2018-10-04

ランドセルと教育改革(重荷を脱ぎ捨てる時だ)

次のような文章を送って、朝日新聞(東京版)2018年10月4日朝刊13面に掲載してもらった。

教育への関心の一環である。この問題提起についてはいろいろな意見があると思われる。たとえば、統制主義的と呼んでいるものが何を意味しているのか。たとえば、外国では子どもの送り迎えは親がするのが一般的で、日本のようにぞろぞろと集団登校するようなことはないが、ランドセルを背負うことと集団登下校の行動は対応している。日本の集団主義は子どもの安全とか親の負担の軽減といった部分に貢献しているのであり、一概に否定できないのではないかという意見がありうるだろう。

 人によっては、ランドセル批判と二宮金次郎像のイメージを重ねるのもどうかという意見をもつかもしれない。金次郎像は日本人の勤勉さの表現であり、それ自体は問題ないのではというものだ。このあたりは、教育をめぐる政治イデオロギーとかかわる。戦前に金次郎が国家に忠誠を誓う臣民教育の手段に使われたことは明らかであり、現在でも同様の主張は少なからずある。

私は、一概に集団主義がいけないと考えてはいない。日本人が常に近隣や同年齢の同質的他者とともに生きる道を選択し、集団主義がさまざまなところでの成功を導いたことも確かであるからだ。また、ランドセルのような背中で背負う荷物入れは便利だとも思う。だが、ここで批判しているのは、そうした19世紀から20世紀中期までに確立された慣習をいつまでも保持して、形式に流れる日本の学校教育制度全般である。ランドセルはそのシンボルに使わせていただいた。教育改革に関してはまた論じてみたい。



2 件のコメント:

  1. 先日、小学校の朝読書の時間にブックトークのために行きました。驚いたのは、そのまえに5分ほどの体操の時間があると言うので、傍らで見ていると、エグザイルのダンス(ポップダンス)の画像が流れ、教室で思いおもいに子供がダンスをする姿です。ラジオ体操を思い浮かべていたので、少し驚きでした。子供も若い教師も意識は柔軟なのですが、学校をめぐる枠組みが適応していないのかもしれません。教育方法学のテキストを見ても、学校図書館がどうして出てこないのか不思議です。教育行政が硬直しているのかもしれません。教育行政は、大学入試から変えようとしていますが、学習指導要領に書き込める内容に制約もあります。教育を変えるために、公共図書館、学校図書館に人と権限を委譲してはと思います。

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  2. 同質的集団に枠を嵌める見えない「制度」が無意識のうちにつくられ作用しているからでしょう。ワールドカップサッカー・ロシア大会で日本人観客が一斉にゴミ拾いをしたことが賞賛されました。「制度」はさまざまな現れ方をします。私たちは、こういう「制度」の存在を意識化することが大事だと思います。

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