2019-03-23

【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』

【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』商事法務, 2016.

日本図書館情報学会誌 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。


この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。

近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。 

本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。

アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。

Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。

米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。

訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。

2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。

本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。

他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。

しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)

アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。

本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)

本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。

注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.

2019-03-11

故金森修氏の蔵書の行方

金森修氏は『サイエンスウォーズ』『バシュラール』などで知られる科学思想史家で、東大教育学研究科勤務当時の私の同僚だった方である。彼が会議等を休みがちだったというのは知っていたが、私は2015年に慶應に移ったので、コースが違うこともあり具体的な事情は知らないままでいた。そうしているうちに、2016年5月に逝去されたというニュースを知りたいへん驚いた。享年62歳だった。

科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。

さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。

奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.


著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。

金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。

日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。

これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。

日本人の言語論的基盤を探る本

以下は、雑誌『みすず』2019年1月/2月号に寄稿したものです。

「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

 日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。

 最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。

 だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。

 日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。

 近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。

2018-10-04

ランドセルと教育改革(重荷を脱ぎ捨てる時だ)

次のような文章を送って、朝日新聞(東京版)2018年10月4日朝刊13面に掲載してもらった。

教育への関心の一環である。この問題提起についてはいろいろな意見があると思われる。たとえば、統制主義的と呼んでいるものが何を意味しているのか。たとえば、外国では子どもの送り迎えは親がするのが一般的で、日本のようにぞろぞろと集団登校するようなことはないが、ランドセルを背負うことと集団登下校の行動は対応している。日本の集団主義は子どもの安全とか親の負担の軽減といった部分に貢献しているのであり、一概に否定できないのではないかという意見がありうるだろう。

 人によっては、ランドセル批判と二宮金次郎像のイメージを重ねるのもどうかという意見をもつかもしれない。金次郎像は日本人の勤勉さの表現であり、それ自体は問題ないのではというものだ。このあたりは、教育をめぐる政治イデオロギーとかかわる。戦前に金次郎が国家に忠誠を誓う臣民教育の手段に使われたことは明らかであり、現在でも同様の主張は少なからずある。

私は、一概に集団主義がいけないと考えてはいない。日本人が常に近隣や同年齢の同質的他者とともに生きる道を選択し、集団主義がさまざまなところでの成功を導いたことも確かであるからだ。また、ランドセルのような背中で背負う荷物入れは便利だとも思う。だが、ここで批判しているのは、そうした19世紀から20世紀中期までに確立された慣習をいつまでも保持して、形式に流れる日本の学校教育制度全般である。ランドセルはそのシンボルに使わせていただいた。教育改革に関してはまた論じてみたい。



2018-06-23

つくば市北部10校の廃校とその跡地利用

つくば市北部地区の学校廃止
つくば市の筑波地区はつくば市北部にあたり、合併前を示す下の地図では筑波町に当たる地域である。図の「センター地区」につくばエクスプレスつくば駅があって、そこから南西の方向に向けて沿線開発が進んだ。筑波地区は筑波山を含む農山村地域で、南側と違って過疎化と少子高齢化が進んでいる。このようにつくば市は落差が極端に現れているところである。その筑波地区の小学校・中学校を大胆に統廃合するプランが時間をかけて進んでいたが、今年の3月で完了し、その閉校式が2月24日にいっせいにあった。それは、茨城新聞でも報道されている。

過疎地域の小規模校を10校を合併して、中心地北条地区に施設一体型小中一貫校の「秀峰筑波義務教育学校」が開校し、個々の学校に通っていた子どもたちは毎日スクールバスで通学している。ここでこの措置についての是非は問わない。論じたいのは、廃校跡地利用についてである。今日の午前中に「筑波地区学校跡地に関する利活用ニーズ調査結果の地元説明会」が筑波交流センターであり、出席したので報告しておきたい。

説明会と議論

交流センターでの説明会は100人近くの人が来ていたが、多くは中高年の男性であった。区長やPTA会長を昔やっていた人、今やっている人が参加しているようだ。行政からの説明は、個々の学校の状況(都市計画法と土地所有の権利関係、耐震性、面積、平面図、校舎と室内運動場等)と、公募した民間事業者の提案、庁舎内の各部局の提案、そして市民から寄せられた提案を集計したものが報告された。校庭も含めてかなり広い土地と校舎があるが、新しい施設をつくるのが難しい市街化調整区域にある学校が多く、校舎については耐震基準を満たしていないものが少し含まれていた。

