今年の1月に刊行された『アーカイブの思想』はおかげ様で多くの読者を得つつある。あえてタイトルに「図書館」を入れないで出版してもらったことで版元には心配を掛けたが、それ自体は杞憂に終わった。確かに「図書館市場」というのがあって、そこに焦点を当てれば一定の部数が捌けるのだろうが、今回はこちらの我が侭を通させてもらった。4月に増刷されて当初の目標の販売部数は確保できたものと思う。
最初に、『週刊読書人』4月9日号に掲載された、「アーカイブと図書館を知り、よりよく活かす 対談=根本彰・田村俊作『アーカイブの思想』(みすず書房)刊行を機に」を紹介しておく。
https://dokushojin.com/reading.html?id=8084
田村俊作さんは慶應の図書館情報学専攻にずっとおられた方で辞められた後に、私が入れ替わりで入った経緯がある。その意味で互いによく分かっている者同士の話し合いということになった。田村さんはレファレンスサービスを中心に図書館現場のことをよくご存じでありその点からの話しのふりがあり、私はそれに対してそれをもっと広い観点から応じるという感じで展開した。この号全体が図書館特集という感じになっていることもあって、図書館周りの話しで終始したと思う。そこに地域資料、読書、独学など日本独特の知のシステムの問題について少し言及した。
新聞に出た本書の書評として次のものがある。
評者の佐藤さんは京大の教育学研究科でメディア史を担当している方で以前より交流がある。そのためにこの書評も「アーカイブ」のメディア的側面について紹介するものになっている。GAFAがいずれもbookにこだわりをもっていて「デジタル文明の基礎が書物であること」や、文書(記録)は歴史に関わり原点に視線をたえず引き戻すものであるのに対して、書物は道の読者にコピーを広めるという意味で思想形成に関わるもので両者は逆向きのベクトルになっていることなどが上手に提示される。このあたりは筆者自身でもユニークな視点と感じていたところであり、このように書いていただくとありがたい。また、幕末の「会読」がフンボルト理念のゼミナール方式と似ていて、いずれも学ぶ内容よりも学ぶ方法を重視しているということで、こうした観点で一貫している本書は「知の系譜学」と言えようかと評して終わっている。
山陰中央新報(4/3)、沖縄タイムス(4/3)、岩手新報(4/4)、下野新聞(4/4)、新潟日報(4/4) 評者:永江朗(ライター)
共同通信によって地方紙に配信されているもので、他にもあると思われるが未確認である。著者のフリーランス・ライター永江さんは某会議でご一緒させていただいているなじみの方である。「アーカイブ」ということばをよく聞くようになったが、古代ギリシャに遡るもので、人間と言葉(あるいは情報)との関係の長い歴史がその背景にあるという描き出しから始まって、本書の副タイトル「言葉を知に変える仕組み」が秀逸としている。そして西洋で、図書館が知を共有するための機関として機能してきたのに対して、日本ではただで本を借りる「無料貸本屋」というレッテルが貼られているように、「過去」をうまく知として活かしていない。本書全体が知をどのように活かすかというテーマで一貫していることを見抜いていらっしゃる。
日刊ゲンダイ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/book/288115 (4/20)
こちらは今でもネット上で読むことができる匿名の書評。「アーカイブとは何か。本書は簡潔に「後から振り返るために知を蓄積して利用できるようにする仕組みないしそうしてできた知の蓄積のこと」という。要はしっかり、きちんと残して、後でいつでも使えるようにするということ。そこに初めて本物の「知」は生まれるのだというわけだ。この伝でいくと近ごろの役人など「痴」もいいところだろう。」で始まる。見方としては永江さんの書評と一緒だと思われる。
https://twitter.com/rv68SqkoDVoe0CS/status/1409245404621795331/photo/1
著者は創価大学で日本経済史を担当している方で、近世史料にも詳しいようだ。西洋思想史をたどりながら日本近代と接合させたストーリー展開を紹介した上で、知と知がネットワークでつながる仕組みであるアーカイブを活かそうという本書の趣旨を次のように述べている。「「アーカイブの思想」をうまく利用することで、現在を生きる我々は、知の営みをより充実させ、豊かにしていくことができるのではないか。本書は、こうした基本的な課題を提起する書物であり「アーカイブ」なのである。」とある。
今後は理論的な整理をしてみたい。実はアーカイブは20世紀後半以降にフランスの思想家達によって思想として論じられていたし、それについてほんの少しだけ言及してもいる。今後、余裕があれば理論面にとりくみ図書館とアーカイブの関係についてさらに論じることを考えている。基本的には、本書ではフーコーのディスクール、エノンセ、アルシーヴの区別の議論を踏まえているが、さらには、デリダのアルシーヴ論、そして、リクールのアルシーヴ論などとの関係を自分なりに整理しておく必要がある。また、ところどころで触れている声と文字の関係、言霊論、オーラルな文化あるいは身体性との関係、エクリチュールの現代的展開(野間秀樹、下田正弘など)、他方、教育コミュニケーションにおける構成主義的立場の問題など、考えてみたいことは多い。これも、ここまでやってようやく関係が見えてきたということでもあるので、今後少しずつ進めたい。
追記:今後の課題で英米圏の図書館論についても言及しておくと、Charles B. Osburn, The Social Transcript: Uncovering Library Philosophy (Libraries Unlimited, 2009)という本がある。副題にあるように図書館の哲学を整理した本で、なかではピアース・バトラー、ジェッシー・シェラ、ランガナタンなど現代図書館学の古典を検討した上で、図書館哲学は確立されていないという。そこで手がかりにするのは、アメリカの経済思想家ケネス・ボールディングのsocial scriptという概念である。transcriptは転写などと訳すが、script(台本、脚本、原稿、筆記)にtransをつけたもので、要するに文化が書かれたものによって媒介されることを指す。ボールディングが1956年に書いたThe Image: Knowledge in Life and Society (University of Michigan Press)は1962年に誠信書房から『ザ・イメージ』という邦題で翻訳も出ている。このなかで、当時の文化人類学の知見なども活かしながら社会において知が言葉によって伝えられる際に書かれたものの役割が重要であることを強調した。オズバーンはボールディングの議論を再評価して、図書館についてのみならず社会における知の伝達を論じている。その意味で、私が使ったアーカイブの概念と近いことは確かで、きちんと読んでみたいと思う。ただし、書評(by Wayne Bivens-Tatum, portal: Libraries and the Academy,11(1), Jan. 2011, p. 584-585, http://muse.jhu.edu/journals/portal_libraries_and_the_academy/summary/v011/11.1.bivens-tatum.html)にあるように、この本は多分野の議論を参照しているがいささかまとまりに欠けるところがあるように思われる。ボールディングが文化人類学の知見を参照して、西洋文明 vs. 「未開文明」の対抗軸を枠組みにしているのに対して、単に、図書館の作用を抽象化して示すだけでは本質が見えてこないのではないかと思われる。
公開 2021年4月28日 10:30
改訂 2021年4月28日 17:00
第2改訂 2021年6月3日 11:30
第3改訂 2021年6月28日 10:13
第4改訂 2021年7月15日 17:48
第5改訂 2021年9月4日 11:19
<追記> 2022年9月20日(火)
本書の書評について次の3回のブログで紹介している。