2022-05-16

「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」への意見

 「学校教育情報化推進計画(案)に関する意見募集の実施について」(https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000235000)の締切が5月20日ということなので遅ればせながら、ぎりぎりで意見を送ろうと思い作文しました。(5月16日)

第1改訂 第3段落目の「理由」を加え、部分的に修正しました。(5月17日)

第2改訂 理由の7)の挿入を初めとした部分的修正をしました。(5月19日)

最終 文章を整えて提出しました。(5月20日)

ーーーー<最終案>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

図書館の研究者です。『情報リテラシーのための図書館』(みすず書房, 2017)『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会, 2019)などの著書があります。

【提案の骨子】

「学校教育情報化推進計画(案)」について、公立図書館と学校図書館とを統一的に学習情報資源提供の場と捉えて、すでに存在する情報資源、資料や人的資源とを統合的に活用する条項を含めることを提言します。

【推進計画の問題点】

現在、学習者自ら情報を探索しながら問題解決を行う探究学習が、さまざまな教科や学習の場で必要とされています。そのため、学校教育の情報化においては、ICTのネットワークや端末機器の整備に加えて、そこで提供するコンテンツの整備、収集・選択、提示が必要になります。しかし、推進計画では、「③デジタル教材等の開発及び普及の推進、教科書に係る制度の見直し」で触れられている程度で、インターネット上のコンテンツや図書館資料を学習情報資源として活用することが想定されていません。これはデジタル学習教材を開発すればすむことではなくて、重大な見落としだと考えます。

【本提案の背景】

戦後、文部省においてそうした学習情報資源の扱いを視聴覚教育やメディア教育と位置づけましたが、これをどこで扱うかで初等中等教育局と社会教育局のあいだで取り合いをしていたように見えます。結局、社会教育局に視聴覚教育課ができたことで一旦は市町村単位に視聴覚教育センター・視聴覚ライブラリーがつくられます。自治体単位にセンターを設け、そこから機材やメディアを学校に貸し出す方法をとったということです。しかし、視聴覚メディアは各学校でも放送教育とか学校図書館でも扱っており、中途半端なままにICT時代を迎えました。2018年の文科省の組織改革の際に生涯学習政策局(社会教育局の後身)情報教育課(視聴覚教育課の後身)は初中局に情報教育・外国語教育課として移り、さらに2021年にそれは修学支援・教材課と名前を変えました。情報メディア教育は全省一丸となって実施するというのが理由と聞いています。

他方、戦後まもない時期から視聴覚資料を学校図書館で扱い、そこにメディアスペシャリストとしての図書館員を配置する構想がありました。文部省の初代の学校図書館担当官深川恒喜氏(その後東京学芸大学教授)はこの構想を晩年に至るまでずっと主張し続けています。それは、アメリカでスプートニクショック(1957)以降、学校図書館は読書のセンターではなくメディアセンターとして位置付けられたからです。アメリカでは創造的な科学教育は、教員による課題解決型の学習法の提示とメディアスペシャリストたるライブラリアンによる教材資料の収集提供の組み合わせによって可能になるという考え方がありました。

ここで提案する情報教育の拠点としての学校図書館という構想は私の独断ではなくて、かつて初等中等教育局「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進などに関する調査研究協力者会議」の最終報告「情報化の進展に対応した教育環境の実現に向けて」(1998)およびそこにある二つの図「学校内の情報化と教育ネットワーク「学校内の体制と外部からの支援体制」で示されました。今回の提案はそれに、公立図書館との統一的運用のアイディアを加えたものです。最終報告では司書教諭がメディア専門職とされていましたが、担当部門が総合教育政策局に移り、学校図書館法が改正された現在では学校司書がその役割を果たし、司書教諭は教育課程との橋渡しをするとした方が現実的です。2000年代には「学校図書館情報化・活性化モデル地域推進事業」が実施されてこの方面の可能性を検討しているはずです。

【提案の理由】

今、日本でも従来の系統主義から探究学習の導入へと舵を切ろうとしているときに、同様に教育課程を支援するライブラリアンの存在が不可欠になります。そしてその支援方法にデジタル教材の提供も含みます。日本でも本格的にICT教育を実施することが必要になったときに、それを自治体を単位として統合的に管理できるように図書館をベースにした地域教育情報センターを設置し、学校図書館とネットワークで結んで自治体単位の情報メディア業務を推進すべきです。その理由は次のとおりです。

1)文部科学省においては、公立図書館、学校図書館行政が総合教育政策局地域学習推進課の下にあって統一的に扱いやすい。

2)探究学習で必要となる学習資源は公立図書館の蔵書として豊富に蓄積されている。電子書籍の導入も進んでいる。公立図書館と学校図書館はもっと密接に関わり、併設ないしは統一的に運営することも視野に入れやすい。

3)公立図書館は従来の印刷メディアあるいはパッケージメディアからデジタルメディアとのデュアルモードによるサービス体制を志向している。どちらかだけでなく両方の学習資源を提供するためのノウハウがある。

