2022-10-24

『私たちが図書館について知っている二、三の事柄』批判

 10月16日付け朝日新聞の書評欄に標記の本(中村文孝・小田光雄著、論創社, 2022年8月刊)の書評が出た(https://book.asahi.com/article/14744652)。「とんでもない本を手にとってしまった」で始まる記事の書き手はサンキュータツオという人である。これを要約しておこう。

図書館の数は1970年代からの半世紀で4倍近くになったのに対して、書店は、1990年代以降減り続けている。年間の書籍販売部数よりも図書館の個人貸出冊数の方が多くなった。本の購入はアマゾンをはじめとするネット購入と「公営無料貸本屋」である図書館が代行するようになった。こうなった理由が、図書館流通センター(TRC)のMARCの利便性にあるが、図書館が自らの存在意義を再定義し損ねた部分もあり、それによって職員は嘱託で済ませ専門性を育めることもない。おしゃれで新刊雑誌や書籍をお茶を飲みながら読める図書館が増殖するという「本の生態系の変容」があるとするなら戦慄せずにいられない。

なぜ戦慄するのかよくわからなかった。この評者が受け取った図書館についての情報には長年図書館を研究したものの目から見て間違ったものが多く含まれている。だが、当該書を図書館から借りて読んでみて、事情を知らない人が読めばそのように受け取る可能性が高い内容を含むものだという感想をもった。そこでこの本について批評してみたい。

基本的な疑問点

まず、著者(というか対話者)は本というものに対してどのようにとらえているのか、また、これを出した出版社はどのようなものと認識しているのか、大きな疑問をもった。本はSNSの書き込みと違って、一定の見識のある著者が慎重に論を展開し、編集校閲の過程を経て誤りのないものとして読者に提示されるべきものである。最近の本が必ずしもそうでなくなっていることは措いておいても、少なくともこの本の書き出しを読む限り、著者らも本がもつそのような作用について異論はないように思える。また著者の中村氏は芳林堂書店、リブロ、ジュンク堂書店などの書店畑を歩んだ人で、小田氏は日本の出版史や出版流通論を書きながら他方ではエミール・ゾラの翻訳を手掛けている。本が何たるものなのかを理解した二人が対談するのだからと思って読み進めると、彼等が図書館については単なる外部からの観察者であり、にわか勉強で補ったものをもとにした歪みがそこここに見られる。

具体的な問題点は後で述べるが、最大の疑問は対談という形式にある。本書でとられている、話者のどちらかが図書館関係の本の部分を紹介してそこについて論じる(というより感想を言う)というスタイルは、取り上げる本が恣意的であると、発言のバランスを失わせる。また、出版流通と図書館の関係について論じる場合に、両者が出版関係者であることからくる一方的な裁断が目につく。日本の文壇や論壇ジャーナリズムに昔から対談や座談という形式があり、そのスクリプトを記事にして新聞、雑誌や書籍にすることは行われてきた。ただそれはその道の専門家や大家とされる人たちがやりとりするものである。問題を共有した上で異なった視点をもつ人どうしが、侃々諤々あるいは丁々発止とやり合う様を楽しむというものである。だがこの本で図書館について述べるとき両著者は専門家でも研究者でもない。確かに隣接領域の出版に関わる人たちであるからそこからの視点は共通する。また、小田氏は20世紀後半の都市郊外論を書いたということで、とくに日野市立図書館の成立の経緯と関わる部分があり、そのあたりで関心がつながるのかもしれない。けれどもここで述べられているような図書館の歴史や館種という概念、関係団体、図書館員養成の問題といったことについては、にわか勉強が目につくだけでなく、かなりの間違い、あるいは中途半端な認識が含まれている。

私は小田氏の評論を何冊か読んだことがあるが、それは十分に読む価値のある論理展開をしていた。ところがこの本はそれを著しく欠いていて、内輪の勉強会の議事録のようなものになっている。内輪話が内輪で流通する分にはしかたないのだが、それがそのまま校閲を十分にせずにこのようにパブリッシュされることの意味をどのように考えているのだろうか。書籍出版からかつてのような著者の矜持や編集倫理のようなものが失われ、内容は何であれ売れればよいとするものに移行しつつあると言われるが、この本もその列に連なるものではないか。

この本のタイトルは、ゴダールの映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」(そしてそれを真似た蓮實重彦『私が大学について知っている二、三の事柄』)から来ている。映画はフランスの新興団地に済む主婦が夫に内緒で売春するというテーマを扱いながらいろんなメッセージを織り込み、大きなテーマとしては資本主義がさまざまな生活の局面に忍びこみ人々の日常を支配していることに対する批判ということだろう。このタイトルを本書にかぶせたということは、図書館がそうした資本主義体制に取り込まれている状況を告発するという意図が含まれているように思える。だが、ゴダールや蓮實に見られる諧謔の妙のようなものが欠けているが故に不快な後味しか残さない。

散見される誤り

16ページに「占領期のGHQのキーニープランによる民主主義教育政策として、1946年に教育基本法と学校教育法が公布され、それに伴い、小中高に及ぶ図書室の設置が促される。」という文章がある。これは二重三重に誤りを含んでいる。まずキーニープランはGHQの図書館担当官だったキーニーの公共図書館政策についての私案にすぎず実現もしなかったし、学校図書館の設置とは関係ない。ましてそれによって教育基本法と学校教育法が公布されたなどというのは、戦後史のいろはも知らない人の主張である。このような初歩的間違いは常識ある人ならすぐに気づくもののはずなのに、チェックされずに平気で残されている。率直に言って、最初の方にこんな誤りが含まれると、そこで止まってしまい読む価値はないと思ってしまう。

他の見過ごしにできない間違いとして、長尾真 元国立国会図書館館長を「専門職の資格を持つライブラリアン」(139ページ)としているところは吹き出してしまった。何かレトリックとして発言しているのかと思ったがどうも本気らしい。長尾氏が京都大学工学部で日本語処理や人工知能の開発をしていた電子工学のパイオニアであり、その後京都大学総長を務めた後に同館館長になって、資料のデジタル化を進める推進力となったことは出版関係者でも周知のことである。

また、錯誤という点で言えば、141ページに「JLAが官のイメージであるのに対し、図問研は民間という気がする。」という発言がある。JLA(日本図書館協会)が文部省に近い官のイメージの団体だったのは創立から戦後間もない時期まであり、この対談で触れられる「中小レポート」(1963)、「市民の図書館」(1970)以降は、文部省から離れて独自路線をとることになる。彼らは、JLAを批判するにあたり、その活動方針がその時期から「市民」という名の大衆に寄り添い、その消費生活に無料の資料貸出という形でつけ込むことで成功を納めたと言いたいのだろうが、それは「官」から離れて行ったことである。さらにその運動の路線において公立図書館の現場職員よりなる図問研(図書館問題研究会)との関係を深めるわけだ。少なくとも公共図書館政策において、JLAと図問研は同一の考え方をとっている。JLAが大所帯で動きにくいところを図問研という実働部隊が支えているという構図である。JLA憎しを安易に「官」と結びつけるところに、20世紀中盤の時代認識がそのままこの対談に反映されていることが分かる。

