2022-09-16

『アーカイブの思想』のその後 ①

 2021年1月に拙著『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)が出てから1年8ヶ月ほどが過ぎた。過去、ブログではいただいた書評に対する応答を3回行った(2021-04-282021-09-242021-09-24)。ここでは、その後、発表された書評に応答し、出版後のあれこれについて報告しておきたい。

まず、本書はおかげ様で現在第4刷りになっている。専門書価格帯の本としては比較的売れたのはたいへん有り難いことである。購入していただいた方には感謝申し上げたい。当初、みすず書房の営業担当者から書名のどこかに「図書館」を入れるように強い要望があったのは図書館市場を意識してのことだったが、敢えて入れないことを選択した。その意味でも、安堵している。なぜ、入れなかったのかはこのあと触れたいと思う。

その後の書評について

この本を書いたことでいろいろなレスポンスをいただいた。書評はすでにブログで触れたもののあとに3本が出た。早い頃のものほど、一般的なメディアに紹介的で短い記事が出て、後になるほど専門的メディアに比較的長いものが出る。すでに『図書館界』には昨年のうちに書評が出たが、その後、図書館やアーカイブ関係の学会誌に出るようになった。次の3本である。

① 大沼太兵衛氏  デジタルアーカイブ学会誌 5 (4), 258-258, 2021 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsda/5/4/5_258/_pdf/-char/ja

② 小林昌樹氏 日本図書館情報学会誌 68 (1), 45-46, March 2022

https://doi.org/10.20651/jslis.68.1_45

③ 寺澤正直氏 アーカイブズ学研究 / 日本アーカイブズ学会 編 (36) 62-69, 2022-06

このうち、③はほとんど内容の紹介なので、①と②について応答しておきたい。

まず、①であるが、大沼氏は白水社から出ている文庫クセジュ・シリーズのブリュノ・ガラン著『アーカイブズ:記録の保存・管理の歴史と実践』の訳者であるが、同時に国立国会図書館の職員でもある方で、その意味でアーカイブズも図書館も分かるということから、依頼されたのだろう。現時点ではこれだけがオープンになっている。書評において、評者が「端的に言えば、著者の問題意識の根本にあるのは、人間の知の最も基本的なメディウムである「言葉」という装置である。著者は、プラトン以降、二千数百年間の言葉と知を巡る実践の様々な局面にロゴスとパイデイアという光を当てることで、総体としてのアーカイブという営みを描き出すことに成功している」と評していただいたことはありがたい。本書の副題に「言葉を知に変える仕組み」としたのはまさにそこの部分で一貫性をもたせたかったからである。だから、書評のその前段に、「著者は、これらの広大な主題群(中略)の全体に対してアーカイブという投網をかけ、まず西洋社会が知の制度を整備していった過程を概ね時系列順に辿り、それを踏まえて日本の特殊事情および現代の課題について検討を行う」と本書の方法について短くまとめていただいていることも本書を的確に把握していただいていると考える。

そういう読みをしているからこそ、「本書で展開される各論の中には、特定の文献のみを論拠としているように見受けられる記述が散見され、また、細部における事実確認等で若干の詰めの甘さが残る点は、白璧の微瑕と言えるかもしれない」という苦言が呈されると、それは何を指しているのかと思わざるをえない。確かに、本書は基本的に二次的な文献から得られたテキストを撚り合わせることで記述している。かなり広汎な領域を渉猟することで成り立たせているから、思わぬところで基本的な誤りをしている可能性はある。だが、この評言の前段の「特定の文献のみを論拠としている」ことの問題点については、この本の基本的コンセプトに関わるので、それが何なのか具体的に指摘していただかないと納得がいかないところである。

次に②である。評者小林氏の指摘のいくつかの点について述べておく。まず、本書がなぜ「アーカイブ」という用語を使うのかを問題にしている。そして、過去を振り返るために知を蓄積して利用できるように仕組みとしているこの用語が「1950年代なら"図書館現象"という術語にあたる」としている。図書館現象は確かに第二次大戦後に図書館の社会的現象を記述するのに用いられた。今、その初出が何であったのかを確認する余裕がないのであるが、おそらくは第二次大戦後の英米の図書館学でブラッドフォードの法則のような計量書誌学やシカゴ大学GLS(図書館学大学院)の公共図書館利用者調査のような実証主義的な研究が現れ始めたときに使われた用語ではないだろうか。要するにそれまであいまいに図書館に関わるものを扱うプロフェッションの領域だった図書館学の対象を指す言葉であったと思われる。その文脈で言えば、私はGLSにいたピアス・バトラーとその弟子に当たるジェシー・シェラの思想を意識していることは確かで、彼等こそlibrary phenomenaそのものを扱おうとした人たちだったと考える。ただ、バトラーは西洋の人文主義に図書館を位置付けようとしたが、シェラ以降の人たちは実証主義に引っ張られすぎていた。そしてシェラ以降の図書館(情報)学の影響を受けた日本で、さらにいびつな形でそれが現れたことに対する批判が本書を書く背景にあったことは確かである。

次に小林氏はアーカイブの思想というときに、アライダ・アスマンの『想起の文化』(岩波書店, 2019)を引き合いに出して、記憶文化論では記憶がどのようにして残るのかという観点の重要性を強調する。この観点は書いているときにそれほど意識はしていなかったが、書き終えて、20世紀初頭にモーリス・アルヴァックスの記憶の社会的構築論の先行研究があり、とくに第二次大戦以降、アスマンも分析対象にしているホロコースト犠牲者の記憶問題は多くの研究が行われ、日本でも沖縄、ヒロシマ・ナガサキの追悼、慰霊と社会的記憶の問題、そして、阪神淡路大震災や東日本大震災(と東電原発事故)の記憶装置の問題と多数の検討が行われていることに気づいた。アーカイブの思想に関わる機関として図書館、文書館、博物館を意識しているから、当然この問題は避けて通れないと考えている。とりあえずは、JSPS科学研究費を申請して認められたので、今年から5年間河村俊太郎さんと「マージナルな歴史的記憶を負荷された地域アーカイブ研究」(22K12717)というタイトルの研究を行うことにした。