4)公立図書館は当該地域の地域資料のデジタルアーカイブ化を進めていて、これが探究学習のための学習資源として有効なケースが少なくない。

5)図書館司書は単なる資料の管理者ではなく、レファレンスサービスを行う資料やメディアの専門家として、学習者が探究学習を行ったり教員が学習資源を利用した授業を行うときの助言者、支援者になることができる。

6)学校図書館にも学校司書(ないし司書)が配置されるべきであるが、人件費他の関係ですべての学校にフルタイムの専任スタッフが配置できないとしても、自治体を単位にして公立図書館と学校図書館のスタッフを計画的に配置することができる。

7)新聞記事データベースやジャパンナレッジのような学習用のオンラインデータベース、電子図書館システムなどのデジタル情報資源は、すでに自治体単位で契約しているところも少なくないが、公立図書館と全学校図書館をまとめて契約をしたほうがシステムの保守管理等も含めて運用しやすくまた経済的である。

8) 著作権法31条1項では図書館資料の私的利用のための複製を可としているがその場合の図書館に学校図書館は含まれていない。また、昨年改正されて加えられた同法31条2項により、雑誌記事等の資料を公立図書館からメールの添付ファイル等で取り寄せることも可能になった。これらの点から、学習者が自ら利用するのに学習資源を外部に求めようとすれば、公立図書館に頼ることが増えることは間違いない。

元にした最終報告はすでに四半世紀前のものですが、基本的構図は何ら変わっておらず、デジタル化が進展した現在ではむしろ実現しやすくなっていると言えるでしょう。今回、強調したいのは、国会図書館がジャパンサーチやデジタルコレクションの公開などでデジタル化で先行しているように、図書館はICT活用のノウハウをもっているということです。これまで学校図書館はそこから取り残されていた感がありますが、公立図書館と一体的に運用することで大いに可能性が広がるものと考えます。





2022-05-15

早坂信子『司書になった本の虫』を読む


早坂信子『司書になった本の虫』(郵研, 2021)を昨年のうちに著者からいただいていたので、遅くなったがここに感想を書いておこう。感想というよりも本書を読んで考えたことと言ったほうがよいだろう。

早坂さんは1969年に宮城県立図書館に司書として採用され、37年勤めて2006年に退職した根っからの司書である。今でも本の虫が図書館に勤めるケースは少なくないだろうが、まず司書職採用が減っているから司書で勤め上げられる人がかなり減っている。まして公務員改革で法的な根拠のない専門的な職種は減らす方向にあるから、全国的に見てこういう働き方がかなり制限されることは間違いない。司書採用の人もどこかで管理職になるために他の部門に移ることを余儀なくされることもあり、そういう人はいずれ図書館に戻ってくるとしても、図書館だけにいる専任司書といえる人はほんとうに少なくなった。

そういう彼女がご自分がやられてきたことを振り返りながらも、それを近代日本の歴史的文脈のなかに位置づけた書物論、図書館論になっている本である。その期間は1970年代から1990年代という公立図書館の現代的発展期にぴたり重なっている。この時期の県立図書館で何があったのか。本書はかつて図書館にあって今はないものの話しから始まっている。製本、古書筆写、目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与、マイクロフィルム撮影といったものが挙げられている。もちろんこのなかで目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与は現在は図書館システム上での作業に置き換わっていて仕事そのものがなくなったわけではないが、MARCとシステム導入によって図書館員が資料そのものに向き合う機会はだいぶ減っている。製本、古書筆写、マイクロフィルム撮影もなくなったわけではないだろうが、図書館員自体がやることは稀だろう。外注するなり、デジタル複写で代替するなりの方法が採用される。

彼女が図書館員であった時代は図書館システム導入を進めそれによって仕事が軽減化された時代であった。彼女自身もシステム設計にも関わり、その移行の過程を直接知っている。と同時に、図書館員が資料そのものを直接手に取り検討する過程がなくなっていった状況についてもご存じであり、それに伴う図書館界の変貌に対して批判的であることも確かだ。だから、本書は図書館員がいかに資料に向き合うべきなのかを訴える後身への伝言となっている。

そのなかでは、たとえば、彼女が先輩から口酸っぱいほど言われたこととして、宮城県立図書館の蔵書が空襲で焼かれたことに対する責任ということがある。戦前の宮城県図書館は全館レンガ造り三階建ての書庫に13万冊の貴重な蔵書が置かれていた。そのなかには古典として養賢堂(仙台藩の藩校)本や藩から県庁に引き継ぎ移管された本などの貴重書が多数あったのだが、そのうち5千冊だけは疎開させたが残りは1945年7月10日の仙台空襲で全焼した。それはもちろん米軍の非軍事施設を対象にした無差別攻撃という文明に対する罪をまず第一に非難しなければならない。しかし、戦後の図書館員はむしろアメリカから恩恵を受けた面が強いからそのことについては忘れ、自らが救出できなかったことに対して後悔の念を強くもっていたという。それだけ管理する資料に対して強い責任感をもっていたからだ。

彼女がご自分の研究テーマとして、仙台藩の青柳文庫をはじめとして個人文庫に関心を寄せるのも、それぞれの文庫に収められた資料は単なる印刷本の集合体ではなくて集められた来歴とその後使用履歴が負荷され、全体として知的な営みがあることの重要性を感じているからである。青柳文庫は、仙台出身の商人青柳文蔵が、仙台藩に書籍3千部1万冊と文庫開設資金1000両を献上し、それを広く活用させるために藩の医学校があった場所に公開の文庫として設けたもので、明治以前に日本にあった公共図書館的機関として重要なものであった。