また、TRCの『週刊新刊全点案内』で選書しているというくだりで、小中高校の図書館や大学の図書館は既刊書がほとんどなのに、公共図書館では選書の80%が新刊書という部分がある(199ページ)。公共図書館が新刊書中心なのはその通りであるが、小中高や大学図書館の選書が既刊書がほとんどというのはどういうデータに基づくのだろうか。出版関係者が新刊書という言葉を使うときには出たばかりでまだ動いている本という意味合いで一般的な理解と少し違うと思うが、それでも学校や大学の図書館も基本的には新刊書リストから本を選んでいることは確かで、既刊書がほとんどということはない。そもそも、図書館で児童書について副本を多数用意することは当たり前になっているが、図書館向けの児童書市場でそのことを問題視する議論を聞いたことがない。

さらには、TRCが図書館経営の代行をしているという話題のところで、小学校の元校長とか教師が採用され、それらの人たちの人材育成として、「図書館情報大学の司書補の講習などを受けている。」という記述がある(220ページ)。司書補という資格は高卒者に対する資格付与であり、大卒者が増えた現在ほとんど機能していない。もう図書館情報大学はないし、かつても司書補講習をやっていたことはないはずだ。このあたりのやりとりは伝聞に基づくものでしかなく裏をとっていないし、何よりも真の問題点がどこにあるのかに気づいていないことを露呈している。元校長や教員に司書補講習を受けさせると発言しているところもそうだが、このやりとりに、指定管理という言葉が一度も出てこないことも図書館の現場の問題を理解していないと言わざるをえない。図書館情報大学を出してくることも含めて、時代認識が20世紀末で止まっているのではないか。

以上、揚げ足取りにならないようにと思って読み始めたのだが、図書館に対する正しい認識をしようという意図が感じられないので一部を列挙した。出版関係者からこう見えるというのはかまわない。だが、ジャーナリズムや評論は少なくとも発言の裏取りをするものである。まして、書籍として出すときにこれでよいのか。これもまた図書館を買い手として当て込んだ出版ビジネスとしか思われない。自らの誤ったイメージを垂れ流すこの本を、朝日の書評に出たからという理由で選書する図書館が多数あるとしたら恐ろしい。

全体的な構図に対する批判

本書は全体として「図書館」を批判しているのだが、その図書館の実体を曖昧にしたままに議論しているように見える。ときには日図協の図書館政策だったり、図書館を設置している自治体(ないし教育委員会)の政策だったり、個別の図書館の運営方針だったりする。さらには図書館を支援するビジネス企業も批判の対象になっている。また、全体的には1970年代の「郊外の誕生」以降の大衆消費社会を問題にしているようにも見える。だが、彼らが出版流通関係者の立場をとるときに図書館との対比が明確になるので、批判の中心は図書館が購入する資料の質と量、およびそれが利用者に無料で貸し出されていること、そしてその結果書店、取次、出版社、(ここでの言及はほとんどないが)著者の経済行為に影響していることにあるようだ。

本稿の最初の新聞記事の要約に、「年間の書籍販売部数よりも図書館の個人貸出冊数の方が多くなった」という文言がある。これは書評の著者が元の本の著者らの発言からとってきたものでそれをそのまま示した(269〜270ページ)。こうした言説はよく耳にする。インパクトがあるけれどもこうした耳になじみやすい主張は疑ってみた方がよい。そもそも書籍販売数と図書館の個人貸出数を比較することに意味があるのか。これだと、書籍販売数の減少は図書館の個人貸出が増えたから生じたと言っているように聞こえるが、その因果関係は十分に実証されていない。統計学で相関関係が因果関係を説明するわけではないと言われるが、これも現象面で対応しているように見えることも内実は証明されていないのだ。出たばかりの本を図書館が大量の複本を置いて貸し出ししていれば話しは別だが、今は複本の上限を設定していることが多いし、資料購入費自体が減っているから、図書館が貸し出ししている資料の多くは旧刊本に属する。

実はこの議論は図書館界と出版業界の間で昔からあるし、そのことで日本文芸家協会や日本書籍出版協会、日本図書館協会などの場で議論もしてきた。少なくとも、2003年の書協と日図協の合同の調査報告(『公立図書館貸出実態調査2003報告書』 日本図書館協会・日本書籍出版協会, 2004)は、私自身もコメントしているように、一部の文芸新刊書については図書館の貸出が影響を与えているように見えるが、全体としてはそれほどでもないことを示した。2018年の全国図書館大会で文藝春秋社長が図書館は文庫本の貸出をしないでほしいと発言したことも話題になったが、これも一部の大手出版社の文芸書の扱いをめぐってである。こうした議論があったし、資料購入費自体が減少しているから現在は以前に比べて文芸書やベストセラー複本の提供は抑えられるようになっている。対談でも、最近図書館の貸出は減っているとされている。書店数減少の理由に雑誌が売れなくなったことが挙げられることが多いが、図書館は雑誌提供についてはそれほど積極的ではなかった。というようなところで現在の議論は落ち着いているのではないか。それをこうした議論があったのを無視して、かつての論点を蒸し返しているのはなぜなのか。(図書館の資料貸出が書店の売り上げに与える影響について別項1別項2を用意している。)

著者らは司書資格が粗製濫造されていることについて言及している。書店員が書籍を一点一点手にとって確認して商品知識をもっているのに対して、図書館員は、MARC開発とTRCが効率的なシステムをつくったので本を知らずに貸し出しサービスだけをしているという批判である。自治体での司書の正規職がかなり少なくなり、おそらくは年間の正規職採用数の100倍近くの司書が養成されているから、多くの有資格者は非正規職員(嘱託、指定管理団体職員、パートタイマー)として働かざるをえない。多くの職員は本の内容をあまり意識せずに右から左に貸出していることは確かであろう。ただそれを言うなら、同様のシステムが取次と書店とのあいだでもつくられていて、書店には実績に応じた配本システムがつくられているのでとくに商品知識がなくとも書店を維持できるのと同種のこととも言える。大手の書店だと「棚づくり」という点で書店員の自由裁量が効く部分があるのに対して、図書館はNDCで画一的な分類の棚に排架するだけだから本を見ていないように思われるのかもしれない。だがどんな図書館にも、選書を行い入って来た本を書架に並べ、その本がどのように借りられているのかを確認し、レファレンスサービスで使用したり展示をしたりすることで、蔵書をつくっている、そういう職員はいる。書店にベテランの書店員とアルバイトがいるように、図書館にもベテランの司書と非正規の職員がいるのは同じ事ではないか。

図書館認識の更新を

著者は私のちょっとだけ上の世代であり、彼らが主張したいことが理解できないわけではない。若い頃には西洋文化への憧れと左翼思想の影響を受けながらも、その後自律した思想をもとうとした。彼等が描くスケッチは次のようなものである。