あとはその「記憶の残し方」として、『百科全書』の索引と江戸の類書の手法の違いの分析の必要性、私が日本の近代で図書館より出版自体がアーカイブの機能をもっていたと書いたことに対して古書流通に着目する必要性、NDLの調査及び立法考査局でも法令索引や国会の議事索引などをつくっていることなどの点が指摘された。いずれも、すでに日本でもアーカイブの実践が存在していることの再確認かと思われる。『アーカイブの思想』はまさに骨組みだけの本だから、個々に具体的に展開することによって豊かなものにつながると考えられる。そうした展開の際の指針を提供できたとすれば書いた目的は達成されたことになる。

アーカイブの思想のフォローアップ

最初の方のなぜアーカイブの思想なのかという問いであるが、それは図書館情報学ではなくて、日本で行われてきた人文学のコンテクストにここでいうアーカイブを位置付けたいという思いがあるからである。「思想」という言葉を使っているのもそうだし、サブタイトルの「言葉を知識に変える仕組み」もそうである。これらは人文学の中心的課題であるが、その一連の議論のどこかにつながることがあればよいのではないかと考えていた。

本書の刊行をきっかけにして、いくつかの学会や研究会、授業に招致されて講演する機会を得て、自分の考えを改めてまとめ直すことができた。その一部を示すと、

④「知識資源システムとは何か(図書館と知識資源の新たな動向)」『三色旗』(慶應義塾大学通信教育部)No.836, 2021.6, p.31-38.

⑤「図書館のアーカイブ機能とは何か」『大阪公共図書館大会記録集第68回 テーマ「「コロナ時代」の図書館運営』大阪公共図書館協会, 2021. p.50-51.

⑥「知のアーカイブ装置としての図書館を考える:ニュートン関係資料について」『短期大学図書館研究』40/41合併号 2022.3 p.103-110.

⑦「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ―『アーカイブの思想』を書いてみて」日本アーカイブズ学会 基調講演 オンライン 2022年4月23日

⑧「アーカイブの思想:知、歴史、美を時間軸で考える」東京芸術大学「創造と継承とアーカイヴ:領域横断的思考実践」 2022年6月9日

⑨「知は蓄積可能か アーカイブを考える」慶應義塾大学文学部「文献学の世界」2022年7月6日

私としては⑦や⑧でこれまであまり交流がなかったアーカイブズや美術館・博物館分野の方々と交流できたことがたいへんありがたかった。このうち、⑦と⑨は文章としてまとめることになっているので、いずれお目にかけることができる。⑧についても何らかの機会があればまとめてみたい。

最後に、私の本から半年くらい遅れて、西垣通著『新 基礎情報学』(NTT出版, 2021)が出た。この本の最後の方の今後の課題について述べたところで、本書に簡単に言及していただいている(p.227)。西垣氏は東大の情報学環で情報学の理論化に取り組んでいて、東大の会議で同席していたこともある。彼の基礎情報学はAIを批判し、情報という現象が人間を含めた生命体の選択的行為であることを強調している点で視点を共有している部分はあると考える。たぶんそれは、大沼氏も指摘していた『アーカイブの思想』の第8講で書誌コントロールやレファレンスを論じたところの重要性であり、図書館情報学が蓄積してきた知見が隣接分野に一番貢献できるところだろう。私自身も先の⑦の講演で自分自身の書誌コントロール論を再度引っ張り出す必要を感じた。それは結局のところ、図書館情報学もアーカイブズ学もアーカイブズやドキュメントの扱いが中心になるということである。だいぶ前にほっぽり出した書誌コントロール論に再度取り組む必要があるかとも考えているところである。たぶんそれは、別のところでやっている、学校図書館の理論とどこかで響き合うところが出るはずだ。

2022-08-05

文科省の学校図書館行政の展開

今年5月16日付けの当ブログ「「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」への意見」で、文科省のGIGAスクール構想について意見を送ったことを書いた。

「学校教育情報化推進計画(案)」について、公立図書館と学校図書館とを統一的に学習情報資源提供の場と捉えて、すでに存在する情報資源、資料や人的資源とを統合的に活用する条項を含めることを提言します。

という内容の提言である。これの効果があったのかどうか直接の関係は分からないが、最近8月2日付けで文部科学省総合教育政策局地域学習推進課長と文部科学省初等中等教育局学校デジタル化プロジェクトチームリーダーの名前で、「1人1台端末環境下における学校図書館の積極的な活用及び公立図書館の電子書籍貸出サービスとの連携について」という文書が都道府県教育委員会担当部局などに向けて送付された。学校図書館が「授業の内容を豊かにしてその理解を深めたりする「学習センター」や、児童生徒の情報活用能力等を育成したりする「情報センター」としての機能等を有する」として利活用をはかるように指示し、学校図書館と「公立図書館の電子書籍貸出サービスの ID を一括で発行している事例」を紹介してこれを推進しようとするものである。学校図書館が電子書籍を導入することは以前から文科省も勧めているが、公立図書館との連携を積極的に打ち出したことは今後のさらなる新しい動きにつながるかもしれない。

