10月16日付け朝日新聞の書評欄に標記の本(中村文孝・小田光雄著、論創社, 2022年8月刊)の書評が出た(https://book.asahi.com/article/14744652)。「とんでもない本を手にとってしまった」で始まる記事の書き手はサンキュータツオという人である。これを要約しておこう。
図書館の数は1970年代からの半世紀で4倍近くになったのに対して、書店は、1990年代以降減り続けている。年間の書籍販売部数よりも図書館の個人貸出冊数の方が多くなった。本の購入はアマゾンをはじめとするネット購入と「公営無料貸本屋」である図書館が代行するようになった。こうなった理由が、図書館流通センター(TRC)のMARCの利便性にあるが、図書館が自らの存在意義を再定義し損ねた部分もあり、それによって職員は嘱託で済ませ専門性を育めることもない。おしゃれで新刊雑誌や書籍をお茶を飲みながら読める図書館が増殖するという「本の生態系の変容」があるとするなら戦慄せずにいられない。
なぜ戦慄するのかよくわからなかった。この評者が受け取った図書館についての情報には長年図書館を研究したものの目から見て間違ったものが多く含まれている。だが、当該書を図書館から借りて読んでみて、事情を知らない人が読めばそのように受け取る可能性が高い内容を含むものだという感想をもった。そこでこの本について批評してみたい。
基本的な疑問点
まず、著者(というか対話者)は本というものに対してどのようにとらえているのか、また、これを出した出版社はどのようなものと認識しているのか、大きな疑問をもった。本はSNSの書き込みと違って、一定の見識のある著者が慎重に論を展開し、編集校閲の過程を経て誤りのないものとして読者に提示されるべきものである。最近の本が必ずしもそうでなくなっていることは措いておいても、少なくともこの本の書き出しを読む限り、著者らも本がもつそのような作用について異論はないように思える。また著者の中村氏は芳林堂書店、リブロ、ジュンク堂書店などの書店畑を歩んだ人で、小田氏は日本の出版史や出版流通論を書きながら他方ではエミール・ゾラの翻訳を手掛けている。本が何たるものなのかを理解した二人が対談するのだからと思って読み進めると、彼等が図書館については単なる外部からの観察者であり、にわか勉強で補ったものをもとにした歪みがそこここに見られる。
具体的な問題点は後で述べるが、最大の疑問は対談という形式にある。本書でとられている、話者のどちらかが図書館関係の本の部分を紹介してそこについて論じる(というより感想を言う)というスタイルは、取り上げる本が恣意的であると、発言のバランスを失わせる。また、出版流通と図書館の関係について論じる場合に、両者が出版関係者であることからくる一方的な裁断が目につく。日本の文壇や論壇ジャーナリズムに昔から対談や座談という形式があり、そのスクリプトを記事にして新聞、雑誌や書籍にすることは行われてきた。ただそれはその道の専門家や大家とされる人たちがやりとりするものである。問題を共有した上で異なった視点をもつ人どうしが、侃々諤々あるいは丁々発止とやり合う様を楽しむというものである。だがこの本で図書館について述べるとき両著者は専門家でも研究者でもない。確かに隣接領域の出版に関わる人たちであるからそこからの視点は共通する。また、小田氏は20世紀後半の都市郊外論を書いたということで、とくに日野市立図書館の成立の経緯と関わる部分があり、そのあたりで関心がつながるのかもしれない。けれどもここで述べられているような図書館の歴史や館種という概念、関係団体、図書館員養成の問題といったことについては、にわか勉強が目につくだけでなく、かなりの間違い、あるいは中途半端な認識が含まれている。
私は小田氏の評論を何冊か読んだことがあるが、それは十分に読む価値のある論理展開をしていた。ところがこの本はそれを著しく欠いていて、内輪の勉強会の議事録のようなものになっている。内輪話が内輪で流通する分にはしかたないのだが、それがそのまま校閲を十分にせずにこのようにパブリッシュされることの意味をどのように考えているのだろうか。書籍出版からかつてのような著者の矜持や編集倫理のようなものが失われ、内容は何であれ売れればよいとするものに移行しつつあると言われるが、この本もその列に連なるものではないか。
