2024-04-22

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ(2024年6月18日一部修正・注付与)

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。

大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しいというのは難しいが,少し角度を変えるとか切り口を変えることならできそうだ。その前にやっていた学校図書館研究とアーカイブ思想研究を発展させるとどこかでつながるのではないか。

出版の経緯

ということで,京大にいた川崎良孝氏にお誘いを受けて,「相関図書館学方法論研究会」のシリーズ本《図書館・文化・社会》の第9巻『図書館思想の進展と図書館情報学の射程』(2024年4月刊行,松籟社)に論文「探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ」の執筆をした。これはおもしろい経験だった。というのは,以前からこのシリーズが気になっていたからである。何人かの研究会メンバーがオリジナルな論文を発表するものだが,関心があったのはなぜこの形式をとるかということである。

それは2点ある。一つは学術論文の発信の仕方に関してである。通常なら,査読誌に書くべきものなのだろうが,それが単行書の論集本として刊行されている。なぜこの形式をとるのか。やってみて思ったのは,すでに査読誌には何本も書いており,今更そういうものに書く動機付けがそれほどない中堅・ベテランの研究者にとってはこの形式は悪くないということである。シリーズの趣旨の枠内で好きなテーマで書くことができる。それもページ数の制限はゆるやかである。人文社会系の場合には査読誌が要求する制限は少しく厳しく感じ,思ったことが表現できないもどかしさがある。

しかしながら,そうしたある意味で人文系研究者のわがままのままに書いた論文を複数掲載した論集を商業出版社から出版することが可能なのかというのが第二の関心である。これについては,川崎氏の創意と工夫,そしてご好意に感謝せざるを得ない。【以下は筆者の個人的見解によるのであり,本当のところは不明のところもある。】これが松籟社という商業出版社から比較的安価で出版できている理由は,編集プロセスを執筆者の自己編集と当該研究会メンバープラスボランティアのサポートによると考えられる。安価というのは,今回の巻は,A5判233ページの上製本で税抜きで2800円という定価になっている。税込みでも3000円ちょっとというのは,今の学術書のマーケティングを考えると3〜4割程度安いと思われる。

一定のフォーマットが指示されて,それに合わせてMSWordで原稿を書いた。提出にあたっては出版された版面と形式的に同等のものが要求された。もちろんWordなので,編集過程のどこかで印刷のための変換が行われているわけだが,通常,編集者が行うフォントや文字・数字などの形式面の修正をできるだけしないようにという事前の配慮が徹底していた。このことは今後の出版を考えるのに重要である。というのは,従来,人文社会系においては,原稿はかなり乱暴に書いて,校正時に直すというような(悪しき)習慣があった。たぶん手書きのときの慣習がそのまま残されていたものと思われるが,これは編集者にとってかなりの負担になっていたことは確かである。逆に言えば,完成稿に近いものを提出すればそうした余分な作業が省けるわけである。もちろん,最初から完璧な原稿を出すことは難しく,校正の過程でこちらも幾分かの修正を行ったし,川崎氏を通じて抄録や索引の作成や著者紹介執筆の依頼があった。だが筆者の過去の経験から言っても,相対的に編集の手間は少なくて済んでいたものと思われる。つまり,この出版物には編集費の部分が極力抑えられていることが出版できている要因であるし,価格が低く抑えられている理由でもある。

ということで図書出版が難しくなっていると言われるなかで,こういう手法で学術出版が可能なのだということを知った次第である。ただし,これは要するに同人雑誌を商業図書として出版するということであるから,可能にするための条件はそれなりに厳しいだろう。まずは,論文の質ということである。これが学術的にも商業的にも一定レベルを超える質的条件を備えている必要がある。質的条件についてそれが何なのかは書いた当事者であるし,今のところはコメントできない。商業的条件で編集費用の低減については上に書いたとおりだが,たぶん,これが図書館関係書であることから一定数の図書館で購入してもらえそうということも大きいようにも思われる。質にも関わるが,先に述べた執筆の要件を満たすことができる書き手が揃うことも重要な要件だろう。要するに,編集の手間を減らすためには最初から編集のある部分を執筆者が担うことが必要となる。

論文について

学校図書館研究とアーカイブ思想研究をつなぐという構想は自然に出てきたものである。もともとルーツは一緒であり,表現の局面が違っていただけである。今回は,戦後新教育における学校図書館の位置付けをジョン・デューイの探究思想に求め,それが,政治思想史や教育思想においては,西洋のアーカイブ思想におけるクリティックや文献学という形をとると説明されていたものに対して,図書館情報学的な研究の蓄積を対置させて論じた。抄録と目次を示しておく。