自らの研究テーマをもって研究することで資料への関心が深まるというのはかつての図書館員にとって普通のことだったが、これに対して1970年代以降の図書館員たちは批判的だった。最近でこそようやく郷土資料や地域資料に関心が向き、また、近世の文庫や戦前の図書館にも眼を向け始めているが、あまりにも高度成長以降の機能主義的図書館論に惑わされてきたのではないか。その機能主義にシステム化が加わると、周りの者からは図書館員の仕事は矮小なものとしてしか映らない。だから、何よりも資料の収集、保存、提供の一連の過程で資料に対峙することが重要である。この本から資料の専門家であることの重要性というメッセージを読み取ることができた。ここで資料というのは、デジタル化とまったく矛盾しない。デジタル化以前と以後、あるいはボーンデジタルも含めた資料(すなわちコンテンツ)そのものに向かい合わなければ専門職とは言えないだろうと思う。

全体としては日本の図書館に巣くうアンチインテレクチュアリズムに対する警告と受け止めた。先に書いたような専門職司書が減った理由が、日本社会全体がとくに新自由主義を背景にこのアンチインテレクチャリズムに走ったことにあり、図書館員も遺憾ながらそれに乗ってしまったのだろう。このテーマは私も別の関心から強い危機感をもっている。そのことについてまた書きたい。


2022-05-13

世界の図書館写真集

本日(2022年5月13日)の朝日新聞(東京版)朝刊の1面の下、いわゆる三八広告の一番右側に柏書房の広告があり、2冊の新刊書の1冊がリチャード・オヴェンデン著『攻撃される知識の歴史』という本だった。この本の副題は「なぜ図書館とアーカイブは破壊され続けるのか」である。そういえば最近他にも、ロバート・ベヴァン 著『なぜ人類は戦争で文化破壊を繰り返すのか』(原書房)という本が出ている。明らかに、今ロシアによるウクライナ侵略で起きていることの裏側で知識、文化破壊が行われていることに対する警鐘であろう。



オヴェンデンという著者にはあまりなじみがないが、英国オックスフォード大学の中央図書館であるボドリアン図書館の館長である。大図書館の館長は専門職でないことも多いが、この人は英国の複数の図書館に勤めてからボドリアン図書館に移ったきっすいの専門職図書館員である。書物の書誌学的な研究があるようだ。

類書としてフェルナンド・バエス著『書物の破壊の世界史』(紀伊國屋書店)という本があった。700ページもある大冊である。この本の帯に「50世紀以上も前から書物は破壊され続けている」という文言があり、はっとさせられた。西洋の歴史は古代オリエントから始まっているとされるが、要するに考古学や歴史学の対象として証拠となるものによって展開されるので、証拠となる書物が破壊されていることにも敏感になるわけである。書物の破壊は逆に言えば書物が残されたこととの対比で語られる。だからこそ図書館が果たす役割が重視されるのである。バエスの著書は図書館もまた歴史的には書物を破壊する側にも廻っていたことを明らかにしている。

書物の保存と書物の破壊は相互関係の下で語られるべきなのだ。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』はアリストテレス『詩学』の第二部は失われたものとされていたのに修道院の図書館が密かに隠していたことをテーマとするフィクションである。中世のキリスト教世界ではその教えに反する書物は外に出せないからで、それは実際にあったことだ。つまり、書物を世に送ることと隠すことの両方が可能な図書館という西洋思想史の陰の側面が浮かび上がる。

私はかつて『場所としての図書館・空間としての図書館』という本を出して、欧米の図書館が都市や大学における知的インフラとして重視されてきたことについて、現地を訪ねて見たり話しを聞いたりして確認してきたことをもとに論じたことがある。この本ではまずアメリカのワシントンDCがアメリカ人にとっての重要な聖地として存在し、そこで記念碑、博物館、文書館、図書館の役割が重要であると述べた。連邦議会図書館(LC)のジェファソン館中央の閲覧室を取り巻くベランダに知のさまざまな領域を代表する16人の賢者の彫像が置かれていて閲覧者を見守っているといった具合である。ここには、アメリカの知の構成が古代ギリシアから始まる西洋的な知の系譜をそのまま取り入れていることがはっきりと分かる。

日本で入手できる図書館建築写真集


ここでは、西洋的な知の系譜を図書館がどのように扱ってきたのかをひと目で分かる図書館写真集を紹介したい。ひとまずは破壊よりも継承の方に目を向けるということだ。破壊の現場を写真にはしにくいが、継承の現場は写真になる。そしてこれがすばらしい現場になっており、日本で翻訳出版されているものも少なくないのである。また写真集なので写真の質が高いこと、印刷製本などの美的な部分も含めて優れていることなどについてコメントしておく。サイズの小さい順から並べる。最後に大きさの相互の関係を示しておこう。