この本のタイトルは、ゴダールの映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」(そしてそれを真似た蓮實重彦『私が大学について知っている二、三の事柄』)から来ている。映画はフランスの新興団地に済む主婦が夫に内緒で売春するというテーマを扱いながらいろんなメッセージを織り込み、大きなテーマとしては資本主義がさまざまな生活の局面に忍びこみ人々の日常を支配していることに対する批判ということだろう。このタイトルを本書にかぶせたということは、図書館がそうした資本主義体制に取り込まれている状況を告発するという意図が含まれているように思える。だが、ゴダールや蓮實に見られる諧謔の妙のようなものが欠けているが故に不快な後味しか残さない。
散見される誤り
16ページに「占領期のGHQのキーニープランによる民主主義教育政策として、1946年に教育基本法と学校教育法が公布され、それに伴い、小中高に及ぶ図書室の設置が促される。」という文章がある。これは二重三重に誤りを含んでいる。まずキーニープランはGHQの図書館担当官だったキーニーの公共図書館政策についての私案にすぎず実現もしなかったし、学校図書館の設置とは関係ない。ましてそれによって教育基本法と学校教育法が公布されたなどというのは、戦後史のいろはも知らない人の主張である。このような初歩的間違いは常識ある人ならすぐに気づくもののはずなのに、チェックされずに平気で残されている。率直に言って、最初の方にこんな誤りが含まれると、そこで止まってしまい読む価値はないと思ってしまう。
他の見過ごしにできない間違いとして、長尾真 元国立国会図書館館長を「専門職の資格を持つライブラリアン」(139ページ)としているところは吹き出してしまった。何かレトリックとして発言しているのかと思ったがどうも本気らしい。長尾氏が京都大学工学部で日本語処理や人工知能の開発をしていた電子工学のパイオニアであり、その後京都大学総長を務めた後に同館館長になって、資料のデジタル化を進める推進力となったことは出版関係者でも周知のことである。
また、錯誤という点で言えば、141ページに「JLAが官のイメージであるのに対し、図問研は民間という気がする。」という発言がある。JLA(日本図書館協会)が文部省に近い官のイメージの団体だったのは創立から戦後間もない時期まであり、この対談で触れられる「中小レポート」(1963)、「市民の図書館」(1970)以降は、文部省から離れて独自路線をとることになる。彼らは、JLAを批判するにあたり、その活動方針がその時期から「市民」という名の大衆に寄り添い、その消費生活に無料の資料貸出という形でつけ込むことで成功を納めたと言いたいのだろうが、それは「官」から離れて行ったことである。さらにその運動の路線において公立図書館の現場職員よりなる図問研(図書館問題研究会)との関係を深めるわけだ。少なくとも公共図書館政策において、JLAと図問研は同一の考え方をとっている。JLAが大所帯で動きにくいところを図問研という実働部隊が支えているという構図である。JLA憎しを安易に「官」と結びつけるところに、20世紀中盤の時代認識がそのままこの対談に反映されていることが分かる。
また、TRCの『週刊新刊全点案内』で選書しているというくだりで、小中高校の図書館や大学の図書館は既刊書がほとんどなのに、公共図書館では選書の80%が新刊書という部分がある(199ページ)。公共図書館が新刊書中心なのはその通りであるが、小中高や大学図書館の選書が既刊書がほとんどというのはどういうデータに基づくのだろうか。出版関係者が新刊書という言葉を使うときには出たばかりでまだ動いている本という意味合いで一般的な理解と少し違うと思うが、それでも学校や大学の図書館も基本的には新刊書リストから本を選んでいることは確かで、既刊書がほとんどということはない。そもそも、図書館で児童書について副本を多数用意することは当たり前になっているが、図書館向けの児童書市場でそのことを問題視する議論を聞いたことがない。
