一つは、視覚障害者に対する音声ガイドをつくる女性が悩む、映像と言葉との関係である。これはこの映画のストーリーの起点になっている。視覚障害者に対してどのような言葉を用いることが、ハンディキャップを補うことになるのか。映画の最初で女性のナレーションの言葉に対して「それはあなたの押しつけではないか、主観ではないか」というような障害者からの問いがつきつけられていたが、これは映像と文字言語の関係にとどまらない、映画と文学との関係という普遍的なテーマでもある。
二つ目は、映画のなかで映画作成を行っていて、いわば劇中劇の体裁をとることで、観客は二重の虚構のなかで視点を定めにくくされている。劇中劇で、妻の首を絞めることでその妻との一体感を表現した男の最後の行動をどのような言葉で表現するかをめぐり、女性が監督にインタビューするシーンがあるが、監督は沈黙してしまう。これで観客もまた宙づりにされる。
三つ目に、時折差し込まれる視覚障害の男性の視野を通して表現される世界である。定まらない焦点のカメラワークを使ったぼやけた画像が多用され、また、視界が徐々に狭まっていって、最後の方ではまっ黒になっていくことによって観客もまた闇の世界に連れ込まれる。
四つ目は、女性と男性との関係の対立と和解である。最初は音声ガイドの仕方をめぐる対立から始まるのだが、女性自身が父親の失踪と母親の認知症という経験を通じて不安定な心理状態にあり、カメラマンだった男性が視覚を求めている部分と共鳴し合う展開がある。女性は彼に映像世界の成功者としてのあこがれを見いだし、男性は彼女に新しい人生の希望を見いだすという調和的なエンディングを演出するためだったのだろう。
そして五つ目に、だが女性と男性が異なった光を見ていることは、それぞれのエピソードが示唆している。女性が彼に重ね合わせているのが父親のイメージであることは、認知症の母親を追って迷い込んだ奈良の山のなかで、失踪した父親とかわす幼児期の会話の幻想シーンがあることで示される。他方、男性は、自分の愛用の仕事道具だったライカのカメラを最後には放り投げることで(実はその前にこのカメラが盗まれるシーンがあるがこれは何だか唐突でしっくりこなかった)、新しい世界に入る決断をしたことが示唆される。
これらは二人が直接に向き合う関係には描かれていない。とくに男性は女性に対していささかも内面を吐露するシーンはなかった。ふたりをつなぐのは、男性が階段の下から呼びかける「待っていて」という言葉とその後のキスのみである。男性にとっては視覚喪失の苦しみを一時的にでも理解してくれる女性、そして、女性にとっては父の喪失を埋めてくれる男性という捻れた関係の提示がそこにはある。女性も、男性も、劇中劇の男性も、そして音声ガイドのスクリプトも、最後の部分でそれぞれの「光」の方向に収斂してエンディングになる。ドラマとして一見、男女の恋愛劇のように扱っているところが不可解なところではあり、ポスターも含めて商業映画にするための妥協が織り込まれているように見えた。
私はこういう多重の仕掛けがほどこされた映画が好きだったが、久しぶりにそういうものを堪能できた。また、それ自体が映画とは何か、映画に何ができるのかを問うているのも好ましい。それを見て感想を書くことは、このブログで何を伝えようとしているかの意味を問うことにもなる。
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