2021-03-15

「サブジェクトライブラリアンの将来像」に参加して

本日3月15日、東京大学附属図書館アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門の主催で標記のシンポジウムがオンラインで開かれ参加した。この図書館は昨年10月に開設され、この4月からここに3名の「サブジェクトライブラリアン」が配置されるということである。東京大学にこうしたポストができるというのは画期的なことであるだろう。

http://u-parl.lib.u-tokyo.ac.jp/archives/japanese/mh4

プログラム

[ 第1部 ]
9:30 〈開会の辞〉 蓑輪 顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
9:35 〈アジア研究図書館の紹介〉 小野塚知二(アジア研究図書館館長、経済学研究科教授)
9:50 〈趣旨説明〉 中尾道子(U-PARL特任研究員)
10:15 〈報告1〉 吉村亜弥子(シカゴ大学図書館日本研究ライブラリアン)
■  米国サブジェクト・ライブラリアンの現状:「博士号オンリー」日本研究専門ライブラリアンによる現場報告
10:35 〈報告2〉 福田名津子(松山大学人文学部准教授)
■  通訳としてのサブジェクト・ライブラリアン:図書館の言語、研究の言語
10:55 〈報告3〉 渡邊由紀子(九州大学附属図書館准教授)
■ 九州大学大学院ライブラリーサイエンス専攻による大学図書館員の人材育成
11:20 〈来賓特別報告〉 三宅隆悟(文部科学省研究振興局参事官(情報担当)付 学術基盤整備室長)
■ 大学図書館に対する期待 -大学図書館を巡る政策動向の視点から-
11:35 〈コメント1〉 大向一輝(人文社会系研究科准教授)
11:45 〈コメント2〉 北村由美(京都大学附属図書館准教授)

[ 第2部 ]
12:05 〈パネル・ディスカッション〉
モデレーター: 蓑輪顕量(U-PARL部門長、人文社会系研究科教授)
パネリスト : 小野塚知二, 吉村亜弥子, 福田名津子, 渡邊由紀子, 大向一輝, 北村由美
12:50 〈閉会の辞〉 藤井輝夫(理事・副学長)

<感想>

最初の主催者側の説明で、新しいポストは博士号をもっている人を対象にしており、その意味で研究者とアジア資料を結んで研究者的視点と図書館員的視点の双方を生かした役割を果たすことが強調された。ただ、これから始まるので、すでに動いているところの関係者から実態や課題などを聴取したいというのがこの会の目的だったようだ。今回の登壇者のうちサブジェクトライブラリアンとしてのキャリアがあったと言えるのは最初の吉村さんと次の福田さんであり、その次の渡邊さんとコメンテータの北村さんはどちらかというと教育者的な位置づけにある図書館員であり、コメンテータの大向さんはシステム開発から図書館に関わった研究者という位置づけだ。登壇した人たちはいずれも博士号をもっていた。

最初の報告者である吉村さんは修士課程からアメリカの大学院で研究し現代民俗学の博論を書いた人で、長らくシカゴ大学の東アジア図書館で日本語コレクションのサブジェクトライブラリアンをしてきた。田中あずささんのサブジェクト・ライブラリアン:海の向こうアメリカの学術図書館の仕事でも紹介されているアメリカの事情はある程度は知られているが、生の声をきくとそれはそれで非常に参考になる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門領域とLISのダブルマスターが標準だが、主題領域の博士号しかもたない人も一定割合いるという。また、司会者からあったサブジェクトライブラリアンのキャリア形成についての質問では、多くの場合は一旦その職につけば長く勤めるのが普通であり、せいぜい一回ほかに転職するくらいではないかということだった。つまり安定した職として存在しているということである。また、なかでのプロモーションは存在しており、それは職務の評価と表裏の関係にある。シカゴの場合は、教員職と事務職員のあいだにacademic appointeeと呼ばれる教育研究の専門職があって、サブジェクトライブラリアンはその位置づけにあり待遇は悪くはないとのことだった。

福田さんは社会思想史研究で学位をとったときに、ちょうど一橋大学にできた社会科学古典文献センターの助手として採用され、10年間勤めたときの経験を話してくれた。現在は別の大学にいるのでそのポストは恒久のものではないのだろうし、お話しのなかで主題研究者としての研究時間があった方がよいという意見があり、どちらかというと研究者の意識が強い方のように伺った。それに対して渡邊さんと北村さんは、ファカルティステイタスをもった図書館員としての仕事をしている人としての発言やコメントだったと思われる。アメリカのサブジェクトライブラリアンは専門職としてのステイタスと待遇があり、また、日本フィールドのサブジェクトライブラリアンだけで50人程度いるというから、場合によってはその間の職の異動もありうる、人材のプールが可能である。日本ではまだこうした職の位置づけは模索中であることがわかる。

そのあたりの関心は主催者も参加者も共有していたらしく、最後の方の質疑では職の在り方に集中していた。とくに「博士号をとった若手研究者の腰掛けの職」にならないかという質問については、そうでないものを考えたいというのが公式見解であったが、実際に「日本型サブジェクトライブラリアン」がどのようなものなのか、いかにして可能かについてはいろいろと考えなければならないものと思われる。

まず、職の中身がどうなるのかについては一応のものは示されていたが、主題知識をもってライブラリアンの仕事をするというときに主題知識はいいとして、ライブラリアンの仕事をどう考えるのかである。選書、資料組織化、レファレンスサービスに資料展示やデジタル化などが上がっていたと思われる。しかしながら、これらの知識や技術をどのように獲得するのかの話しがまったくなかった。採用にあたって司書資格は問わないのだろうが図書館員としてのキャリアがあることは有利になるのか、入ってから図書館情報学について何かの研修があるのか、それは自己研修に委ねるのかといったことである。実は図書館員がもつべき主題知識と研究者がもつ主題知識も同じではないはずでそのあたりの摺り合わせも必要だろう。こうしてみると、アジア研究図書館の運営の前提として、このポジションに就く人は最低、選書と展示企画ができればよいし、レファレンスサービスも含めて研究者がもつ主題知識でこなせると考えているフシがある。どうもこのあたりに、先の「腰掛け」の指摘があながちジョークですまされない憶測をもたれる理由がある。

