2025-02-19

パトリック・ウィルソンの図書館情報哲学について

Facebookに次のように書きました。

パトリック・ウィルソン(齋藤泰則訳)『知の公共性と図書館』(丸善出版)が出て,訳者の齋藤さんから送っていただきました。

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306232.html

ウィルソンは20世紀後半のアメリカ図書館情報学において哲学的な言説を説いた数少ない人です。2000年代初頭に亡くなった頃から再評価が始まり,先に翻訳が出た『知の典拠性と図書館』とともに図書館の理論を語るときにこれらの著作を踏まえることは必須となっています。

20世紀の図書館(情報)学には,ピアス・バトラー⇒ジェシー・シェラ⇒パトリック・ウィルソン⇒ビアウア・ヤアランの系譜があったことは知る人ぞ知るというところです。


書いたのはいいのですが,日本の図書館関係者でも彼のことを知っている人はほんの数人しかいないのではないかと思い返し,少し彼のことについて書いてみたいと思います。まず,パトリック・ウィルソン (1927–2003)は,カリフォルニア大学バークレー校の図書館情報学大学院で長らく教授を務め,図書館情報学理論を深めた人です。 彼はここの修了生ですが,同大学図書館で主題専門図書館員としての仕事の旁ら,同大学大学院博士課程で分析哲学を研究し博士の学位をとります。他分野で博士号を取った人が図書館員養成の大学院の教員になる例は多くないのですが,彼はその教員となり,哲学的な視点からの図書館情報学の研究を継続したわけです。彼の伝記事項はここにあります。

なお,彼をパトリック・ウィルソンと書くことが多いのは,20世紀後半にこの分野で活躍した人に英国にT. D. ウィルソン(Thomas D. Wilson)がいたので,区別する意味があります。この人は情報探索行動やツールの実証的研究をした人です。

パトリック・ウィルソンの図書館哲学3部作は次のものです。

1. Wilson, Patrick (1968). Two Kinds of Power: An Essay on Bibliographical Control. University of California Press. p. 155. ISBN 978-0-520-03515-7.

2. Wilson, Patrick (1977). Public Knowledge, Private Ignorance: Toward a Library and Information Policy. Greenwood Publishing Group. 156p.  (齋藤泰則訳)『知の公共性と図書館』(丸善出版) 

3. Wilson, Patrick (1983). Second-Hand Knowledge: An Inquiry into Cognitive Authority. Greenwood Publishing Group. 210p. (齋藤泰則訳)『知の典拠性と図書館』(丸善出版)

(3の原著ももっていたはずなのですが,引っ越し他のごたごたで行方不明です。)

今回出たのは2の訳で,昨年9月に3の訳が出ました。最初の本については今のところ翻訳の予定はないと聞いています。しかし,これも含めて紹介しないと,ウィルソンの思想は明らかにできないでしょうね。これらが何について書いた本なのかを,学説史的なことは省いて乱暴にまとめておきます。

 

1 『2種類の力:書誌コントロール試論』(原著1968)

「書誌コントロール」という概念が20世紀半ばから使われてきましたが,それが何であるのかを明らかにしたということです。書誌コントロールは,資料を蓄積し組織化して提供する図書館を典型としたサービスが,書誌(資料を記述したもの)を中心として成立しているというものです。図書館の目録,レファレンスのための索引や抄録,各種のデータベースなどすべて,資料(図書館用語では書誌的単位)を記述し,そのリストに対して検索をかけることで必要な資料にたどりつくという仕組みになっています。つまり図書館サービスとはそうした資料組織法を中心として成立しているという考え方です。

20世紀半ばにこれを最初に主張したのは,当時シカゴ大学にいたジェシー・シェラとマーガレット・イーガンという人たちでした。20世紀後半に,書誌コントロールはすべてコンピュータデータベースで処理するようになり,図書館システムの発展とMARCや書誌ユーティリティの仕組み,オンラインデータベース,そしてインターネット以降はWebOPACやマルチDB検索サイトへのアクセスなどを通して,この仕組みは定着していきます。私たちが資料を使うときに,直接書店(出版流通の仕組みも書誌コントロールを踏まえています)や図書館に行ったり,WebのデータベースやWebOPACを使って資料があるかどうかを確認したりするのも,いずれもこの書誌コントロールの作用だということになります。

書店や図書館の書架を見てブランウジングする行為も書誌コントロールに該当するのですが,それは書架での資料の並び方や使う人がどれだけ資料について知っているのかによるものであり,人によってだいぶ異なる資料探索過程になります。図書館の側は資料を分類表に沿って分類して排架したり,目録規則に基づいて記述して検索できるようにしても,それをどのように理解して使用するか(多くの場合,あまり理解しないままに使っている)は利用者次第です。ウィルソンは書誌コントロールの一つ目は,分類,目録,索引,抄録のような図書館ツールや書誌データベースに基づく資料検索で,これを記述的コントロールと言っています。それに対して,情報や知識を求める人たちは記述的コントロールだけに頼ることは多くはなくて,もっと多様な探索をしているからその過程全体を書誌コントロールというべきであり,そのことを実効的コントロールと呼んでさまざまな思考実験を行います。実効的コントロールについての議論が第2,第3の本の起点となっています。

タイトルの「2種類の力」というのは書誌コントロールには記述的コントロールだけでなく,実効的コントールがあることを指し,この本は図書館関係者が図書館や書誌データベースの整備に力を入れているが,もっと全体的なプロセスを見て考察すべきことを説いたものです。

2『知の公共性と図書館』(原著1977, 邦訳2025)

副題に「公共的知識と個人的無知の対比」とあります。図書館には知を利用者に媒介する機関であるという前提があり,図書館が行う記述的な書誌コントロールは分類,目録,排架,レファレンスサービスなどを通じて蔵書に含まれる知を提供するものです。利用者の立場からすれば,知とは周りの人々,学校,大学,マスメディア,手持ちの本や雑誌などを通じて自ら獲得してきたものの集積であり,個人的なものというのが第一でしょう。では「公共的知識」とは何でしょうか。確かに図書館に蓄積された書物や雑誌には知が含まれているのでしょうが,それらは読んで理解しなければ知とはなりません。今なら「ググる」とか「生成AI」のチャットで聞けば簡単に知が獲得できるから,公共的な知識はネットやAIにあるという見方もできるかもしれません。これが書かれた当時はそんなものはなかったので,ウィルソンはブリタニカやアメリカーナといった百科事典を引き合いにだして,それが公共的知識の代替物としてどのようなポジションにあるのかも検討しています。

さらに,彼は「個人的無知private ignorance」という概念を持ち出します。知はあくまでも個人のものであるから,個人が意識を向け耳を傾けたり読み取ろうとしたり,調査しようとしたりしない限り得られないものです。とすれば,公共的知識が本来カバーすべきもののなかに,個人がもつべき知識が含まれる可能性があります。これが個人的無知です。公共的知識と個人的無知の間のギャップをどのように縮めていくのかは,本来教育の問題でもあるわけですが,同時に図書館の問題でもあるわけです。というのは,図書館は最大の公共的知識のインフラであったからです。また,書誌コントロールはこのギャップを埋めるための方法的概念と解釈することもできます。

書物や雑誌記事といった形をとった知識は一旦つくられればそれ自体はモノとして固定され動かないものですが,知識は人間の認識や行動,判断として現れる動的な存在です。本は読まれなければただのモノに過ぎないわけですが,書かれ誰かに読まれ,読んだ人がそれによって何らかの行動をすればそれは知識の作用ということになります。本が読まれたり読まれなかったりするのに影響を与える要因は何でしょうか。著者の名声,出版社の評判,雑誌や新聞に出た書評や広告,書店の店頭や図書館の新刊書棚での出会いなど多様なものがあるでしょう。誰しも買っただけでちょっと目を通したが通読していない本(積ん読本)をもっているでしょう。これは,何らかの出会いによって知ってそれを手元に置いておきたいと考えたから起こるものであり,その本,その著者との出会いが重要との考えから来ます。とくに図書館は蔵書が永久的に蓄積され,多様な書誌コントロールの手法が提供されていくならばそうした潜在的な出会いをつくりだす場と考えられます。

このように個人的無知と公共的知識を結びつける方法は多様にあることが示されます。本書は,個人と社会の知識基盤をつなぐための図書館の戦略的な位置づけについて考察した著作です。

3 『知の典拠性と図書館』(原著1983, 邦訳2024)

第3の著書の副題は「間接的知識の探究」となっています。この間接的知識というのは,自分が見聞きしたり経験したりして確信をもった知識(これが直接的知識です)とは異なり,誰かの請け売りだったり,マスメディアや書物,雑誌などで読んで得た知識です。間接的知識はその意味で今話題のフェイクや誤情報といったネット上で問題になることに関わります。この本の帯に「誰が言っていることが正しいのか」と大きくあり,「本書は今まさに,現代的な視野狭窄を修正する。「専門家が著す文献」への公平なアクセスを保証する図書館の重要性」について述べているとあります。つまり情報や知識の信頼性はどこから得られるのかということがテーマになります。

