【書評(根本彰)】稲垣行子著『公立図書館の無料原則と公貸権制度』日本評論社,2016,421p.
『日本図書館情報学会誌』 63巻1号, 2017.p. 45-46,の再掲載
本書は,著者が中央大学に提出し,2014年7月に博士(法学)を授与された論文をもとに加筆訂正され出版にいたったもので,図書館をめぐる法的状況に取り組んだ意欲作である。
これまで出された図書館法規の解説書の多くは実務家向けのものであったが,近年,図書館についての法学研究が出始めている。法学研究には大きく分けて,法制史や法哲学などの基礎法学と,実定法を扱う実証法学があり,後者はさらに法解釈論と立法論に分けられる。多くの法学研究および法学教育は,実定法を法源として検討する解釈論をベースにして行われている。他方,立法論は現行法では十分でない領域について,法解釈に加えて,法改正や新たな立法をするための発展的議論を行うものである。本書は立法論の立場から,図書館が関わるサービス領域を外国法も含めて法学的観点から検討し,最終的には公貸権(公共貸出権)を規定した法律をつくることを提言している。
本書は,全体で4部,14章から成る。全体の流れは,公立図書館(以下図書館とする)が憲法上の知る自由という原則に寄りそってつくられている位置づけを検討した後(第I部),それを実際の法において実現させる際に無料公開制を中心とする構えとなっていることを確認する(第II
部)。そして図書館の無料原則をめぐる状況を総合的に検討し、著作者の権利の一部との調整が必要になっていることを明らかにする(第III部)。その調整のための具体的方法として公貸権を法制度として確立することを提案している(第IV部)。具体的に,内容を見ておこう。
第I部「国民の知る自由と図書館」では,まず国民の知る自由は憲法に内包されるか,少なくともそこからの派生的保護法益であると述べて,公立図書館は,“国民の知る自由を確保する社会的装置のうち,一番身近な装置”であるとする(p.
30)。そしてアメリカの「知的自由」と日本の「図書館の自由」を比較し,情報公開法による知る権利の法制化の状況を述べ,判例を検討した上で,著作物が図書館を通じて読まれることに法的利益があるとする。最後にアメリカと日本の図書館史を検討した上で,近代図書館を貫く原則として,法的根拠をもつ公開,公費支弁,無料制を挙げている。
第II部「パブリックライブラリー要件と図書館制度の関係」では,これら3つの原則を日本の法制度を中心に欧米各国の制度も含めて検討を加えている。まず,公開の法的な根拠についてである。図書館法は憲法,教育基本法,社会教育法の系列に位置づけられ,教育基本法の機会均等の規定や,社会教育法における国民の社会教育活動に対する国,自治体の支援する規定に基づいて,サービス法である図書館法がつくられているとする。他方,地方教育行政法では図書館は教育機関に位置づけられ,地方自治法において教育機関は教育委員会の専決事項とされている。また,地方自治法では公の施設が定義され,住民の福祉を増進する目的をもって利用に供するための施設で,なおかつすべての住民に対して公開されていることと公平な取扱いを規定している。著者によれば,図書館が教育法と地方自治法と二つの法系列に位置づけされることに問題の淵源がある。
図書館の公費支弁と利用の公開制はこの二つの法系列のいずれにも規定されているが,とくに図書館法17条で無料制が最初から規定されていることが重要である。というのは,図書館の無料制は外国では必ずしも普遍的な原理ではなく,歴史的に形成されて,財政的な状況や経済政策によって変化してきたからである。ドイツやオランダの図書館は年間登録料のようなかたちの有料制が一般的で,それは法的な根拠をもっている。
第III部「図書館の無料原則が及ぼす今日的課題とその調整の考え方」では,図書館の無料原則が著作者の権利を制限する役割を果たしていることについて検討している。1984年に著作権法に貸与権が導入されたが,書籍に関しては,同法附則に「書籍または雑誌の貸与は当分のあいだ適用しない」とする制限規定があったために適用されていなかった。だが2005年に附則が撤廃されて,書籍やコミックのレンタルは貸与権の対象になった。しかしながら,図書館の貸出しは無料で貸出している限り,貸与権の対象にならない。
ところがこの状況に変化が見られるようになっている。それは,地方自治法改正で公の施設に指定管理制を導入することができるようになり,公設民営の図書館が現れ,その数は増加している。それを導入した自治体の一部は「図書館法によらない図書館」を公の施設として開設するという解釈をしている。とすると図書館法の無料原則によらない自治体図書館が現れる可能性がある。
教育政策としても,生涯学習社会において住民自身の学習活動について受益者負担が進行しつつある。また,有料制をとっているドイツやオランダ以外の国の図書館でも,資料予約,オンライン情報検索,集会室利用,区域外居住利用者への課金が行われることは一般的になっている。無料貸出しが多いフィクションや児童書の著作者が職業的な著作者であることを考慮するときに,このように無料でない図書館が現れることも考慮に入れて,著作者の権利と図書館利用の関係を調整することが必要であるという。
第IV章「図書館の無料原則と著作者の権利との調整方法の検討および提案」では,公貸権制度の導入が検討され,それが日本でも導入されるべきことを提案している。EU加盟国では1990年代に貸与権と貸出権の導入を進め,著作者の権利を守ろうとしたが,その際に公共の貸出しは制限の対象となっている。こうして各国は,公貸権を著作権法に含めるか独自の立法をするかのいずれかで制度化し,図書館による資料の無料貸出しによる著作者の経済的損失を補填することになった。
そして,EU各国の公貸権制度を検討し,アメリカ合衆国では導入できなかった事情を検討した上で,日本では英国型の独自立法による公貸権制度をつくることが望ましいと結論づけている。それは,著作者の報酬請求権として設定し,利用料の支払いは国の基金で行うというものである。
以上,複雑な構造をもつ本書の論旨をつないでみた。最初に述べたように本書は立法論の立場で書かれている。公立図書館による無料の公共サービスとしての資料貸出しの進行が著作者の権利との関係で相容れないものが生じているときに,その調整を行うのにあたり公貸権導入に意義があると主張するために,かなり広範囲の領域の議論を整理検討して,論理的に組み立てようとしている。
本書の第一の貢献は,公貸権制度の必要性を立法論的に検証したことが挙げられる。これまで,立法の動きとしては2005年に文化審議会著作権分科会での審議が行われたことがあったが,同じ時期に制度の紹介が行われている程度で,法学的に十分な研究が行われていたとは言えない。行政法・教育法と著作権法との隙間にあった領域に光をあてて綿密に検討し,最終的に著作者の権利としての公貸権制度化を提言したことは重要な業績であると考える。
第二に,とは言え,本書は単に公貸権を法制度として確立するための議論整理にとどまらず,図書館情報学的に言っても,不十分であった公立図書館の法的な位置づけを体系的に明らかにする著作である。従来の公立図書館に対する法的な解釈は,知る自由をもつ住民のために資料を収集保存提供する役割を強調していた。その際に,図書館の資料提供が著作者の権利を制限して行われていることは指摘されてはいたが,その二つを結びつけて展開した議論は少なかった。それだけに,本書が,図書館と利用者との関係のみならず著作者との関係を含んだ総合的な見方を提示したことは重要な貢献である。
