前回の書評紹介に続けて、その後に出た書評を紹介し、若干の応答をしておきたい。
書評者:福島幸宏氏『図書館界』(日本図書館研究会刊)73巻2号, 2021年7月 p.146-147.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/toshokankai/73/2/73_146/_article/-char/ja/ (エンバーゴによって現在は会員以外は半分しか読めない。発行1年後にエンバーゴが解けたら全部読める)
自主的な研究会で直接コメントしていただいたものと基本的に同じ内容なのでそのときの回答文書を転載しておく。なお、福島氏は現在、慶應大学の文学部図書館・情報学専攻に所属している。それも奇しくも私が出た後の机を使っておられる。部屋ではなく机である。というのは、この専攻の教員が大部屋にいることは知る人ぞ知ることであり、それはここがジャパンライブラリスクールだった頃からの伝統である...
応答 1
東アジアと日本との関係について、西洋中心主義ではない見方をすることの重要性は言うまでもないのですが、私のとりあえずの役割は日本の学問が20世紀までに依って立っていた基盤をもう一度点検して、そこにアーカイブなり図書館なりを位置づけをすることにありました。それはお話ししたように、一部の分野を除くと大学での学問が西洋の学問を基にして形成されてきたからです。そこで、古代ギリシア以来の人文学の系譜を記述し、その系譜のなかで使える概念装置を選択し、それを基にして日本の近代化を点検するという方法をとりました。ウォーラーステインは必ずしもヨーロッパ中心主義ではなくて歴史的に大きな地域ブロック間のダイナミックな関係を描き出そうとしていましたが、資本主義の発展を前提としている限り、ヨーロッパ近代の拡張という視点は避けられなかったわけです。それを本書で扱っている文化領域に当てはめて議論できないという批判はありえると思います。しかしながら、本書の目的がアーカイブに対する政策的な視点を強調するところにあったので、国民国家の成立とそこでの教育政策なり文化政策の(西洋的発展を基準にした)歪みということにならざるをえませんでした。
これが東洋的なあるいは中国的な統治思想を前提としたアーカイブ構築を考えると、確かに官が効率的に情報操作をするような在り方がもう一つのモデルとなり、日本の政府が目指しているのも実はそうしたもののような気もします。とすると、西洋対東洋の統治思想の対立という視点から再度見直すことも可能かもしれません。福澤諭吉を思想的淵源とする慶應義塾での授業であり、そうした問題設定は次の課題として西洋的なものを前提として語ったというところです。
2. 日本—中国—西洋という3層構造という図式はかなりナイーブであまり学問的な議論になじまないものだと思います。これはイントロダクションで学生に対して扱う領域がきわめて広汎であることを告知するためのレトリックということにさせてください。
応答2
国民国家から帝国主義の時代のナショナルな制度と文化を中心に語ったのはそのとおりです。これもまた戦後政治の枠組みを意識すればそこからスタートせざるを得ないからです。バブル崩壊=冷戦終了の後の状況を考えると、「次」の考察が十分でないことも自覚はしています。ただ、それについては迷いがあるのですね。
西洋的な知の伝達モデルが結局のところ産業社会を生み出し、経済成長が個人の幸福と結びつくという神話になったわけですが、その先に何があるのかということです。この神話は中国を典型として専制主義+資本主義の組み合わせを生み出しています。これは日本の近代化過程を参考にしているわけですが、現在の日本は西洋的な市民主義的デモクラシーとそうした統制されたデモクラシーの中間にあり、今後、どちらを目指すのかについて明確なビジョンが得られていません。
他方、GAFAのようなグローバルなICT資本はデジタル・プラットフォームを駆使して国家を超えた新しいネット生活を提案しつつあります。図書館情報学はGAFAの存在の産みの親的な位置付けでもあったはずだということを本書中に少し触れました。人と情報を結びつけるという基本的な枠組を考えればこの問題にもっとコミットしてよいと思います。たとえば、出版と図書館との関係は結局のところ、書かれたものを管理するシステムの経営管理に帰着するわけで、私は前から出版流通の経済学が必要と言ってきたのですが、ネットワーク市場と公共経営をどのように組み合わせてモデル化するかということに帰着します。
迷いの二つ目は、本書では知と言葉の関係を議論してきたのですが、マルチメディアをどう考えるかです。19世紀後半以降の大衆社会の発現においては、読書やジャーナリズムよりも映像や音声、写真等のマルチメディアが無意識に働きかけていることが無視できなくなっています。これはメディア論でさんざん言われてきたことです。今の若い人は本を読むよりも効率的にニュースサイトやSNSの書き込みを読み、YouTube等の映像を行動の参考にしています。書き言葉の問題は19世紀で終了して、知はマルチメディアの作用によって媒介されるものとみるべきなのかという問題です。
三つ目は、日本的あるいはアジア的なロゴスとパイデイアの伝統をどのように考えていくかということです。これが地域的な知の在り方とも密接にからむのでしょう。文章中には、アルファベットとカナ・かな・漢字の関係とか言霊とか身体知などについて触れてはいますが十分な展開ができませんでした。一定の見通しはあるのですが、いずれ取り組みたいテーマです。
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