著者はここで「知の典拠性cognitive authority」という概念を持ち出します。書物や雑誌,新聞といった近代に成立したメディアは,それ自体に編集や校正・校閲というコンテンツの真正性を高めるためのプロセスを内包させています。(もちろん,それ自体を機能しない事例が増えていることも確かですが,それはさて措きます。)とくに,学術の制度化が進展すると,知のオリジナリティや質を確保するためのピアレビューが始まります。これは通常は査読と呼ばれるもので,複数の匿名の第三者が論文や著書を読み評価して一定の基準をクリアしたものを学術知として公表するものです。

知の公共性はこのように典拠性を保証することで保つことができるということです。ここで通常なら権威という訳語が与えられるauthorityを典拠としているのが訳者の工夫です。権威は政治学的な概念であり,典拠は人文学的な概念であり,少々ニュアンスが異なりますが,何らかの作用や影響力を皆で認めるプロセスを指します。とくにこの場合にメディアや知を媒介にしたものを問題にしているので,典拠性という訳語はしっくりくると思います。(典拠性については人文系で用いるカノンcanon(正典)という概念とも関係が深く,批判的に用いることも可能です)

まとめ

1のタイトルがTwo Kinds of Powerだったことを思い出す必要があります。20世紀半ばの時期が戦争や軍事力,原子力の在り方が大きな問題になっていたことを考えると,control とかpowerというとらえ方の源泉が分かると思います。また,その後の2著についても「知」や「典拠=権威」といったものが,書物や図書館の背後にあるものであり,きわめて政治力学的なとらえ方が特徴的だと言えるでしょう。

ウィルソンはもともと分析哲学から図書館情報学の領域に入って,他の研究者とは違って図書館やそこに関わる知の作用を冷静に観察して,以上のような考察をしました。哲学者が分かりやすく表現してもどうしても文章は堅くなり,あまり読みやすくなかったことも手伝い,英語圏においても彼の議論を本格的に論じることは行われてきませんでした。しかし,彼の議論については彼の卒業生の一人ハワード・D.・ホワイト(インディアナ大学名誉教授)が全体の論旨を紹介する論文を書いて全容が明らかになりつつあります。https://www.isko.org/cyclo/wilson

また私も『知の図書館情報学』(丸善出版)でウィルソンを四半世紀ぶりに論じましたので,もっと知りたい方はどうぞご覧下さい。

今,刊行されてからすでに40年以上過ぎている本が注目される理由は,まさにネット上の知の氾濫,サーチエンジンやSNSの害,生成AIと人間の知との関係などが露わになってきたことにあります。彼の古典的議論はそうしたそうした「機械の知」に対する「人間の知」の再構築を考える際のヒントが多数含まれています。

なお,余談ですが,ウィルソンの三部作はカントの三大批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)と相互の位置づけがちょっとだけ似ている気がします。1が認識論,2が実践論,3が1と2をつなぐための方法論的議論をしたものという意味です。ウィルソン本人の言が残されているわけではないのですが,物事に対して根源に迫ろうとすると思考パターンが似てくるのかもしれません。これは弁証法的な展開ということになるのでしょう。





2025-01-05

図書館情報学と生成AI——ネット社会30年とこれから

2025年になりました。昨年、2冊の単著(『図書館教育論』『知の図書館情報学』)を出したことでこれまでの総括を行い、次の課題を考えようとしているところです。情報技術において、生成AIが目下の最大の話題になっています。私も翻訳技術に使うAIのすごさに驚かされて、にわか勉強でこの技術が大きな可能性をもつことを実感しました。しかしそれだけでなく、この技術の限界を理解し、共生することの重要性も認識しました。

日本の経済状況を指すのに「失われた30年」という惹句がありました。コロナ明けのインフレ状況のなかではあまり聞かれなくなりましたが、私は日本の情報技術の「失われた30年」はまだまだ続くのではと思います。というのはインターネットが一般的になってからちょうど30年の節目の今年、日本でもICTのインフラが(ちぐはぐながらも)整ってきたように見えるなかで、急に立ち上がってきた生成AIの技術ですが、これが相変わらず米国を中心とする外国で開発されているからです。

インターネットからインテリジェントプラットフォームへ

情報技術は、もともと軍事技術だったインターネットが20世紀末に民生化されたことを契機に始まります。1995年にNSFNetが民間へ移管されたことをもってインターネット元年と呼ばれることがあります。冷戦体制終了後のこの頃に世界を自由につなぐ通信網が現れたことには大きな意味がありました。Windows95が発売された年でもあり、新しいネット社会への移行が始まります。


私は1990年代前半に図書館情報大学(現筑波大学図書館・知識情報学群)にいた頃に、見よう見まねでUNIXのコマンドでネット接続を行い、すでに学術世界においては図書館OPACの公開、データベースの公開、Gopherでの情報提供、メーリングリストでの情報共有などが行われていることを知り、新しいことが起こっていることを感じました。そのことをどこかで知った編集者の依頼で『入門インターネット』(日本能率協会編、1995)という本に「電子図書館としてのインターネット」という文章を書きました。この本の帯には「文系のためのインターネット解説書」とありましたが、技術屋ではなくふつうの人でもネットにアクセス可能というメッセージを伝えることができると同時に、電子図書館の可能性を考え始めたのもその頃でした。(とは言え、『電子図書館の神話』(勁草書房)という翻訳書を1996年に出して、文系的な備えもしようとしていました。)その後、ゼロ年代のインターネットは、メール、掲示板、WWW、ブラウザ、サーチエンジンといったものが中心で、基本的にはテキストベースでやりとりし、ネット上のコンテンツはオープンであることが前提でした。それがインターネットが電子図書館にもなりうるという言説を生み出す根拠にもなりえます。

このあたりまではネット状況に着いて行けたのですが、その後、2010年代にビジネスベースのSNSやマルチメディア・プラットフォームが席巻し始めたあたりから、全体状況を把握することが難しくなってきました。何よりもインターネットはオープンネスよりも、ビジネスや広告目的で顧客を取り込む商業的プラットフォームを提供する場となったことが、当初の予想と大きく異なるものでした。経済生活に関わる多くのものがネットベースに移行するようになりました。それには、スマートフォンやタブレット端末などのハードウェアの発展も大きく関わっています。

それでもここまでのインターネットは、ビジネスベースにせよ、公共サービスにせよ、オープンベースにせよ、取引、データ処理、情報データベースといったものの場がネット上にあって、どれを選択するのかについては、(サーチエンジンに頼る際のバイアスや広告的作用はあるにせよ)使い手に委ねられていることを前提にしていました。ところが、ブラウザとサーチエンジンに生成AIが組み合わされることで、ネットは単なる情報獲得手段にとどまらず、人工知能(AI)そのものになろうとしています。人は端末に何かの問いを投げかけることで、回答が得られます。そのうちに、問いのパタンを学習したAIは先んじて情報を提供することができるようになります。人が自らの行動の助言や指示を求めればそれも提供されることになります。実はサーチエンジンやSNSにはそれに似た機能はすでに組み込まれているわけですが、いっそう精緻に(あるいは巧妙に)装備されます。

生成AIにはバイアスやフェイク、誤りが含まれていることは明らかですが、使用する人の多くはそれに気づかず便利さを追求することで、このインテリジェントプラットフォームを受け入れる方向に進んでいます。人々が受け入れたものは、さまざまな価値をもともともっている方向に拡張させます。それにより、社会的には多様な価値が拡散されてその多元的な状況が支配することになります。リベラル的でコモンズ的な価値が主張される一方、力による解決を求める強権的な価値が主張されます。これらは多元的なベクトルを構成するので、ある主張はコモンズ的でありながら強権的な価値を支持することが十分にありえます。これらは以前から存在していたものですが、成立した価値は生成AIの自己学習原理によってさらにそれぞれのベクトルの方向にさらに拡張されます。生成AIと結びついたメディア環境は価値とは一線を画しますが、こらが多方面に拡大されることにより知らず知らずのうちに社会を大きく変貌させるのです。私はここ10年で進行している専制的な政治の強化や感染症に対する根拠のない対策、ウクライナ・中東における戦争、トランプ再選も含めた西欧諸国における保守的な政治状況はいずれもこの変貌の現れだと踏んでいます。

これらは、生成AIがもたらす一つの仮想的状況です。欧州連合(EU)は、この予想される未来が特定の企業がすべてのプラットフォームを独占することによって生じるとし、その歯止めとして、「デジタル市場法(DMA:Digital Markets Act)」と「デジタルサービス法(DSA:Digital Services Act)」を2022年、2023年に制定しました。DMAは「プラットフォーム市場における市場支配力の濫用防止や、公平で公正な競争の確保など」を規定し、DSAは「プラットフォーム市場における違法、不適切なコンテンツの排除や、適正なサービスの提供、透明性の確保など」を規定しています。こうした包括的な規制は寡占化されたプラットフォームの市場支配力を弱める働きをするでしょうが、先ほどの統合されたインテリジェントプラットフォームに対する真の意味での規制にはならないでしょう。

ひとつにはこの規制を強めれば、言論表現の自由という原理に抵触する可能性が出てくるからです。ここには、法的な規制とビジネスの自由、そして倫理的な歯止めとの間の複雑な関係があります。問題は従来の市場独占的な経済の問題ではなく、インテリジェントという、知に基づく政策判断や経営判断、そして社会行動にもたらす影響にあります。プラットフォームが独占されずに分散的であっても、過去の知のアーカイブに基づく生成AIの学習作用は結局のところ集合的に同じような作用をもたらします。