提案は、スポーツ施設や高齢者福祉施設、農業施設などが多く、市街化調整区域にあることもあって新しい商業施設を建てることが難しいらしく、資材置き場の提案や総務課からの文書倉庫の提案などもあった。担当の都市建設部の態度は、地域の意向を大事にしながらも、積極的な提案を募るというもので、市として跡地利用として包括的な提案があるわけでもなくて、個別の対応をするということのようだ。出席者より、子どもたちが集まって遊べる施設がほしいとか、大人の集会施設がほしい、高齢者福祉施設がほしいといった要望の声があった。また、住民のまちづくりの活動に対応したすすめ方をしてほしいという声もあった。

発言

私は次のような発言をした。明治の学制発布時には、将来の日本国を背負う世代を育成するということで学校建設のために施設や土地を供出し、その後、時間をかけて今の学校が建設されてきた。学校、とくに小学校は百数十年間にわたりそれぞれの地域にとってきわめて重要な施設であった。今、それが一斉に廃校になるということは重大な転換があったことを示している。学校という共通の目的のためにつくられた施設が今提案があったものだと、ばらばらの対応で転用されるように見える。ある学校は老人福祉施設になり、ある学校はスポーツ施設になり、ある学校は資材置き場になるという。それでいいのか。これを進めるのに市として包括的な活用プランの考えはないのか、伺いたいというものである。それに対して、説明した都市建設部の次長からは、市街化区域と市街化調整区域の違いや個々の学校による置かれた事情の違いがあって、できるだけ地域の要望に沿った活用をはかることを予定しているという回答だった。

この場は説明会で議論するところではないのでそれ以上発言することは控えた。しかし、私の発言はその後のいくつかの発言を引き出したらしく、考え方に賛同するという意見がいくつか寄せられた。そのなかでは、日本全体で廃校跡地の利用についての事例があるはずだからそれらを調査した上で提案すべきではないかとか、一度に10校も統合されて廃校になるケースは少ないのだからそれはもっと注目されてもいいのではないかとか、学識経験者や市民を含めた計画委員会をつくったらどうかという意見があった。私は、さらに、瀬戸内海の直島が銅の精錬所跡や山間部全体を美術館として観光開発で成功した例(ベネッセが開発)があるように、条件の示し方によっては大手の民間事業者が10校の一斎利用の新しいプランを提案する可能性もありうるのではないかという発言を追加した。

その後考えたこと

全国の廃校利用についての情報を集めてみた。文科省は「みんなの廃校プロジェクト」というのをやっていて、廃校利用で成果を上げた事例を紹介したり、廃校情報をリスト化して利用提案を呼びかけたりしている。リストを見ると数百校が再利用の提案を待っているという状況のようだ。一般的な需給関係を考えれば民間事業者からのいい提案がくるような状況には見えない。ただ、首都圏に隣接している地域であること、筑波山という観光地を控えていること、10校が一斉に利用可能なこと、筑波研究学園都市という国際的な都市の一部であることなどの点で有利な点がある。まず、文科省のページなどを参考にして精査して、市できちんとしたプランを打ち出すべきではないか。

その場合、検討にあたっての一定程度のガイドラインを設けるべきだと考える。たとえば決定には地域住民の合意を前提とし、地域福祉(広義)に貢献し、住民の日常生活を豊かにするものであることなどの条件をつけることである。また、どのようなスケジュールで検討しているのかがよくわからないところがある。いい提案がすぐに得られない場合には何年でも寝かせておいてじっくりと検討することが可能なのかどうかということである。

私はこのブログを始めてまもなく、「の小田郷学」プロジェクト案というのを提案した。住んでいる小田地区の今後を考えての提案だが、それは廃校になった小田小学校跡地の利用を前提としていた。そのなかで「りんりんロードの拠点休憩所づくり」というのがある。この地域は昔、関東鉄道筑波線の鉄道で結ばれていた地域でそこは今サイクリングロードとなっている。今日の報告会でも、土浦市が駅にサイクルステーションをつくり自転車を観光の目玉にしようとしているのと、今回の廃校跡地利用を結びつけられないのかと発言しようかと思ったが、結局、それには触れなかった。今回の動きでこうしたものをきちんと詰めなくてはならないと思っている。自治体単独で考えるのではなくて、地域共同も必要だろう。