【抄録】
学校図書館を理論的制度的に位置付ける作業の一環として、学校図書館が知を媒介する作用をもつことを示す(図書館)情報学的な理論装置を検討した。その際に、ジョン・デューイの道具主義的教育論の基底にある探究(inquiry)概念が世界知(accumulated wisdom of the world)への志向性をもっていることに着目し、それを,レリヴァンス(relevance),データ・情報・知識・知恵のヒエラルキー(DIKWピラミッド)、ドキュメントと書物の関係、読者反応理論とメタファーとしての知、客観的知識論とドメイン分析、社会認識論(social epistemology)の6種類の理論装置から検討する方法をとった。最終的には、ドメインとしての学校における知識組織のあり方を分析することにより、世界知への方向付けをもったカリキュラム構築の一助になることを述べた。(本書 p222-223.)
 
【目次】
はじめに
1. デューイから始める学校図書館
1.1『学校と社会』の学校図書館
1.2 図書室が学習の場とされる理由
2.学習者と世界知をつなぐ
2.1 探究と世界知
2.2 系統主義の教育学
2.3 21世紀の教育課程の課題
3 図書館情報学のアプローチ
3.1 方法的概念としてのレリヴァンス
3.2 データ,情報,知識,知恵
3.3 ドキュメント
3.4 読者反応理論と知のメタファー
3.5 客観的知識とドメイン分析
3.6 社会認識論の可能性
4.探究を解明するための知識組織論
おわりに 

これ以上は,読んでいただくほかないが,「探究」と「世界知」をつなぐ道具立てについて,20世紀後半から21世紀にかけて欧米で議論されてきた6種類の理論装置を用いて説明している。これらは,日本では散発的に紹介されたにすぎず,それも関心をもった研究者が一時的に論じただけである。全体像および現在の理論水準についてはまったく議論されたことはなかった。本稿では,そうしたものについて,筆者の目から見て使えそうなものを整理して提示することにした。

筆者がアカデミアに入ってすぐに惹かれた書誌コントロールの理論家にジェシー・シェラやパトリック・ウィルソンがいたが,今回関連してドン・スワンソンの業績もまたその系列でとらえ,全体像を把握しただけでなく,そうした議論が現在の社会認識論につながることについても見通しを得た。また,米国の情報学とヨーロッパのドキュメンテーションをつなぐ理論家として知られるマイケル・バックランド,生涯を通じてレリヴァンス論を柱に情報学を追求してきたテフコ・サラセヴィック,論理学的思考を導入することで図書館情報学の可能性を拡張しようとしているマーティン・フリッケ,そして,デンマークで多様な情報学ツールを一つのステージで整理しようとするビアウア・ヤアラン(注)らが学術的基盤をしっかりとつくってきたことが現在の情報学進展のバネになっていることを理解できた。さらには,図書館情報学が,スティーヴ・フラーらの社会認識論やルチアーノ・フロリディの情報哲学,ルイーズ・ローゼンブラットの読者反応理論などと関連していることや,より基盤的な分野として,カール・ポパーの客観的知識論,ジョン・デューイの教育哲学やアルフレッド・シュッツの現象学的社会学とのつながりがあることを確認できた。

ここで紹介した理論装置は(図書館)情報学という領域がもつ可能性を示すものであるが,実は多くが筆者よりもさらに年長の研究者によって展開されたものだ。特に,20世紀後半から21世紀早々の時期に活躍したバックランド,サラセヴィック,フリッケ,ヤアラン(注)らの知見に啓発されて,知識資源システムという大枠を設定し,ドキュメントやアーカイブ,レファレンス,レリヴァンスといった概念を再検討して,図書館情報学を進展させるための分析ツールとした。そうしたものを日本に紹介することは,本来,筆者を含めた同世代の研究者に要求されたことだったはずだが,ほとんどできていなかった。これはまったく恥ずべきことだったとは思うが,領域が広大で多様な議論が多様な方法をもって論じられていたことに気づくのが遅れ,対応できていなかった。

現在,この論文をさらに展開した形での著書を準備中であり,近い将来刊行される予定である。もとより筆者個人の能力の限界故にできることに限りがある。その意味で,今やっていることは今後の研究者に引き継ぐときに道しるべとなればいいという程度のものとして展開しているのである。

