11月30日(土)に慶應義塾大学三田キャンパスで、公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」が開催された。これについて主催者として報告しておきたい。
まずは、登壇していただいた4名のコメンテーター、司会の河西由美子さん、事務的なことを一切していただいた吉澤小百合さんをはじめとしてスタッフの方に感謝申し上げたい。当日の来場者は81名だった。当初は90名が座れる教室だったが、そこに50名以上入るとけっこう息詰まる感じになることは経験しているので、ずっと大きな部屋に移ったのだったがそれは正解だった。
正式の報告については同じブログで公開しているので、ここでは私の立場からの報告をしておきたい。まず、テーマの説明に拙著のタイトルが挙げてあるように、当初、拙著の合評会というような性格のものにしたいと考えていた。それは私自身が『情報リテラシーのための図書館』と『教育改革のための学校図書館』と2冊の本を書いて、いちおうの区切りをつけて次の課題に移るときに、ここ数年でやったことについて外部評価的なものがあった方がいいと感じたからである。
それをコメンテーターにお願いしたつもりではあったが、本書についての批評的な発言はほとんどなかった。むしろ、本書で記述されていることを出発点にして学校図書館について議論するというような感じに展開した。公開の場での批評というのは昔あったものだが、今はあまりはやらないということがひとつはあるだろうが、もう一つには、本書がきわめて多面的なことを述べているので個々の部分についてのコメントはできても全体を評価することは難しいということはあったかと思われる。とくにコメンテータ個々の持ち時間が15分しかなかったから、十分な議論することは難しかった。その点で、溝上慎一さんにはせっかくスライドを20枚以上ご用意いただいたのだが、かなりはしょって話されたのはもったいなかった。別の機会にゆっくりとお話しいただければと思っている。
コメンテーターは、学校図書館に近いところで活動している稲井達也さんと高橋恵美子さん、そこから少し遠い教育畑の研究者である勝野正章さんと溝上慎一さんの二つのグループに分けられる。学校図書館関係者からはそれぞれのお立場からの率直な現状認識と今後の在り方へのお話しがあった。また、教育学に関わるお二人からは教育現場の困難さが指摘され、しかしながら改革が必要であり学校図書館は重要な場となるというコメントがあった。
多くの参加者は教育学のお二人が何を発言するのかに期待と不安とをもっていたと思われる。だが、あまり踏み込んだ話しがあったわけではなかった。また、その後の質疑応答においてもどちらかというと一般的な議論で終わった。だが、一回だけ緊張が走った場面があった。それは、学校図書館がどのように情報リテラシー教育に関わるべきかという質問が溝上さんに振られたときである。いきなりだったこともあり、少し間を措いてから、ご自分が前に所属していた大学で図書館職員が行っていた情報リテラシー教育の実効性に対して疑問が発せられた。せっかく情報リテラシー教育に熱心に取り組んでいるが、それは学生にとって学習効果はあまりないと理解しているように聞こえた。ただ、それ以上の議論はなく終了した。
教育と図書館が交わる部分をどのように教育者がとらえているかがちらりと見えた瞬間だった。もちろん個別のケースに基づくものではあるが、このような見方は比較的図書館に理解がある教育者からも寄せられることがある。
司会の河西さんがアメリカの例を出していた。アメリカの大学は日本よりはるかに図書館員を専門職として位置づけしてきたが、それでも情報リテラシー教育の在り方については、今もって議論は継続されている。拙著で触れた教育の構成主義を前提とした図書館サービスとは、要するに、教育の場は学習者が自分で学ぶことで成立し、その際に学びの素材を入手することについては教員だけでなく図書館員が関与することが当然のものとなっている考え方に基づく。そうした構成主義を前提とした制度化をしてきたアメリカの大学図書館ですら、情報リテラシーの概念を巡って教育と情報利用のあいだでどのように線引きするかについての長い論争があることは上岡真紀子さんが一連の論文で紹介している。
おそらくは探究的学習と図書館を安易に結びつけることはやめた方がいいのだろう。確かに、図書館を使った学習、図書館の資料やデータベースを使った学習、ネット上の学習資源に対して組織的にアクセして探索する学習など図書館員の手法に近い部分を生かした学習はある。しかし、探究的学習は、図書館関係者のいう文献資料による調べ学習だけでなく、いわゆるアクティブラーニングということになるときわめて多様なものを含み、他方では本格的な学術研究に近いものまできわめて多様なものを含むことが知られている。学習者が自分で知の構築をすることについて、ヴィゴツキー、ピアジェ、ブルーナーをはじめとして、認知科学や教育心理学をベースにしたアクティブラーニングやメタ認知、学習共同体等々の研究の蓄積がある。図書館が関わる学習が多様な探究的学習の一部にすぎないのか、それとももっとも基本的なものであるといってよいのか、そのあたりを教育学的な知見も交えてもっと追求する必要があると感じた。
なお本シンポジウムは、日本学術振興会科学研究費補助金19K12721に基づいて実施したものである。そのテーマは「「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究」というものである。私の発言のなかでも、国際バカロレア(IB)を採用した学校では探究的学習が中心であると述べた。そして、IB校では図書館の整備は必須の事項となっている。そのなかでTOKは高等学校レベルのIBの中心科目である。つまり、図書館を用いるIBのカリキュラムの中心科目を見ることで、IBでは図書館をどのように位置づけようとしているのかを明らかにしたいというのがこの研究の目的である。いずれ成果が出たらまた報告したい。、
2019-12-27
2019-12-26
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の配付資料と記録
2019年11月30日(土)午後に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の当日配付資料と記録を以下に公開します。
【配付資料】
根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)+参考資料
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
【シンポジウム記録】
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の記録
*根本による私的なコメントが12月27日付けブログにあります。
2019-08-31
公開シンポジウム 「教育改革のための学校図書館」参加者募集中
このシンポジウムは終了しました。(2020年2月9日)
記録は12月26日づけブログで見られます。
私見は12月27日づけブログで見られます。
==================================
来場者が増えたために会場を変更しました。(10月28日)
会場において、本書を2割引で販売します。(11月15日)
公開シンポジウム 「教育改革のための学校図書館」
日時:2019年11月30日(土)午後2時〜5時
場所:慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎527に変更しました
アクセス https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html
(キャンパスマップ5番の建物、正門入って左手奥に進んだところ)
参加無料
事前登録制:希望者はここで登録してください
会場において、本書を2割引(税込み4,000円)で販売します。
話題提供者:根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
登壇者
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
司会:河西由美子(鶴見大学文学部ドキュメンテーション学科教授)
スタッフ:吉澤小百合(筑波大学図書館情報メディア研究科博士課程)
*本会合は、日本学術振興会科学研究費補助金(19K12721)の資金援助による。
<話題提供者>
根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
図書館研究を40年行い、今回、学校図書館論をまとめることができた。今後は、これを継続するとともに、『情報リテラシーのための図書館』(2017)以来の近代日本の知識資源管理システムの研究にも取り組む予定である。具体的には「明治政府の知識資源システム」「知の1940年体制論」など。
<登壇者>
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
学校現場と連携し、国語科教育を実践的に研究する。『学校図書館活用デザイン』(学事出版刊)で学校図書館を生かした授業デザインを提案した。都立高校3校と都立小石川中等教育学校(設置準備から従事)で教員25年、その間に都教委指導主事も1年務めた。
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
教育行政学、学校経営学を専門にしている。子どもにとっての意味というだけでなく、教職員にとっての意味(専門性が育まれ、発揮される条件)という観点からも、学校図書館について考えてみたい。
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)
元神奈川県立高校学校司書。定年退職後、東京大学大学院修士課程に入学、現在博士課程に在籍(休学中)。学校司書配置の歴史と実践に関心があり、『学校司書という仕事』(青弓社 2017)にまとめた。
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
発達心理学研究から始まり、ここ20年ほど高等教育におけるアクティブラーニングやキャリア発達などを論じてきた。しかし発達の観点からは大学生では遅いというデータや論を得て、小学校の学びから中等教育、高大接続、そして仕事・社会へのトランジション論までを研究的・実践的に展開している。
<司会>
河西由美子(鶴見大学文学部ドキュメンテーション学科教授)
1990年代後半から、メディアセンター化した学校図書館の設計と運営に関わり(京都・同志社国際中高、東京・玉川学園等)2000年より社会人大学院生として情報リテラシー・子どもの情報行動について研究を始める。博士(学際情報学)。2017年度より広島県立広島叡智学園アカデミックアドバイザー(図書館)
2019-08-29
蛭田廣一著『地域資料サービスの実践』の刊行
小平市図書館の蛭田さんにお会いしたきっかけは、彼が三多摩郷土資料研究会(三郷研)の幹事役をやっていて、この研究会が10年に一度、多摩地域の郷土資料サービスの調査をするのにあたって協力してほしいということであった。私は大学院生時代から、日本図書館協会の図書館の自由に関する調査委員会の委員をしていた。すでに「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」と「図書館員の倫理綱領」(1980)が出たあとで、次の課題として個人情報保護とともに情報公開が話題になっていたときだった。山形県金山町で日本で最初の公文書公開条例(1982)が出され、自治体が保持する情報を住民に向けて提供することが図書館でも課題になりかかっていたときだった。私は自治体行政における図書館の位置づけを検証するのに、郷土資料や地方行政資料を手がかりにすればいいと考えて、生意気にも委員会が出していた「図書館と自由」のシリーズの編集を担当することになった。当時、関西の委員だった石塚英二さんや塩見昇さんがバックアップがしてくれたからできたことであった。こうして刊行できたのが、『情報公開制度と図書館の自由』(1987)という本である。この本のことや図書館の行政情報提供については、当ブログ「図書館はオープンガバメントに貢献できるか(2)」に書いたのでそちらも参照していただきたい。
この本に私は「戦後公共図書館と地域資料ーその歴史的素描」という論文を書いた。これはこの分野ではそれまでもその後もあまり書かれていない戦後の郷土資料に関わる実践をまとめたものである。これを見て蛭田さんが連絡をくれたのである。この当時、日野市の実践から始まった資料提供サービス論が公共図書館界で主流になった時期であり、その意味で郷土資料サービスは後ろ向きのサービスと見られがちだったのに対して、私がこれは現代的な意義があるという趣旨の論文を書いたので声を掛けてくださったわけだ。
三郷研は東京の多摩地域(東京都の区部以外の地域)の自治体図書館の郷土資料担当者の繋がりの研修と親睦の場だった。明治百年(1968)あたりをきっかけにして、自治体市編纂の動きや急速に都市化が進められたことに対して地域の歴史や民俗、文化活動を継続するために図書館が果たす役割についての議論があった時期である。「地方の時代」が合言葉だった。それぞれの自治体の中央図書館にはレファレンス担当と一緒だったり、別に担当する場合もあったが、郷土資料担当者は必ずいた。そして互いにノウハウを交換する研究会活動を繰り広げていた。10年に一度の郷土資料サービス調査は現在まで継続されている。
この場で、直接図書館員の活動に触れることができたことは私にとって財産になっている。まもなくつくばの図書館情報大学に就職してアメリカに研究に行くことにしたために、図書館の自由に関する調査委員会は辞めることになったが、三郷研との付き合いはその後もしばらく続いた。そのなかで、『地域資料入門』(1999)の執筆に参加できたこともよい思い出である。この本は、この領域では唯一の指南書として読まれたものである。この本は日図協の「図書館員選書」シリーズの一冊として出たものであるが、このシリーズはまもなく、「図書館実践シリーズ」と名前を変えてすでに40点あまり出ている。前のものから20年後の改訂というのは遅きに失する感じもある。私もいろんな場で、地域資料サービスを学ぶのには『地域資料入門』が最適なのだがすでに古くなっていると触れざるをえず、改訂版がほしいですねと話したりしていた。
なぜ、20年もかかったのか、これについて語ればそれはまた長い物語になる。一言で言えば、バブル崩壊後の図書館界の疲弊がこういう本質的に専門的な領域に出てしまったとしか言いようがない。この間、国立国会図書館(2007)と全国公共図書館協議会(2016)と2回の地域資料サービスに関する調査に参加してわかってきたのは、20世紀のうちは各自治体にいた郷土資料専任担当者が21世紀になると兼務体制に変化したということである。郷土資料や地域資料サービスは通常のサービス体制でも実施することは可能である。図書館サービスは「資料」に依存する。ネット上のものまでとは言わなくとも、当該自治体の資料や地域の企業、商店、学校、NPO、病院などの組織の資料を含めれば、地域では日々膨大な量の資料が発生している。それをどこまで丁寧に声を掛けて収集して組織化し提供するか。『地域資料入門』はそうしたアイディアとそのためのノウハウを提案したものだ。かつての郷土資料はとくに歴史資料に目配りしていたのだが、それが同時代的に発生するものまで含めて地域資料と呼び替えようと提案した。この時期が同時に、自治体経営論に転換する時期と重なったわけであり、これが正規職員の減少を招き、そうした新しい専門的なことに乗り出すことを妨げ、兼務体制による最低限のサービスしかできない状況をつくりだした。
三郷研は『地域資料入門』を刊行した頃に三多摩地域資料研究会(三資研)と名前を変えた。21世紀になってからは、多摩地域であってもこうしたサービスに人を振り向けることができにくくなっている。今回、改訂版をということで蛭田さんに相談したらあのときの執筆者は退職したり、図書館とは別のところに転出したりしていて、結局、唯一図書館に戻って来られていた蛭田さんご自身の単独の著ということになった。彼がいる小平市立図書館はしっかりとこの方面のサービスを継続していたところであり、その実践を踏まえてまとめられたものである。シリーズ名にふさわしいこの本が出せたことをともに歓びたい。今後、この本を出発点としてどれだけ新しい課題に取り組めるかについても検討したいと思っている。
2019-07-01
『教育改革のための学校図書館』のスニペット表示
教育改革のための学校図書館 新刊
根本 彰 著
東京大学出版会
ISBN978-4-13-001008-5発売日:2019年06月27日
判型:A5
ページ数:344頁
内容紹介
中途半端な制度化に終わった戦後日本の学校図書館の苦闘と挫折の歴史をたどり直し,すぐそこに来つつある「主体的・対話的で深い学び」が求められる知識社会に対応するために,学習情報センターとしての学校図書館と司書のヴィジョンを浮かび上がらせる.