さらには、TRCが図書館経営の代行をしているという話題のところで、小学校の元校長とか教師が採用され、それらの人たちの人材育成として、「図書館情報大学の司書補の講習などを受けている。」という記述がある(220ページ)。司書補という資格は高卒者に対する資格付与であり、大卒者が増えた現在ほとんど機能していない。もう図書館情報大学はないし、かつても司書補講習をやっていたことはないはずだ。このあたりのやりとりは伝聞に基づくものでしかなく裏をとっていないし、何よりも真の問題点がどこにあるのかに気づいていないことを露呈している。元校長や教員に司書補講習を受けさせると発言しているところもそうだが、このやりとりに、指定管理という言葉が一度も出てこないことも図書館の現場の問題を理解していないと言わざるをえない。図書館情報大学を出してくることも含めて、時代認識が20世紀末で止まっているのではないか。
以上、揚げ足取りにならないようにと思って読み始めたのだが、図書館に対する正しい認識をしようという意図が感じられないので一部を列挙した。出版関係者からこう見えるというのはかまわない。だが、ジャーナリズムや評論は少なくとも発言の裏取りをするものである。まして、書籍として出すときにこれでよいのか。これもまた図書館を買い手として当て込んだ出版ビジネスとしか思われない。自らの誤ったイメージを垂れ流すこの本を、朝日の書評に出たからという理由で選書する図書館が多数あるとしたら恐ろしい。
全体的な構図に対する批判
本書は全体として「図書館」を批判しているのだが、その図書館の実体を曖昧にしたままに議論しているように見える。ときには日図協の図書館政策だったり、図書館を設置している自治体(ないし教育委員会)の政策だったり、個別の図書館の運営方針だったりする。さらには図書館を支援するビジネス企業も批判の対象になっている。また、全体的には1970年代の「郊外の誕生」以降の大衆消費社会を問題にしているようにも見える。だが、彼らが出版流通関係者の立場をとるときに図書館との対比が明確になるので、批判の中心は図書館が購入する資料の質と量、およびそれが利用者に無料で貸し出されていること、そしてその結果書店、取次、出版社、(ここでの言及はほとんどないが)著者の経済行為に影響していることにあるようだ。
本稿の最初の新聞記事の要約に、「年間の書籍販売部数よりも図書館の個人貸出冊数の方が多くなった」という文言がある。これは書評の著者が元の本の著者らの発言からとってきたものでそれをそのまま示した(269〜270ページ)。こうした言説はよく耳にする。インパクトがあるけれどもこうした耳になじみやすい主張は疑ってみた方がよい。そもそも書籍販売数と図書館の個人貸出数を比較することに意味があるのか。これだと、書籍販売数の減少は図書館の個人貸出が増えたから生じたと言っているように聞こえるが、その因果関係は十分に実証されていない。統計学で相関関係が因果関係を説明するわけではないと言われるが、これも現象面で対応しているように見えることも内実は証明されていないのだ。出たばかりの本を図書館が大量の複本を置いて貸し出ししていれば話しは別だが、今は複本の上限を設定していることが多いし、資料購入費自体が減っているから、図書館が貸し出ししている資料の多くは旧刊本に属する。
実はこの議論は図書館界と出版業界の間で昔からあるし、そのことで日本文芸家協会や日本書籍出版協会、日本図書館協会などの場で議論もしてきた。少なくとも、2003年の書協と日図協の合同の調査報告(『公立図書館貸出実態調査2003報告書』 日本図書館協会・日本書籍出版協会, 2004)は、私自身もコメントしているように、一部の文芸新刊書については図書館の貸出が影響を与えているように見えるが、全体としてはそれほどでもないことを示した。2018年の全国図書館大会で文藝春秋社長が図書館は文庫本の貸出をしないでほしいと発言したことも話題になったが、これも一部の大手出版社の文芸書の扱いをめぐってである。こうした議論があったし、資料購入費自体が減少しているから現在は以前に比べて文芸書やベストセラー複本の提供は抑えられるようになっている。対談でも、最近図書館の貸出は減っているとされている。書店数減少の理由に雑誌が売れなくなったことが挙げられることが多いが、図書館は雑誌提供についてはそれほど積極的ではなかった。というようなところで現在の議論は落ち着いているのではないか。それをこうした議論があったのを無視して、かつての論点を蒸し返しているのはなぜなのか。(図書館の資料貸出が書店の売り上げに与える影響について別項1、別項2を用意している。)