デンマークの情報学者Birger Hjørlandのカナ表記をこれまでの「ビルギャー・ヨーランド」から「ビアウア・ヤアラン」に変更する。これは,デンマーク語に詳しい方複数名に確認して決めたものである。近々,デビッド・ボーデン,リン・ロビンソン『図書館情報学概論』の第二版の翻訳書(勁草書房)がでることになっていて,そこでもこの表記を使うことを訳者塩崎亮さんとも確認し合っている。(2024年6月18日に変更追加)


謝辞

本論文の執筆にあたっては,機会をくださった川崎良孝氏および相関図書館学方法論研究会の皆さんに御礼申し上げたい。



2024-04-13

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2024-04-05

クイズ:NHK総合の「時論公論」の背景図書館はどこか?

以前から話題にはなっていたのですが,NHK総合でやっている「時論公論」という解説番組で,タイトルバックの写真が印象的な図書館になっています。NHKの同番組のHPにもその写真が使われています。(画像は解像度を落として掲載しています)これがどこの図書館なのかというのがクイズです。







最初に見たときにストックホルム市の中央図書館と思ったのですが,少し雰囲気が違う感じです。「時論公論 背景 図書館」でググると(という表現を初めて使った国際教養大学中嶋記念図書館という説もありました。そういえば,円形のスペースに木材を組み合わせた感じが最近できた石川県立図書館とか,軽井沢風越学園も似ていてようやくそれらの共通点に気づきました。これらは,「仙田満(+株式会社環境デザイン研究所)」が設計に関わった建築物なのですね。しかし,違います。


さて,正解は。。。。

Google検索でネット上にある情報を手がかりにするとどこまで迫れるかを見てみます。

最初にまとめて出てきた<Yahoo! 知恵袋>には,ストックホルム市立図書館,国際教養大学付属図書館以外に,武雄市立図書館マリア・ラーハ修道院(ドイツ)という情報がありました。ストックホルム市立図書館を挙げるものはにもありました。でもこれは,Yahoo!知恵袋を見てのように思えます。

ネットコミュニティBeachに次のような情報もありました。

「iconすっかり騙されてたかも時論公論の背景の図書館をAIチャットくんに 聞いてみました

(時論公論の背景に使用される図書館は、NHK放送センターの中にある仮設のセットです。実際の図書館ではありません。)」

近いけど違います。

実は正解はインターネットでは得られません。もしかしたら2020年から2021年にかけてのSNSに情報があったかもしれませんが,今は見れませんし,遡っての検索もできません。ここまで挙げられた図書館は似てはいるがよく見ると違うことは明らかです。「違う」とは言えても「同じ」ということはなかなか難しいです。なぜなら,似たような建物の写真はあるし,最近はフェイク写真が横行しています。ネットなどから間接的に「正解」を「得る」ことは思った以上に難しいのです。

さて,正解(らしきもの)を示しましょう。それは,バーチャル映像だということです。

朝日新聞2020年10月27日朝刊に「はてなTV」という欄があり,そこにテレビ好きの間でこの背景画像が話題だけどどこの図書館かを知りたいというクエスチョンがありました。回答として,担当のチーフプロデューサーの発言として,2020年4月から「バーチャル映像」に一新したとあります。また,「背景の図書館は番組オリジナル」だが,「ストックホルム市立図書館,ブラジルの『幻想図書館』,東京の東洋文庫.....」を参考にしたとしています。

正解(らしきもの)としていますが,それは,朝日新聞記事としてあることが理由です。担当者の人名を出しているので取材をしているのだろうと検討をつけることができます。ただ全国紙の記事だから本当に信用できるのかどうかについては留保が必要だということで「(らしきもの)」としました。これについてはメディアリテラシーでさんざん議論されていることですが,間接的な情報に従うより,直接的な取材と新聞社の信用によって裏付けられる例です。

担当者が挙げていたブラジルの『幻想図書館』とは,植民地時代のブラジル・リオデジャネイロにポルトガル移民たちが設立したポルトガル王室閲覧室をかたどった図書館で,その書架の圧倒するような部分をコピーしているのかもしれません。東洋文庫も書架については同じような印象があります。

さて,ネットでは正解にたどりつけないと書きましたが,ではなぜ私は正解らしきものにたどりつけたのか。まず,手がかりはやはりGoogle検索です。先ほどの検索でひっかかったのが,

2020年10月27日朝刊 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com › shimen
2020/10/27 — (はてなTV)「時論公論」の図書館は? 有料会員記事. Q 本、テレビ好きの間でNHKのニュース解説番組「時論公論」の背景画像が話題です。とても ...