最初は、『世界の美しい図書館』(パイインターナショナル, 2014)という本である。小さい本だし装幀は簡易なもので、その分価格は1800円となっていてお手軽に図書館写真を楽しめる。日本の編集プロダクションで写真とその解説をアレンジして編集したもののようで、特定の著者はクレジットされていない。

世界の夢の図書館』(X-Knowledge, 2014)こちらも編集プロダクションで制作した写真集で上のものよりは上製本でサイズもずっと大きな版である。帯の「死ぬまでに行きたい!美しすぎる知の遺産」というキャッチコピーが示すようにややコンシューマー志向。ヨーロッパだけでなく、南北アメリカ、アジアにまで目配りしており、世界の有名図書館はカバーされているといえるだろう。


ギョーム・ド・ロビエ写真、ジャック・ボセ著『世界図書館遺産:壮麗なるクラシックライブラリー23選』(創元社, 2018)はもともとはフランスで出た本の日本語版である。写真家の名前がクレジットされているように、専門の写真家が撮った写真が豪勢で、3ページ分の横長の折込になった写真が数枚入っている。上製本である。収録されている図書館はアメリカの3館を除くとヨーロッパのものであり、それも大図書館は避けてどちらかというと小規模だが歴史があったり様式として重要だったりというものが選ばれている。通好みの写真集といえる。同じ本の英語版はもう1サイズ大きい。


ジェームズ・W・P・キャンベル著、ウィル・プライス写真『美しい知の遺産 世界の図書館』(河出書房新社, 2018)は、図書館史と図書館写真集を合体させた大型本でその意味で豪華な内容をもつ欲張りな本である。これが1万円弱なのは高くないと感じた。一点一点の図書館の写真が図書館の通史のなかに位置づけられているのでたいへん勉強になる。この本が最後に取り上げている図書館が電子図書館とかではなくて、中国の建築家李晓东の籬苑書屋という枯れ枝が外壁一面に貼り付られた籬(まがき)となった読書室であるのは何やら意味ありげである。


さらに大型本がある。Massimo Listri. The World’s Most Beautiful Libraries, Taschen, 2019. 縦46cm、横32cm、厚さ8.2cm、総560ページ、重さ7kgという大きさの超豪華本である。扱われている図書館は他の本に収録されているものが多いが、大きさからくる迫力は他の追随をゆるさない。価格は200USドルだそうだ。

あまりの大きさに取っ手付きの丈夫なダンボールの箱に入っている。



大きさを比べてみよう。こんなに違っている。



それにしてもここで紹介されている図書館は日本で図書館と呼ばれている機能的な建物とはかなり違ったものである。どの表紙カバーを見ても同じような意匠であることに気づくが、ゴシックとかバロック、ロココとかの美的建築的伝統様式の建物と内装のなかに書物を恭しくあるいは仰々しく配置することが、西洋の図書館の共通した前駆的なかたちである。何よりものとしての書物の存在自体を愛でて、そこに淫するがごとき経験が図書館と親しむ前提にあるのだ。そのあたりはボルヘスとかエーコあたりを読むとよく分かる。先の本『攻撃される知識の歴史』も著者オヴェンデンによるそうした書物への愛を横溢させており、それがなければライブラリアンはただの資料や情報の管理者になりさがってしまうだろう。西洋において図書館が知のインフラたりうるのはそうした思想的前提があるからだが、日本や中国では必ずしもそうではなかった。武雄のTSUTAYA図書館を皮切りに、その思想のイミテーションが流行ったのはご愛嬌だが、先の籬苑書屋のような施設が西洋から見てある種の理念型と通じているとすれば、再度、原点を探り直す必要があるのだろう。










2022-05-02

SLIL(スリル: School Library for Inquiry Learning)について

SLILという研究グループが立ち上がっていて、私はその顧問ということになっているので、この場で少し説明させていただきたい。まずSLILという不思議な名称はSchool Library for Inquiry Learningの略称である。あえて日本語に訳すと「探究学習のための学校図書館」となる。このグループのメンバーは昨年11月23日「国際バカロレアと学校図書館」の公開シンポジウムの運営に関わったメンバーである。メンバーの自己紹介がアップされているので参照していただきたい。

学校図書館の役割が読書資料の提供という従来型のものにとどまらず、教育課程に直接関わることが重要であることは常々多くの関係者が述べていることである。しかしながら、それがどのように実現されるのかと考えてると困難な面が多かった。そうなった理由として、司書教諭と学校司書という法的な資格の問題、養成課程の問題、教育職と事務職の関係の問題、正規職員と非正規職員の問題など人的な側面が語られることが多い。だが、別の立場からすればそれは逆で教育課程に関わらない仕事は学校のなかでは重視されないということになる。このあたりの政策論については、近々、論文を学会誌に掲載予定であり、出たらまた報告したい。

だから、図書館の仕事のどの部分が教育課程に関わるのかの見極めが重要である。それもこの数年が重要だと思う。なぜなら、次の学習指導要領改訂を睨むときに今こういうことができるという実績を上げることが大事だからだ。こういう問題意識のもとで、ここ何年か国際バカロレアという学校図書館を教育課程に組み込んだカリキュラムのことに取り組んだ。それについては、別の記事を参照していただきたい(2021-09-03, 2021-09-23, 2021-10-12)。去年の11月23日開催のシンポジウムの報告や科研の報告をしなくてはならないと思いながらできていないのでこれから行うことにしたい。

