こうした状況は今に始まったことではないかもしれないが,少なくとも20世紀後半には政治家も官僚ももう少し言葉に対して責任をもっていたと思う。図書館情報学は言語表現された媒体を扱う領域であるから,言葉がこのように軽く扱われることについては大きな危機感を覚える。考えてみれば,日本で公文書管理がずさんであることや公文書館が貧弱であることと,図書館はそれなりにつくられていても司書を専門職としてこなかったこととは密接な関係があるだろう。文書は一回性の事象の証拠となるドキュメントであり,図書は普遍的な知を記録したドキュメントである。どちらも記録して集め組織化してあとで再利用するものである。日本社会は,ドキュメントの再利用に抵抗があるようだ。おそらくは,同質集団における関係が前提となった身体的なコミュニケーションがベースにあるからだろう。
ここ数年,ロゴスという言葉に惹かれてきた。これは,古代ギリシア語に端を発する概念で,言語,理性,法などの意味を有するとされる。この言葉が西欧の哲学のなかでどのような位置づけになるのかは,岩田靖夫・坂口ふみ・柏原啓一・野家啓一『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(有斐閣 1993)に概説されている。重要なのは西欧の思想が今に至るまで一貫して,このロゴス(理性主義)を基軸として形成されてきたということである。この本でも,中世にはキリスト教神学がギリシア哲学のロゴスを否定的に扱ったことが書かれているし,近代以降ロゴスがもたらした科学技術が人間社会に与えた負の遺産が語られている。だが,ロゴスの発動が西欧社会の発展をもたらしたことについていささかもゆらいではいない。
ロゴスが言葉であり理性であるというのは,人は言葉を発し,書き記すことで自らの思想を生み出しそれを他者に伝え,蓄積し,必要に応じて取り出して参照するという,そうした知的営為が結果として社会を発展させる原動力になったということである。そこでは,図書館や文書館のようなアーカイブの機関が重要な役割を果たす。それはアーカイブこそが権力とそれにまつわる知の源泉を示すものだからだ。諸元に帰ることで権力と知のありようについて再考する機会を重視する再帰的な作用が組み込まれている。西欧の近代図書館は,中世以来の教会や修道院の図書館とともに,王侯貴族が宮廷に知識人の交流の場としてつくらせたものであった。そこでは知の言葉を凝縮した書物を置くことで,徹底してロゴスの機関であることを誇った。図書館情報学の出発点もそこにある。
明治政府の近代化路線は西欧社会の模倣で始まった。そこではこうした知的営為は限定されたかたちでしか導入されなかった。なぜならば,知は輸入して翻訳すれば手に入ったからである。帝国大学はそのための機関であり,西欧的な知を導入して日本的なコンテクストに置き換えて再配布することを使命としていた。日本の近代化はロゴスの自律的発動を嫌い,入れるべき知を限定し,国定教科書にまとめ直し,学校で習得させた。暗記中心の教育になるのはそのためである。
私は図書館情報学の研究をするうちに,以上のような日本社会,とくに教育システムがもつ歴史的な特性と限界に気づいた。日本人は江戸期までは中国というモデルがあり,近代以降は欧米というモデルがあり,いずれもその知を自らのコンテクストに合わせて咀嚼しながら導入した。それは現在に至るまで教育システムを支配してきた。これは自ら問題意識を構築し解決する人の出現を妨げてきた。モデルに倣って近代化を進めるうちはよかったが、近代化を達成した後は逆にそれが桎梏となっている。
最後に,国語教育の話をしておきたい。学校教育が自ら考える市民の育成を目的とせず,国に従属する臣民教育であったのは事実である。学校図書館は本来,学校における各教科のための知的基盤を構成するための施設のはずだったが,読書推進の役割しかもてなかったのは,学習者が知を自ら構築するという考え方が欠如していたからである。今,新しい指導要領において「探究」の言葉が散見されるわけだが,教育関係者がどこまで本気でカリキュラムを変更しようとしているのかは疑問である。
読書というと誰もがよいものであるということで思考停止してしまう。ともかく小学生までに読書の習慣を身に付けましょうといい,かなりの国家予算が子ども読書推進に充てられているが,実は,今の中等教育および高等教育を進めるだけでは,本を読み考える市民は生まれない。むしろ本を読ませるべきは中高生,および大学生なのだ。論理国語はこのようなコンテクストにおいてとらえるべきだろう。
では,人文的な分野の方法はなにかといえばそれは言語に基づくものである。言語を理解し,発し,やりとりする力である。数学があれほど一貫した体系で進められているのに,国語はそうではない。漢字の読み書きができるようになるとあとは文学的鑑賞を中心とするものに移行していた。本当はクリティカル・シンキングを含めた文章の読み書きの方法を学び大学での学びにつなげていかなければならないのに,そうではなかったのだ。
今後は,これらの問題について,歴史,思想,国際比較の観点から研究を続けていくつもりである。