というスニペットです。これをクリックすると

どんなコンテンツをお探しですか?(Page Not Found)
お探しの記事は見つかりませんでした。
URLが誤っているか、公開期間を終了した可能性があります。

となって,それ以上は読めません。つまりすでに削除されているということです。これを読むためには,朝日新聞の有料データベースを使う必要があります。これは,図書館で契約しているところがけっこうあるので,読むことができるというわけです。

以上で分かることは,ネットにある情報は間違いがかなりあるということ,AIも怪しい。また,ネットと図書館とを組み合わせれば,正解(らしきもの)に到達できることです。

なお,Chat GPTを試してみたところ,次のような回答でした。

Q:NHK総合の「時論公論」の背景図書館はどこか?

A: 2022年1月時点での情報に基づいてお答えしますが、NHK総合の番組「時論公論」の背景となる図書館の具体的な場所や名称は、一般的な公式情報として提供されていない可能性があります。番組の制作スタッフや舞台セットのデザイナーが、背景となる図書館のイメージをデザインし、実際の場所をモデルにしたり、架空の設定に基づいて作成したりすることが一般的です。

番組の公式ウェブサイトや公式発表、番組制作に関わるインタビューや舞台裏の情報などが、このような背景設定に関する詳細を提供する可能性があります。しかし、具体的な図書館の場所や名称が番組の中で明示されていない場合もあります。

番組の制作側が背景として使用する図書館についての情報を入手したい場合は、NHKや番組制作会社に直接問い合わせることが適切な方法となります。

こちらは「AIチャットくん」よりは分からないことを分からないと言っている点で誠実で親切ですし,「架空の設定に基づいて作成したりするのが一般的」だとして正解にぎりぎり近づいています。しかし,ネットにない情報を提供することはできないということでしょう。

以上,ネットリテラシー,メディアリテラシーのおさらいを兼ねた図書館建築論でした。先の,プロデューサーの言に「14年間続いている番組なので,その積み重ねを表す『知の集積』として,図書館というモチーフを選択しました」とあります。しかしながら,これには疑問をもたざるを得ません。テレビ番組のどこに「積み重ね」があるのだろうかという疑問です。14年続いても今見れないのなら,積み重ねとは言えないでしょうに。

もしかしたら,番組作りが知の集積をベースにしているという意味なのかもしれません。数年前に,朝日新聞社の資料室担当の方に話しを聞きに本社ビルに行ったことがあります。そこでは,政治部とか社会部,経済部といった現場取材の記者のフロアと別のフロアに,資料室と解説員室がありました。つまり,生の情報を処理する部門とそれらをもとにして解説的な情報発信は分けられていて,資料室は解説報道といっしょにされています。NHKの場合も実際に資料室等が置かれているのかは知りませんが,少なくともこの写真は,解説報道のシンボルとしての図書館を表象しているのかもしれません。






2024-03-29

読書アンケート2023:識者が選んだ,この一年の本

昨年まで,月刊『みすず』の1/2月合併号というかたちで出ていた「読書アンケート」が今年から,単行書『読書アンケート2023:識者が選んだ,この一年の本』というかたちでまとめられるようになった。今回は139人が寄稿しているそうだ。私が選んだ本を他の人が選ぶことはこれまでなかったと記憶するが,今回は1の日野さんの情報公開の本を選んでいる人がいた。丘沢静也さんというドイツ文学の方だ。それが読み方が私のと似ていて,この本は何よりも著者が情報公開請求を厭わずに繰り返している様子が描かれ,多くの人が情報公開請求をすればお自ずといろんなものが変わってくるという点を強調している。口先の批判は誰でもできるが,それを汗をかいてするのかどうかが大事だという点は肝に銘じたい。

3月も終わろうとしているので,私が書いたものをここに公開する。


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根本彰(図書館情報学,教育学)


1. 日野行介『情報公開が社会を変える:調査報道記者の公文書道』筑摩書房,  2023 (ちくま新書)

