2024-06-20

北海道置戸町からみる図書館経営問題

地域アーカイブ研究を始めたときから,北海道の町立図書館を対象にすることは決めていた。ナショナル・アーカイブと地域アーカイブの思想史的な問題は別に論じることにして,ここでは,地域アーカイブとは当該地域のアイデンティティ形成において一定の役割を果たす機関やメディアなどの仕組みないしその作用と大雑把に定義しておく。ここにはひろくみれば,自治体の役所や商工会,学校,地域メディア,出版,図書館,博物館・資料館,文書館などから,今なら,SNSやブログ,動画プラットフォームなどまでも含むことになる。

とくに図書館活動の観点からは,次の4つのポイントを抑えておく必要がある。もっとも基本的な「地域資料・郷土資料の収集・保存・提供」はもちろん,「自治体行政との関係」は図書館とその行財政上の基盤であることと行政に対するシンクタンク機能を提供するものと考えられる。さらにアーカイブ機能の柱となる「自治体史編纂,歴史資料保存との関係」,そして図書館と並んでアーカイブ機能を果たす「博物館・美術館・公民館活動との関係」といった項目を見ておく必要がある。

また,北海道をなぜ選択するのかについては,すでに,昨年の日高地域の町立図書館訪問の報告で書いておいたのでそちらを参照していただきたい。そのなかでも置戸町立図書館について少しだけ触れているが,これまでも何度か北海道を訪ねてたまたま通りかかった町の図書館をいくつか見て上記の地域アーカイブ活動という意味で優れているところが多いと感じた。それなら,北海道町立図書館が注目される原点とも言うべき置戸町がどうなっているのかをみたいと感じた。

置戸町の概要

置戸という町の概要を見ておくと,北海道北東部の町で,北見市からはオホーツク海と反対の山側に車で30分ほど進むと到着する。すでに廃線になった旧国鉄網走本線(池北線)の駅が開通した1910年代から開発が進み,徐々に人口が増え,戦後間もない1955年頃には林業や木材加工業で賑わっていた。当時、1万2千人ほどあった人口は現在では2700人あまりで,典型的な過疎の町ということができる。主産業であった林業,林産工業がエゾマツ,トドマツの原生林の伐採や台風による風倒木による原価高騰,安価な輸入材の増加等で成り立たなくなっていったことが大きい。現在は畑作の農業や乳牛の牧畜業が主たる産業である。

次に,置戸の中心市街の地図を見ていただきたい。赤で囲んだ施設が図書館である。東西に流れる川の北側にできた中心市街は,コミュニティホール(旧JR置戸駅)を真ん中にして南北に二分される。これはかつてJR池北線が町を分けていたからである。北側は商業生活エリアでスーパーやガソリンスタンド,病院,郵便局,町役場などがある。これに対して南側は広大な公共施設エリアである。地図で青色で示されている地域福祉センター,中央公民館,スポーツセンター,町立図書館,森林工芸館,若者交流センター,子どもセンター(認定こども園)などがある。最初,ここを見たときにとくに公民館,スポーツセンター,図書館にかけて,広大な敷地に大きな施設がいくつも建っているので驚いた。後で聞いて分かったのは,駅の南側はかつては林産工場と貯木場となっていたエリアで,山から切り出された木材がここに集められ,加工され駅に運ばれて輸送されたということであるが,その工場はすでになくなり,とくに広大な貯木エリアがこうした公共施設に利用されているということである。「置戸町住生活基本計画」(平成30年 置戸町 p.15)に次の地図と公共施設の写真があったのでご覧頂きたい。



置戸町にはこの中心部以外に3つの地区がある。人口の分布も分散的であるから,各地区には役場の支所や公民館が置かれている。それなのにこれだけの施設がここに集まっていることも事実である。郷土資料館という博物館相当施設は町役場の側に建っている。建物は最初の中央公民館だったところで,ここには現在学芸員が配置されていて,デジタル郷土資料を図書館との共同で作成している。

公共施設については,ハコモノ行政として批判的に語られることがあるが,中身を伴って適切に機能しているなら,むしろ本来の住民福祉に資する役割を果たしていることになる。だから,これらはいったいどうしてつくることができたのか,本当に機能しているのか,また人口減,少子高齢化が続くなかで今後の見通しはどうなのかというのが,重要な問いということになる。

置戸町立図書館の現在

現在の置戸町立図書館は2005年1月に,置戸町生涯学習情報センターとして開館した。それが図書館HPにある下記の写真で示されるものである。設計者は三上設計事務所の益子一彦氏である。見てのとおり,現代図書館建築としてもすぐれたもので,日本図書館協会図書館建築賞も受賞している。蔵書数は12万2千冊,1階建て床面積1,397平米,建築面積1,786平米で町立図書館としては大きな規模を誇る。

開館時には生涯学習情報センターの名称で新館オープンさせるために,それまであった図書館条例を廃止したという。これは新図書館を建設するにあたり,総務省の過疎対策事業債を利用したからである。建設準備の時点でそのメニューに図書館が入っていなかったために,この名称にして申請したということである。その後,この制度のメニューに図書館も加わったこともあり,2015年に図書館条例を復活させ,現在は置戸町立図書館になっている。




年間の図書購入冊数は3933冊,図書購入費(視聴覚資料込み)は699万円,雑誌・新聞購入費が107万円で合計800万円ほどが資料購入費である。次は児童書コーナーで基本的なものが揃っている使いやすい書架である。