本書は多方面にわたる戦線を張っているがために、残した課題も大きい。法的な枠組みの議論を中心としているので,具体的な問題について十分に検討されていないところがある。たとえば,公貸権の制度設計の記述に,唐突に“新刊資料の館外貸出については,貸出禁止期間を設定し,その期間中について利用者は館内閲覧のみとする”(p.
395)という提案がある。著者は知る自由の保障に図書館の無料貸出しが一定の役割を果たしていることを強調し,許諾権ではなく報酬請求権としての公貸権を提案しているだけに,これがどのような論理に基づいているのか理解しにくい。
日本における公貸権の議論はまだ緒についたばかりである。ここ10年ほど論じられてきた,図書館の資料貸出しが本当に著作者の収入減につながっているのかといった議論をもとに,本書の枠組みで精緻化していく必要があるだろう。その意味で議論の礎をつくった本書の意義は大きい。
【根本彰,慶應義塾大学文学部,2017年1月6日受理】
2019-04-03
2019-03-23
【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』
【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』商事法務, 2016.
『日本図書館情報学会誌』 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。
この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。
近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。
本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。
アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。
Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。
米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。
訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。
2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。
本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。
他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。
しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)
アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。
本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)
本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。
注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.
『日本図書館情報学会誌』 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。
この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。
近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。
本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。
アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。
Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。
米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。
訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。
2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。
本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。
他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。
しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)
アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。
本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)
本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。
注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.
2019-03-11
故金森修氏の蔵書の行方
金森修氏は『サイエンスウォーズ』『バシュラール』などで知られる科学思想史家で、東大教育学研究科勤務当時の私の同僚だった方である。彼が会議等を休みがちだったというのは知っていたが、私は2015年に慶應に移ったので、コースが違うこともあり具体的な事情は知らないままでいた。そうしているうちに、2016年5月に逝去されたというニュースを知りたいへん驚いた。享年62歳だった。
科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。
さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。
奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.
著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。
金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。
日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。
これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。
科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。
さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。
奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.
