Facebookに次のように書きました。
パトリック・ウィルソン(齋藤泰則訳)『知の公共性と図書館』(丸善出版)が出て,訳者の齋藤さんから送っていただきました。
https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306232.html
ウィルソンは20世紀後半のアメリカ図書館情報学において哲学的な言説を説いた数少ない人です。2000年代初頭に亡くなった頃から再評価が始まり,先に翻訳が出た『知の典拠性と図書館』とともに図書館の理論を語るときにこれらの著作を踏まえることは必須となっています。
20世紀の図書館(情報)学には,ピアス・バトラー⇒ジェシー・シェラ⇒パトリック・ウィルソン⇒ビアウア・ヤアランの系譜があったことは知る人ぞ知るというところです。
彼の図書館哲学3部作は次のものです。
1. Wilson, Patrick (1968). Two Kinds of Power: An Essay on Bibliographical Control. University of California Press. p. 155. ISBN 978-0-520-03515-7.
2. Wilson, Patrick (1977). Public Knowledge, Private Ignorance: Toward a Library and Information Policy. Greenwood Publishing Group. 156p. (齋藤泰則訳)『知の公共性と図書館』(丸善出版)
3. Wilson, Patrick (1983). Second-Hand Knowledge: An Inquiry into Cognitive Authority. Greenwood Publishing Group. 210p. (齋藤泰則訳)『知の典拠性と図書館』(丸善出版)
(3の原著ももっていたはずなのですが,引っ越し他のごたごたで行方不明です。)
今回出たのは2の訳で,昨年9月に3の訳が出ました。最初の本については今のところ翻訳の予定はないと聞いています。しかし,これも含めて紹介しないと,ウィルソンの思想は明らかにできないでしょうね。これらが何について書いた本なのかを,学説史的なことは省いて乱暴にまとめておきます。
1 『2種類の力:書誌コントロール試論』(原著1968)
「書誌コントロール」という概念が20世紀半ばから使われてきましたが,それが何であるのかを明らかにしたということです。書誌コントロールは,資料を蓄積し組織化して提供する図書館を典型としたサービスが,書誌(資料を記述したもの)を中心として成立しているというものです。図書館の目録,レファレンスのための索引や抄録,各種のデータベースなどすべて,資料(図書館用語では書誌的単位)を記述し,そのリストに対して検索をかけることで必要な資料にたどりつくという仕組みになっています。つまり図書館サービスとはそうした資料組織法を中心として成立しているという考え方です。
20世紀半ばにこれを最初に主張したのは,当時シカゴ大学にいたジェシー・シェラとマーガレット・イーガンという人たちでした。20世紀後半に,書誌コントロールはすべてコンピュータデータベースで処理するようになり,図書館システムの発展とMARCや書誌ユーティリティの仕組み,オンラインデータベース,そしてインターネット以降はWebOPACやマルチDB検索サイトへのアクセスなどを通して,この仕組みは定着していきます。私たちが資料を使うときに,直接書店(出版流通の仕組みも書誌コントロールを踏まえています)や図書館に行ったり,WebのデータベースやWebOPACを使って資料があるかどうかを確認したりするのも,いずれもこの書誌コントロールの作用だということになります。
書店や図書館の書架を見てブランウジングする行為も書誌コントロールに該当するのですが,それは書架での資料の並び方や使う人がどれだけ資料について知っているのかによるものであり,人によってだいぶ異なる資料探索過程になります。図書館の側は資料を分類表に沿って分類して排架したり,目録規則に基づいて記述して検索できるようにしても,それをどのように理解して使用するか(多くの場合,あまり理解しないままに使っている)は利用者次第です。ウィルソンは書誌コントロールの一つ目は,分類,目録,索引,抄録のような図書館ツールや書誌データベースに基づく資料検索で,これを記述的コントロールと言っています。それに対して,情報や知識を求める人たちは記述的コントロールだけに頼ることは多くはなくて,もっと多様な探索をしているからその過程全体を書誌コントロールというべきであり,そのことを実効的コントロールと呼んでさまざまな思考実験を行います。実効的コントロールについての議論が第2,第3の本の起点となっています。
タイトルの「2種類の力」というのは書誌コントロールには記述的コントロールだけでなく,実効的コントールがあることを指し,この本は図書館関係者が図書館や書誌データベースの整備に力を入れているが,もっと全体的なプロセスを見て考察すべきことを説いたものです。
2『知の公共性と図書館』(原著1977, 邦訳2025)
副題に「公共的知識と個人的無知の対比」とあります。図書館には知を利用者に媒介する機関であるという前提があり,図書館が行う記述的な書誌コントロールは分類,目録,排架,レファレンスサービスなどを通じて蔵書に含まれる知を提供するものです。利用者の立場からすれば,知とは周りの人々,学校,大学,マスメディア,手持ちの本や雑誌などを通じて自ら獲得してきたものの集積であり,個人的なものというのが第一でしょう。では「公共的知識」とは何でしょうか。確かに図書館に蓄積された書物や雑誌には知が含まれているのでしょうが,それらは読んで理解しなければ知とはなりません。今なら「ググる」とか「生成AI」のチャットで聞けば簡単に知が獲得できるから,公共的な知識はネットやAIにあるという見方もできるかもしれません。これが書かれた当時はそんなものはなかったので,ウィルソンはブリタニカやアメリカーナといった百科事典を引き合いにだして,それが公共的知識の代替物としてどのようなポジションにあるのかも検討しています。
さらに,彼は「個人的無知private ignorance」という概念を持ち出します。知はあくまでも個人のものであるから,個人が意識を向け耳を傾けたり読み取ろうとしたり,調査しようとしたりしない限り得られないものです。とすれば,公共的知識が本来カバーすべきもののなかに,個人がもつべき知識が含まれる可能性があります。これが個人的無知です。公共的知識と個人的無知の間のギャップをどのように縮めていくのかは,本来教育の問題でもあるわけですが,同時に図書館の問題でもあるわけです。というのは,図書館は最大の公共的知識のインフラであったからです。また,書誌コントロールはこのギャップを埋めるための方法的概念と解釈することもできます。
書物や雑誌記事といった形をとった知識は一旦つくられればそれ自体はモノとして固定され動かないものですが,知識は人間の認識や行動,判断として現れる動的な存在です。本は読まれなければただのモノに過ぎないわけですが,書かれ誰かに読まれ,読んだ人がそれによって何らかの行動をすればそれは知識の作用ということになります。本が読まれたり読まれなかったりするのに影響を与える要因は何でしょうか。著者の名声,出版社の評判,雑誌や新聞に出た書評や広告,書店の店頭や図書館の新刊書棚での出会いなど多様なものがあるでしょう。誰しも買っただけでちょっと目を通したが通読していない本(積ん読本)をもっているでしょう。これは,何らかの出会いによって知ってそれを手元に置いておきたいと考えたから起こるものであり,その本,その著者との出会いが重要との考えから来ます。とくに図書館は蔵書が永久的に蓄積され,多様な書誌コントロールの手法が提供されていくならばそうした潜在的な出会いをつくりだす場と考えられます。
このように個人的無知と公共的知識を結びつける方法は多様にあることが示されます。本書は,個人と社会の知識基盤をつなぐための図書館の戦略的な位置づけについて考察した著作です。
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