インテリジェント環境に対する図書館情報学の構え

生成AIについては話題になったこの2〜3年の間に多数の解説記事や本が出されています。詳しくはそうしたものを見てもらうことにして、ここでは大雑把に、大規模なテキストやドキュメントのデータの蓄積を多層的で多元的に分析したものにより、人の知能の働きをシミュレートさせることと言っておきます。データの蓄積と分析という点でテキストやドキュメントを再構成しているということができます。こうした点でドキュメントの蓄積と組織化を研究してきた図書館情報学との親和性があるわけです。

そのためにAIを理解するためには、図書館情報学で従来から知とはどのようなものと考えられてきたか、知識を利用するとはどういうことかを理解することが有効です。私はこの問いに対する自らの答えとして『知の図書館情報学』を執筆しました。これにより、西欧の図書館情報学理論的水準の一端を示すことができました。しかしながら、本書を書きながら、図書館情報学において日本ではほとんど未開拓だった領域があることに気づきました。こうして、これを皆で学ぶために、知識組織論研究会を呼びかけてオンラインですでに2回の会合をもちました。メーリングリストでは意見交換も活発に行われています。

生成AIは情報検索論の延長上に現れた技術ですが、あくまでも人間の行動の記録であるテキストやドキュメントを多元的に分析してシミュレートしているものであり、アーカイブとしての限界があることは明らかです。この限界を理解するには、人間の知的行動の原理を明らかにする必要があります。そうしたことは哲学や脳神経学、心理学、社会学などから幅広い検討が行われていることは周知の通りですが、図書館情報学ではもともとそれをサービスベースで支援する目的で検討されて来ました。情報資源組織論やレファレンスサービス論はそうしたものでしたが、国際知識組織論学会(ISKO)はこれを他の基礎理論を踏まえた議論を積み重ねて、IEKO(知識組織論事典)としてオープンにしています。この項目をひとつずつ読んでいくことによって西欧的な知識組織論の全体像を把握して、私たちの理解に役立てようというのです。

ここ1年ほどそうした取り組みをしてきて、現在の生成AIの状況に対抗しうる図書館情報学の理論の系譜を辿ることにしました。それは、人が知識を獲得する過程を図書館員が媒介する行為と、生成AIの仕組みとの違いがどこまで明らかになっているのかを知りたいと考えるからです。

20世紀の図書館情報学で理論的な議論を展開した人に、アメリカの哲学出身の図書館情報学者パトリック・ウィルソンがいます。彼の3冊の単著のうち昨年『知の典拠性と図書館』が出て、この1月末に『知の公共性と図書館』が出ます。(最初の著作Two kinds of power: an essay on bibliographical controlの翻訳は予定されていないようです。)ウィルソンの著作は必ずしも読みやすくはありませんが、その独特の哲学的レトリックにより、従来の図書館情報学が無視してきた知の領域の存在を明らかにしました。 それは個人の認識と公共的な知との関係および、知がいかにして公共性や典拠性を帯びるのかといった問題です。図書館情報学はドキュメントを扱いながらそれらが知の要素であり、図書館は知のエージェントであることについて無関心だったことを、彼は批判しました。

ビアウア・ヤアランはIEKOの編集長を務めている知識組織論の中心的人物の一人です。かれが書いた次の著作は、IEKOを読むための基礎理論として無視できません。

Birger Hjørland, Information Seeking and Subject Representation: An Activity–Theoretical Approach to Information Science. (Greenwood Pr. 1997)

(この本のエッセンスは次のインタビューで読むことができます。.)

ヤアランの著作は、ウィルソンの議論が図書館情報学を批判しながらそれを回収するための方法について具体的に提示していないと批判した上で、自らの認識論的=活動主義的議論を展開しています。また、彼は20世紀後半の図書館情報学が情報行動論を中心に展開したことに対して、それが心理主義に陥っているとして批判的です。この点で、アメリカの情報行動論の中心人物マーシャ・ベイツとのやりとりがあります。(JASIST, 59(5):842-844)

ヤアランは、知識組織論における「主題」の問題に焦点を当てます。図書館情報学ではドキュメントが扱う主題とは「分類表」や「件名標目表」から適切なものを選んで付与するものと理解されています。しかしながら、その分類表や件名標目表がどのような考え方でつくられているのかを考えてみると、一筋縄ではいかないことが分かります。また、私自身も自分の本の巻末索引をつくるのですが、そこでは著者名や固有名詞は扱いやすい反面、主題に該当する事項索引となると簡単ではありません。主題subjectは、哲学では「主体」「主観」と訳され、言語学では「主語」とされます。sub-は「下に」を意味する接頭語なのに、日本語だと「主」が付く転倒はどこから来るのか。これは欧米でも同様であり、ここに人間の認識についてのしっかりとした考察が必要であることが分かります。ヤアランはドキュメントの主題を表現するために西洋の哲学史を紐解き、合理主義、経験論、実証主義などの認識論や科学論を検討しながら、図書館情報学における主題表現の理論は可能であると述べます。彼はこの著作で主題概念について認識論的な基盤をつくったあとで、そうした議論をベースにして、21世紀になって彼が「ドメイン分析」と呼ぶようになる活動主義的な議論を展開します。本書はIEKOに至るための前提的議論をした著作ととらえることができます。

他方、前にブログに書いたマーティン・フリッケは『人工知能とライブラリアンシップ』を著し、図書館員はこの状況に対応できる職であることを述べています。なぜか。それは少なくとも欧米諸国では図書館がテキストを含むドキュメントの蓄積、利用に関わる社会的機関であり、図書館員のノウハウがライブラリアンシップと呼ばれるものだからです。フリッケは、AI技術に対して図書館員のできる役割として次の5つを挙げます。それは、「シナジスト(相乗効果の仕掛け人)」「セントリー(バイアスやパターナリズムの監視者)」「エデュケーター(市民にとっての情報リテラシーの教育者)」「マネージャー(AI技術と図書館技術を組み合わせる情報管理者)」「アストロノート(こうした状況を俯瞰できる宇宙飛行士)」です。

彼がこうした考えに至る際のライブラリアンシップとは何であるのか、その理論的考察はこの本には軽く触れられているだけで、それは前著に委ねられています。それが次の著作です。

Martin Frické, Logic and the Organization of Information. (Springer, 2012)

(本書を読んで刺戟されたAlan Gilchrist他の専門家数人が、書評に代わる短いエッセイJournal of Information Science誌に発表し、それらはオープン化されているのでご覧下さい。)

この本を要約するのもまた難しいのですが、基本的には知識組織論(彼は情報組織論と呼ぶ)を適切に要約した上で、言語の階層性と包含関係、そして意味的なネットワークの分析に論理学を適用して検索システムの論理の可能性と限界を明らかにしようとしているとひとまずまとめることができます。 現代の情報検索や知識の組織化は、論理学、数学、言語学という 3 つの分野の融合に基づいていますが、そこに健全なプラグマティズムが組み込まれることにより、形式論理だけに依存しない実際的な議論が構築されています。フリッケがその後の『人工知能とライブラリアンシップ』で図書館員という知識組織論の専門家が介入することでAIの限界を超えるというのは、こうした論理性とプラグマティズムのいずれもAIでは実現されないからです。(少し原理的なことに触れると、生成AIは、記号やデータ構造のシミュレーションを行うものであって、言語の意味や論理はまったく配慮し得ないし、また、プラグマティズムは人間の行為や目的を基準にする思想であってAI分析の基になる(過去の)データからは得られないことはすでに明らかにされています。)

おわりに

今挙げたヤアランとフリッケの著作については、今後、きちんと読み解いて日本の読者にも全容を明らかにしようと考えていますが、それには少し時間がかかりそうです。

冒頭で日本のネット社会の遅れという話しに触れました。『アーカイブの思想』を書いたりしたことで明らかになったと思われるのは、日本社会のドキュメント=アーカイブの仕組みは欧米社会のものとかなり異なっているということです。それは欧米出自の図書館情報学を研究してきたことから、これまでのコンピュータ関連の技術はすべて欧米社会がもつテキストアーカイブという知識組織論の伝統の上に成立してきたことを強く感じるからです。だから、図書館の制度化やデータのオープン化、ネット社会や知識組織化の仕組みのような情報技術の観点からは弱点として働いてきたと評価されてきました。とくに情報ビジネスでは完全に遅れをとりました。

しかしながら、生成AIがインテリジェントプラットフォームとして確立されると、そうした差はあまり気にしなくともよいのかもしれません。むしろ、日本的なアーカイブの仕組みはマルチモーダルなプラットフォームと相性がよく、こちら方面から新しいものが日本から生まれるかもしれないと考えることもあります。日本文化が西洋的なものと異なる出自をもつが故の可能性については、別の機会に書いてみたいと思います。