著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。
金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。
日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。
これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。
日本人の言語論的基盤を探る本
以下は、雑誌『みすず』2019年1月/2月号に寄稿したものです。
「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」
日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。
最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。
だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。
日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。
近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。
「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」
日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。
最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。
だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。
日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。
近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。
2018-10-04
ランドセルと教育改革(重荷を脱ぎ捨てる時だ)
次のような文章を送って、朝日新聞(東京版)2018年10月4日朝刊13面に掲載してもらった。
教育への関心の一環である。この問題提起についてはいろいろな意見があると思われる。たとえば、統制主義的と呼んでいるものが何を意味しているのか。たとえば、外国では子どもの送り迎えは親がするのが一般的で、日本のようにぞろぞろと集団登校するようなことはないが、ランドセルを背負うことと集団登下校の行動は対応している。日本の集団主義は子どもの安全とか親の負担の軽減といった部分に貢献しているのであり、一概に否定できないのではないかという意見がありうるだろう。
人によっては、ランドセル批判と二宮金次郎像のイメージを重ねるのもどうかという意見をもつかもしれない。金次郎像は日本人の勤勉さの表現であり、それ自体は問題ないのではというものだ。このあたりは、教育をめぐる政治イデオロギーとかかわる。戦前に金次郎が国家に忠誠を誓う臣民教育の手段に使われたことは明らかであり、現在でも同様の主張は少なからずある。
私は、一概に集団主義がいけないと考えてはいない。日本人が常に近隣や同年齢の同質的他者とともに生きる道を選択し、集団主義がさまざまなところでの成功を導いたことも確かであるからだ。また、ランドセルのような背中で背負う荷物入れは便利だとも思う。だが、ここで批判しているのは、そうした19世紀から20世紀中期までに確立された慣習をいつまでも保持して、形式に流れる日本の学校教育制度全般である。ランドセルはそのシンボルに使わせていただいた。教育改革に関してはまた論じてみたい。
教育への関心の一環である。この問題提起についてはいろいろな意見があると思われる。たとえば、統制主義的と呼んでいるものが何を意味しているのか。たとえば、外国では子どもの送り迎えは親がするのが一般的で、日本のようにぞろぞろと集団登校するようなことはないが、ランドセルを背負うことと集団登下校の行動は対応している。日本の集団主義は子どもの安全とか親の負担の軽減といった部分に貢献しているのであり、一概に否定できないのではないかという意見がありうるだろう。
人によっては、ランドセル批判と二宮金次郎像のイメージを重ねるのもどうかという意見をもつかもしれない。金次郎像は日本人の勤勉さの表現であり、それ自体は問題ないのではというものだ。このあたりは、教育をめぐる政治イデオロギーとかかわる。戦前に金次郎が国家に忠誠を誓う臣民教育の手段に使われたことは明らかであり、現在でも同様の主張は少なからずある。
私は、一概に集団主義がいけないと考えてはいない。日本人が常に近隣や同年齢の同質的他者とともに生きる道を選択し、集団主義がさまざまなところでの成功を導いたことも確かであるからだ。また、ランドセルのような背中で背負う荷物入れは便利だとも思う。だが、ここで批判しているのは、そうした19世紀から20世紀中期までに確立された慣習をいつまでも保持して、形式に流れる日本の学校教育制度全般である。ランドセルはそのシンボルに使わせていただいた。教育改革に関してはまた論じてみたい。
2018-06-23
つくば市北部10校の廃校とその跡地利用
つくば市北部地区の学校廃止