サブジェクトライブラリアンとして仕事をしてきたシカゴ大学の吉村さんも一橋で仕事をしてきた福田さんも、その職に就く前に図書館でアシスタント的な仕事をしていたという話しがあった。また、九州大学の渡邊さんからは、今は国立大学職員は勤めながら自分の大学の大学院に入れる仕組みがあり、彼女の図書館に他の国立大学から異動してきて大学院の博士課程を修了した人が二人いるという発言があり、博士号を持った人を採用するだけでなくて、図書館員が主題分野の博士号をとるという道もあるのではないかという話しをしていたのは示唆的だった。(*追加注1)また、今日の話しにはなかったが、国内にはアジア系の文献を扱うサブジェクトライブラリアン的なポジションは国立国会図書館やアジア経済研究所にもある。他の国の機関の職員やそれ以外の専門職的人たち、また、アメリカのサブジェクトライブラリアンとの人事交流も視野にいれるべきではないか。

ただし気になる点として、この研究部門は寄付口座で運用されているのでこれらのポストは時限付きになるのではないかということがある。このあたりが「腰掛け」の議論と相まってよく分からなかった点である。シンポジウムの最後に次期東大総長になる藤井副学長の挨拶があったがその点についての言及はなかった。これが定員に組み込まれるような恒久的なものになるのかどうかは重要なポイントである。このような公開の場でサブジェクトライブラリアン構想について語ったからには、「日本型」という表現で逃げないで本気でこの職をどのように構築していくのかについて疑問に答える必要があるように思う。また、4月から採用ということだからすでに内定している人がいるはずであり、それらの人たちが実際にどのように仕事をしていくのかについて見守っていく必要がある。いずれにせよ、このポストは今後の図書館専門職のキャリア形成についての試金石になる可能性がある。(*追加注2、追加注3)

*追加注1(3月16日) その後読み返して渡邉さんの発言は、主題分野の博士号ではなくて、彼女が教鞭をとっている九州大学の大学院ライブラリーサイエンス専攻のようなところを指しているのかなとも思えた。となると、サブジェクトライブラリアンになるためには最低でも主題分野でマスターも必要になるだろう。そういえば、現在、国立大学図書館の正規職員になる人はマスターをもっている人が多いという話しがあったことも記憶している。つまり、主題分野の博士をもつという選択肢と主題分野の修士+LIS関連の博士という選択肢の二つがありうるということだと思われる。

*追加注2(3月18日) 3ポスト(准教授1、助教2)は昨年秋に公募されていたことに改めて気がついた。それはここに残っている。ただし、「公募要領」はすでに削除されている。ここの説明を読むと、「アジア研究図書館は、研究支援及び研究機能を持った図書館になります。その中核を担う方が、このたび公募しますサブジェクト・ライブラリアン教員です。従来、東京大学の図書館には教員は配置されてきませんでしたが、昨今の研究領域の多角化、情報の多様化の現状に鑑み、大学教員または学生(学部学生・大学院学生)の研究支援ならびに蔵書構築等の図書館運営を主たる任務とする教員を、正式に附属図書館に配置することになりました。」とあり、<正式に配置>となっている。正式の中身を確認したいのだが、今となっては分からない。どなたか<こっそりと>教えてもらえませんか。

*追加注3(12月11日)9月15日づけで匿名の方からのコメントがあり、このポストは附属図書館に正式についたものであることが示されていた。(「こっそり」だったので今まで気づかなかった)それによると、UPARL(寄付研究部門)は大学当局にこういうポストの重要性を提案し、それを承けてこれらのポストが新設されたらしい。改めて、UPARLと附属図書館との関係を整理してみると次のようになる。東京大学アジア研究図書館は、2010年から進められてきた、東京大学附属図書館・新図書館計画の中核として、2020年10月に開館したもので、アジア地域の多言語資料を対象に総合図書館に開架スペースと書庫をもって図書館サービスも行う施設となっている。アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門(UPARL)はそこに設けられた研究部門であり、それとは別にアジア研究図書館研究開発部門(RASARL)が設けられてこのブログで紹介したサブジェクトライブラリアンはここに所属する。HPを見ると本文で書いた公募によってすでに3人のスタッフが着任していることも分かる。また本文で書いた寄付講座による人事の不安定性の心配はこのコメントによって払拭されている。コメントありがとうございました。しかしながら、着任したスタッフのサブジェクトライブラリアンとしての働きぶりについてはまだよく分からないところが多い。






2021-03-01

情報爆発、万葉集、苦学そして日本語

恒例の月刊『みすず』2021年1月/2月号「最近読んだ本」への寄稿です。 

なお、4以外は拙著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)でも取り上げています。このうち、1は図書館情報学を学ぼうという人は必読の基本書ではないかと思います。(3月22日タイトルを変更)


根本彰(図書館情報学・教育学)