『日本図書館情報学会誌』68巻2号(2022年6月)に「戦後学校図書館政策のマクロ分析」という論文を掲載してもらった。いずれ本文もオープンになるが、今のところは抄録のみを示しておく。関心がある方は図書館等で閲覧していただきたい。

<抄録>戦後の学校図書館の法制度をめぐる教育法および教育行財政状況の変遷を公共政策論的なマクロ分析によって明らかにする。方法として「政策の窓」モデルを用いて,戦後教育改革期, 日本型教育システム期, 21世紀型教育改革期の3つの時期の学校図書館政策の議論の流れ, 政策の流れ, 政治の流れを検討した。こうして, 第2期まで文部省の教育政策の枠外にあった学校図書館政策であったが, 第3期になると言語力・読書力の向上というアジェンダによって, 課題であった司書教諭と学校司書の制度化, 図書費と学校司書配置への国費の充当などの政策が実施されたことを確認した。今後は, 現在の教育改革の次のアジェンダに沿った深い学びと学校図書館を結ぶための基礎研究が必要であることを述べた。

要するに学校図書館政策は一つの動きとみるべきではなくて、複合的な要因がからまって展開しており、現在も進行中と考えるべきだということである。そして、タイミングが重要であり、タイミングを逸しないためには十分に準備をする必要があるということである。さらに、現在は教育課程に関わって学校図書館政策を実現するのに重要な時期だということがある。最後の点については、①学習指導要領に探究学習の要素が多く入っていて学校図書館もそこにかかわることになっていること、②GIGAスクール構想で学習者が端末を操作してデジタル教材を使用する動きがあること、の二つの理由による。

このような論文を書いたあとに、まさにそれに関わる動きが認められたことは論文が実践的な意味をもったものと捉えられる。だからこそぜひこのタイミングを逸しないようしたい。そのために何をすべきなのかなのだが、とくに優先順位が高いのは教育課程や教育方法と学校図書館について理論実践両面から明らかにしていくことである。

私は教育課程と学校図書館の関係については十分に詰められていないと考えている。そのために、戦後間もない時期の最初の学習指導要領1947年版(試行版)で行われた教育実践面の研究を始めた。教育史や学校教育学ではこの時期にコア・カリキュラム運動があったが、その後指導要領の改訂によって挫折したということになっている。だが実際には多様な教育課程上の議論と実践があった。今、研究しているのは「図書館教育」である。教科を超えて図書館を柱としたカリキュラムを実践するというもので、戦後新教育との関係で東京学芸大学東京第一師範学校男子部附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)で実施されたものから始まっている。その半世紀後に塩見昇氏が雑誌『図書館界』で「図書館教育の復権」という論文を書いて強調された。それを受けた私の研究の成果は今年中にはお目にかけることができる。さしあたっては拙著『教育改革のための学校図書館』の第3章で簡単に触れたので参照されたい。

少し迂遠なようだが歴史的に戦後教育改革に遡る方法で教育課程と学校図書館の関係を明らかにしようと考えている。実践面では国際バカロレアとの関係や探究学習の方法を検討するSLILの動きにも関わっている。できることからやる他ないが、今回の文科省の動きは少し希望を持たせるものと受け止めている。

2022-08-02

この夏のわが家の異変

暑中お見舞い申し上げます。

毎日うだるような暑さです。今日の最高気温の予想はここつくばで摂氏38度とか。わが家もさすがに昨日は日中の暑い時間帯にクーラーをつけました。今日の午前中は扇風機を強にして当たっているとまあ過ごせるくらいかと思ってクーラーは控えていますが、午後には入れるかもしれません。



前にわが家の入り口にノウゼンカズラの樹があって毎夏にきれいなオレンジ色の花を咲かせると書いたことがあります。ところが今年は一旦咲きかけた花がその後しぼんでぱらぱらとしか咲いていません。上の写真は先ほど撮影したものですがこの程度しか咲いていませんでした。

前に書いたものを探してみたら、2017年7月9日「ノウゼンカズラの花とクロアゲハ」でした。すでに7月上旬で梅雨明けかと書いています。昔のじめじめと長雨が続く梅雨のイメージはここ10年ほどはなくなっていて、7月にはかなり暑くなっていたことが分かります。そしていったん咲き始めると夏の終わりまで間断なく次から次へと花がついていました。

今年は気象庁から関東甲信越は6月27日くらいに梅雨が明けた模様との発表がありました。今と同じような暑い日が何日も続きました。その頃に咲くために蕾のついた蔓が垂れ下がってくる現象が見られたのですが、花はうまく咲いてくれませんでした。その理由はたぶん最低気温にあったと思います。あの頃日中は暑かったのですが、夜から朝方はけっこう涼しくなっていました。そして、7月も中旬になったら「戻り梅雨」の感じになり、最高気温も30度を下回り、最低気温は20度そこそこまで低い日が続きました。こうなってくると、一度咲こうと準備したものが途中で働かなくなりその状態が最近まで続いたのかと思います。2度の梅雨明けがあったのに等しいなかで植物たちも適応するのはたいへんなのでしょう。

このあとうまく咲いてくれるかどうか見守りたいと思います。

追記:そういえば、昨年は千個以上の実をつけてご近所にもおわけしたスモモは今年はまったくだめでした。また、梅の実もだめでした。ただ、今なっているブルーベリーは当たりの年のようです。これらがどのようなメカニズムによるのかは、あまり手入れもしてこなかった素人には何ともいえないところです。

2022-07-26

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』感想


書いている時点ではまだ刊行されていないが、石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋刊)が7月末に刊行予定である。この本を版元から頂いたので一読した感想を記しておきたい。頂いたのはこの本のなかで著者によるインタビューがあって私の発言の一部が引用されているからである。