戦後日本が経済成長を達成した頃に大量消費時代が来て、都市の「郊外化」が始まる。これは画一化された豊かさのなかに大衆が自らの欲望を満たそうとする現象のことである。郊外の典型が東京都日野市であり、JLAはここを「市民の図書館」の拠点にして公共図書館の拡大路線を敷いた。その路線を牽引したのは「図書館の街浦安」である。20世紀末の地方創生や地方分権改革で地方の財源が一時的に潤ったときに、全国の自治体は市民の直接的な要求と市街地活性化の要請からハコモノとしての図書館を多数つくった。それは、思想抜きの大衆の欲望に委ねられた存在であり、どんどん新刊書を貸し出すことによって、日本社会が伝統的に守ってきた書物文化の砦である書店を閉店に追い込んだ。

かつての教養主義の流れにある人たちから見て今の図書館は大事な書物文化を破壊しているように見えるのかもしれない。しかしながら、図書館が貸出中心だというのは錯覚である。そこしか見ようとしていないから他にやっていることが見えないのである。たとえば、日野にも浦安にも立派な中央図書館があり、児童への読み聞かせやストーリーテリングを行い、レファレンスサービスもデジタルによる情報発信も障害者サービスも行っている。日野の分館である市政図書室は市役所の敷地内に置かれていて市職員のための行政支援という専門的なレファレンスサービスを行い、同時に、日野市、周辺自治体、東京都の地域資料を住民向けに提供することも行っている。日野のサービスはそこまで含めて評価すべきなのだ。

著者らは、日野の館長を務め後に滋賀県立図書館長になった資料提供論のスポークスマン前川恒雄を批判しているが、私は彼が影響力をもったのはきわめてシンプルに図書館の効用を語ったからだと考える。日野が1970年の『市民の図書館』のモデルとなったことは確かだが、それは中央図書館ができる前に移動図書館から始まり地域館がつくられつつある時までの活動をベースに書かれている。彼が中央図書館や市政図書室についてほとんど語らなかったことは戦略的なものだったと考えるが、それは今となっては禍根を残す結果をもたらしたと思う。つまり、図書館づくりを進めようとした自治体関係者にとって、図書館サービスが貸出がすべての基本でありそれさえすればよいという論理に容易に転化させる原因になったからである。前川の戦略はすでに修正されつつあるが、いったん刷り込まれた貸出図書館のイメージはすぐには修正されていない。これについては前川の発言を絶対視した図書館関係者も含めて歴史的な批判が必要だと思う。

貸出とは無料で財を使用する仕組みのことである。著作権法は「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与する」(同法第1条)ことを目的に設置されているが、その範囲で図書館が貸出や複写サービスをすることを容認している。公共図書館を設置推進する側は、市場経済中心の社会で無料で財が提供されることの意味を突き詰める必要があったのにそれがなされなかった。だから、今の図書館は一つの像を結ばない。一方では有名な建築家が設計した建物で専門的な司書によるサービスを受けられる図書館が話題になるが、他方、貸出サービス中心でそれを非正規職員が担当する図書館も少なくない。(ただし、ここでは職員の身分や待遇の問題と資格の有無とを混同しないことだ。資格をもたず事務作業のみを担当する職員がいてもいいことは否定しない。)それは1970年代以降のJLAの図書館政策がもたらしたものであることは否定できないだろう。だが、それ自体が貸出図書館路線の延長に出てくる展開であり、最初の書評にあるような「おしゃれで新刊雑誌や書籍をお茶を飲みながら読める図書館が増殖するという「本の生態系の変容」」が現れたなら、それは別に否定すべきことでも何でもない。つまり、本の生態系の変容はすでに多様な図書館を生み出した。そして他方では紙の本の読み手がどんどん高齢化していくなかで、図書館と出版界はその存在を互いに認めつつ役割分担を図りながら「本の生態系」の維持なり保護なりを図る視点でまとまりつつある。著者らの議論はこれまで図書館と出版の関係者が積み上げてきた議論を20年前のものに戻すものである。

なお、最後に、気になる点を。本書の冒頭で著者たちは、子どもの頃にスティーヴンソン『宝島』、ポー『黄金虫』、ユゴー『レミゼラブル』、ドーデ『風車小屋だより』を読んだ記憶を確認している。そういう彼らは、石井桃子『子どもの図書館』(岩波新書)が岩波書店や福音館の児童書・絵本を重視し、コミックや永岡書店の児童書はだめとすることを批判する(22ページ)。児童書の古典名作の扱いについては、児童書出版社の販売戦略と図書館(とくに学校図書館)との経済的な関係がある。それについては以前にブログで書いておいた。しかしながら、それとは別に、ここに自らの「教養」についての捻れたルサンチマンがあることを感じる。小さいときに得られたリテラシーの基盤たる読書体験とその後の青年時代の読書体験によって身についた教養主義、そして、大衆消費財になった書籍の扱いに対する批判的態度は実は一貫している。子ども時代の読書体験の重要性は、石井らの家庭文庫運動から公共図書館運動に引き継がれたものであり、JLAも図問研も児童サービスは中核とすべき専門サービスとして位置付けている。著者らの子ども時代の読書経験は、大正から昭和初期の成熟した中流文化がもたらしたもので、それは戦後文学や教養主義を育てた。現在の図書館もその延長上にある。図書館の資料提供サービスは確かに書店の売り上げの一部を奪っている部分があるかもしれないが、それは図書館が未来の読者を育成する役割や、社会人や職業人に対して生涯学習や独学の機会を提供する役割、あまり売れない専門書を購入する買い手としての役割、地域の文化的資料を集め後世に残すアーカイブ機能、地域住民の多様化に合わせた社会福祉や多文化的なサービスなどの重要な機能を担っていることと比較衡量しながら論じる必要がある。ルサンチマンを隠しながら図書館をこんな形で批判するのは情けない態度に映る。

*本稿を書いた後に、2017年全国図書館大会で発表した出版と図書館の関係について述べた文章とその後、図書館貸出の経済学的分析の論文を紹介した文章をブログに掲載した。


 

2022-09-16

『アーカイブの思想』のその後 ①

 2021年1月に拙著『アーカイブの思想:言葉を知に変える仕組み』(みすず書房)が出てから1年8ヶ月ほどが過ぎた。過去、ブログではいただいた書評に対する応答を3回行った(2021-04-282021-09-242021-09-24)。ここでは、その後、発表された書評に応答し、出版後のあれこれについて報告しておきたい。

まず、本書はおかげ様で現在第4刷りになっている。専門書価格帯の本としては比較的売れたのはたいへん有り難いことである。購入していただいた方には感謝申し上げたい。当初、みすず書房の営業担当者から書名のどこかに「図書館」を入れるように強い要望があったのは図書館市場を意識してのことだったが、敢えて入れないことを選択した。その意味でも、安堵している。なぜ、入れなかったのかはこのあと触れたいと思う。

