2022-07-26

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』感想


書いている時点ではまだ刊行されていないが、石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋刊)が7月末に刊行予定である。この本を版元から頂いたので一読した感想を記しておきたい。頂いたのはこの本のなかで著者によるインタビューがあって私の発言の一部が引用されているからである。

本書の概要

本書でいう国語力であるが、一般的には本を読むための読解力とか言語力のようなコンテクストにおいて理解されている。PISAの読解力(reading literacy)の点数が他のリテラシーよりも低いとか、大学生が中学校の教科書を正しく読めない(あのクイズまがいの質問にこたえられないことが読解力がないことの根拠に使われていたのには少々あきれたが)、大学生の半数は1ヶ月に1冊の本も読んでいないといった言説で言われるものである。が、本書で扱う国語力の幅はもう少し広い。というよりも、国語力とは言葉を使用する能力であり、言葉が人間の営みのもっとも基本にあるものとすれば、国語力の低下とは人間の営みが損なわれている状態だという、至極もっともな前提から始まり、前半はそこに焦点が当たっている。

冒頭には小学校4年生の授業で新美南吉『ごんぎつね』が取り扱われたシーンが紹介されている。その部分が「立ち読み」できるので参照されたい。子狐のごんは猟師兵十(ひょうじゅう)に悪さを仕掛けていたが、兵十の母親の葬儀がありそこで大なべにぐらぐらと湯が沸き立っているのを見かけるというシーンである。ストーリーはこのシーンをきっかけにごんは兵十が病気の母親に精のつくものを食べさせようとしていたことを悟り、逆に兵十に魚を届けるのだが最後に兵十に撃たれてしまうというものである。大人にとっても子どもにとってもストーリーはなかなか理解に苦しむものではあるけれども、個々のシーンは分かりやすい。そのなかで、教師は子どもたちを班に分けて鍋で何を煮ているのかと尋ねる。子どもたちは「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と答えたというのである。『ごんぎつね』でなぜこのシーンを議論させるのかという疑問もあるが、子どもたちの生活実感と教材の世界のあいだのズレを考えさせられる。

この話しを出発点にして、こどもの言語生活がいかに家庭環境そして、ネット、ゲームなどのメディア環境によって蝕まれているかについて論を展開している。たとえばゲームのプレイヤーどうしのことばのやりとりは「死ね」「ぶっ殺せ」「ざけんじゃねぇ」「帰れ、カス」というもの発しているだけで会話になっていない。そのことはSNS上で「あいつまじないわ」「きも」「きも」「さよーなーら」といった書き込みの連鎖につながっている。また、家庭環境についてはそうした言語生活を誘発するものになっていることが描かれる。不登校で一人家にいる状態、離婚による一人親に放課後放っておかれる状態、親の再婚で他の家族から疎まれる状態、ヤングケアラーと呼ばれる親の介護を余儀なくされる状況等々である。

本書の帯についている紹介文に「オノマトペでしか自分の罪を説明できない少年たち、交際相手に恐喝されても被害を認識できない女子生徒」という文がある。折り合いの悪い義父に呼び出されて外に飛び出しナイフで他人を刺した少年の話。「よくわかんない。あいつのせいで頭グリグリになった。目の前に人がいたんでバァーってやったんだ。...警察にガッってされてつれていかれた。」少女売春の少女との会話。「ー男たちに金を払ったのはなぜ?」「言われたから...サンキューって言ってくれる人もいた」「売春は嫌だった?」「そうだけど、他にすることもないし」「後悔してる?」「わかんない」これらは、少年院や福祉施設の職員に対して自分の置かれている立場を言葉で説明することができないことを指している。かつての「不良」や「非行」の少年少女は自分の行動に対する言葉をもち、仲間と会話していたが、今のそうした子どもたちの多くが孤独で、短く感情的な言葉を発し後は押し黙るだけだというのである。

本書はその背後に日本社会の経済格差があり、貧困家庭が増えていることを指摘する。つまり、言葉が貧困になっているのは家庭生活が貧困であるからで、本来、家庭のなかで基本的な会話や表現を学ぶ機会がないままに大人になっていくケースが増えている。そして、メディア環境がそこに忍び込み、ゲームやSNSにおける言葉を伴わない、ないしは短い言葉によるメディア上のやりとりで自足するような状況があることを述べている。家庭がもっとも基盤的な子どもたちの生育環境のはずなのに機能せず、さらに地域社会や学校社会から孤立化を進行させるときに、メディアが唯一の救いになるような状況は確かにあるだろう。さらには、メディア環境がサイバーカスケードないしエコーチェンバーのように、特定のコミュニティ内で自足しそのままそれが支配的なものを形成することがあり、未発達の子どもたちに強い影響を与えるのは大人とは区別して考える必要がある。著者は、特定のメディア環境が脳の発達に対して及ぼす影響についても言及している。

こういう状況に対する著者の処方箋の一つは、少年院で行われている「表現教育」と呼ばれる言語回復プログラムである。たとえばアンジェラ・アキの『手紙〜背景 十五の君へ〜』を朗読させ、現在の自分から将来の自分に宛てた手紙を書くというプログラムがある。先輩が読む手紙を聞いている少女たちは一様に感動の涙を流すという。また、小学校のプログラムとしては、積極的に本を読ませるが、と同時に体験型学習に力を入れてキャンプ、宿泊体験といったものだけでなく校外の自然環境を教材としてそこから学ばせる。また、教科を超えたアクティブラーニングを積極的に実施することで、本で読んで得た知識と実際の世界との関係のリンクをしっかりもたせることを行う。中高生の授業では言葉によるやりとりを重視したプログラムとして、ディベートや哲学的対話を導入している学校が紹介されていた。

感想

普段、学術的な文章ばかり読んでいてこうした一般向けのルポルタージュの文章を読む機会はあまりないから、本書を読んでみてプロのライターの取材力と文章力には驚かされた。これまでも国語の問題には注意を払ってきたつもりだが、このように家庭崩壊やいじめの問題、非行や少女売春といった社会問題にまで視野を拡げた文章はこういう機会でもないと読めないものだった。その意味で読む価値がある力作だと感じた。