本書の概要

本書でいう国語力であるが、一般的には本を読むための読解力とか言語力のようなコンテクストにおいて理解されている。PISAの読解力(reading literacy)の点数が他のリテラシーよりも低いとか、大学生が中学校の教科書を正しく読めない(あのクイズまがいの質問にこたえられないことが読解力がないことの根拠に使われていたのには少々あきれたが)、大学生の半数は1ヶ月に1冊の本も読んでいないといった言説で言われるものである。が、本書で扱う国語力の幅はもう少し広い。というよりも、国語力とは言葉を使用する能力であり、言葉が人間の営みのもっとも基本にあるものとすれば、国語力の低下とは人間の営みが損なわれている状態だという、至極もっともな前提から始まり、前半はそこに焦点が当たっている。

冒頭には小学校4年生の授業で新美南吉『ごんぎつね』が取り扱われたシーンが紹介されている。その部分が「立ち読み」できるので参照されたい。子狐のごんは猟師兵十(ひょうじゅう)に悪さを仕掛けていたが、兵十の母親の葬儀がありそこで大なべにぐらぐらと湯が沸き立っているのを見かけるというシーンである。ストーリーはこのシーンをきっかけにごんは兵十が病気の母親に精のつくものを食べさせようとしていたことを悟り、逆に兵十に魚を届けるのだが最後に兵十に撃たれてしまうというものである。大人にとっても子どもにとってもストーリーはなかなか理解に苦しむものではあるけれども、個々のシーンは分かりやすい。そのなかで、教師は子どもたちを班に分けて鍋で何を煮ているのかと尋ねる。子どもたちは「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と答えたというのである。『ごんぎつね』でなぜこのシーンを議論させるのかという疑問もあるが、子どもたちの生活実感と教材の世界のあいだのズレを考えさせられる。

この話しを出発点にして、こどもの言語生活がいかに家庭環境そして、ネット、ゲームなどのメディア環境によって蝕まれているかについて論を展開している。たとえばゲームのプレイヤーどうしのことばのやりとりは「死ね」「ぶっ殺せ」「ざけんじゃねぇ」「帰れ、カス」というもの発しているだけで会話になっていない。そのことはSNS上で「あいつまじないわ」「きも」「きも」「さよーなーら」といった書き込みの連鎖につながっている。また、家庭環境についてはそうした言語生活を誘発するものになっていることが描かれる。不登校で一人家にいる状態、離婚による一人親に放課後放っておかれる状態、親の再婚で他の家族から疎まれる状態、ヤングケアラーと呼ばれる親の介護を余儀なくされる状況等々である。

本書の帯についている紹介文に「オノマトペでしか自分の罪を説明できない少年たち、交際相手に恐喝されても被害を認識できない女子生徒」という文がある。折り合いの悪い義父に呼び出されて外に飛び出しナイフで他人を刺した少年の話。「よくわかんない。あいつのせいで頭グリグリになった。目の前に人がいたんでバァーってやったんだ。...警察にガッってされてつれていかれた。」少女売春の少女との会話。「ー男たちに金を払ったのはなぜ?」「言われたから...サンキューって言ってくれる人もいた」「売春は嫌だった?」「そうだけど、他にすることもないし」「後悔してる?」「わかんない」これらは、少年院や福祉施設の職員に対して自分の置かれている立場を言葉で説明することができないことを指している。かつての「不良」や「非行」の少年少女は自分の行動に対する言葉をもち、仲間と会話していたが、今のそうした子どもたちの多くが孤独で、短く感情的な言葉を発し後は押し黙るだけだというのである。

本書はその背後に日本社会の経済格差があり、貧困家庭が増えていることを指摘する。つまり、言葉が貧困になっているのは家庭生活が貧困であるからで、本来、家庭のなかで基本的な会話や表現を学ぶ機会がないままに大人になっていくケースが増えている。そして、メディア環境がそこに忍び込み、ゲームやSNSにおける言葉を伴わない、ないしは短い言葉によるメディア上のやりとりで自足するような状況があることを述べている。家庭がもっとも基盤的な子どもたちの生育環境のはずなのに機能せず、さらに地域社会や学校社会から孤立化を進行させるときに、メディアが唯一の救いになるような状況は確かにあるだろう。さらには、メディア環境がサイバーカスケードないしエコーチェンバーのように、特定のコミュニティ内で自足しそのままそれが支配的なものを形成することがあり、未発達の子どもたちに強い影響を与えるのは大人とは区別して考える必要がある。著者は、特定のメディア環境が脳の発達に対して及ぼす影響についても言及している。

こういう状況に対する著者の処方箋の一つは、少年院で行われている「表現教育」と呼ばれる言語回復プログラムである。たとえばアンジェラ・アキの『手紙〜背景 十五の君へ〜』を朗読させ、現在の自分から将来の自分に宛てた手紙を書くというプログラムがある。先輩が読む手紙を聞いている少女たちは一様に感動の涙を流すという。また、小学校のプログラムとしては、積極的に本を読ませるが、と同時に体験型学習に力を入れてキャンプ、宿泊体験といったものだけでなく校外の自然環境を教材としてそこから学ばせる。また、教科を超えたアクティブラーニングを積極的に実施することで、本で読んで得た知識と実際の世界との関係のリンクをしっかりもたせることを行う。中高生の授業では言葉によるやりとりを重視したプログラムとして、ディベートや哲学的対話を導入している学校が紹介されていた。