移動図書館やまびこ号が月に2回廻って,町内の公民館,住民センター,児童福祉施設,高齢者施設で資料貸出を行う。普段は,図書館の側に置かれていて,こちらも利用可能である。



職員体制であるが,現在,兼任の図書館長以外に業務係長(司書)1名,業務係員1名,会計年度任用職員5人の体制で運用している。また図書館協議会が置かれ委員が8名任命されている。置戸町が1976年に日図協の統計で住民一人あたりの貸出冊数が全国一になり,その後も高位が続いていたことが,図問研の調査や日図協の調査のきっかけになった。その頃に比べて人口が半数以下になっている現在どうなっているのかというと,2022年の数字で言うと一人当たりの貸出数は14冊で,日本の公立図書館では最上位が維持されている。人口に対する町内登録者の登録率は45.7%となっている(町外者も含めた登録者の人口比率は59.8% )。

2日間滞在して来館の様子を見ていたが,直接の来館者は必ずしも多くはなかった。『令和5年度置戸町図書館要覧』には,本館利用の来館者数は一日平均43人という数値が掲載されている。貸出が多い理由は,貸出の住民登録率が高いこと,移動図書館によって利用可能になっていること,一人当たりの一回の貸出数が多いことが指摘できる。つまり,貸出と全域サービスの原則がひとまず確認できる。(参考文献:「取り組む 図書館運営地域一体となって〜置戸から始まった北見地域の図書館づくり〜」『開発こうほう(一般財団法人北海道開発協会)』536号 2008年3月 https://www.hkk.or.jp/kouhou/file/no536mar_case-3.pdf

地域的な資料を見ておくと,開架の一角にはこのような置戸の歴史を学べるコーナーがあって,関連の地域資料が置かれている。


平面図に「準開架」と書かれたエリアがあるが,ここはオープンになっている書庫で,新聞・雑誌のバックナンバー,全集,参考図書,郷土資料が置かれている。令和5年度の『図書館要覧』によると,郷土資料3587冊,北海道関係資料2081冊となっている。行政資料としては,町役場の事務報告,予算書,会計報告書,広報誌,計画書,学校要覧などが置かれている。地元の新聞記事のスクラップは継続して作成されている。商工会や町内の民間団体の年史や記念誌などが入っているようだが,中央公民館には町民の文化活動のアウトプットの資料類が集められているとも聞いた。




社会教育をベースにした図書館活動

今回,訪問するに当たって改めて図書館問題研究会編著『まちの図書館:北海道のある自治体の実践』(日本図書館協会, 1981)を読んだ。この本により,「置戸」は図書館界において全国区の知名度を得ることになった。入念な事前準備を行い,置戸町での観察や聴き取りを行った上で,図書館活動の歴史と実態を記述し,その意味で小さな自治体での図書館サービスの可能性を十全に表現していると感じた。『まちの図書館』がその後のJLAの町村図書館振興につながる契機になったことも理解できた。JLAの町村図書館活動振興方策検討臨時委員会(長い組織名!)は,図問研の置戸調査のすぐ後の1982年から,全国の町村図書館の現地調査を行い,その結果をもって同委員会著『町村の図書館:そのつくり方と活かし方』(日本図書館協会, 1986)が刊行されている。

だからこそ,『まちの図書館』の最後に,小さな自治体でも『市民の図書館』(1970)で提示されている「貸出,児童サービス,全域サービス」を実施すればこのレベルのサービスが可能になると結論づけていることが気になった。そのことを主張するためには,これ以外の要素はないのか,小さな自治体でこのレベルのサービスがなぜ可能だったのかの考察が必要だが,それが十分ではないと感じたからである。このあとに述べるように,置戸の図書館活動はすべてが社会教育行政をベースにしている。『まちの図書館』では社会教育は図書館活動の前段階にあたり,社会教育の発展を基にして図書館が独自の発達を遂げたと見ている。その見方が必ずしも正しくないことは,行ってみて理解できた。以下,置戸の図書館の発展を先ほどの地域アーカイブの4つの項目の視点を加えながら見ておくが,それは,図書館が資料提供という単一機能では説明できない複合的な作用をもつと考えるからである。(参考:今西輝代教「置戸町図書館の資料とデジタルアーカイブ」蛭田廣一編『地域資料サービスの展開』(JLA図書館実践シリーズ45)日本図書館協会, 2021)

図書館員も含めた戦後の教育関係者は忘れがちだが,戦前の文部省においては学校教育行政と社会教育行政はその覇権を競っていた。というのは,義務教育は小学校のみで通常はその高等科まで受けると,多くの人は十代中頃には家業の手伝いなり丁稚奉公や見習い工として使われるなりで,学校から離れることになったからである。そうした青年たちの学習に対応する社会教育施設としての公民館や図書館・図書室の数は多くつくられ,またそれらを支える地域教育会が官製でつくられ,地域青年会,青年団,婦人会がそれに連なった。満州事変(1931)以降の昭和戦前期に,それらは国家的な思想統制の道具となったのだが,その点ばかりを強調するのも偏った見方になる。地域の祭り,芸能,音楽,演劇,スポーツ,読書などを通じた活動は,上級学校に進まなかった大多数の青年たちにとって数少ない息抜きと交流,そして学びの場だった。盛り場などが少ない農村部においてはとくにそうである。また地区ごとに公民館がつくられその一角に図書室が置かれたところもあった。

