2017-07-02

ヤマモモの収穫

気を取り直して。

庭のヤマモモが赤い実をつけていたので収穫した。

今年は梅の実はあまり収穫できなかった。これは他でも聞いたのでこのあたりでは一般的な傾向なのだろう。その代わり、ヤマモモが大量になった。




それほど大きくはない木だが数百個の実がなっている。食べられそうな熟した実だけでもボールで4つ分くらいを収穫できた。これを食べご近所にも上げたりしたが、それでもかなり残ったので、ジャムにするのと、焼酎に漬けるのとをやろうとしているところだ。

以前に漬けた梅酒や梅果汁を漬けたものがかなりボトルに入っている。夏の時期に漬けたものが 何年もかけてさらに熟成が進むのを待つのは楽しみなものだ。前の梅をとりだしてボトルを空ける必要がある。

2017-07-01

ジャスミンの香り(すみません。タイトルを裏切る内容です。不快に思われる方がいるかもしれません。ご注意ください)

最近、匂いに敏感になっている。職場の部屋が3階にあり、季節によってどうも煙臭い感じが漂っている感じがするのだが、同僚に聞くと特に感じないという。とくに冬の時期に感じていて、外を歩いていても感じるときがある。車の排気ガス、あるいは焚火の煙などのような気もしたが、まあ、気のせいだということにしていた。

ある日、屋外のその建物の側に喫煙コーナーがあり、そこで継続的にタバコを吸っている人がいるのが原因ではないかと気づいた。その場所と部屋は高さも違うし、通路が一直線にあってかなり離れているのでつなげて考えていなかったのだが、ちょうど3階に通気口があり、風向き等によってはそこから吸引された煙が廊下を伝わって入ってくるのではないかと思ったのだ。真相は不明だが、嗅覚が異常に敏感になっているのは確かなようだ。

一方、季節季節に街を歩きながら花の芳しい香りを楽しみにしている。初春の梅から始まって、沈丁花、白檀、バラ、クチナシ、金木犀、山茶花といったものである。しかしなかには、これはどうもというのもあり、代表的なものはクリとかスダジイの花が発する匂いだろう。

今の季節にどうも好きになれない匂いがある。それが白い花を可憐に咲かせるジャスミンだ。ジャスミンは香水にも使われているくらいだから一般にはよい香りとされるのだろうし、私自身もよい香りと感じるときもある。だが、どうにも動物の糞が腐敗しているような匂いと感じられることが多い。

前からこの匂いがする場所があり、まさかあの瀟洒な家の門側の生け垣の白い花から来るものではないだろうと思って鼻を近づけるとまさにこれだった。たぶん、芳香を放つものとして植えられているのだろうから、やはり私の嗅覚が人と違うのだろう。

調べてみると、ジャスミンに含まれる成分にスカトールという物質があり、これがその匂いの元らしい。スカトールはスカトロジーという言葉と共通の語素をもつ。だが、低濃度だと芳香と感じられるということだ。香りあるいは匂いが物質を介して嗅覚に何らかの生理的刺激を与えるものだとすれば、それを快ととるか不快ととるかはほんの僅かな差でしかなく、容易に逆転もしうることを示しているのかもしれない。



2017-06-27

梅雨入り宣言

今年はいつ梅雨入りするのか気になったので、気象庁のHPを見たら、「関東地方は6月7日頃に梅雨に入ったとみられる」ということだ。何と、とっくに梅雨入りしていたというのだ。最近、めったにテレビを見ないし、新聞記事も見落としていたようだ。何よりも、先週までたまに強い雨が降ってもからっと晴れる日が多かったので、梅雨に入っているという感じはしていなかった。

先週の週末に家の周りでアブラゼミが鳴いていた。子どもの頃は、6月になると毎日雨で7月20日の終業日くらいまで続いた。セミが鳴き始めるのは夏休み直前くらいになってからだったと記憶する。(あっとこれは東北に住んでいたから遅かったのかもしれない)

世界的に気象変動が観測されるなか、温暖化の傾向ははっきりしている。ここ何年か、梅雨時よりも秋になってからの雨の方が多い感じがする。また、気温は5月末から10月末まで夏日になるのは当たり前になっている。もう梅雨などという言葉は死語になりつつあり、日本の気候も雨季と乾季の二つに分かれるようになっているのかもしれない。


2017-06-23

VAIO XからDM200に

5月13日のブログでVAIO Xの再生について報告した。しかしながら、その後、うまくいかなくて別の方法に変更したことを書いておきたい。
通勤用の文字入力ツールとして何がいいかということがテーマで、条件としては(1)薄くて軽い、(2)キーボードがついている、(⒊)文字だけでなく画像も扱えることが条件であった。VAIO Xはすでに10年近く前のPCなのだが、これら3つの条件を満たすものでありこれを引っ張り出してきて使ってみたら使えそうだというのが、そのときに書いたことだった。

だが、使い始めてやはり使い物にならないというのが結論である。致命的なのは処理が遅いことだ。PCを開いて文章入力ができるようになるまでに、数分待たされることがある。大きなファイルを読み込むことはできない。文字だけならまだいいが、画像を貼り付けようとすると止まることもあった。使ってみてストレスがたまることが多い。そう言えば前に使わなくなった理由も同じだったと思い出して、苦笑いだ。

しかしだとすると、他に何を使うのか。ふだんはMacBook Airを使っているので、これを持ち運ぶのが一番いいのだろう。しかしやや重い。他に方法がないかと考え、キングジムのデジタルメモ「ポメラ」DM200を再度検討した。前に書いたようにこれの最大の問題は文字しか入力できないことである。他は大きさ、重さ、機動性、使い勝手はいい。ぱっと開いてすぐに使い始めることができる。あとは文字入力しかできないことをどのように考えるかである。