2018-06-19

『情報リテラシーのための図書館』の書評

『情報リテラシーのための図書館:教育制度と図書館の改革』(みすず書房, 2017.12)を刊行したことについては、すでにこのブログで書いた。『情報リテラシーのための図書館ー日本の教育制度と図書館の改革』(続報)

ここでは今の時点で確認した書評数点について、著者の立場から応答しておきたい。今後、図書館関係の雑誌等にも掲載されるのだろうが(すでに『専門図書館』には掲載されている)、むしろ図書館関係者以外の読み手によって本書がどう読まれたのかを確認することができて興味深い。


◯「図書新聞」2018年1月1日号(3333号)
宇宙への想像力の扉を開ける知の技法
情報リテラシーの装置としての図書館を論じる
評者:新庄孝幸(ノンフィクションライター)
https://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun/3333.html

本書は昨年12月1日頃に市場に出回った。それが「図書新聞」の12月23日発売の号に掲載されたので驚いた。こんなに短時間で載るとはさすがに専門書評紙だと思ったし、これなら他の新聞書評も期待できるかとも思った。(しかし四大紙では取り上げられなかったが。)この新年特集号の最後の紙面は図書館関係書がまとめて取り上げられていたのだが、この書評は急遽、出たばかりの本に対して書評を短時間で執筆してもらってこの特集に突っ込んだのではないかと推測される。というのは、すぐ下に大串夏身さんの『図書館のこれまでとこれから』の書評が窮屈そうに置かれているからである。申し訳ない。

書評については、著者としてとくに言うことはない。情報リテラシーという概念の可能性と図書館ができることについてしっかりと読まれ書き込まれているものだった。これを書かれたライターは奈良県中西部の出身ということで、本書が、そこが舞台となった日本映画「天使のいる図書館」(2017、ウエダアツシ監督)に言及しているところから論を始めている。途中で情報リテラシーを「天使の羽」と見立てる比喩があるが、著者にはそこまで書くことはできなかったので、一本取られたという感じである。


◯愛媛新聞 1月22日 佐賀新聞 2月11日 ほか(共同通信配信)
評者:山口裕之(徳島大学准教授)
「知識 成長に生かす教育支援」

大学関係者による教育改革の視点よりの書評である。本書で引用した「事実→情報→理解→知識→知恵」という情報リテラシーの認知プロセスはけっこう多くの読者の目を引いたようで、他でも言及されている。ポストトゥルース的状況のなかで学習者(これはあらゆる人に当てはまる)は自分でこの認知プロセスを鍛えることでしか、確かなことに行きつけないし、そのためには情報リテラシーを身につけることが必要だというメッセージを理解していただけた。

◯honz
評者:山本 尚毅 3月26日
「図書館の隠れたポテンシャル」を引き出す4冊
http://honz.jp/articles/-/44675

これはオンラインの書評ページであり、4点の図書館関係本が書評されている。本書以外は、アンニョリ『知の広場』、田中あずさ『サブジェクト・ライブラリアン』、ミヌーイ『シリアの秘密図書館』でたいへん目配りのよい(というのは自己満足の表現でもあるが)並びになっている。

ここの書評では日本の図書館制度が置かれた歴史的事情について触れている。それは、知の閉塞というものであり、このことが本書の主張の中心部分になっていることを読みとり、それが昨今の教育改革によって解決される可能性があると論じたことを紹介している。


◯『出版ニュース』2018年3月中旬号
評者:塩見昇(大阪教育大学名誉教授)

同じ分野の先達による書評である。個人的にも親しくさせていただいている。書評は忠実に本書の内容を要約してくれているが、筆致にやや突き放した感じがある。その理由は2点あると受け止めた。

一つは、本書にとくに新しい知見はないということである。評者は同業者の立場から研究的な新しい知見を期待したのかもしれないが、本書はそれは意図していない。むしろ図書館で言われてきたこととその外側で言われてきたことのギャップを埋めることが目的でこれを書いた。そのために、ここで取り上げた図書館、読書・リテラシー、教育課程・教育方法学、江戸時代の教育史いずれの部分も、それぞれの専門家から見たらとくに目新しいことはないと見えるかもしれない。