 情報公開制度は20世紀末に地方自治体から始まり,2001年に公文書公開法ができ,2011年に公文書管理法ができて国の制度が整った。この制度により,公的機関が自らの意思決定過程を明らかにして行政手続きの透明度を増すことが期待されたが,実際にはその通りになっていない。長年,新聞社でこの制度を活用して調査報道を行ってきた著者は,これを利用するコツを懇切丁寧に語ってくれる。敷居が高いように見える制度も基本的には使いようであり,多くの人が使って調査や研究を行うことで開かれた政府の実現という当初の目的が実現されるはずだと言う。

 それにしても,著者が苛立ちをもって語る行政の「知らしむべからず」の体質は,個々の担当官の判断を超えて組織に染み付いているもののように思われる。

2. 八鍬友広『読み書きの日本史』岩波書店, 2023 (岩波新書)

 幕末に日本を訪れた西洋人が,江戸市中でふつうの庶民が本を読んでいるのを見て驚いたという手記がたくさん残され,日本人のリテラシーが高いことが言われてきた。しかし,本書は書物にはかな文字による往来物と呼ばれる読み本と,漢字読み下し文(漢文訓読体)のものとがあって両者を区別すべきであるという。つまりリテラシーと社会階層は関連しており,高いリテラシーは前者についてあてはまるが,後者は必ずしもそうではない。これは上記の体質と密接に関わる。

 再編集版として刊行された岡田英弘『漢字とは何か:日本とモンゴルから見る』(藤原書店, 2021)によると,中国の歴代王朝は漢字をもって全土統一を果たしただけで,地方の話し言葉はばらばらだった。東アジアにおいて書き言葉が統治のツールだったことは確かだが,明治の言文一致ナショナリズムはむしろそれを強めたのではないか。書き言葉を操るエリートが国家を運営し,庶民は教科書で与えられた範囲の知の下に日常を生きるという枠組みは,時代を超えて現在に及んでいる。

3. 渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤:4つの思考表現スタイル』岩波書店, 2023

 21世紀になってから,文部科学省は教育課程に総合的学習の時間や探究学習を取り入れた。「主体的対話的で深い学び」は現行学習指導要領の合い言葉になっている。だが,そこではどのような人間像が想定されているのだろうか。本書は,「論理的に書く」行為が日本,アメリカ,フランス,イランの4カ国でどのように違うのかに焦点を当てた,これまでにない国際比較研究の成果を示してくれている。日本の子どもたちの行為の特徴を挙げれば,感想文や小論文の執筆指導を通じて,社会のなかで間主観的な「共感」を表現することが強調される。これは大正自由教育以来の綴り方や戦後の作文教育から何も変わっていない。日本の国語教育は漢字の読み書きができるところで止まっていて,その先にそれをどのように使うか,使ってどうするのかの議論がないように思える。

4. デニス・ダンカン(小野木明恵訳)『索引 〜の歴史:書物史を変えた大発明』光文社, 2023

 読む行為に解釈の揺れや幅があるのは当たり前である。主体的に学ぶには批判的な読みは避けられないが,学校で「批判」は避けられやすい。本書はイギリスで出た「索引」をテーマにした本であるが,この本から読み取れるのは,索引をつける行為は批評の第一歩だということである。索引は,書物の内容に分け入って言葉を分析し情報を取り出しやすくするためのツールである。索引が必要になるということは,書き言葉の言説空間に参与するのに共感だけではなく,批評・批判の精神を合わせもつべきことを示唆している。

索引作成は索引家(indexer)と呼ばれる専門家が請け負うことが多い。実はかつてイギリスに倣って日本にも日本索引家協会という団体ができていた。1977年に設立され1996年に解散してしまったのだが,少々早まったのではないか。というのは,こういう本の翻訳が出るのは,サーチエンジンや生成AI全盛の時代のアンチテーゼでもあり,今,索引家のような言葉の達人が求められていることを示すのだ。(「TBS系列テレビ番組「プレバト」を見ていて,俳人と索引家の共通点と違いに思いを致した。)


2024-02-21

市川沙央『ハンチバック』と読書のバリアフリー

ふだん小説はほとんど読まない。そんな私が 最近,市川沙央『ハンチバック』という本を読んだ。芥川賞受賞作を受賞後1年以内に購入して読むことなど初めての体験だ。それというのも,この本が身体障害者の読書バリアフリーを一つのテーマにしているという声がさまざまなところから聞こえてきたからだが,もう一つ,かねてより『文藝年鑑』という定期刊行物にこの1年間の「図書館」についての短い報告を書くことになっており,そこにこのことがもつ意味について書いてみたいと考えたからだ。なので,これから書くのは,『文藝年鑑』(6月末刊行予定)で書き足りなかったことを補足するものである。

