2023-07-17

WebOPACと新聞記事検索ツール:野田市立興風図書館のサービス

前回、三つの私設図書館の歴史を辿り、かつての図書館員が資料収集にかけた情熱とそれを支えるための資料についての専門知識、扱うためのスキルについて書いた。また、現在の公立図書館の運営環境では実現しにくいことについても言及した。しかしながら、これはデジタル環境を使いこなすことで展開しうることでもある。そのことについても書いておこう。

公共財/プッシュの情報,プルの情報

6月28日と29日の二日間にわたり、山梨県立図書館で「2023年関東地区公共図書館協議会研究発表大会」が開催されて、そこで「図書館が地域アーカイブ機関であること」という題目で講演した。そのなかで、図書館が提供する資料やサービスの性格が公共経済学での財の分類では、公共財とコモンプール財、準公共財(クラブ財)の3つの特性を合わせもつものではないかと述べた。詳しい説明は省略するが、このなかで地域資料の提供のようなものは、民間機関では提供できない公共財的な性格を強くもつものである。本来、税金で賄うことが正当化しやすいはずのものである。

さらに、プッシュの情報とプルの情報の違いということをお話しした。ネット検索やSNSで表示のアルゴリズムの問題点が指摘されることが多いが、これらは情報提供者からプッシュされる情報であり、受け手は自分で検索語を選んでいるつもりでも、どうしても受け身になる。それに対して、プルの情報とは人が情報の特性と利用の仕方を理解した上で自分の考えで引き出すことができる仕組みのことである。たくさんの商品が並んでいるスーパーで自分がほしいものをカゴに入れるとき、商品知識をもち商品の鮮度や価格などを比較して選択するような態度である。実際には、プルの情報といっても選択できる情報範囲に最初から限界があり、一定程度に販売者からプッシュされていることは常に起こっていることではあるが、そのことも含めて賢い情報利用者、消費者になることが求められる。情報リテラシー教育とはそういうもののはずである。

さて、地域資料であるが、公共財に近い性質をもつものであるとしても、あまり利用がない理由としては、図書館の二階とか隅にあって目立たない、古くさいように見える、その存在が見えにくいなどが考えられる。郷土史に対して一定の関心が継続しているし、学校での自由研究や探究学習で資料提供が求められることも増えている。図書館の他の資料が商業出版物として広告や書店でもプッシュされているのに対して、地域資料は利用者が意識的にプルしなければ使われないことは明らかである。だから、図書館が利用者のプルを支援することを積極的にしなければならないのである。

WebOPACによる地域資料検索

そこでお話ししたのは開架や展示活動の重要性と検索ツールの重要性である。とくに検索ツールについて、WebOPACと新聞記事検索ツールの重要性について強調してみた。これらは比較的簡単にプルの情報を使いやすくするものである。

WebOPACであるが、まず、「簡単検索」がデフォルトでさらに「詳細検索」が用意されているのが普通だろう。特定資料検索の場合には「簡単検索」にキーワード入れるのが簡便だからこれでいいのだが、これはあくまでもプッシュされたものが当該館にあるかどうかを探すための方法である。閉架書庫にあるものも含めて自分がほしいものを探るプル情報検索ツールは「詳細検索」を使わざるをえない。これが使えるものになっているのかどうかは問題である。とくに、当該地域特有のものを検索したいときにどのように使うか。

そこで、WebOPACで地域資料・郷土資料のみを検索できるようになっているのかどうかが重要であるとお話しした。たとえば、山梨県立図書館の詳細検索画面は次のようになっている。




この「資料種別」のチェック欄に「地域資料」があることが分かる。これで何ができるのかというと、チェックがついていてキーワード1で書名に「学校図書館」と入れると、この図書館で地域資料のカテゴリーに入る学校図書館が書名に入った資料が検索できる。



こういう具合である。書名や著者名に地域名がなくとも、地域限定資料を検索するのに使えるわけである。地域は県名、市町村名、旧市町村名、地区名、字名などの地域が重層的に存在するから特定地域名でも検索漏れが出てくる。どんな図書館でも地域資料は自館入力で分類記号等で区別をしているはずである。それを使えば、こういう検索ができる。

図書館システムの導入や入れ替えの時期に要望すれば可能になるはずである。このことはだいぶ前からお話ししているのだが、なかなか採用する図書館がない。と、思っていたら、千葉県立野田興風図書館が次の画面を提供していることに気づいた。


地域資料カテゴリー検索」と名付けられたこの検索方法はなかなか秀逸で、まず地図で地域を限定する。その際に、野田市を中心にして、千葉県の他市町村を指定できるだけでなく、千葉県全体とか東葛地方などのブロックや旧郡というように階層化した地域指定が可能になっている。周辺の茨城県、埼玉県、東京都も指定できる。左側のNDCの指定も階層化されている。このように地域と主題をクロスさせて検索できるアイディアはなかなかいいと感じた。担当者に聞いてみると、これは蔵書データのなかで地域資料にはNで始まる分類記号がついているので、それに対して検索をかけるもので、図書館で開発して提供しているとのことだった。このような手作りによる工夫はうれしいものである。

新聞記事見出し検索

全国紙の地域欄や県域や地域で出ているローカル紙を保存している図書館は少なくない。かつてはクリッピングサービスも行われていた。ここではさらにローカル新聞の検索サービスが気になっていたので、どの程度おこなれているのか調べてみようと思い、講演でその一部を報告した。まず、情報源は国立国会図書館のリサーチナビにある「地方紙の記事索引・検索サービス」である。同館の新聞資料室調べによる。

北海道、東北、関東甲信越まで17都道県の図書館の集計である。このなかで、地方紙の索引・検索サービスは全部62件存在した。うちわけは次の通りである。

新聞社作成 有料 17、無料3
図書館作成 41

無料で使えるものが44件あるということになる。全公図の地域資料調査(2016年実施)では、全国でWebに新聞記事DBを提供しているところが、都道府県で16、市町村で41だったのでそれよりはだいぶ増えている。なお、新聞社作成データベースについては、Gサーチデータベースサービスが全国36の地方紙データベースの情報を提供している。ほとんどが有料DBである。

さて、先の図書館提供のデータベース41件のうち、すべてが見出し語のデータベースで記事本体は提供されていない。このうち、更新中(最新版あり) のものは30件であった。残りは中断している、あるいは、特定時期だけを対象としているものである。見出し語の提供の仕方としては、

データベース形式 24
エクセルファイル形式 17

であった。見出し語の利用については著作権法上は権利侵害にならないとの判決があり、一般的に図書館での記事見出し検索は許容されている。(ヨミウリオンライン(YOL)事件(東京地判平成16年3 月24日判時1857号108頁、知財高判平成17年10月6日)新聞社の許諾をとっていることを明示しているところもあった。以上のもの以外に、館内のみの利用として記事本体を閲覧に供している図書館もあるが実態については不明である。

野田市立興風図書館の新聞記事見出し検索

新聞記事見出し検索のうち、エクセルファイル方式でのサービスを提供している野田市立興風図書館のものを紹介しよう。このようになっている。




1997年以降の全国紙の地方版を対象にした記事の一覧を見ることができる。次は2023年6月分。


担当者に伺うと、これは地域資料担当になったときの学習用にプログラミングの知識を応用してつくったものという。今でも、地方版を1ヶ月単位でまとめて見出し語を入力する作業を継続しているということである。

また、ここにあるファイル全体に対して、検索をかけることができる。以下は「図書館」で検索したもの。



数百件の検索結果が返される。自然言語処理や検索結果表示などに工夫の余地はあるように思われたが、ちょっとした工夫と手間を掛けることによってこうしたサービスを図書館で実施することがわかった。