もう一つは、書評の最後で、戦前から総合学習の元になった実践はあったことに本書が言及していないと指摘していることである。教育実践史でも、戦後新教育は大正自由教育のベースがあったから可能になったと言われているし、塩見氏自身が『日本学校図書館史』でそれを取り上げて、学校図書館も成城小学校の実践や戸塚廉の図書館教育など、戦前にも実践があったことを書かれている。確かにそうしたものはあったのだが、本書で強調しているのはそれらはやはりまったく例外的なものであり、制度化されなかったということである。ルーツを探れば歴史的に遡ることはできようが、それがあったこととそれが機能していたことは別である。なので、氏の指摘は当たっていないと受け止めている。

ただ、学校図書館を教育改革の歴史に位置づける努力をすることは重要であり、筆者自身は次のプロジェクトとしてこれを行うつもりにしていて、すでに8割方の原稿はできている。それは、戦後の学校図書館はあくまでも占領軍の政策として入ってきたと見るものであり、戦前と戦後の連続と断絶も一つのテーマとすることになる。


◯「日本教育新聞」2018年 6月11日号18面 批判的思考育む装置として
評者:大久保俊輝(文教大学非常勤講師)
http://www.kyoiku-press.com/modules/smartsection/item.php?itemid=71186

待望の教育関係者による書評である。本書は副題にあるように教育改革をテーマにしているつもりである。上に書いたように、本書の個々の章に特段目新しいことはない。しかしながらまったく別個の文脈で議論されていたことをつなげてみるとまったく新しいことが見えてくるというのが、本書を書いてみての偽らざる気持ちである。それを、当の教育関係者がどのように読んでくれるのかは気になっていたことであった。

評者は校長をしていた方のようだ。冒頭、「校長にはぜひとも読んで貰いたい内容に満ちあふれている」としている。かつて学校教育において「批判」は禁句だったのに、この評では本書が前面に出している「批判的思考」の考え方を支持してくれている。また、「知は知を呼ぶ」を箴言として引用し、「これまでの学校教育は知の呼び声を聞かないふりをして続けられていた」と続けている。この部分は、私がこの本を書くときの一貫した方法論を示した部分であった。それはマングェルの「夜の図書館」やフーコーの「幻想の図書館」に触発されてのものであった。知を学習指導要領や検定教科書、そして暗記型のペーパーテストで狭いところに閉じ込め、それが再現できることが知の獲得であるという考え方を捨てることによって初めて、図書館は評価されるものになる。そのことを評価する教育者がいることに私は安堵した。


◯Amazonや書評サイトhonto、読書メーター、ブックログ、ブログにも匿名の評がある。

https://www.amazon.co.jp/dp/B07DTNBKFS/ref=dp_kinw_strp_1

https://honto.jp/netstore/pd-book_28725259.html

https://bookmeter.com/books/12427720

https://booklog.jp/item/1/4622086506

http://yo-shi.cocolog-nifty.com/honyomi/2018/04/post-80ba.html


2018-06-05

米国大学図書館のサブジェクト・ライブラリアン

田中あずさ著『サブジェクト・ライブラリアン:海の向こうアメリカの学術図書館の仕事』(笠間書院, 2017.12)を読んだ。アメリカの専門職図書館員制度については、これまでもたくさんの報告があるが、本書は現職にある人がその職の実態を生々しく伝えてくれる本である。私も含めて日本の図書館界ではアメリカの図書館員養成制度が有力なモデルだったのだが、それが実際にどのように動いているのかが分かるという意味で、これまでなかった情報を提供してくれる本である。

著者はワシントン大学(シアトル校)のアジア図書館でサブジェクト・ライブラリアンをしている人である。 ライブラリアンは図書館における資料の管理や利用者サービス、データベース管理などをしている人というのが一般的なイメージであるが、サブジェクト・ライブラリアンはとくに専門的な分野に特化してそうしたサービスを行っている職員である。とくに専門主題や言語、資料のタイプなど特定の領域のコレクションをつくり、そこの専門研究者であるクライアントにサービスをする人のことである。彼女は、この図書館で日本語資料および韓国語資料を担当している。

本書によると、この大学には部局図書館が法学図書館、数学図書館など10館以上あり、そこにサブジェクト・ライブラリアンが70人以上配置されていて、160の学術分野に対応しているという。アジア図書館は部局図書館の一つで、中国語、韓国語、日本語のコレクションを対象にしている。それぞれの言語に対応して、資料収集担当者、目録担当者、そしてパブリックサービスの担当者がいて総計14人の専門職スタッフがいる。著者はそのなかで、パブリックサービスを担当する日本語研究専門のサブジェクト・ライブラリアンであるが、同時に韓国語資料についても担当しているらしい。サブジェクト・ライブラリアンの仕事は、それぞれの学問領域のコレクション構築、予算管理、レファレンス対応、図書館ワークショップの開催、教員との連携、各国からの来客の対応とされている。