1 アン・ブレア(住本規子ほか訳)『情報爆発—初期近代ヨーロッパの情報管理術』中央公論新社、2018年

原書名はToo Much to Know(「知識の増加に追いつけない」)で、「感染爆発」が現実のものとなった今なら訳書のタイトルはこうはならなかったろう。この本は15世紀に活版印刷術が始まってからのヨーロッパにおいて、爆発的に増えた書物の知識をどのように管理しようとしたのかを克明に明らかにしている。写本の時代には書物と共存していた人間が急激な知識増大に、種々の注解や梗概、欄外注釈、ノート作成、索引や書誌の作成、事典や辞書の編纂で対応した。そして、この知的営為は18世紀末まで 三〇〇年以上続いたという。それにしても、内容をよく理解できない言葉の氾濫を管理しようとすることは、正体不明のウィルスと戦うのとよく似ているのではないか。そして、疾病への対応が臨床医学につながるように、情報爆発への対応は19世紀以降、学校教育、大学、出版、そして図書館の制度化につながっていく。

2 品田悦一『万葉集の発明』新装版 新曜社、 2019年

日本が19世紀後半、開国によって近代世界に足を踏み入れたとき、ヨーロッパが過去四世紀にわたって蓄積してきた近代知が一挙に入ってきたから、「情報爆発」の程度はヨーロッパが経験したものの比ではなかったはずなのだが、たんたんと西洋化が進んだように語られているのはなぜだろうか。そこには明治政府が念入りに準備した知の選択的導入の仕組みがあったと考えられる。そのことを示唆するのは「令和」の年号が決まるときに話題になった『万葉集』である。国民歌集としての『万葉集』が明治以降の「発明」だという視座から、日本では知が倫理や美意識を伴ったカノン(正典)を構築し、これが政治的に利用されてきた状況を明らかにしている。本書は以前から読まれていた研究書だが、改元を機に新装版が出された。

3 伊東達也『苦学と立身と図書館—パブリック・ライブラリーと近代日本』青弓社 2020年

明治期の知の方法の選択導入を示すもう一つの側面として、学校教育と図書館との関係がある。図書館は本を手軽に借りる場、あるいは市民の憩いの場になりつつあるけれども、同時に若い人の試験勉強の場でもあることは今も変わらない。この本で強調されているのは、近代日本で採用された教育観において知が他の価値の道具とされたことである。上位の学校に進むことが立身出世の手段であり、それを駆り立てるために試験が必要とされている。図書館は知の蓄積の場であったはずだが、学校外での試験勉強の場として位置づけられてきた。本書は、明治初年に地方から上京した青年たちが東京書籍館を自学勉強の場とすることから始まる図書館利用が、明治末に帝国図書館と名前が変わった頃から、試験合格そのものが目的に転換していった過程を描き出している。

4 小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』徳間書店、2018年

ヨーロッパにおいて知識人あるいは学習者は、蓄積された知から必要なものを取り出すものとされ、そのための方法が発達していた。これに対して、日本では知は外部から注入されてそれを要領よく処理する能力が試験によって序列化される仕組みが発達した。この違いの前提は、知(あるいはそこに仮定されている真理)が言葉のうちに存在しているのかどうかにある。本書は、西欧の知が言葉に真理を認めるロゴス中心主義であるのに対して、日本ではあらゆる語りの相互関係で真理らしきものが決まるという。なるほど、だから日本では書いたものに対する信頼がなくて、密室で何かが決まることが常態化しているのかと納得する。しかしそうなると、ロゴスが失われ、知が手段化した社会において、私たちは何を指標にして生きていくべきなのかその根拠がますます見えにくくなる。



2020-12-22

博士論文(「教育改革のための学校図書館」)について

本年2月に慶應義塾大学から「教育改革のための学校図書館」の研究業績により博士(図書館・情報学)の学位を頂戴した。その経緯について書いておきたい。

私たちの世代の文系の研究者は、大学院博士課程を単位取得退学のまま就職し、そのまま定年近くまで博士の学位なしの人が多い。当時、文科系では、博士はある分野に長期間携わって一定の成果を上げた人のための名誉的な称号であるという見方が支配的で、若いうちにとることは一部の分野(心理学、社会学、経済学などの実証科学的分野)を除くとあまり考えられていなかった。だから、外国の研究者人と交流して博士号がないというと少し肩身が狭い思いをしながらそのような事情を話さざるをえないことも何回かあった。私自身は、一定の研究分野でじっくりと研究を継続することができず次々といろんなことに手を出して中途半端にしたまま違うことに手を染めることを繰り返してきたので、博士号をとることもないだろうと思っていた。ところが、一昨年から昨年にかけて『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)をまとめてみて、ひとつの手応えを感じたことと、もう学究生活も最後になることだからもし学位につながるならチャレンジしてみようかという山気が生じたことで、博士号の請求手続きをしてみた。

もう一つラッキーだったのは、慶應の大学院文学研究科では論文博士を認めていて、それも刊行済みのものが審査対象になることを知ったことである。これがお隣の社会学研究科だとそうはいかず、論文博士でも基本的には博士課程に在籍していたことが要求される。実は、最初、社会学研究科にある教育学専攻に論文を提出しようかと思って相談したらこの理由のために門前払いだった。そのために文学研究科に提出することにした。

著書を準備する過程で一つの手応えを感じたというのは、この本は全体はいくつかのパートに分かれているが、重要なのは最初の部分で、占領期の教育改革時に学校図書館がどのような位置づけにあったのかを明らかにしたことである。すでに、中村百合子『占領下日本の「学校図書館改革」』と今井福司『占領期の日本の学校図書館』の2冊の先行研究が出ているところに加えて、あらためて占領期の学校図書館政策の全体像を整理し、とくに教育行政と教育学界における教育改革の議論との関係についてクリアにしてみた。