その後の書評について

この本を書いたことでいろいろなレスポンスをいただいた。書評はすでにブログで触れたもののあとに3本が出た。早い頃のものほど、一般的なメディアに紹介的で短い記事が出て、後になるほど専門的メディアに比較的長いものが出る。すでに『図書館界』には昨年のうちに書評が出たが、その後、図書館やアーカイブ関係の学会誌に出るようになった。次の3本である。

① 大沼太兵衛氏  デジタルアーカイブ学会誌 5 (4), 258-258, 2021 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsda/5/4/5_258/_pdf/-char/ja

② 小林昌樹氏 日本図書館情報学会誌 68 (1), 45-46, March 2022

https://doi.org/10.20651/jslis.68.1_45

③ 寺澤正直氏 アーカイブズ学研究 / 日本アーカイブズ学会 編 (36) 62-69, 2022-06

このうち、③はほとんど内容の紹介なので、①と②について応答しておきたい。

まず、①であるが、大沼氏は白水社から出ている文庫クセジュ・シリーズのブリュノ・ガラン著『アーカイブズ:記録の保存・管理の歴史と実践』の訳者であるが、同時に国立国会図書館の職員でもある方で、その意味でアーカイブズも図書館も分かるということから、依頼されたのだろう。現時点ではこれだけがオープンになっている。書評において、評者が「端的に言えば、著者の問題意識の根本にあるのは、人間の知の最も基本的なメディウムである「言葉」という装置である。著者は、プラトン以降、二千数百年間の言葉と知を巡る実践の様々な局面にロゴスとパイデイアという光を当てることで、総体としてのアーカイブという営みを描き出すことに成功している」と評していただいたことはありがたい。本書の副題に「言葉を知に変える仕組み」としたのはまさにそこの部分で一貫性をもたせたかったからである。だから、書評のその前段に、「著者は、これらの広大な主題群(中略)の全体に対してアーカイブという投網をかけ、まず西洋社会が知の制度を整備していった過程を概ね時系列順に辿り、それを踏まえて日本の特殊事情および現代の課題について検討を行う」と本書の方法について短くまとめていただいていることも本書を的確に把握していただいていると考える。

そういう読みをしているからこそ、「本書で展開される各論の中には、特定の文献のみを論拠としているように見受けられる記述が散見され、また、細部における事実確認等で若干の詰めの甘さが残る点は、白璧の微瑕と言えるかもしれない」という苦言が呈されると、それは何を指しているのかと思わざるをえない。確かに、本書は基本的に二次的な文献から得られたテキストを撚り合わせることで記述している。かなり広汎な領域を渉猟することで成り立たせているから、思わぬところで基本的な誤りをしている可能性はある。だが、この評言の前段の「特定の文献のみを論拠としている」ことの問題点については、この本の基本的コンセプトに関わるので、それが何なのか具体的に指摘していただかないと納得がいかないところである。

次に②である。評者小林氏の指摘のいくつかの点について述べておく。まず、本書がなぜ「アーカイブ」という用語を使うのかを問題にしている。そして、過去を振り返るために知を蓄積して利用できるように仕組みとしているこの用語が「1950年代なら"図書館現象"という術語にあたる」としている。図書館現象は確かに第二次大戦後に図書館の社会的現象を記述するのに用いられた。今、その初出が何であったのかを確認する余裕がないのであるが、おそらくは第二次大戦後の英米の図書館学でブラッドフォードの法則のような計量書誌学やシカゴ大学GLS(図書館学大学院)の公共図書館利用者調査のような実証主義的な研究が現れ始めたときに使われた用語ではないだろうか。要するにそれまであいまいに図書館に関わるものを扱うプロフェッションの領域だった図書館学の対象を指す言葉であったと思われる。その文脈で言えば、私はGLSにいたピアス・バトラーとその弟子に当たるジェシー・シェラの思想を意識していることは確かで、彼等こそlibrary phenomenaそのものを扱おうとした人たちだったと考える。ただ、バトラーは西洋の人文主義に図書館を位置付けようとしたが、シェラ以降の人たちは実証主義に引っ張られすぎていた。そしてシェラ以降の図書館(情報)学の影響を受けた日本で、さらにいびつな形でそれが現れたことに対する批判が本書を書く背景にあったことは確かである。

次に小林氏はアーカイブの思想というときに、アライダ・アスマンの『想起の文化』(岩波書店, 2019)を引き合いに出して、記憶文化論では記憶がどのようにして残るのかという観点の重要性を強調する。この観点は書いているときにそれほど意識はしていなかったが、書き終えて、20世紀初頭にモーリス・アルヴァックスの記憶の社会的構築論の先行研究があり、とくに第二次大戦以降、アスマンも分析対象にしているホロコースト犠牲者の記憶問題は多くの研究が行われ、日本でも沖縄、ヒロシマ・ナガサキの追悼、慰霊と社会的記憶の問題、そして、阪神淡路大震災や東日本大震災(と東電原発事故)の記憶装置の問題と多数の検討が行われていることに気づいた。アーカイブの思想に関わる機関として図書館、文書館、博物館を意識しているから、当然この問題は避けて通れないと考えている。とりあえずは、JSPS科学研究費を申請して認められたので、今年から5年間河村俊太郎さんと「マージナルな歴史的記憶を負荷された地域アーカイブ研究」(22K12717)というタイトルの研究を行うことにした。

あとはその「記憶の残し方」として、『百科全書』の索引と江戸の類書の手法の違いの分析の必要性、私が日本の近代で図書館より出版自体がアーカイブの機能をもっていたと書いたことに対して古書流通に着目する必要性、NDLの調査及び立法考査局でも法令索引や国会の議事索引などをつくっていることなどの点が指摘された。いずれも、すでに日本でもアーカイブの実践が存在していることの再確認かと思われる。『アーカイブの思想』はまさに骨組みだけの本だから、個々に具体的に展開することによって豊かなものにつながると考えられる。そうした展開の際の指針を提供できたとすれば書いた目的は達成されたことになる。

アーカイブの思想のフォローアップ

最初の方のなぜアーカイブの思想なのかという問いであるが、それは図書館情報学ではなくて、日本で行われてきた人文学のコンテクストにここでいうアーカイブを位置付けたいという思いがあるからである。「思想」という言葉を使っているのもそうだし、サブタイトルの「言葉を知識に変える仕組み」もそうである。これらは人文学の中心的課題であるが、その一連の議論のどこかにつながることがあればよいのではないかと考えていた。

本書の刊行をきっかけにして、いくつかの学会や研究会、授業に招致されて講演する機会を得て、自分の考えを改めてまとめ直すことができた。その一部を示すと、

④「知識資源システムとは何か(図書館と知識資源の新たな動向)」『三色旗』(慶應義塾大学通信教育部)No.836, 2021.6, p.31-38.

⑤「図書館のアーカイブ機能とは何か」『大阪公共図書館大会記録集第68回 テーマ「「コロナ時代」の図書館運営』大阪公共図書館協会, 2021. p.50-51.