2024-12-21

ヘンリー・ブリス『知識組織論と学問体系』(1929)へのジョン・デューイの序文

 知識組織論研究会(KORG_J)はこの9月から3ヶ月おきに開催しており,その第2回(12月14日)に「知識組織論」そのものをテーマにした議論を行った。IEKOという専門事典の概説的項目であり,知識組織論そのものが未だ固まった学術的領域となっているわけでもないので,読むものもあまり具体的な議論と言うよりは概念的な議論が多かった。そのなかで,知識組織論の歴史について触れている部分で、古代ギリシアのアリストテレス以来の伝統があるが,とくにここで焦点を当てているプラグマティックな知識利用やその効用についての議論は,19世紀後半くらいから始まっていると述べられている。そのなかで知識組織論そのものを論じ実践した人に,ヘンリー・ブリス(Henry E. Bliss 1870-1955)という人がいたことが強調されていた。彼については,IEKOに項目があって詳しく記述されており,英語版のWikipediaにも項目があって読むことができる。(今は英語のものもブラウザの翻訳機能を使ってすぐに読めるので目を通すことをお勧めする。)


日本の図書館情報学では分類論の歴史を扱っても,DDC,UDC,コロン分類法くらいしか触れないので,ブリスの書誌分類法(Bibliographic Classification: BC, 1940-1953)については知らない人が多いだろう。ブリスはニューヨークシティ・カレッジの図書館員を長く務めながら分類の理論研究とそれを体現したBCの開発に取り組んだ。しかしながらBCはアメリカではあまり使われず,イギリスの図書館で使われた。1977年から刊行が始まったBC2はイギリスの図書館員ジャック・ミルズを中心に開発された。ランガナタンのコロン分類法とは分析合成型分類として互いに影響し合って発展してきたと言われる。

ブリスは学究肌の人でBC以外の重要な業績として2冊の研究書がある。

Bliss, Henry Evelyn. 1929. The Organization of Knowledge and the System of the Sciences. New York: Henry Holt.

Bliss, Henry Evelyn. 1933. The Organization of Knowledge in Libraries and the Subject Approach to Books. New York: Henry Holt.

これらの著作は図書館の分類法が学術的な営為と密接な関係をもつことを厳密に記述しようとするものであり,図書館学の理論派の人たちや外部の哲学や科学史などの分野の人々からは賞賛された。しかしながら,米国図書館界ではすでに学術図書館ではLCC,公共図書館や学校図書館ではDCCが普及していたので,その晦渋な文体もあって批判されたり無視されたりした。このあたりは,IEKOのブリスの項目に詳しく書かれている。ブリスの研究の学術的評価を高めた要因の一つに,1冊目の知識組織論と学問体系をテーマにした本に哲学者・教育学者のジョン・デューイの序文が付けられていたことがある。筆者は,ジョン・デューイが図書館学ないし知識組織論と哲学・教育学とを結びつけるキーパーソンであると考えているのでこの序文を以下に訳出しておくことにする。(ジョン・デューイの哲学・教育学が図書館にどのように関わるのかについては、筆者の近著『図書館教育論』『知の図書館情報学』の重要なテーマである。)

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序文 

私たちは皆、たとえ図書館を頻繁に利用する人であっても、図書館について主に自分自身の個人的な必要性に引きつけてとらえていると思われる。私たちは図書館を当然のものと考え、必要なものを必要なときに提供してくれるという実際的な効率性で図書館を判断する。ブリス氏の記念碑的な著作は、この狭い個人的な態度にインパクトを与える。この本が明らかにしていることで印象的なのは,図書館の組織化の問題が一方では知識の学術的教育的組織化と、他方では社会組織の促進と関連していることである。さらに、この本は、知識同化を進め効果的にするための心理学的問題や、科学の統一、相互関係、分類といった問題に含まれる論理的および哲学的な問題を扱っている。

もう一方の社会的側面では、私たちの実践的な活動が科学的発見、知的進歩、真の知識の普及にますます依存していることも明らかにしている。社会組織は、組織化された知識をうまく活用する能力にますます依存するようになる一方,伝統や単なる慣習への依存は少なくなっている。

この扱いの根底にあるのは、特別で特殊なものと包括的で一般的なもの、理論と実践、組織化・標準化と自由および絶え間ない成長と変化によって課せられるニーズ,これらの相互関係についての健全な哲学である。参考にされた堅実な学問の範囲は、一般の読者にも明らかである。しかし、そこでの学問と哲学は効果的に扱われており,同時に文体と素材の扱いは明快で直接的である。

現代の図書館は、より統合的な社会生活を送るのに,知的な統一化とその実際的な適用という 2 つの大きな潮流が交わる交差点に立っている。ブリス氏のこの著作は、この事実をよく裏付け、徹底的に学術的に実証している。

彼は、図書館の組織化の問題全体を、現代の生活条件下では図書館が中心的で戦略的な位置を占めていることが明らかなレベルにまで引き上げるのに貢献する。ブリス氏の考えに従うにつれ、読者は図書館が単なる本の保管庫ではないし、さらに恣意的な分類では実際的なニーズさえ満たさないことを理解するようになる。実用的な面で効果的な本の分類は主題の関係に対応していなければならないが、この対応は、知的または概念的な組織が知識の分野に固有の秩序に基づいている場合にのみ確保され、その秩序は今度は自然の秩序を反映する。図書館は実用的な目的を果たすが、実用的なツールと手段が、自然の現実に対応する主題の固有の論理と一致しているときに、最も効果的に機能する。さらに、図書館における知識の適切な組織化は、知識と経験の達成された統一の記録を具体化すると同時に、さらなる知識の発展に不可欠な手段も提供する。

知識は専門化された断片の増加によって成長する。しかし、専門的な職業人が自分のやっていることの関係や意味に気づかないことがないように,つまり最終的に混乱を招かないようにするには、包括的で統一的な原理に基づいた中心的秩序がなければならない。しかし、その秩序は、新しい予期せぬ発展に適応できるほど柔軟でなければならない。この広範で自由な精神の結果、ブリス氏のこの著作は、図書のサービスに直接携わっている人々にとっての特別な価値に加えて、生活における無秩序と混乱から秩序と統一に移行する際の,知識の組織化と相互関係の影響に関心を持つすべての人々にとっても重要である。多様な材料を利用して複雑な問題に知的に協力しながら集団で取り組むことは、現代生活の顕著な動きである。

ブリス氏の著作の包括的な計画に含まれる多くの特別な興味深い点のうち、私が特に注目したい点が 1 つある。教育の最も広い意味で言えば、この著作の主な関心事は教育である。図書館組織の理想の課題は、一般大衆と専門分野の従事者の両方に提供することができる教育サービスである。しかし、それは学校で行われていることという狭い意味での教育とも密接に関係している。特別指導や教科指導と、学生と教師の総合的でバランスのとれた発達との適切な関係ほど差し迫った教育上の問題はない。この必要性から、私たちの大学は「オリエンテーション」と「概説」のコースを導入している。より良い学習の相関関係を生み出すための実験を行っていない機関はほとんどない。専門化がかなり進んだため、現在最も必要なのは統合である。

ブリス氏のこの著作は、知識の組織化という一般的な問題の解決に永続的な貢献をしているだけでなく、その全般的な範囲と詳細において、現在緊急かつ主要なものとなっているこの特別な教育課題の達成に重要かつ大いに必要とされる貢献をしている。

ジョン・デューイ    

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デューイは,この頃に発展を遂げている図書館の本質を指摘し,そこでの知識分類の問題は社会や大学などの学術組織,そして一般の人々の生活にある種の秩序を与える重要な役割を果たしていると述べている。ブリスの分類論はこうした学術領域にいる人々の目からみるとそうした期待に沿うものだったのだろう。実際のところ,その後アカデミックな領域から図書館に対してこのように踏み込んだ期待が寄せられることはあまりなくなっていった。それは,図書館が自らの制度化を達成して、あって当然という存在になり得たからである。ただし,その際の知識組織化のツールはDDCやLCCであって,BCではなかった。それこそデューイが言う実際的問題への対応ゆえであったが,それでもブリスのような理論家が,そうした問題の存在も含み込んだ知識組織化の考え方を提示してくれたことによって成立したものだろう。



2024-12-09

公立図書館を考えるー 新公共経営論を超えるためにー

下記の冊子が出版されました。

図書館研究三多摩特別号 2024
根本彰著『公立図書館を考えるー 新公共経営論を超えるためにー』
三多摩図書館研究所 2024年12月1日発行

これは,2024 年 4 月 13 日(土)に東京都公文書館研修室を会場に 開催された三多摩図書館研究所主催の講演会「公立図書館について考える -日本人の書物観と DX を中心に」でお話ししたことを基に,その前後に ブログに書いたことを交えて,論点を明確にしながら公立図書館政策について考えていることをまとめたものです。

公立図書館は20世紀後半以降に,折からの地方の時代の掛け声や住民福祉,生涯学習の観点からの政策づくり,そのときどきの地方財政の余裕などを背景に多数つくられました。重要な社会施設であることを誰も否定はしないし,行けば個々の市民のニーズにあったものが得られるために社会的に定着していきます。確かに子ども読書の推進や書店もないような地域における活字文化の拠点としての役割はあります。しかし多くの住民が求めるものが,出たばかりの新刊書であったり勉強や自学の場であったりといった個人的なニーズに基づくものが中心であり,多額の税金をかけて維持する公共施設としてどのような価値を実現する場なのかが曖昧になっていたように思います。図書館とはこういう場所だという明確なメッセージが出しにくい状況にあるのがなぜなのかが以前より気にかかっていました。