私がこの本で学んだこととして、サブジェクト・ライブラリアンには一定の範囲の選書権限があるということと、一定の研究休暇をとることが認められているということがある。選書権限は、図書館が学部に所属しているのではなくて独立の予算が与えられており、教員が選書するのではなく一定の予算のもとにライブラリアンが選定することができるということである。もちろんコレクション構築の方針や選書基準にしたがうのではあるが、当該分野の資料はこの人に任せるとされているという意味である。だから選書ができることがサブジェクト・ライブラリアンの重要な要件であり、その権限がJob descriptionに規定されているということになる。日本ではこのあたりがあいまいで、研究資料は教員が選び、教育資料は図書館員が選ぶとしても、教員の研究予算と区別する予算枠が小さく、予算枠の使い方が個人ベースでなく集団的に選書することが一般的である。アメリカの大学図書館専門職が個人ベースであることは、研究休暇があることと表裏の関係にある。つまり専門職として研鑽を積むことにより、独立した選書権限が認められているということになる。こうした明確な仕事内容の明記とそれにともなう責任が表裏の関係にあることが指摘できる。

本書はサブジェクト・ライブラリアンにかぎらず、アメリカの大学におけるライブラリアンがどのようなものであるかを理解するのによい本である。このなかには、アメリカの図書館員が女性が多く、専門職と言っても給与は安くあまり尊敬されていない実態も書かれている。とは言え、日本ではアメリカ的な意味での専門職待遇の図書館員がかなり限定されていることを考えるとたいへんに参考になる。

アメリカの大学では、インターネットを通じてオンラインジャーナルや電子書籍、商用データベースにエンドユーザーが直接アクセスできるようになったので、サブジェクトライブラリアンの職が急激に減りつつあるという話しがある。だがそれはたぶん理系の分野の話しであるだろう。本書にもそのことが少し出てくる。しかし、人文社会系はそうはいかないだろう。何よりもこの分野では、図書館は研究情報に加えて研究対象の一次情報を提供する場である。この本が描き出しているように、人文社会系分野の資料の在り方はきわめて多様であり、さらに多言語的であるからだ。それも専門性が高まれば高まるほど、扱いにくいものが対象になる。また、専門性というのはその職場のクライアントの個別性と対応しているので、その意味でも理系のように当該領域のデータやレポート類と世界的なジャーナルにアクセスできればOKというわけにはいかない。

日本の図書館員の養成制度の理想的モデルはアメリカの専門職図書館員制度にあった。私が所属する慶應義塾大学文学部図書館・情報学専攻は1951年の発足当初はJapan Library Schoolと呼ばれアメリカから教員が来てアメリカ流の教育方法で始まった。それはしばらく続き、図書館界にも幾多の人材を送り出したが、今では学部の図書館・情報学専攻の学生で図書館現場に就職する人は毎年数名程度に限定されている。これは、職の募集そのものが少ない上に、民間での就職が先に始まり、こうした公的組織の求人はどうしても遅くなるから、安全側をとりたい学生の希望とずれているからである。アメリカと日本とでは違うと言ったらそれまでなのだが、図書館のような知的インフラをどのようにつくろうとするのかという基本的姿勢に関わる問題を内包しているように思う。

追記(これはfacebookに書いたもの):ここに一つ書き忘れたことがあります。それは笠間書院という文学・歴史学系の出版社がこの本を出したことの意味ですね。アメリカのこうした人文社会系の研究環境が日本ではほとんど知られていなかったということです。日本では人文系の研究者も出版関係者も資料を研究者自身が抱え込むことを常態にしていましたが、図書館とか文書館、博物館による総合的な資料利用環境を考えるべきときだと思います。それは国家的にデジタルアーカイブをつくる前提条件のはずです。

追記2(2020年10月20日):著者と連絡がとれ、現職はJapanese Studies Librarianで韓国は職務範囲に入っていないとのことです。

知のオープン化と NDLの役割(2)ーナショナルライブラリーの今後

現行の国立国会図書館法(NDL法)の納本制度に関わる条項は次のスライドのとおりである。まず,古くからある納本制度は,同法の24条(国の機関),24条の2(地方公共団体の機関),25条(それ以外の者)によって当該の機関や者は,24条1項に列挙されている「出版物」を発行したら納入する...