通常はMacのMSWordで入力しているのだが、それとDM200で作成したテキストをうまくつなげればいい。PCとDM200をつなぐには、ケーブル、無線LAN、SDカードがある。このうち、無線LANは接続に時間がかかるし不安定であまり使いものにならない。SDカードはMacとの相性がよくない。前回の検討はここまでで、使えないという感じだった。それで残ったケーブルだが、これを試してみて使えそうだと思った。双方で接続メニューから選んでやれば、DM200がPCのドライブとして認識され、コピーアンドペーストがすぐにできる。ケーブルは最初から付いていた。

というわけで、再度この方向で使い始めている。こうしたブログの原稿を書いたりするのにも使える。しばらく使ってみてまた報告したい。やはりだめだということになるかもしれない。前にも書いたように、本当はWordファイルを扱えるこの大きさのPCがほしい。

2017-06-17

今日の風

今日は6月17日(土)、例年なら梅雨入りして、じめじめした毎日が続くはずなのだが、なぜか今年はまだそうならない。今日の午前中は気温は20度前半で涼しい風が吹く。まるで北欧の感じだ。

鳥の声が美しい。近くではヒヨドリがぴいぴいと鳴いている。ときどきコジュケイが甲高い声で鳴く。やや遠くでウグイスがあの美声を聞かせてくれる。シジュウカラ、ホトトギスやアオジが続く。鳥たちは同時には鳴かないで自分の出番を待って独奏するように鳴いてくれる。

久しぶりに、週末に家にいることができるので、風に吹かれ鳥のさえずりを聞きながら至福のひとときを過ごした。ありがとう。

河瀬直美「光」をみる

時間に融通がきくようになったので、丸の内TOEIで河瀬直美監督の映画「光」を見てきた。ここに感想を書いておきたい。


以前に仕事の関係で奈良に行く機会が多く、この監督がカンヌで世界デビューした頃から奈良を本拠にして活動していたのを身近に感じ、初期の映画は見ていた。しばらく遠ざかっていたのだが、久しぶりに見る気になった。見て、やはり河瀬直美は力がある人だと感じた。少なくとも五重の映画的な仕掛けを織り込みながら、一貫したテーマを観客に問うている。


一つは、視覚障害者に対する音声ガイドをつくる女性が悩む、映像と言葉との関係である。これはこの映画のストーリーの起点になっている。視覚障害者に対してどのような言葉を用いることが、ハンディキャップを補うことになるのか。映画の最初で女性のナレーションの言葉に対して「それはあなたの押しつけではないか、主観ではないか」というような障害者からの問いがつきつけられていたが、これは映像と文字言語の関係にとどまらない、映画と文学との関係という普遍的なテーマでもある。

二つ目は、映画のなかで映画作成を行っていて、いわば劇中劇の体裁をとることで、観客は二重の虚構のなかで視点を定めにくくされている。劇中劇で、妻の首を絞めることでその妻との一体感を表現した男の最後の行動をどのような言葉で表現するかをめぐり、女性が監督にインタビューするシーンがあるが、監督は沈黙してしまう。これで観客もまた宙づりにされる。

三つ目に、時折差し込まれる視覚障害の男性の視野を通して表現される世界である。定まらない焦点のカメラワークを使ったぼやけた画像が多用され、また、視界が徐々に狭まっていって、最後の方ではまっ黒になっていくことによって観客もまた闇の世界に連れ込まれる。

四つ目は、女性と男性との関係の対立と和解である。最初は音声ガイドの仕方をめぐる対立から始まるのだが、女性自身が父親の失踪と母親の認知症という経験を通じて不安定な心理状態にあり、カメラマンだった男性が視覚を求めている部分と共鳴し合う展開がある。女性は彼に映像世界の成功者としてのあこがれを見いだし、男性は彼女に新しい人生の希望を見いだすという調和的なエンディングを演出するためだったのだろう。

そして五つ目に、だが女性と男性が異なった光を見ていることは、それぞれのエピソードが示唆している。女性が彼に重ね合わせているのが父親のイメージであることは、認知症の母親を追って迷い込んだ奈良の山のなかで、失踪した父親とかわす幼児期の会話の幻想シーンがあることで示される。他方、男性は、自分の愛用の仕事道具だったライカのカメラを最後には放り投げることで(実はその前にこのカメラが盗まれるシーンがあるがこれは何だか唐突でしっくりこなかった)、新しい世界に入る決断をしたことが示唆される。

これらは二人が直接に向き合う関係には描かれていない。とくに男性は女性に対していささかも内面を吐露するシーンはなかった。ふたりをつなぐのは、男性が階段の下から呼びかける「待っていて」という言葉とその後のキスのみである。男性にとっては視覚喪失の苦しみを一時的にでも理解してくれる女性、そして、女性にとっては父の喪失を埋めてくれる男性という捻れた関係の提示がそこにはある。女性も、男性も、劇中劇の男性も、そして音声ガイドのスクリプトも、最後の部分でそれぞれの「光」の方向に収斂してエンディングになる。ドラマとして一見、男女の恋愛劇のように扱っているところが不可解なところではあり、ポスターも含めて商業映画にするための妥協が織り込まれているように見えた。


私はこういう多重の仕掛けがほどこされた映画が好きだったが、久しぶりにそういうものを堪能できた。また、それ自体が映画とは何か、映画に何ができるのかを問うているのも好ましい。それを見て感想を書くことは、このブログで何を伝えようとしているかの意味を問うことにもなる。

新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...