この物語の主人公は,首や背中に重い障害をもっていて,常に人工呼吸器をつけ痰吸引が必要であることによって車椅子生活を余儀なくされている。その彼女はウェブにポルノ記事を書くことを趣味(生活費の足し?:といっても主人公は親からのかなりの財産を遺贈されており生活に困っていないという設定)とし,他方では,大学通信課程で卒業論文を書いている。この短い小説では,彼女のリアルな生活空間の描写のなかに,彼女が執筆しているハプバ(ハプニングバー)記事や女性向け官能ライトノベルの妄想空間の描写が散りばめられ,最後の部分では両者が同一空間に集約されることになる。そして,市川氏自身がこの主人公と類似の障害をもっていることが同書の奥付にある著者紹介に明記されているし,それはメディアを通じて表出されている。ということは,この小説を手に取った読者は,リアルな著者の人となり,そして著者が描く主人公の言動,さらに,主人公が執筆する記事と少なくとも三重構造を読み解く必要がある。

小説としては,重度の障害をもつ女性の性の(ということは生の)欲望が一つのテーマである。そのことが障害者が生きることにどのような負荷を与え,そのためにどのような過程が語られているのかについてはここでは触れない。だが,著者がそして著者が描く主人公が読んで書く行為を中心に生活が廻っていることは明らかであり,それが性(生)の描写と密接な関係をもつ。読み書くことそのものが生きることに組み込まれるとき,読書のバリアフリーがもう一つの大きなテーマとなる。彼女自身が授賞式の記者会見においてそれを強く訴え掛けた。そしてその重要性は文学関係者にも波紋を呼び起こした。日本ペンクラブでは「読書バリアフリーとは何か―読書を取り巻く「壁」を壊すために」というシンポジウムを開催した。マスメディアでも,たとえば朝日新聞の社説(2023年8月4日付)は,「市川さんの訴えは、本を自由に読めない人々の苦境を厳しく世に問うものだ。多数派は現状で十分でも、一部の人が切実な困難を抱えている場面は読書に限らないだろう。特にデジタル化がバリアフリーの実現に果たす役割は大きい。少数派の人々が置かれた状況に広く考えを巡らせる機会としたい。」とまとめている。そのことに異存はない。

だが,著者が次のように書くとき,バリアフリーというよく使われる表現で済ますことができない,厳しい指摘がそこにあることを感じることができる。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、―5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。(市川沙央『ハンチバック』2023, 文藝春秋, p.27)

こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに,紙の匂いが好き,とかページをめくる感触が好き,などと宣(のたま)い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい...出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ,と私はフォーラムに書き込んだ。(同書, p.34-35)

著者は,授賞式や前後のマスメディアの取材に対して,小説の主人公と類似の障害を自ら晒すことで読書という行為を支えてきた「健常性」が無意識の差別となっていることを訴えた。それは,2019年6月成立の「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」(通称「読書バリアフリー法」)が,障害の有無に関わらず、すべての人が読書による文字・活字文化の恩恵を受けられるようにするとしたことへのアンチテーゼでもあった。新法で目標とされる「読書のバリアフリー」は特定のタイプの障害への対応とはなっても,読書行為において生じる多様な障害を救うものとは必ずしもならないからである。

図書館(公立図書館,点字図書館)もかねてより「障害者サービス」を実施することによって自覚的に読書のバリアフリーに取り組んできた。とくに視覚障害者のための点字資料や録音資料,大活字本,拡大読書機の提供や,対面朗読サービス,DAISYやサピエ図書館などの電子的な仕組みを提供してきたが,これらで「健常性」との格差を埋めることはできない。5つの健常性のどれもが当たり前としてきたものの一つか二つに対して手を差し延べるくらいしかできていない。それどころか,著者は主人公に次のように語らせている。

5000円以上する専門書だろうが,新品が流通していれば私は新品の本を買う。図書館の本は汚くて触れないし,そもそも図書館に行く体力もない。(同書, p.43)

図書館の本を利用することはそこに行って手に取って借りてくるという行為を前提としているのに,どちらもできないという。行くことについては何らかの対策はあるだろうが,汚くて触れないということについてはどうしようもないが,これは電子書籍の可能性を訴える伏線でもある。