つくば市の筑波地区はつくば市北部にあたり、合併前を示す下の地図では筑波町に当たる地域である。図の「センター地区」につくばエクスプレスつくば駅があって、そこから南西の方向に向けて沿線開発が進んだ。筑波地区は筑波山を含む農山村地域で、南側と違って過疎化と少子高齢化が進んでいる。このようにつくば市は落差が極端に現れているところである。その筑波地区の小学校・中学校を大胆に統廃合するプランが時間をかけて進んでいたが、今年の3月で完了し、その閉校式が2月24日にいっせいにあった。それは、茨城新聞でも報道されている。
過疎地域の小規模校を10校を合併して、中心地北条地区に施設一体型小中一貫校の「秀峰筑波義務教育学校」が開校し、個々の学校に通っていた子どもたちは毎日スクールバスで通学している。ここでこの措置についての是非は問わない。論じたいのは、廃校跡地利用についてである。今日の午前中に「筑波地区学校跡地に関する利活用ニーズ調査結果の地元説明会」が筑波交流センターであり、出席したので報告しておきたい。
説明会と議論
交流センターでの説明会は100人近くの人が来ていたが、多くは中高年の男性であった。区長やPTA会長を昔やっていた人、今やっている人が参加しているようだ。行政からの説明は、個々の学校の状況(都市計画法と土地所有の権利関係、耐震性、面積、平面図、校舎と室内運動場等)と、公募した民間事業者の提案、庁舎内の各部局の提案、そして市民から寄せられた提案を集計したものが報告された。校庭も含めてかなり広い土地と校舎があるが、新しい施設をつくるのが難しい市街化調整区域にある学校が多く、校舎については耐震基準を満たしていないものが少し含まれていた。
提案は、スポーツ施設や高齢者福祉施設、農業施設などが多く、市街化調整区域にあることもあって新しい商業施設を建てることが難しいらしく、資材置き場の提案や総務課からの文書倉庫の提案などもあった。担当の都市建設部の態度は、地域の意向を大事にしながらも、積極的な提案を募るというもので、市として跡地利用として包括的な提案があるわけでもなくて、個別の対応をするということのようだ。出席者より、子どもたちが集まって遊べる施設がほしいとか、大人の集会施設がほしい、高齢者福祉施設がほしいといった要望の声があった。また、住民のまちづくりの活動に対応したすすめ方をしてほしいという声もあった。
発言
私は次のような発言をした。明治の学制発布時には、将来の日本国を背負う世代を育成するということで学校建設のために施設や土地を供出し、その後、時間をかけて今の学校が建設されてきた。学校、とくに小学校は百数十年間にわたりそれぞれの地域にとってきわめて重要な施設であった。今、それが一斉に廃校になるということは重大な転換があったことを示している。学校という共通の目的のためにつくられた施設が今提案があったものだと、ばらばらの対応で転用されるように見える。ある学校は老人福祉施設になり、ある学校はスポーツ施設になり、ある学校は資材置き場になるという。それでいいのか。これを進めるのに市として包括的な活用プランの考えはないのか、伺いたいというものである。それに対して、説明した都市建設部の次長からは、市街化区域と市街化調整区域の違いや個々の学校による置かれた事情の違いがあって、できるだけ地域の要望に沿った活用をはかることを予定しているという回答だった。
この場は説明会で議論するところではないのでそれ以上発言することは控えた。しかし、私の発言はその後のいくつかの発言を引き出したらしく、考え方に賛同するという意見がいくつか寄せられた。そのなかでは、日本全体で廃校跡地の利用についての事例があるはずだからそれらを調査した上で提案すべきではないかとか、一度に10校も統合されて廃校になるケースは少ないのだからそれはもっと注目されてもいいのではないかとか、学識経験者や市民を含めた計画委員会をつくったらどうかという意見があった。私は、さらに、瀬戸内海の直島が銅の精錬所跡や山間部全体を美術館として観光開発で成功した例(ベネッセが開発)があるように、条件の示し方によっては大手の民間事業者が10校の一斎利用の新しいプランを提案する可能性もありうるのではないかという発言を追加した。
その後考えたこと
全国の廃校利用についての情報を集めてみた。文科省は「みんなの廃校プロジェクト」というのをやっていて、廃校利用で成果を上げた事例を紹介したり、廃校情報をリスト化して利用提案を呼びかけたりしている。リストを見ると数百校が再利用の提案を待っているという状況のようだ。一般的な需給関係を考えれば民間事業者からのいい提案がくるような状況には見えない。ただ、首都圏に隣接している地域であること、筑波山という観光地を控えていること、10校が一斉に利用可能なこと、筑波研究学園都市という国際的な都市の一部であることなどの点で有利な点がある。まず、文科省のページなどを参考にして精査して、市できちんとしたプランを打ち出すべきではないか。
その場合、検討にあたっての一定程度のガイドラインを設けるべきだと考える。たとえば決定には地域住民の合意を前提とし、地域福祉(広義)に貢献し、住民の日常生活を豊かにするものであることなどの条件をつけることである。また、どのようなスケジュールで検討しているのかがよくわからないところがある。いい提案がすぐに得られない場合には何年でも寝かせておいてじっくりと検討することが可能なのかどうかということである。