感想

普段、学術的な文章ばかり読んでいてこうした一般向けのルポルタージュの文章を読む機会はあまりないから、本書を読んでみてプロのライターの取材力と文章力には驚かされた。これまでも国語の問題には注意を払ってきたつもりだが、このように家庭崩壊やいじめの問題、非行や少女売春といった社会問題にまで視野を拡げた文章はこういう機会でもないと読めないものだった。その意味で読む価値がある力作だと感じた。

以前に私自身国語教育について朝日新聞(2020年4月4日朝刊)の「耕論」欄でインタビューを受けて発言もしている。インタビューの依頼はそれに基づくのだろう。そのときは、日本の国語力が文学の読みに典型的な書き手の気持ちに寄り添い、その心情を適切に読み取って言葉で表現する力を要求してきたのではないかと述べた。他方、PISAの読解力の低下が示されたあとに論理国語の重要性が言われ、それが文学国語が対立するという議論があることに対して、文学にも論理はありそれを読み取ることについては論理国語のなかに包摂されるとも考えていた。私はすべての学力の基礎に国語力(言語力)があると考えていたので、この本がどのような展開と結論になるのかに興味をもっていた。

そうした興味に照らしてみると本書の意義と弱点が浮かび上がってくる。意義は、私もあまり意識していなかった国語力と生活力の関係を格差社会のコンテクストで浮かび上がらせてくれたことである。要するに義務教育で日常生活に必要なレベルの国語力が身につかないままに社会に放り出されている子どもたちがたくさんいることへの着目だ。そのことはさまざまな具体的な局面で論じられており、また、その対策としての少年院における表現教育のような事例が示されていて説得力がある。つまり、マイナスの生活力でスタートした子どもたちに対する事後的な救済プログラムが示されているわけだ。国語力の向上が生活力につながるという見方には大賛成だ。

最初の『ごんぎつね』のエピソードに意味をもたせるとすれば、子どもたちはすでに村の共同葬儀に参加する機会がもてないし、亡くなった人の遺体の処理がどのように行われるのかを見聞きする機会もないことをどのようにとらえるかが重要である。知識も経験もない子どもたちにとってこの部分だけを取り出して議論させられれば、上記のような反応が出てくる可能性は十分にある。このエピソードの後に教師がどのように指導したのかが示されていないので分からないのだが、本筋でない部分の子どもたちの反応がこのように現れたことから、昔の習慣や遺体処理ということについて考えるきっかけにすべきなのか、それとも古典的名作童話とされる話しがすでに教材として古いから差し替えるべきと考えるのか。また、ごんが兵十にしかけたいたずら、ごんから見た兵十と母親の関係、そしてごんの好意が仇になったことをどのように指導すべきなのかも気になった。国語が生活そのものと結びついているとすれば、このストーリーからは社会の荒波や人生の皮肉も学ぶべきなのだろうか。あるいは自己犠牲の精神のようなものをほのめかすのだろうか。古典とされる作品はさまざまな読み方を許すわけで、それが読み手が確認できればよいのだろうが、そのレベルの指導をじっくり行うことはなかなか難しいように感じる。(あるいは指導法にも定石があるのか。)

国語の意義を積極的に位置付けようとすれば何が可能であろうか。かつてこのブログで朝読(朝の読書の時間)が形骸化しつつあるのではないかと述べたことがある(「子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む」)。子どもたちにとっては勝手に好きな本を読む時間を設けるだけでは、本好きな子とそうでない子との間の差は埋めることができない。本書の前半に経済格差と教育格差の問題が述べられていたが、本への関心はすでにそれ以前の親の関心の違いによってつくられているのだから、ここには積極的な介入プログラムを導入する必要があるのではないか。たとえば、本書で述べられているような国語科を中心としたアクティブラーニングとも言うべきものが可能かもしれない。これは戦後間もないときに試みられたコア・カリキュラムの考え方とも近い。もっとも当時は社会科が中心とされたが。

だが、本書の最後の方で紹介されているのはカリキュラム上の工夫をしている学校の話しだが、公立校ではない。だから、経済格差が陰のテーマとなっている本書で読みたかったのは、やはり公立小学校レベルで生活力につながるような国語の授業ないし読書推進の試みをしている学校の事例である。国語の問題が生活や社会の問題とつながっているという認識はあまり一般的ではない。子どもの発達が就学前に家庭で育まれ、就学後は学校と家庭の総合的関係のなかで決定される。格差社会が現実のものであれば、子どもたちの生きていくための力が失われている状態に対して国語を中心としたカリキュラムの工夫が必要となる。家庭の方に問題がある事例が増えている現在、学校において基礎的な国語力をまず身につけさせるための手立てを考えていく時期にきている。


2022-06-15

朝日新聞の書評記事に関して


(紙面型の元記事は拡大できなくしてあります)

朝日新聞の5月28日(土)に掲載された私の書評記事が朝日のサイトに再掲されたので共有します。

https://book.asahi.com/article/14633053

この記事では次の3点を紹介しました。

・リチャード・オヴェンデン『攻撃される知識の歴史 なぜ図書館とアーカイブは破壊され続けるのか』(五十嵐 加奈子訳)柏書房, 2022

・小出いずみ 『日米交流史の中の福田なをみ 「外国研究」とライブラリアン』勉誠出版, 2022

・永田治樹『公共図書館を育てる』青弓社, 2021

ここではいずれも図書館にかかわりますが、まったく違った種類の書籍を紹介しました。編集者とのあいだで、「図書館専門職」と「インテリジェンス」という言葉を使用したこと、また使用する写真について少しやりとりをしました。