著者による自著紹介記事(2019年11月21日追加)
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00187.html
目次
(序、1章1節、10章4節は読むことが可能です)
序
第I部 戦後の出発点の確認
第1章 戦後学校図書館制度成立期研究の現状
1 戦後初期教育改革と学校図書館の関係
2 戦後初期教育改革の全体像
3 占領期の学校図書館改革
4 学校図書館制度へのアメリカの影響
5 戦後初期教育改革期の学校図書館史
第2章 占領期における教育改革と学校図書館職員問題
1 学校図書館の法制度
2 占領初期の教育改革と図書館
3 学校図書館基準における「人」の問題
4 teacher librarian と司書教諭,学校司書
5 学校図書館法立法時における司書教諭像
6 学校図書館問題の困難さの淵源
第3章 戦後教育学の出発と学校図書館の関係
1 教育学と学校図書館を結びつけて考える意義
2 戦後教育初期改革と学校図書館
3 戦後初期の学校図書館構想
4 戦後教育学と学校図書館
5 IFEL図書館
6 まとめと課題
第II部 教育改革と学校図書館
第4章 学校図書館における「人」の問題
1 議論の設定と背景
2 戦後初期教育改革と図書館職員の問題
3 学校教育興隆期の学校図書館
4 教育改革と学校図書館法改正
5 ニ職種配置状況の完成
第5章 教育改革と学校図書館の関係を考える
1 学校図書館と図書館の関係に寄せて――物語と情報リテラシー
2 2008年版学習指導要領を読む
3 学校図書館問題への一つの視点
4 21世紀の学校図書館理論は可能か
第6章 教育改革と学校図書館制度確立のための調査報告
1 総合学習・探究型学習と学校図書館
2 探究型学習と学校図書館の関係の実際
3 「調べる学習コンクール」の効果
第III部 外国の学校図書館と専門職員制度
第7章 フランス教育における学校図書館CDI
1 フランス教育の概要
2 フランスの教育改革と学校図書館の沿革
3 学校図書館の実地調査に入って
4 おわりに
第8章 米国ハワイ州の図書館サービスと専門職養成システム
1 図書館員数の概略
2 ハワイ州の図書館と図書館員
3 図書館員制度と養成
4 書物文化の公的装置としての図書館
第IV部 日本の政策的課題
第9章 学校内情報メディア専門職の可能性
1 日本の図書館員養成課程
2 LIPER図書館情報学カリキュラム
3 LIPER学校図書館班中間報告
4 学校内情報メディア専門職の養成案について
5 その後の学校内情報メディア専門職論
第10章 日本の教育改革の課題と学校図書館の可能性
1 歴史的展開のまとめ
2 構成主義学習論と学校図書館
3 教育政策との整合性
4 来るべき学校図書館職員論のためのメモ
あとがき
索引
2019-06-15
映画「ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス」を観る
6月13日(木)の夜に岩波ホールで「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観た。200人は入るホールに50人程度の入りだった。言われている評判より少ない感じだが、それはどうも終了時刻が21時50分に設定されていることに原因があるようだ。上映時間が3時間25分で途中で5分ほどの休憩が入るのでこういう時間になる。同館のサイトによれば、昼はそれなりの入りのようなので、この時間帯だと見合わせる人が多いのだろう。複数の観た人の話しでは、長いので座布団が必携とか、だんだんと疲れてくる、くらくらしてくるというのと、長いけれども飽きないで観られるというのとがあった。
というわけで、最近こんなに長い映画を観たことがないのでどうなることかと戦々恐々ではあったが、結果的には集中して観続けることができた。しかし、最近は名画座系でも座席は快適なところが多いから、前の座席の人の頭が画面の一部を遮る可能性があるこのホールのつくりの古さは少々気になった。
映画について
さて、映画そのものだが、「ドキュメンタリーの巨匠」フレデリック・ワイズマン監督が比較的短時間のあいだに、この図書館(NYPL)で起こっていることを撮影し、断片をつないで編集して見せてくれるものだ。本館、複数の分館、地域館の建物や内装、イベント(とくに何人もの作家が自著について語る様子)、内部でのサービスの有り様、経営面の議論などを紹介している。図書館という地味に思えるものを紹介したドキュメンタリーがなぜ一本の商業映画になるのか、また、それがなぜ数々のドキュメンタリー部門の映画賞を受賞しているのか、さらには、それがなぜ日本でも上映され、多くの人が見にくるのか。このあたりが長年日本の図書館の不遇さに嘆いていた私には不思議に思われたので、どう見えたかについて書いておく。
まず、ワイズマンは別のインタビューに答えて、この図書館の利用者でも何でもないという。人に紹介されて、ここのおもしろさを知り撮ってみようと思ったと発言している。その「おもしろさ」は確かにこの映画全体にあふれていた。だが、監督がおもしろいと思て取り上げ、私も同様の感想をもったものが、映画評論家に高く評価され、日本のメディアでも取り上げられるのかについては考えてみる必要があるだろう。それをあえて説明すれば、ネット社会の到来による情報アクセスの利便性と、その裏側で生じている経済格差、そして、さらにはアメリカが抱えている人種問題が扱われ、それが現代の状況と対局にある論理にまとめ上げられているからである。つまり、ポストトゥルースの状況において、図書館が知の真理性の最後の砦になることを主張しているのである。この観点はアメリカでならニューヨークや西海岸の知識人に支持されるだろう。しかし、日本ではどうなのか。
映画から読み取れる同館の活動内容
図書館は、単に書物のコレクションを提供する場ではないことが繰り返し示されている。まず何よりもマンハッタンの中心部にあるという立地条件と、そのボザール様式という大理石造りのがっちりした建物がある。室内は広く天井は高い。家具調度品は豪華である。過度なきらびやかさは排除されているものの、知と美に対する最高の敬意が示され、それに伴う巨額の資金がつぎ込まれていることは一目瞭然である。古典古代、そしてルネサンスやバロックのヨーロッパの知的伝統をそのまま継承し、アメリカ資本主義によってニューヨークという都市に発展させようという意気込みがここに見られる。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけての白人中産階級の文化構築の意思から始まったが、それにとどまってはいなかった。20世紀後半には、差別撤廃の社会的議論を反映させた多文化主義が採用される。何度か出てくる黒人文化研究図書館はNYPLの分館の一つであり、ここがもつアーカイブ的な資料は作家や研究者に黒人差別の実態を伝えるものとして重要な研究拠点になっている。19世紀にあった奴隷制と資本主義、共和主義の関係についてのレクチャーのシーンでは、マルクスがリンカーンに送ったという書簡が取り上げられていて、ここから共産主義者のマルクスが共和主義者のリンカーンを支持したのが、黒人の奴隷からの解放と労働者の解放を重ねて見ていたことが語られる。チャイナタウンに近い分館では、中国系移民に対する中国語でのサービスが行われている。また障害者サービスとしての点字や録音図書作成のシーンがある。手話通訳のボランティアを養成する講座のシーンがあり、「アメリカ独立宣言」の一節を、懇願するように読む場合と怒りを込めて読む場合とで手話通訳の動作が違っていると言って、実際にやってみせるシーンがおもしろかった。
ハイカルチャーの文字資料をあつかっているだけではない。ポピュラーカルチャーへの配慮が示される。写真コレクションは20世紀までのアメリカ人のコマーシャリズムや日常生活をそのまま写し取って蓄積したものである。先ほどの手話通訳のシーンは舞台芸術図書館のものだが、ここはメトロポリタン歌劇場に隣接している。舞台芸術から大衆芸能にいたる、台本・脚本や楽譜、映像資料、録音資料だけでなく、舞台装置のミニチュアセットや衣装デザイン、プログラム、ポスターなどの資料を集めて提供している。単なる印刷出版された資料だけでなくて、個々のパフォーマンスに対応する複製資料を集めている場である。
こうした図書館の活動を支える仕組みであるが、よく知られているようにここは非営利法人組織になっている。ニューヨーク市からの助成金と民間から寄付金が半分ずつという説明がされていた。もともと、アスター、レノックス、ティルデンの3財団の資金を統合して始まり、それにカーネギー財団からの寄付金が加わって、これらを基金としたものである。だが活動資金は自動的に入るようなものではなく、獲得するための説明がきわめて重要になる。
映画で何度も登場するのが、この図書館の経営会議である。運営資金をいかに調達するか、それから、どのような方面に向けてどのようなサービスを拡張していくかについて、侃々諤々の議論が行われている。重点をおいて描かれているのが、ネット弱者への対応である。そのなかでは、20世紀にカーネギーが無料公共図書館を寄付することによって印刷本の普及を図ったように、図書館がPCやネットへのアクセスをネット難民に無料で提供することによって、紙とデジタルとを問わず知へのアクセスを保証するという考え方をとっていることが強調される。しかしながら、図書館が実際に提供するコンテンツとして、紙かデジタルか、また提供するものが要求の多いものか価値あるものにするかというような、以前からある議論は継続して行われていることもわかる。
こうした図書館を支える人たちがどういう人なのかについては、あまり説明はなかった。今の経営会議への出席者は館長、渉外担当役員、主任司書などであり、彼らの間でも方針について差異が見られた。また、それぞれの専門図書館の責任者は司書というよりはキュレーターのような主題分野の専門家のようだ。分館や実際の資料コレクションの担当者になってはじめて図書館資料の利用について直接語る役回りになっている。これらについて知るためには、800円で売られている映画解説のパンフレットが役に立った。
映画が示唆する図書館の在り方
まず、この映画は最初から最後まで、誰かが話す、あるいは語るシーンで成り立っている。静謐な読書環境というステレオタイプの図書館観からすると意外なことに、声が横溢している。電話レファレンスの応対、作家の講演やインタビュー、カウンターでのやりとり、経営会議での議論等々。閲覧室で利用者が資料を繰ったり、読んだりしているシーンがないわけではないが、それはごく一部である。これは図書館がもつ膨大な資料がもたらす作用であると考えることもできる。図書館という場を描く以上、建物の内外の映像以外にメッセージを伝えようとすれば、声を中心にせざるを得ない。図書館は声が発生する場として描かれているのである。資料に含まれるメッセージはそれが読まれなくともそこにあるだけで何らかの作用をもたらし、作家はこの場で話しをすることで自分の言葉が他の資料に含まれる言葉と共鳴して自由な発想が可能になると主張しているかのようだ。
また、図書館の活動が来館者に何らかの資料やサービスを提供することに加えて、「場所の効果」と「資料がもたらす作用」自体に価値があるという考え方がとられている。 図書館がそこにあるだけで社会に対して何ものかを生み出している。本館の神殿のような建物がそういう効果をもつことは言うまでもない。そういう場所で調査研究することで西欧の学術の奥義に触れるような気にさせられることもまた否定できない。公共図書館がPeople's Universityと言われることがあるが、それは大学の知的権威性をそのまま反映させたこのような場所でないと実感はわかない。
「資料がもたらす作用」の典型は先程示した「声」である。映画で作家の声として示されているものは、図書館の資料を読む市民の内面の比喩的な表現である。つまり、利用者は資料を使うことでそこに含まれている「知」の声を聴くのである。さきほど、パフォーミングアーツの大量の一次資料があると書いたが、それらもまた演劇や朗読、ダンス、音楽ショー、バレエといった声と身体表現による言葉の表現である。それらの資料があることで、次の作品が生み出される。日本ではようやくそうした舞台芸術や音楽、映画などの資料をアーカイブとして残すことへの注目が始まっているが、それはデジタル化とセットで議論されている。しかし、ニューヨークではデジタル化以前に一回性のパフォーマンスについての資料を残すことも行われている。さきほど紹介した手話通訳の話しは、同じテクストが朗読者に媒介され、さらに通訳者によって表現されるという話しであるが、資料がもたらす作用とはテクストがこのようなパフォーマンスを通してつくる表現空間において現れるものである。作用が社会的なものに向けられれば、差別の問題や経済格差の問題に向けられることになる。
これを経済学の用語を使うと外部効果ということもできる。図書館が静的なイメージから動的なイメージへと転換するという描写は、経営会議のシーンで表現される。そこで論じられているのはまさしく外部効果といってよい。ニューヨーク市の財務当局と掛け合うため、そして民間の寄付者から資金獲得のためにどのような戦略を練るのか。向けられている視線は徹頭徹尾、直接図書館を利用する人ではなくて、その資金がどのように使われ、どのような効果をもつのかに関心を寄せる人たちである。外部効果をいかにうまく説明できるかで資金獲得の如何が決まるといってよいだろう。これは非営利法人に共通する課題であるが、日本の公的セクターでもガバナンスが問題になるなら、こうした説得力をもつ必要がある。つまり、利用者や担当部門の職員、議員といった直接の関係者だけでなく、「外部」にいかにその存在をアピールし外部効果をもつ機関であることを示せるかにかかっている。
日本では菅谷明子が『未来をつくる図書館』(岩波新書)でニューヨーク公共図書館を紹介したのは2003年であり、この本はそれからずっと読まれ続けてきた。日本人にはこのような図書館はある種の理想ではあるけれども、何となくアメリカ社会だからあるいはニューヨーク市だから可能な桃源郷のできごとという感じで読まれてきたと思う。少なくとも図書館関係者はそう感じてきた。だがこの映画が描き出すテーマは、新公共経営(NPM)が言われ、指定管理者制が導入された日本の図書館経営とも共通するものである。資金と人員が縮小されるときにサービスポリシーと資金獲得のための説明をどのように行うかが課題である。
とはいえ日本でNYPLのように経営権が独立して存在する図書館がどれだけあるのかを考えてみると絶望的になる。もしこれに近い経営判断をしている図書館があるとすれば、いくつかの非営利法人が運営する専門図書館とNPOや個人ベースで運営されているマイクロライブラリーくらいだろうか。あとは、資金の枠が設定されていて、NPMとはその範囲内で効率的な運営をすることと理解されているのではないだろうか。図書館が市民生活のなかにまで入って資料の提供以外のサービスまで積極的に行うことを主張することは難しい。日米の税制の違いや非営利法人の位置付けの違いが大きいのだろうが、今できることは、この映画を見たあとに再度この本を読み、どこからできるのかを考えてみることだろうか。
資料に含まれている「言葉」のもつ作用がきわめて間接的であるが文化の根幹的な部分を規定していることは、図書館という社会機関を考える際に決して無視できないものである。これは美術館や博物館など、同様に外部効果に頼らざるをえない機関とも共通している。日本では、この作用は社会において決して見えるものではなかったが、最近、後藤和子・勝浦正樹編『文化経済学』(有斐閣)が出ているように、美術館や博物館についての学術的議論が始まっている。では、図書館の根幹的な作用とは何であるのか、また外部効果として経済的な価値に置き換えられうるのか。こうしたことを改めて考えさせられた。