私はこのブログを始めてまもなく、「「緑と城の小田郷学」プロジェクト案」というのを提案した。住んでいる小田地区の今後を考えての提案だが、それは廃校になった小田小学校跡地の利用を前提としていた。そのなかで「りんりんロードの拠点休憩所づくり」というのがある。この地域は昔、関東鉄道筑波線の鉄道で結ばれていた地域でそこは今サイクリングロードとなっている。今日の報告会でも、土浦市が駅にサイクルステーションをつくり自転車を観光の目玉にしようとしているのと、今回の廃校跡地利用を結びつけられないのかと発言しようかと思ったが、結局、それには触れなかった。今回の動きでこうしたものをきちんと詰めなくてはならないと思っている。自治体単独で考えるのではなくて、地域共同も必要だろう。
つくば市の筑波地区はつくば市北部にあたり、合併前を示す下の地図では筑波町に当たる地域である。図の「センター地区」につくばエクスプレスつくば駅があって、そこから南西の方向に向けて沿線開発が進んだ。筑波地区は筑波山を含む農山村地域で、南側と違って過疎化と少子高齢化が進んでいる。このようにつくば市は落差が極端に現れているところである。その筑波地区の小学校・中学校を大胆に統廃合するプランが時間をかけて進んでいたが、今年の3月で完了し、その閉校式が2月24日にいっせいにあった。それは、茨城新聞でも報道されている。
過疎地域の小規模校を10校を合併して、中心地北条地区に施設一体型小中一貫校の「秀峰筑波義務教育学校」が開校し、個々の学校に通っていた子どもたちは毎日スクールバスで通学している。ここでこの措置についての是非は問わない。論じたいのは、廃校跡地利用についてである。今日の午前中に「筑波地区学校跡地に関する利活用ニーズ調査結果の地元説明会」が筑波交流センターであり、出席したので報告しておきたい。
説明会と議論
交流センターでの説明会は100人近くの人が来ていたが、多くは中高年の男性であった。区長やPTA会長を昔やっていた人、今やっている人が参加しているようだ。行政からの説明は、個々の学校の状況(都市計画法と土地所有の権利関係、耐震性、面積、平面図、校舎と室内運動場等)と、公募した民間事業者の提案、庁舎内の各部局の提案、そして市民から寄せられた提案を集計したものが報告された。校庭も含めてかなり広い土地と校舎があるが、新しい施設をつくるのが難しい市街化調整区域にある学校が多く、校舎については耐震基準を満たしていないものが少し含まれていた。
提案は、スポーツ施設や高齢者福祉施設、農業施設などが多く、市街化調整区域にあることもあって新しい商業施設を建てることが難しいらしく、資材置き場の提案や総務課からの文書倉庫の提案などもあった。担当の都市建設部の態度は、地域の意向を大事にしながらも、積極的な提案を募るというもので、市として跡地利用として包括的な提案があるわけでもなくて、個別の対応をするということのようだ。出席者より、子どもたちが集まって遊べる施設がほしいとか、大人の集会施設がほしい、高齢者福祉施設がほしいといった要望の声があった。また、住民のまちづくりの活動に対応したすすめ方をしてほしいという声もあった。
発言
私は次のような発言をした。明治の学制発布時には、将来の日本国を背負う世代を育成するということで学校建設のために施設や土地を供出し、その後、時間をかけて今の学校が建設されてきた。学校、とくに小学校は百数十年間にわたりそれぞれの地域にとってきわめて重要な施設であった。今、それが一斉に廃校になるということは重大な転換があったことを示している。学校という共通の目的のためにつくられた施設が今提案があったものだと、ばらばらの対応で転用されるように見える。ある学校は老人福祉施設になり、ある学校はスポーツ施設になり、ある学校は資材置き場になるという。それでいいのか。これを進めるのに市として包括的な活用プランの考えはないのか、伺いたいというものである。それに対して、説明した都市建設部の次長からは、市街化区域と市街化調整区域の違いや個々の学校による置かれた事情の違いがあって、できるだけ地域の要望に沿った活用をはかることを予定しているという回答だった。
この場は説明会で議論するところではないのでそれ以上発言することは控えた。しかし、私の発言はその後のいくつかの発言を引き出したらしく、考え方に賛同するという意見がいくつか寄せられた。そのなかでは、日本全体で廃校跡地の利用についての事例があるはずだからそれらを調査した上で提案すべきではないかとか、一度に10校も統合されて廃校になるケースは少ないのだからそれはもっと注目されてもいいのではないかとか、学識経験者や市民を含めた計画委員会をつくったらどうかという意見があった。私は、さらに、瀬戸内海の直島が銅の精錬所跡や山間部全体を美術館として観光開発で成功した例(ベネッセが開発)があるように、条件の示し方によっては大手の民間事業者が10校の一斎利用の新しいプランを提案する可能性もありうるのではないかという発言を追加した。
その後考えたこと
全国の廃校利用についての情報を集めてみた。文科省は「みんなの廃校プロジェクト」というのをやっていて、廃校利用で成果を上げた事例を紹介したり、廃校情報をリスト化して利用提案を呼びかけたりしている。リストを見ると数百校が再利用の提案を待っているという状況のようだ。一般的な需給関係を考えれば民間事業者からのいい提案がくるような状況には見えない。ただ、首都圏に隣接している地域であること、筑波山という観光地を控えていること、10校が一斉に利用可能なこと、筑波研究学園都市という国際的な都市の一部であることなどの点で有利な点がある。まず、文科省のページなどを参考にして精査して、市できちんとしたプランを打ち出すべきではないか。