以前に私自身国語教育について朝日新聞(2020年4月4日朝刊)の「耕論」欄でインタビューを受けて発言もしている。インタビューの依頼はそれに基づくのだろう。そのときは、日本の国語力が文学の読みに典型的な書き手の気持ちに寄り添い、その心情を適切に読み取って言葉で表現する力を要求してきたのではないかと述べた。他方、PISAの読解力の低下が示されたあとに論理国語の重要性が言われ、それが文学国語が対立するという議論があることに対して、文学にも論理はありそれを読み取ることについては論理国語のなかに包摂されるとも考えていた。私はすべての学力の基礎に国語力(言語力)があると考えていたので、この本がどのような展開と結論になるのかに興味をもっていた。

そうした興味に照らしてみると本書の意義と弱点が浮かび上がってくる。意義は、私もあまり意識していなかった国語力と生活力の関係を格差社会のコンテクストで浮かび上がらせてくれたことである。要するに義務教育で日常生活に必要なレベルの国語力が身につかないままに社会に放り出されている子どもたちがたくさんいることへの着目だ。そのことはさまざまな具体的な局面で論じられており、また、その対策としての少年院における表現教育のような事例が示されていて説得力がある。つまり、マイナスの生活力でスタートした子どもたちに対する事後的な救済プログラムが示されているわけだ。国語力の向上が生活力につながるという見方には大賛成だ。

最初の『ごんぎつね』のエピソードに意味をもたせるとすれば、子どもたちはすでに村の共同葬儀に参加する機会がもてないし、亡くなった人の遺体の処理がどのように行われるのかを見聞きする機会もないことをどのようにとらえるかが重要である。知識も経験もない子どもたちにとってこの部分だけを取り出して議論させられれば、上記のような反応が出てくる可能性は十分にある。このエピソードの後に教師がどのように指導したのかが示されていないので分からないのだが、本筋でない部分の子どもたちの反応がこのように現れたことから、昔の習慣や遺体処理ということについて考えるきっかけにすべきなのか、それとも古典的名作童話とされる話しがすでに教材として古いから差し替えるべきと考えるのか。また、ごんが兵十にしかけたいたずら、ごんから見た兵十と母親の関係、そしてごんの好意が仇になったことをどのように指導すべきなのかも気になった。国語が生活そのものと結びついているとすれば、このストーリーからは社会の荒波や人生の皮肉も学ぶべきなのだろうか。あるいは自己犠牲の精神のようなものをほのめかすのだろうか。古典とされる作品はさまざまな読み方を許すわけで、それが読み手が確認できればよいのだろうが、そのレベルの指導をじっくり行うことはなかなか難しいように感じる。(あるいは指導法にも定石があるのか。)

国語の意義を積極的に位置付けようとすれば何が可能であろうか。かつてこのブログで朝読(朝の読書の時間)が形骸化しつつあるのではないかと述べたことがある(「子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む」)。子どもたちにとっては勝手に好きな本を読む時間を設けるだけでは、本好きな子とそうでない子との間の差は埋めることができない。本書の前半に経済格差と教育格差の問題が述べられていたが、本への関心はすでにそれ以前の親の関心の違いによってつくられているのだから、ここには積極的な介入プログラムを導入する必要があるのではないか。たとえば、本書で述べられているような国語科を中心としたアクティブラーニングとも言うべきものが可能かもしれない。これは戦後間もないときに試みられたコア・カリキュラムの考え方とも近い。もっとも当時は社会科が中心とされたが。

だが、本書の最後の方で紹介されているのはカリキュラム上の工夫をしている学校の話しだが、公立校ではない。だから、経済格差が陰のテーマとなっている本書で読みたかったのは、やはり公立小学校レベルで生活力につながるような国語の授業ないし読書推進の試みをしている学校の事例である。国語の問題が生活や社会の問題とつながっているという認識はあまり一般的ではない。子どもの発達が就学前に家庭で育まれ、就学後は学校と家庭の総合的関係のなかで決定される。格差社会が現実のものであれば、子どもたちの生きていくための力が失われている状態に対して国語を中心としたカリキュラムの工夫が必要となる。家庭の方に問題がある事例が増えている現在、学校において基礎的な国語力をまず身につけさせるための手立てを考えていく時期にきている。


2022-06-15

朝日新聞の書評記事に関して


(紙面型の元記事は拡大できなくしてあります)

朝日新聞の5月28日(土)に掲載された私の書評記事が朝日のサイトに再掲されたので共有します。

https://book.asahi.com/article/14633053

この記事では次の3点を紹介しました。

・リチャード・オヴェンデン『攻撃される知識の歴史 なぜ図書館とアーカイブは破壊され続けるのか』(五十嵐 加奈子訳)柏書房, 2022

・小出いずみ 『日米交流史の中の福田なをみ 「外国研究」とライブラリアン』勉誠出版, 2022

・永田治樹『公共図書館を育てる』青弓社, 2021

ここではいずれも図書館にかかわりますが、まったく違った種類の書籍を紹介しました。編集者とのあいだで、「図書館専門職」と「インテリジェンス」という言葉を使用したこと、また使用する写真について少しやりとりをしました。

一つは、最初の本の著者オヴェンデン氏は英国の大学図書館でスペシャルコレクションを担当してきた人ですが、今はオックスフォード大学の中心館ボドリアン図書館の館長を務めています。こういう人を図書館専門職と呼んでよいのかということですね。