⑥「知のアーカイブ装置としての図書館を考える:ニュートン関係資料について」『短期大学図書館研究』40/41合併号 2022.3 p.103-110.

⑦「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ―『アーカイブの思想』を書いてみて」日本アーカイブズ学会 基調講演 オンライン 2022年4月23日

⑧「アーカイブの思想:知、歴史、美を時間軸で考える」東京芸術大学「創造と継承とアーカイヴ:領域横断的思考実践」 2022年6月9日

⑨「知は蓄積可能か アーカイブを考える」慶應義塾大学文学部「文献学の世界」2022年7月6日

私としては⑦や⑧でこれまであまり交流がなかったアーカイブズや美術館・博物館分野の方々と交流できたことがたいへんありがたかった。このうち、⑦と⑨は文章としてまとめることになっているので、いずれお目にかけることができる。⑧についても何らかの機会があればまとめてみたい。

最後に、私の本から半年くらい遅れて、西垣通著『新 基礎情報学』(NTT出版, 2021)が出た。この本の最後の方の今後の課題について述べたところで、本書に簡単に言及していただいている(p.227)。西垣氏は東大の情報学環で情報学の理論化に取り組んでいて、東大の会議で同席していたこともある。彼の基礎情報学はAIを批判し、情報という現象が人間を含めた生命体の選択的行為であることを強調している点で視点を共有している部分はあると考える。たぶんそれは、大沼氏も指摘していた『アーカイブの思想』の第8講で書誌コントロールやレファレンスを論じたところの重要性であり、図書館情報学が蓄積してきた知見が隣接分野に一番貢献できるところだろう。私自身も先の⑦の講演で自分自身の書誌コントロール論を再度引っ張り出す必要を感じた。それは結局のところ、図書館情報学もアーカイブズ学もアーカイブズやドキュメントの扱いが中心になるということである。だいぶ前にほっぽり出した書誌コントロール論に再度取り組む必要があるかとも考えているところである。たぶんそれは、別のところでやっている、学校図書館の理論とどこかで響き合うところが出るはずだ。

2022-08-05

文科省の学校図書館行政の展開

今年5月16日付けの当ブログ「「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」への意見」で、文科省のGIGAスクール構想について意見を送ったことを書いた。

「学校教育情報化推進計画(案)」について、公立図書館と学校図書館とを統一的に学習情報資源提供の場と捉えて、すでに存在する情報資源、資料や人的資源とを統合的に活用する条項を含めることを提言します。

という内容の提言である。これの効果があったのかどうか直接の関係は分からないが、最近8月2日付けで文部科学省総合教育政策局地域学習推進課長と文部科学省初等中等教育局学校デジタル化プロジェクトチームリーダーの名前で、「1人1台端末環境下における学校図書館の積極的な活用及び公立図書館の電子書籍貸出サービスとの連携について」という文書が都道府県教育委員会担当部局などに向けて送付された。学校図書館が「授業の内容を豊かにしてその理解を深めたりする「学習センター」や、児童生徒の情報活用能力等を育成したりする「情報センター」としての機能等を有する」として利活用をはかるように指示し、学校図書館と「公立図書館の電子書籍貸出サービスの ID を一括で発行している事例」を紹介してこれを推進しようとするものである。学校図書館が電子書籍を導入することは以前から文科省も勧めているが、公立図書館との連携を積極的に打ち出したことは今後のさらなる新しい動きにつながるかもしれない。

『日本図書館情報学会誌』68巻2号(2022年6月)に「戦後学校図書館政策のマクロ分析」という論文を掲載してもらった。いずれ本文もオープンになるが、今のところは抄録のみを示しておく。関心がある方は図書館等で閲覧していただきたい。

<抄録>戦後の学校図書館の法制度をめぐる教育法および教育行財政状況の変遷を公共政策論的なマクロ分析によって明らかにする。方法として「政策の窓」モデルを用いて,戦後教育改革期, 日本型教育システム期, 21世紀型教育改革期の3つの時期の学校図書館政策の議論の流れ, 政策の流れ, 政治の流れを検討した。こうして, 第2期まで文部省の教育政策の枠外にあった学校図書館政策であったが, 第3期になると言語力・読書力の向上というアジェンダによって, 課題であった司書教諭と学校司書の制度化, 図書費と学校司書配置への国費の充当などの政策が実施されたことを確認した。今後は, 現在の教育改革の次のアジェンダに沿った深い学びと学校図書館を結ぶための基礎研究が必要であることを述べた。

要するに学校図書館政策は一つの動きとみるべきではなくて、複合的な要因がからまって展開しており、現在も進行中と考えるべきだということである。そして、タイミングが重要であり、タイミングを逸しないためには十分に準備をする必要があるということである。さらに、現在は教育課程に関わって学校図書館政策を実現するのに重要な時期だということがある。最後の点については、①学習指導要領に探究学習の要素が多く入っていて学校図書館もそこにかかわることになっていること、②GIGAスクール構想で学習者が端末を操作してデジタル教材を使用する動きがあること、の二つの理由による。

このような論文を書いたあとに、まさにそれに関わる動きが認められたことは論文が実践的な意味をもったものと捉えられる。だからこそぜひこのタイミングを逸しないようしたい。そのために何をすべきなのかなのだが、とくに優先順位が高いのは教育課程や教育方法と学校図書館について理論実践両面から明らかにしていくことである。

私は教育課程と学校図書館の関係については十分に詰められていないと考えている。そのために、戦後間もない時期の最初の学習指導要領1947年版(試行版)で行われた教育実践面の研究を始めた。教育史や学校教育学ではこの時期にコア・カリキュラム運動があったが、その後指導要領の改訂によって挫折したということになっている。だが実際には多様な教育課程上の議論と実践があった。今、研究しているのは「図書館教育」である。教科を超えて図書館を柱としたカリキュラムを実践するというもので、戦後新教育との関係で東京学芸大学東京第一師範学校男子部附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)で実施されたものから始まっている。その半世紀後に塩見昇氏が雑誌『図書館界』で「図書館教育の復権」という論文を書いて強調された。それを受けた私の研究の成果は今年中にはお目にかけることができる。さしあたっては拙著『教育改革のための学校図書館』の第3章で簡単に触れたので参照されたい。

少し迂遠なようだが歴史的に戦後教育改革に遡る方法で教育課程と学校図書館の関係を明らかにしようと考えている。実践面では国際バカロレアとの関係や探究学習の方法を検討するSLILの動きにも関わっている。できることからやる他ないが、今回の文科省の動きは少し希望を持たせるものと受け止めている。

2022-08-02

この夏のわが家の異変

暑中お見舞い申し上げます。

毎日うだるような暑さです。今日の最高気温の予想はここつくばで摂氏38度とか。わが家もさすがに昨日は日中の暑い時間帯にクーラーをつけました。今日の午前中は扇風機を強にして当たっているとまあ過ごせるくらいかと思ってクーラーは控えていますが、午後には入れるかもしれません。