その場合、検討にあたっての一定程度のガイドラインを設けるべきだと考える。たとえば決定には地域住民の合意を前提とし、地域福祉(広義)に貢献し、住民の日常生活を豊かにするものであることなどの条件をつけることである。また、どのようなスケジュールで検討しているのかがよくわからないところがある。いい提案がすぐに得られない場合には何年でも寝かせておいてじっくりと検討することが可能なのかどうかということである。
私はこのブログを始めてまもなく、「「緑と城の小田郷学」プロジェクト案」というのを提案した。住んでいる小田地区の今後を考えての提案だが、それは廃校になった小田小学校跡地の利用を前提としていた。そのなかで「りんりんロードの拠点休憩所づくり」というのがある。この地域は昔、関東鉄道筑波線の鉄道で結ばれていた地域でそこは今サイクリングロードとなっている。今日の報告会でも、土浦市が駅にサイクルステーションをつくり自転車を観光の目玉にしようとしているのと、今回の廃校跡地利用を結びつけられないのかと発言しようかと思ったが、結局、それには触れなかった。今回の動きでこうしたものをきちんと詰めなくてはならないと思っている。自治体単独で考えるのではなくて、地域共同も必要だろう。
2018-06-19
『情報リテラシーのための図書館』の書評
『情報リテラシーのための図書館:教育制度と図書館の改革』(みすず書房, 2017.12)を刊行したことについては、すでにこのブログで書いた。『情報リテラシーのための図書館ー日本の教育制度と図書館の改革』(続報)
ここでは今の時点で確認した書評数点について、著者の立場から応答しておきたい。今後、図書館関係の雑誌等にも掲載されるのだろうが(すでに『専門図書館』には掲載されている)、むしろ図書館関係者以外の読み手によって本書がどう読まれたのかを確認することができて興味深い。
◯「図書新聞」2018年1月1日号(3333号)
宇宙への想像力の扉を開ける知の技法
情報リテラシーの装置としての図書館を論じる
評者:新庄孝幸(ノンフィクションライター)
https://www1.e-hon.ne.jp/ content/toshoshimbun/3333.html
本書は昨年12月1日頃に市場に出回った。それが「図書新聞」の12月23日発売の号に掲載されたので驚いた。こんなに短時間で載るとはさすがに専門書評紙だと思ったし、これなら他の新聞書評も期待できるかとも思った。(しかし四大紙では取り上げられなかったが。)この新年特集号の最後の紙面は図書館関係書がまとめて取り上げられていたのだが、この書評は急遽、出たばかりの本に対して書評を短時間で執筆してもらってこの特集に突っ込んだのではないかと推測される。というのは、すぐ下に大串夏身さんの『図書館のこれまでとこれから』の書評が窮屈そうに置かれているからである。申し訳ない。
書評については、著者としてとくに言うことはない。情報リテラシーという概念の可能性と図書館ができることについてしっかりと読まれ書き込まれているものだった。これを書かれたライターは奈良県中西部の出身ということで、本書が、そこが舞台となった日本映画「天使のいる図書館」(2017、ウエダアツシ監督)に言及しているところから論を始めている。途中で情報リテラシーを「天使の羽」と見立てる比喩があるが、著者にはそこまで書くことはできなかったので、一本取られたという感じである。
◯愛媛新聞 1月22日 佐賀新聞 2月11日 ほか(共同通信配信)
評者:山口裕之(徳島大学准教授)
「知識 成長に生かす教育支援」
大学関係者による教育改革の視点よりの書評である。本書で引用した「事実→情報→理解→知識→知恵」という情報リテラシーの認知プロセスはけっこう多くの読者の目を引いたようで、他でも言及されている。ポストトゥルース的状況のなかで学習者(これはあらゆる人に当てはまる)は自分でこの認知プロセスを鍛えることでしか、確かなことに行きつけないし、そのためには情報リテラシーを身につけることが必要だというメッセージを理解していただけた。
◯honz
評者:山本 尚毅 3月26日
「図書館の隠れたポテンシャル」を引き出す4冊
http://honz.jp/articles/-/ 44675
これはオンラインの書評ページであり、4点の図書館関係本が書評されている。本書以外は、アンニョリ『知の広場』、田中あずさ『サブジェクト・ライブラリアン』、ミヌーイ『シリアの秘密図書館』でたいへん目配りのよい(というのは自己満足の表現でもあるが)並びになっている。
ここの書評では日本の図書館制度が置かれた歴史的事情について触れている。それは、知の閉塞というものであり、このことが本書の主張の中心部分になっていることを読みとり、それが昨今の教育改革によって解決される可能性があると論じたことを紹介している。
◯『出版ニュース』2018年3月中旬号
評者:塩見昇(大阪教育大学名誉教授)
同じ分野の先達による書評である。個人的にも親しくさせていただいている。書評は忠実に本書の内容を要約してくれているが、筆致にやや突き放した感じがある。その理由は2点あると受け止めた。
一つは、本書にとくに新しい知見はないということである。評者は同業者の立場から研究的な新しい知見を期待したのかもしれないが、本書はそれは意図していない。むしろ図書館で言われてきたこととその外側で言われてきたことのギャップを埋めることが目的でこれを書いた。そのために、ここで取り上げた図書館、読書・リテラシー、教育課程・教育方法学、江戸時代の教育史いずれの部分も、それぞれの専門家から見たらとくに目新しいことはないと見えるかもしれない。