占領期教育改革が占領軍の民間教育情報局(CIE)主導で始まり、コアカリキュラムなどアメリカ流の教育方法や教育課程を導入して始まったばかりのときに、冷戦体制による「逆コース」によってそうした試行は断絶し、かつてのものに戻っていった。この状況において、学校図書館は当初、新教育を支える一つの制度的な手段と考えられ具体的な導入が文部省内で検討されていたし、学校図書館法によってすべての学校に図書館が義務設置された。けれども結局のところ法的にはあくまでも「設備」扱いであり人の手当てができなかったことがあとあとまで尾を引いたと言える。このあたりを明確に描き、それがその後の教育改革とどのような関係にあるのかについて描こうとした。ここの部分を描くことで、日本の教育制度は上からの改革に従うだけで、天皇制を傘にした軍国主義だろうが、CIEによる米国民主主義改革だろうが、55年体制以降の自民党一党支配による保守的な政治体制だろうが、自縄自縛になっていて自主的に動けないことが明らかになったと思われる。学校図書館は、本来、学習者の自主性を前提とした教育方法の下でしか生かされないから、これが義務設置されたことで日本の「上からの教育システム」に突き刺さった棘となったことを確認できたことが大きいと考えている。

現在、博士論文は機関リポジトリで公開することになっている。慶應の場合はKOARAというリポジトリで管理されている。ここには通常は論文の本文が掲載されているのだが、すでに公刊されているものについては「要約」を提出することで代えられる。「要旨」以外にもう少し詳しい「要約」があるのはそういう理由である。



「審査報告」で指摘されている本論文の3つの「限界」(下線部)について応答しておこう。

1..学校図書館に配置される専⾨職の職務内容についての検討はほとんどなされていない点である。いくつかの国内外の事例研究も提⽰されているが、それぞれの学校において、配置されている専⾨職がどのような仕事をいかに⾏なっているのかについて、体系的な分析は⾏われていない。また国外の事例研究も印象論を超えたものではないことは否めない。特にフランスが、どのような経緯を辿って新たに学校図書館を制度として導⼊したのかについては、今後の研究が待たれる。また、体系的な事例研究を踏まえ、異なる専⾨職の職務の組み合わせ⽅のパターンを学校規模などに応じて整理されることも今後の研究に待たれる。

本論文は、占領期からしばらくの時期に形成されようとしたが実現されなかった日本の学校図書館モデルをまず記述し(第1部)、それが戦後の教育状況のなかでその後どのように扱われたのか(第2部)、モデル形成において参照していたアメリカの学校図書館及びそれとは別の政策動向から展開したフランスの学校図書館はどういうものであるのか(第3部)、モデルを実現させるための議論の動向と課題(第4部)を明らかにしたものである。本論文が政策動向とそれをもたらした要因をマクロに分析することを主たる目的としていたため、審査委員会で指摘されている専門職の職務問題の内実にまで踏み込まなかったというのがひとまずの回答である。第2部、第4部の立論の根拠として、学校図書館で何が行われているのかについて体系的分析を行えればそれに越したことはないが、いずれもそのときどきの現場報告や評論的な言説に基づいて論を進めた。専門職についての先行研究は比較的最近のものはあるが、20世紀にはあまり行われていない。外国の事例については、アメリカとフランスを参照する根拠が何であるのかについては個別には記したが、十分には伝わらなかったのかもしれない。フランスを参照することの意義に関しては、確かに20世紀末と日本と同時期にあったフランスの教育改革においてなぜ学校図書館を含めることになったのかを明らかにできれば説得力を増したであろう。

2. 占領期とその直後については教育改⾰と学校図書館の関係について詳細に検討しているが、80 年代以降については記述が粗くなっている点である。臨教審は⼤きな分岐点であったはずだが、その中でも学校図書館の位置づけに進展がほとんどなかっ た原因の分析などがなされていない。また、いわゆるゆとり教育を導⼊した教育改⾰の下では、図書館の活⽤を展開する機会であったはずであるが、どうしてそのような機会とはならなかったのかの分析も明確にはなされていない。戦前の、⼤正・昭和初期の新教育運動における学校図書館の流れがいかに戦後反映されたのかについての研究も待たれる。

第2部の後半以降の議論が粗くなっているというのは確かにそうかもしれない。これは同時代史をやるときの問題であり、研究の蓄積がないために論点が明確になっておらず、論点づくりそのものを試行錯誤的にやらざるをえないし、それゆえ何をもって一次資料とすべきかも明確ではないからである。論点が明確になれば資料の探索や関係者へのオーラルヒストリーを行うところだが、全体像を明らかにすることを優先したためにこうなった。ゆとり教育導入下で学校図書館が生かされなかったということなどはその典型であるが、ゆとりが週5日制の導入や授業時間の短縮、そして教育方法の改善などを意味するときに、それがすぐさま学校図書館に結びつくということは学校教育の世界ではありそうもない。それくらい、教育課程に学校図書館を組み込むことは学校教育では異質なことなのである。そのことは強調したつもりであるが、個別に論じているので粗くなっているというのはその通りだろう。異質性を明確にすることはその後も続けている。臨教審の考え方が実を結んだとすれば、それは文字・活字文化振興法や子ども読書推進法だろう。図書館は読書推進の場としての認識はされていても教育課程や教育方法と関わりあうという考え方はほとんどなかったと考えられる。また新教育運動との関係についても少し言及したが、明治末からある新教育との関係の整理は今後の課題だろう。

3. 系統主義から経験主義さらには構築主義への変化という、教育が依って立つ 考え方の変化を説明する枠組みに基づいた全体を通しての説明は非常に明快であるが、 日本の、80 年代以降の教育政策と実践についての説明枠組みとしてはやや粗いものと なってしまっていることは否めない。論文中には、系統主義への揺り戻しがあっても、 実際には経験主義や構築主義への流れが確実にあることが繰り返し指摘されている。とすれば、日本における経験主義への変化をさらに繊細に捉える説明の枠組みが編み出されたとしたら、日本における経験主義の定着の兆しとその動きの特徴を描き出すことが 可能になるのではないだろうか。