これについては同館のHPの紹介欄で、氏には写真の歴史や本書のような図書館史とともに図書館情報マネジメントの業績があることを伝えています。

https://www.bodleian.ox.ac.uk/about/libraries/bodleys-librarian#collapse2620226

この記事を見ると歴代の館長の紹介欄があります。館長のキャリアは概ね図書館畑で長年仕事をしたことが評価されてのもののようです。その意味で氏もまた図書館専門職と言ってよいと考えます。歴代の館長には図書館情報学の専門教育を受けてきた人とそうでない人がいます。オヴェンデン氏は専門教育は受けてないようですが(記事の特性上あれば触れていると思われるので)、前館長は女性でアメリカで図書館情報学の修士号をとったキャリアの持ち主のようです。いずれにしても、何らかの領域でPh. D.を持っていることは必須のように見えます。

小出いずみ氏の本については、福田なをみが日米の戦時体制とその前後の時期にインテリジェンス業務に関わったと書きました。図書館員がインテリジェンスというと不思議に思う人もいるかもしれません。アメリカでは第二次大戦時に図書館員がワシントンDCに呼ばれて外国情報の調査分析業務に当たっていたことはよく知られています。その部門、情報調整局(COI)は戦時情報局(OWI)を経て戦後に中央情報局(CIA)になります。小出さんはインテリジェンスの用語を使っていませんが、公開された情報の分析が図書館員の仕事の延長上に置かれていたことが詳しく書かれています。日本でも、国会図書館の調査及び立法調査局の業務は広義のインテリジェンスだと思いますし、ジェトロのアジア経済研究所図書館もまたインテリジェンス業務に携わっていると言えるでしょう。朝日の編集担当の方もその表現に別に違和感はないとのことでした。

永田治樹氏の本についてですが、この本は出たときに読売新聞と日本経済新聞に書評がありました。内容的には新公共経営論の考え方に近い図書館論という感じもしますが、イギリスの福祉国家的な公共図書館論が凋落した経緯やコミュニティ図書館論から多文化サービス的な図書館論が出てくる背景が分析され、それが、北欧の都市であっても財政難に悩んでいるなかで新しい技術とサービスの融合が図られる状況につなげて記述されます。私は、20世紀後半の「市民の図書館」は日本版福祉国家政策の一環と見てよい側面があると考えていますので、その後を考えるのにはふさわしい本だと思います。

この記事で使われた写真ですが、新聞紙面では小さく白黒なのであまりよく分からないのですが、画面上でカラー写真を見るととても図書館の写真には見えないですね。これは、岐阜市立中央図書館を訪問した人ならおわかりと思いますが、この笠のようなオブジェがいくつも広い館内にぶら下がっていて、その全体像の方がよく紹介されています。こういう感じなので今回の写真には最初違和感がありましたが、この記事自体が図書館をステレオタイプで見てほしくないというメッセージでもあったのでこれはこれでいいかと思った次第です。


2022-05-24

図書館市場についてのケーススタディ

本日、郵便物で「岩田書院新刊ニュース 集成版 2021.6-22.04」という冊子が送られてきた。歴史書の出版社岩田書院の新刊の案内DMなのだが、これに「裏だより」というのがついていていつもつい読まされてしまう。この出版社は社主岩田博氏が『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏 』(無明舎)という本を書いているように、一人で経営していること、そしてその舞台裏を明かしながら経営していることが特徴だ。『地方史研究』とか『アーカイブズ学研究』といったときどき見ている雑誌はこちらが版元だったとは今日この冊子をまじまじと読むまで気づかなかった。

今回の「裏だより」に「品切れ続出」という記事がある。出したばかりで品切れになってしまった図書が4点挙げられている。もっと売れたはずなのに売り損ねた本という扱いだが、そこで注目したのはそれぞれに刷り部数が書いてあることだ。以前から出版の経済学の必要性を唱えていたが、部数と価格の関係とそれが図書館でどのくらい購入しているのかが気になっていた。そこで、試しにということで2021年8月に出て3ヶ月で品切れになったという、倉石あつ子『蚕を養う女たち―養蚕習俗と起源説話』という本を取り上げて図書館蔵書を調べてみた。A5判上製本253ページで、価格は税別で5600円の本である。

内容的には最近多い女性民俗学の学術書で、類書に沢辺満智子『養蚕と蚕神:近代産業に息づく民俗的想像力』(慶應義塾大学出版会,2020.2)がある。著者倉石あつ子氏は跡見学園女子大学文学部教授を経て、安曇野市豊科郷土博物館、新市立博物館準備室という経歴がおありで、同じ民俗学の倉石忠彦氏が夫君だそうだ。

3ヶ月で品切れになったというこの本の刊行部数は、「裏だより」によると300部である。そのなかで図書館がどの程度購入しているのかを調べるというのが今回の課題である。ツールはカーリルを用い、CiNii Researchで補う。実際やってみて、カーリルは大学図書館についてもほぼ網羅していてCiNii Researchでしか検索できなかったのは2館のみだった。たぶん、今日たまたまWebOPACのシステムかAPIインタフェースが不調だったのだろう。

結果であるが、蔵書にしていた図書館は計173館で、内訳は県立31館、政令市5館、市町村立78館、大学図書館59館であった。300部に対する図書館での購入割合は57.6%であった。全体的な傾向は東日本の県が所蔵しやすく、西日本だと県立のみ所蔵かまったく所蔵していないという感じだった。養蚕というテーマからそうなるのだろうか。

興味深かったのはカーリルを都道府県別に検索していって、目立って所蔵する図書館が多かったのが群馬県と長野県だったことだ。隣接県でも県立図書館が所蔵し他は1〜2館しか所蔵してなところが多いのに、群馬県は8市町、長野県は県立プラス19市町で所蔵していた。その理由は明らかで、著者が長野県安曇野市の博物館にかかわっておられること、また、本書に長野県だけでなく群馬県の養蚕についての記述があることからくるのだろう。これらの県の図書館にとっては地域資料にもなる。

この数字をどう評価すればいいだろうか。こうした本だと公共図書館でもあと数十館購入しそうな気がする。また、大学図書館が59館しかないのは少なすぎると思う。おそらく大学図書館は公共図書館に比べて対応が遅く予算執行の関係で年度末になることもあり、購入したくとも買えない状況になっているところが多いのではないか。図書館市場で少なくともあと100部は売れたものと思われるが、それでも増刷まではいかないのだろうか。