戦後の図書館法制定の際(1950年)に単なる社会教育施設であることを意識的に拒否することから始まった図書館は,それでも地域との関係を1960年代,1970年代には「資料提供」の概念を通じて定着させることに成功したように見えました。しかし,本書では,実はそれは高度成長期の大都市近郊地域の繁栄に基づくとらえ方であり,そのモデルを全国的に拡張させたときに目的の曖昧さが始まったとしています。つまり,個人的ニーズを満たす場としての公共施設は20世紀末以降,「ハコモノ」ないし「公の施設」として指定管理者が管理するという政策の対象になりやすかったとするわけです。副題にある「新公共政策論」は施設管理はどの自治体でも共通しているから,民間による工夫(実際にはコスト削減)が可能になるとするのですが,図書館サービスがそうした経営論で扱いにくいのは「無料原則」があって,いくら工夫しても収入につながらないから官民の分担にならないところにあります。

こうしたことを分析的に述べた上で,本書では住民のニーズを満たす「資料提供」ではない図書館が本来もつ「キュレーション」機能を前面に出すことでしか,この危機を乗り切ることはできないと主張します。キュレーションとは図書館が提供する資料を地域の人々に媒介するのに多様な手法を駆使することです。従来からの展示や配架の工夫,資料紹介のイベントといったものに加えて,OPACの拡張(地域資料),資料のデジタル化,オンラインの索引や書誌の作成などがあります。こうしたことを主張するために,本文36ページに対して13ページ分40個の注がついています。論拠を明示する学術論文の手法がこのような領域でも有効と考えているからです。なお,本冊子の個々の事例はこのブログで具体的に示しています。たとえば,日野市の市政図書室のことや置戸町での調査について,また,私設図書館がむしろキュレーション活動をしやすい状況にあることや地域資料に住民運動資料が入りにくい事情などです。


本書は三多摩図書館研究所日本図書館協会を通じて販売されます。


図書館研究三多摩特別号 2024

根本彰著『公立図書館を考えるー 新公共経営論を超えるためにー』
三多摩図書館研究所 2024年12月1日発行

目次

1 はじめに
2 コモンズとしての図書館
3 行政的な「公」のあり方
4 図書館をめぐるパブリックフォーラム論
5 公立図書館が媒介する価値とは何か(1)
要求に応えるとはどういうことか
6 公立図書館が媒介する価値とは何か(2)
資料提供パラダイムの陥穽
7 公立図書館が媒介する価値とは何か(3)
日野市と置戸町の共通点と違い
8 公立図書館が媒介する価値とは何か(4)
市民と図書館をつなぐ方法
9 図書館キュレーションの可能性 

2024-12-03

知のオープン化と NDLの役割(2)ーナショナルライブラリーの今後

NDLは(デジタル)コンテンツの専門機関

現行の国立国会図書館法(NDL法)の納本制度に関わる条項は次のスライドのとおりである。まず,古くからある納本制度は,同法の24条(国の機関),24条の2(地方公共団体の機関),25条(それ以外の者)によって当該の機関や者は,24条1項に列挙されている「出版物」を発行したら納入する義務がある。見てのとおり,図書から始まって多様な種類の資料が出版物として掲げられている。映画フィルムや蓄音機用レコードなどのオールドメディアがここに含まれている。第8号までは1948年にこの法律ができたときから対象になっていたものであり,第9号はいわゆるパッケージ系の電子出版物の納入規定で2000年から付け加わった。それに対して,同法25条の3により,国の機関および地方公共団体の機関のインターネット資料の収集が可能になっている。インターネット資料とはインターネットで公衆に利用可能な文字,音声,映像,プログラムとされている。通常は自動的な収集ソフトウェアによって取得される。民間のネットワーク系電子出版物(オンライン資料)も収集が可能になっている。

NDLが資料を閲覧に供したり,デジタル化して送信したりするには,著作権を制限する必要があるので,著作権法との関係も深い。とくに,インターネット資料やオンライン資料の収集はここ15年ほどのことであるが,これらを実施するためにはNDL法だけでなく,著作権法の改正も伴っていたので,その当たりについて見ておきたい。(法律の条項は現行のもの)

・2009年(平成21年)著作権法改正ーNDLでの資料の滅失を防いだり,絶版資料のデジタル送信するために資料のデジタル化を可能にした(著作権法31条6項)

・2009年(平成21年) NDL法,著作権法改正ーNDLが国,地方公共団体,独立行政法人等の提供するインターネット資料の収集を可能にした(NDL法25条の3,著作権法43条ほか)

・2012年(平成24年)著作権法改正ーNDL法21年改正で認められたデジタル化された資料の一部(オンライン資料)を図書館に対して公衆送信を可能にした。(著作権法31条7項)

・2021年(令和3年)著作権法改正ー国立国会図書館によるオンライン資料の登録利用者への送信(31条8項〜同条11項)

これらの措置は,国のデジタルトランスフォーメーション政策の一環にも位置付けられていたことが重要である。アメリカの著作権法においては,フェアユース(一定の条件の下で権利者の許諾なしに著作物使用が可能になるという考え方)の存在を前提にしていたことで,ICTの技術開発がしやすかったとされる。日本でも,「権利制限の一般規定(日本版フェアユース規定))が検討され,2018年(平成30年)著作権法改正により新設された法30条の4が導入され,47条の4,47条の5が新設された。この動きについてはブログで紹介している。(2022-12-08「Google Booksと同じような検索ツールは誰でもつくれる」)2021年法改正はこうした動きを受けてのものである。個人的には,2009年の31条6項がもっとも印象深い。NDLが入手した資料をすべてデジタル化することを可能とする規定だからである。

さて,こうした動きをどのように評価すべきだろうか。著作権を一部制限してデジタル化やデジタル資料の公衆送信を行うことはどのようにオープンサイエンスに近づくのだろうか。利用をパブリック・ドメインにおいたり,オープンライセンスを付与して利用しやすくすることは著作者や研究者などの発信者の役割であるのに対して,図書館は仲介者として,開かれたアクセスや直ちに又は可能な限り速やかに提供とか無償であることに貢献する。










かつては,こうした仲介者の役割はそれほど注目されなかったが,状況は大きく変化している。これは今まで述べたもの以外にも,デジタルアーカイブを横につなぐハブとなるJapan Searchの開発や先進的な知識工学的技術開発を行っているNDLラボなどの活動がある。国のデジタル化戦略に組み込まれていることは,たとえば,首相官邸に置かれた知的財産戦略本部が毎年出している『知的財産推進計画2024』では,NDLについて,「国立国会図書館は立法府に属する機関であるが、デジタルアーカイブに関する施策は国全体として取り組むものであり、同館は重要な役割を担っていることから、便宜上、本計画に関連する同館の事業について担当欄に記載するものである。」(p.64)と注記を入れて,何度も言及している。

この点で,NDLは(デジタル)コンテンツ保存・管理・発信のナショナルな専門機関としての役割を担う代表的な機関となっていることは明らかである。著作権を制限することで,知のオープン化に向けての仕掛けをすることに、国全体の合意が得られているのである。

別の観点から見ておくと,その陣容の大きさということがある。この点は図書館関係者はあまり口にしないが,スライドの<参考>にあるように,常勤職員の数が900人弱というのは,国内の大規模図書館のなかでもひときわ大きな存在である。このリストで横浜市や大阪市,東京大学は多数の地域館や部局図書館(室)を合わせての数である。また,文部科学省が外局や所轄機関を合わせて2000人程度の職員数であり,その半分くらいの規模があると考えてよい。こういう陣容の組織に,新しい時代のナショナルライブラリーの形を示してもらいたいと思うのは自然なことではないだろうか。










NDLのカバー範囲

次にオープンサイエンス知識の管理という図書館が貢献できる領域で,NDLがどのように位置付けられるのかについて見ておこう。次の図は縦軸にメディアのオープンネスの段階を4つに分け,横軸にはメディア発生の場と拡がりを4つに分けて示したものである。オープンネスは外部に対する公開の度合いであり,「クローズド」「グレイ」「パブリッシュ」「オープン」の4段階で示した。メディア発生の場と拡がりは,「プライベート」「コミュニティ・アソシエーション」「ナショナル」「インターナショナル」の4つである。これで,4×4=16のマトリックスができることになる。たとえば,「プライベート」なドキュメントとして,作家の書簡,日記,メモなどがあるが,通常は「クローズド」の形でつくられている。これが,何らかのかたちで「発見」され,研究対象になったりすれば「グレイ」の状態に置かれる。そして,それが公開すべきとなったときに,編集されたのちに著作集とか全集という形で「パブリッシュ」される。さらに,これがデジタル化されて「オープン」になる状態がある。「コミュニティ・アソシエーション」は中間段階の組織がもつドキュメントであり,「ナショナル」は国および国レベルでのドキュメントであり,「インターナショナル」は国を超えたレベルでのドキュメントでいずれも「クローズド」から「オープン」になる段階がある。