敗戦と占領を経て,新憲法の下で戦後教育体制がつくられる。支配する理念が天皇制的原理から西洋的な国民主権に変わり,新たに義務教育が前期中等教育までとなったが,教育の仕組みに大きな変化はなかった。戦後の社会教育行政の方針について,文部省の社会教育課長寺中作雄が推進した「寺中構想」(『公民館の建設-新しい町村の文化施設』1946)が有名である。これは,公民館は社会教育、社交娯楽、自治振興、産業振興、青年育成を目的とし,地域の中心に置かれるべきだとするものである。これに対して,戦前からの社会教育行政を引き継ぐものだと図書館関係者は反発した。彼らは文部省が1954年社会教育法を図書館や博物館を含めた総合的な社会教育行政とすることを意図したものであったのを批判し,その結果、図書館法,博物館法が単独法になったことも知られている。

置戸で社会教育をベースにした町づくりが始まるのもその時期である。置戸町(1950年に町政施行)は,林業で発達し,戦後間もない時期に選択した町づくりの方針が社会教育であった。これは地域の青年会,婦人会に集まった人たちから自然に上がってきた。文部省の寺中構想の考え方をそのままに,社会教育法成立後,すぐに公民館設置条例をつくり,まもなく置戸町を構成する主要地域に公民館を設置した。公民館では青年弁論大会,村民運動会,生活学校,演劇活動などが行われた。そのなかで,公民館に集まった青年たちのなかで,新しい時代の地域づくりのために読書会を開き,公民館に本を持ち寄り図書室をつくる動きがあった。町政に移行した直後の町長選挙で当選したのは,このときに参加していた青年の一人であり,その後、学習活動や文化活動を基盤に据えた町政を実施することが始まった。

公民館図書室はあくまでもスタートラインであって,まもなく図書館法制定直後に図書館設置条例をつくり,ここを町立図書館とすることになった。1964年に文部省農村モデル図書館補助事業を利用して独立館を建設した。建設費総額1800万円のうち,国と北海道が4分の1ずつ,あと起債が4分の1で残りの4分の1が町費だったということである(「置戸の歴史を語る収録 高橋和夫 第2回」『置戸町立図書館館報』27号, 2018, p35)。 

つまり,置戸では,新しい時代に向けての町づくりと社会教育,そして図書館が連動していたことが特徴である。そして,そのことは現在に至るまで一貫している。これは,事前に関連文献を読み,町に3日間滞在してじっくりと観察し,関係者と話しをすることで確認することができた。何よりもそのことは,町の中心に充実した公民館,図書館,スポーツセンター(社会体育施設)などの社会教育関係の施設があることから分かる。また,置戸町・置戸町教育委員会『置戸町社会教育50年のあゆみ』(2000)というB5判364ページある分厚い冊子が出され,「社会教育の町置戸」が自己証明的に宣言されている。通常,社会教育は教育行政の一部であるから,自治体史ないしせいぜいが自治体教育史の一部に位置付けられて描かれるだけであるのに,これだけの規模の冊子が編集・執筆されることは異例のことである。町がこの分野に力を入れてきたことを示す。

とくに社会教育と図書館の専門職員について述べておこう。社会教育法では社会教育主事,公民館主事補,公民館主事という専門職員の養成および配置についての規定がある。図書館法では司書,司書補の配置について規定している。学校教育と違い,施設自体もその専門職員も設置,配置は義務ではなく自治体ないし教育委員会の裁量に委ねられている。置戸の場合、最初から社会教育主事,司書(補)を配置する方針をとった。公民館と図書館の設置条例制定直後1954年に,北海道庁網走支庁から資格をもつ社会教育主事を呼び,また,図書館にはかつて読書会活動をして他村の職員をしていた司書補資格をもつ職員に入ってもらった。いずれも専門職を入れる伝統はその後も続いている。一時は4地域の公民館すべてに専任社会教育主事が配置されたという。

現在の図書館サービスの基礎をつくった澤田正春も,北海道大学で社会教育を学び社会教育主事の資格をもって置戸の職員になった人である。1963年に同町職員となり,新館建設時に図書館担当になってから講習で司書資格をとった。同年は『中小レポート』が刊行された年である。彼は司書としてこの図書館を率いて,自動車図書館や中央図書館,公民館図書室を通じてサービスを実践したが,その手がかりは同書であったと述べている。また,1970年の『市民の図書館』も読み,1972年には日本図書館協会からの推薦でブリティッシュカウンシルの基金で英国での図書館視察と研修を経験している。その意味で,日本図書館協会の資料提供と貸出を中心とする図書館サービスの考え方を学んでいた人だった。実際,それらを実施した結果が1970年代に住民一人当たりの資料貸出が日本一を記録して注目されている。

彼は,『まちの図書館』に「<特論>置戸町立図書館からの発言」という文章を寄せ,置戸のサービスは『中小レポート』や『市民の図書館』で示された方針と基本的には一致していて,特段の秘訣はないと発言している。また,1974年に北海道公共図書館協会は彼を中心としたチームで『小図書館の運営』を刊行した。これにより,置戸のやり方が道内の町村図書館に普及し,なかには1970年代から1980年代にかけて,住民一人当たりの貸出数で置戸を上回る実績を上げたところがいくつも出てきたと述べている。彼が述べる置戸町立図書館の特徴は,住民の暮らしに寄り添って,資料提供を忠実にやってきたことによるということである。だが,今回訪問してみて,それだけではないと感じた。澤田の発言は図問研や日図協に対するリップサービスであり,本心は少し違っていたと思われる。