一つは、最初の本の著者オヴェンデン氏は英国の大学図書館でスペシャルコレクションを担当してきた人ですが、今はオックスフォード大学の中心館ボドリアン図書館の館長を務めています。こういう人を図書館専門職と呼んでよいのかということですね。

これについては同館のHPの紹介欄で、氏には写真の歴史や本書のような図書館史とともに図書館情報マネジメントの業績があることを伝えています。

https://www.bodleian.ox.ac.uk/about/libraries/bodleys-librarian#collapse2620226

この記事を見ると歴代の館長の紹介欄があります。館長のキャリアは概ね図書館畑で長年仕事をしたことが評価されてのもののようです。その意味で氏もまた図書館専門職と言ってよいと考えます。歴代の館長には図書館情報学の専門教育を受けてきた人とそうでない人がいます。オヴェンデン氏は専門教育は受けてないようですが(記事の特性上あれば触れていると思われるので)、前館長は女性でアメリカで図書館情報学の修士号をとったキャリアの持ち主のようです。いずれにしても、何らかの領域でPh. D.を持っていることは必須のように見えます。

小出いずみ氏の本については、福田なをみが日米の戦時体制とその前後の時期にインテリジェンス業務に関わったと書きました。図書館員がインテリジェンスというと不思議に思う人もいるかもしれません。アメリカでは第二次大戦時に図書館員がワシントンDCに呼ばれて外国情報の調査分析業務に当たっていたことはよく知られています。その部門、情報調整局(COI)は戦時情報局(OWI)を経て戦後に中央情報局(CIA)になります。小出さんはインテリジェンスの用語を使っていませんが、公開された情報の分析が図書館員の仕事の延長上に置かれていたことが詳しく書かれています。日本でも、国会図書館の調査及び立法調査局の業務は広義のインテリジェンスだと思いますし、ジェトロのアジア経済研究所図書館もまたインテリジェンス業務に携わっていると言えるでしょう。朝日の編集担当の方もその表現に別に違和感はないとのことでした。

永田治樹氏の本についてですが、この本は出たときに読売新聞と日本経済新聞に書評がありました。内容的には新公共経営論の考え方に近い図書館論という感じもしますが、イギリスの福祉国家的な公共図書館論が凋落した経緯やコミュニティ図書館論から多文化サービス的な図書館論が出てくる背景が分析され、それが、北欧の都市であっても財政難に悩んでいるなかで新しい技術とサービスの融合が図られる状況につなげて記述されます。私は、20世紀後半の「市民の図書館」は日本版福祉国家政策の一環と見てよい側面があると考えていますので、その後を考えるのにはふさわしい本だと思います。

この記事で使われた写真ですが、新聞紙面では小さく白黒なのであまりよく分からないのですが、画面上でカラー写真を見るととても図書館の写真には見えないですね。これは、岐阜市立中央図書館を訪問した人ならおわかりと思いますが、この笠のようなオブジェがいくつも広い館内にぶら下がっていて、その全体像の方がよく紹介されています。こういう感じなので今回の写真には最初違和感がありましたが、この記事自体が図書館をステレオタイプで見てほしくないというメッセージでもあったのでこれはこれでいいかと思った次第です。


2022-05-24

図書館市場についてのケーススタディ

本日、郵便物で「岩田書院新刊ニュース 集成版 2021.6-22.04」という冊子が送られてきた。歴史書の出版社岩田書院の新刊の案内DMなのだが、これに「裏だより」というのがついていていつもつい読まされてしまう。この出版社は社主岩田博氏が『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏 』(無明舎)という本を書いているように、一人で経営していること、そしてその舞台裏を明かしながら経営していることが特徴だ。『地方史研究』とか『アーカイブズ学研究』といったときどき見ている雑誌はこちらが版元だったとは今日この冊子をまじまじと読むまで気づかなかった。

今回の「裏だより」に「品切れ続出」という記事がある。出したばかりで品切れになってしまった図書が4点挙げられている。もっと売れたはずなのに売り損ねた本という扱いだが、そこで注目したのはそれぞれに刷り部数が書いてあることだ。以前から出版の経済学の必要性を唱えていたが、部数と価格の関係とそれが図書館でどのくらい購入しているのかが気になっていた。そこで、試しにということで2021年8月に出て3ヶ月で品切れになったという、倉石あつ子『蚕を養う女たち―養蚕習俗と起源説話』という本を取り上げて図書館蔵書を調べてみた。A5判上製本253ページで、価格は税別で5600円の本である。

内容的には最近多い女性民俗学の学術書で、類書に沢辺満智子『養蚕と蚕神:近代産業に息づく民俗的想像力』(慶應義塾大学出版会,2020.2)がある。著者倉石あつ子氏は跡見学園女子大学文学部教授を経て、安曇野市豊科郷土博物館、新市立博物館準備室という経歴がおありで、同じ民俗学の倉石忠彦氏が夫君だそうだ。

3ヶ月で品切れになったというこの本の刊行部数は、「裏だより」によると300部である。そのなかで図書館がどの程度購入しているのかを調べるというのが今回の課題である。ツールはカーリルを用い、CiNii Researchで補う。実際やってみて、カーリルは大学図書館についてもほぼ網羅していてCiNii Researchでしか検索できなかったのは2館のみだった。たぶん、今日たまたまWebOPACのシステムかAPIインタフェースが不調だったのだろう。

結果であるが、蔵書にしていた図書館は計173館で、内訳は県立31館、政令市5館、市町村立78館、大学図書館59館であった。300部に対する図書館での購入割合は57.6%であった。全体的な傾向は東日本の県が所蔵しやすく、西日本だと県立のみ所蔵かまったく所蔵していないという感じだった。養蚕というテーマからそうなるのだろうか。