もう一つは、書評の最後で、戦前から総合学習の元になった実践はあったことに本書が言及していないと指摘していることである。教育実践史でも、戦後新教育は大正自由教育のベースがあったから可能になったと言われているし、塩見氏自身が『日本学校図書館史』でそれを取り上げて、学校図書館も成城小学校の実践や戸塚廉の図書館教育など、戦前にも実践があったことを書かれている。確かにそうしたものはあったのだが、本書で強調しているのはそれらはやはりまったく例外的なものであり、制度化されなかったということである。ルーツを探れば歴史的に遡ることはできようが、それがあったこととそれが機能していたことは別である。なので、氏の指摘は当たっていないと受け止めている。
ただ、学校図書館を教育改革の歴史に位置づける努力をすることは重要であり、筆者自身は次のプロジェクトとしてこれを行うつもりにしていて、すでに8割方の原稿はできている。それは、戦後の学校図書館はあくまでも占領軍の政策として入ってきたと見るものであり、戦前と戦後の連続と断絶も一つのテーマとすることになる。
◯「日本教育新聞」2018年 6月11日号18面 批判的思考育む装置として
評者:大久保俊輝(文教大学非常勤講師)
http://www.kyoiku-press.com/ modules/smartsection/item.php? itemid=71186
待望の教育関係者による書評である。本書は副題にあるように教育改革をテーマにしているつもりである。上に書いたように、本書の個々の章に特段目新しいことはない。しかしながらまったく別個の文脈で議論されていたことをつなげてみるとまったく新しいことが見えてくるというのが、本書を書いてみての偽らざる気持ちである。それを、当の教育関係者がどのように読んでくれるのかは気になっていたことであった。
評者は校長をしていた方のようだ。冒頭、「校長にはぜひとも読んで貰いたい内容に満ちあふれている」としている。かつて学校教育において「批判」は禁句だったのに、この評では本書が前面に出している「批判的思考」の考え方を支持してくれている。また、「知は知を呼ぶ」を箴言として引用し、「これまでの学校教育は知の呼び声を聞かないふりをして続けられていた」と続けている。この部分は、私がこの本を書くときの一貫した方法論を示した部分であった。それはマングェルの「夜の図書館」やフーコーの「幻想の図書館」に触発されてのものであった。知を学習指導要領や検定教科書、そして暗記型のペーパーテストで狭いところに閉じ込め、それが再現できることが知の獲得であるという考え方を捨てることによって初めて、図書館は評価されるものになる。そのことを評価する教育者がいることに私は安堵した。
◯Amazonや書評サイトhonto、読書メーター、ブックログ、ブログにも匿名の評がある。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07DTNBKFS/ref=dp_kinw_strp_1
https://honto.jp/netstore/pd-book_28725259.html
https://bookmeter.com/books/12427720
https://booklog.jp/item/1/4622086506
http://yo-shi.cocolog-nifty. com/honyomi/2018/04/post-80ba. html
ここでは今の時点で確認した書評数点について、著者の立場から応答しておきたい。今後、図書館関係の雑誌等にも掲載されるのだろうが(すでに『専門図書館』には掲載されている)、むしろ図書館関係者以外の読み手によって本書がどう読まれたのかを確認することができて興味深い。
◯「図書新聞」2018年1月1日号(3333号)
宇宙への想像力の扉を開ける知の技法
情報リテラシーの装置としての図書館を論じる
評者:新庄孝幸(ノンフィクションライター)
https://www1.e-hon.ne.jp/
本書は昨年12月1日頃に市場に出回った。それが「図書新聞」の12月23日発売の号に掲載されたので驚いた。こんなに短時間で載るとはさすがに専門書評紙だと思ったし、これなら他の新聞書評も期待できるかとも思った。(しかし四大紙では取り上げられなかったが。)この新年特集号の最後の紙面は図書館関係書がまとめて取り上げられていたのだが、この書評は急遽、出たばかりの本に対して書評を短時間で執筆してもらってこの特集に突っ込んだのではないかと推測される。というのは、すぐ下に大串夏身さんの『図書館のこれまでとこれから』の書評が窮屈そうに置かれているからである。申し訳ない。
書評については、著者としてとくに言うことはない。情報リテラシーという概念の可能性と図書館ができることについてしっかりと読まれ書き込まれているものだった。これを書かれたライターは奈良県中西部の出身ということで、本書が、そこが舞台となった日本映画「天使のいる図書館」(2017、ウエダアツシ監督)に言及しているところから論を始めている。途中で情報リテラシーを「天使の羽」と見立てる比喩があるが、著者にはそこまで書くことはできなかったので、一本取られたという感じである。
◯愛媛新聞 1月22日 佐賀新聞 2月11日 ほか(共同通信配信)
評者:山口裕之(徳島大学准教授)