置戸町立図書館が町村図書館のモデルとなりうる理由

置戸が人口がどんどん減っている自治体であるにもかかわわらず,これだけの図書館を維持できている理由を考えてみたい。まず単純な理由としては人口が減っても,総貸出冊数が人口減に対応して減るだけなら,一人当たりの貸出冊数が維持できていると考えることができる。その意味で,現行で一人当たりの貸出し数が14冊ということで,この図書館は(北欧のデンマークやフィンランドなどと似て)地域に完全に根付いた図書館となっていると考えられる。ただし,全体としては貸出冊数が減少していることも確かだから,現状を維持できている要因は別にあると考えられる。それが,第一に社会教育的基盤の存在,第二にそれがもたらす効率的な図書館効果,第三に地域意識の集約的提示である。

第一の社会教育的基盤については,これまでにも触れてきたが,澤田氏も現在の司書である森田氏も社会教育を学んだ人であることが重要である。社会教育主事は先ほどの寺中構想にあったように,戦後まもなくは農村地域において地域づくりの中心になることが目指されていた。公民館は人々が地域活動やサークル活動,地域学習などをする場であり,社会教育主事は地域に入っていって,そうした青年たちや住民と濃密に接触して,場合によっては地域づくりを直接サポートする役割を果たすものと考えられていた。実際にこうした考え方を学んだ上で図書館を担当した職員は,司書であると同時に社会教育主事と同様の問題意識をもち地域の問題に取り組む。個々の住民の資料要求だけでなく,地域のイベントや産業振興,行政や学校との連携など,図書館界ではずっと後になって課題解決支援と呼ばれるようになるサービスをいち早くてがける。もちろんその方法は資料を介するわけであるが,地域へのアンテナの張り方が司書とは異なっている。(参考:森田はるみ「地域課題に挑戦する公民館・図書館〜北海道置戸町の場合」小林文人『これからの公民館ー新しい時代への挑戦』国土社, 1999)

このことはもちろん人口数千人の町だから可能だということも言えるだろう。もしかしたら住民一人一人の顔と名前を覚えられるかもしれないくらいの職員と住民の距離の近さがある。町村図書館が公立図書館サービスのモデルとなるとしたら,この点に求められるだろう。これがその10倍(場合によっては100倍)の人口が対象となる市立図書館との違いである。だが,寺中構想と中小レポートが合体したところに生まれるこうした町村モデルがあっても,小規模自治体が多数あるなかで社会教育的な仕掛けをしてきたところは多くない。置戸(ないし周辺のオホーツク地域の町村)の図書館はそうした稀有な例である。

第二に,これによって図書館効果がより効率的に生みだされる。通常,日本で図書館が地域の課題解決やローカルな情報を提供してくれる場だという理解はほとんどなかった。図書館はあくまでも全国的に流通する出版物を閲覧したり借りたりする場であるというのが一般的な理解である。ところが社会教育と資料提供が組み合わされれば,これが課題解決や地域情報提供の場になる。そのことは公民館を中心とする社会教育から出発して図書館の効果を確認した置戸町の執行部にアピールしたということが言える。そのことは,『置戸町立図書館館報』の27号(2018)に掲載されている,町のウォッチャー高橋和夫氏のインタビューや『同』28号(条例制定70周年記念)(2020)に再掲載の新旧の町長,教育長,館長,図書館協議会委員長9人による座談会(1983年当時)にはっきりと現れている。

とくに後者の座談会は『館報』(9号 1984)掲載のもので,当時の館長澤田氏が司会をして時系列的な図書館史に現れない図書館設置の事情や当事者の声が赤裸々に伝えられている。社会教育的図書館運営が町の執行部から信頼を得ていた事情がよく分かるものとなっている。次の図書館(生涯学習情報センター)の新館建設につながっていくのもそうした実績があったからだろう。

なお,ここではあまり分析する余裕はないが,図書館のみならず,公民館やスポーツ施設,福祉施設,集会施設などの公共施設がこの地域に集中しているのも同様の理由によると推測できる。過疎地域で,国や都道府県の財政支援に依存する部分が大きいことは全国的な傾向である。これは補助金,地方債,地方交付税の三点セットと言われる。これまで見てきたように,図書館については文部省農村モデル図書館整備補助事業,総務省の過疎対策事業債を利用して資金を得て施設をつくった。他の施設も同様であるが,ここはより積極的に社会教育ないし生涯学習,住民福祉を前面に出して,そうした資金獲得を行ってきた。林業をベースにした町の産業構造が大きく変貌する1980年代以降に,空いたスペースにそうした住民サービスのための施設を建てた。多くの自治体ではそれらの運営がとくに人件費の負担の大きさから指定管理に切り替えることをしてきた。しかしながら,置戸は直営でこれを切り盛りしてきたのは,ひとえに財政負担に見合った効果があると評価されてきたからである。もしかすると町立図書館で指定管理を選ぶところが相対的に少ないのは同様の事情によるのかもしれない。

第三に,その効果の重要な構成要素に地域意識の集約的提示がある。人口2700人の町で蔵書12万冊,職員7人の図書館を運営することの意義は,住民が自らの便益,あるいは福利のために利用することに基づくが,自治体経営論的な視点で見るといかにも効率が悪いという見方も可能である。たとえば,今では車で30分走ると北見市中央図書館がかなり大きな施設と蔵書を周辺の町村にも提供しているから,ここを利用することで住民の図書館要求に応えるという選択も可能である。しかしながら,そうはしなかったからこそこれまでこの図書館が維持されてきたことを見てきた。その場合に,この図書館が地域意識の集約化を代表する場として明示的暗示的に位置付けられてきたのではないか,というのが今回訪問しての最終結論である。