ブログの前号で図書館員の専門知識と気概ということを書いたが、この図書館が仙田正雄、佐藤真という先達がいたところであることを思うと、その精神が受け継がれていることを感じた。

謝辞

山梨県立図書館での講演およびその後のフォローアップ調査にあたってお世話になった方々に御礼申し上げます。とくに山梨県立図書館丸山直也さん、千葉県立西部図書館赤沼知里さん、野田市立興風図書館川嶋斉さん、ありがとうございました。



2023-07-14

三つの私設図書館と「舌なめずりする図書館員」

以下、最近、いくつかの図書館を訪ねて、それらに通底する戦後図書館の論理と限界、そして可能性を感じたので書いておきたい。このブログでは公共図書館の運営と今後の在り方について、あまり前面に出して論じてこなかったことではあるが、いい機会なので備忘録としておく。

函館・天理・野田興風

5月下旬に函館市立中央図書館と旧市立函館図書館を訪ねた。ここの初代館長岡田健蔵は、明治末期にできた私立函館図書館の設立者で市立図書館となってから長らく館長を務め、市会議員もしていた地元の有名人である。彼が北方資料にこだわり、その方面で有数のコレクションをつくったことは図書館史家の間では知られていたが、全国的に有名というわけではない。同図書館は現在はTRCと地元企業との共同で指定管理になっている。やはり民間になじみやすいところなのかもしれない。

 旧市立函館図書館(現中央図書館とは別)

6月に関西旅行をしたときに、天理図書館を訪ねた。天理教2代目真柱で同教発展の立役者中山正善の事績に関心があったためである。正善は、東京大学文学部宗教学科の卒業で国際的な宗教学者姉崎正治の下で研究を行い、宗教活動を行うのに文献的根拠が必要と考え世界中の宗教の教典や宗教書を集めることから始め、貴重な文献資料を集め始めた。そうして集められた蔵書が発展して天理図書館となった。彼は文献のみならず歴史、民俗、考古学関係の稀代のコレクターとして知られ、天理教が国際的な布教活動をしていた時期に各国支部から送られてきたコレクションは現在天理参考館と呼ばれる博物館で展示されている。


 現在の天理図書館

函館図書館と天理図書館は古書店から古文献の出物があると競争するように購入し続けた図書館として、古書店業界では有名な存在だった。最近、この両図書館と関係がある第三の図書館があったことを知った。それが千葉県野田市の興風会図書館である。もともと野田醤油(現キッコーマン)系列の社会事業組織興風会が運営する私設図書館であった。これも現在は野田市立興風図書館となっているのだが、昨日、ここを訪問した。先の両館との関係というのは、かつてここの主任として活動した図書館員として仙田正雄(在職1941ー1943)と佐藤真(在職1943-1967)がいたことである。

この二人はがちがちの主張のある図書館員だった。仙田はもともと奈良の出身で天理図書館にもいたことがあった人だが、戦後に再度、天理図書館に入ってその後天理大学教授も務めた。仙田の後を継いだ佐藤はそれ以前に函館図書館の職員で(在職1930-1943)、こちらに呼ばれてその後この地で長らく図書館長、郷土史家として活動した。

 旧興風会図書館

筆者にとって仙田正雄は、戦前は関西の青年図書館員聯盟(一旦解散して、戦後は日本図書館研究会として再結成)の活動家で、アメリカ議会図書館東洋部でライブラリアンを務めたあと、戦争開始とともに帰国して関西で活動した人というイメージであったから、短いとは言え興風会図書館で働いたことがあったとは意外だった。仙田は資料組織論を中心に、図書館に関することについてさまざまなことに関心をもち発言をした人である。それは、彼の『楢の落葉』というエッセイ集によく現れている。また、記憶に残るのは、戦後の学校図書館導入期にいち早く文部省の『学校図書館の手引』の伝達講習会(1949)に手をあげ、率先して学校図書館制度を推進しようとしたことである。彼は分類や目録、件名目録が利用者あるいは学習者と資料とをつなぐ重要なツールであるという本質的なことを見抜いていた人だった。

「舌なめずりする図書館員」

佐藤については、「舌なめずりする図書館員」という言葉で記憶されている。これは「中小レポート」の関係者が『図書館雑誌』上の座談会で、郷土資料を扱う郷土史家的な図書館員が古文書を読む態度について、この皮肉な表現で批判していたのに対して、逆手にとって郷土資料こそが地域住民とのつながりを保持するための重要な契機になることを強調した意見であった。(太字は原文では上点がついている表記)

奉仕といっても、今日、明日生きている人々、または、生きるであろう人々に図書館資料を利用して頂くことと、将来(五〇年或は一〇〇年後も考えて)生まれてくるであろう人たちのことも考慮に入れながら、現在の図書館員が奉仕するということは、二通りの意味があると思う。そしてこの考え方は何時の時代の図書館員でも必ず堅持していなくてはならないものと私は考えている。特に、常に末端の民衆と深いつながりを持たなくてはならない中小図書館こそ、郷土資料を以上のような考えに立って集め、その職にある図書館員が、能力に応じて(勉強して)解読し、解説し、いい古された言葉であるが、”温故知新”の為に奉仕してあげるのだろうと考える。従って、その経過にあって、たまたまよろいびつの中の虫くい本(文書)があって、それを解き明かすことによって、地域住民の郷土に対する認識を改めさせ、今日の産業や生活姿勢を正すに役立つことがあるならば、舌なめずりしながら悦ぶのは当然すぎるほど当然なことではないだろうか。

筆者はかつて2度この文章の一部を参照したことがあるが、今回改めて長めに引用してみて前とは異なった感想をもった。岡田や仙田と同じ系譜の図書館員としての確固とした信念と、さらにそれを支える知識やスキルがあったことへの自負を感じる。

戦後図書館の隘路

人によっては、彼の考えは独りよがりのように聞こえるかもしれない。少なくとも、「中小レポート」(1963)、「市民の図書館」(1970)が「資料提供」の方針を打ち出したときに、図書館員は「市民」「住民」の要求という絶対的な存在に寄り添ってサービスをするべきであり、「奉仕してあげる」というような尊大な精神は捨てるべきだとした。公務員という枠のなかで仕事をしようとすれば、このような民衆を導くというような考えは成立せず、民衆の読書欲に賭けようと考えたのだ。これが有山崧と前川恒雄が先導した戦後公立図書館の論理である。それは的中し1970年代以降の大躍進があった。だが、それは高度成長とバブル経済という時代の好調な財政に依存して成立したものである。これが1990年代以降の公共経営論においては評価指標として突きつけられ、「来館者数」や「貸出数」にがんじがらめになって、四苦八苦する原因にもなった。自縄自縛に陥ったのである。

今挙げた三つの図書館はいずれも私設図書館としてスタートした。とくに興風会図書館長の佐藤は、東北帝国大学図書館から函館図書館に移った人で、戦後図書館の論理とは別の考えを保持していた人である。私設図書館、私立図書館は、日本の官の論理を強く意識するところから出発した「資料提供」とは別の図書館の論理を保持することができていた。私立函館図書館は1907年(明治40年)に設立され1928年(昭和3年)に市立図書館となり、2015年に指定管理制を導入した。天理図書館は一貫して天理教の聖地天理にあり、現在は天理大学付属図書館という位置付けであるが、一般への開放も行っている。興風図書館はずっと興風会図書館という図書館法上の私立図書館であったが、1979年に市に無償譲渡され、現在の市立興風図書館となった。