国立国会図書館の伝統的な守備範囲を見ると,本来納本制度は日本国内の「出版物」を対象としていたから,プライベートなものは除かれるとしても,国内出版のものはすべて含まれるはずである。その出版物の定義も映画フィルムやレコード盤,電子的・磁気的な記録物も含んだかなり広義のものだったが,ここでは主として文字を用いて知識を記録した「図書」「小冊子」「逐次刊行物」を考える。この図で網掛けで示したところは従来の納本制度がカバー範囲として想定してきた部分であり,「ナショナル」なレベルでの「パブリッシュ」されたものを中心としてきた。

なお,この図は大雑把なものしか示していない。「プライベート」なものでも「パブリッシュ」されれば納本対象になるはずだがそれらはここでは除かれている。これにインターネット資料やオンライン資料を含めて,現在の守備範囲は次のように示せるだろう。










納本資料の中心である「ナショナル」×「パブリッシュ」の部分(オレンジ色)に加えて,グレーの部分は本来想定されているところかもしれない。「パブリッシュ」については「プライベート」から「インターナショナル」まで全部をカバーするはずである。薄緑色のインターネット資料は「コミュニティ・アソシエーション」の「グレイ」から「オープン」まで拡げてカバーすることができるし,青色のオンライン資料も「コミュニティ・アソシエーション」のカバーを拡げてくれる。

ここで「商業オンラインジャーナル」(青色)について,とくに外国のジャーナルは日本の法制度の適用外とされるからNDLではうまく対応できない。また「運動系資料」(黒)としているものは,「プライベート」や「コミュニティ・アソシエーション」の「クローズド」や「グレイ」のものを含むが,これらも一部を除くと対応できていない。










網羅と質の保証の両立は可能か?

以上のものを基にして,オープンサイエンス時代のNDLの資料保存と提供体制について考えてみたい。

コンテンツの定義の見直し(国図法 24条の納本資料の範囲,グローバルに拡がる「出版地」,サブスク・コンテンツの保存)ー納本制度を見直しするかどうかは別として,法の24条,24条の2,25条が対象としている「資料」の種別や範囲が現状に合っていないことについて検討すべきではないだろうか。オンライン資料やインターネット資料の「出版地」がサーバーが置かれた場所でよいのかどうか。また,サブスクリプション契約のコンテンツの扱いについてはどうか。
グレイな領域(地域資料,サブカル関係,運動系資料…)ーこれまでの図書館経営は学術資料を前提としてきたが,オープンサイエンスの理念の下にシティズン・サイエンスを考えると市民が直接生産したり,やりとりしたりするコンテンツの扱いが重要になる。これまでも地域資料やサブカル系資料,運動系資料は入手しにくくNDLは十分に対応してこなかったが,そのままでよいのか。
クローズドな領域の受け皿(憲政資料室ほかの特別コレクションの拡大...)ーNDLの憲政資料室はクローズドな政治家の資料の受け皿として重要だった。国立公文書館他のアーカイブズ機関との関係をどのように考えるか。
ネット上の無数のコンテンツの扱い(ブログ,オンライン文芸,オンラインジャーナリズム,写真,動画,ゲーム,データベース)ー出版物やオンライン資料の定義は実は曖昧であり,ネット上にさまざまなコンテンツがある。これらの一部はかつてなら紙の出版物として発行されたものがネット上に置きかわったものである(オンラインジャーナリズムなど)。動画やゲームのなかには十分な科学的根拠をもったコンテンツとして位置付けられるべきものも含まれる。
動的に変化するコンテンツの保存問題(WARPの拡張,米Internet Archiveの苦闘)ーオンライン資料やインターネット資料は固定されたコンテンツにならず,常に変化する可能性がある。これは,「版」の概念とも「逐次刊行物」の概念で扱いきれないところがある。インターネット資料の検索システムをどのように考えるか。アメリカのInternet Archiveはフェアユースの範囲でコンテンツの公開を行っていたが,著作権者からの訴訟に悩まされている。NDLは法的な武装をしながらここまでやってきたわけだが,今後は著作権者や著作者との軋轢が生じる可能性もある。

ナショナルライブラリーは国民国家成立とともにつくられたが,その第一の目的は,国家にある知的所産を収集保存しそれを一望の下におくことで,知識の流通をはかることにあったと考えられる。ただし,それは書物などの紙メディアが知の流通と保存のためのメディアとして重要であると考えられたからである。NDLの成立の理念もそこにあるが,21世紀になってその前提は揺らいでいる。そもそも,納本制度で規定された資料のカテゴリーは古めかしく,それらを網羅的に集める意義は薄らぎつつある。とは言え,ネット上のものについてどのように網をかけて収集することができるのかについても不明の点が多い。




知のオープン化と NDLの役割(1)ーオープンサイエンスのための図書館

 本年の図書館総合展の企画の一つで,「オープンサイエンスを社会につなぐために―国立国会図書館の取組を踏まえて」(11月6日午後1時〜2時半)に参加したときのことを書いておこう。公式のものは別に出るが,十分に時間がなくてお話しできなかったことも含めて,ここでは私自身がこれにどう取り組み,なぜそう発言したのか,さらにそれをどう考えているのかについて書いておこう。

使用したスライドはhttps://www.ndl.go.jp/jp/event/events/forum03-1.pdfとしてオープン化されている。

また,講演自体はすでにYouTubeで映像が公開されている。そこにもスクリプトもついているが,ここではそれとは少し変えて,作成したスライドに改めてキャプションをつけるという方法で書くことにしたい。したがって,スライド,映像(すでにYoutubeにて公開済み),講演要約(いずれ『国立国会図書館月報』に掲載予定)に加えて4番目のテキストになる。




知のオープン化の事例


講演タイトル


ここ数年,図書館情報学において「知」ないし「知識」をどのように位置付けているのかに関心をもってきた。よく,図書館は知というコンテンツ(内容)を含んだコンテナ(容れ物)である書物(あるいは資料)を収集蓄積した「知の宝庫」であるという言い方がされる。ところが,資料がデジタル化,ネットワーク化された場合,コンテンツとコンテナの区別は曖昧になる。そればかりか,電子図書館はどこにいてもアクセス可能である。となると,すべての書物,あるいは資料がデジタル化,ネットワーク化された電子図書館が出現するのが理想ということになる。知のオープン化に向けての歩みが進んでいるように見える。

しかしながら現実には,そのように進んでいるわけでない。それにはいくつかの理由がある。それが実現するためには,①著作権の壁や②デジタル化やネットワーク化のための費用負担,③実現するための高い技術開発が主たるハードルである。それ以外にも,こうしたシステムができたからといってそれが「知の宝庫」と言えるかというもっと原理的な問題にも答えなければならないが,ここではそれは措いておく。ともかく,ここでは日本では国立国会図書館(以下NDLとする)がそれに果敢に取り組んでいる唯一の機関であることについて述べておくことにする。




最初に,今取り組んでいる二つのプロジェクトがいずれも知のオープン化の動きと密接な関係をもっていることについて触れた。一つはこのスライドにある「知識組織論研究会(KO研)」である。これは,年に4回,オンライン会議ツールで議論する場を提供するものだが,そこでは,ヨーロッパ中心に展開されている同名の学会(ISKO)が提供しているオープンドキュメントの「知識組織論事典(IEKO)」を読解することで進めようとしている。この動きについては,本ブログの別項目で触れているので参照されたい。

事典編集そのものが知識組織化の重要な営為であることは言うまでもない。現在もオープンで自由参加の百科事典Wikipediaが多くの人たちにとって重要な情報源になっている。専門事典でよく知られたオープンドキュメントとしては,1995年からスタンフォード大学を拠点に開設されている哲学百科事典のStanford Encyclopedia of Philosophyがある。Wikipediaがコンテンツ作成もオープンになっているのと比べるとこちらは,編集委員会による厳密な編集方針の下に執筆編集が行われているところが異なる。Wikipediaに「インターネット百科事典」という項目があり,そこにはネット上にオープンになったものを含めて多くの百科事典,専門事典が紹介されている。英語版Wikipediaにはさらに多くのものが紹介されている。

KO研は伝統的な図書館情報学や知識組織論の理論や手法を学ぼうとするが,同時に,こうしたオープン化の動きにも目を向けようとしている。同じくオープンドキュメントの考え方が示されているものとして次のものがある。



これについても,本ブログで紹介している。アリゾナ大学名誉教授のマーティン・フリッケ氏の著作Artificial Intelligence and Librarianship: A Note for Teaching, 2nd ed.の日本語訳である。いずれもCC BY 4.0というライセンスの下でオープン化している。これは,本書の制作に関わるクレジット表記を残しておけば,これを複製したり,改変したり,再配布したりすることは自由ということを意味する。

原著者がなぜこのようなライセンスを選んだのか詳しいことは分からないが,筆者も含めてすでに第一線からリタイアする年齢になったときには,今後の斯界の発展に貢献できればよいという心理になることは理解できる。そう言えば,先ほどのIEKOの編集責任者であるコペンハーゲン大学のビアウア・ヤアラン氏はLIS,IS,KOの分野で多数の論文を書いている人だが,一冊の単著も公刊していない。この人のまとまった著作を読みたいという気がするが,今のところはそうした論文から選んで読むほかない。だが,彼がIEKOの編集を行い,そこに多数の新しい概説的な項目を書いているのを見ると,これらを読むことで彼の考え方を理解することができるのではないかと思われる。つまりこの人も知のオープン化を積極的に進めようとしているのである。