出版市場の刷り部数データは一部のベストセラーを除いて公開されないものが多いが、岩田氏がデータを公開してくれたおかげでこういう考察が可能になる。他の本についてもやってみたい。また、異なったタイプの出版物についても同じようにやってみるといいだろう。そのためには出版社の協力が必要だ。

また、過半数が図書館で購入されていることが改めて分かった。しかしそれは刷り部数が300部という少部数だからだが、逆に言えば図書館が重要な市場でありこうした少部数出版を支えていることを示唆している。カーリルは書誌を検索すると貸出中かどうかも分かるのだが、これだけ所蔵されていても借りられていたものは10点もなかった(うろ覚えだが、そんなに違ってはいない)。つまり、これらは図書館が購入するから売れないという類いの図書ではないだろう。同社の出版物はすべて注文制で書店の店頭に並ばないという。とすれば現物を見るためには図書館に行く他ない。個人的経験からも、図書館の資料を借りて中身を確認してから購入した本は少なくない。その意味で、前に書いたように土浦市立図書館の蔵書には助けられている。少部数の学術出版物は図書館市場によって成り立つ出版物と言ってよいのではないかと思う。





2022-05-23

科研「「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究」の成果報告

3年間にわたる科研による研究成果の報告をしておきたい。

SLILのHPのこれまでの活動のなかにも同じものが掲載されている。また、そちらには、この科研で3人の研究協力者に国際バカロレアの学校図書館向けワークショップに参加していただいたときの記録が掲載されている。それは他にない貴重な記録なのでぜひご覧いただきたい。



研究課題:「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究

研究課題/領域番号:19K12721

研究種目:基盤研究(C)

審査区分 小区分90020:図書館情報学および人文社会情報学関連

研究代表者:根本 彰

研究期間 (年度) 2019-04-01 – 2022-03-31

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-19K12721/


<概要>

国際バカロレア・ディプロマプログラム(IBDP)が学習者自身による探究学習を重視し、そこに学校図書館の支援を位置付けていることが日本の探究学習の実施にどのような示唆を与えることができるのかについて基礎的な研究を行った。IBDPの思想的背景、そのカリキュラム構造、日本の学校図書館の教育行政上の位置付け、戦後教育における図書館教育の類似性などについて検討し、また、IBDPと学校図書館の関係についての翻訳書を出版し公開シンポジウムを実施したことで今後の発展的研究につなげる基盤をつくることができた。

<本文>

1.研究開始当初の背景

 学校図書館法が1997年、2014年に改正されて、学校図書館の整備は進んでいるが教育課程との関係は曖昧にされたままである。一方、国際バカロレアの中心には探究学習(inquiry_based learning)があり、探究学習を実施する際には学校図書館の利用と図書館員の教育支援を重視している。2013年5月の教育再生実行会議第3次提言に、国際バカロレア導入校の大幅な増加(200校)を目指すことが記載され、同年に文部科学省と国際バカロレア機構 (IBO) との合意により、「日本語と英語によるデュアルランゲージ・ディプロマ・プログラム」(日本語DP)が導入された。国際バカロレアは2010年代後半に本格的にとりいれられ始め、現在、学校教育法第一条で定義された学校(一条校)でIBプログラムを導入している日本の学校は50校ほどある。また、2021年から実施の新しい学習指導要領には高校の総合的探究の時間をはじめとして「探究」を大幅に取り入れることになっている。このように、探究学習についての動向の変化があり、そこで学校図書館の支援をどうすすめるかの検討可能な状況がつくられつつある。

2.研究の目的

 国際バカロレア・ディプロマコース(IBDP)は高校の2年、3年レベルの教育カリキュラムを提示するもので、そこには教科にあたるものとは別にコアと呼ばれる3つの科目がある。そのうち、TOK(知の理論)とEE(課題論文)の在り方を分析し、日本に適用可能な学校図書館を用いた学習カリキュラムを明らかにすることを目的にする。TOKは、知識を獲得する方法について学ぶコースであり、複数の知識領域を題材にして、認識論、学問史、科学方法論、科学社会学などによる知の究明の方法を学ぶが、その際に、エッセイ執筆およびプレゼンテーションが義務付けられているので図書館が支援を行うことが多い。EEはテーマを自分で設定して研究を行いそれを小論文にまとめ、プレゼンテーションを行うものである。こちらは教員だけでなく図書館員が指導することも多い。この研究では、IBDPがなぜこのようなコア科目を導入するのかを明らかにするために、背景にある西洋思想史を明らかにし、実際にどのようなカリキュラムが組まれ、どのようなシラバスの展開があるのかを調査する。また、IBDPが学校図書館をどのように位置付けているのかを明らかにし、日本のIBDP校および一条校での運用の可能性について検討する。さらには、IB校に限らず一般の学校で導入されつつある探究学習に対して、IBDPのTOKやEEが示唆するものを考察する。

3.研究の方法

 文献調査、英語文献翻訳、IBDP関係者との協働作業、連携研究者による国内のIBDP校の調査、公開シンポジウムの開催など複合的な方法を組み合わせて行う。当初、IB本部(ジュネーブ)での聞き取りやヨーロッパのIBDP校の見学とインタビューを予定していたが、ちょうどコロナ禍と重なって海外調査ができなかったので国内で可能なことに切り替えた。

4.研究成果

1)背景の思想研究 国際バカロレアは1968年にジュネーブで始まった。最初のディレクターであったオックスフォード大学の教育学者A. D. C. Petersonの著書Schools Across Frontiers, 2nd ed(2003)によれば、IBDPのカリキュラムは西洋の伝統的な人文主義(humanitas)の要素を色濃くしている。そこで、西洋の人文主義の系譜を整理しそれが日本の教育思想、図書館思想とどのような関係にあるのかについて『アーカイブの思想』(文献3)にまとめた。また、人文主義と図書館の思想および技術がどのような関係にあるのかを明らかにするためにさらに文献2、5、6、8、14、16の研究を行い発表した。