このことを当初,「開拓者意識」という言葉で表現しようと考えていた。明治以降,こうした北海道の自治体において,とくに鉄道が開通して以降に,いろんな地域から人々が入ってきて定着するにあたって,ここを自らの定住地とすると決めた人がいた。それらの人々によって,当該地域の自治意識やコミュニティ意識がつくられる。何よりも,道外なら近世までのムラ社会で,土地とイエを前提とした既存の秩序が支配するのに対して,北海道はすべてを自らつくる必要がある。そのことを開拓者意識と呼ぼうと考えた。だが,開拓者という用語は曖昧で誤解を生みかねない。今回,いくつかの町を訪問して耳にした言葉に,この辺りは明治以降の歴史しかないからこそ,しっかりと歴史を書くことができるというのがあった。北海道開拓の歴史をひもとき,自らの地域の歴史を跡付けようとする考え方はかなり以前からあるようだ。実際,どこの市町村でもかなりしっかりした自治体史が刊行されている。

置戸の場合も同様であるが,ここがそういう意味での歴史意識を積極的に位置付けることができているのは,図書館の地域をベースにした活動と先ほども出てきた高橋和夫氏の存在が大きい。高橋氏は戦後間もない時期の青年読書会に参加し,公民館運動や図書館運動に住民として関わってきた人である。長らく図書館協議会委員を務めた。彼は『置戸タイムス』という週刊新聞を1951年から現在に至るまで出し続け,その意味で置戸の生き字引と呼ばれるような人である。『置戸町史』上下巻,『置戸町議会史』,『置戸町社会教育50年のあゆみ』などの町の正史に当たるものも彼の執筆によるところが大きいとされる。『置戸タイムス』は現在デジタル化され,その一部は置戸町郷土資料デジタルアーカイブで読むことができる。https://adeac.jp/oketo-lib/top/

つまりこういうことである。置戸は戦後間もない時期に公民館に集まった青年たちの新しい時代に対する希望と自治意識が,その後の社会教育行政の重視につながった。社会教育をベースにした図書館は結果として住民一人当たりの貸出数が日本一につながった。だが,それを支えた背景としては社会教育的な働き掛けが常にあったことと共に,地域意識を醸成する作用としてのジャーナリズム(置戸タイムス)とそれを歴史につなげる正史刊行があった。それらはこの高橋氏個人の力で支えられてきた。そして,彼がこの仕事をする際の拠点として図書館の郷土資料の蓄積があったと考えられる。なお,高橋氏が担った地域ジャーナリズムと郷土史は私が考える地域アーカイブの重要な柱となる。図書館はこうした地域的アイデンティティを構築するのに欠くことができないインフラとなるのである。

おわりに

置戸町の図書館はやはり人を得たことで成立した。それは初期の公民館に集まって学ぼうとした青年たち,そこから出てきた町長や教育長などの町の執行部,外部から入った社会教育系の専門職員,そして,地元出身で地域のことを記録しながら後世に伝えようとする高橋氏,こうした人たちのリーダーシップが働いて,あれだけの図書館が今に至るまで維持されてきたのだと考える。

ただし,そうした青年たちも多くは高齢化し,すでに鬼籍に入った人たちも少なくない。現在に至るまで,図書館(あるいは「地域アーカイブの思想」)を維持しようという力は働き続けていると考えられるが,それを妨げる要因(町の財政問題,人口減,高齢化,少子化,都市の吸引力,インターネットなど)も押し寄せている。町民の図書館登録率は下がり気味であり,社会教育や地域アーカイブを通じて醸成された地域意識は徐々に下がりつつあるのかもしれない。

図書館政策を考える素材として置戸町立図書館はたいへん興味深く,その在り方については他自治体にとっても参考になることが多い。それは戦後民主主義において住民が主役の地域づくりの仕掛けとして社会教育や図書館があったことを忠実に実行してきたことがある。さらには小さな町だから,それが確認しやすいということもある。

最初の方で述べたように,1970年代80年代に図問研,日図協が行った置戸町立図書館の調査とその活かし方については,不十分なところがあった。それは,地域のインフラとしての社会教育や郷土資料などのアーカイブ機能を軽視したところに見られる。1950年代から60年代にかけての時期に,公民館から図書館につながる行政が行われた例は『中小レポート』では報告されているが,『市民の図書館』が出ると社会教育から離脱する動きになった。また,21世紀になってから,文部科学省は図書館政策において地域の課題解決支援を言い始めたが,それがちぐはぐなのは,社会教育や地域郷土の意識形成に関わる領域を抜きにしたからだと思われる。社会教育から生涯学習への動きそのものが,新自由主義的な動きを反映しているから当然とも言える。こうした図書館政策史の評価と再構築については今後の課題としたい。


謝辞

訪問の際に,置戸町立図書館業務係長森田はるみさんには最初から相談に乗っていただき,資料の提供,さまざなアドヴァイス,関係者へのアポイントメントなどの点でたいへんお世話になった。彼女の真摯な姿勢にいろいろと学ぶことが多かった。同館の業務係安藤光希さん,他のスタッフの皆さんにも合わせて御礼申し上げる。また,図書館協議会委員長堺敦子さん,前図書館長今西輝代教さん,オケクラフトセンター森林工芸館長小野寺孝弘さん,郷土資料館学芸員池田一登さんからは貴重なお話しを伺った。さらに,訓子府町図書館前館長山田洋通さん,北見市立中央図書館奉仕係長川畑恵美さんにも,周辺の図書館行政についてお話しを伺った。本当にありがたく,ここころより御礼申し上げたい。しかしながら,ここでの論理展開と主張はまったく私個人のものである。