ここではこのシンポジウム開催を元にして始まったSLILの研究会が、学校図書館や教育現場の方も含めて、探究学習とは何か、学校図書館はどのように関われるのかについて議論の場にすることについて紹介してみたい。探究学習そのものが新しい学習指導要領では重視されているがその理解は人によってさまざまであり、学習者主体の学習ということでの共通理解はあってもそれ以上は、協同学習に重きを置く人、ディスカッションや発表に重きを置く人、教室外の学びに重きを置く人などいろんな方法がある。そのなかで学校図書館を学びの場にする探究学習とは何をすることなのかについて、本格的に研究してみようというものである。

5月22日に予定している第一回のワークショップは、シンポジウムでも講演者として登場したダッタ・シャミ岡山理科大学教授をファシリテータとしてオンラインで開催する。ダッタ先生は日本の国際バカロレア教育自体において主導的な役割を果たしている方であり、日本国際バカロレア学会副会長をお務めである。インドの出身と伺っているが日本語も堪能な方である。日本の学校の事情にも通じたこの方から国際水準で進められている探究学習の方法を伺い、参加者が互いに経験と意見を交換しながら日本の学校図書館の場で探究学習の推進に貢献することについて議論できれば目的を達成することになる。いろいろと言われていてもなかなか進められない探究学習についての疑問を出し合い、いいアイディアの交換につながることを期待している。

そしてそういうやりとりが学校図書館の新しい側面を引き出し、ノウハウの蓄積が行われ、それが学校図書館の評価の向上に結びつくだろう。蓄積されたノウハウは研究によって抽出されて学校図書館員養成に反映され、それが次の政策的課題につながる。こうした循環を望んでいる。スタッフで議論したときに、参加者は別に学校図書館関係者に限らず、教員、そして大学生でも、あるいは中学生、高校生でもいいのではないかとした。皆さんのまわりで探究学習に熱心に取り組んでいる生徒さんがいれば声をかけていただきたい。この場に学習者の生の声が反映されれば大いに刺激になるだろう。







2022-03-07

月刊『みすず』最近読んだ本

恒例の月刊『みすず』2022年1月/2月号「最近読んだ本」への寄稿です。 


根本彰(図書館情報学、教育学)

1 辻本雅史『江戶の学びと思想家たち』岩波書店、2021(岩波新書) 

本書はこれまでの近世思想史を踏まえ、ここ 30年ばかりで急速に展開した近世の教育文化史研究の成果を展望しつつ、日本特有の身体的学びとメディアの型の関係を論じているところが興味深い。素読において声に出して表現する知の働きが、出版というメディアを経由し幕末の私塾の講義、会業、そして近代の学校の授業においてどのように身体化するのかが述べられている。⻄洋近代の書物の取り扱いと日本近代の書物の取り扱いの違いがどこからくるのかを考察するためのヒントが得られるように思う。

2 野間秀樹『言語この希望に満ちたもの―TVAnet 時代を生きる』北海道大学出版会, 2021

 同じ著者の『言語存在論』(東京大学出版会, 2018)を読んでいる最中に、その実践編であるこの本が出たので先にこちらを読み了えた。まず主体の意があって言語が発せられるのではなく、言語とは主体と主体のやりとりの過程であり結果そのもので、その言語場でのやり取りが意味や情報とされるものなのだというように従来の言語論を逆転させている。言語場は、対面の話し言葉と切り離されて、テクスト(T)、音声(A)、視覚(V)のネットワーク(TVAnet)として独り歩きするようになった。この捉え方によって、言語論と情報論を統一的に扱うための契機が生まれている。著者自身による表紙や標題紙のデザインや巻末に付けられた詳細な事項索引、本当に図が縮小されて載っている図版索引は、モノとしての書物を通じた情報アクセスという場を扱う図書館情報学の立場からも興味深い。

3 メグ・レタ・ジョーンズ(石井夏生利監訳 加藤尚徳ほか訳)『Ctrl+Z―忘れられる権利』勁草書房, 2021

言語場の議論に加えるべきものがあるとすればそれは時間軸である。人間の記憶、集団内の慣習を超え言葉が一旦外部に出たとき、記録や情報が蓄積され必要に応じて参照されうる。歴史やジャーナリズム、学術はこれによって成立するが、そうした言語場での個人情報の扱いは難しい。とくに蓄積された 情報がネット社会において随意に呼び出せるようになるとき、過去のものをどのように扱うかという問 題が生じる。これがネット事業者へ特定個人情報の消去を求める「忘れる」ことを要求する「忘れられる権利」である。これを認めるか否かを論じる場は、ネット空間そのものではなくそのための法学的な 議論の場(法廷の場およびアカデミックな場)である。本書は、検索エンジン事業者は過去データの管理者なのか、グローバルな事業者の地理的な適用範囲をどう捉えるか、さらに事業者の個人情報管理責任の範囲と要求者がネットからの個人情報削除を要求する権利の範囲とをどのようにとらえるかというような複雑な問題場を理解するのに好適な本である。