私設図書館が公立図書館と異なる論理があるとすれば、創設者の創設の理念が強力に働いていることである。図書館は営利事業にはなりにくいから、ある種の民衆奉仕の精神が働くし、その裏側には何かの訴えたい理念がある。函館図書館の場合は岡田の北方資料に対する強い関心があり、天理図書館の場合は布教活動に伴う真柱正善自らがもつ主知主義があり、興風会図書館の場合は醤油醸造業創業者のもつ社会奉仕精神と社会改良主義があった。目的が明確だからそれにふさわしいコレクションとそれにふさわしい手法があった。手法の重要な柱に目録や分類、書誌、などの資料組織活動があった。だからこれら三館には、資料のことがわかりそれを自在に操ることができる個性豊かな図書館員がいたのである。

公立図書館は「全体への奉仕者」としての図書館員が「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設」(図書館法第2条)というような曖昧な目的を掲げざるをえないから、それを「資料提供」と言い換えることで無難な範囲でのサービスにとどまらざるをえなかった。そこでは、図書館員が本来もつ資料収集、組織化、排架、展示、レファレンスといったコレクション自体の価値を見極めて提供することができくくなった。1970年代以降、地方の時代が叫ばれ、一方で郷土資料、地域資料の重要性が言われていたにもかかわらず、コミットメントが浅くなったのはそれを意味する。せいぜいが、子ども読書とか障害者サービスのような国の政策に寄り添う部分でしか踏み込んだことができない状況となった。

おわりに

「舌なめずりする図書館員」は不要とされたのであるが、それで失ったものは資料についての専門知識と扱うためのスキル、そして図書館員としての気概ではなかっただろうか。少なくとも以上に挙げた三人にはそれらがあった。図書館員が全体としての奉仕者たらんとするためにも、それを裏打ちするものが必要である。とくに、MARCと図書館システムが導入されたことで、図書館員の専門性を発揮する局面が見えにくくなった。地域における図書館員の活動の源泉が地域におけるオリジナルな資料収集とその提供にあることは言うまでもないが、それをどのように提供するかが問題なのである。入ってきたものを分類し目録をとって書架に並べれば済むわけではない。市販資料なら、書店や広告や他の手段で存在が目につきやすいが、ローカルな資料はそうは行かないから、どのように見せるかが大事である。

函館と興風が公立図書館になってどのように変わったのか、あるいは変わらないのか。これが次の検討課題である。次に、興風図書館は現在でも興風会図書館時代の伝統が継承されていることを見ることにしたい。(続く

<参考文献>

大石豊「興風会図書館の創設・発展と千秋社・興風会」『大倉山論集』第55輯, 2009, p.155-177.

川嶋斉「「興風会図書館」と「野田市立興風図書館」」『LRG』第28号, 2019, p.32-37.

坂本龍三『岡田健蔵伝ー北日本生んだ稀有の図書館人』講談社出版サービスセンター, 1998.

佐藤真「舌なめずりする図書館員」『図書館雑誌』 58巻7号, 1964年6月, p.304-305.

丹羽秀人「岡田健蔵と市立函館図書館」『LRG』第28号, 2019, p.60-65.

根本彰「戦後公共図書館と地域資料—その歴史的素描」日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会編『情報公開制度と図書館の自由』日本図書館協会, 1987, p.62-93.

根本彰「地域資料・情報論―図書館でどう扱うか」『図書館雑誌』 95巻12号, 2001年12月, p.922-924.

浜田泰三 (編)『やまとのふみくら―天理図書館』中央公論社, 1994,  (中公文庫). 

*昨日、千葉県立図書館の大石豊さんにお会いし、上記の論文をいただいた。この論文に目を通したとき、三つの図書館が私のなかでつながった。ヒントを与えてくださった大石さんに感謝したい。





2023-06-22

新刊『図書館情報学事典』の構想と執筆項目

来る7月に日本図書館情報学会編『図書館情報学事典』(丸善)が刊行される。(タイトルをクリックすると丸善のHPからこの事典の詳細な目次入りのリーフレットを見ることができる。)この事典の編集責任者を務めたので、自分自身で書いた項目についての若干の解説をしてみることで、この事典のコンセプトと売りの部分を書いてみたい。


本書の特徴

丸善は以前からさまざまな学術分野の事典を刊行してきた。ここ20年ほどそれは同じような体裁の『○○学事典』というタイトルで出ている。同時期に日本霊長類学会編『霊長類学の百科事典』、小松久男編者代表『中央ユーラシア文化事典』、日本平和学会編『平和学事典』が出るようだ。いずれも、見開き2ページ(一部は4ページないし1ページのものもある)でまとめられ、そうした項目が300前後で構成され、それに引用参照文献、事項索引、人名索引がつけられて、700ページから800ページ程度の中事典である。見開き2ページというのは、だいたい、2000字ちょっとであり、少しまとめて論じるにはちょうどいい量である。

丸善は学術書の輸入販売だけでなく学術書出版も積極的に行ってきた。販路として図書館は重要であることもあり、以前から図書館情報学会とは密接な関係があった。『図書館情報学用語辞典』(第5版, 2020)をずっと出してきたし、かつて『図書館情報学ハンドブック』(初版, 1988、 第2版, 1999)があった。今回の事典はこのハンドブックの改訂版とも考えられるが、編集方針はだいぶ異なっている。

ハンドブックは図書館情報学の実務家を意識して体系的・網羅的な構成になっていた。20世紀までの図書館情報学の範囲はどの国でもそれほど大きな違いはなくそれをカバーしていたと言える。しかしながら、ちょうど第2版が出た頃からネット社会への移行が明確になり、それに伴いこの分野の範囲ははっきりしなくなり、そのアイデンティティは危うくなりつつある。「図書館」にこだわれば、現実的なネット社会との懸隔は拡がり、逆にネットワークテクノロジーを前提とすると限りなく他の情報メディア分野に拡散する。

本書はその意味でハンドブックがもっていた体系主義、網羅主義、実務志向を捨て、図書館情報学のコンセプトを自ら問い直しながら新しい像を提示する方向を模索する出版物とした。だから、試行的・冒険的なエッセイとなっている項目も少なくないし、読者としてもこの分野の関係者はもとより周辺領域の人々にも読んでもらうことを意識している。情報の制度を扱った部門で、知る権利、アクセス権、情報公開、情報と データの自由な流通と規制、ユニバーサルな情報利用、パブリックフォーラム論、ガバメントスピーチといった相互に関連する法的、政治的概念について述べているが、これらは図書館がそもそももつ公共的な基盤において情報を流通させるときにもつ個々の課題と密接にからみあっている。また、図書館を論じたところで、図書館を扱った小説や映画を取り上げて項目毎に論じたところがあるが、そうした表現のなかにそれぞれのカルチャーや表現者が図書館をどのように見ているのかが如実に示される。

とは言え、本書を構成する10の部門のうち、「情報・知識の組織化」「情報検索」「情報行動」「学術コミュニケーション」あたりは図書館情報学の核にあたり、オーソドックスな記述となっている。ある意味では変わり映えしないように見えながらも、時代の流れを承けて今までにない新しい動向を記述することも行っている。それを確認しながら読むのもこうした事典の読み方になるだろう。

筆者の執筆項目を例にとって

まあ、実際には執筆者によるので、項目によって冒険したり概説的な書き方にこだわったりといろいろではある。ここでは筆者が書いたいくつかの項目を紹介することで、この事典の特性のひとつをご理解いただきたい。筆者が書いたのは、①「データ・情報・知識」、②「アーカイブ」、③「レファレンス」、④「図書館情報学」、⑤「J. H. シェラ」、⑥「ポール・オトレ」、⑦「メディアとしての紙」、⑧「文芸共和国」、⑨「普遍図書館の夢」である。実はもう一つ「メタファーとしての図書館」を勇み足で書いてしまったのだが、すでに他の方に依頼していたことを忘れていたので、それはこのブログの2021-09-16「メタファーとしての図書館」として公開することにした。これから書くことの一つのサンプルとして読んでいただけると有り難い。9項目のなかで従来の意味で図書館情報学の範疇に入るものは④〜⑥の3項目だけだろう。筆者が率先して図書館情報学の枠を拡げるのを買って出ているところもある。