2024-06-18

ポール・オトレとは何ものか? 新刊書『世界目録をつくろうとした男:奇才ポール・オトレと情報化時代の誕生』について

まず,ポール・オトレの肖像写真が載せられている表紙カバーを見ていただきたい。アメリカのジャーナリストであるアレックス・ライトが2014年にオックスフォード大学出版局から出したCataloging the World: the Birth of the Infomation Ageの翻訳書である。翻訳はプロの翻訳者を得て読みやすい本になった。私はこのなかで解説を担当した。昔,オトレについて少し書いたことがあるからだが,本書が日本でも紹介されることには大きな意義があると考えている。


実は,本文の「はじめに」「第1章 バベルの図書館」の一部,「おわりに」「解説」「索引」「文献一覧」がアマゾン(PCウェブ版のみ)の「サンプル」ページで読めるようになっている。出版社の大盤振る舞いなのだが,逆に言うとこのくらい情報を出さないと,これまで,日本の国際関係論とか情報社会論,メディア論などの領域でほとんど扱われていない人物であり,また20世紀前半のヨーロッパ大陸というなじみのない舞台なので,理解されにくいと考えられたのかと思う。ぜひ,現在読める部分にお目通しいただきたい。

本文サンプル(ただし,PCブラウザでアクセスしてください)

私が書いた解説も全部が読めるので,ここでは解説をさらに補う形で本書のエッセンス部分を紹介しておきたい。

「奇才オトレ」は何をした人か

この本の冒頭では,第2次大戦が始まってナチスがベルギーを占領したときに,ブリュッセルの世界宮殿(パレ・モンディアル)と呼ばれる建物にくたびれた格好の老人がいて,ここの資料だけは世界の宝だから,保護させてくれと頼んだが,まもなくそこにあった資料類(図書,雑誌,カード目録,博物館資料,マイクロフィルムなど)の多くは撤去され,多くは廃棄されという逸話が語られる。つまり,壮大なビジョンの下にさまざまな活動をしたオトレだが,その夢は実現しなかったことが一方では描かれている。

そこにあったモノこそ,ドキュメンテーション運動の原資にあたるもので,もともとは書籍や雑誌記事の目録カードを分類順に排列したものから始まる。つまりそれらはメタデータの集まりであったが,オトレと盟友ラ・フォンテーヌは,これをUDC(国際十進分類法)によって分類記号を付けたことが重要である。これによって,近い主題のものが近いところに並べられることで主題検索が可能になる。ただしこれだけなら,前身にあたるデューイ十進分類法(DDC)と同じであるわけだが,アメリカの公共図書館向けの分類法と違い,UDCは国際性と学術性を重視したことと,記号の組み合わせを柔軟にすることによって複雑な概念を一つのメタデータで表現できるようにした。

下記のカードボックスは「世界書誌目録(RBU)」の歴史の部分で,カードがUDCの9類で(補記:各国の歴史は94で始まる)ここはフランス44(補記:UDCでは94(44)),イタリア45(同:94(45))のカテゴリーの下で時系列に排列されていることを示す。その下の写真の中央の男性はオトレの秘書で,実際の作業は多数の女性が担っていたことが分かる。右手に見えるカードケースには最大で1600万枚の目録カードがUDC排列で並んでいたと言われる。

https://www.spiegel.de/international/world/internet-visionary-paul-otlet-networked-knowledge-decades-before-google-a-775951.html#fotostrecke-0dcb0a14-0001-0002-0000-000000070716


https://www.inverse.com/article/7549-the-first-internet-hero-was-paul-otlet-and-his-steampunk-wikipedia

これにより,UDCは学術的,専門的分野で世界的に使われることになり,現在ドキュメンテーションというと専門領域のものとされる考え方は最初から備わっていた。だが,オトレらの卓見は,専門領域が個別に存在するだけではなく,それらをつなぐ原理としてUDCを設計し,ドキュメンテーションはそうした領域を超えた知を実現することを目指したところにこそある。また,オトレらは目録カードの集合体では結局のところは知への手がかりしか与えられないことから,知そのものを提供できるようにするということでマイクロ資料に着目し,メタデータとマイクロ資料をつなげることで効率的な情報検索と情報提供ができると考えた。さらには,当時現れ始めた視聴覚資料や通信技術との関係にも目を向ける。写真,映画,ラジオ,電話,そしてテレビもまたドキュメンテーションの対象となる。これらのメディアが相互に結びつくことや,それらを用いて遠隔で会議をすることも想定していた。そうした構想が分かる図が次のものである。


ここまでは図書館情報学の教科書にも出てくる話しであるが,彼らは第一次大戦までのベルエポックから第2次大戦までの時期に,世界平和をこうした知的交流によって実現することを提唱し,各国の類似の関心をもつ人たちと交流することでこの運動を拡げていこうとする。博物館展示の改革者パトリック・ゲデス,美術家ヘンドリック・アンデルセン,,パトロンとしてのベルギー国王レオポルド2世,建築家ル・コルビュジエ,視覚言語による展示の工夫を提案したオットー・ノイラート,「橋」による学術協力活動を提唱したヴィルヘルム・オストヴァルド,機械式検索システムを工夫したエマヌエル・ゴルトベルク,「世界の頭脳」を提唱した作家H・G・ウェルズらである。これらの人たちが,束の間の戦間期に19世紀的なアイディアを極限まで繋いで拡張しようとするオトレと出会い,互いに刺戟を与え合いながら活動したことが語られる。これは,ドキュメンテーション活動が知的,学術的な拡がりだけでなく,さらにそれが社会的国際的な志向性を強めていったことを示している。