前にわが家の入り口にノウゼンカズラの樹があって毎夏にきれいなオレンジ色の花を咲かせると書いたことがあります。ところが今年は一旦咲きかけた花がその後しぼんでぱらぱらとしか咲いていません。上の写真は先ほど撮影したものですがこの程度しか咲いていませんでした。

前に書いたものを探してみたら、2017年7月9日「ノウゼンカズラの花とクロアゲハ」でした。すでに7月上旬で梅雨明けかと書いています。昔のじめじめと長雨が続く梅雨のイメージはここ10年ほどはなくなっていて、7月にはかなり暑くなっていたことが分かります。そしていったん咲き始めると夏の終わりまで間断なく次から次へと花がついていました。

今年は気象庁から関東甲信越は6月27日くらいに梅雨が明けた模様との発表がありました。今と同じような暑い日が何日も続きました。その頃に咲くために蕾のついた蔓が垂れ下がってくる現象が見られたのですが、花はうまく咲いてくれませんでした。その理由はたぶん最低気温にあったと思います。あの頃日中は暑かったのですが、夜から朝方はけっこう涼しくなっていました。そして、7月も中旬になったら「戻り梅雨」の感じになり、最高気温も30度を下回り、最低気温は20度そこそこまで低い日が続きました。こうなってくると、一度咲こうと準備したものが途中で働かなくなりその状態が最近まで続いたのかと思います。2度の梅雨明けがあったのに等しいなかで植物たちも適応するのはたいへんなのでしょう。

このあとうまく咲いてくれるかどうか見守りたいと思います。

追記:そういえば、昨年は千個以上の実をつけてご近所にもおわけしたスモモは今年はまったくだめでした。また、梅の実もだめでした。ただ、今なっているブルーベリーは当たりの年のようです。これらがどのようなメカニズムによるのかは、あまり手入れもしてこなかった素人には何ともいえないところです。

2022-07-26

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』感想


書いている時点ではまだ刊行されていないが、石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋刊)が7月末に刊行予定である。この本を版元から頂いたので一読した感想を記しておきたい。頂いたのはこの本のなかで著者によるインタビューがあって私の発言の一部が引用されているからである。

本書の概要

本書でいう国語力であるが、一般的には本を読むための読解力とか言語力のようなコンテクストにおいて理解されている。PISAの読解力(reading literacy)の点数が他のリテラシーよりも低いとか、大学生が中学校の教科書を正しく読めない(あのクイズまがいの質問にこたえられないことが読解力がないことの根拠に使われていたのには少々あきれたが)、大学生の半数は1ヶ月に1冊の本も読んでいないといった言説で言われるものである。が、本書で扱う国語力の幅はもう少し広い。というよりも、国語力とは言葉を使用する能力であり、言葉が人間の営みのもっとも基本にあるものとすれば、国語力の低下とは人間の営みが損なわれている状態だという、至極もっともな前提から始まり、前半はそこに焦点が当たっている。

冒頭には小学校4年生の授業で新美南吉『ごんぎつね』が取り扱われたシーンが紹介されている。その部分が「立ち読み」できるので参照されたい。子狐のごんは猟師兵十(ひょうじゅう)に悪さを仕掛けていたが、兵十の母親の葬儀がありそこで大なべにぐらぐらと湯が沸き立っているのを見かけるというシーンである。ストーリーはこのシーンをきっかけにごんは兵十が病気の母親に精のつくものを食べさせようとしていたことを悟り、逆に兵十に魚を届けるのだが最後に兵十に撃たれてしまうというものである。大人にとっても子どもにとってもストーリーはなかなか理解に苦しむものではあるけれども、個々のシーンは分かりやすい。そのなかで、教師は子どもたちを班に分けて鍋で何を煮ているのかと尋ねる。子どもたちは「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と答えたというのである。『ごんぎつね』でなぜこのシーンを議論させるのかという疑問もあるが、子どもたちの生活実感と教材の世界のあいだのズレを考えさせられる。

この話しを出発点にして、こどもの言語生活がいかに家庭環境そして、ネット、ゲームなどのメディア環境によって蝕まれているかについて論を展開している。たとえばゲームのプレイヤーどうしのことばのやりとりは「死ね」「ぶっ殺せ」「ざけんじゃねぇ」「帰れ、カス」というもの発しているだけで会話になっていない。そのことはSNS上で「あいつまじないわ」「きも」「きも」「さよーなーら」といった書き込みの連鎖につながっている。また、家庭環境についてはそうした言語生活を誘発するものになっていることが描かれる。不登校で一人家にいる状態、離婚による一人親に放課後放っておかれる状態、親の再婚で他の家族から疎まれる状態、ヤングケアラーと呼ばれる親の介護を余儀なくされる状況等々である。

本書の帯についている紹介文に「オノマトペでしか自分の罪を説明できない少年たち、交際相手に恐喝されても被害を認識できない女子生徒」という文がある。折り合いの悪い義父に呼び出されて外に飛び出しナイフで他人を刺した少年の話。「よくわかんない。あいつのせいで頭グリグリになった。目の前に人がいたんでバァーってやったんだ。...警察にガッってされてつれていかれた。」少女売春の少女との会話。「ー男たちに金を払ったのはなぜ?」「言われたから...サンキューって言ってくれる人もいた」「売春は嫌だった?」「そうだけど、他にすることもないし」「後悔してる?」「わかんない」これらは、少年院や福祉施設の職員に対して自分の置かれている立場を言葉で説明することができないことを指している。かつての「不良」や「非行」の少年少女は自分の行動に対する言葉をもち、仲間と会話していたが、今のそうした子どもたちの多くが孤独で、短く感情的な言葉を発し後は押し黙るだけだというのである。

本書はその背後に日本社会の経済格差があり、貧困家庭が増えていることを指摘する。つまり、言葉が貧困になっているのは家庭生活が貧困であるからで、本来、家庭のなかで基本的な会話や表現を学ぶ機会がないままに大人になっていくケースが増えている。そして、メディア環境がそこに忍び込み、ゲームやSNSにおける言葉を伴わない、ないしは短い言葉によるメディア上のやりとりで自足するような状況があることを述べている。家庭がもっとも基盤的な子どもたちの生育環境のはずなのに機能せず、さらに地域社会や学校社会から孤立化を進行させるときに、メディアが唯一の救いになるような状況は確かにあるだろう。さらには、メディア環境がサイバーカスケードないしエコーチェンバーのように、特定のコミュニティ内で自足しそのままそれが支配的なものを形成することがあり、未発達の子どもたちに強い影響を与えるのは大人とは区別して考える必要がある。著者は、特定のメディア環境が脳の発達に対して及ぼす影響についても言及している。

