版印刷術が始まってからのヨーロッパにおいて、爆発的に増えた書物の知識をどのように管理しようとしたのかを克明に明らかにしている。写本の時代には書物と共存していた人間が急激な知識増大に、種々の注解や梗概、欄外注釈、ノート作成、索引や書誌の作成、事典や辞書の編纂で対応した。そして、この知的営為は18世紀末まで 三〇〇年以上続いたという。それにしても、内容をよく理解できない言葉の氾濫を管理しようとすることは、正体不明のウィルスと戦うのとよく似ているのではないか。そして、疾病への対応が臨床医学につながるように、情報爆発への対応は19世紀以降、学校教育、大学、出版、そして図書館の制度化につながっていく。

2 品田悦一『万葉集の発明』新装版 新曜社、 2019年

日本が19世紀後半、開国によって近代世界に足を踏み入れたとき、ヨーロッパが過去四世紀にわたって蓄積してきた近代知が一挙に入ってきたから、「情報爆発」の程度はヨーロッパが経験したものの比ではなかったはずなのだが、たんたんと西洋化が進んだように語られているのはなぜだろうか。そこには明治政府が念入りに準備した知の選択的導入の仕組みがあったと考えられる。そのことを示唆するのは「令和」の年号が決まるときに話題になった『万葉集』である。国民歌集としての『万葉集』が明治以降の「発明」だという視座から、日本では知が倫理や美意識を伴ったカノン(正典)を構築し、これが政治的に利用されてきた状況を明らかにしている。本書は以前から読まれていた研究書だが、改元を機に新装版が出された。

3 伊東達也『苦学と立身と図書館—パブリック・ライブラリーと近代日本』青弓社 2020年

明治期の知の方法の選択導入を示すもう一つの側面として、学校教育と図書館との関係がある。図書館は本を手軽に借りる場、あるいは市民の憩いの場になりつつあるけれども、同時に若い人の試験勉強の場でもあることは今も変わらない。この本で強調されているのは、近代日本で採用された教育観において知が他の価値の道具とされたことである。上位の学校に進むことが立身出世の手段であり、それを駆り立てるために試験が必要とされている。図書館は知の蓄積の場であったはずだが、学校外での試験勉強の場として位置づけられてきた。本書は、明治初年に地方から上京した青年たちが東京書籍館を自学勉強の場とすることから始まる図書館利用が、明治末に帝国図書館と名前が変わった頃から、試験合格そのものが目的に転換していった過程を描き出している。

4 小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』徳間書店、2018年

ヨーロッパにおいて知識人あるいは学習者は、蓄積された知から必要なものを取り出すものとされ、そのための方法が発達していた。これに対して、日本では知は外部から注入されてそれを要領よく処理する能力が試験によって序列化される仕組みが発達した。この違いの前提は、知(あるいはそこに仮定されている真理)が言葉のうちに存在しているのかどうかにある。本書は、西欧の知が言葉に真理を認めるロゴス中心主義であるのに対して、日本ではあらゆる語りの相互関係で真理らしきものが決まるという。なるほど、だから日本では書いたものに対する信頼がなくて、密室で何かが決まることが常態化しているのかと納得する。しかしそうなると、ロゴスが失われ、知が手段化した社会において、私たちは何を指標にして生きていくべきなのかその根拠がますます見えにくくなる。



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