そのとおりだと考えているが、少し言い訳させていただきたい。今回、論文を展開するために教育学(教育方法学やカリキュラム論)で、こうした議論がどうなっているのかをレビューしてみた。しかしながら、教育史的に戦後、系統主義から経験主義の導入、そして系統主義への揺り戻しが議論されていたが、1980年代以降の構成主義(構築主義)への展開について頼りになるような先行研究はあまりなかった。教育学の世界は教授者と学習者の行動や関係を心理学や認知科学、社会学などの方法で切り取って記述する研究は多数あるが、こうした大きな理論的枠組みで議論することがあまり行われていない。頼りになる研究がないので、自分で仮説的に議論を提示する必要があった。とくに、構成主義への展開の動機付けとしては、OECDのPISAを典型として国際的な教育政策の動向が影響していることについては述べておいた。日本の教育学者およびそれと密接な関わりをもつ教育諸学(教育社会学や学校教育学)の関係者は、自らが依って立つ基盤がどのように形成されているのかを無視して政策的な議論をしているように見える。今後は教育学研究者とも協同しながらこうした研究を進めていくつもりであり、すでに国際バカロレアを対象にした研究を開始しているところである。

粗くなった部分についてはマクロな見方を好む個人的資質にもよる。どちらかというと、日本の学校図書館の問題点を明らかにするとか、学校図書館職員が働きやすい場にするというよりは学校図書館という素材を分析することで、日本の教育の問題点を析出することに重きが置かれていたことは否定できない。この論文は、おおざっぱに戦後日本の教育における学校図書館の位置づけを学校教育における異質な存在として位置づけようとしたものである。そしてこれは今後、日本の教育文化の深層構造解明という課題に取り組むための出発点であると考えている。

先に学校図書館は法によって義務設置されたことによって日本の学校社会において突き刺さった棘であると書いた。ずっと放置されてきた棘はやがてじくじく膿を出してくる(比喩として言っているので関係者には失礼だがお許しいただきたい)。新しい学習指導要領は「探究学習」を前面に出しているが、ここでも学校図書館はそれほどの位置づけはない。しかしながら、著作権の権利制限の議論において著作権法31条の「図書館等」にずっと位置づけがなかった学校図書館を入れるかどうかの議論があったということはけっこう大きな変化ではないだろうか。ブログの他の項目で書いているように、探究学習は学習の基本であり、そこでは学校図書館(的な仕組み)は不可欠である。今、それを国際バカロレアを中心に見ようとしている。今後、徐々に変わっていくものと考える。本論文が、膿を出し切って学校現場に本当に定着するための力になるものと信じている。

最後に、本論文の主査を務めて下さった池谷ひとみ教授をはじめ、審査委員の倉田敬子教授、外部から加わって下さった山本正身教授(教育学専攻)、 堀川照代教授(⻘山女子短期大学)には年末のお忙しいときに面倒な論文をていねいに読んでくださり、貴重なご意見をいただいたことに対して心より御礼を申し上げたいと思う。

2020-12-21

「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)中間まとめ」についての意見

現在、著作権法において図書館関係の権利制限規定の見直しの議論が文化審議会著作権分科会で進められている。すでに、法制度小委員会の議論の中間まとめが公表されていて、これに対してパブリックコメントが求められている。 

文化審議会著作権分科会法制度小委員会「図書館関係の権利制限規定の見直し(デジタル・ネットワーク対応)に関する中間まとめ」に関する意見募集の実施について

こうしたものに個人の立場から意見を出してもどれだけ取り上げられるのか疑問はありながらも、以前よりも開かれた場で議論を進めようとしていること自体は望ましいものと思われるので、意見を伝えることにした。図書館関係者の間では今回の議論は唐突に来たもののようにも受け止められているが、背景には安倍ー管政権が進めようとしているデジタル庁の動きがあり、これに連動していることは明らかだ。そしてそのときに図書館がもつコンテンツに着目しているわけである。そのことについては中間まとめを参照していただきたい。


————————{回答内容}——————————————————————

1)総論 (第1章 問題の所在および検討経緯を含む)

 知的財産推進計画2020にある「研究目的の権利制限規定の創設」についてきちんと言及されていないように思われます。現行の31条第1項は「調査研究の用に供するため」とありますが、この範囲を超えた権利制限規定をつくろうとしているのかどうかがよく分かりません。どうもそうではなさそうですが、そうならばその旨言及していただきたいです。


(2)第2章第1節 入手困難資料へのアクセスの容易化(法第31条第3項関係)

① 対応の方向性

 私は現在国立国会図書館に設けられた納本制度審議会委員を務めています。現在、納本制度の一環でオンライン資料の納入範囲を議論するなかで、「民間リポジトリ」を納入対象からはずすことが検討されています。民間リポジトリが運用されることにより、そこに含まれるオンライン資料は「一般に入手することが困難な図書館資料」ではなくなります。これ自体は著作権の制限と直接関係ないのですが、今後民間リポジトリ等が普及することにより、「入手困難な資料の容易化」という目的の実効性があやうくなるのではないかということを危惧します。つまり、現在、出版物は電子テクストが先につくられそこから印刷されたり電子書籍化されたりするわけですが、今後そうしたものはすべて民間リポジトリに置かれて、国会図書館から送信される資料は古いものに限られることになってしまいます。もちろん古いものの入手が容易になること自体にも意味はありますが、国民(とくに研究者)が期待していることとずれるのではないでしょうか。そのあたりの議論がされてこういう提案がなされているのかどうか疑問に思いました。「デジタル化」の看板が先行し、中身が伴っていないように思われます。


(4)第3章:まとめ(関連する諸課題の取扱いを含む)