ユネスコのオープンサイエンスとは何か


さて,以上が序論的な内容でここから本論に入る。


オープンドキュメントという言葉を使ってきたが,全体のテーマはオープンサイエンスとなっている。またオープンアクセス(OA)やオープンデータなど類似の言葉がある。学術情報の世界でオープン化を問題にする議論の中心は電子ジャーナルのアクセスをめぐるものであり,特定の出版者や学会が寡占的に世界の学術論文流通を支配する状況が生じていることに対して,その対策としてゴールドOAやグリーンOAといった手法が提案されてきた。グリーンOAは著者自らがエンバーゴ期間後にオープン化するものであるのに対し,ゴールドOAは最初からオープン化された雑誌に登録料を払って投稿するものである。出版費用を誰がどのように負担するのかが問題になる。グリーンOAは雑誌の購読者が払うのに対して,ゴールドOAは著者が払うものである。その裏返しで,「ハゲタカジャーナル (predatory journal) 」などと呼ばれるメディアが出現し,オープンアクセスジャーナルを標榜しながら,査読レベルを下げて高額な掲載料を取る状況もある。

図書館にとっては,毎年の講読料がどんどん高額になることで,契約できずその結果アクセスできない雑誌が増えるという問題があり,紙のものならどんどん蓄積されるのにサブスクリプションの雑誌が利用できなくなる問題もある。そして知の世界が特定の出版者が所有するメディアの比重が大きくなる寡占化の問題をどのように考えるかが問われる。近代につくられた学術知の配布流通過程に異変が起きている。図書館は知の世界が良き知の獲得をめぐる競争原理によって支えられることを前提に成り立ち,それを支える学術情報流通システムの存在を前提として成立してきた。しかしながら,この状況はその延長に現れながら似て非なるるものであり,経済原理が学術知の評価システムを捻れさせている。

このことは図書館の立ち位置をも大きく変える可能性がある。これまで,知の質の保証に関わるものを挙げると,まず著者がいて,著者が所属する機関,所属して査読誌を出している学会があり,ときには学術論文を出している出版社があり,関連して,その知を媒介して外部に報知するジャーナリズムあった。さらには,知的生産物のメディアに識別子(ISBN,ISSN,DOI)を付与する機関や知の保存機関(図書館,文書館,博物館)の役割も重要だった。このうち,図書館はかつてから学術の世界を上流として,上から流し込まれる情報を下流の利用者に流すための仕組みにとどまらない機能をもってきた。選書や資料保存による蔵書構築,OPAC等による資料組織化,利用者の要望による調査方法の提示(レファレンスサービス)により,ダムのように水量調節をおこなってきた。この調節機能は,紙メディアがデジタルメディアに変貌するときに,図書館まで行かなければアクセスできなかったものが,どこからでもオンラインアクセスできれば各段に使い勝手が上がるから,単なる量的な調節に関わらない質的な影響を与えることになる。ここにAIが入るとさらに変化することになるが,その点はここでは論じない。

NDLは大規模な蔵書のデジタル化だけでなく,その深いレベルのメタデータ付与,全文テキスト検索機能を提供し,またWARPでのインターネット資料の収集,電子書籍や電子雑誌の収集(オンライン資料納入制度)を実施中である。これらは,知のアクセスに大きな影響を与えつつある。
 
図書館が大きくオープンサイエンスの動きに対して何が可能なのかを考察しておこう。最初に,ユネスコが2021年11月23日第41回ユネスコ総会採択で採択した「オープンサイエンスに関する勧告」(文部科学省訳)での議論を見ておこう。たとえば,その冒頭の部分で「オープンサイエンスは、科学コミュニティの間における科学的知識の共有の促進を助長するのみならず、伝統的に過小評価されてきた又は除外されてきた集団(女性、少数民族、先住民の学者、相対的に不利な国及び言語資源の乏しい国出身の学者等)の学問的な知識の吸収及び交流を促進し、並びに各国及び地域の間の科学の発展、基盤及び能力についてのアクセスの不平等を減らすことに貢献すべきであることを認め」とある部分は,図書館の課題と密接に関わる。つまり,これまでのサイエンスが科学コミュニティというマジョリティを中心に展開してきたことに対するアンチテーゼが主張されている。

これはユネスコという国際機関の特性上自然なことだろうが,ビッグサイエンスが主流の学術からするとオルタナティブな考え方ということになる。学術情報流通の考え方は,主要なジャーナルによって重要な情報が流通するから効率的な流通を目的とすることになる。ところが一旦ジャーナルによる流通が最善のものではないかもしれないという仮定の下にこれを見直すことが必要という立場に立てばそのあたりが変わってくる。次のオープンサイエンス知識の定義を見てみよう。

まずここには,知識の実体が「科学的出版物、研究データ、メタデータ、オープン教育資源、ソフトウェア並びにソース・コード及びハードウェア」とされてように,通常の学術論文よりもかなり広い範囲のものが含まれている。また,黄色でマーキングしたように,「開かれたアクセス」「パブリック・ドメイン」「オープンライセンス」,「無償」といった条件の下に,「全ての関係者(居所、国籍、人種、年齢、ジェンダー、収入、社会経済的事情、職業段階、学問分野、言語、宗教、障害、民族若しくは移住資格又は他の理由のいかんを問わない。)」に対して「直ちに又は可能な限り速やかに提供」することを挙げている。これはすべての人がサイエンスの担い手であることを宣言するものである。

図書館が知の生産者と知の利用者のあいだに立つ存在であるとされるが,すでにここには,知の流通においては生産者と利用者の区別は曖昧であり,生産者は利用者であるし,利用者は即生産者に転ずることが想定されている。そうした媒介的作用をもつ図書館のなかでも,NDLは特別な存在である。次にそれを見ておこう。





2024-11-02

新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(1月7 日初刷り修正一覧)

2024年10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また,丸善出版のページAmazonでは一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。

2025年1月に増刷版発行の予定です。その際に修正点があったので、最後に一覧表を示しました。

本書の目次は章タイトルとコラムタイトルしかないあっさりしたものなので,詳細目次を掲げておきます。

==詳細目次=============================

『知の図書館情報学−ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』詳細目次

はじめに 

第Ⅰ部 知識資源システムの構成要素と関係

第1章 知識資源システムとはなにか
1.1 図書館情報学における知識資源
1.2 ⻄洋思想における図書館の位置づけ
1.3 日本の近代化と知識の獲得
1.4 カノンの変遷とアーカイブ
1.5 知識資源システム、情報リテラシー、独学
第2章 知識資源の多元的なとらえ方
2.1 知識と知識資源
2.2 客観的知識論
2.3 データ,情報,知識,知恵
2.4 ドキュメント
第3章 知の関係論としてのレファレンス理論
3.1 他者の言葉を利用する
3.2 レファレンスの理論構築に向けて
 レファレンスとは何か
 言語・記号のレファレンス
 分析哲学の指示理論
 言説と著作のレファレンス
3.3 レファレンスツールとレファレンス理論
 レファレンスツールの類型
 指示理論の適用
 書誌的な参照関係の拡張
3.4 ネット情報源への展開
 データベースの可能性と限界
 ハイパーリンクと Linked Open Data
 識別コード
 引用ネットワーク
 インターネット・アーカイビング
3.5 レファレンスサービス再考
 レファレンスの拡張
 今後のレファレンスサービス
3.6 おわりに
コラム1 「メタファーとしての図書館」
迷宮、バベルの図書館
夜の書斎とアルシーヴ
AI 図書館とシュワの墓所

第Ⅱ部 知識資源システムの様態

第4章 知のメディアとしての書物:アナログ vs.デジタル
4.1 メディアの身体性
4.2 コンテナとコンテンツ
4.3 書物はなぜ重要なメディアたり得ているのか
 文字言語の特性
 書物の特性
4.4 電子書籍としての拡張
4.5 制度としての電子書籍ー国立国会図書館の動き
 オンライン資料納本制度
 国立国会図書館デジタルコレクション
4.6 書物の知的リンク構造について
4.7 書物のメディア変遷
第5章 知は蓄積可能か:アーカイブを考える
5.1 尊徳思想のアーカイブ
5.2 ⻄洋人文学における書物の特権性
5.3 人文主義における図書館の役割
5.4 知のレファレンス:理念と方法
5.5 デジタルヒューマニティーズと新文献学(new philology)
5.6 おわりに
第6章 ドキュメントとアーカイブの関係ーニュートン資料を通してみる
6.1 アーカイブとは何か
6.2 アーカイブズとドキュメントとの関係
6.3 ニュートン資料に見る知のアーカイブ
 ニュートン像の変遷とアーカイブズ
 ニュートンが残したもの
 ニュートンのアーカイブズ
 ドキュメントにみるニュートン研究
6.4 ニュートン関係アーカイブの特徴
コラム2「図解・アーカイブの創造性」
アーカイブの過程
ライブラリーの過程
ニュートン研究における創造性
第 7 章 国立国会図書館による知識資源システムの展開
7.1 国立国会図書館を取り上げる理由
7.2 ナショナルな知識資源プラットフォームの形成
 日本全国書誌と NDL サーチ
 出版流通の情報 DB
 出版流通と図書館のデータベース
 CiNii Books とカーリル
 知識資源プラットフォームの概要
7.3 知識資源プラットフォームの拡張
 Google Books の衝撃
 デジタル化を睨んだ書籍のナショナルアーカイブ構想
 NDL のデジタル化戦略
 オンライン資料の納入と館外送信
7.4 知識資源と図書館
 デジタル環境の知識資源
 コレクションを知識資源に変える
コラム3「函館図書館,天理図書館,興風図書館:地域アーカイブの原点」
函館・天理・野田興風
「舌なめずりする図書館員」
戦後図書館の隘路