こういう状況に対する著者の処方箋の一つは、少年院で行われている「表現教育」と呼ばれる言語回復プログラムである。たとえばアンジェラ・アキの『手紙〜背景 十五の君へ〜』を朗読させ、現在の自分から将来の自分に宛てた手紙を書くというプログラムがある。先輩が読む手紙を聞いている少女たちは一様に感動の涙を流すという。また、小学校のプログラムとしては、積極的に本を読ませるが、と同時に体験型学習に力を入れてキャンプ、宿泊体験といったものだけでなく校外の自然環境を教材としてそこから学ばせる。また、教科を超えたアクティブラーニングを積極的に実施することで、本で読んで得た知識と実際の世界との関係のリンクをしっかりもたせることを行う。中高生の授業では言葉によるやりとりを重視したプログラムとして、ディベートや哲学的対話を導入している学校が紹介されていた。

感想

普段、学術的な文章ばかり読んでいてこうした一般向けのルポルタージュの文章を読む機会はあまりないから、本書を読んでみてプロのライターの取材力と文章力には驚かされた。これまでも国語の問題には注意を払ってきたつもりだが、このように家庭崩壊やいじめの問題、非行や少女売春といった社会問題にまで視野を拡げた文章はこういう機会でもないと読めないものだった。その意味で読む価値がある力作だと感じた。

以前に私自身国語教育について朝日新聞(2020年4月4日朝刊)の「耕論」欄でインタビューを受けて発言もしている。インタビューの依頼はそれに基づくのだろう。そのときは、日本の国語力が文学の読みに典型的な書き手の気持ちに寄り添い、その心情を適切に読み取って言葉で表現する力を要求してきたのではないかと述べた。他方、PISAの読解力の低下が示されたあとに論理国語の重要性が言われ、それが文学国語が対立するという議論があることに対して、文学にも論理はありそれを読み取ることについては論理国語のなかに包摂されるとも考えていた。私はすべての学力の基礎に国語力(言語力)があると考えていたので、この本がどのような展開と結論になるのかに興味をもっていた。

そうした興味に照らしてみると本書の意義と弱点が浮かび上がってくる。意義は、私もあまり意識していなかった国語力と生活力の関係を格差社会のコンテクストで浮かび上がらせてくれたことである。要するに義務教育で日常生活に必要なレベルの国語力が身につかないままに社会に放り出されている子どもたちがたくさんいることへの着目だ。そのことはさまざまな具体的な局面で論じられており、また、その対策としての少年院における表現教育のような事例が示されていて説得力がある。つまり、マイナスの生活力でスタートした子どもたちに対する事後的な救済プログラムが示されているわけだ。国語力の向上が生活力につながるという見方には大賛成だ。

最初の『ごんぎつね』のエピソードに意味をもたせるとすれば、子どもたちはすでに村の共同葬儀に参加する機会がもてないし、亡くなった人の遺体の処理がどのように行われるのかを見聞きする機会もないことをどのようにとらえるかが重要である。知識も経験もない子どもたちにとってこの部分だけを取り出して議論させられれば、上記のような反応が出てくる可能性は十分にある。このエピソードの後に教師がどのように指導したのかが示されていないので分からないのだが、本筋でない部分の子どもたちの反応がこのように現れたことから、昔の習慣や遺体処理ということについて考えるきっかけにすべきなのか、それとも古典的名作童話とされる話しがすでに教材として古いから差し替えるべきと考えるのか。また、ごんが兵十にしかけたいたずら、ごんから見た兵十と母親の関係、そしてごんの好意が仇になったことをどのように指導すべきなのかも気になった。国語が生活そのものと結びついているとすれば、このストーリーからは社会の荒波や人生の皮肉も学ぶべきなのだろうか。あるいは自己犠牲の精神のようなものをほのめかすのだろうか。古典とされる作品はさまざまな読み方を許すわけで、それが読み手が確認できればよいのだろうが、そのレベルの指導をじっくり行うことはなかなか難しいように感じる。(あるいは指導法にも定石があるのか。)

国語の意義を積極的に位置付けようとすれば何が可能であろうか。かつてこのブログで朝読(朝の読書の時間)が形骸化しつつあるのではないかと述べたことがある(「子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む」)。子どもたちにとっては勝手に好きな本を読む時間を設けるだけでは、本好きな子とそうでない子との間の差は埋めることができない。本書の前半に経済格差と教育格差の問題が述べられていたが、本への関心はすでにそれ以前の親の関心の違いによってつくられているのだから、ここには積極的な介入プログラムを導入する必要があるのではないか。たとえば、本書で述べられているような国語科を中心としたアクティブラーニングとも言うべきものが可能かもしれない。これは戦後間もないときに試みられたコア・カリキュラムの考え方とも近い。もっとも当時は社会科が中心とされたが。

だが、本書の最後の方で紹介されているのはカリキュラム上の工夫をしている学校の話しだが、公立校ではない。だから、経済格差が陰のテーマとなっている本書で読みたかったのは、やはり公立小学校レベルで生活力につながるような国語の授業ないし読書推進の試みをしている学校の事例である。国語の問題が生活や社会の問題とつながっているという認識はあまり一般的ではない。子どもの発達が就学前に家庭で育まれ、就学後は学校と家庭の総合的関係のなかで決定される。格差社会が現実のものであれば、子どもたちの生きていくための力が失われている状態に対して国語を中心としたカリキュラムの工夫が必要となる。家庭の方に問題がある事例が増えている現在、学校において基礎的な国語力をまず身につけさせるための手立てを考えていく時期にきている。


2022-06-15

朝日新聞の書評記事に関して


(紙面型の元記事は拡大できなくしてあります)

朝日新聞の5月28日(土)に掲載された私の書評記事が朝日のサイトに再掲されたので共有します。

https://book.asahi.com/article/14633053

この記事では次の3点を紹介しました。

・リチャード・オヴェンデン『攻撃される知識の歴史 なぜ図書館とアーカイブは破壊され続けるのか』(五十嵐 加奈子訳)柏書房, 2022

・小出いずみ 『日米交流史の中の福田なをみ 「外国研究」とライブラリアン』勉誠出版, 2022

・永田治樹『公共図書館を育てる』青弓社, 2021

ここではいずれも図書館にかかわりますが、まったく違った種類の書籍を紹介しました。編集者とのあいだで、「図書館専門職」と「インテリジェンス」という言葉を使用したこと、また使用する写真について少しやりとりをしました。

一つは、最初の本の著者オヴェンデン氏は英国の大学図書館でスペシャルコレクションを担当してきた人ですが、今はオックスフォード大学の中心館ボドリアン図書館の館長を務めています。こういう人を図書館専門職と呼んでよいのかということですね。

これについては同館のHPの紹介欄で、氏には写真の歴史や本書のような図書館史とともに図書館情報マネジメントの業績があることを伝えています。

https://www.bodleian.ox.ac.uk/about/libraries/bodleys-librarian#collapse2620226

この記事を見ると歴代の館長の紹介欄があります。館長のキャリアは概ね図書館畑で長年仕事をしたことが評価されてのもののようです。その意味で氏もまた図書館専門職と言ってよいと考えます。歴代の館長には図書館情報学の専門教育を受けてきた人とそうでない人がいます。オヴェンデン氏は専門教育は受けてないようですが(記事の特性上あれば触れていると思われるので)、前館長は女性でアメリカで図書館情報学の修士号をとったキャリアの持ち主のようです。いずれにしても、何らかの領域でPh. D.を持っていることは必須のように見えます。