 学校図書館を31条の「図書館等」に追加することはぜひ進めるべきだと考えます。これは、現在の国際的な教育改革の動向、とくに2021年実施の学習指導要領で「探究」関係の教育課程が増えたこと、文字・活字文化振興法や子ども読書活動推進法の趣旨等から言って当然のことです。

 しかしながら、現在の学校教育法施行規則や学校図書館法の条文では学校図書館は学校の「設備」扱いになっています。ということは法的には学校図書館への専門職員配置等がされにくいわけで、司書教諭は名目だけであり、学校司書の専門性は重視されていません。そのために「図書館等」に含めるために必要な著作権法の研修等が可能なのかなどの検討をすべきだと思います。

 そもそも、学校図書館や職員の位置づけについて、文科省の総合教育政策局や初等中等教育局を含めた場での基本的な合意をとらないと進められないものではないかと思われます。著作権法が対象とする著作物は教材ないし教育資源として大きな可能性をもっていて、21世紀の残りの時期に教育課程および教育行政において大きな位置づけを占めるものです。(以上のことは拙著『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会)および1月刊行予定の『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)で詳説しています。)

 デジタル庁が開かれることを機会に、文化庁から文科省の他の部門に対して、著作権行政の観点から、図書館における著作物の権利制限条項が教育政策の要になることをもっと強く主張すべきではないかと思います。

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2020-12-19

『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の表紙について

編集者から本書のカバーとして、何か提案はありませんかというお誘いがありました。前に『情報リテラシーとしての図書館』を出したときは、その数年前にヨーロッパに行ったときに撮った図書館の写真から1枚を選んで表紙の写真にしました。ときどきあの写真はどこの図書館ですかと聞かれるときがあるのですが、北欧のどこかの公共図書館のはずだが分からなくなっています。行った記録と写真をもう一度きちんと整理したいと思っているのですがそのままになっています。

今回図書館の写真はもういいだろうということで編集者側と一致しました。修道院図書館の写真など使いたいものも多く、パリの国立図書館リシュリュー館閲覧室も候補に挙げてはいましたが、最終的には却下しました。最終的に選んだのは、下記の青線に囲まれたコミックのような挿絵です。まだ公開されてはいませんが、これが何を意味するのかは本文中に書いてあるので下記に引用します。オトレとはPaul Otlet(1858-1944)のことで、ブリュッセルで国際書誌協会を立ち上げて後の国際ドキュメンテーション運動の創始者となった人です。日本語版のWikipediaに詳しい伝記情報が掲載されています。この図は彼が晩年に書いた『ドキュメンテーション概論』という本に出てくるもので、要するに書物にある知が書誌やドキュメンテーションの媒介作用によって利用可能になり、人間の知として展開されて再編成される様を表現しています。途中の分類表や目録カードのようなものが書物を経由して学術的な知とつながるところがおもしろいということで、これを採用することにしました。

「言葉を知に変える」という考え方はきわめて多様なものを含んでいて、この本では多様性全体を扱っていますが、とくに図書館情報学につながる部分としては書誌や目録、分類、索引などが重要で、オトレらの考え方は20世紀初頭のベルエポック期の理想主義を基にそれを展開したものです。本書第8講でこれについて述べています。


====以下『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』からの引用=======

オトレが書誌からドキュメンテーションへの構想をわかりやすく図示した「世界、知識、学術、書物」をみておきます(図23)。彼が遺した著書『ドキュメンテーション概論ー書物についての書物、理論と実践』(Traité de documentation: le livre sur le livre, théorie et pratique, 1934)に収められているもので、彼の思想をよく示しています。一番下の段の「分類 La Classification」はUDCの分類表であって、ここに知識が秩序化されて示されており、通常はここからアプローチします。下から 2段目「体系知 L’encyclopédie」は知の個々の単位がカードの形態をとって分類の秩序に従って配 列されている状態を示しています。ここにマイクロフィルムや地図や論文が連携すれば、知へのアクセスは容易になります。下から3段目「書誌 La Bibliographie」はその個々のカードである書誌を示しています。これが手がかりに なって知にアクセスします。次の下から4段 目「書物 Les Livres」の段は、書物の形をと って学術の知識内容が文字列あるいは写真で 取り出されている状態を示します。下から5 段目「学術 La Science」(上から3段目)は知識が取り出されて思考の枠組みと対応づけら れている様を表します。下から6段目(上か ら2段目)「知識 Les Intelligences」は受けた人がそれぞれ事物について思考している状態 です。下から7段目(一番上)「事物の世界 Choses」はこうして得られた世界、宇宙についての知ないし真理です。下の方は書誌的プロセスを示し、ドキュメンテーションは書誌によって得られたものが知識として再構成される過程までを含んだ構想であることが分かります。(本文 p.189-190)


図23 「世界、知識、学術、書物」 (Otlet, Traité de documentationより)




2020-12-14

新著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』の予告

『パブリッシャーズ・レビュー』という東京大学出版会・白水社・みすず書房が順番で編集していたPR紙が最終号だそうだ。今回最終号という報道を見て、初めてこれが東京大学出版会が5月・11月、白水社が1月・4月・7月・10月、みすず書房が3月・6月・9月・12月を担当して発行してきたということを知った。紙での出版にこだわってきた人文系の出版社もプロモーション手段としてのDMというのはもう使わないということだろう。

その12月15日発行の最終90号に私が書いた本の出版予告が掲載されている。発行日は1月中旬の予定である。ちょうど1ヶ月前になったところで広報が始まっている。アマゾンをみたらやはり予告が出されていた。