第Ⅲ部 知識資源システムへの図書館情報学の射程

第8章 書誌コントロール論から社会認識論へ
8.1 書誌コントロールとは何か
8.2 イーガンとシェラの理論
8.3 新しい社会認識論
8.4 LIS における社会認識論の展開:ドン・スワンソン
8.5 パトリック・ウィルソンの社会認識論
8.6 ポストトゥルース時代の社会認識論
コラム4「知識組織論(KO)のためのオンライン専門事典」

第9章 探究を世界知につなげる:図書館教育のレリヴァンス
9.1 デューイと教材,学校図書館
9.2 探究と世界知
 探究とは何か
 人文主義のクリティックとカリキュラム
9.3 関係概念としてのレリヴァンス
 シュッツのレリヴァンス
 レリヴァンス概念の展開
 サラセヴィックのレリヴァンス論
9.4 戦後学校図書館政策のドメイン分析
 ドメイン分析とは何か
 教育課程と学校図書館の関係
 図書館教育のレリヴァンス
9.5 世界知のためのカリキュラム
 教権という桎梏
 探究から世界知へ
9.6 おわりに
コラム5「戦後学校図書館と知識組織論」

知の図書館情報学に関する文献案内
あとがき
注・引用文献
索引
==詳細目次終わり==========================

この目次を見るだけでも,多様なテーマを多様な方法で多様な対象をもとに論じていることがわかるかと思います。全体の流れは,第Ⅰ部は「知」とはなにか,それを図書館情報学でどう扱うべきか,その際にドキュメントやアーカイブ,レファレンスといった概念を補助線として使用することによって見通しがよくなることを述べています。第Ⅱ部では,それらの補助線を使って,書物とは何か,それを蓄積することの意義について述べ,ニュートン関係の資料が多様な性格をもつことについて科学史の知見をもとに論じます。また国立国会図書館のナショナルな書誌コントロールがデジタル化によって変貌しつつあることなどを取り上げます。第Ⅲ部では,まず20世紀の図書館情報学で書誌コントロールが重要な理論であったことから始まり,それが世紀を超える頃に社会認識論への展開を示す過程について述べます。最後の章はドメイン分析という方法を日本の戦後教育改革における学校図書館政策に適用してうまくいかなかった理由を探ります。

どれひとつとっても日本の図書館情報学ではほとんど論じられてこなかったものなので,面食らう読者も多いと思います。補う意味で,コラムを5本立てて,分かりやすく具体例を解説することも行っています。

執筆の背景

この本は、『アーカイブの思想ー言葉を知に変える仕組み』(みすず書房, 2021) の出版後に、求められて書いたり、お話したりした内容をまとめたものです。ここ数年間で学校図書館論アーカイブ論を二本の柱として世に問うことを考えてきました。また、『図書館情報学事典』(丸善出版, 2023)の編集に携わってきたこともあり、図書館や図書館情報学のことを考える際の理論的枠組みが弱いことを感じてきました。かつて、『文献世界の構造ー書誌コントロール論序説』(勁草書房, 1999)という本を書いて、この領域における理論書として異彩を放っていたことは確かでしたが、その後、その方面を追究することは怠っていました。その意味では、本書は四半世紀ぶりの改訂版といえないこともありません。そういえば、アレックス・ライト『世界目録をつくろうとした男―奇才ポール・オトレと情報化時代の誕生』(みすず書房)が最近刊行されたのも偶然ではなく、このあたりは一つの流れになっています。

それは何か。一言で言えば、知のコミュニケーションということです。「知」とは「知識」「情報」「データ」などの上位概念と考えていいのですが、図書館情報学はこれらを「資源」と捉えてきました。「知識資源の組織化」とか「情報資源論」などという用語が使われます。では知と知識資源や情報資源はどのように違うのか。知を扱う学問として哲学があります。哲学は、人は世界をどのように見ているのかというように基本的に個人の認識から出発する学問です。哲学では、認識は一人ひとりのものであり、その結果が資源化されて利用されるというような発想にはなりません。ここからわかるように、資源化するためには何らかの別の操作が必要で、図書館ではこれを資料というパッケージとして扱うことが一般的でした。図書や雑誌論文、視聴覚資料といったものです。こうした資料を利用しやすいように分類したり、目録を作成したり、図書館に排架したりするわけです。また、こうした資料を利用者に提供するための方法としてのレファレンスサービスや読書案内、通常の資料では難しい人ためのメディア変換や物理的保存のためのメディア変換といった手法やスキルが図書館情報学の中心でした。そのための方法の開発はすでに1世紀以上の歴史があるわけです。図書館(情報)学は知を図書とか雑誌とか、DVDとかに納められているものをメタデータを操作することによって扱います。直接中身をいじらずにパッケージのラベルを操作することで、知を扱っていることにしていました。

ところが、20世紀末からの情報ネットワーク社会の到来によって、大きく変貌することを余儀なくされます。ネットワークにおいて扱われる知は、パッケージ毎扱うよりも、中身が見える形で扱われるようになります。このブログでも中身そのものが見えます。こうなると、パッケージ操作はいかにも煩わしく、すべての知はネットワーク上で扱う方がよいということになります。実際、今、ネット上で生じているのはそういうことです。まだ紙媒体の図書や雑誌、新聞があります。しかし、これはそうしたものに慣れ親しんできた世代が市場を支えているから出されているのですが、時間の問題だとも思われます。(個人的には書物というメディアについて紙媒体の優位性は明らかで、なくなることはないと考えますが、市場で取引される以上、どんどんシェアが小さくなるでしょう。)

図書館情報学はネット社会に入る以前から知を資源として扱う分野でした。それはこの分野が他の関連領域に対してもつ最大の優位性です。しかしながら、この分野は図書館という場における知識資源の扱いばかりしか見てこなかったことも事実でその意味で歯がゆい部分もありました。本書はその意味で、知を資源化したあとの扱いではなく、知とは何か、知を資源化するとはどういうことかも含めて、この分野が他の学術領域とどのような関係になるのかについて考察しようというものです。

この問いに基づき書き進めている最中に、同じような問いを深く広いレベルで議論している一連の論考があることを知りました。それが、本書の「コラム4」で紹介した「知識組織論事典(IEKO)です。その意味では、本書はこの事典で本格的に展開される知識組織論の入門書的な位置づけにもなります。そのこともあり、この事典の読書会を企画して、図書館情報学の基礎理論を皆で学ぼうという「知識組織論研究会(KORG_J)」の呼びかけにもつながりました。

本書は今後の図書館研究、図書館情報学研究の出発点になることを意図しています。SNSでのフェイク情報の存在が大きな問題になったり、AIが実用段階に入ったことからもわかるように、ネットで知が扱われていますが、その知はデータの集合体で構成されています。本書の第2章で次のDIKWピラミッドを扱いますが、これはデータ→情報→知識→知恵という過程で上に行くほど知の行為が精選されて一般化してい

くという考え方で、もっとも基本的な部分にデータがあります。しかしながら図書館情報学ではこのピラミッドモデルはマーティン・フリッケによって批判されます。今のAIもデータから知識や知恵が生み出されるということからこの考え方を採用しているとも言えますが,どこに問題があるのか、本書とともに考えてみてください。



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初刷り修正点

p.67 「4.7 書物の知的リンク構造について」⇒「4.6 書物の知的リンク構造について」
p.69「4.8 書物のメディア変遷」⇒「4.7 書物のメディア変遷」
p.109  6行目〜18行目「英国の標準的な事典である....確認している。」 削除
p.160 「8.6 パトリック・ウィルソンの社会認識論」⇒「8.5 パトリック・ウィルソンの社会認識論」
p.164 「8.7 ポストトゥルース時代の社会認識論」⇒「8.6 ポストトゥルース時代の社会認識論」
p.198 13行目「そこに研究が立ち入ること厳しく規制した」⇒「そこに研究が立ち入ることを厳しく規制した」
p.198 15行目「「カリキュラム」が区別することが」⇒「「カリキュラム」とを区別することが」
p.209 2行目 「20. Gleoria J. Leckie」⇒「20. Gloria J. Leckie」
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その後の修正点

p.85 20行目 「アイディアを示すこと学校できる。」⇒「アイディアを示すことができる。」

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お知らせ

本書と関わって次の書籍が同じ出版社から刊行されています。

パトリック・ウィルソン 著 齋藤泰則訳
知の典拠性と図書館—間接的知識の探究
丸善出版
2024年09月

原書名:Second-Hand Knowledge: An Inquiry into Cognitive Authority(1983)

この本は,本書の第8章で言及している20世紀後半の図書館情報学研究者パトリック・ウィルソンの三部作の掉尾を飾る一冊です。