おまけ
原題はEx Libris--The New York Public Libraryで、日本のタイトルと逆になっているのはよくあることだ。このEx Librisは蔵書票と訳される。exは「外」を意味し、librisは蔵書のことで、英語にすれば"from the collection"ということである。蔵書家がこれを本に貼り付けたのは、本の貸し借りの慣習があったからである。本が重要な知的財産であると同時に関係者で共有する考え方があったことを示すものだ。タイトルは近代公共図書館思想にこうした共有思想があることを示しているのだろう。
上映館についてはここを参照
岩波ホールは7月5日までで、順次、全国ロードショーとなっている。
大阪ではテアトル梅田で6月21日から上映
というわけで、最近こんなに長い映画を観たことがないのでどうなることかと戦々恐々ではあったが、結果的には集中して観続けることができた。しかし、最近は名画座系でも座席は快適なところが多いから、前の座席の人の頭が画面の一部を遮る可能性があるこのホールのつくりの古さは少々気になった。
映画について
さて、映画そのものだが、「ドキュメンタリーの巨匠」フレデリック・ワイズマン監督が比較的短時間のあいだに、この図書館(NYPL)で起こっていることを撮影し、断片をつないで編集して見せてくれるものだ。本館、複数の分館、地域館の建物や内装、イベント(とくに何人もの作家が自著について語る様子)、内部でのサービスの有り様、経営面の議論などを紹介している。図書館という地味に思えるものを紹介したドキュメンタリーがなぜ一本の商業映画になるのか、また、それがなぜ数々のドキュメンタリー部門の映画賞を受賞しているのか、さらには、それがなぜ日本でも上映され、多くの人が見にくるのか。このあたりが長年日本の図書館の不遇さに嘆いていた私には不思議に思われたので、どう見えたかについて書いておく。
まず、ワイズマンは別のインタビューに答えて、この図書館の利用者でも何でもないという。人に紹介されて、ここのおもしろさを知り撮ってみようと思ったと発言している。その「おもしろさ」は確かにこの映画全体にあふれていた。だが、監督がおもしろいと思て取り上げ、私も同様の感想をもったものが、映画評論家に高く評価され、日本のメディアでも取り上げられるのかについては考えてみる必要があるだろう。それをあえて説明すれば、ネット社会の到来による情報アクセスの利便性と、その裏側で生じている経済格差、そして、さらにはアメリカが抱えている人種問題が扱われ、それが現代の状況と対局にある論理にまとめ上げられているからである。つまり、ポストトゥルースの状況において、図書館が知の真理性の最後の砦になることを主張しているのである。この観点はアメリカでならニューヨークや西海岸の知識人に支持されるだろう。しかし、日本ではどうなのか。
映画から読み取れる同館の活動内容
図書館は、単に書物のコレクションを提供する場ではないことが繰り返し示されている。まず何よりもマンハッタンの中心部にあるという立地条件と、そのボザール様式という大理石造りのがっちりした建物がある。室内は広く天井は高い。家具調度品は豪華である。過度なきらびやかさは排除されているものの、知と美に対する最高の敬意が示され、それに伴う巨額の資金がつぎ込まれていることは一目瞭然である。古典古代、そしてルネサンスやバロックのヨーロッパの知的伝統をそのまま継承し、アメリカ資本主義によってニューヨークという都市に発展させようという意気込みがここに見られる。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけての白人中産階級の文化構築の意思から始まったが、それにとどまってはいなかった。20世紀後半には、差別撤廃の社会的議論を反映させた多文化主義が採用される。何度か出てくる黒人文化研究図書館はNYPLの分館の一つであり、ここがもつアーカイブ的な資料は作家や研究者に黒人差別の実態を伝えるものとして重要な研究拠点になっている。19世紀にあった奴隷制と資本主義、共和主義の関係についてのレクチャーのシーンでは、マルクスがリンカーンに送ったという書簡が取り上げられていて、ここから共産主義者のマルクスが共和主義者のリンカーンを支持したのが、黒人の奴隷からの解放と労働者の解放を重ねて見ていたことが語られる。チャイナタウンに近い分館では、中国系移民に対する中国語でのサービスが行われている。また障害者サービスとしての点字や録音図書作成のシーンがある。手話通訳のボランティアを養成する講座のシーンがあり、「アメリカ独立宣言」の一節を、懇願するように読む場合と怒りを込めて読む場合とで手話通訳の動作が違っていると言って、実際にやってみせるシーンがおもしろかった。
ハイカルチャーの文字資料をあつかっているだけではない。ポピュラーカルチャーへの配慮が示される。写真コレクションは20世紀までのアメリカ人のコマーシャリズムや日常生活をそのまま写し取って蓄積したものである。先ほどの手話通訳のシーンは舞台芸術図書館のものだが、ここはメトロポリタン歌劇場に隣接している。舞台芸術から大衆芸能にいたる、台本・脚本や楽譜、映像資料、録音資料だけでなく、舞台装置のミニチュアセットや衣装デザイン、プログラム、ポスターなどの資料を集めて提供している。単なる印刷出版された資料だけでなくて、個々のパフォーマンスに対応する複製資料を集めている場である。
こうした図書館の活動を支える仕組みであるが、よく知られているようにここは非営利法人組織になっている。ニューヨーク市からの助成金と民間から寄付金が半分ずつという説明がされていた。もともと、アスター、レノックス、ティルデンの3財団の資金を統合して始まり、それにカーネギー財団からの寄付金が加わって、これらを基金としたものである。だが活動資金は自動的に入るようなものではなく、獲得するための説明がきわめて重要になる。
映画で何度も登場するのが、この図書館の経営会議である。運営資金をいかに調達するか、それから、どのような方面に向けてどのようなサービスを拡張していくかについて、侃々諤々の議論が行われている。重点をおいて描かれているのが、ネット弱者への対応である。そのなかでは、20世紀にカーネギーが無料公共図書館を寄付することによって印刷本の普及を図ったように、図書館がPCやネットへのアクセスをネット難民に無料で提供することによって、紙とデジタルとを問わず知へのアクセスを保証するという考え方をとっていることが強調される。しかしながら、図書館が実際に提供するコンテンツとして、紙かデジタルか、また提供するものが要求の多いものか価値あるものにするかというような、以前からある議論は継続して行われていることもわかる。
こうした図書館を支える人たちがどういう人なのかについては、あまり説明はなかった。今の経営会議への出席者は館長、渉外担当役員、主任司書などであり、彼らの間でも方針について差異が見られた。また、それぞれの専門図書館の責任者は司書というよりはキュレーターのような主題分野の専門家のようだ。分館や実際の資料コレクションの担当者になってはじめて図書館資料の利用について直接語る役回りになっている。これらについて知るためには、800円で売られている映画解説のパンフレットが役に立った。
映画が示唆する図書館の在り方
まず、この映画は最初から最後まで、誰かが話す、あるいは語るシーンで成り立っている。静謐な読書環境というステレオタイプの図書館観からすると意外なことに、声が横溢している。電話レファレンスの応対、作家の講演やインタビュー、カウンターでのやりとり、経営会議での議論等々。閲覧室で利用者が資料を繰ったり、読んだりしているシーンがないわけではないが、それはごく一部である。これは図書館がもつ膨大な資料がもたらす作用であると考えることもできる。図書館という場を描く以上、建物の内外の映像以外にメッセージを伝えようとすれば、声を中心にせざるを得ない。図書館は声が発生する場として描かれているのである。資料に含まれるメッセージはそれが読まれなくともそこにあるだけで何らかの作用をもたらし、作家はこの場で話しをすることで自分の言葉が他の資料に含まれる言葉と共鳴して自由な発想が可能になると主張しているかのようだ。
また、図書館の活動が来館者に何らかの資料やサービスを提供することに加えて、「場所の効果」と「資料がもたらす作用」自体に価値があるという考え方がとられている。 図書館がそこにあるだけで社会に対して何ものかを生み出している。本館の神殿のような建物がそういう効果をもつことは言うまでもない。そういう場所で調査研究することで西欧の学術の奥義に触れるような気にさせられることもまた否定できない。公共図書館がPeople's Universityと言われることがあるが、それは大学の知的権威性をそのまま反映させたこのような場所でないと実感はわかない。
「資料がもたらす作用」の典型は先程示した「声」である。映画で作家の声として示されているものは、図書館の資料を読む市民の内面の比喩的な表現である。つまり、利用者は資料を使うことでそこに含まれている「知」の声を聴くのである。さきほど、パフォーミングアーツの大量の一次資料があると書いたが、それらもまた演劇や朗読、ダンス、音楽ショー、バレエといった声と身体表現による言葉の表現である。それらの資料があることで、次の作品が生み出される。日本ではようやくそうした舞台芸術や音楽、映画などの資料をアーカイブとして残すことへの注目が始まっているが、それはデジタル化とセットで議論されている。しかし、ニューヨークではデジタル化以前に一回性のパフォーマンスについての資料を残すことも行われている。さきほど紹介した手話通訳の話しは、同じテクストが朗読者に媒介され、さらに通訳者によって表現されるという話しであるが、資料がもたらす作用とはテクストがこのようなパフォーマンスを通してつくる表現空間において現れるものである。作用が社会的なものに向けられれば、差別の問題や経済格差の問題に向けられることになる。
これを経済学の用語を使うと外部効果ということもできる。図書館が静的なイメージから動的なイメージへと転換するという描写は、経営会議のシーンで表現される。そこで論じられているのはまさしく外部効果といってよい。ニューヨーク市の財務当局と掛け合うため、そして民間の寄付者から資金獲得のためにどのような戦略を練るのか。向けられている視線は徹頭徹尾、直接図書館を利用する人ではなくて、その資金がどのように使われ、どのような効果をもつのかに関心を寄せる人たちである。外部効果をいかにうまく説明できるかで資金獲得の如何が決まるといってよいだろう。これは非営利法人に共通する課題であるが、日本の公的セクターでもガバナンスが問題になるなら、こうした説得力をもつ必要がある。つまり、利用者や担当部門の職員、議員といった直接の関係者だけでなく、「外部」にいかにその存在をアピールし外部効果をもつ機関であることを示せるかにかかっている。
日本では菅谷明子が『未来をつくる図書館』(岩波新書)でニューヨーク公共図書館を紹介したのは2003年であり、この本はそれからずっと読まれ続けてきた。日本人にはこのような図書館はある種の理想ではあるけれども、何となくアメリカ社会だからあるいはニューヨーク市だから可能な桃源郷のできごとという感じで読まれてきたと思う。少なくとも図書館関係者はそう感じてきた。だがこの映画が描き出すテーマは、新公共経営(NPM)が言われ、指定管理者制が導入された日本の図書館経営とも共通するものである。資金と人員が縮小されるときにサービスポリシーと資金獲得のための説明をどのように行うかが課題である。
とはいえ日本でNYPLのように経営権が独立して存在する図書館がどれだけあるのかを考えてみると絶望的になる。もしこれに近い経営判断をしている図書館があるとすれば、いくつかの非営利法人が運営する専門図書館とNPOや個人ベースで運営されているマイクロライブラリーくらいだろうか。あとは、資金の枠が設定されていて、NPMとはその範囲内で効率的な運営をすることと理解されているのではないだろうか。図書館が市民生活のなかにまで入って資料の提供以外のサービスまで積極的に行うことを主張することは難しい。日米の税制の違いや非営利法人の位置付けの違いが大きいのだろうが、今できることは、この映画を見たあとに再度この本を読み、どこからできるのかを考えてみることだろうか。
資料に含まれている「言葉」のもつ作用がきわめて間接的であるが文化の根幹的な部分を規定していることは、図書館という社会機関を考える際に決して無視できないものである。これは美術館や博物館など、同様に外部効果に頼らざるをえない機関とも共通している。日本では、この作用は社会において決して見えるものではなかったが、最近、後藤和子・勝浦正樹編『文化経済学』(有斐閣)が出ているように、美術館や博物館についての学術的議論が始まっている。では、図書館の根幹的な作用とは何であるのか、また外部効果として経済的な価値に置き換えられうるのか。こうしたことを改めて考えさせられた。
おまけ
原題はEx Libris--The New York Public Libraryで、日本のタイトルと逆になっているのはよくあることだ。このEx Librisは蔵書票と訳される。exは「外」を意味し、librisは蔵書のことで、英語にすれば"from the collection"ということである。蔵書家がこれを本に貼り付けたのは、本の貸し借りの慣習があったからである。本が重要な知的財産であると同時に関係者で共有する考え方があったことを示すものだ。タイトルは近代公共図書館思想にこうした共有思想があることを示しているのだろう。
上映館についてはここを参照
岩波ホールは7月5日までで、順次、全国ロードショーとなっている。
大阪ではテアトル梅田で6月21日から上映
2019-06-09
「日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策」
2019年6月8日(土)に帝京大学で開催の日本図書館情報学会春季研究集会での発表原稿です。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
2019-06-03
「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」
昨年の日本図書館情報学会研究大会で発表したものを公表します。
根本彰「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」『2018 年度日本図書館情報学会研究大会発表論文集』琉球大学, 2018 年11 月3 日, p.45-48.
根本彰「今後の学校図書館を導くための学習理論の考察」『2018 年度日本図書館情報学会研究大会発表論文集』琉球大学, 2018 年11 月3 日, p.45-48.
抄録
ジョン・デューイの経験主義哲学に基づく新教育が20世紀末には、認知心理学の影響を受けて構成主義的教育学に展開したこと、それが政策的には、折からの新自由主義経済への対応としてOECD/DeSeCoのコンピテンス概念を通じて21世紀の学習理論に発展したことを跡づける。さらに、これらが西欧思想上のロゴス(言語=論理)概念をもとにしていることを述べ、それが言語資料の操作概念を通じて学校図書館の言語力と探究力の二つの学習への対応戦略を導くものになったことについて述べる。
2019-05-31
「戦後教育学の出発と学校図書館の関係」
2018年5月12日(土)に早稲田大学にて開催された日本図書館情報学会春季研究集会での発表原稿です。
根本 彰「戦後教育学の出発と学校図書館の関係」
『日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』早稲田大学, 2018年5月12日, p.103-106.