根本彰著『アーカイブの思想—言葉を知に変える仕組み』みすず書房, 2021年1月中旬刊行予定

そこには「日本ではアーカイブが必須の社会基盤とみなされていないのではないか。西洋社会と比較しつつ、これからの図書館が向かうべき道を照らす。」という文言が書かれていた。『パブリッシャーズ・レビュー』の方はもっと長い紹介文であるが趣旨は同じである。著者としては、これは執筆の趣旨と少しずれているのではないかと編集の方をやりとりをしているところだ。確かに広い意味では図書館論であるが、残念ながら「図書館が向かうべき道を照らす」ものと主張すると図書館関係者の期待には沿えそうもない。ほとんどの部分が西洋思想史をベースにした文化論・教育論であって、それに照らして日本の近代化を論じているからだ。要するにこの本は図書館も含めた文化の知識伝達機能を「アーカイブ」と名付けて、その発展が西洋思想の展開に基づいていることを主張しているのである。私が前から主張しているように、日本の教育がかたちだけ西洋的な学校制度を取り入れたが中身と方法が西洋のものとかなり異なったものとなった理由を解明し、それが近代日本の図書館の発展にとってマイナスに働いた事情を明らかにしたものである。

目次

第1講 方法的前提   

はじめに
用語の整理 
アーカイブとアーカイブズ
〈文書〉と言語論的転回 
文化翻訳論 
日本文化の三層性 
言語の透明性と構築性

第2講 西洋思想の言語論的系譜   

ロゴスとは何か 
プラトンとイソクラテスのパイデイア 
ロゴスとしてのアリストテレスの著作群
12世紀ルネサンス
ルネサンス 
フマニタス(人文主義)と近代科学
近代後期におけるロゴス 
パイデイアのその後

第3講 書き言葉と書物のテクノロジー   

書くとはどういう行為か 
書物と文書・記録との違い 
書物のテクノロジー 
古代・中世の書物 
グーテンベルクの活版印刷術

第4講 図書館と人文主義的伝統   

図書館はどのように始まったか 
アレクサンドリア図書館とは何か 
中世から書物の共和国へ 
読者の誕生
修道院と読書 
コレクションとミュージアム
学術知の成立

第5講 記憶と記録の操作術   

ユーグの読書論 
記憶術とは何か 
レファレンス書の完成 
書誌と分類 
書物の共和国の図書館

第6講 知の公共性と協同性   

百科全書と啓蒙主義 
教養とは何か 
研究型大学と大学図書館 
都市に埋め込まれた知 
公共図書館の制度化 
図書館専門職の誕生 
知の大衆化と図書館サービス

第7講 カリキュラムと学び   

陶冶とディセルタシオン 
バカロレアの哲学問題 
パイデイアの世紀的展開 
媒介される知と行動に移される知 
学校改革のための図書館的知 
国際バカロレアにおける学校図書館

第8講 書誌コントロールとレファレンスの思想   

世界書誌の夢 
書誌とドキュメンテーション 
FRBRモデル
分類法と主題 
知的コンテンツのメタデータ 
書誌コントロールという課題 
レファレンスとレファレンスサービス

第9講 日本のアーカイブ思想   

日本人の言葉とアーカイブ 
江戸のリテラシー
会読の重要性 
書物のアーカイブ戦略 
近代世界システムにおける明治維新 
殖産興業と学術知 
博覧会、博物館、図書館 
近代の学校教育制度 
江戸から明治へのアーカイブ戦略 
教養主義と「買って」読むこと 
近代日本の知の在り方

第10講 ネット社会のアーカイブ戦略   

世紀のハイパーメディア構想 
テキストとマルチメディア 
カノン(正典)とは何か 
育たなかったアーカイブ装置
国立国会図書館と憲政資料室 
アーカイブの活かし方

エピローグ   

知のネットワークとアーカイブ 
カノンとフーガ 
独学と在野の知

あとがき  

索引 


本書執筆の経緯について書いておきたい。2020年春にCOVID-19が世界を危機に陥れた。私は3月に大学を退職予定で最終講義を兼ねた公開シンポジウムを予定していた。これについてはブログでも案内し、多数の参加希望者があった。これが開催できなくなったことは学究生活を終える私個人にとってはもちろんのこと、ここで予定していた重要な問題提起ができなくなったことについての学術的な損失という意味でも悔しく思っている。今ならオンライン開催も可能だろうが、それはまたの機会ということになった。

4月から同じところで非常勤講師として学部の「図書館基礎」という授業を継続する予定にしていたのだが、これがオンラインでやってほしいということである。それも教材をデポジットする方法でやることが推奨されていた。そこで一計を案じたのが、この際、自分が考えている図書館論を書いて学生に読んでもらってコメントをもらい、それに対して筆者としての応答をするという方法で授業を進めることであった。そうして書いたのがこの本である。第1講から始まって第10講まであるのは授業の10回分であることを示している。1週間に1講分の原稿を書くのはかなりハードだったが、これまで考えてきたりしてきたことなので、こういう機会に一気に書き下ろすというのは楽しい作業でもあった。また、こういうときにしかできないことだということも感じた。こういうときというのは、退職後で自分の時間をフルに使えることや、パンデミックの危機的状況のなかで緊張感をもって書くこと、また、読者が想定されて(待って?)いるということである。3ヶ月でほぼ書き終えて、その後、手を入れて原稿とした。という背景のなかで書いたものなので、かなりいろんな思いが詰め込まれていて読みにくいと感じることもあるかもしれない。しかしながら、この危機下に何者かを残すことができたという安堵感は残っている。


追記

本書に帯する書評についてブログで補記しています。

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(1) 2021-04-28

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(2) 2021-09-04

オダメモリー 『アーカイブの思想』の書評(3) 2021-09-04


2020-11-10

『公共図書館が消滅する日』への疑問

昨日届いた『図書館界』72巻4号を開き、新出さんによる、薬師院仁志・薬師院はるみ著『公共図書館が消滅する日』(牧野出版, 2020)の書評を読んでみて、喉のつかえがとれた感じがしました。というのは、この本が何を主張しているのかがよく理解できず、もやもやしていたのに対して、すっきりと問題点を整理してくれているからです。この書評をきっかけとして、この本の問題点について論及しようと思います。