博物館や図書館や,保存された歴史的建造物が,私は嫌いだ。完成された姿でそこにある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる,生き抜いた時間の証しとして破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし,多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。(同書, p.46)

ここに至って,主人公(著者?)が憎んでいるのが,古いものが時間を超える特性をもっており自らの身体が常に壊れやすいことにこれを対置していることが分かる。図書館の本が汚いというのも,古さのマイナス面を象徴的に示そうというものだろう。著者は,その意味で電子書籍は福音であり,だが,文芸でも学術でも多くの著作が電子的に流通していないことを問題だと発言している。(NHK「バリバラ」2023年7月28日 愛と憎しみの読書バリアフリー)その主張は,自身が他方で特定の文芸作品をテーマに学術論文を書いていたことに関わる。彼女にとって,論文を書くに当たり参照すべき資料がすべて電子的に提供されることが必要なのだが,必ずしもそうなっていない。

彼女の訴えの正当性を認めた上で,ここで敢えてこれを拡張する議論をしてみよう。それは,デジタル化が唯一の解決策であるという誤解を避けたいからである。先の5つの読書の健常性である「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること。」これらを前提とした社会は確かにある種の身体障害をもつ人にとって超えにくいバリアになっている。しかしながら,読書のバリアフリーは電子書籍を整備することで解決するのだろうか。電子書籍化が進まない理由としていくつも挙げることができる。まずは,著作(権)者や出版者が積極的にデジタル化を推進しなければ進まない。また,これを図書館などの公的費用で提供するためには,従来の紙資料が定価販売を前提としていたのに対して,紙資料の2〜3倍の価格設定で提供しなくてはならないが,その財源をどうするのかの議論が不足している。

そうした流通や経済面の問題を解決しなくてはならない。点字図書館も含め図書館が行う障害者サービスは公的仕組みで可能な範囲で実施されている。近年,学術論文のオープン化が進み,国会図書館デジタルコレクションが充実している。これはあらゆる人にとって朗報であり,そうした仕組み外にある比較的新しい本の電子図書館的仕組みや地域資料や郷土資料のデジタル化は図書館の大きな課題になりつつある。

だが読書のバリアフリー問題は,そのような制度や仕組みの問題を超えて,文芸とか学術とかを支える前提に本質的な問いを突きつけ,解決することが要請されているととらえるべきではないか。つまり,バリアーはもっと多様に存在し,その解決法ももっと多様なのではないか。たとえば,ディスクレクシアの人はどうなのか,日本に住んでいる日本語を母語としない人はどうなのか,生まれてまもなくスマホとかタブレットの動画やゲームがお守り役となって育てられた子どもはどうなのか。

要するに現代社会においてリテレートであるために必要な条件は何なのかという問いが浮かび上がってくる。あるいはリテレートであることが本当に必要なのかも含められる。ネットリテラシー,メディアリテラシー,科学リテラシー,医学リテラシー,経済リテラシー等々の重要性が説かれる。しかしそれ以前に,読み書き能力と呼ばれるもともとの意味のリテラシーそのもののとらえ方すら,一様ではなくなっている。

最近,今井むつみ, 秋田喜美著『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』 (中公新書)が話題になった。乳児が生まれてまもない時期に発するオノマトペに対して,母親や周囲の人がどのように応えるかが言葉の獲得に大きな影響を与えるという話しである。かつて「文学国語」と「論理国語」を対立的にとらえる議論があった。市川氏の問いかけはすでに一定のリテラシーを獲得した人のものであって,現実にはリテラシー自体の獲得が危うくなっている可能性があるし,その存立基盤である家族や社会,近隣コミュニティがきわめて多様化している。SNSで新しい言語環境がつくられると言われるが,電子書籍を読む行為と紙の本を読む行為は別物であり,その言語環境に本を読むという行為は位置付けられていないのかもしれない。読書のバリアフリーあるいはリテラシーという概念そのものが危うくなっているのではないか。

市川氏の問いかけから発して話しが拡がってしまった。彼女のように作家活動を中心にSNSも自らの発信手段として重視している人が,文学出版における新人の登竜門とされる芥川賞を受賞したことの意味は大きい。これは身体障害者が自らの障害に対するバリアフリーを訴える機会になるだけでなく,著作そのもの表出の仕方を通じて読み書きという行為そのものの現代的意義を考える機会になるのではないかと考える次第である。



新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...