抄録 学校図書館の中心機能である学習を支える機能について、戦後初期の新教育の考え方 にどのように位置づけられたのかを、当時の学校図書館構想における教育学的考え方 の検討と、新しい教育学の構想のなかで学校図書館についての言及がどの程度あった のかの検討を通じて明らかにした。政策的なものが作用するうちは、学校図書館と教育学は関わり合おうとしたが、作用が弱まると疎遠になったことが分かる。
根本 彰「戦後教育学の出発と学校図書館の関係」
『日本図書館情報学会春季研究集会発表論文集』早稲田大学, 2018年5月12日, p.103-106.
抄録 学校図書館の中心機能である学習を支える機能について、戦後初期の新教育の考え方 にどのように位置づけられたのかを、当時の学校図書館構想における教育学的考え方 の検討と、新しい教育学の構想のなかで学校図書館についての言及がどの程度あった のかの検討を通じて明らかにした。政策的なものが作用するうちは、学校図書館と教育学は関わり合おうとしたが、作用が弱まると疎遠になったことが分かる。
2019-05-14
『図書館の世界』(フランス語版)への寄稿(改訂)
フランスのEditions du Cercle de la Librairieから、Julien Roche編のUn monde de
bibliothèquesという本が出ました。これは世界の建物が美しい図書館を38館(ヨーロッパ22館,アメリカ8館,それ以外8館)を選んで写真と解説をつけたものです。このなかで、日本の国立国会図書館と金沢市立図書館について執筆しました。(日本語で書いたものが仏訳されています)
依頼(英語)があったときにKanazawa Libraryと書いてあったので、金沢文庫のことかと思い問い合わせたら、金沢市図書館とのこと。どうも、海みらい図書館がフランスでも知られているらしくそれを紹介したいということのようでした。本はまだ日本ではあまり紹介されていませんが、紀伊国屋書店のサイトには掲載されていました。
次は書店のページにあった本の表紙とそこにリンクされた広告コピーの日本語訳、そして目次です。コピーはGoogle Translationを使って下訳したものに手を入れました。45年前に学んだフランス語(平川祐弘に最初の文法を学び、2年目に蓮實重彦とプルーストを読んだが、すっかり錆びついていた)を思い出しながら、自由に意訳してあります。
なお、出版社のサイトには、編者 Julien ROCHEの序文と著者一覧も掲載されています。
<図書館は、ときに壮麗で感動的なイメージを喚起する場所であり、文化がハイパーコネクトされた、いわば魔術的なシンボル世界に位置づけられているために、そのことを扱った美麗本はたくさん出ています。しかし、それはこの本の意図するところではありません。この本は、断固として別のやり方をとります。過去、あるいは最近建てられた建物がもつ魅力的な力を余すことなく伝えるために、本書は、図書館が置かれた環境、その活動領域、そのコミュニティとそのネットワークとともにあることを含めて、多数の著名な図書館の全体像を提示します。それにより、図書館は単なる函であることを超えて、視覚に訴え、智に働き、影響力を行使する存在であることが理解できます。
未公表の写真を配置した40のオリジナルの解説に接することで、この本は大陸別に分けて読者を気ままな旅に誘います。大規模なものも小規模なものも、有名どころも知られていないものも、稀少なるものもまったく "普通"のものも、そして、豪華なものも質素なものも、公立、大学、国立、または専門の、およそ、世界中のすべてのカテゴリーの図書館がここに提示されています。かなり最近のものもあれば、何世紀も前のもの、あるいは何千年も前のものもあります。それらはすべておのおののユーザーに提供するサービスの質という点で典型となっているものです。そして、すべてが図書館の歴史、あるいは歴史そのものを語っているのです。>
“Sommaire
Introduction
Julien ROCHE
EUROPE
La bibliothèque de l’État de Basse-Saxe et de l’université de Göttingen (SUB), un laboratoire du savoir
Elmar MITTLER
Un joyau dans l’Université libre de Berlin, la Bibliothèque philologique
Petra HAUKE
La « Humboldt » de Berlin, de l’idéal humboldtien au Centre Jacob-et-Wilhelm-Grimm
Petra HAUKE
La bibliothèque de l’université Cottbus-Senftenberg, tiers-lieu, « non-lieu » et lieu à succès
Andreas DEGKWITZ
Le Library and Learning Centre de l’université d’économie et des affaires de Vienne, un joyau au cœur du campus
Andreas AMENDT et Marie-Pierre PAUSCH-ANTOINE
La Bibliothèque nationale du Bélarus, une histoire dans l’Histoire
Roman Stepanovič MOTUL’SKIJ
La Bibliothèque nationale et universitaire de Zagreb, marqueur de l’histoire de l’Europe centrale
Marija DALBELLO
La Bibliothèque royale du Danemark, un diamant danois
Steen BILLE LARSEN
La bibliothèque de l’université de Salamanque, une institution à travers l’Histoire
María ELVIRA Y SILLERAS
La bibliothèque de la Citadelle de l’université Pompeu Fabra de Barcelone, un joyau dans la ville
Lluís AGUSTÍ
La Bibliothèque universitaire centrale d’Helsinki, un outil remarquable au service de l’attractivité de l’université”
“Kaisa SINIKARA
Les bibliothèques de l’Université catholique du Sacré-Cœur, entre tradition et modernité
Mario GATTI et Ellis SADA
La nouvelle Bibliothèque nationale de Lettonie, montagne de verre et château de lumière
Andris VILKS
La bibliothèque de Vennesla, une architecture inspirée pour un projet ancré dans son territoire
Anne Kjersti BENTSEN
La bibliothèque publique d’Amsterdam, de l’inclusion et du vivre ensemble au service de la diversité
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
La bibliothèque publique de Spijkenisse, une bibliothèque durable et ouverte sur la Cité
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
La bibliothèque municipale d’Heerhugowaard, un poumon de vie culturelle, sociale et communautaire tourné vers la jeunesse
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
Le centre culturel Rozet aux Pays-Bas, un exemple réussi de bibliothèque intégrée
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
Le Saltire Centre de l’université calédonienne de Glasgow, un bâtiment et un concept pionniers
Les WATSON
La nouvelle Nouvelle Bibliothèque Bodleian, un lieu refondé au service de la recherche
Wolfram HORSTMANN
La British Library, une bibliothèque à vocation universelle
John TUCK
La Bibliothèque nationale de Russie, une institution culturelle clé de la Fédération
Andrei ANTONENKO
La bibliothèque abbatiale de Saint-Gall, une institution[...]”“ un patrimoine pour l’humanité
Ambrogio M. PIAZZONI
AMÉRIQUES
La bibliothèque George-Peabody, la vision d’un philanthrope moderne
Yvon-André LACROIX
La bibliothèque James B. Hunt Jr. de l’université d’État de Caroline du Nord, un équipement exceptionnel
Carolyn ARGENTATI et Chris TONELLI
La New York Public Library, une bibliothèque ouverte sur le monde
Marija DALBELLO
La Thomas Fisher Rare Book Library de l’université de Toronto, une collection exceptionnelle de livres rares et d’archives
Marcel LAJEUNESSE
La Grande Bibliothèque du Québec, une très belle réussite
Yvon-André LACROIX
La Taylor Family Digital Library de l’université de Calgary, un centre culturel et intellectuel
Guylaine BEAUDRY
La bibliothèque Palafoxiana, porte ouverte sur la culture de la Nouvelle-Espagne
Fabiola Patricia MONROY VALVERDE
La Vasconcelos, une bibliothèque vivante
Daniel GOLDIN
AFRIQUE, ASIE, OCÉANIE
La bibliothèque de l’université de technologie du Queensland, expérience étudiante, services aux chercheurs et innovation
Judy STOKKER et Sue HUTLEY
La Bibliothèque nationale de Chine, un outil emblématique du rayonnement chinois
Tommy YEUNG
La Bibliotheca Alexandrina, renaissance de la bibliothèque d’Alexandrie
Gérald GRUNBERG
La Bibliothèque nationale de la Diète, un rayonnement
Akira NEMOTO
Les bibliothèques municipales de Kanazawa, un réseau remarquable
Akira NEMOTO
La Bibliothèque nationale du Royaume du Maroc, un rayonnement international
Driss KHROUZ
La bibliothèque de l’université Saint-Thomas de Manille, mémoire de l’histoire des Philippines
Anabel de la PAZ
Une nouvelle Bibliothèque nationale pour le Qatar
Claudia LUX”
依頼(英語)があったときにKanazawa Libraryと書いてあったので、金沢文庫のことかと思い問い合わせたら、金沢市図書館とのこと。どうも、海みらい図書館がフランスでも知られているらしくそれを紹介したいということのようでした。本はまだ日本ではあまり紹介されていませんが、紀伊国屋書店のサイトには掲載されていました。
次は書店のページにあった本の表紙とそこにリンクされた広告コピーの日本語訳、そして目次です。コピーはGoogle Translationを使って下訳したものに手を入れました。45年前に学んだフランス語(平川祐弘に最初の文法を学び、2年目に蓮實重彦とプルーストを読んだが、すっかり錆びついていた)を思い出しながら、自由に意訳してあります。
なお、出版社のサイトには、編者 Julien ROCHEの序文と著者一覧も掲載されています。
<図書館は、ときに壮麗で感動的なイメージを喚起する場所であり、文化がハイパーコネクトされた、いわば魔術的なシンボル世界に位置づけられているために、そのことを扱った美麗本はたくさん出ています。しかし、それはこの本の意図するところではありません。この本は、断固として別のやり方をとります。過去、あるいは最近建てられた建物がもつ魅力的な力を余すことなく伝えるために、本書は、図書館が置かれた環境、その活動領域、そのコミュニティとそのネットワークとともにあることを含めて、多数の著名な図書館の全体像を提示します。それにより、図書館は単なる函であることを超えて、視覚に訴え、智に働き、影響力を行使する存在であることが理解できます。
未公表の写真を配置した40のオリジナルの解説に接することで、この本は大陸別に分けて読者を気ままな旅に誘います。大規模なものも小規模なものも、有名どころも知られていないものも、稀少なるものもまったく "普通"のものも、そして、豪華なものも質素なものも、公立、大学、国立、または専門の、およそ、世界中のすべてのカテゴリーの図書館がここに提示されています。かなり最近のものもあれば、何世紀も前のもの、あるいは何千年も前のものもあります。それらはすべておのおののユーザーに提供するサービスの質という点で典型となっているものです。そして、すべてが図書館の歴史、あるいは歴史そのものを語っているのです。>
“Sommaire
Introduction
Julien ROCHE
EUROPE
La bibliothèque de l’État de Basse-Saxe et de l’université de Göttingen (SUB), un laboratoire du savoir
Elmar MITTLER
Un joyau dans l’Université libre de Berlin, la Bibliothèque philologique
Petra HAUKE
La « Humboldt » de Berlin, de l’idéal humboldtien au Centre Jacob-et-Wilhelm-Grimm
Petra HAUKE
La bibliothèque de l’université Cottbus-Senftenberg, tiers-lieu, « non-lieu » et lieu à succès
Andreas DEGKWITZ
Le Library and Learning Centre de l’université d’économie et des affaires de Vienne, un joyau au cœur du campus
Andreas AMENDT et Marie-Pierre PAUSCH-ANTOINE
La Bibliothèque nationale du Bélarus, une histoire dans l’Histoire
Roman Stepanovič MOTUL’SKIJ
La Bibliothèque nationale et universitaire de Zagreb, marqueur de l’histoire de l’Europe centrale
Marija DALBELLO
La Bibliothèque royale du Danemark, un diamant danois
Steen BILLE LARSEN
La bibliothèque de l’université de Salamanque, une institution à travers l’Histoire
María ELVIRA Y SILLERAS
La bibliothèque de la Citadelle de l’université Pompeu Fabra de Barcelone, un joyau dans la ville
Lluís AGUSTÍ
La Bibliothèque universitaire centrale d’Helsinki, un outil remarquable au service de l’attractivité de l’université”
“Kaisa SINIKARA
Les bibliothèques de l’Université catholique du Sacré-Cœur, entre tradition et modernité
Mario GATTI et Ellis SADA
La nouvelle Bibliothèque nationale de Lettonie, montagne de verre et château de lumière
Andris VILKS
La bibliothèque de Vennesla, une architecture inspirée pour un projet ancré dans son territoire
Anne Kjersti BENTSEN
La bibliothèque publique d’Amsterdam, de l’inclusion et du vivre ensemble au service de la diversité
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
La bibliothèque publique de Spijkenisse, une bibliothèque durable et ouverte sur la Cité
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
La bibliothèque municipale d’Heerhugowaard, un poumon de vie culturelle, sociale et communautaire tourné vers la jeunesse
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
Le centre culturel Rozet aux Pays-Bas, un exemple réussi de bibliothèque intégrée
Zsófia BENE, Olindo CASO et Marian KOREN
Le Saltire Centre de l’université calédonienne de Glasgow, un bâtiment et un concept pionniers
Les WATSON
La nouvelle Nouvelle Bibliothèque Bodleian, un lieu refondé au service de la recherche
Wolfram HORSTMANN
La British Library, une bibliothèque à vocation universelle
John TUCK
