先日 午後、千葉市に行く用事があったので、朝早く出て朝の一番に佐倉の歴博に入った。昔、できてまもない頃に一度行ったきりなので、たぶん30年ぶりくらいになる。企画展示(「学びの歴史像ーわたりあう近代」)があって日本の近代化の過程で「学び」がどのように位置づけられたのかがテーマとなっていたので、ぜひ一度見ておきたいと思い行ってみた。というのは、『アーカイブの思想』で幕末から明治にかけての知の制度化の歴史を概略おさらいしたから、このテーマは現在、もっとも関心が高いものの一つであるからだ。
結論からいうと見ごたえは十分にあった。全体が6つのパートに分かれている。
第1章 世界と日本の認識をめぐる〈学び〉
第2章 明治の文化・教育と旧幕臣
第3章 博覧会がめざした「開化」「富国」
第4章 「文明」に巣くう病
第5章 アイヌが描いた未来
第6章 学校との出会い
このなかでとくに関心をもったのは、第1章の「世界と日本の認識をめぐる学び」と第5章の「アイヌが描いた未来」である。これらを中心に紹介するが、第2章では旧幕臣や洋学者も含めて新しい明治政府の行政府や学問所に登用されていく過程が描かれる。第3章は西洋にならった博覧会が新しい文明のサンプルを展示して普及させる場として機能したことを示す。第4章は伝染病や感染症が従来の隔離から西洋医学の対象となっていく有様が語られる。第6章は、寺子屋ではない学校に西洋式の体操や唱歌が入ったり、奉安殿がつくられることで学校が村において果たす役割が分かる。
第1章「世界と日本の認識をめぐる〈学び〉」は幕末に、日本人が世界や日本についての知識をどのように獲得して深めたのか、また欧米の人々がどのようにして日本をめぐる情報を獲得し蓄積していったのかを、言語資料と地理情報によって見ている。言語については、ヨーロッパ系の情報がオランダ語と漢語を経由して入ってきたことが示される。最初はオランダ語だったものがその後、英語とフランス語になるというのも地政学的には納得できるが、ヨーロッパの情報が漢語を通じて入ってきたというのも知識としてはあっても、それを示す漢文資料を見ると納得させられる。鎖国によって間接的にしか情報が入ってこなかったのが、直接欧米生活を体験した福沢諭吉が『西洋事情』を書いて活躍する時代になると、彼の書いたものの偽版が出回り、彼ができたばかりの明治政府に対して取り締まるように訴える書状を出したというのもおもしろい話しだ。その間にそれほどの時間の経過はない。急激に外国の情報が入ってきてそちらにシフトしていったことを意味する。
それと地図上に示された日本人および外国人による日本国土と海岸線の描き方が面白かった。伊能忠敬が実測量によって描いた地図は幕末に外国人にも伝えられる。しかしヨーロッパ人は伊能図前にもかなり正確に日本列島を描いていたことを示す地図(ク―ゼルシュテルン図)が残されている。また、ペリーが下田に来たときにつくった海港図とその翌年に来航したロジャーズ艦隊の海港図を比べるとはるかに精細度が上がっているというようなものである。そして19世紀後半にはヨーロッパ人はかなり正確な日本近海の海図を作成していた。また、1871年(明治4年)には長崎と上海を結ぶ海底電信ケーブルが引かれ、日本は大陸と電信線でつながれた。陸上も東京までつながっている。岩倉使節団が明治政府との連絡に使用したという話しもあった。このように西洋のアーカイブに残された地図や海図が描き出す日本像を通して近代化の過程を示している。
第5章「アイヌが描いた未来」であるが、まず民族としてのアイヌは言うまでもなく、蝦夷地(北海道)だけでなく沿海州、アリューシャン列島、サハリン、千島にかけて幅広く住んでいた人たちを指す。それが19世紀後半になって国家による国境線が引かれて分断されることになる。蝦夷は北海道と名前を変えて、明治政府は開拓使を置いた。「内地」からの移住者が「開拓」していった際に、先住民としてのアイヌは居留地を限定され、日本への同化を余儀なくされる。その際に、入れ墨の禁止や日本語の習得の強要が行われる。なかには東京に集団で移転させられて学校で日本語を学び農業に従事することを強いられた人たちもいた。アイヌは文字をもたない民族だったが、日本の近代化の過程に取り込まれることによって、「学知」を習得し自らの権利や文化の保存を試みる人たちもいた。それらの記録が展示物で表現される。アイヌ語をカタカナで保存する試みはその後現在まで継続されている。