「知識 成長に生かす教育支援」
大学関係者による教育改革の視点よりの書評である。本書で引用した「事実→情報→理解→知識→知恵」という情報リテラシーの認知プロセスはけっこう多くの読者の目を引いたようで、他でも言及されている。ポストトゥルース的状況のなかで学習者(これはあらゆる人に当てはまる)は自分でこの認知プロセスを鍛えることでしか、確かなことに行きつけないし、そのためには情報リテラシーを身につけることが必要だというメッセージを理解していただけた。
◯honz
評者:山本 尚毅 3月26日
「図書館の隠れたポテンシャル」を引き出す4冊
http://honz.jp/articles/-/
これはオンラインの書評ページであり、4点の図書館関係本が書評されている。本書以外は、アンニョリ『知の広場』、田中あずさ『サブジェクト・ライブラリアン』、ミヌーイ『シリアの秘密図書館』でたいへん目配りのよい(というのは自己満足の表現でもあるが)並びになっている。
ここの書評では日本の図書館制度が置かれた歴史的事情について触れている。それは、知の閉塞というものであり、このことが本書の主張の中心部分になっていることを読みとり、それが昨今の教育改革によって解決される可能性があると論じたことを紹介している。
◯『出版ニュース』2018年3月中旬号
評者:塩見昇(大阪教育大学名誉教授)
同じ分野の先達による書評である。個人的にも親しくさせていただいている。書評は忠実に本書の内容を要約してくれているが、筆致にやや突き放した感じがある。その理由は2点あると受け止めた。
一つは、本書にとくに新しい知見はないということである。評者は同業者の立場から研究的な新しい知見を期待したのかもしれないが、本書はそれは意図していない。むしろ図書館で言われてきたこととその外側で言われてきたことのギャップを埋めることが目的でこれを書いた。そのために、ここで取り上げた図書館、読書・リテラシー、教育課程・教育方法学、江戸時代の教育史いずれの部分も、それぞれの専門家から見たらとくに目新しいことはないと見えるかもしれない。
もう一つは、書評の最後で、戦前から総合学習の元になった実践はあったことに本書が言及していないと指摘していることである。教育実践史でも、戦後新教育は大正自由教育のベースがあったから可能になったと言われているし、塩見氏自身が『日本学校図書館史』でそれを取り上げて、学校図書館も成城小学校の実践や戸塚廉の図書館教育など、戦前にも実践があったことを書かれている。確かにそうしたものはあったのだが、本書で強調しているのはそれらはやはりまったく例外的なものであり、制度化されなかったということである。ルーツを探れば歴史的に遡ることはできようが、それがあったこととそれが機能していたことは別である。なので、氏の指摘は当たっていないと受け止めている。
ただ、学校図書館を教育改革の歴史に位置づける努力をすることは重要であり、筆者自身は次のプロジェクトとしてこれを行うつもりにしていて、すでに8割方の原稿はできている。それは、戦後の学校図書館はあくまでも占領軍の政策として入ってきたと見るものであり、戦前と戦後の連続と断絶も一つのテーマとすることになる。
◯「日本教育新聞」2018年 6月11日号18面 批判的思考育む装置として
評者:大久保俊輝(文教大学非常勤講師)
http://www.kyoiku-press.com/
待望の教育関係者による書評である。本書は副題にあるように教育改革をテーマにしているつもりである。上に書いたように、本書の個々の章に特段目新しいことはない。しかしながらまったく別個の文脈で議論されていたことをつなげてみるとまったく新しいことが見えてくるというのが、本書を書いてみての偽らざる気持ちである。それを、当の教育関係者がどのように読んでくれるのかは気になっていたことであった。
評者は校長をしていた方のようだ。冒頭、「校長にはぜひとも読んで貰いたい内容に満ちあふれている」としている。かつて学校教育において「批判」は禁句だったのに、この評では本書が前面に出している「批判的思考」の考え方を支持してくれている。また、「知は知を呼ぶ」を箴言として引用し、「これまでの学校教育は知の呼び声を聞かないふりをして続けられていた」と続けている。この部分は、私がこの本を書くときの一貫した方法論を示した部分であった。それはマングェルの「夜の図書館」やフーコーの「幻想の図書館」に触発されてのものであった。知を学習指導要領や検定教科書、そして暗記型のペーパーテストで狭いところに閉じ込め、それが再現できることが知の獲得であるという考え方を捨てることによって初めて、図書館は評価されるものになる。そのことを評価する教育者がいることに私は安堵した。
◯Amazonや書評サイトhonto、読書メーター、ブックログ、ブログにも匿名の評がある。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07DTNBKFS/ref=dp_kinw_strp_1
https://honto.jp/netstore/pd-book_28725259.html
https://bookmeter.com/books/12427720
https://booklog.jp/item/1/4622086506
http://yo-shi.cocolog-nifty.
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