2)学校図書館史研究 日本では戦後占領期に学校図書館は経験主義教育を支援することで注目されたが、まもなく教育課程自体が系統主義教育に切り替えられた。このため十分な人の手当も行われないままに長く読書施設とされたことに対する理論的な批判をするために行っている。以前から行ってきた学校図書館史研究をまとめて文献1として東京大学出版会から刊行し、併せて文献7、9、12の検討を行った。12は論文として学会誌に投稿中である。それ以外に、学校図書館史の論文(「戦後学校図書館のマクロ分析」「深川恒喜研究のための予備的考察」)を投稿中であり、さらに1本(「戦後新教育における初期図書館教育モデル」)を準備中である。

3)IBDPカリキュラムと学校図書館の関係 国際バカロレアのカリキュラムがどのように学校図書館に関わるのかを明らかにするために、カリキュラム構造の分析ととくにTOKがどのように実施されているのかをIB公式文書を用いて明らかにした(文献10、13)。

4)アンソニー・ティルク『国際バカロレア教育と学校図書館』の刊行と公開シンポジウムの開催 国際的に学校図書館をIBDPに位置付けるための理論的実践的活動を行っているティルク氏の著書の日本語版の翻訳の監訳を行い、2021年9月に学文社から刊行した(文献4)。また、2021年11月23日にティルク氏の講演を含めて、IBDPと学校図書館をテーマにした公開シンポジウムをオンラインで開催し、150人以上の参加者を集めた。シンポジウム記録はネットで公開している(https://sites.google.com/view/slil-inquiry/past)。

5)連携研究者によるワークショップ参加報告と国内IBDP校の図書館調査 IBアジア太平洋地域支部が開催するワークショップに連携研究者3名が参加し、その結果を報告した(SLILのHP)。また、連携研究者が国際バカロレア認定校学校図書館の調査を行い、その結果の一部を学会で報告した(文献11)。これは学会誌で発表予定である。

6)今後の研究継続のための研究会発足 上記の翻訳と公開シンポジウムチームによってSLIL(School Library for Inquiry Learning)という研究会を立ち上げ、探究学習と学校図書館との関係を中心にして国際バカロレアも含めた研究を継続することにした(https://sites.google.com/view/slil-inquiry/home)。


5.主な発表論文等

[図書]

1.根本彰『教育改革のための学校図書館』東京大学出版会, 2019.7

2.根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

3.根本彰『アーカイブの思想ー言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021.1

4.アンソニー・ティルク著(中田彩・松田ユリ子訳、根本彰監訳)『国際バカロレア教育と学校図書館:探究学習を支援する』学文社, 2021.9

[図書の一部]

5.根本彰「4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く」根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

6.根本彰「6章 知識資源のナショナルな組織化」根本彰、齋藤泰則編『レファレンスサービスの射程と展開』日本図書館協会, 2020.2

[雑誌論文]

7.根本彰「教育改革と学校図書館の関係について考える」『図書館雑誌』vol.113, no.12, Dec. 2019, p.792-795.

8.根本彰「知識資源システムとは何か(図書館と知識資源の新たな動向)」『三色旗』No.836, 2021.6, p.31-38.

[口頭発表]

9.根本彰「日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策」『2019年度日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』日本図書館情報学会, 2019. p.71-74.

10.根本彰「国際バカロレアと学校図書館との関係」日本図書館情報学会研究大会 2020年10月4日

11.高松美紀「日本における国際バカロレア認定校の図書館の実態」『2021年度日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』日本図書館情報学会, 2021. p.39-42.

12.根本彰「戦後学校図書館のマクロ分析」日本図書館情報学会研究大会、熊本学園大学 2021年10月16日

13.根本彰「IBDPの「知の理論(TOK)」「課題論文(EE)」が図書館情報学に示唆するもの」三田図書館・情報学会 2021年11月13日

14.根本彰「図書館のアーカイブ機能とは何か」『大阪公共図書館大会記録集第68回 テーマ「「コロナ時代」の図書館運営』大阪公共図書館協会, 2021. p.50-51.

[その他]

15.新聞インタビュー 『朝日新聞』2021年4月4日(土)朝刊11面「(耕論)「国語を学ぶ」とは 渡邊峻さん、根本彰さん、ロバート・キャンベルさん」

16.「アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす 対談=根本彰・田村俊作『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に」『週刊読書人』2021年4月9日


2022-05-16

「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」への意見

 「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」(https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000235000)の締切が5月20日ということなので遅ればせながら、ぎりぎりで意見を送ろうと思い作文しました。(5月16日)

第1改訂 第3段落目の「理由」を加え、部分的に修正しました。(5月17日)

第2改訂 理由の7)の挿入を初めとした部分的修正をしました。(5月19日)

最終 文章を整えて提出しました。(5月20日)

ーーーー<最終案>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

図書館の研究者です。『情報リテラシーのための図書館』(みすず書房, 2017)『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会, 2019)などの著書があります。

【提案の骨子】

「学校教育情報化推進計画(案)」について、公立図書館と学校図書館とを統一的に学習情報資源提供の場と捉えて、すでに存在する情報資源、資料や人的資源とを統合的に活用する条項を含めることを提言します。

【推進計画の問題点】

現在、学習者自ら情報を探索しながら問題解決を行う探究学習が、さまざまな教科や学習の場で必要とされています。そのため、学校教育の情報化においては、ICTのネットワークや端末機器の整備に加えて、そこで提供するコンテンツの整備、収集・選択、提示が必要になります。しかし、推進計画では、「③デジタル教材等の開発及び普及の推進、教科書に係る制度の見直し」で触れられている程度で、インターネット上のコンテンツや図書館資料を学習情報資源として活用することが想定されていません。これはデジタル学習教材を開発すればすむことではなくて、重大な見落としだと考えます。