感想(1) テーマについて
展示は6つの章が別々の観点で別々の展示を行っている。展示の責任者や資料の出所が全国の博物館や図書館、文書館に渡っている。たくさんの研究者による異なる切り口から、幕末から明治への転換点において知的な分野がどうであったのかを描き、それらによって新しい近代像を表現しようとしている。第1章と第5章はその意味で外部の眼が強調されていたところであり、その意味で従来にない視点のおもしろさがあった。
展示テーマの副題が「わたりあう近代」とあるのにはいろんな意味を込めているように思われる。たとえば6つの章がそれぞれ扱うのは幕末から明治、大正、昭和前期にかけて「学び」に関わる多様な側面であるが、それらがばらばらに作用しながらも全体として日本の近代を形成しそれが一つの国家をめざす過程のいずれかの要素となったという意味合いがあるだろう。また、個々の章のなかでも複数の要素や観点が検討されるわけで、それらがやはり近代化の像が多様にありまた、地域や時代によっても多様に展開したことが見て取れる。どちらにしても、「わたりあう」という言葉は「よりあわさる」とか「まとまる」の対義語であり、国民国家形成が多事争論のなかにあり、簡単にひとつのものがつくられたわけではないことが主張されているように思われる。
感想(2) 展示の手法について
博物館の特別展を見ることは少なくないが、通常、モノの展示が中心になる。美術、歴史、考古学、民俗学いずれにしても、作品なり歴史的事物なり、遺品なり、出土物なりのモノを見せそれに解説をつけることで展示企画がなりたつ。さらには建物や室内の復元、舞踊や歌、朗読のようなパフォーミングアーツのビデオや音声の再生などの手法も用いられる。しかしながら、「学びの歴史像」というのはそれ自体がやや抽象的なテーマであり、とくに近代知とか学知といったものを展示しようとするとき困難に突き当たる。それが絵や地図、写真で表現できればまだわかりやすい。上に紹介した地図や海図のようなものはいい。けれども「知」を表現しようとするとどうしても、書物のページや文書のようなものが多くなり、文字を読むことが必要になる。もちろんそれを補うべく、絵図、図版や写真と組み合わせたり、音声の記録やビデを見せるなどの工夫があるが、図書館の展示と同様、文字が多いとだんだんと見ていくのがつらくなっていく。これは言葉で知を伝えるという本質的な作用につきまとう困難さだろう。
おもしろかったのは、「蛍の光」がもともとはスコットランドの民俗歌謡(Auld Lang Syne)であったものを宣教師が世界各地にもたらし、それぞれの土地で賛美歌、学校唱歌、軍歌、流行歌などに変容して歌われていったという話しである。日本に来る伝道のルートとして、スコットランド人がアイヌに伝えて歌われたものや、19世紀はじめにアメリカに渡りそれが明治期に日本に伝えられさらに台湾や中国に伝わったものがあるという過程があり、それが地図上で示されている。また、この歌の歌詞と楽譜が示され、元歌、日本、韓国、中国でどのように歌われているのかを聴くことができる。学知といってもこうした人間の行為として見たり聞いたりすることで興味を引くことができる。
改めて、こういう企画を立て、資料を集め、配置し、展示として解説し、さらに解説本を書いて出版するのはたいへんな事業だと感じた。だからこそ、こういう企画展示は多数の博物館等の資料を借り、またそれらの博物館のキュレーターが関わって成り立つ。だが、展示が終われば返される一時的なものである。アーカイブ機関としての博物館企画のアーカイブという意味で、解説本は残されるとしてもそれで十分なのかという疑問も残った。特別展から新しい本が書かれたり、展示にあたった人たちが研究チームを継続することもあるがそれは稀なケースだろう。しかし展示として終了させざるをえないのだからもったいないと感じたことも確かである。
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