著者らは司書資格が粗製濫造されていることについて言及している。書店員が書籍を一点一点手にとって確認して商品知識をもっているのに対して、図書館員は、MARC開発とTRCが効率的なシステムをつくったので本を知らずに貸し出しサービスだけをしているという批判である。自治体での司書の正規職がかなり少なくなり、おそらくは年間の正規職採用数の100倍近くの司書が養成されているから、多くの有資格者は非正規職員(嘱託、指定管理団体職員、パートタイマー)として働かざるをえない。多くの職員は本の内容をあまり意識せずに右から左に貸出していることは確かであろう。ただそれを言うなら、同様のシステムが取次と書店とのあいだでもつくられていて、書店には実績に応じた配本システムがつくられているのでとくに商品知識がなくとも書店を維持できるのと同種のこととも言える。大手の書店だと「棚づくり」という点で書店員の自由裁量が効く部分があるのに対して、図書館はNDCで画一的な分類の棚に排架するだけだから本を見ていないように思われるのかもしれない。だがどんな図書館にも、選書を行い入って来た本を書架に並べ、その本がどのように借りられているのかを確認し、レファレンスサービスで使用したり展示をしたりすることで、蔵書をつくっている、そういう職員はいる。書店にベテランの書店員とアルバイトがいるように、図書館にもベテランの司書と非正規の職員がいるのは同じ事ではないか。
図書館認識の更新を
著者は私のちょっとだけ上の世代であり、彼らが主張したいことが理解できないわけではない。若い頃には西洋文化への憧れと左翼思想の影響を受けながらも、その後自律した思想をもとうとした。彼等が描くスケッチは次のようなものである。
戦後日本が経済成長を達成した頃に大量消費時代が来て、都市の「郊外化」が始まる。これは画一化された豊かさのなかに大衆が自らの欲望を満たそうとする現象のことである。郊外の典型が東京都日野市であり、JLAはここを「市民の図書館」の拠点にして公共図書館の拡大路線を敷いた。その路線を牽引したのは「図書館の街浦安」である。20世紀末の地方創生や地方分権改革で地方の財源が一時的に潤ったときに、全国の自治体は市民の直接的な要求と市街地活性化の要請からハコモノとしての図書館を多数つくった。それは、思想抜きの大衆の欲望に委ねられた存在であり、どんどん新刊書を貸し出すことによって、日本社会が伝統的に守ってきた書物文化の砦である書店を閉店に追い込んだ。
かつての教養主義の流れにある人たちから見て今の図書館は大事な書物文化を破壊しているように見えるのかもしれない。しかしながら、図書館が貸出中心だというのは錯覚である。そこしか見ようとしていないから他にやっていることが見えないのである。たとえば、日野にも浦安にも立派な中央図書館があり、児童への読み聞かせやストーリーテリングを行い、レファレンスサービスもデジタルによる情報発信も障害者サービスも行っている。日野の分館である市政図書室は市役所の敷地内に置かれていて市職員のための行政支援という専門的なレファレンスサービスを行い、同時に、日野市、周辺自治体、東京都の地域資料を住民向けに提供することも行っている。日野のサービスはそこまで含めて評価すべきなのだ。
著者らは、日野の館長を務め後に滋賀県立図書館長になった資料提供論のスポークスマン前川恒雄を批判しているが、私は彼が影響力をもったのはきわめてシンプルに図書館の効用を語ったからだと考える。日野が1970年の『市民の図書館』のモデルとなったことは確かだが、それは中央図書館ができる前に移動図書館から始まり地域館がつくられつつある時までの活動をベースに書かれている。彼が中央図書館や市政図書室についてほとんど語らなかったことは戦略的なものだったと考えるが、それは今となっては禍根を残す結果をもたらしたと思う。つまり、図書館づくりを進めようとした自治体関係者にとって、図書館サービスが貸出がすべての基本でありそれさえすればよいという論理に容易に転化させる原因になったからである。前川の戦略はすでに修正されつつあるが、いったん刷り込まれた貸出図書館のイメージはすぐには修正されていない。これについては前川の発言を絶対視した図書館関係者も含めて歴史的な批判が必要だと思う。