【本提案の背景】

戦後、文部省においてそうした学習情報資源の扱いを視聴覚教育やメディア教育と位置づけましたが、これをどこで扱うかで初等中等教育局と社会教育局のあいだで取り合いをしていたように見えます。結局、社会教育局に視聴覚教育課ができたことで一旦は市町村単位に視聴覚教育センター・視聴覚ライブラリーがつくられます。自治体単位にセンターを設け、そこから機材やメディアを学校に貸し出す方法をとったということです。しかし、視聴覚メディアは各学校でも放送教育とか学校図書館でも扱っており、中途半端なままにICT時代を迎えました。2018年の文科省の組織改革の際に生涯学習政策局(社会教育局の後身)情報教育課(視聴覚教育課の後身)は初中局に情報教育・外国語教育課として移り、さらに2021年にそれは修学支援・教材課と名前を変えました。情報メディア教育は全省一丸となって実施するというのが理由と聞いています。

他方、戦後まもない時期から視聴覚資料を学校図書館で扱い、そこにメディアスペシャリストとしての図書館員を配置する構想がありました。文部省の初代の学校図書館担当官深川恒喜氏(その後東京学芸大学教授)はこの構想を晩年に至るまでずっと主張し続けています。それは、アメリカでスプートニクショック(1957)以降、学校図書館は読書のセンターではなくメディアセンターとして位置付けられたからです。アメリカでは創造的な科学教育は、教員による課題解決型の学習法の提示とメディアスペシャリストたるライブラリアンによる教材資料の収集提供の組み合わせによって可能になるという考え方がありました。

ここで提案する情報教育の拠点としての学校図書館という構想は私の独断ではなくて、かつて初等中等教育局「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進などに関する調査研究協力者会議」の最終報告「情報化の進展に対応した教育環境の実現に向けて」(1998)およびそこにある二つの図「学校内の情報化と教育ネットワーク「学校内の体制と外部からの支援体制」で示されました。今回の提案はそれに、公立図書館との統一的運用のアイディアを加えたものです。最終報告では司書教諭がメディア専門職とされていましたが、担当部門が総合教育政策局に移り、学校図書館法が改正された現在では学校司書がその役割を果たし、司書教諭は教育課程との橋渡しをするとした方が現実的です。2000年代には「学校図書館情報化・活性化モデル地域推進事業」が実施されてこの方面の可能性を検討しているはずです。

【提案の理由】

今、日本でも従来の系統主義から探究学習の導入へと舵を切ろうとしているときに、同様に教育課程を支援するライブラリアンの存在が不可欠になります。そしてその支援方法にデジタル教材の提供も含みます。日本でも本格的にICT教育を実施することが必要になったときに、それを自治体を単位として統合的に管理できるように図書館をベースにした地域教育情報センターを設置し、学校図書館とネットワークで結んで自治体単位の情報メディア業務を推進すべきです。その理由は次のとおりです。

1)文部科学省においては、公立図書館、学校図書館行政が総合教育政策局地域学習推進課の下にあって統一的に扱いやすい。

2)探究学習で必要となる学習資源は公立図書館の蔵書として豊富に蓄積されている。電子書籍の導入も進んでいる。公立図書館と学校図書館はもっと密接に関わり、併設ないしは統一的に運営することも視野に入れやすい。

3)公立図書館は従来の印刷メディアあるいはパッケージメディアからデジタルメディアとのデュアルモードによるサービス体制を志向している。どちらかだけでなく両方の学習資源を提供するためのノウハウがある。

4)公立図書館は当該地域の地域資料のデジタルアーカイブ化を進めていて、これが探究学習のための学習資源として有効なケースが少なくない。

5)図書館司書は単なる資料の管理者ではなく、レファレンスサービスを行う資料やメディアの専門家として、学習者が探究学習を行ったり教員が学習資源を利用した授業を行うときの助言者、支援者になることができる。

6)学校図書館にも学校司書(ないし司書)が配置されるべきであるが、人件費他の関係ですべての学校にフルタイムの専任スタッフが配置できないとしても、自治体を単位にして公立図書館と学校図書館のスタッフを計画的に配置することができる。

7)新聞記事データベースやジャパンナレッジのような学習用のオンラインデータベース、電子図書館システムなどのデジタル情報資源は、すでに自治体単位で契約しているところも少なくないが、公立図書館と全学校図書館をまとめて契約をしたほうがシステムの保守管理等も含めて運用しやすくまた経済的である。

8) 著作権法31条1項では図書館資料の私的利用のための複製を可としているがその場合の図書館に学校図書館は含まれていない。また、昨年改正されて加えられた同法31条2項により、雑誌記事等の資料を公立図書館からメールの添付ファイル等で取り寄せることも可能になった。これらの点から、学習者が自ら利用するのに学習資源を外部に求めようとすれば、公立図書館に頼ることが増えることは間違いない。

元にした最終報告はすでに四半世紀前のものですが、基本的構図は何ら変わっておらず、デジタル化が進展した現在ではむしろ実現しやすくなっていると言えるでしょう。今回、強調したいのは、国会図書館がジャパンサーチやデジタルコレクションの公開などでデジタル化で先行しているように、図書館はICT活用のノウハウをもっているということです。これまで学校図書館はそこから取り残されていた感がありますが、公立図書館と一体的に運用することで大いに可能性が広がるものと考えます。





2022-05-15

早坂信子『司書になった本の虫』を読む


早坂信子『司書になった本の虫』(郵研, 2021)を昨年のうちに著者からいただいていたので、遅くなったがここに感想を書いておこう。感想というよりも本書を読んで考えたことと言ったほうがよいだろう。

早坂さんは1969年に宮城県立図書館に司書として採用され、37年勤めて2006年に退職した根っからの司書である。今でも本の虫が図書館に勤めるケースは少なくないだろうが、まず司書職採用が減っているから司書で勤め上げられる人がかなり減っている。まして公務員改革で法的な根拠のない専門的な職種は減らす方向にあるから、全国的に見てこういう働き方がかなり制限されることは間違いない。司書採用の人もどこかで管理職になるために他の部門に移ることを余儀なくされることもあり、そういう人はいずれ図書館に戻ってくるとしても、図書館だけにいる専任司書といえる人はほんとうに少なくなった。