図書館情報学基礎論

たとえば、①〜③については、図書館情報学の基礎論として、筆者がここ10年くらいで取り組んだテーマをまとめて示している。①「データ・情報・知識」については『図書館情報学基礎』(2013)、②「アーカイブ」は『アーカイブの思想』(2021)、③「レファレンス」は『レファレンスサービスの射程と展開』(2020)で書いたもので、要するに情報や知識と呼ばれている概念をこの領域特有の切り口から示している。それは外化された知の扱いということであり、それは、歴史的にも⑤「J. H. シェラ」と⑥「ポール・オトレ」といった先駆者達が論じていたことである。シェラについては、別のところの項目「ピアース・バトラー」と一緒に扱うべきだとも思ったが編集上の都合で離れてしまった。

事典の他の項目「言語と記号」「テキスト」「ドキュメント」「ドキュメンテーション」などと合わせて見れば、これらは、哲学、言語学、歴史学、社会学、教育学などとの境界領域にあって、今後十分に拡張可能と考えられる。④「図書館情報学」のなかでは紹介しきれなかったが、アメリカやヨーロッパの情報学(information science)の基礎論的な議論においてはこの分野で実績を挙げている研究者(Birger HjørlandやNiels W. Lundなどの北欧系の人とRonald Day, John M, Buddなど英米系の人)がいる。UC BerkleyにいたMichael Bucklandは日本でも翻訳書も数冊あって知られているが、取り上げられているもの(と取り上げる人)に偏りがある。彼はもともとは英国出身で率先してヨーロッパのドキュメンテーションや情報学をアメリカに紹介する役割を果たしてきた。ヨーロッパと英米の情報学をつないだのはフランスのSuzanne BrietのQu'est-ce que la documentation? (Paris: EDIT, 1951)の英訳であるWhat is Documentation?(Scarecrow Press, 2006)である。これは、ドキュメンテーションの創始者Paul Otletの紹介者として活躍したW. Boyd Raywardからその重要性を知らされたBucklandが率先して行った翻訳プロジェクトで、彼自身はBrietの書誌と人物紹介をしている。また、Dayが翻訳者の一人となっている。その後、英米圏とヨーロッパの情報学の溝は明らかに小さくなった。Ref. [書評]『新・情報学入門』(根本 彰) 

残念ながら日本ではこうした基礎論的な問題を取り上げる図書館情報学者はこれまでほとんどいなかった。本書の第一部門で積極的に取り上げたので今後続いてくれることを期待したい。欧米の情報学基礎論はICT環境下では有効だし、図書館情報学のルーツはそちらにあるので今後ともそれは見ていきたいが、他方、筆者自身は制度としての図書館や図書館情報学思想を日本で考えるためにはそれだけでは十分でないと考えてきた。このブログでも何度も取り上げてきたように、言語と思考の関係が欧米と日本でかなり違っていることをもっと追求するつもりである。

図書館概念の拡張

残りの⑦「メディアとしての紙」、⑧「文芸共和国」、⑨「普遍図書館の夢」もまた従来のオーソドックスな図書館情報学の本では扱われなかったものを積極的に取り上げた項目である。⑦は、紙から電子へという議論を逆手にとって、なぜ紙が二千年の間メディアとしての重要性を保持し続けてきたのかを述べるだけでなく、実は製紙業は日本の産業として重要であること(運搬(段ボール)、建材や包装)や、紙幣や契約書、有価証券など経済や法を支えるものとしまだまだ使われ続けていることを述べている。⑧は、近代ヨーロッパの学術史のなかで知識人がラテン語で書いたもの(書簡、書物)によって交流していたことが、近代図書館の出発点として重要であることを指摘した。この項目では最後に日本でも江戸の後期に似たような現象があったことについても触れた。

⑨は不掲載の「メタファーとしての図書館」とともに、筆者自身の図書館像を示したものである。ここに取り上げた、パッケージ化した知を網羅的に集めて一望できるようにしたり検索可能にしたりする仕組みは、現在ならGoogle BooksとかNDLデジタルコレクションで一部は実現しているようにも見える。しかしながら、それが先のメディアとしての紙の書物の集積と等価なものなのかが問われなければならない。さらには、メタファーとしての図書館はそうしたコレクションや検索装置とどこまでいっしょなのかという問題がつきまとう。急に現れた生成系AIの可能性も含めて考えなければならないが、議論する際のヒントになればよいと思う。

索引について

図書館情報学において、索引が重要な役割を果たすことは言うまでもない。本事典はきわめて多方面の執筆者がいて、用語の表記や理解だけでなく文体や論じ方、表現の仕方もまちまちであるが、それを無理に統一しなかった。また、当該分野の専門家向けとは必ずしもしないことを目標にしたので、初心者にも分かりやすい用語を使い、あまり原語表記やカタカナ語を入れることを避けた。だからNCRは日本目録規則だし、Googleはグーグルになっている。

これは以前の『図書館情報学ハンドブック』の用語法や文章表現において専門家向けに統制がとれていたのと比べると大きな違いである。が、だからこそそれらを何らかの意味で使いやすいものにする必要があった。たとえば、Americanで始まる機関名をアメリカとするか米国とするか、さらには原語からも略称からもアクセス可能にできるかといったことが問われる。実際に項目によって用語法に不統一がある場合について「索引で吸収する」という言い方をして、索引がうまく機能できるようにした。そして、そのために編集委員会内に索引チームをつくり、協同で索引作成を手掛けた。やってみて、索引作成が言語表現と知をつなぐ重要なポイントであることを身にしみて感じた。なお、項目間の関係は索引よりも目次と項目内のタイトル横にある「をもみよ参照」で分かるようにしたが、その作業も担当した。

ただ、その点で問題が一つ残された。本書の企画段階で丸善事務局と話したときに気づいたことだが、この事典シリーズには電子書籍版があるが、それがPDFで提供されていることの問題点である。電子書籍版においても索引はテキストでしかなくて、本文と直接リンクされていない。今、他の事典の電子書籍版を見ても同様だから、たぶんこの事典についてもそうなるのだろう。これは、基本的なシステム上の問題であり、この事典だけでは解決できないが、こういうことの専門学会がつくる事典がこれでいいのかについては今後とも議論していきたいと考えている。







2023-05-18

知は蓄積可能か

 2021年に『アーカイブの思想』を出したのをきっかけに、アーカイブをテーマにした講演の依頼がいくつかあった。それについては、前に一覧を公表したが、ここでは講演を元にしてもう一度考えをまとめ直したものとして次の3本の論文を挙げておきたい。

1. 根本彰「知のアーカイブ装置としての図書館を考える:ニュートン関係資料について」『短期大学図書館研究』(私立短期大学図書館協議会)40/41合併号 2022.3 p.103-110.(オープン化されていない)

2. 根本彰「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ:ニュートン資料を通してみる」『アーカイブズ学研究』(日本アーカイブズ学会)No. 37, 2022.12. p.4-18.(エンバーゴ期間。2024年4月公開予定)

3. 根本彰「知は蓄積可能か:アーカイブを考える」『2022年度極東証券寄付講座 文献学の世界 書物と社会の記憶』慶應義塾大学文学部, 2023.05, p.99-115.(発行元の許諾の下に公開)