4 松永昌三ほか編『情報文化』朝倉書店, 2020(郷土史大系―地域の視点からみるテーマ別日本史) 

この大部の歴史書シリーズの出版は、20 世紀後半に郷土史→地方史→地域史というように名辞の変遷があった領域が再度、郷土史へと回帰したことを示しているようにも見える。ここには、住んでいる人たちのヴァナキュラーな価値を重視する姿勢が前面に出されている。このシリーズに本巻『情報文化』および『宗教・教育・芸能・地域文化』(吉原健一郎ほか編, 2020)のような言語場を取り上げる巻が入 ったことは注目すべきである。

2022-01-17

土浦市立図書館の簡易蔵書調査

土浦市立図書館を利用していることについて前からここで発信している。できたばかりの中央図書館に行ってみたときの報告はここを見てほしい。また、比較的近いところに新治分館があって利用しやすい。この図書館の蔵書管理システムは、中央図書館や他の分館にある資料を取り寄せることができるのだが、どこにでも返すことができるだけでなく、返した図書は一部を除くと返した図書館に置かれる。つまり、蔵書は全館で動的に管理するという考え方っをとっている。これを繰り返すと分館の蔵書が自分好みのものになっていくのはいいのだが、それによって蔵書に偏りが出てくる可能性がある。このことの功罪についてはまた語ることにしたい。

ここでは今から1年半前に行った土浦市立図書館の簡単な蔵書調査の結果を示しておきたい。これを実施したのはここの蔵書がずいぶん堅いという印象をもったからだ。これは私のような興味関心のものからすればありがたいことでもあるのだが、これで本当にいいのだろうかとも感じたので実態を把握したいと考えた。ここに示す表は、2020年7月下旬のある日の時点で、土浦市立図書館の2020年6月のベストリーダー10点と人文会ニュースに掲載された新聞に書評された本(2019年6月下旬〜7月上旬)13点の所蔵数(分館を含む)と貸出数を調べ、さらに小山市立図書館と日野市立図書館の蔵書数と比較したものである。

ベストリーダー*という表現は公共図書館関係者が好んで用いていたもので、貸出数の多いタイトルのことである。それに対して新聞書評された本は教養書、専門書が取り上げられやすいので、比較するために取り上げた。土浦市に対して、小山市(栃木県)と日野市(東京都)の図書館を引き合いに出したのは、人口規模が類似していることと、東京都心からの距離が近い大都市近郊という意味合いで近似性があるからだ。だが、小山市は似ているだろうが日野市は明らかに東京のベッドタウンとして発展したところで都市としての性格を異にするし、何よりも「市民の図書館」のモデルとされるところであるので、そのモデルとの関係をみる意味を含めて選択した。

まずベストリーダーだが、ここに上がっている著名作家の文芸書について3館とも手厚く複本をもって提供している。土浦が10タイトルに対して55点、小山が67点、日野が167点の蔵書であった。日野が土浦の3倍の蔵書(複本)をもつことが目を引く。このあたりは図書費の相違、複本提供の方針の違い、住民構成の違い、分館・地域館の設置密度、図書館サービスの歴史的な定着度などの要因を考えなければならない。土浦と小山を比較すると小山の方が複本が多い、図書費が少ないのに複本が多いからこうした貸出が多い本を土浦よりは積極的に提供しているのだろう。また、新聞書評になった図書については、土浦と日野はほぼすべての本を所蔵していたが、小山は5タイトルのみだった。こうした本の貸出であるが、土浦ではすべて貸出なしであり、小山と日野で1冊のみであった(赤字が貸し出されている本)。

以上の結果をどのように解釈したらよいだろうか。土浦と小山を比較すると土浦の方が図書費を多くもちベストリーダー以外の教養書・専門書にも配慮していることがうかがえる。日野はさらに図書費が多くどちらも手厚く提供しているということができるだろう。土浦が専門書にも配慮していることはこれで明らかになったが、ここでは全国紙の書評に取り上げられた図書という縛りをかけているので専門書の一部にすぎない。専門書は価格が高く読者は限られるのでまんべんなくということは難しいが、書評という篩いは有効ではあるだろう。あとは、図書費の金額次第ということができる。また、図書館の書架および書庫のキャパシティの問題もあるかもしれない。土浦の中央図書館はまだできて間もないので余裕があるということも言えるだろう。こうしてみると、ベストリーダーも教養・専門書もどちらも入れている日野市立図書館がすぐれた実践を継続していることを確認できたということができる。

利用が多くない資料を入れていることについては別に議論しなければならないだろうが、ひとまず、こうしたものはいずれ利用されることを待っているアーカイブ的な蔵書と考えるべきである。アーカイブに対する考え方は拙著を読んでいただきたい。また、この簡単な調査からも、土浦市立図書館の蔵書はバランスがとれたものといってよいのではないだろうか。