そういう彼女がご自分がやられてきたことを振り返りながらも、それを近代日本の歴史的文脈のなかに位置づけた書物論、図書館論になっている本である。その期間は1970年代から1990年代という公立図書館の現代的発展期にぴたり重なっている。この時期の県立図書館で何があったのか。本書はかつて図書館にあって今はないものの話しから始まっている。製本、古書筆写、目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与、マイクロフィルム撮影といったものが挙げられている。もちろんこのなかで目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与は現在は図書館システム上での作業に置き換わっていて仕事そのものがなくなったわけではないが、MARCとシステム導入によって図書館員が資料そのものに向き合う機会はだいぶ減っている。製本、古書筆写、マイクロフィルム撮影もなくなったわけではないだろうが、図書館員自体がやることは稀だろう。外注するなり、デジタル複写で代替するなりの方法が採用される。

彼女が図書館員であった時代は図書館システム導入を進めそれによって仕事が軽減化された時代であった。彼女自身もシステム設計にも関わり、その移行の過程を直接知っている。と同時に、図書館員が資料そのものを直接手に取り検討する過程がなくなっていった状況についてもご存じであり、それに伴う図書館界の変貌に対して批判的であることも確かだ。だから、本書は図書館員がいかに資料に向き合うべきなのかを訴える後身への伝言となっている。

そのなかでは、たとえば、彼女が先輩から口酸っぱいほど言われたこととして、宮城県立図書館の蔵書が空襲で焼かれたことに対する責任ということがある。戦前の宮城県図書館は全館レンガ造り三階建ての書庫に13万冊の貴重な蔵書が置かれていた。そのなかには古典として養賢堂(仙台藩の藩校)本や藩から県庁に引き継ぎ移管された本などの貴重書が多数あったのだが、そのうち5千冊だけは疎開させたが残りは1945年7月10日の仙台空襲で全焼した。それはもちろん米軍の非軍事施設を対象にした無差別攻撃という文明に対する罪をまず第一に非難しなければならない。しかし、戦後の図書館員はむしろアメリカから恩恵を受けた面が強いからそのことについては忘れ、自らが救出できなかったことに対して後悔の念を強くもっていたという。それだけ管理する資料に対して強い責任感をもっていたからだ。

彼女がご自分の研究テーマとして、仙台藩の青柳文庫をはじめとして個人文庫に関心を寄せるのも、それぞれの文庫に収められた資料は単なる印刷本の集合体ではなくて集められた来歴とその後使用履歴が負荷され、全体として知的な営みがあることの重要性を感じているからである。青柳文庫は、仙台出身の商人青柳文蔵が、仙台藩に書籍3千部1万冊と文庫開設資金1000両を献上し、それを広く活用させるために藩の医学校があった場所に公開の文庫として設けたもので、明治以前に日本にあった公共図書館的機関として重要なものであった。

自らの研究テーマをもって研究することで資料への関心が深まるというのはかつての図書館員にとって普通のことだったが、これに対して1970年代以降の図書館員たちは批判的だった。最近でこそようやく郷土資料や地域資料に関心が向き、また、近世の文庫や戦前の図書館にも眼を向け始めているが、あまりにも高度成長以降の機能主義的図書館論に惑わされてきたのではないか。その機能主義にシステム化が加わると、周りの者からは図書館員の仕事は矮小なものとしてしか映らない。だから、何よりも資料の収集、保存、提供の一連の過程で資料に対峙することが重要である。この本から資料の専門家であることの重要性というメッセージを読み取ることができた。ここで資料というのは、デジタル化とまったく矛盾しない。デジタル化以前と以後、あるいはボーンデジタルも含めた資料(すなわちコンテンツ)そのものに向かい合わなければ専門職とは言えないだろうと思う。

全体としては日本の図書館に巣くうアンチインテレクチュアリズムに対する警告と受け止めた。先に書いたような専門職司書が減った理由が、日本社会全体がとくに新自由主義を背景にこのアンチインテレクチャリズムに走ったことにあり、図書館員も遺憾ながらそれに乗ってしまったのだろう。このテーマは私も別の関心から強い危機感をもっている。そのことについてまた書きたい。


2022-05-13

世界の図書館写真集

本日(2022年5月13日)の朝日新聞(東京版)朝刊の1面の下、いわゆる三八広告の一番右側に柏書房の広告があり、2冊の新刊書の1冊がリチャード・オヴェンデン著『攻撃される知識の歴史』という本だった。この本の副題は「なぜ図書館とアーカイブは破壊され続けるのか」である。そういえば最近他にも、ロバート・ベヴァン 著『なぜ人類は戦争で文化破壊を繰り返すのか』(原書房)という本が出ている。明らかに、今ロシアによるウクライナ侵略で起きていることの裏側で知識、文化破壊が行われていることに対する警鐘であろう。



オヴェンデンという著者にはあまりなじみがないが、英国オックスフォード大学の中央図書館であるボドリアン図書館の館長である。大図書館の館長は専門職でないことも多いが、この人は英国の複数の図書館に勤めてからボドリアン図書館に移ったきっすいの専門職図書館員である。書物の書誌学的な研究があるようだ。

類書としてフェルナンド・バエス著『書物の破壊の世界史』(紀伊國屋書店)という本があった。700ページもある大冊である。この本の帯に「50世紀以上も前から書物は破壊され続けている」という文言があり、はっとさせられた。西洋の歴史は古代オリエントから始まっているとされるが、要するに考古学や歴史学の対象として証拠となるものによって展開されるので、証拠となる書物が破壊されていることにも敏感になるわけである。書物の破壊は逆に言えば書物が残されたこととの対比で語られる。だからこそ図書館が果たす役割が重視されるのである。バエスの著書は図書館もまた歴史的には書物を破壊する側にも廻っていたことを明らかにしている。