La Bibliothèque nationale de Russie, une institution culturelle clé de la Fédération
Andrei ANTONENKO
La bibliothèque abbatiale de Saint-Gall, une institution[...]”“ un patrimoine pour l’humanité
Ambrogio M. PIAZZONI
AMÉRIQUES
La bibliothèque George-Peabody, la vision d’un philanthrope moderne
Yvon-André LACROIX
La bibliothèque James B. Hunt Jr. de l’université d’État de Caroline du Nord, un équipement exceptionnel
Carolyn ARGENTATI et Chris TONELLI
La New York Public Library, une bibliothèque ouverte sur le monde
Marija DALBELLO
La Thomas Fisher Rare Book Library de l’université de Toronto, une collection exceptionnelle de livres rares et d’archives
Marcel LAJEUNESSE
La Grande Bibliothèque du Québec, une très belle réussite
Yvon-André LACROIX
La Taylor Family Digital Library de l’université de Calgary, un centre culturel et intellectuel
Guylaine BEAUDRY
La bibliothèque Palafoxiana, porte ouverte sur la culture de la Nouvelle-Espagne
Fabiola Patricia MONROY VALVERDE
La Vasconcelos, une bibliothèque vivante
Daniel GOLDIN
AFRIQUE, ASIE, OCÉANIE
La bibliothèque de l’université de technologie du Queensland, expérience étudiante, services aux chercheurs et innovation
Judy STOKKER et Sue HUTLEY
La Bibliothèque nationale de Chine, un outil emblématique du rayonnement chinois
Tommy YEUNG
La Bibliotheca Alexandrina, renaissance de la bibliothèque d’Alexandrie
Gérald GRUNBERG
La Bibliothèque nationale de la Diète, un rayonnement
Akira NEMOTO
Les bibliothèques municipales de Kanazawa, un réseau remarquable
Akira NEMOTO
La Bibliothèque nationale du Royaume du Maroc, un rayonnement international
Driss KHROUZ
La bibliothèque de l’université Saint-Thomas de Manille, mémoire de l’histoire des Philippines
Anabel de la PAZ
Une nouvelle Bibliothèque nationale pour le Qatar
Claudia LUX”
2019-05-13
『教育改革のための学校図書館』(東大出版会)の刊行予告
6月25日に、表記の本を刊行予定です。
この本は、私が携わってきた領域のなかで、学校図書館にかかわるものを集大成したものです。 とくに今の教育改革と戦後の学校図書館の制度と位置づけがねじれた関係にあったことを整理し、このねじれを解くため提言をしています。
たとえば、1953年の学校図書館法ができるときに、実は文部省でも当時の経験主義教育を支援するために学校図書館制度をつくる動きがあり、専任司書教諭の配置までを視野に入れていました。東京学芸大学の附属学校ではそのために「図書館教育」のモデルカリキュラムの実験をしていました。これがなぜ「教諭をもって充てる」かたちのでの司書教諭が制度化されてしまったのか。当時の教育学者はこの動きに対してどのような反応を示していたのか。第Ⅰ部ではこの問題を取り上げます。このなかでは第3章は書き下ろしです。学校教育学のなかでもとくに教育課程論や教育方法学と学校図書館の関係がねじれたままになったのがなぜだったのかについて、考察しています。
第II部はその後の教育改革のなかで学校図書館問題がどのように位置づけられたのかについて、さまざまな角度から論じています。第6章では、ここ20年ほどで行った実証的な調査についてのまとめを掲載しました。
第III部では、外国の事例について述べました。アメリカについては書かれたものがけっこうありますが、ここではとくにフランスを取り挙げます。実はアメリカもフランスも20世紀の百年をかけて教育改革をつづけていますが、そのなかでアメリカでは20世紀なかばに、フランスでは20世紀末に、学校図書館の制度化と専門的な図書館員の配置の制度化を進めました。私は教育改革は100年単位で考えるべき問題と思いますから、この二つの国が若干の時差をもちながらその選択をした理由がなんなのか、日本ではその条件が整っているのかという問題意識から取り組みました。
第IV部は、まとめですが、第9章ではLIPER(図書館情報学専門職養成のリニューアル)学校図書館班で取り組んだ政策的課題をまとめています。そして最終章もまた書き下ろしでここまでの議論を整理し、若干の政策提言も含めて論じました。
全体でA5判で340ページにもなりました。それだけ複雑で困難な問題が横たわっていたからです。ここで述べた図書館と教育の関係の議論は、『情報リテラシーのための図書館』(みすず書房, 2017)に続くものです。価格もずいぶん高くなりましたがm(_ _)m、この領域では今までになかった総合的な考察をした書物であると自負しています。
<目次>
序
第I部 戦後の出発点の確認
第1章 戦後学校図書館制度成立期研究の現状
第2章 占領期における教育改革と学校図書館職員問題
第3章 戦後教育学の出発と学校図書館の関係
第1章 戦後学校図書館制度成立期研究の現状
第2章 占領期における教育改革と学校図書館職員問題
第3章 戦後教育学の出発と学校図書館の関係
第II部 教育改革と学校図書館
第4章 学校図書館における「人」の問題
第5章 教育改革と学校図書館の関係を考える
第6章 教育改革と学校図書館制度確立のための調査報告
第4章 学校図書館における「人」の問題
第5章 教育改革と学校図書館の関係を考える
第6章 教育改革と学校図書館制度確立のための調査報告
第III部 外国の学校図書館と専門職員制度
第7章 フランス教育における学校図書館CDI
第8章 米国ハワイ州の図書館サービスと専門職養成システム
第7章 フランス教育における学校図書館CDI
第8章 米国ハワイ州の図書館サービスと専門職養成システム
第IV部 日本の政策的課題
第9章 学校内情報メディア専門職の可能性
第10章 日本の教育改革の課題と学校図書館の可能性
第9章 学校内情報メディア専門職の可能性
第10章 日本の教育改革の課題と学校図書館の可能性
あとがき
なお、今後、3回にわたって日本図書館情報学会で発表した学校図書館と教育改革の課題についての論文をブログにアップする予定です。
==============================
7月9日追記
・7月1日に販売が始まりました。
・本書の序、1章1節、10章4節を読めるように公開しました。
https://oda-senin.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
==============================
7月27日追記
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の開催予告を行いました。
https://oda-senin.blogspot.com/2019/07/blog-post_27.html
==============================
7月9日追記
・7月1日に販売が始まりました。
・本書の序、1章1節、10章4節を読めるように公開しました。
https://oda-senin.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
==============================
7月27日追記
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の開催予告を行いました。
https://oda-senin.blogspot.com/2019/07/blog-post_27.html
==============================
2020年12月24日追記
この本をもとにした研究業績により2020年2月に慶應義塾大学より博士(図書館・情報学)が授与されました。その経緯や論文要旨、要約、審査要旨および審査に対する応答をブログにアップしました。
2019-04-20
つくば市旧小田小学校(一部教室)の地域活用を考える会
3月30日と4月19日に開催された標記の会に参加した。これは「小田市街地まちづくり勉強会」の一環として、つくば市都市計画課周辺市街地振興室の呼びかけで開催されたものである。
つくば市南部が東京への電車でのアクセスがいいので人口がどんどん増えているのに比べて、北部は少子高齢化が進む典型的な過疎地域である。そうしたところに住むことを決めたのには理由があるが、その一つには、マージナルなところは層化された歴史の断面が見えやすいという直感による。昨年6月に、北部の公立小中11校が廃校になって統合され、その廃校跡地をどのように使うのかについての説明会があったことはブログに書いた。最近になって新しい動きがあったのでここで報告しておく。
それは都市計画課が後押しして、小田小学校の2教室と運動場を地域の人たちが活用するための団体と事業計画をつくるための準備ということである。すでに、国と市からそのための修繕費が支出されることが決定していて、また、これを進めるための専門のコンサルタント会社を公募することもまもなく始まるということである。これだけのことをして、これを進めようというのは小田地区がいくつかの要素でこういう事業をモデル的に進めるのによい条件が揃っているという判断があったようである。それはたぶん、他の地区(周辺市街活性化の対象地区は全部で市内に8地区ある)に比べて、中世以来の歴史文化があり地理的にまとまっていて独立性が高いこと、小田城趾公園や宝篋山登山などで外部からの訪問客を受け入れている現状があることなどによるものと思われる。
2回の会では職員によるこの事業の趣旨説明があった。要するに、これは最初の1年間は市が面倒をみて小学校の一部を利用した地域再開発の手伝いをするが、あとは地域住民で自由に展開してほしいという仕掛けであることが理解できた。つまり、他の地区にさきがけて廃校利用のモデルケースとなることを期待しているということだ。
提案されている学校施設の利用用途について大まかには二つあり、一つは地域住民のコミュニティ活動の拠点にすることとであり、二つ目には宝篋山の登山客やサイクリングロードを走るサイクリストを引きつける施設として利用することである。話し合いでは、これらの提案にとくに異存はなかったし、それを引き受ける住民協議会に参加したいという人もけっこういた。ただし具体的に何をするのかということになると、いろんな意見があり、その受け皿として汎用的なものをどのようにつくっていくかが議論の中心だった。
たとえば、修繕の一環で簡易シャワーが使える設備をつくるかどうかは、目的にかかわる。そもそも今のところサイクリストはそんなに多くないし、ロードの途中でシャワーを浴びる人はいないだろう。登山道の拠点である駐車場から小学校まではちょっと距離があってわかりにくく、シャワーを使う人がどれだけあるか不明である。車で10分でウェルネスパークという温水施設があるからそこにいけばよい。というように、需要が不明なのに費用がかかり維持するのもたいへんそうな設備をつくるのがいいのかどうか。といった具合である。だからおおざっぱな方針をつくって、あとは地域の意見を集約できる準備会をつくり、さらには運営協議会を発足させるという方針でまとまった。
前にも書いたように、ここには地元のことについては熱く語る人たちがいる。また若い人や女性の参加者もけっこういていろんな意見を出していた。小田の街はふだんはあまり人通りもないが、祭りやイベントのときは盛り上がることを経験してきた。今は小田城跡公園が集まる場所になっている。小学校は地域の拠点の一つであるから、これがなくなったことで、再開発をきっかけとして小学校と小田城趾をうまくつなげるといいと思う。今はあいだに保育所と児童館が入っているが、かなり老朽化しているということなので、いずれは小学校の方に移転することを考えるべきだろう。歴史的保存地区に指定されているので新しい建物は建てられないから、そうなるとすっきりと両方がつながることになる。
そうなると、このブログを開設した2年前に書いた「緑と城の小田郷学」プロジェクト案の一部は実現することになるだろう。 念のためにここに再度書き出しておく。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
なお、この案をある人に見てもらったときに、小田小学校は車でのアクセスに非常に制限があって問題だという話しをされた。今回の話し合いでも、車道の拡張についてまっさきに市が取り組むべきではないかという意見があった。それに対して、市の担当者は今回の趣旨は市役所が後押しして、地域活性化を住民自らが取り組むための手伝いをすることであり、それがうまくいって実績が上がったら自ずとそうした環境整備のようなものに市が取り組むことがあるだろうということだった。確かに、小田小学校が明治の初期にできてから140年目にして廃校になり、新しい状況が生まれたわけだから、あまり焦らずにじっくりと地域づくりに取り組めばよいと考える。
つくば市南部が東京への電車でのアクセスがいいので人口がどんどん増えているのに比べて、北部は少子高齢化が進む典型的な過疎地域である。そうしたところに住むことを決めたのには理由があるが、その一つには、マージナルなところは層化された歴史の断面が見えやすいという直感による。昨年6月に、北部の公立小中11校が廃校になって統合され、その廃校跡地をどのように使うのかについての説明会があったことはブログに書いた。最近になって新しい動きがあったのでここで報告しておく。
それは都市計画課が後押しして、小田小学校の2教室と運動場を地域の人たちが活用するための団体と事業計画をつくるための準備ということである。すでに、国と市からそのための修繕費が支出されることが決定していて、また、これを進めるための専門のコンサルタント会社を公募することもまもなく始まるということである。これだけのことをして、これを進めようというのは小田地区がいくつかの要素でこういう事業をモデル的に進めるのによい条件が揃っているという判断があったようである。それはたぶん、他の地区(周辺市街活性化の対象地区は全部で市内に8地区ある)に比べて、中世以来の歴史文化があり地理的にまとまっていて独立性が高いこと、小田城趾公園や宝篋山登山などで外部からの訪問客を受け入れている現状があることなどによるものと思われる。
2回の会では職員によるこの事業の趣旨説明があった。要するに、これは最初の1年間は市が面倒をみて小学校の一部を利用した地域再開発の手伝いをするが、あとは地域住民で自由に展開してほしいという仕掛けであることが理解できた。つまり、他の地区にさきがけて廃校利用のモデルケースとなることを期待しているということだ。
提案されている学校施設の利用用途について大まかには二つあり、一つは地域住民のコミュニティ活動の拠点にすることとであり、二つ目には宝篋山の登山客やサイクリングロードを走るサイクリストを引きつける施設として利用することである。話し合いでは、これらの提案にとくに異存はなかったし、それを引き受ける住民協議会に参加したいという人もけっこういた。ただし具体的に何をするのかということになると、いろんな意見があり、その受け皿として汎用的なものをどのようにつくっていくかが議論の中心だった。
たとえば、修繕の一環で簡易シャワーが使える設備をつくるかどうかは、目的にかかわる。そもそも今のところサイクリストはそんなに多くないし、ロードの途中でシャワーを浴びる人はいないだろう。登山道の拠点である駐車場から小学校まではちょっと距離があってわかりにくく、シャワーを使う人がどれだけあるか不明である。車で10分でウェルネスパークという温水施設があるからそこにいけばよい。というように、需要が不明なのに費用がかかり維持するのもたいへんそうな設備をつくるのがいいのかどうか。といった具合である。だからおおざっぱな方針をつくって、あとは地域の意見を集約できる準備会をつくり、さらには運営協議会を発足させるという方針でまとまった。
前にも書いたように、ここには地元のことについては熱く語る人たちがいる。また若い人や女性の参加者もけっこういていろんな意見を出していた。小田の街はふだんはあまり人通りもないが、祭りやイベントのときは盛り上がることを経験してきた。今は小田城跡公園が集まる場所になっている。小学校は地域の拠点の一つであるから、これがなくなったことで、再開発をきっかけとして小学校と小田城趾をうまくつなげるといいと思う。今はあいだに保育所と児童館が入っているが、かなり老朽化しているということなので、いずれは小学校の方に移転することを考えるべきだろう。歴史的保存地区に指定されているので新しい建物は建てられないから、そうなるとすっきりと両方がつながることになる。
そうなると、このブログを開設した2年前に書いた「緑と城の小田郷学」プロジェクト案の一部は実現することになるだろう。 念のためにここに再度書き出しておく。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
2017年4月23日
「緑と城の小田郷学」プロジェクト案
以下は、小田に住み始めて数年、小田に定着し、何か貢献できないかと思ったときにやるべきことについて個人的にまとめたものです。
・ 長島尉信(江戸末期の小田在住の農政学者)に/を学ぶ
この人が小田で何をしていたのか
とりあえず、小田城趾公園案内所を借りての勉強会
・ 小田小学校廃校対策
小田小校舎と保育所・児童館を統合する。
城跡の公園とを結ぶ子どもから大人の学びの場をつくる
(体育館の利用・小ホールをつくる。ライブラリーによる広場機能)
紫峰学園筑波義務教育学校にとっての地域学習の拠点の一つとする
・ 小田城公園との連動
この人が小田で何をしていたのか
とりあえず、小田城趾公園案内所を借りての勉強会
・ 小田小学校廃校対策
小田小校舎と保育所・児童館を統合する。
城跡の公園とを結ぶ子どもから大人の学びの場をつくる
(体育館の利用・小ホールをつくる。ライブラリーによる広場機能)
紫峰学園筑波義務教育学校にとっての地域学習の拠点の一つとする
・ 小田城公園との連動
小田保育所=小田小学校跡地との一体的開発
公園案内所のミュージアム化(小田城の歴史と小田地区の歴史(長島家文書))
農と食との連動(筑波農場、武平ファームとの協働)による休憩施設
りんりんロードの拠点休憩所づくり(土浦、霞ヶ浦、北条、筑波山麓との連携)
つくバス小田シャトルの連絡の向上
(つくば駅からりんりんロードにつながる自転車道の整備)
・ 小田地区との連関
宝篋山への登山道入り口 (小田休憩所との連携)
小田祭り・どんど焼き等の祭り
文化財(小田不動磨崖仏、小田前山、極楽寺跡と忍性)
古民家華の幹、カフェ梟と駐車場との協働
(前山下の採掘跡地の再利用によるコンサートスペース)
*小学校と保育所との統合、自転車道整備、コンサートスペースはやや夢物語に近いか
公園案内所のミュージアム化(小田城の歴史と小田地区の歴史(長島家文書))
農と食との連動(筑波農場、武平ファームとの協働)による休憩施設
りんりんロードの拠点休憩所づくり(土浦、霞ヶ浦、北条、筑波山麓との連携)
つくバス小田シャトルの連絡の向上
(つくば駅からりんりんロードにつながる自転車道の整備)
・ 小田地区との連関
宝篋山への登山道入り口 (小田休憩所との連携)
小田祭り・どんど焼き等の祭り
文化財(小田不動磨崖仏、小田前山、極楽寺跡と忍性)
古民家華の幹、カフェ梟と駐車場との協働
(前山下の採掘跡地の再利用によるコンサートスペース)
*小学校と保育所との統合、自転車道整備、コンサートスペースはやや夢物語に近いか
テーマ:自然と農、伝統と文化
「小田」を素材にした人々の交流の場・学びの場・遊びの場にする
郷学の復活(江戸時代の庶民の私塾、小田小学校の前身は郷学だったのでは?)