最近、発行された冊子に論文3を公開したので、ここに紹介する。これは、慶應義塾大学文学部が極東証券株式会社よりの寄付金によって運営している「文献学の世界」という学部授業でお話ししたものを元に再構成したものである。概要を説明すると、二宮尊徳関係で新しい近世史上の発見があったという新聞報道について出典の扱いの困難性の問題から始まって、知のアーカイブがどのようにしてつくられるのかを西洋の書物と人文学の関係、レファレンスツールのつくられ方、デジタルヒューマニティーズと新文献学といった素材によって論じることで、『アーカイブの思想』の論旨を具体的な素材を元にして整理して示した。デジタルヒューマニティーズによって文献学(philology)の系譜に新しい展開があることについても言及している。


なお、この「文献学の世界」という冊子のシリーズは、カラー印刷でなかなか豪華な装幀のほんづくりをしているのだが、関係機関に配布するだけの限定本で外部にはほとんど知られていない。ここ6年で次のようなテーマがある。

2022年度 書物と社会の記憶 / 安形麻理編(2023.05)

2021年度 テクストと/の空間性 / 徳永聡子編(2022.05)

2020年度 書物に描き出された時/時の中の書物 / 安形麻理編(2021.05)

2019年度 書物と知の組織化 / 安形麻理編(2020.05)

2018年度 書物の境界 / 安形麻理編(2019.05)

2017年度 書物から見る知のネットワーク / 安形麻理編(2018.05)

興味深いテーマが並んでいて、外に出ていないのはもったいないので、担当の安形教授に話していくつかの図書館に寄贈していただくことにした。


2023-05-16

『アーカイブの思想』のその後 ②

 拙著『アーカイブの思想』に新しい書評が加わった。以前のものについては、ここを参照のこと。

渡辺恭彦「<書評>根本彰『アーカイブの思想 --言葉を知に変える仕組み』」京都大学大学文書館研究紀要 21 93-99, 2023-03-20

これを取り上げてみる。これまで出た書評のなかではもっとも本書著者(以下、著者)の執筆意図に寄り添い、そこから汲み取れるものを書評者(以下、評者)の言葉で記述しようとしてくれているものと思えた。書評は「本書は、図書館情報学が専門の著者によるアーカイブ論である。著者の問題意識は、西洋社会でアーカイブが果たしてきた機能を捉えなおし、日本におけるアーカイブ思想をつくることにある。著者は、書くことや記録すること、知のあり方といった抽象的な次元について古代ギリシアにまで遡ったうえで、読書行為の変容や図書館の位置づけを歴史的に辿り直している。」(p.93)で始まる。書評全体は著書の内容を第1講から最後の「エピローグ」までていねいに紹介してくれている。これまで出た書評はページ数の制限もあり、ここまで詳細に著者の記述を要約して示してくれたものはなかった。その意味でもこういう書評が出たことはありがたいと思う。

書評の概要

第1講の最後にまとめて、評者は「著者は、語り手が物語ることによって現実や情報/知識が作られるという言語論的転回の議論を積極的に採り入れる。その一方で、書物や図書館が知の利用法として1000年以上の歴史を持つことに意義を認め、AIテクノロジーやネットワーク技術等については慎重な立場に立つ。このように古典的な知の形態を尊重していることが、本書全体の特徴ともなっている。」とする。このレベルでの読解をしてもらったことはなかったので、否が応でも期待は高まる。そしてその期待は裏切られない。たとえば、第2講では、古代ギリシア哲学の重要概念であるロゴスとパイデイアが本書の前半の西洋思想における書き言葉の重要性の指摘を貫くものであることを見抜くと同時に、第3講では東洋や日本の書き言葉の呪術的性格やその身体性、そして西洋のアルファベットを基準にしたときの表記の多重性を指摘する。著者が、西洋的なアーカイブの思想がなぜ東洋や日本でそのまま適用できないのかを後半で述べるための伏線としたものを的確に読み解いている。

このあとの本論の記述についてもこうしたレベルでの読解が続くので、著者としてもそういえばこういうことを書いたのだと、改めて自分の思考を跡付けることができた。そして「本書は対象とする時代や地域が広く設定されているだけでなく、最新の理論も参照されており、類を見ない書である。評者にとって、史料や書物のあり方を考えるにあたって学ぶところの多い著作であった。さまざまな補助線が入れられ、各講が緊密に連結して構成されていることを考えると、直接論じていないところにも著者が目を配っていることは論を俟たない。」と述べ、また、最後に「図書館や書物がつくられてきた歴史をダイナミックに辿った本書は、アーカイブについて学ぶところが多いだけでなく、教養主義や読書論、ひいては日本における学問の発展史としても読むことが可能である。著者は、天下り的に与えられた知を受容するのではなく、人々のあいだで自由自在に知を探求する能力が涵養されることを願っている。本書に織り込まれた該博な知識を吸収することにとどまらず、そこからさらに、さまざまな方向へと関心を展開していくことが読者に求められているように思う。」で終えている。

これは著者にとって最大限の賛辞と受け取れるものであった。というのは、これまでも幾人もの論者から書評して頂いているが、それぞれが評者自身が立脚している立場から見た拙著についての評価であった。だから、ここまで拙著が表現したいことをていねいに抽出しながら、著者の論の文脈に沿って全体像を読み解いた上でこのような評価をしていただいたことは望外の喜びである。書評の途中で、石川九楊の「筆蝕の構造」や東洋の文字表記について論じたところが「梅棹忠夫の情報文明論に近接しているように思われる」との評については当たっていないこともない。梅棹の文明の生態史観や知的生産の技術は若い頃に読んでどこかで自分の一部になっている。白川静の漢字論も含めて、拙著で取り上げた文字論の多くは京都に本拠を置く人たちの所論であることは偶然ではないかもしれない。以前から自分が志向するものが東京大学のアカデミズムよりも京都大学のそれに近いとも感じていたからである。

評者の質問に答えて:日本の学術図書館

書評の最後に「著者の考えを伺うというスタンスでいくつかの論点を提出してみたい。」とあるので、これらにお答えしてみたい。最初の論点は近代日本の学術図書館をどのように評価するのかという点である。評者は京都大学図書館の在り方が西田幾多郎をはじめとした学者の一次資料を含めたコレクションを研究者に限定的に提供してきたと述べ、その在り方をどう考えるか、また、評者が務める京都大学文書館も含めてそうした特別コレクションを受け入れるスペースも不足しているし、何より専門分化して個々の専門を見極められる人が限定されていると述べている。(この点について評者が別に『京都大学文書館』だよりに「京大教員と図書館」を書いている。)

まず、拙著における日本の近代図書館史の記述は、国家および大学教員が西洋図書館的な視点からすると図書館を軽視してきたという論調で一貫している。これは東京帝国大学を典型とする大学が西洋の学問モデルを模倣し、図書館はその成果を翻訳移入するためのツールとしたので、知を国民一般に配布するためには彼らが書いた書物を出版すればよいという態度であったことに由来する。だから、図書館は閉鎖的で研究者が自分たちが使いやすいようにするだけで、部外者に広く開放するような考え方は弱かった。京都大学も例外ではないが、東京大学と少し役割が異なるのは、京都という日本の伝統文化の中心に位置付けられたことと、2番目にできたことで東京大学のアカデミズムとの差別化のダイナミズムが働いたことにより、独自の学問を展開させやすかったことがある。先のコレクションもそういう考え方から自らのアーカイブを重視したものと思われる。つまりオリジナルな成果を受け入れることで図書館は新しい段階に入るわけである。

そのことと、図書館やアーカイブズを大学組織のなかでどのように政策的に位置付けるかは別問題である。とにかく、法人化以降の国立大学はこうした基盤的経費を削りながら競争的に重要施策に経費費配分するという方針のもとにあるので、政策的に優先順位が高いと認められなければ経費は削減されていく一方である。大学図書館はさらに、オンラインジャーナル経費の高騰という難題を抱えて他のことに手が廻らない。大学文書館がここ20年のあいだにずいぶん増えたのは、情報公開法への対応という事情があったからで、法人のなかで政策的な位置付けが高かったと言えるのだろう。図書館とは異なり文書館には教員が配置されている。だが、研究者であるからよいアーキビストになれるとは限らない。また、確かに専門分化が進むほど個々の研究者が対応しにくい状況がある。