書物の保存と書物の破壊は相互関係の下で語られるべきなのだ。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』はアリストテレス『詩学』の第二部は失われたものとされていたのに修道院の図書館が密かに隠していたことをテーマとするフィクションである。中世のキリスト教世界ではその教えに反する書物は外に出せないからで、それは実際にあったことだ。つまり、書物を世に送ることと隠すことの両方が可能な図書館という西洋思想史の陰の側面が浮かび上がる。

私はかつて『場所としての図書館・空間としての図書館』という本を出して、欧米の図書館が都市や大学における知的インフラとして重視されてきたことについて、現地を訪ねて見たり話しを聞いたりして確認してきたことをもとに論じたことがある。この本ではまずアメリカのワシントンDCがアメリカ人にとっての重要な聖地として存在し、そこで記念碑、博物館、文書館、図書館の役割が重要であると述べた。連邦議会図書館(LC)のジェファソン館中央の閲覧室を取り巻くベランダに知のさまざまな領域を代表する16人の賢者の彫像が置かれていて閲覧者を見守っているといった具合である。ここには、アメリカの知の構成が古代ギリシアから始まる西洋的な知の系譜をそのまま取り入れていることがはっきりと分かる。

日本で入手できる図書館建築写真集


ここでは、西洋的な知の系譜を図書館がどのように扱ってきたのかをひと目で分かる図書館写真集を紹介したい。ひとまずは破壊よりも継承の方に目を向けるということだ。破壊の現場を写真にはしにくいが、継承の現場は写真になる。そしてこれがすばらしい現場になっており、日本で翻訳出版されているものも少なくないのである。また写真集なので写真の質が高いこと、印刷製本などの美的な部分も含めて優れていることなどについてコメントしておく。サイズの小さい順から並べる。最後に大きさの相互の関係を示しておこう。

最初は、『世界の美しい図書館』(パイインターナショナル, 2014)という本である。小さい本だし装幀は簡易なもので、その分価格は1800円となっていてお手軽に図書館写真を楽しめる。日本の編集プロダクションで写真とその解説をアレンジして編集したもののようで、特定の著者はクレジットされていない。

世界の夢の図書館』(X-Knowledge, 2014)こちらも編集プロダクションで制作した写真集で上のものよりは上製本でサイズもずっと大きな版である。帯の「死ぬまでに行きたい!美しすぎる知の遺産」というキャッチコピーが示すようにややコンシューマー志向。ヨーロッパだけでなく、南北アメリカ、アジアにまで目配りしており、世界の有名図書館はカバーされているといえるだろう。


ギョーム・ド・ロビエ写真、ジャック・ボセ著『世界図書館遺産:壮麗なるクラシックライブラリー23選』(創元社, 2018)はもともとはフランスで出た本の日本語版である。写真家の名前がクレジットされているように、専門の写真家が撮った写真が豪勢で、3ページ分の横長の折込になった写真が数枚入っている。上製本である。収録されている図書館はアメリカの3館を除くとヨーロッパのものであり、それも大図書館は避けてどちらかというと小規模だが歴史があったり様式として重要だったりというものが選ばれている。通好みの写真集といえる。同じ本の英語版はもう1サイズ大きい。


ジェームズ・W・P・キャンベル著、ウィル・プライス写真『美しい知の遺産 世界の図書館』(河出書房新社, 2018)は、図書館史と図書館写真集を合体させた大型本でその意味で豪華な内容をもつ欲張りな本である。これが1万円弱なのは高くないと感じた。一点一点の図書館の写真が図書館の通史のなかに位置づけられているのでたいへん勉強になる。この本が最後に取り上げている図書館が電子図書館とかではなくて、中国の建築家李晓东の籬苑書屋という枯れ枝が外壁一面に貼り付られた籬(まがき)となった読書室であるのは何やら意味ありげである。


さらに大型本がある。Massimo Listri. The World’s Most Beautiful Libraries, Taschen, 2019. 縦46cm、横32cm、厚さ8.2cm、総560ページ、重さ7kgという大きさの超豪華本である。扱われている図書館は他の本に収録されているものが多いが、大きさからくる迫力は他の追随をゆるさない。価格は200USドルだそうだ。

あまりの大きさに取っ手付きの丈夫なダンボールの箱に入っている。



大きさを比べてみよう。こんなに違っている。



それにしてもここで紹介されている図書館は日本で図書館と呼ばれている機能的な建物とはかなり違ったものである。どの表紙カバーを見ても同じような意匠であることに気づくが、ゴシックとかバロック、ロココとかの美的建築的伝統様式の建物と内装のなかに書物を恭しくあるいは仰々しく配置することが、西洋の図書館の共通した前駆的なかたちである。何よりものとしての書物の存在自体を愛でて、そこに淫するがごとき経験が図書館と親しむ前提にあるのだ。そのあたりはボルヘスとかエーコあたりを読むとよく分かる。先の本『攻撃される知識の歴史』も著者オヴェンデンによるそうした書物への愛を横溢させており、それがなければライブラリアンはただの資料や情報の管理者になりさがってしまうだろう。西洋において図書館が知のインフラたりうるのはそうした思想的前提があるからだが、日本や中国では必ずしもそうではなかった。武雄のTSUTAYA図書館を皮切りに、その思想のイミテーションが流行ったのはご愛嬌だが、先の籬苑書屋のような施設が西洋から見てある種の理念型と通じているとすれば、再度、原点を探り直す必要があるのだろう。










なぜこの本を翻訳したのか:生成AIと図書館(2)

 マーティン・フリッケ著『人工知能とライブラリアンシップ』を1ヶ月で翻訳した。できた訳稿は全部で40万字,大判で400ページ近くある大きな本になった。かつてなら1年くらいかけないとできないようなものが短期間でできたのは,AIの力を借りたことが大きい。翻訳ソフトの能力が各段にアップ...