|
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
なお、この案をある人に見てもらったときに、小田小学校は車でのアクセスに非常に制限があって問題だという話しをされた。今回の話し合いでも、車道の拡張についてまっさきに市が取り組むべきではないかという意見があった。それに対して、市の担当者は今回の趣旨は市役所が後押しして、地域活性化を住民自らが取り組むための手伝いをすることであり、それがうまくいって実績が上がったら自ずとそうした環境整備のようなものに市が取り組むことがあるだろうということだった。確かに、小田小学校が明治の初期にできてから140年目にして廃校になり、新しい状況が生まれたわけだから、あまり焦らずにじっくりと地域づくりに取り組めばよいと考える。
ポメラDM200を再度利用してみて
2017年6月23日付けのブログに書いたものの続きである。
通勤時に使える軽くて機動性のよい入力機器がないか、というのが2年前のテーマだった。かつて使っていたVAIO Xという軽量薄型のパソコンを引っ張り出したが、やはり非力で使えない。そこで、キングジムのポメラDM200というキーボード付きでテキスト打ちだけができる機器を使ってみると書いていた。しかしながら、これを使ったのは、せいぜい1ヶ月くらいだったと思う。この機器の特徴はテキスト入力オンリーというところにあり、とくに開くとすぐ使えてかつ、ネットにつなげないことがメリットということが広く知られている。だから、文字生産ないし文字入力の専業者であるならこれの使い勝手がよいと感じ、実際にそういう熱心な支持者がいるらしい。
残念ながら私はそうではなかった。確かにテキストだけを入力することも多いのだが、どうしても書くのは論文や著書の一部分なので、図表と組み合わせることが少なくない。ネットにつないで調べたり確認したりすることもしばしばある。最終的にテキストはPCのワープロソフトで編集することになるので、PCとの連携がきわめて重要なのだが、接続がよくないのが最大の問題だった。前のブログで触れたように、無線LANやSDカード、そしてUSBケーブルも使えるのだがどれも今ひとつだ。このなかではUSBケーブルがあればすぐにつなげるので一番使い勝手がよいのだが、それでもケーブルを用意していちいち二つの機器をつなげなければならない。通勤とか外に出ているときに使うものなので、帰ってからいちいちつないでファイルにコピーアンドペーストするのはけっこう面倒になる。PCで一番使い勝手がよいUSBメモリを差して使うやりかたができないのが困る。この頃は、ネット上のドライブを使うことはまだ一般的ではなかったので使っていなかったが、DM200はそれには対応していない。
前のブログで、DM200のサイズでWordファイルを扱えるPCがあればいいのだがと書いた。以前に使っていたVAIO Xはそういうものだったし、同じ頃にソニーはVAIO Pというモデルも出していた。DM200はVAIO Pの横長のデザインを真似ているように見える。だが、しばらくそういう、携帯に便利で軽いPCをみなかったところ、ここ数年でそのたぐいのものが普及している。一つはタブレットの性能があがり、PC並の処理能力をもつようになっている。それでも画面上のヴァーチャルなキーボードは使う気になれない。(若い人はスマートフォンでけっこう長いものも書くというからこのあたりは慣れの問題なのかもしれない。)ところが、タブレットにキーボードを組み合わせたものが出始めていてけっこう使っている人を見かける。重量と起動性という意味ではこれはいいのかもしれないが、PCに置き換わるものにはならないだろう。別のものの組み合わせだから不安定であり、これを膝の上に乗せて使っているのは見たことがない。
最近のPCの薄型化・軽量化の動向も見過ごせない。DM200の重さは600グラムくらいで、それに近いPCが現れている。富士通やNECからは12〜13インチPCで700グラムから800グラムくらいのものが出ていて、これなら持ち運べるかもしれない。画面が大きくてよいが、値段はけっこう高いし車内で使うには大きすぎる。高くていいなら、AppleのMacbookの最近出たものも候補になるかもしれない。それと、輸入物だが超小型PCというのも出ている。GPDとかOne-Netbookと呼ばれるブランドだ。これらは7インチくらいの画面で本当に小さいが、重さは1キログラムを超えるようで意外に重い。なによりもキーボードサイズが小さいので打ちにくいことは否めないだろう。
実は、この数ヶ月、再度、DM200を取り出して使っている。というのは日記を書くのにいいからだ。つまりこの機械を日記やメモ入力の専用機として使い、PCとの接続はたまにしかしないとすれば、これはこれでけっこう使えるのかもしれないと考えたからだ。バスや電車に乗ってすぐにとりだし、テキスト打ちだけをやるのには適していて、今でも使っている。前にも書いたように、本当はこのブログの入力ができればいいのだが、直接はできない。テキストで書いてPCに移してアップすることになる。また、たとえば超小型PCというのがあったはずだがそれはどういうブランドだったっけなどと調べようとしても、PCならすぐできるが、DM200ではできない。ネットに接続しない専用機のメリットを生かせることはそんなにはない。
ということで、これを使うのがどのくらい続くのかはわからない。大きすぎても小さすぎてもだめで、持ち運びやすく作業がしやすいものというのはなかなかない。また、ネットにつなげない方がいい場合と、つなげた方がいい場合があり、その使い分けも難しい。何ともわがままなものだと我ながらあきれてしまう。
この記事の続きは2020年2月11日のブログへ
通勤時に使える軽くて機動性のよい入力機器がないか、というのが2年前のテーマだった。かつて使っていたVAIO Xという軽量薄型のパソコンを引っ張り出したが、やはり非力で使えない。そこで、キングジムのポメラDM200というキーボード付きでテキスト打ちだけができる機器を使ってみると書いていた。しかしながら、これを使ったのは、せいぜい1ヶ月くらいだったと思う。この機器の特徴はテキスト入力オンリーというところにあり、とくに開くとすぐ使えてかつ、ネットにつなげないことがメリットということが広く知られている。だから、文字生産ないし文字入力の専業者であるならこれの使い勝手がよいと感じ、実際にそういう熱心な支持者がいるらしい。
残念ながら私はそうではなかった。確かにテキストだけを入力することも多いのだが、どうしても書くのは論文や著書の一部分なので、図表と組み合わせることが少なくない。ネットにつないで調べたり確認したりすることもしばしばある。最終的にテキストはPCのワープロソフトで編集することになるので、PCとの連携がきわめて重要なのだが、接続がよくないのが最大の問題だった。前のブログで触れたように、無線LANやSDカード、そしてUSBケーブルも使えるのだがどれも今ひとつだ。このなかではUSBケーブルがあればすぐにつなげるので一番使い勝手がよいのだが、それでもケーブルを用意していちいち二つの機器をつなげなければならない。通勤とか外に出ているときに使うものなので、帰ってからいちいちつないでファイルにコピーアンドペーストするのはけっこう面倒になる。PCで一番使い勝手がよいUSBメモリを差して使うやりかたができないのが困る。この頃は、ネット上のドライブを使うことはまだ一般的ではなかったので使っていなかったが、DM200はそれには対応していない。
前のブログで、DM200のサイズでWordファイルを扱えるPCがあればいいのだがと書いた。以前に使っていたVAIO Xはそういうものだったし、同じ頃にソニーはVAIO Pというモデルも出していた。DM200はVAIO Pの横長のデザインを真似ているように見える。だが、しばらくそういう、携帯に便利で軽いPCをみなかったところ、ここ数年でそのたぐいのものが普及している。一つはタブレットの性能があがり、PC並の処理能力をもつようになっている。それでも画面上のヴァーチャルなキーボードは使う気になれない。(若い人はスマートフォンでけっこう長いものも書くというからこのあたりは慣れの問題なのかもしれない。)ところが、タブレットにキーボードを組み合わせたものが出始めていてけっこう使っている人を見かける。重量と起動性という意味ではこれはいいのかもしれないが、PCに置き換わるものにはならないだろう。別のものの組み合わせだから不安定であり、これを膝の上に乗せて使っているのは見たことがない。
最近のPCの薄型化・軽量化の動向も見過ごせない。DM200の重さは600グラムくらいで、それに近いPCが現れている。富士通やNECからは12〜13インチPCで700グラムから800グラムくらいのものが出ていて、これなら持ち運べるかもしれない。画面が大きくてよいが、値段はけっこう高いし車内で使うには大きすぎる。高くていいなら、AppleのMacbookの最近出たものも候補になるかもしれない。それと、輸入物だが超小型PCというのも出ている。GPDとかOne-Netbookと呼ばれるブランドだ。これらは7インチくらいの画面で本当に小さいが、重さは1キログラムを超えるようで意外に重い。なによりもキーボードサイズが小さいので打ちにくいことは否めないだろう。
実は、この数ヶ月、再度、DM200を取り出して使っている。というのは日記を書くのにいいからだ。つまりこの機械を日記やメモ入力の専用機として使い、PCとの接続はたまにしかしないとすれば、これはこれでけっこう使えるのかもしれないと考えたからだ。バスや電車に乗ってすぐにとりだし、テキスト打ちだけをやるのには適していて、今でも使っている。前にも書いたように、本当はこのブログの入力ができればいいのだが、直接はできない。テキストで書いてPCに移してアップすることになる。また、たとえば超小型PCというのがあったはずだがそれはどういうブランドだったっけなどと調べようとしても、PCならすぐできるが、DM200ではできない。ネットに接続しない専用機のメリットを生かせることはそんなにはない。
ということで、これを使うのがどのくらい続くのかはわからない。大きすぎても小さすぎてもだめで、持ち運びやすく作業がしやすいものというのはなかなかない。また、ネットにつなげない方がいい場合と、つなげた方がいい場合があり、その使い分けも難しい。何ともわがままなものだと我ながらあきれてしまう。
この記事の続きは2020年2月11日のブログへ
2019-04-03
【書評(根本彰)】稲垣行子著『公立図書館の無料原則と公貸権制度』
【書評(根本彰)】稲垣行子著『公立図書館の無料原則と公貸権制度』日本評論社,2016,421p.