小出いずみ氏の本については、福田なをみが日米の戦時体制とその前後の時期にインテリジェンス業務に関わったと書きました。図書館員がインテリジェンスというと不思議に思う人もいるかもしれません。アメリカでは第二次大戦時に図書館員がワシントンDCに呼ばれて外国情報の調査分析業務に当たっていたことはよく知られています。その部門、情報調整局(COI)は戦時情報局(OWI)を経て戦後に中央情報局(CIA)になります。小出さんはインテリジェンスの用語を使っていませんが、公開された情報の分析が図書館員の仕事の延長上に置かれていたことが詳しく書かれています。日本でも、国会図書館の調査及び立法調査局の業務は広義のインテリジェンスだと思いますし、ジェトロのアジア経済研究所図書館もまたインテリジェンス業務に携わっていると言えるでしょう。朝日の編集担当の方もその表現に別に違和感はないとのことでした。

永田治樹氏の本についてですが、この本は出たときに読売新聞と日本経済新聞に書評がありました。内容的には新公共経営論の考え方に近い図書館論という感じもしますが、イギリスの福祉国家的な公共図書館論が凋落した経緯やコミュニティ図書館論から多文化サービス的な図書館論が出てくる背景が分析され、それが、北欧の都市であっても財政難に悩んでいるなかで新しい技術とサービスの融合が図られる状況につなげて記述されます。私は、20世紀後半の「市民の図書館」は日本版福祉国家政策の一環と見てよい側面があると考えていますので、その後を考えるのにはふさわしい本だと思います。

この記事で使われた写真ですが、新聞紙面では小さく白黒なのであまりよく分からないのですが、画面上でカラー写真を見るととても図書館の写真には見えないですね。これは、岐阜市立中央図書館を訪問した人ならおわかりと思いますが、この笠のようなオブジェがいくつも広い館内にぶら下がっていて、その全体像の方がよく紹介されています。こういう感じなので今回の写真には最初違和感がありましたが、この記事自体が図書館をステレオタイプで見てほしくないというメッセージでもあったのでこれはこれでいいかと思った次第です。


2022-05-24

図書館市場についてのケーススタディ

本日、郵便物で「岩田書院新刊ニュース 集成版 2021.6-22.04」という冊子が送られてきた。歴史書の出版社岩田書院の新刊の案内DMなのだが、これに「裏だより」というのがついていていつもつい読まされてしまう。この出版社は社主岩田博氏が『ひとり出版社「岩田書院」の舞台裏 』(無明舎)という本を書いているように、一人で経営していること、そしてその舞台裏を明かしながら経営していることが特徴だ。『地方史研究』とか『アーカイブズ学研究』といったときどき見ている雑誌はこちらが版元だったとは今日この冊子をまじまじと読むまで気づかなかった。

今回の「裏だより」に「品切れ続出」という記事がある。出したばかりで品切れになってしまった図書が4点挙げられている。もっと売れたはずなのに売り損ねた本という扱いだが、そこで注目したのはそれぞれに刷り部数が書いてあることだ。以前から出版の経済学の必要性を唱えていたが、部数と価格の関係とそれが図書館でどのくらい購入しているのかが気になっていた。そこで、試しにということで2021年8月に出て3ヶ月で品切れになったという、倉石あつ子『蚕を養う女たち―養蚕習俗と起源説話』という本を取り上げて図書館蔵書を調べてみた。A5判上製本253ページで、価格は税別で5600円の本である。

内容的には最近多い女性民俗学の学術書で、類書に沢辺満智子『養蚕と蚕神:近代産業に息づく民俗的想像力』(慶應義塾大学出版会,2020.2)がある。著者倉石あつ子氏は跡見学園女子大学文学部教授を経て、安曇野市豊科郷土博物館、新市立博物館準備室という経歴がおありで、同じ民俗学の倉石忠彦氏が夫君だそうだ。

3ヶ月で品切れになったというこの本の刊行部数は、「裏だより」によると300部である。そのなかで図書館がどの程度購入しているのかを調べるというのが今回の課題である。ツールはカーリルを用い、CiNii Researchで補う。実際やってみて、カーリルは大学図書館についてもほぼ網羅していてCiNii Researchでしか検索できなかったのは2館のみだった。たぶん、今日たまたまWebOPACのシステムかAPIインタフェースが不調だったのだろう。

結果であるが、蔵書にしていた図書館は計173館で、内訳は県立31館、政令市5館、市町村立78館、大学図書館59館であった。300部に対する図書館での購入割合は57.6%であった。全体的な傾向は東日本の県が所蔵しやすく、西日本だと県立のみ所蔵かまったく所蔵していないという感じだった。養蚕というテーマからそうなるのだろうか。

興味深かったのはカーリルを都道府県別に検索していって、目立って所蔵する図書館が多かったのが群馬県と長野県だったことだ。隣接県でも県立図書館が所蔵し他は1〜2館しか所蔵してなところが多いのに、群馬県は8市町、長野県は県立プラス19市町で所蔵していた。その理由は明らかで、著者が長野県安曇野市の博物館にかかわっておられること、また、本書に長野県だけでなく群馬県の養蚕についての記述があることからくるのだろう。これらの県の図書館にとっては地域資料にもなる。

この数字をどう評価すればいいだろうか。こうした本だと公共図書館でもあと数十館購入しそうな気がする。また、大学図書館が59館しかないのは少なすぎると思う。おそらく大学図書館は公共図書館に比べて対応が遅く予算執行の関係で年度末になることもあり、購入したくとも買えない状況になっているところが多いのではないか。図書館市場で少なくともあと100部は売れたものと思われるが、それでも増刷まではいかないのだろうか。

出版市場の刷り部数データは一部のベストセラーを除いて公開されないものが多いが、岩田氏がデータを公開してくれたおかげでこういう考察が可能になる。他の本についてもやってみたい。また、異なったタイプの出版物についても同じようにやってみるといいだろう。そのためには出版社の協力が必要だ。

また、過半数が図書館で購入されていることが改めて分かった。しかしそれは刷り部数が300部という少部数だからだが、逆に言えば図書館が重要な市場でありこうした少部数出版を支えていることを示唆している。カーリルは書誌を検索すると貸出中かどうかも分かるのだが、これだけ所蔵されていても借りられていたものは10点もなかった(うろ覚えだが、そんなに違ってはいない)。つまり、これらは図書館が購入するから売れないという類いの図書ではないだろう。同社の出版物はすべて注文制で書店の店頭に並ばないという。とすれば現物を見るためには図書館に行く他ない。個人的経験からも、図書館の資料を借りて中身を確認してから購入した本は少なくない。その意味で、前に書いたように土浦市立図書館の蔵書には助けられている。少部数の学術出版物は図書館市場によって成り立つ出版物と言ってよいのではないかと思う。





新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...