興味深かったのはカーリルを都道府県別に検索していって、目立って所蔵する図書館が多かったのが群馬県と長野県だったことだ。隣接県でも県立図書館が所蔵し他は1〜2館しか所蔵してなところが多いのに、群馬県は8市町、長野県は県立プラス19市町で所蔵していた。その理由は明らかで、著者が長野県安曇野市の博物館にかかわっておられること、また、本書に長野県だけでなく群馬県の養蚕についての記述があることからくるのだろう。これらの県の図書館にとっては地域資料にもなる。

この数字をどう評価すればいいだろうか。こうした本だと公共図書館でもあと数十館購入しそうな気がする。また、大学図書館が59館しかないのは少なすぎると思う。おそらく大学図書館は公共図書館に比べて対応が遅く予算執行の関係で年度末になることもあり、購入したくとも買えない状況になっているところが多いのではないか。図書館市場で少なくともあと100部は売れたものと思われるが、それでも増刷まではいかないのだろうか。

出版市場の刷り部数データは一部のベストセラーを除いて公開されないものが多いが、岩田氏がデータを公開してくれたおかげでこういう考察が可能になる。他の本についてもやってみたい。また、異なったタイプの出版物についても同じようにやってみるといいだろう。そのためには出版社の協力が必要だ。

また、過半数が図書館で購入されていることが改めて分かった。しかしそれは刷り部数が300部という少部数だからだが、逆に言えば図書館が重要な市場でありこうした少部数出版を支えていることを示唆している。カーリルは書誌を検索すると貸出中かどうかも分かるのだが、これだけ所蔵されていても借りられていたものは10点もなかった(うろ覚えだが、そんなに違ってはいない)。つまり、これらは図書館が購入するから売れないという類いの図書ではないだろう。同社の出版物はすべて注文制で書店の店頭に並ばないという。とすれば現物を見るためには図書館に行く他ない。個人的経験からも、図書館の資料を借りて中身を確認してから購入した本は少なくない。その意味で、前に書いたように土浦市立図書館の蔵書には助けられている。少部数の学術出版物は図書館市場によって成り立つ出版物と言ってよいのではないかと思う。





2022-05-23

科研「「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究」の成果報告

3年間にわたる科研による研究成果の報告をしておきたい。

SLILのHPのこれまでの活動のなかにも同じものが掲載されている。また、そちらには、この科研で3人の研究協力者に国際バカロレアの学校図書館向けワークショップに参加していただいたときの記録が掲載されている。それは他にない貴重な記録なのでぜひご覧いただきたい。



研究課題:「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究

研究課題/領域番号:19K12721

研究種目:基盤研究(C)

審査区分 小区分90020:図書館情報学および人文社会情報学関連

研究代表者:根本 彰

研究期間 (年度) 2019-04-01 – 2022-03-31

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19K12721/


<概要>

国際バカロレア・ディプロマプログラム(IBDP)が学習者自身による探究学習を重視し、そこに学校図書館の支援を位置付けていることが日本の探究学習の実施にどのような示唆を与えることができるのかについて基礎的な研究を行った。IBDPの思想的背景、そのカリキュラム構造、日本の学校図書館の教育行政上の位置付け、戦後教育における図書館教育の類似性などについて検討し、また、IBDPと学校図書館の関係についての翻訳書を出版し公開シンポジウムを実施したことで今後の発展的研究につなげる基盤をつくることができた。

<本文>

1.研究開始当初の背景

 学校図書館法が1997年、2014年に改正されて、学校図書館の整備は進んでいるが教育課程との関係は曖昧にされたままである。一方、国際バカロレアの中心には探究学習(inquiry_based learning)があり、探究学習を実施する際には学校図書館の利用と図書館員の教育支援を重視している。2013年5月の教育再生実行会議第3次提言に、国際バカロレア導入校の大幅な増加(200校)を目指すことが記載され、同年に文部科学省と国際バカロレア機構 (IBO) との合意により、「日本語と英語によるデュアルランゲージ・ディプロマ・プログラム」(日本語DP)が導入された。国際バカロレアは2010年代後半に本格的にとりいれられ始め、現在、学校教育法第一条で定義された学校(一条校)でIBプログラムを導入している日本の学校は50校ほどある。また、2021年から実施の新しい学習指導要領には高校の総合的探究の時間をはじめとして「探究」を大幅に取り入れることになっている。このように、探究学習についての動向の変化があり、そこで学校図書館の支援をどうすすめるかの検討可能な状況がつくられつつある。

2.研究の目的

 国際バカロレア・ディプロマコース(IBDP)は高校の2年、3年レベルの教育カリキュラムを提示するもので、そこには教科にあたるものとは別にコアと呼ばれる3つの科目がある。そのうち、TOK(知の理論)とEE(課題論文)の在り方を分析し、日本に適用可能な学校図書館を用いた学習カリキュラムを明らかにすることを目的にする。TOKは、知識を獲得する方法について学ぶコースであり、複数の知識領域を題材にして、認識論、学問史、科学方法論、科学社会学などによる知の究明の方法を学ぶが、その際に、エッセイ執筆およびプレゼンテーションが義務付けられているので図書館が支援を行うことが多い。EEはテーマを自分で設定して研究を行いそれを小論文にまとめ、プレゼンテーションを行うものである。こちらは教員だけでなく図書館員が指導することも多い。この研究では、IBDPがなぜこのようなコア科目を導入するのかを明らかにするために、背景にある西洋思想史を明らかにし、実際にどのようなカリキュラムが組まれ、どのようなシラバスの展開があるのかを調査する。また、IBDPが学校図書館をどのように位置付けているのかを明らかにし、日本のIBDP校および一条校での運用の可能性について検討する。さらには、IB校に限らず一般の学校で導入されつつある探究学習に対して、IBDPのTOKやEEが示唆するものを考察する。