『日本図書館情報学会誌』 63巻1号, 2017.p. 45-46,の再掲載
本書は,著者が中央大学に提出し,2014年7月に博士(法学)を授与された論文をもとに加筆訂正され出版にいたったもので,図書館をめぐる法的状況に取り組んだ意欲作である。
これまで出された図書館法規の解説書の多くは実務家向けのものであったが,近年,図書館についての法学研究が出始めている。法学研究には大きく分けて,法制史や法哲学などの基礎法学と,実定法を扱う実証法学があり,後者はさらに法解釈論と立法論に分けられる。多くの法学研究および法学教育は,実定法を法源として検討する解釈論をベースにして行われている。他方,立法論は現行法では十分でない領域について,法解釈に加えて,法改正や新たな立法をするための発展的議論を行うものである。本書は立法論の立場から,図書館が関わるサービス領域を外国法も含めて法学的観点から検討し,最終的には公貸権(公共貸出権)を規定した法律をつくることを提言している。
本書は,全体で4部,14章から成る。全体の流れは,公立図書館(以下図書館とする)が憲法上の知る自由という原則に寄りそってつくられている位置づけを検討した後(第I部),それを実際の法において実現させる際に無料公開制を中心とする構えとなっていることを確認する(第II 部)。そして図書館の無料原則をめぐる状況を総合的に検討し、著作者の権利の一部との調整が必要になっていることを明らかにする(第III部)。その調整のための具体的方法として公貸権を法制度として確立することを提案している(第IV部)。具体的に,内容を見ておこう。
第I部「国民の知る自由と図書館」では,まず国民の知る自由は憲法に内包されるか,少なくともそこからの派生的保護法益であると述べて,公立図書館は,“国民の知る自由を確保する社会的装置のうち,一番身近な装置”であるとする(p. 30)。そしてアメリカの「知的自由」と日本の「図書館の自由」を比較し,情報公開法による知る権利の法制化の状況を述べ,判例を検討した上で,著作物が図書館を通じて読まれることに法的利益があるとする。最後にアメリカと日本の図書館史を検討した上で,近代図書館を貫く原則として,法的根拠をもつ公開,公費支弁,無料制を挙げている。
第II部「パブリックライブラリー要件と図書館制度の関係」では,これら3つの原則を日本の法制度を中心に欧米各国の制度も含めて検討を加えている。まず,公開の法的な根拠についてである。図書館法は憲法,教育基本法,社会教育法の系列に位置づけられ,教育基本法の機会均等の規定や,社会教育法における国民の社会教育活動に対する国,自治体の支援する規定に基づいて,サービス法である図書館法がつくられているとする。他方,地方教育行政法では図書館は教育機関に位置づけられ,地方自治法において教育機関は教育委員会の専決事項とされている。また,地方自治法では公の施設が定義され,住民の福祉を増進する目的をもって利用に供するための施設で,なおかつすべての住民に対して公開されていることと公平な取扱いを規定している。著者によれば,図書館が教育法と地方自治法と二つの法系列に位置づけされることに問題の淵源がある。
図書館の公費支弁と利用の公開制はこの二つの法系列のいずれにも規定されているが,とくに図書館法17条で無料制が最初から規定されていることが重要である。というのは,図書館の無料制は外国では必ずしも普遍的な原理ではなく,歴史的に形成されて,財政的な状況や経済政策によって変化してきたからである。ドイツやオランダの図書館は年間登録料のようなかたちの有料制が一般的で,それは法的な根拠をもっている。
第III部「図書館の無料原則が及ぼす今日的課題とその調整の考え方」では,図書館の無料原則が著作者の権利を制限する役割を果たしていることについて検討している。1984年に著作権法に貸与権が導入されたが,書籍に関しては,同法附則に「書籍または雑誌の貸与は当分のあいだ適用しない」とする制限規定があったために適用されていなかった。だが2005年に附則が撤廃されて,書籍やコミックのレンタルは貸与権の対象になった。しかしながら,図書館の貸出しは無料で貸出している限り,貸与権の対象にならない。
ところがこの状況に変化が見られるようになっている。それは,地方自治法改正で公の施設に指定管理制を導入することができるようになり,公設民営の図書館が現れ,その数は増加している。それを導入した自治体の一部は「図書館法によらない図書館」を公の施設として開設するという解釈をしている。とすると図書館法の無料原則によらない自治体図書館が現れる可能性がある。
教育政策としても,生涯学習社会において住民自身の学習活動について受益者負担が進行しつつある。また,有料制をとっているドイツやオランダ以外の国の図書館でも,資料予約,オンライン情報検索,集会室利用,区域外居住利用者への課金が行われることは一般的になっている。無料貸出しが多いフィクションや児童書の著作者が職業的な著作者であることを考慮するときに,このように無料でない図書館が現れることも考慮に入れて,著作者の権利と図書館利用の関係を調整することが必要であるという。
第IV章「図書館の無料原則と著作者の権利との調整方法の検討および提案」では,公貸権制度の導入が検討され,それが日本でも導入されるべきことを提案している。EU加盟国では1990年代に貸与権と貸出権の導入を進め,著作者の権利を守ろうとしたが,その際に公共の貸出しは制限の対象となっている。こうして各国は,公貸権を著作権法に含めるか独自の立法をするかのいずれかで制度化し,図書館による資料の無料貸出しによる著作者の経済的損失を補填することになった。
そして,EU各国の公貸権制度を検討し,アメリカ合衆国では導入できなかった事情を検討した上で,日本では英国型の独自立法による公貸権制度をつくることが望ましいと結論づけている。それは,著作者の報酬請求権として設定し,利用料の支払いは国の基金で行うというものである。
以上,複雑な構造をもつ本書の論旨をつないでみた。最初に述べたように本書は立法論の立場で書かれている。公立図書館による無料の公共サービスとしての資料貸出しの進行が著作者の権利との関係で相容れないものが生じているときに,その調整を行うのにあたり公貸権導入に意義があると主張するために,かなり広範囲の領域の議論を整理検討して,論理的に組み立てようとしている。
本書の第一の貢献は,公貸権制度の必要性を立法論的に検証したことが挙げられる。これまで,立法の動きとしては2005年に文化審議会著作権分科会での審議が行われたことがあったが,同じ時期に制度の紹介が行われている程度で,法学的に十分な研究が行われていたとは言えない。行政法・教育法と著作権法との隙間にあった領域に光をあてて綿密に検討し,最終的に著作者の権利としての公貸権制度化を提言したことは重要な業績であると考える。
第二に,とは言え,本書は単に公貸権を法制度として確立するための議論整理にとどまらず,図書館情報学的に言っても,不十分であった公立図書館の法的な位置づけを体系的に明らかにする著作である。従来の公立図書館に対する法的な解釈は,知る自由をもつ住民のために資料を収集保存提供する役割を強調していた。その際に,図書館の資料提供が著作者の権利を制限して行われていることは指摘されてはいたが,その二つを結びつけて展開した議論は少なかった。それだけに,本書が,図書館と利用者との関係のみならず著作者との関係を含んだ総合的な見方を提示したことは重要な貢献である。
本書は多方面にわたる戦線を張っているがために、残した課題も大きい。法的な枠組みの議論を中心としているので,具体的な問題について十分に検討されていないところがある。たとえば,公貸権の制度設計の記述に,唐突に“新刊資料の館外貸出については,貸出禁止期間を設定し,その期間中について利用者は館内閲覧のみとする”(p. 395)という提案がある。著者は知る自由の保障に図書館の無料貸出しが一定の役割を果たしていることを強調し,許諾権ではなく報酬請求権としての公貸権を提案しているだけに,これがどのような論理に基づいているのか理解しにくい。
日本における公貸権の議論はまだ緒についたばかりである。ここ10年ほど論じられてきた,図書館の資料貸出しが本当に著作者の収入減につながっているのかといった議論をもとに,本書の枠組みで精緻化していく必要があるだろう。その意味で議論の礎をつくった本書の意義は大きい。
【根本彰,慶應義塾大学文学部,2017年1月6日受理】
『日本図書館情報学会誌』 63巻1号, 2017.p. 45-46,の再掲載
本書は,著者が中央大学に提出し,2014年7月に博士(法学)を授与された論文をもとに加筆訂正され出版にいたったもので,図書館をめぐる法的状況に取り組んだ意欲作である。
これまで出された図書館法規の解説書の多くは実務家向けのものであったが,近年,図書館についての法学研究が出始めている。法学研究には大きく分けて,法制史や法哲学などの基礎法学と,実定法を扱う実証法学があり,後者はさらに法解釈論と立法論に分けられる。多くの法学研究および法学教育は,実定法を法源として検討する解釈論をベースにして行われている。他方,立法論は現行法では十分でない領域について,法解釈に加えて,法改正や新たな立法をするための発展的議論を行うものである。本書は立法論の立場から,図書館が関わるサービス領域を外国法も含めて法学的観点から検討し,最終的には公貸権(公共貸出権)を規定した法律をつくることを提言している。
本書は,全体で4部,14章から成る。全体の流れは,公立図書館(以下図書館とする)が憲法上の知る自由という原則に寄りそってつくられている位置づけを検討した後(第I部),それを実際の法において実現させる際に無料公開制を中心とする構えとなっていることを確認する(第II 部)。そして図書館の無料原則をめぐる状況を総合的に検討し、著作者の権利の一部との調整が必要になっていることを明らかにする(第III部)。その調整のための具体的方法として公貸権を法制度として確立することを提案している(第IV部)。具体的に,内容を見ておこう。
第I部「国民の知る自由と図書館」では,まず国民の知る自由は憲法に内包されるか,少なくともそこからの派生的保護法益であると述べて,公立図書館は,“国民の知る自由を確保する社会的装置のうち,一番身近な装置”であるとする(p. 30)。そしてアメリカの「知的自由」と日本の「図書館の自由」を比較し,情報公開法による知る権利の法制化の状況を述べ,判例を検討した上で,著作物が図書館を通じて読まれることに法的利益があるとする。最後にアメリカと日本の図書館史を検討した上で,近代図書館を貫く原則として,法的根拠をもつ公開,公費支弁,無料制を挙げている。
第II部「パブリックライブラリー要件と図書館制度の関係」では,これら3つの原則を日本の法制度を中心に欧米各国の制度も含めて検討を加えている。まず,公開の法的な根拠についてである。図書館法は憲法,教育基本法,社会教育法の系列に位置づけられ,教育基本法の機会均等の規定や,社会教育法における国民の社会教育活動に対する国,自治体の支援する規定に基づいて,サービス法である図書館法がつくられているとする。他方,地方教育行政法では図書館は教育機関に位置づけられ,地方自治法において教育機関は教育委員会の専決事項とされている。また,地方自治法では公の施設が定義され,住民の福祉を増進する目的をもって利用に供するための施設で,なおかつすべての住民に対して公開されていることと公平な取扱いを規定している。著者によれば,図書館が教育法と地方自治法と二つの法系列に位置づけされることに問題の淵源がある。
図書館の公費支弁と利用の公開制はこの二つの法系列のいずれにも規定されているが,とくに図書館法17条で無料制が最初から規定されていることが重要である。というのは,図書館の無料制は外国では必ずしも普遍的な原理ではなく,歴史的に形成されて,財政的な状況や経済政策によって変化してきたからである。ドイツやオランダの図書館は年間登録料のようなかたちの有料制が一般的で,それは法的な根拠をもっている。
第III部「図書館の無料原則が及ぼす今日的課題とその調整の考え方」では,図書館の無料原則が著作者の権利を制限する役割を果たしていることについて検討している。1984年に著作権法に貸与権が導入されたが,書籍に関しては,同法附則に「書籍または雑誌の貸与は当分のあいだ適用しない」とする制限規定があったために適用されていなかった。だが2005年に附則が撤廃されて,書籍やコミックのレンタルは貸与権の対象になった。しかしながら,図書館の貸出しは無料で貸出している限り,貸与権の対象にならない。
ところがこの状況に変化が見られるようになっている。それは,地方自治法改正で公の施設に指定管理制を導入することができるようになり,公設民営の図書館が現れ,その数は増加している。それを導入した自治体の一部は「図書館法によらない図書館」を公の施設として開設するという解釈をしている。とすると図書館法の無料原則によらない自治体図書館が現れる可能性がある。
教育政策としても,生涯学習社会において住民自身の学習活動について受益者負担が進行しつつある。また,有料制をとっているドイツやオランダ以外の国の図書館でも,資料予約,オンライン情報検索,集会室利用,区域外居住利用者への課金が行われることは一般的になっている。無料貸出しが多いフィクションや児童書の著作者が職業的な著作者であることを考慮するときに,このように無料でない図書館が現れることも考慮に入れて,著作者の権利と図書館利用の関係を調整することが必要であるという。
第IV章「図書館の無料原則と著作者の権利との調整方法の検討および提案」では,公貸権制度の導入が検討され,それが日本でも導入されるべきことを提案している。EU加盟国では1990年代に貸与権と貸出権の導入を進め,著作者の権利を守ろうとしたが,その際に公共の貸出しは制限の対象となっている。こうして各国は,公貸権を著作権法に含めるか独自の立法をするかのいずれかで制度化し,図書館による資料の無料貸出しによる著作者の経済的損失を補填することになった。
そして,EU各国の公貸権制度を検討し,アメリカ合衆国では導入できなかった事情を検討した上で,日本では英国型の独自立法による公貸権制度をつくることが望ましいと結論づけている。それは,著作者の報酬請求権として設定し,利用料の支払いは国の基金で行うというものである。
以上,複雑な構造をもつ本書の論旨をつないでみた。最初に述べたように本書は立法論の立場で書かれている。公立図書館による無料の公共サービスとしての資料貸出しの進行が著作者の権利との関係で相容れないものが生じているときに,その調整を行うのにあたり公貸権導入に意義があると主張するために,かなり広範囲の領域の議論を整理検討して,論理的に組み立てようとしている。
本書の第一の貢献は,公貸権制度の必要性を立法論的に検証したことが挙げられる。これまで,立法の動きとしては2005年に文化審議会著作権分科会での審議が行われたことがあったが,同じ時期に制度の紹介が行われている程度で,法学的に十分な研究が行われていたとは言えない。行政法・教育法と著作権法との隙間にあった領域に光をあてて綿密に検討し,最終的に著作者の権利としての公貸権制度化を提言したことは重要な業績であると考える。
第二に,とは言え,本書は単に公貸権を法制度として確立するための議論整理にとどまらず,図書館情報学的に言っても,不十分であった公立図書館の法的な位置づけを体系的に明らかにする著作である。従来の公立図書館に対する法的な解釈は,知る自由をもつ住民のために資料を収集保存提供する役割を強調していた。その際に,図書館の資料提供が著作者の権利を制限して行われていることは指摘されてはいたが,その二つを結びつけて展開した議論は少なかった。それだけに,本書が,図書館と利用者との関係のみならず著作者との関係を含んだ総合的な見方を提示したことは重要な貢献である。
本書は多方面にわたる戦線を張っているがために、残した課題も大きい。法的な枠組みの議論を中心としているので,具体的な問題について十分に検討されていないところがある。たとえば,公貸権の制度設計の記述に,唐突に“新刊資料の館外貸出については,貸出禁止期間を設定し,その期間中について利用者は館内閲覧のみとする”(p. 395)という提案がある。著者は知る自由の保障に図書館の無料貸出しが一定の役割を果たしていることを強調し,許諾権ではなく報酬請求権としての公貸権を提案しているだけに,これがどのような論理に基づいているのか理解しにくい。
日本における公貸権の議論はまだ緒についたばかりである。ここ10年ほど論じられてきた,図書館の資料貸出しが本当に著作者の収入減につながっているのかといった議論をもとに,本書の枠組みで精緻化していく必要があるだろう。その意味で議論の礎をつくった本書の意義は大きい。
【根本彰,慶應義塾大学文学部,2017年1月6日受理】
2019-03-23
【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』
【書評(根本彰)】松田政行編著・増田雅史著『Google Books裁判資料の分析とその評価:ナショナルアーカイブはどう創られるか』商事法務, 2016.
『日本図書館情報学会誌』 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。
この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。
近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。
本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。
アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。
Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。
米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。
訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。
2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。
本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。
他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。
しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)
アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。
本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)
本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。
注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.