オトレのドキュメンテーションの構想は,目録カードおよびマイクロ資料,マルチメディア資料による世界知へのアクセス状況がつくられ,次の段階には,それが媒介となって世界の知識人や研究者らが互いに知を共有してより高い知を生み出し,さらにそれが世界平和へとつながっていくというものであった。これは,このブログでもかつて触れた,彼の主著『ドキュメンテーション概論』に描かれた図で示されている。再度掲げると次のものである。本書のカバーを外すと表紙に当たるところに,この図の右側の部分が描かれている。

オトレのドキュメンテーションのアイディア

しかしながら,最初に示したようにこの構想はうまくいかなかった。その理由は明らかである。時代がすでにヨーロッパの知識人が交流することで物事が解決するようなものでなくなっていた。実際に,オトレらもアプローチを試みた国際連盟は国家を単位に国家を超えた政治組織をつくることを目標としていたが,まもなく第2次大戦が起こることを防げなかったように,事態はヨーロッパという枠で解決できなくなっていた。また,著者が実証主義(positivism)と呼んでオトレの思想の根幹にあるとするオーギュスト・コントの思想は,人類が形而上学や神学的なものから合理的で科学的なものを基にした社会の形成に移行するという啓蒙主義的なものであった。しかしながら,20世紀にはその啓蒙主義が破綻して,合理主義・科学主義が大量破壊と殺戮につながったわけであり,その意味でもオトレらの理想は時代遅れのものであった。

「情報化時代の誕生」

だが,著者はそのことを主張したあとでも,本書の副題に「情報化時代の誕生」とあるように,実証主義における技術論,それも情報技術論に多大な貢献をしたことを主張する。このことを考えるためには,西洋社会におけるデジタル技術がコンピュータ以前からあったことを指摘しておかなくてはならない。もっとも分かりやすい例だとタイプライターがある。今のノートPCの原形になったのはワープロ専用機と考える人が多いだろうが,さらに遡るとタイプライターという機械があった。西洋ではタイプライター技術は18世紀に遡るが,一般的に用いられるようになったのは19世紀末になってからで,アルファベットが26に数字が10,あといくつかの記号が40くらいのキーで表現できるキーボード(シフト切り替えで大文字,小文字他を切り替える)は現在のデジタル入力でも使われている(QWERTY排列)。つまり,キーによる情報入力はデジタル技術のはるか前から使われていたのである。

米国、レミントン社(E. Remington and Sons)のタイプライター(1907年)

もう一つ別の例を挙げれば,折りたたみの楽譜を用いた手回しオルガンがある。次の写真は,ヨーロッパ近代において用いられていた手回しオルガンとその楽譜である。国立民族学博物館に展示されている。これは大きなものだがもっとポータブルなタイプのものもある。シート楽譜には穴が空いていて,これを機械に装着して裏のハンドルを手回しすると右から左にシートが送られ,基本的に穴が空いているところで音を鳴らす仕組みである。ストリートオルガンの演奏(国立民族学博物館)がyouTubeにあるのでごらんいただきたい。シート楽譜を変えることで違った曲の演奏が可能であるし,自作もできる。だから,これは楽譜が演奏のプログラムとコンテンツを兼ねているということができる。こういうものを自作する人もいるようで仕組みを知りたい人はこちらをみてほしい。

大型手回しオルガン アムステルダム オランダ

手回しオルガンのシート楽譜

以上の二種類の機械は情報の入力・出力を容易にし,さらには蓄積することを容易にするものである。また,筆と紙での筆写とか,弦楽器での演奏といったものが徹底的にアナログなものであるのに対して,限定された数のキーボードや,鍵盤楽器や管楽器が有限の範囲での音を出す原理がデジタル的であることにも気づく。そして,タイプライターが電動化され,後にはワードプロセッサ,パーソナルコンピュータにつながるように,これらはデジタル情報機器の前身とも言えるものである。

オトレはそうした文化的伝統のなかに生まれ,先ほどの図にあったように知をカタログ化することが集合的な知をもたらし,それが何らかの社会的作用につながると考えたわけだが,カタログ化された知をどのように活かすかについてもさまざまな試みをした。そして,それは20世紀後半になって実際にコンピュータの出現によって徐々に実現化していくことになる。本書の11章と12章では,パーソナルコンピュータの原型となったMemexを提唱したヴァネヴァー・ブッシュ,国防総省のDARPAで情報システム開発に関わり未来の図書館を構想したJ.C.R.リックライダー,現在のユーザーインタフェースの基礎技術を開発したダグラス・エンゲルバート,インターネット上の分散的な接続原理をワールド・ワイド・ウェブとして開発したティム・バーナーズ=リー,ドキュメント間のつながりをハイパーテキストとして開発したテッド・ネルソンなどの業績を検討している。これらはインターネットを実現するための要素技術であるが,いずれもオトレの影が宿していることを検証している。