3.研究の方法

 文献調査、英語文献翻訳、IBDP関係者との協働作業、連携研究者による国内のIBDP校の調査、公開シンポジウムの開催など複合的な方法を組み合わせて行う。当初、IB本部(ジュネーブ)での聞き取りやヨーロッパのIBDP校の見学とインタビューを予定していたが、ちょうどコロナ禍と重なって海外調査ができなかったので国内で可能なことに切り替えた。

4.研究成果

1)背景の思想研究 国際バカロレアは1968年にジュネーブで始まった。最初のディレクターであったオックスフォード大学の教育学者A. D. C. Petersonの著書Schools Across Frontiers, 2nd ed(2003)によれば、IBDPのカリキュラムは西洋の伝統的な人文主義(humanitas)の要素を色濃くしている。そこで、西洋の人文主義の系譜を整理しそれが日本の教育思想、図書館思想とどのような関係にあるのかについて『アーカイブの思想』(文献3)にまとめた。また、人文主義と図書館の思想および技術がどのような関係にあるのかを明らかにするためにさらに文献2、5、6、8、14、16の研究を行い発表した。

2)学校図書館史研究 日本では戦後占領期に学校図書館は経験主義教育を支援することで注目されたが、まもなく教育課程自体が系統主義教育に切り替えられた。このため十分な人の手当も行われないままに長く読書施設とされたことに対する理論的な批判をするために行っている。以前から行ってきた学校図書館史研究をまとめて文献1として東京大学出版会から刊行し、併せて文献7、9、12の検討を行った。12は論文として学会誌に投稿中である。それ以外に、学校図書館史の論文(「戦後学校図書館のマクロ分析」「深川恒喜研究のための予備的考察」)を投稿中であり、さらに1本(「戦後新教育における初期図書館教育モデル」)を準備中である。

3)IBDPカリキュラムと学校図書館の関係 国際バカロレアのカリキュラムがどのように学校図書館に関わるのかを明らかにするために、カリキュラム構造の分析ととくにTOKがどのように実施されているのかをIB公式文書を用いて明らかにした(文献10、13)。

4)アンソニー・ティルク『国際バカロレア教育と学校図書館』の刊行と公開シンポジウムの開催 国際的に学校図書館をIBDPに位置付けるための理論的実践的活動を行っているティルク氏の著書の日本語版の翻訳の監訳を行い、2021年9月に学文社から刊行した(文献4)。また、2021年11月23日にティルク氏の講演を含めて、IBDPと学校図書館をテーマにした公開シンポジウムをオンラインで開催し、150人以上の参加者を集めた。シンポジウム記録はネットで公開している(https://sites.google.com/view/slil-inquiry/past)。

5)連携研究者によるワークショップ参加報告と国内IBDP校の図書館調査 IBアジア太平洋地域支部が開催するワークショップに連携研究者3名が参加し、その結果を報告した(SLILのHP)。また、連携研究者が国際バカロレア認定校学校図書館の調査を行い、その結果の一部を学会で報告した(文献11)。これは学会誌で発表予定である。

6)今後の研究継続のための研究会発足 上記の翻訳と公開シンポジウムチームによってSLIL(School Library for Inquiry Learning)という研究会を立ち上げ、探究学習と学校図書館との関係を中心にして国際バカロレアも含めた研究を継続することにした(https://sites.google.com/view/slil-inquiry/home)。


5.主な発表論文等

[図書]

1.根本彰『教育改革のための学校図書館』東京大学出版会, 2019.7

2.根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

3.根本彰『アーカイブの思想ー言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021.1

4.アンソニー・ティルク著(中田彩・松田ユリ子訳、根本彰監訳)『国際バカロレア教育と学校図書館:探究学習を支援する』学文社, 2021.9

[図書の一部]

5.根本彰「4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く」根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

6.根本彰「6章 知識資源のナショナルな組織化」根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

[雑誌論文]

7.根本彰「教育改革と学校図書館の関係について考える」『図書館雑誌』vol.113, no.12, Dec. 2019, p.792-795.

8.根本彰「知識資源システムとは何か(図書館と知識資源の新たな動向)」『三色旗』No.836, 2021.6, p.31-38.

[口頭発表]

9.根本彰「日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策」『2019年度日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』日本図書館情報学会, 2019. p.71-74.

10.根本彰「国際バカロレアと学校図書館との関係」日本図書館情報学会研究大会 2020年10月4日

11.高松美紀「日本における国際バカロレア認定校の図書館の実態」『2021年度日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』日本図書館情報学会, 2021. p.39-42.

12.根本彰「戦後学校図書館のマクロ分析」日本図書館情報学会研究大会、熊本学園大学 2021年10月16日

13.根本彰「IBDPの「知の理論(TOK)」「課題論文(EE)」が図書館情報学に示唆するもの」三田図書館・情報学会 2021年11月13日

14.根本彰「図書館のアーカイブ機能とは何か」『大阪公共図書館大会記録集第68回 テーマ「「コロナ時代」の図書館運営』大阪公共図書館協会, 2021. p.50-51.

[その他]

15.新聞インタビュー 『朝日新聞』2021年4月4日(土)朝刊11面「(耕論)「国語を学ぶ」とは 渡邊峻さん、根本彰さん、ロバート・キャンベルさん」

16.「アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす 対談=根本彰・田村俊作『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に」『週刊読書人』2021年4月9日


新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...