『日本図書館情報学会誌』 63巻3号, Sep. 2017. p. 172-173,の再掲載
2017年10月27日のブログ「「書籍のナショナルアーカイブ」の研究会報告 」で触れた書評です。
この本は一見すると図書館情報学の本には見えない。なじみのない出版社から出ているし、著者両名は知的財産権法を専門とする弁護士である。本書を書店でたまたま手にとって、またデジタルアーカイブの本が出たのかくらいに思って見はじめたら、デジタル情報時代の図書館の在り方を法制度論的に論じたものであった。
近未来にネットを通じてデジタル化された書物が容易に入手できるようになるとは多くの人が漠然と考えていることであるが、今のところ実現されているのは一部に過ぎない。それは著作権がその実現を阻んでいるからだ。
本書は、著作物全般の自由な流通環境を整えるにあたって壁になる著作権問題をクリアするのに、アメリカではフェアユースという著作権規定の解釈が中心になったことをその訴訟過程の分析を通じて示している。と同時に、日本では、Googleの世界戦略の対抗措置として、著作権法改正により、国立国会図書館が納本出版物のデジタル化を進め、一部出版物の図書館に対する公衆送信規定を設けたと述べている。
アメリカの著作権法にはフェアユース規定がある。著作物の正当な範囲での利用については著作権侵害には当たらないとするもので、日本の著作権法の「著作権の制限」と似ている。しかし、アメリカは原則的に利用可とするが、日本は原則的に利用不可であるところが違う。アメリカにはこの規定があるから、ネット上のコンテンツを収集して検索可能にするサービスが発達しやすかった。
Googleはフェアユース規定を利用して、2004年から公共図書館や大学図書館の蔵書をデジタル化し、インターネットで検索・閲覧可能にしたサービスGoogle Booksを始めた。著作権保護期間が終わったものについては全文を公開し、保護期間中のものは一部だけが読める(スニペット表示)ようにするもので、実際には販売サイトにリンクを貼って購入できるようにするものである。
米国作家組合等はGoogle Booksのサービスが著作権侵害に当たるとして、Googleを相手どってクラスアクション(集団訴訟)として連邦地裁に提訴した。本書の3分の2は、この訴訟が2016年に連邦最高裁判所の判決が出て終了するまでの過程を詳細に記述したものである。
訴訟において、Googleは一貫して、著作物が評論、ニュースレポート、授業、研究などに引用される場合にフェアユースが認められているのと同様に、フェアユースの範囲にあると主張していた。2013年に7月に連邦地方裁判所は、「Google Booksは公衆に多大な恩恵をもたらしている」と判断し、Google側の勝利としたが、作家側がさらに控訴した。
2015年10月にニューヨーク連邦高裁が「同サービスでの検索は全文が対象であるが、閲覧できるのは書籍の一部で、すべての内容を参照する手段は提供していないことなどから、フェアユースの範囲で、著作権法に違反しない」と結論付け、作家側は上告したが2016年4月に連邦最高裁はこれを不受理としたために、Google側の勝利で終結している。これによりGoogle Booksのサービスが継続することが確定した。
本書は、訴訟での論点を詳細に紹介しているが、われわれ図書館情報学を学ぶものにとって無視できないのは、これが英語圏の書籍のナショナルアーカイブ構築を可能にするものだとしている点である。確かに、現在のフェアユース規定で可能なのは電子書籍の蓄積と全文検索サービスを可能にし、あとはスニペットで一部を見せることだけで、それを直接提供することはできない。提供するためには、著作権者と別の契約を結ぶ必要がある。しかし、現在、ベルヌ条約的な著作権法の限界が言われ、新たな著作物利用の国際的な法制度をつくっていくべきことが議論されている。本書は、Googleはこの制度のインフラとなる「アーカイブズ」をすでにつくっているということを指摘し、この訴訟は利用を可能にする次の段階に向けての準備過程だとしている。
他方、この訴訟はアメリカの出版物だけに関わるわけではない。アメリカはベルヌ条約に加盟していて国内での著作権解釈は外国にも適用されていたために、当初、日本の著作物も対象になっており、実際にデジタル化が行われていたことは記憶に新しい。その後、Googleは英語圏(米国、英国、カナダ、オーストラリア)の著作物に絞って和解案を提出したので、日本を含む他の国の著作物はこの対象にはならなくなった。
しかしながら、Googleの一極集中に危機感を覚えた日本政府は、国立国会図書館を拠点とした国内出版物のデジタル保存と利用のための一連の法改正を行った。2009年と2012年に、著作権法31条を改訂し、国立国会図書館に納本された資料を直ちにデジタル化することを可能にし(同法第2項)、また、絶版等の資料については国内の図書館に公衆送信することができるようにした(同法第3項)。著者はこれについて、日本における「書籍のナショナルアーカイブを構築することを可能にする改訂」であるとしている。(p.23)
アメリカは一企業が書籍のナショナルアーカイブを構築するのに対して、日本は政府が法改正でこれを行った。これらは構築することを法的に可能にしているだけであり、その利用については制限がつけられていることは確かであるが、本書で著者が主張するのは、このようなインフラ整備の制度がつくられていることが重要であって、これによって今後書籍の自由な利用をもたらす第2段階に進むことが容易になるということである。
本書では、書籍のナショナルアーカイブの制度構築がすでに行われていることが指摘され、さらに、今後は、それをベースにした書籍利用のシステムがつくられる可能性が主張されている。本書では触れられていないが、これは元国立国会図書館長長尾真氏によるいわゆる長尾構想そのものである。1)他方、図書館以外の博物館や文書館の領域では、文化資源のナショナルアーカイブ構築が議論されている。2)
本書の主張は、アメリカのフェアユースのように著作物の自由な流通を前提とした原則に基づいた法制度を日本でもつくる必要があるというところにある。その際に、図書館は流通のための重要なセンターになることにもっと自覚的になるべきことを教えてくれる。と同時に、長尾構想や文化資源のナショナルアーカイブのように議論が進展しているものとの関係を整理することが必要だろう。
注)
1)これについての比較的新しい議論は次のものを参照。長尾真監修『デジタル時代の知識創造 変容する著作権』(角川インターネット講座 (3) )角川書店, 2015.
2) 岡本真, 柳与志夫編『デジタル・アーカイブとは何か 理論と実践』勉誠出版, 2015.
2019-03-11
故金森修氏の蔵書の行方
金森修氏は『サイエンスウォーズ』『バシュラール』などで知られる科学思想史家で、東大教育学研究科勤務当時の私の同僚だった方である。彼が会議等を休みがちだったというのは知っていたが、私は2015年に慶應に移ったので、コースが違うこともあり具体的な事情は知らないままでいた。そうしているうちに、2016年5月に逝去されたというニュースを知りたいへん驚いた。享年62歳だった。
科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。
さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。
奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.
著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。
金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。
日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。
これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。
科学論は私の分野とも接点がある。今となっては、科学的知識がどのように構築されるのかについて、英米のsocial epistemologyの動きについてどうお考えなのかなど、教えを請うべきことがいろいろとあったと悔やむことがある。ちなみに、教育学研究科の院生時代に、駒場の科学史・科学哲学講座にいらした中山茂氏(トマス・クーン『科学革命の構造』の訳者)が非常勤講師で来て下さり授業を受けた覚えがある。金森氏が基礎教育学コース(かつての教育史・教育哲学講座)に所属していたのも、教育という営為が知の生成と伝達・蓄積に関わるもっとも根源的な部分に関わり、それを問うという考え方があったからだろう。
さて、最近、生前金森氏が蒐められた蔵書がその後どうなったのかについて書かれた文章を読んだので紹介したい。これは、人文社会系の研究者の蔵書の蒐め方とそれがその後どうなるのかについての貴重な報告になっている。
奥村大介「まだ見ぬ図書館へ : 金森修先生蔵書整理の記録」『研究室紀要(東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室)』43巻, p.29-36, 2017.
著者の奥村大介氏はご本人の弁に依れば金森氏の「押し掛け弟子」だそうで、本稿は、師の遺志に従い蔵書の一部を東京大学図書館に寄贈した経緯をまとめたものである。金森氏の蔵書はフランス思想や科学書を中心として1万5000冊から2万冊あったという。それらを東京大学図書館に寄贈しようとしたが、まず、東大の総合図書館は現在もリノベーション中で置き場所がないという問題があった。それでも、図書館との協議で蔵書にない資料を中心として1000冊を受け入れることが決まった。しかしながら短期間で全体から1000冊を選ぶことがきわめて難しかったということが語られる。次に受け入れる条件として、寄贈書のリストを作成する必要があったが、これもフランス語のものが中心であり簡単にできないので、本からISBNバーコードを読み取り、それによりAmazonから書誌情報を抽出してリスト作成したという。そのために半自動化した作業を行うソフトウェアの開発を行った。また、その作業を大学院生やボランティアの協力者に依頼して進めることもたいへんだったという。こうして、1000冊の寄贈を行うことができたが、それはまだ図書館の蔵書にはなっていない。というのは、東大の新しい総合図書館の開館が2021年に予定されているためにそれまでは非公開だからである。この論考のタイトルが「まだ見ぬ図書館へ」となっているのはそのためである。
金森氏は蔵書を東大に寄贈したいという意向だった。金森氏も遺族もそして著者の奥村氏も望んでいたのは「金森文庫」のようにまとまったコレクションとしての受け入れだった。しかしながら、東大が受け入れたのは全蔵書の10分の1以下であり、寄贈されたのは氏の研究の中心であったフランスの科学論や科学哲学を中心とするものに絞られた。蔵書はひとまとめになることなく、総合図書館の全蔵書のなかにばらばらに置かれることになる。これについて、著者奥村氏は、哲学者廣松渉の蔵書も東大図書館への受け入れの条件はばらばらにされることだったと言い、また、例の桑原武夫の蔵書10000冊が、寄贈された京都市図書館において無断で廃棄されたことについても言及している。現在、研究者の蔵書がまとまって受け入れられることがほとんどない状況について暗に疑問視している。
日本の図書館は人、資金、そしてスペースがいずれも限界まで削減されている。それでも東大は新しい図書館をつくれるくらいの余力があるわけだが、こうしたコレクションをそのまま受け入れられる状況にはない。まとまったコレクション(特殊コレクション)もいくつかの種類がある。これが、国宝級の古文献なら受入れはスムースなのだろうが、一流の研究者が集めた蔵書というだけではコレクションの対象にはなりにくい。奥村氏は金森氏の蔵書が氏の学問の構造をそのまま反映しており、本の並べ方そのものが研究者の思考回路を示すと述べ、それを崩すことに対する疑問を呈している。そのこともあり、並んだままの蔵書の背表紙の写真を2000枚撮ったとも書いている。本というものは単独で存在するのではなくてコレクションとしてまとまっていて初めて意味があるということである。
これは、個人蔵書と図書館の関係や図書館の分類法の意義を考える上で重要な問題を提示している。金森氏の蔵書だったことが分かるようにタグをつけておいて、OPAC検索できるようにはできるかもしれないが、それがリアルなコレクションの代替物になるのかどうかは疑問だ。現在、多くの学術図書館は原則的に寄贈お断りの状態だろうが、それは学術資源の有効な管理という観点に立った場合にいかがなものなのか。また、これを考えるときに、スペースや資金の問題以上に、図書館に蔵書の価値を判断できる主題専門図書館員(サブジェクトスペシャリスト)がいるかどうかも大きな問題になるだろう。ちなみに、現在の東大の総合図書館にはそういう人はいないはずだ。
日本人の言語論的基盤を探る本
以下は、雑誌『みすず』2019年1月/2月号に寄稿したものです。
「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」
日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。
最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。
だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。
日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。
近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。
「2018年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」
日本人の教育における言語論的基盤を探ろうと考えている。それは日本語の豊かさと脆弱性とが近代社会においてどのように形成されてきたのかをみたいからである。
最近、公文書の取り扱いがずさんであることが政治問題になりかかりながら、事務当事者の責任に帰することで終わらせることが続いた。そもそも公文書および公文書館という言葉の元になっているarchivesのarchとは筆頭にくるものを意味し、権力の源泉を意味する。だからアーカイブズは、文書を残すことで権力の所在を示すとともに、その責任を確認することを可能にする仕組みでもあった。行政情報公開制度を使って数々のスクープをしてきた毎日新聞記者日下部聡が書いた『武器としての情報公開』(ちくま新書, 2018)が出て、公文書を開示させるジャーナリズムの手法にさまざまな工夫があって、それに基づき実践していることが分かる。
だが、逆にこうした活動が、行政担当者や政治家にある種の「構え」の姿勢を与え、公文書制度全体に機能不全を起こさせる原因になっているとも言われる。日本で情報公開や公文書保存開示が形式的に制度化されただけで機能していないことについては、松岡資明『公文書問題と日本の病理』(平凡社新書, 2018)で描写されている。本来、アーカイブズの制度は書くことおよび書かれたものとしての文書の位置づけを明確にする思想と制度が確立されなければ成り立たないことを示している。
日本社会は本気で書かれたものを保持し共有しようとしているのだろうか。それが同様に無視されてきた図書館を研究する私の疑問である。今後、私はそれを明治政府が体制を確立するところまでさかのぼることで明らかにするつもりにしている。そのために参考になるものとして、明治以前がどうであったのかを明らかにする著作の刊行が続いている。『近世蔵書文化論:地域<知>の形成と社会』(勉誠出版, 2017)の著者工藤航平は東京都公文書館の職員である。江戸期に文書を元にした行政・経済システムができ、また出版流通が盛んになり、これが各地域でそれぞれの独自の<知>の形成と共有態勢を促したと言う。江戸期にアーカイブズとライブラリーの仕組みが準備されていたということである。
近代行政国家における知の編成という課題について考えるときに、公文書管理以外に、法制度、教育制度、学術制度について考察が必要であるだろう。綾井桜子『教養の揺らぎとフランス近代:知の教育をめぐる思想』(勁草書房, 2017)は、フランスでは中等教育から高等教育への接続を中心にして、一貫して学習者が書くことを通じて自らの知の形成をはかる教育思想が存在してきたことを論じている。よく知られたフランスの中等教育における哲学教育が、フランス革命以来の「ものを言う市民」の育成を目的にしており、それはさらには古代ギリシアの市民社会論にさかのぼれることが分かる。アーカイブズやライブラリーが機能するには、同時にそれらを武器として使いこなす市民の育成が必要なのである。
登録:
投稿 (Atom)
新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)
10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...
-
以前から話題にはなっていたのですが,NHK総合でやっている「時論公論」という解説番組で,タイトルバックの写真が印象的な図書館になっています。NHKの 同番組のHP にもその写真が使われています。(画像は解像度を落として掲載しています) これがどこの図書館なのかというのがクイズです...
-
10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...
-
マーティン・フリッケ著(根本彰訳)『人工知能とライブラリアンシップ』 本書は Martin Frické, Artificial Intelligence and Librarianship: Notes for Teaching, 3rd Edition(SoftOption ...