たぶんこの論点は、拙著の目指す方向が分野を超えて学術知の共通基盤をどのように確保するのかにあるように見えるので、図書館情報学にそのような議論があるのか、またライブラリアンにそうしたものへの対応があるのかを問うているのだろう。その答えは、西洋には間違いなく存在しているが日本ではかなり弱いということになる。西洋ではもちろん国や置かれた状況で千差万別だが、理念的には知の蓄積を扱う機関が図書館であり、大学には当然のことながらリベラルアーツに対応できる総合的な図書館が置かれ、さらに個別の学問分野毎に専門的な図書館も置かれている。そこには一定のトレーニングを受けたライブラリアンがいて、専門コレクションの価値を見定めることも可能である。また、大学自体のファンドが大きくそのなかで図書館の位置付けも高い。拙著はそれがなぜ生じたのか、また、日本ではなぜそうならなかったのかを明らかにしようとしたものである。

評者の質問に答えて:戦後教養主義の考え方

もう一つの論点は、日本の教養主義について一方では人格主義的な大正教養主義の系譜があり、他方で、『日本資本主義発達史講座』(1932-1933)に端を発するマルクス主義の系譜があったと書いたことについて、後者が新しい知見であるというものである。この指摘を受けて、改めて竹内洋、筒井清忠、苅部直などの教養主義論を見てみたが、確かにマルクス主義の系譜を教養主義と呼んでいるものは見当たらなかった。しかしながら、この考え方は著者の独創ではもちろんなくて、いろんな人が言っていたことである。というよりもこれは著者の世代からせいぜい10年くらい下までの人にとっては実感していたものである。竹内洋に『革新幻想の戦後史』(中央公論新社, 2011)があるが、これに描かれている「革新」の思想がそれである。要するに冷戦体制において資本主義vs.共産主義という対立軸があるときに、日本共産党やその下部組織の民青に所属しなくとも、レフトの思想に共感をもつことは当たり前であり、この世代にとって丸山眞男あたりが中心軸になってそこからやや左に振れる、マルクス主義系の思想書や社会科学書を読むことが常識だったということである。学生運動、労働運動、公害運動、平和運動などの時代であり、運動への直接的コミットができなくとも「体制」に異論を突きつける思想に関心をもつことが当たり前だった。

時代を特徴付ける思想の軸がどこにあるのかを考えることは、アーカイブの思想においても重要である。拙著でも、古典とかカノンという概念について述べたが、次の時代にどのような思想が残されるのか、それがどのような過程やメカニズムで決定されるのかということである。たとえば、ネット社会がポストトゥルースという現象をもたらし、その意味での軸が見えずにいる社会の出現は上記のような経験をもつ著者にとっては意外なことであり、また、理解しにくいことではある。

最後に

著者はこれまで図書館情報学という狭い世界で仕事をしてきた。あとがきでは、それで飽き足りなくなり、本書は自分が読みたいものを表現することを目的としたと書いた。大学を辞めた後であり、自由に論を展開したいこともあって、ある意味で無謀な知の冒険に出た。評者はうまく繋いで全体を示してくれたが、自分では個々の議論の素材についてはそれぞれの専門家からみるとより踏み込んで論じるべきだと感じられるところが少なくないとも感じていた。だから、このような全体的なレビューにはたいへん勇気づけられたが、同時に、廣松渉を博士論文のテーマとした後でアーキビストの仕事に就いた評者のような研究者が引き継いでくれることを期待したい。ぜひ、アーカイブ領域でも著者の乱暴な議論をより精緻化して日本の状況を説明できる研究もしていただきたいと思う。



2023-04-14

学校図書館支援のためのエビデンス——SLILの学校図書館政策に関する講演③

SLILの学校図書館政策に関する講演シリーズ

① アメリカのスクールライブラリアンは何をしているのか?(4月9日)

② 図解「地域学習リソース拠点の必要性」(4月13日)

③ 学校図書館支援のためのエビデンス(4月14日、この項目)


 SLIL講演を振り返って、学校図書館を国の教育政策として位置付けるための具体的方策についてもっと考察すべきと考えた。それは、参加者の事後アンケートでも望む声が少なくなかった。そこで、今後どのような実践とそれに関わる研究が必要なのかについてメモしておきたい。大きくは理論的研究と実践研究、それらを基にした政策提言という順序で進める必要がある。

1)理論的研究

学校図書館が教育課程に寄与するという場合に、そこにある資料や情報を収集・管理・提供するという機能を示すだけでは十分ではない。それでは何が可能か。以下は半ば思いつきではあるが重要な理論的研究のテーマである。

ジョン・デューイの教育学と学校図書館との関係:デューイの探究(inquiry)概念が探究学習の原点にあることについて講演で触れたがまだきちんと解明されていない。ウィーガンドの『アメリカ公立学校図書館史』にもほんの少ししか触れられていない。ここは、デューイの教育学⇒[アメリカ進歩主義教育協会⇒ニューディール期の学校図書館ハンドブック⇒]『学校図書館の手引』⇒図書館教育研究会、という影響関係が考えられる。[ ]の部分がブラックボックスになっている。アメリカでもこうした理論研究は行われていない。

デューイ『学校と社会』より

デューイの探究概念の哲学的研究:これはすでにアメリカでも日本でもある程度は進められている。日本だと、早川操『デューイの探究教育哲学:相互成長をめざす人間形成論再考』(名古屋大学出版会, 1994)、藤井千春『ジョン・デューイの経験主義哲学における思考論:知性的な思考の構造的解明』(早稲田大学出版部, 2010)、谷川嘉浩『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房, 2021)などがある。これらで不足している外部知、間接知についての考察を加えることが重要なポイントとなる。

この本の目次終章を参照(画像をクリックのこと)

国際バカロレア(とくにIBDP)のカリキュラムの検討:国際バカロレアが知の獲得の方法として、知の理論(TOK)、課題論文(EE)を課している。これらが学校図書館を前提としていることについて、アンソニー・ティルク『国際バカロレア教育と学校図書館:探究学習を支援する』(学文社, 2021)で詳しく述べられている。また、とくにTOKが一般的科目と探究学習をつなぐ重要な役割を果たしているとの観点から学会発表をしたことがある。


2)実践的研究

学校図書館の実践:講演記録のなかで、山形県鶴岡市と岡山県岡山市の学校司書配置について触れた(記録 p.19-20)。これらは歴史ある実践事例であるが、現在の学校図書館政策にうまくつながっているのかどうかを検証する必要がある。また、沖縄の学校図書館が本土とは制度的な経緯が異なっていることがどのように関わるのかについて別に検討が必要である。他にも、学校図書館政策に力を入れている自治体あるいは学校は少なくないのだが、それが個人の努力だけでなく組織として成果を挙げるに至っているかどうかが問われる。

・地域学習リソース拠点の実践:その意味で、古くから学校図書館支援センターが置かれている千葉県市川市の事例を見ておきたい。市川市教育委員会に教育センターがあり、その事業のなかの「教育課程や教育内容・方法の調査研究に関すること」として、「公共図書館と学校を結ぶネットワーク」があり、次に「教育におけるデジタル化の推進に関すること」に「学校情報化研究事業」「市川GIGAスクール構想 (ご家庭でのご使用)」がある。市内の学校で共通する資料や教材、教育情報が扱われていることが重要だろう。学校図書館には会計年度任用職員が配置されている。次の図のようにデータと物流のネットワークが形成されており、これがGIGAスクールと結びつくと、教材コンテンツの契約と配信・利用が可能になる可能性がある。