戦後の日本の公共図書館界では、国の統制を避けて個々の図書館(員)が住民と連帯しつつ自発的な活動をすることで発展できるという論理を組み立ててきました。ここに関わる団体としては、日本図書館協会(日図協)、全国公共図書館協議会(全公図)、図書館問題研究会(図問研)、日本図書館研究会(日図研)などがあります。日図協は言わずと知れた『中小レポート』と『市民の図書館』というこの考え方を推進した大元の団体です。関わる団体も一枚岩ではないのですが、書評に、全公図が日図協の公共図書館部会から分かれて行政的なプレッシャーグループとして活動することを目的としてつくられたとあるように、相互に関わりをもちます。図問研は日図協が敷いたレールの上で活動する現場図書館員の議論を集約する場であり、日図研は主として関西の図書館員と研究者が関わって日図協の活動を牽引したり後ろから押したりする役割を果たしてきました。

この本の著者らは、日図協を中心とする団体の活動および関係者の言説に対して批判を展開するのですが、私はこうした批判によってどのような対抗的な議論が行われているのかが不明と感じていました。新さんの書評では、本書が大胆に戦後図書館史を分析しようとしていることは評価しつつも、細部に問題が多いことの代表的な例を示し、そもそも土台の部分も怪しいという議論をしています。このあたりはまったく同感であり、こうした分析がされることでなるほど著者たちはこういうことを言いたかったのかと気づかされることも少なくありませんでした。

書評では、「「主流の物語」を批判するために、資料から自説を補強できる部分のみを引用して、別の「物語」を構築しているように受け取れる」(p.196)と述べられています。私には、その構築された「物語」が「本書が批判対象とした既存の図書館の発展史観と似かよっている」というところはよく理解できていませんでした。タイトルは「公共図書館が消滅する日」とありますから、国家的なプランとつながったり、外部からの提案を活かすチャンスは何度かあったのだが、図書館関係者はそれをことごとく自ら潰し、自壊の道を歩んできたと言いたいのかと思います。とすれば、これはとても「発展史観」とはいえないのではないか。というのは、潰してきたプランや提案の主体は、GHQの担当者だったり、図書館協会の理事だったり、図書議員連盟だったり、文部省だったり、日本書籍出版協会や文芸家協会だったりというように、時代が違えば、主張の背景も主体もばらばらだったし、図書館を推進しようという思惑もそれぞれ異なっていたからです。

本書の帯には、「真の目的と存在意義が、いま、失われようとしている」と大きく書かれています。本書に言う、公共図書館の「真の目的」とは何なのか最後までよく分からなかったというのが正直なところです。「はじめに」では、欧米の図書館が公共に開かれたものになっているのに対して、日本の図書館が商業主義的な原理に依拠し、指定管理を導入したり、非正規職員を大量に導入したりして、図書館運営や貸出の多さを競うようなサービス方針になっているが、これでは公共図書館とは言えないと主張しています。けれども、著書全体を通して個別の批判に終始し、このような「目的と存在意義」を実現するための制度とは何なのか、それをどのように実現するのかについては議論されていません。著者らは図書館法の法改正が必要だという議論をしたかったのかもしれません。書評では、著者の一人薬師院はるみさんの論文を引いてそのような読み取り方をしているように見えます。けれども、それは必ずしも前面に出てはいません。

こういう政策的議論には、戦略的な視点をもって歴史的分析を行い、現状分析をする必要があるのですが、本書には戦略的視点も、現状分析もありません。あるのは西欧的な公共性をベースにした個別の歴史的分析と批判だけです。また分析をする際の一貫した歴史観は感じられません。書評でも言われているように、これだけの視野で大量の現代図書館史の文献を集めて分析しようという作業は貴重だとは思います。また、これまで日本の公共図書館論に使える戦略的視点がどれだけ用意されているかというとそれも疑問です。だから、著者らにはここで展開されている論理の枠組みを明確にして、批判のための批判に終わらないポジティブな議論を今後展開されることを期待したいと思います。

私は直感的に著者らの批判は、個別にはともかく政策論としては有効でないと感じます。というのは、貸出を熱心に行う図書館も、指定管理の図書館も、居心地の良さを市民にアピールする図書館も、紆余曲折に見えて、日本の図書館が自立するためには必要な過程だったと思われるからです。それだけ日本人には、著者らがいう「図書館」とは何なのかが分かっていなかったとも言えるのですが、この間に、市民は日本的図書館を見いだしてきたのではないでしょうか。その証拠には、コロナ禍で図書館活動がストップしたときに、図書館サービスの復活を望む声が早い時点でさまざまな方面から上がったことが挙げられますし、今、文化庁の審議会で著作権法を改正して図書館が著作物の一部のデジタルデータを公衆送信できるような議論を行おうとしていることにも示されます。これらは、『市民の図書館』から50年目にして、ようやく目に見える動きとして現れたものです。文化的な事象はそれだけ時間を掛かけて熟成するということではないでしょうか。

追記(11月11日):その後、Facebook上で、評者の新さんとも議論して改めて思ったことですが、第一著者薬師院仁志氏が欧米社会および社会学の視点から社会批評をしてきた人であり、橋下行政への批判などもしてきたことを考慮すると、この本は、日本社会が欧米水準から見て不足しているものがあるという視点から、冷戦体制時には保革政治の荒波に揉まれ、その後は新自由主義を背景にした消費社会に変貌していくなかで、図書館関係者が住民要求というワードに脚をとられ、市民的公共性に照準を合わせることができていないことに対する批判であると受け取るべきなのでしょう。





新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...