*ベストリーダーという言葉に関する補足

ベストリーダーとは、best sellerから連想してつくった用語だろうが、和製でそれも図書館界でしか通用しない言い回しだし、英語としては誤用だろう。best readerは最良の読み手あるいは最良の読み本(教科書)という意味になり、たくさん読まれたという意味にはならない。sellもreadも対象はbooksであり、well sell/ well readからの派生と考えられるが、「よく売る」とはたくさん売ることであるのに対し、「よく読む」のはよい本を適切に読むことである。たとえばHe's well‐read in history.という用例があるが、これは、歴史の本をよく読んでいるという意味で、歴史に精通していることになる。あきらかに本を売るのは商人であり、本を読むのは読み手である。売る行為と読む行為は主体と目的が違うのである。近代ヨーロッパで本が印刷術によって普及した時期は、資本主義の発展期であると同時に知識人による学術、科学、ジャーナリズムなどの発展期であったから、出版関連のことに関しては経済行為であるとともに知的行為であるというような区別があった。これは現在でもそうである。日本の図書館関係者がベストリーダーという言葉をつくったのは、公共図書館の発展期が新自由主義が昂進し図書館が経済行為に近いところに位置付けられた時期だということをいみじくも示している。




2021-12-26

国立国会図書館デジタルコレクションの凄さ

日本のデジタル化が遅れているという認識の下に、国がデジタル庁をつくって音頭取りをするというご時世だが、国がやっているデジタル関係の事業で文句なくすばらしいと言えるものは国立国会図書館(以下NDL)のデジタルコレクションのサービスである。これは私が同館に関わりがあることを差し引いても断言できる。そしてこれが来年からさらに拡張されて、誰もが来館せずにネットアクセスできることになっている。このことはあまり知られていないのでここで自分で利用した体験を含めて紹介してみたい。

これまでのデジタルコレクション制度の概要

国立国会図書館は国の唯一の法定納本図書館である。法定納本制度は、国内で新しい出版物を出したらそれを同館に納入することを出版者に義務付けるものなので、同館には国内出版物が網羅的に所蔵されていることになる。もちろん実際には出版物の定義の問題があるし、制度の実効性の問題があり、納入されていないものもかなりあるのだが、主たるものは入っていると考えてよい。

そこでこのデジタルコレクションサービスとは何かというと、NDLが法定納本制度ほかの方法で収集した資料(図書、雑誌等)のなかで絶版になったものを保存目的でデジタル化し公衆に向けて公開(公衆送信)するものだ。デジタルコレクションのページはここある。このページでキーワードを入れてみてほしい。そのキーワードを含む書誌データ(目次に含まれるメタデータ(文字列)も含む)が検索される。

デジタルコレクションのトップページ










これは2012年の著作権法改正(31条2項、3項の新設)で可能になった。概要は次のとおりである。全体の正確な条文は他を参照してほしい。

2項 国立国会図書館において、図書館資料の原本を保存し公衆の利用に供するため、又は絶版等資料を自動公衆送信(送信可能化を含む)に用いるためディジタル化することで記録物を作成できる。

3項 国立国会図書館は、絶版等資料に係る著作物について、図書館等又はこれに類する外国の施設で政令で定めるものにおいて公衆に提示することを目的とする場合には、前項の規定により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて自動公衆送信を行うことができる。この場合において、当該図書館等においては自動公衆送信される当該著作物の一部分の複製物を作成し、当該複製物を一人につき一部提供することができる。 

要するにNDLは資料保存や絶版等資料の提供のために資料をデジタル化し、絶版等資料のデジタル化したものを図書館に公衆送信して利用者に利用させることができるし、コピーの提供もできるということである。

第2項はそのなかで絶版になったもの、つまり、市場で入手できなくなったものをデジタル化することが可能なことを規定している。 こうして絶版等資料(図書・雑誌・博士論文等)の網羅的デジタルコレクションがつくられている。そして、第3項はそれを公衆送信することで図書館等の機関で公衆に提供できることが規定されている。

ところで、インターネットでNDLのデジタルコレクションが見られるのは著作権の保護期間が過ぎたことが確認できる一部にすぎない。現在デジタル化資料が約276万点あり、うち55万点がインターネット公開、 約152万点が図書館を通じての利用、 約55万点がNDLの館内利用ということである。だから現在は図書館への公衆送信を利用しないと多くのデジタル資料は見られないことになる。

図書館でデジタルコレクションを利用してみた

これまで、図書館への公衆送信のものが利用できるとかNDLに行けば全部を見ることができるということは知ってはいても、利用しようという気にはなれなかった。それは身近に紙ベースの図書館がありそれを使っていれば事足りていたからである。ところが、以前から、戦後の占領期の図書館制度や戦後新教育の研究などをやっていたのだが、改めてこれを見直そうと思ったときにこのデジタルコレクションを使えるのではないかと考えた。それで先程のページで検索をかけてみて驚いた。これまで、WebOPACやCiNii Articlesなどで検索して数十の文献しかヒットしなかったものがいきなり数百のオーダーでヒットしたからである。

その理由はすぐに分かった。従来の図書館の目録は図書を検索し、CiNii Articlesは雑誌論文を検索していたが、今では両者を同時に検索することができる。しかし、デジタルコレクションの強みは図書に含まれる目次単位のメタデータが検索対象になることである。文献資料には、論文集とか全集・著作集、講座ものなど複数の人が寄稿する集合的な著作物がある。これらにある個々の論文・記事は目次で示されるが、これを著者名付きで検索できるようにしたことがこのシステムの大きな特徴である。従来、これらは表示されることはあっても正式な検索の対象になることはあまりなかった。最近の出版関係の書誌データベースで目次情報がついているものは多いが、著者名まで入っているものは少ないし、それを著者名という特性で検索できるようにしているものは少ない。NDLのデジタルコレクションはこれを入れて著作内の個々の文献の著者名検索を可能にしている。それにはNDLの長年の書誌情報作成のノウハウが生きていると考えられる。