講演参加者から新潟市の学校図書館支援センターの事例について教えていただいた。確かにここの報告書をみると、市立中央図書館に支援センターを置いて、正規職5人を含めて市内全校に職員を配置して学校図書館が読書センターのみならず、学習センター、情報センターの役割を果たそうとしている様子がうかがえる。毎年報告書を出しており、充実した活動のように見えるが、今後必要なのはこれを教育評価のサイクルのなかで位置付けることだろう。つまりこの活動がどのような教育効果を挙げたのかを評価することである。また、他のところの参考にするためには、これがどのような経緯でできたのか、そのための準備などについても明らかにされるとよい。また、他に類似の事例があるのかどうかについても情報が交換されるとよい。

県単位の学校図書館支援センター:鳥取県では、県立図書館に学校図書館支援センターが置かれていることは知られている。県の規模が大きくなければ、県立図書館が県域の教育委員会や学校に対してこうした支援機能を積極的に果たすことが有効な場合がある。これについても、どのような教育効果に結びついたのかについての評価が行われるべきだろう。


とっとり学校図書館活用教育推進ビジョン

学校図書館支援センターの可能性もともと文部科学省の事業として始まったものである。その経緯について書かれたものはたくさんあるが、次の文献が現状がどうなっているのかを検討している。紹介されているのは、福岡県小郡市、大阪府豊中市、福岡県福岡市、鳥取県である。

 また、国会図書館の国際こども図書館の次のページでは全国の学校図書館支援のための仕組みが列挙されていて、そのなかで基礎自治体で「学校図書館支援センター」をもつものがいくつかある。


こうした支援センターの今後の可能性を探るのも実践的研究で是非進めたい。以下は、やや踏み込んだ議論となるが参考までに示しておく。

<地域学習リソース拠点を考えるために>

 先の新潟市や講演記録で触れた岡山市を含めてここに挙がっている基礎自治体は、学校図書館政策の先進自治体と言うことになるのだろう。公立図書館に支援センターをおき、学校図書館に対する支援業務を行う職員を配置するのが中心的な業務である。その職員は多くの場合、指導主事という身分で学校の管理職を経験した人が担当する。支援としては、研修や相談業務を行う。こうしたセンターを置いている基礎自治体は学校司書を専任配置(複数校兼務ではなく一校一人という意味)していることが多く、資料やデータベースについては追加的な予算をもっていることも多い。
 こうした現状が、講演で提案した「地域学習リソース拠点」とどのような関係になるのかが問われるだろう。この構想の具体的な像は講演では示していないが、少なくともこれは「支援の場」よりは発展的な「リソース拠点」であるので、資料や教材などの教育リソースを管理し個々の学校図書館に対してネットワークを通じて提供できるような態勢がとられていることが必要である。つまり、支援というのは個々の学校図書館が発展途上であるものを支援するという建前だが、リソース拠点はそれぞれが独自の活動を行うがそこで不足するものを提供するというイメージになる。いわば、個々の学校図書館は市町村立図書館であり、このリソース拠点は県立図書館にあたるものと考えてよい。
 支援センターをリソース拠点に展開するためには、やはり、学校図書館を支援した結果何が可能になったのかの評価が必要となる。支援センターを置かない他の同規模の自治体と比べて、学校図書館の利用に違いがあるのか、読書や探究学習に何らかの変化があるのか、さらにはその教育効果が示せるのか、そうしたエビデンスが求められる。
 

2023-04-13

図解「地域学習リソース拠点の必要性」:SLILの学校図書館政策に関する講演②

三回のシリーズの2回目である。

① アメリカのスクールライブラリアンは何をしているのか?ーSLILの学校図書館政策に関する講演

② 図解「地域学習リソース拠点の必要性」:SLILの学校図書館政策に関する講演(この項目)

③ 学校図書館支援のためのエビデンス——SLILの学校図書館政策に関する講演

講演会「学校図書館改革を戦略的に考える:探究学習、教育DX、情報リテラシー、読解力...」の記録と事後アンケートのまとめがSLILのHPにアップされた。


講演サイト:
記録:

ここを見れば、当日私が使用したパワーポイント資料およびコメンテータの新居池津子さんの資料、講演の筆記録(修正済み)および質疑の概要が掲載されている。ただ、なにぶん2時間のやりとりが40ページ以上にわたって詰め込まれている。また欲張って歴史的課題から現代的な課題に至るまで述べている。質疑は十分な時間がとれなかったので、記録では少し展開して回答している。追加の注で参考文献も掲載しておいた。さらには、別ファイルになっている、参加者の事後アンケートでは参加者からの疑問、意見などが寄せられていて、それについてはお答えできていない。

ということなので、ここでは思い切って講演でお話ししたかったことの要点のみをまとめて図を用いて示すことにしたい。また、その講演やその後のやりとりで不十分だった部分を補って首尾一貫した政策提言まで述べておく。それにどのようにアプローチするかという今後のリサーチの課題については「SLILの学校図書館政策に関する講演③」として次に廻すことにした。


戦後学校図書館政策の振り返り

 次の図で示しているように、戦後学校図書館政策史を教育政策史と関わらせて三期に分けている。それぞれに「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」がある。使用した政治学の「政策の窓モデル」だと、これらの流れが何らかの要因で同期するときに政策が実現するという。確かに学校図書館でもそれは当てはまっている。
 第一期には占領軍の政策で文部省よりもさらに上から学校図書館の検討課題が政策として課され、それによって、学校図書館運動が生まれて(問題の流れ)、最終的には1953年学校図書館法として立法化された(政治の流れ)。ただし、このときの中心的な論点は、戦後間もない復興期に子どもたちのための学習資料や設備を充実させたいということだったので学校内に図書室を設置することにあった。
 第二期、学校図書館関係者にとってこれを教育施設とするためには職員が必要だが、それが学校図書館法で実現されなかったので、司書教諭ないし学校司書の配置要求が問題の流れだった。しかし公立学校教職員の定数問題のため国費による教職員の配分はできなかった。だが、文部省は財政にゆとりが出るに従い図書費を教材費に含めたり高校の事務職員枠を確保するなど一定の配慮をしていた。
 その流れで第三期に子どもの国語力、読書力を向上させるという課題が表面化し、これが学校図書館の読書センター要求という問題の流れをつくりだした。それが政治の流れにつながって、二度の学校図書館法改正となった。だから、可能になったのは読書センターとしての学校図書館でしかない。また、多くの教育行政関係者の理解ではその運営は非正規職員でもやむを得ない(優先順位が低い)ということになる。


次期の三つの流れを考える際の課題

 第三期の読書力や国語力を前提とした流れは、児童書出版社や児童文学者、マスメディアなどの関連業界が超党派の国会議員に働き掛けにつながり、それが大きな力をもった。要するにこれらの業界の利益に結びつき、それは30年以上継続して続いている。だが、それだけだと読書センターの枠組みを変えることはない。
 21世紀も20年代に入った現在の教育の課題はさまざまであるが、そのなかで学校図書館に密接に関わるのが、学習指導要領における探究学習の導入と子どもたちにデジタル端末を配布することから始まった教育DXである。確かに問題の流れとして、グローバライゼーションからくる教育課程の変革や、メディア環境の大きな変化が教育政策の問題の流れを引き起こし、同時に文部科学省が省を挙げてそれらを取り上げている。教育DXについては国全体の政策として取り上げられており、関連業界が積極的に後押ししている。文科省は教育DXに全組織が対応することを表明している。
 学校図書館を学習センター化、情報センター化するためには、それが「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」のアジェンダとして掲げられ、さらには同期させなければならない。とくに問題の流れが単に学校図書館関係者や図書館関係者のみならず教育関係者全般にとっての問題とならなければ、政策や政治の流れには乗れない。言い換えれば、教育学者、教育行政や学校管理者、一般の教員が学校図書館を整備することが教育を向上することにつながるという確信をもてなければ、政策や政治にはつながらない。とくに重要なのは、その確信につなげるために学校図書館が有効であることを示す学術的なエビデンスである。それがあれば文科省の有識者会議や審議会を通じて政策に取り込まれうる。さらには、ビジネスにつながったり政治家の政治的な信条と結びつけば、政治的な課題になりうる。

