2021年1月に拙著『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)が出てから1年8ヶ月ほどが過ぎた。過去、ブログではいただいた書評に対する応答を3回行った(2021-04-28,2021-09-24,2021-09-24)。ここでは、その後、発表された書評に応答し、出版後のあれこれについて報告しておきたい。
まず、本書はおかげ様で現在第4刷りになっている。専門書価格帯の本としては比較的売れたのはたいへん有り難いことである。購入していただいた方には感謝申し上げたい。当初、みすず書房の営業担当者から書名のどこかに「図書館」を入れるように強い要望があったのは図書館市場を意識してのことだったが、敢えて入れないことを選択した。その意味でも、安堵している。なぜ、入れなかったのかはこのあと触れたいと思う。
その後の書評について
この本を書いたことでいろいろなレスポンスをいただいた。書評はすでにブログで触れたもののあとに3本が出た。早い頃のものほど、一般的なメディアに紹介的で短い記事が出て、後になるほど専門的メディアに比較的長いものが出る。すでに『図書館界』には昨年のうちに書評が出たが、その後、図書館やアーカイブ関係の学会誌に出るようになった。次の3本である。
① 大沼太兵衛氏 デジタルアーカイブ学会誌 5 (4), 258-258, 2021 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsda/5/4/5_258/_pdf/-char/ja
② 小林昌樹氏 日本図書館情報学会誌 68 (1), 45-46, March 2022
https://doi.org/10.20651/jslis.68.1_45
③ 寺澤正直氏 アーカイブズ学研究 / 日本アーカイブズ学会 編 (36) 62-69, 2022-06
このうち、③はほとんど内容の紹介なので、①と②について応答しておきたい。
まず、①であるが、大沼氏は白水社から出ている文庫クセジュ・シリーズのブリュノ・ガラン著『アーカイブズ:記録の保存・管理の歴史と実践』の訳者であるが、同時に国立国会図書館の職員でもある方で、その意味でアーカイブズも図書館も分かるということから、依頼されたのだろう。現時点ではこれだけがオープンになっている。書評において、評者が「端的に言えば、著者の問題意識の根本にあるのは、人間の知の最も基本的なメディウムである「言葉」という装置である。著者は、プラトン以降、二千数百年間の言葉と知を巡る実践の様々な局面にロゴスとパイデイアという光を当てることで、総体としてのアーカイブという営みを描き出すことに成功している」と評していただいたことはありがたい。本書の副題に「言葉を知に変える仕組み」としたのはまさにそこの部分で一貫性をもたせたかったからである。だから、書評のその前段に、「著者は、これらの広大な主題群(中略)の全体に対してアーカイブという投網をかけ、まず西洋社会が知の制度を整備していった過程を概ね時系列順に辿り、それを踏まえて日本の特殊事情および現代の課題について検討を行う」と本書の方法について短くまとめていただいていることも本書を的確に把握していただいていると考える。
そういう読みをしているからこそ、「本書で展開される各論の中には、特定の文献のみを論拠としているように見受けられる記述が散見され、また、細部における事実確認等で若干の詰めの甘さが残る点は、白璧の微瑕と言えるかもしれない」という苦言が呈されると、それは何を指しているのかと思わざるをえない。確かに、本書は基本的に二次的な文献から得られたテキストを撚り合わせることで記述している。かなり広汎な領域を渉猟することで成り立たせているから、思わぬところで基本的な誤りをしている可能性はある。だが、この評言の前段の「特定の文献のみを論拠としている」ことの問題点については、この本の基本的コンセプトに関わるので、それが何なのか具体的に指摘していただかないと納得がいかないところである。
次に②である。評者小林氏の指摘のいくつかの点について述べておく。まず、本書がなぜ「アーカイブ」という用語を使うのかを問題にしている。そして、過去を振り返るために知を蓄積して利用できるように仕組みとしているこの用語が「1950年代なら"図書館現象"という術語にあたる」としている。図書館現象は確かに第二次大戦後に図書館の社会的現象を記述するのに用いられた。今、その初出が何であったのかを確認する余裕がないのであるが、おそらくは第二次大戦後の英米の図書館学でブラッドフォードの法則のような計量書誌学やシカゴ大学GLS(図書館学大学院)の公共図書館利用者調査のような実証主義的な研究が現れ始めたときに使われた用語ではないだろうか。要するにそれまであいまいに図書館に関わるものを扱うプロフェッションの領域だった図書館学の対象を指す言葉であったと思われる。その文脈で言えば、私はGLSにいたピアス・バトラーとその弟子に当たるジェシー・シェラの思想を意識していることは確かで、彼等こそlibrary phenomenaそのものを扱おうとした人たちだったと考える。ただ、バトラーは西洋の人文主義に図書館を位置付けようとしたが、シェラ以降の人たちは実証主義に引っ張られすぎていた。そしてシェラ以降の図書館(情報)学の影響を受けた日本で、さらにいびつな形でそれが現れたことに対する批判が本書を書く背景にあったことは確かである。
次に小林氏はアーカイブの思想というときに、アライダ・アスマンの『想起の文化』(岩波書店, 2019)を引き合いに出して、記憶文化論では記憶がどのようにして残るのかという観点の重要性を強調する。この観点は書いているときにそれほど意識はしていなかったが、書き終えて、20世紀初頭にモーリス・アルヴァックスの記憶の社会的構築論の先行研究があり、とくに第二次大戦以降、アスマンも分析対象にしているホロコースト犠牲者の記憶問題は多くの研究が行われ、日本でも沖縄、ヒロシマ・ナガサキの追悼、慰霊と社会的記憶の問題、そして、阪神淡路大震災や東日本大震災(と東電原発事故)の記憶装置の問題と多数の検討が行われていることに気づいた。アーカイブの思想に関わる機関として図書館、文書館、博物館を意識しているから、当然この問題は避けて通れないと考えている。とりあえずは、JSPS科学研究費を申請して認められたので、今年から5年間河村俊太郎さんと「マージナルな歴史的記憶を負荷された地域アーカイブ研究」(22K12717)というタイトルの研究を行うことにした。
あとはその「記憶の残し方」として、『百科全書』の索引と江戸の類書の手法の違いの分析の必要性、私が日本の近代で図書館より出版自体がアーカイブの機能をもっていたと書いたことに対して古書流通に着目する必要性、NDLの調査及び立法考査局でも法令索引や国会の議事索引などをつくっていることなどの点が指摘された。いずれも、すでに日本でもアーカイブの実践が存在していることの再確認かと思われる。『アーカイブの思想』はまさに骨組みだけの本だから、個々に具体的に展開することによって豊かなものにつながると考えられる。そうした展開の際の指針を提供できたとすれば書いた目的は達成されたことになる。
アーカイブの思想のフォローアップ
最初の方のなぜアーカイブの思想なのかという問いであるが、それは図書館情報学ではなくて、日本で行われてきた人文学のコンテクストにここでいうアーカイブを位置付けたいという思いがあるからである。「思想」という言葉を使っているのもそうだし、サブタイトルの「言葉を知識に変える仕組み」もそうである。これらは人文学の中心的課題であるが、その一連の議論のどこかにつながることがあればよいのではないかと考えていた。
本書の刊行をきっかけにして、いくつかの学会や研究会、授業に招致されて講演する機会を得て、自分の考えを改めてまとめ直すことができた。その一部を示すと、
④「知識資源システムとは何か(図書館と知識資源の新たな動向)」『三色旗』(慶應義塾大学通信教育部)No.836, 2021.6, p.31-38.