下が「深川恒喜」(戦後の文部省で最初に学校図書館行政を担当した人)で検索した例である。ここには個別に図書館で探せばコピーできた資料もあるが、この検索で初めて存在を知った資料もかなり含まれる。特に「目次」とあるものはNDLがデジタルコレクションを作成する際に入力したメタデータであり、これに助けられている。

「深川恒喜」での検索例

それで多くの文献がヒットすることは分かったが、このコンテンツを利用するためには図書館に行かなければならない。現在これが使える図書館は全国に1250館ほどあるらしい。公立図書館でも中央図書館的位置づけのところならたいていは使えるようだ。ということで、行きつけの市立図書館に行ってみた。3階に専用の端末が置いてあり、そこで使用したい旨を告げるとすぐに使えた。これにより一気にデジタル化資料276万点中の207万点が使えるようになった。使い勝手はすごくいい。検索画面は分かりやすく、検索レスポンスは速い。また、検索結果の画面は見やすい。コンテンツを見ようとすると瞬時に表示してくれるし、見開きのページを拡大縮小するのも楽だ。表示をタイトル順や出版年順に並べ直すことも、別のページに跳ぶことも容易にできる。もちろん、戦後まもない頃の質の悪い紙に印刷してあるので色が変わっていてその意味では読みにくいがこれは仕方ないだろう。NDLのそもそものデジタル化の目的はそうした資料を保護することにあった。プリントしたければ著作権法の範囲で可能で、ページ番号を知らせれば手作業で職員がプリントしてくれる。プリントの質を自分で調整する機能もついている。ということで、ソフトウェア技術の進歩に驚かされた次第。

後日、NDL本館に行ってこれを使ってみた。本館の1階のかつてカード目録が並んでいたエリアは全て端末が並んでいて壮観だ。本館全体で370台の利用者端末があるそうで、そのうち1階エリアに何台あるのかは不明だがその半分くらいはありそうだ。そこで他の図書館と同じように使用可能だが、ここで使うことにはさらに2つのメリットが加わる。ひとつは、NDLでしか見ることができないデジタル資料のコンテンツを見ることができることだ。もうひとつはプリント機能が自動化されていて自分でページを選択してプリント請求をすることができ、最後にまとめてプリントアウトを入手できることだ。料金は若干高い(といっても白黒A3までなら1枚17円)が使い勝手はいいし、時間がかからない。受け取るための待ち時間もあまりない。

デジタルコレクションの一般公開

今のところこのようなサービスはNDLないしは最寄りの図書館に行かなければ受けられない。だが本年度の著作権法改正により、来年より利用登録すればどこからでもこのコレクションにアクセス可能になるという制度改革が行われた。細かいところは省略してどのような制度改革が行われかを見ておこう。同法31条3項の改正と4項から7項の追加が行われたのであるが、法改正の際の説明資料がわかりやすいので、そこからコピーした図を使って説明する。朱字の部分が今回の改正で可能になるところである。要するに、図書館に行かないと見ることができなかった資料を利用登録さえすれば自宅からでも自由に見ることができるし、プリントもできるというのである。





利用できる資料の範囲であるが次のようになっている。












一般に入手困難であるとされる資料に限定されるのは、もともと資料保存対策から始まっているからである。NDLでは民間の商業出版やサービスに影響を与えないことを優先してこれを実施しようとしている。だから、商業雑誌、コミック、すでに出版されている博士論文をここに含めることは予定されていないようだ。著作権の保護期間が2018年より50年から70年に伸びた。ということはネットで自由に利用可能になるには著者の死亡後70年過ぎなければならないことになり、1968年までの著作物が2038年になってその後1年ずつ保護が解けることで著作権切れ著作物が増えていくことになる。

だから、この事業の価値は著作権が継続する資料群のなかで「絶版等資料」をできるだけ広い範囲で認定することにあるだろう。現在の書籍出版においてはたいてい電子データが作成されるから、電子書籍化が作成可能である。そうなると常に入手可能になるからここでいう「絶版等資料」の範囲は狭められることになる。現在、商業出版社はそのことを想定して電子書籍の開発を進めており、だからこのようなNDLのデジタルコレクションの動きにも反対していないのだろう。つまり、商業出版と図書館の役割の分担は今後も続くことが前提になっていると思われる。

とはいえ、この新しいシステムは人文社会系の研究者のみならず一般の人も含めて20世紀に出た書籍のかなりのものが自宅で読める可能性をもたらす。紙資源をデジタル化してアーカイブ的活用することで重要な貢献となるものと思われる。願わくは、これが一般公開されたときの使い勝手やレスポンスなどにおいて現行レベルのものが保持されることだ。今回、じっくり使ってみて素晴らしいと感じたのでのまま使えるようになってほしい。



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