エビデンスを考えるための理論的枠組み

 とは言え学校図書館はこれまで読書、学習、情報の三センターといった枠組みの議論しかなかったから、そうした内輪の議論は外部に説得力をもたない。しかしながら読書、学習や情報というキーワードは、図書館情報学の枠組みでも議論が可能であることを示しておこう。まず、手がかりになるのは20世紀前半のプラグマティズム哲学者ジョン・デューイの議論である。デューイは20世紀後半以降に再評価されて現在も教育学において強い影響力を保持している。デューイは若くしてシカゴ大学に赴任したときに哲学だけでなく教育学も担当して附属の実験学校の設置運営を指導した。そのときの講演録をもとにしたものが『学校と社会』(1899)である。そのなかで描かれたのが学校と社会の関係のモデル図である。
 それぞれの階の中心に図書室と博物室が置かれているのは偶然ではない。図書室は知の教材を管理する場であり、博物室は実物教材を管理する場である。これらはそれぞれ教科の中心にあって教材を提供すると同時に外部の大学や研究機関、図書館、博物館と連携する場となることが想定されている。
 デューイにとって重要な教育的概念は探究(inquiry)であった。この概念はプラグマティズムの用語としても必ずしも十分に検討されていないが、21世紀日本において探究学習という言葉が多用され定着しようとしている。私は図書館情報学的な観点から探究を次のように4つの知が総合した概念としてとらえている。それは、①教科的知、②読解力、③探索的知、④批判的思考であり、いずれもが学校図書館と密接に関わる。とくに、③探索的知とは(家庭や学校ではない)外部世界へのアプローチのための知(外部知、間接知)であり、学校図書館が媒介する資料や情報である。


 デューイは個人の知は社会状況と密接に関わることを強調した。先ほどの教育のグローバリゼーションがOECDのPISAからきているとしたときに、そこで使われているコンピテンシーとリテラシーの二つの概念はデューイの思想の影響があって重要である。PISA(正確にはその母体となったプロジェクトDeSeCo)では、能力を測るための基準としてコンピテンシーを「特定の状況の中で、心理的・社会的な資源(技能や態度を含む)を引き出し、活用することにより複雑なニーズに応じる能力」とした。要するに、外的な行動とつながる能力のことでそのなかの一部を取り出したのが、PISAで測定する「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力」すなわちリテラシーである。そしてこれをさらに、読解力(reading literacy)、数学リテラシー、科学リテラシーに分けて3年に1度15歳の学習者に対してテストされて結果が公表される。つまり、コンピテンシーの部分集合である3つのリテラシーを測定するのがPISAということになる。

 
 このコンピテンシーとリテラシーの関係の整理を基にして、子どもの発達を意識した学校図書館戦略図が上記の図である。乳幼児期のプレリテラシーから始まって、小中学校でリテラシー(読み書き能力)を獲得しながらさらに読解力(リーディングリテラシー)を獲得する。さらにメディア情報リテラシーも併せて獲得することになる。ただしこの図では科学リテラシーと数学リテラシーを省略してあるが、本来読解力と並列すべきものである。これらを支えるのが学校図書館であるが、ここでは読書センター、学習センター、情報センターの機能がバラバラではなくて重層的に働くことが重要である。系統的カリキュラム(教科)においても、探究学習のプログラムにおいても資料・情報を含めた外部知(教材:デューイの用語でsubject matter)が求められる。この図によって学習者のコンピテンシーを支援する学校図書館戦略の概要が見えるようになる。

図書館教育とは何であったか

 1947年、1951年の学習指導要領は「試案」とされた。カリキュラムを実施するのは地方教育委員会で、さまざまなカリキュラム実践が試行された。そのなかではコア・カリキュラムが知られているが図書館教育もその一つである。アメリカの学校図書館運営マニュアルを参考にして文部省内で検討された『学校図書館の手引』(1948)が1949年からいくつかの実験校の実践を導いて、それが公表され、概ね1968年の学習指導要領改訂まで全国の地方教育委員会や学校の教育課程に影響を与えた。そのときに影響が強かったのが読書指導論の研究者阪本一郎が率いる図書館教育研究会の図書館教育と読書指導を組み合わせた次の課程表である。この表をよく見ると、小中学校の9年間にリテラシー(「基本的なスキル」)にとどまらずに読解リテラシー(「理解」)とメディア情報リテラシーの一部(「図書利用の技術」)まで学ぶ内容になっている。

 しかしながら、1953年学校図書館法はこれを担うはずの司書教諭を当分の間置かないことができるとした。また1958年学習指導要領により、系統主義カリキュラムに切り替える動きが急になることにより、カリキュラム運動としての図書館教育は読書指導と図書及び図書館利用法に分離され、後者のみを図書館教育とする見方が中心になり読書指導と分離された図書館教育は徐々に退潮していった。

地域学習リソース拠点の提言

 それから半世紀以上の月日が流れ、学校教育の現場は、戦後間もない時期の混乱とその本質は全く違うが次の時代の課題が山積しているという意味で似た状況がある。グローバリゼーションという外圧を無視できなくなったこと、内部的には、教育困難校の増加、不登校などの学習意欲の減退、それに伴う教員の疲弊と教育格差の拡大などで、教育制度に対する不信はこれまでになく強まっている。2018年に文科省の学校図書館担当がそれまでの初等中等教育局から総合教育政策局地域学習振興課に移ったことは、学校図書館が学校に所属するというだけでなく地域全体の教育資源と結びつくことで本領を発揮できるという文科省自体の宣言と見なすべきである。それは先ほどのデューイの『学校と社会』の学校モデル図の現代的実現でもある。それが次の図で示したものである。

 左側は学校図書館の部分で三センターが重層的にかかわっていくことを示す。右側は地域における大学や研究機関、公立図書館、地域博物館、公民館・生涯学習組織と連携する。とくに公立図書館との関係が重要であろう。ネット、クラウドとの結びつきは言うまでもないし、地域全体がデジタルコンテンツやデジタル教材、データベースの契約を行うことも想定している。こうした機能の中心にあるのが地域学習リソース拠点である。学校図書館を支える組織はとりあえずの現状のものを置いているが、将来的にはリソース拠点を支える組織を一本化する方向に進むものと考えられる。
 最後に、この構想を進めるための第四期の戦略ビジョンを図示しておいた。2020年代前半から20年をかけてリソース拠点の構想を練り、それを可能にするエビデンスを明らかにしていく。これによりリソース拠点を国の整備計画に転換するような政策が準備される。それは最終的には法的な整備となると同時に、これを可能にするための専門職の在り方にまで議論が進むことが期待される。赤の矢印が前のものと違って下降するものとして描くのは、学校図書館関係者自ら問題の流れをつくることから始まるからである。




 


なぜこの本を翻訳したのか:生成AIと図書館(2)

 マーティン・フリッケ著『人工知能とライブラリアンシップ』を1ヶ月で翻訳した。できた訳稿は全部で40万字,大判で400ページ近くある大きな本になった。かつてなら1年くらいかけないとできないようなものが短期間でできたのは,AIの力を借りたことが大きい。翻訳ソフトの能力が各段にアップ...