貸出とは無料で財を使用する仕組みのことである。著作権法は「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与する」(同法第1条)ことを目的に設置されているが、その範囲で図書館が貸出や複写サービスをすることを容認している。公共図書館を設置推進する側は、市場経済中心の社会で無料で財が提供されることの意味を突き詰める必要があったのにそれがなされなかった。だから、今の図書館は一つの像を結ばない。一方では有名な建築家が設計した建物で専門的な司書によるサービスを受けられる図書館が話題になるが、他方、貸出サービス中心でそれを非正規職員が担当する図書館も少なくない。(ただし、ここでは職員の身分や待遇の問題と資格の有無とを混同しないことだ。資格をもたず事務作業のみを担当する職員がいてもいいことは否定しない。)それは1970年代以降のJLAの図書館政策がもたらしたものであることは否定できないだろう。だが、それ自体が貸出図書館路線の延長に出てくる展開であり、最初の書評にあるような「おしゃれで新刊雑誌や書籍をお茶を飲みながら読める図書館が増殖するという「本の生態系の変容」」が現れたなら、それは別に否定すべきことでも何でもない。つまり、本の生態系の変容はすでに多様な図書館を生み出した。そして他方では紙の本の読み手がどんどん高齢化していくなかで、図書館と出版界はその存在を互いに認めつつ役割分担を図りながら「本の生態系」の維持なり保護なりを図る視点でまとまりつつある。著者らの議論はこれまで図書館と出版の関係者が積み上げてきた議論を20年前のものに戻すものである。
なお、最後に、気になる点を。本書の冒頭で著者たちは、子どもの頃にスティーヴンソン『宝島』、ポー『黄金虫』、ユゴー『レミゼラブル』、ドーデ『風車小屋だより』を読んだ記憶を確認している。そういう彼らは、石井桃子『子どもの図書館』(岩波新書)が岩波書店や福音館の児童書・絵本を重視し、コミックや永岡書店の児童書はだめとすることを批判する(22ページ)。児童書の古典名作の扱いについては、児童書出版社の販売戦略と図書館(とくに学校図書館)との経済的な関係がある。それについては以前にブログで書いておいた。しかしながら、それとは別に、ここに自らの「教養」についての捻れたルサンチマンがあることを感じる。小さいときに得られたリテラシーの基盤たる読書体験とその後の青年時代の読書体験によって身についた教養主義、そして、大衆消費財になった書籍の扱いに対する批判的態度は実は一貫している。子ども時代の読書体験の重要性は、石井らの家庭文庫運動から公共図書館運動に引き継がれたものであり、JLAも図問研も児童サービスは中核とすべき専門サービスとして位置付けている。著者らの子ども時代の読書経験は、大正から昭和初期の成熟した中流文化がもたらしたもので、それは戦後文学や教養主義を育てた。現在の図書館もその延長上にある。図書館の資料提供サービスは確かに書店の売り上げの一部を奪っている部分があるかもしれないが、それは図書館が未来の読者を育成する役割や、社会人や職業人に対して生涯学習や独学の機会を提供する役割、あまり売れない専門書を購入する買い手としての役割、地域の文化的資料を集め後世に残すアーカイブ機能、地域住民の多様化に合わせた社会福祉や多文化的なサービスなどの重要な機能を担っていることと比較衡量しながら論じる必要がある。ルサンチマンを隠しながら図書館をこんな形で批判するのは情けない態度に映る。
*本稿を書いた後に、2017年全国図書館大会で発表した出版と図書館の関係について述べた文章とその後、図書館貸出の経済学的分析の論文を紹介した文章をブログに掲載した。