とくに,第2次大戦直後に発表されたヴァンネヴァー・ブッシュが「考えるままに」という題名の記事で示したMemexは,パーソナルコンピュータを先取りしたものとして知られているが,そこで描かれた図(本書p292)がオトレがモンドテクと呼んで未来の個人ベースの図書館だとした図(本書p271)とよく似ていることを示している。


https://filiph.net/text/memex-is-already-here,-it%27s-just-not-evenly-distributed.html



https://www.mondotheque.be/wiki/index.php?title=Introduction

確かに机をベースにしてそこで個人の情報処理をする機械という意味では似ているが,よく見るとだいぶ違う。Memexは電気信号を用いた回路とマイクロフィルムを組み合わせたものであることが分かるし,得られた情報は机上のタブレットのようなものに光学的に表示されるが,モンドテクの場合は,机の下の書籍,雑誌,地図,ファイル資料,模型,ラジオ,テレビ,電話などの資料・メディアが置かれ,右側に見えるカード目録で検索する。検索されたものをこの机の上に出して使う。これらは,知の蓄積,検索,表示といったことをコンパクトなサイズで行うことを意図している点で共通するが,仕組みは違っている。Memexの図の机の中にはマイクロフィルムを検索する装置であるラピッド・セレクターが置かれている。これは,マイクロフィルムの側面に先ほどのオルガンのシート楽譜のようなパンチを空けて,それを手がかりに検索できるようにしたものである。つまり,オトレのカード目録はブッシュでは電気式のものに代わっている。

ハイパーリンクの予見

戦時期をはさんで情報技術に大きな展開があったと考えられるだろう。もう一つの古くからあるデジタル技術のモールス信号をめぐって軍事情報の暗号化とその解読技術の発展によって情報の扱いがアナログからデジタルへという展開がはっきりと現れた。また,パンチ穴を利用した検索の工夫も古くからあるが,20世紀初頭にハーマン・ホレリスによる移民の統計データを検索するのに用いたことが知られている。しかしながら,その後軍事技術としてノイマン型コンピュータENIACが開発されて,2進法によるデジタル情報処理が可能になった。これは,高速の計算を可能にするだけでなく,1バイト(=8bit)が1文字を表す基本単位として,文字データ処理を可能にし,それはその後の情報処理,知識処理までも可能にするものとなった。そのときに,パンチカードはプログラムやデータ入力のためのツールとして用いられる。ブッシュのラピッドセレクターは,当時,国立農学図書館の職員だったR. R. ショーが検索装置としての実用性を高めようとしたことにつながり,その後はデジタルコンピュータに移行する。

これら二つの図の間にはデジタル技術の発達があったことはいうまでもない.が,著者はオトレがそうしたデジタルコンピュータ技術の発展をあたかも予想していたようなさまざまなアイディアがあったことを強調している。オトレはムンダネウムをさまざまな機会に提案し,また図示して見せてくれた。たとえば1937年に作成された「ムンダネウムを構成するもの Species mundaneum」と名付けられた図では,さまざまな要素が上段の真ん中に置かれたムンダネウムとリンクされている様子が描かれている。たとえば,左上は世界都市,右上はインターナショナリズム,降りてきて人々の日常生活や精神生活,メディアとの関係など,さまざまな要素が描かれている。これらを繋ぐための仕掛け全体がムンダネウムだという。,

https://monoskop.org/Paul_Otlet#/media/File:Otlet_Paul_1937_Species_Mundaneum.jpg
著者は,この図は引き合いに出していないが,彼の思想としては,「人間は原子や電子といった部品の集合体でしかなく,それらが組み合わさることで,独立し自律した自分という幻想が生まれる。」「社会も「知識の集合体」であり,知恵の集まりという善なるものに貢献するために,独立して機能する自律的な知識基礎となる,これを実現するためにオトレが望んだのが,だれでも使用でき,社会全体で情報を収集,作成,配信できる「知識機械」だ。」(本書, p278)と述べる。

著者は,20世紀後半に現れた情報化時代のイメージのなかで,オトレの思想に一番近いのがテッド・ネルソンが1981年に発表したザナドゥXanaduという構想だという言う。これはその後,ハイパーリンクシステムの基になったとも言われている。ザナドゥは世界規模のネットワークで膨大な数のユーザーが同時に接続でき,世界に蓄積された文字,画像,データを集積するためのものと述べられている。(本書, p.302)それを図示したものが下の図だ。著者は,オトレとネルソンはきわめて理想主義的なアイディアをどんどん出すユートピア的熱意をもつところが似ているだけでなく,熱しやすく自らの道に障害となるものに対して異常なまでの執念で打開しようとするところにも共通点があると述べている。ネルソンの案は現実的にはティム・バーナーズ=リーのハイパーリンクシステムによって実現されたと言われる。

https://museumofmediahistory.com/xanadu

まとめ

以上のように,本書は,ポール・オトレが20世紀前半に知のネットワーク構想をカード目録の作成から始めて,それが現在のハイパーリンクによるネットワークの出現にまで結びついていることを物語ってくれている。これまでも,Memex以降の情報技術の展開をまとめ,情報化時代の出現の歴史を語ったものはあったが,この本はそれがさらに半世紀遡った構想の実現にあったということを明確に主張している。今日,図書館情報学で使われるドキュメンテーションという用語には,文献資料の処理という意味に限定されずに,そこから情報や知識を取り出してさらに何らかの知的活動なり社会的な活動なりに結びつけるところまでも含むというメッセージが込められている。

私は解説の最後で,日本語が2バイト文字でしか表現できないことの困難性について触れた。コンピュータの仕組みそのものがアルファアベットを使うところに最適化して現れたことは言うまでもない。しかしそれだけでなく,西洋近代では機械による情報処理がすでに行われていたことが,コンピュータを単なるデータ処理の機械にとどめず,情報処理,そして本書が扱っているような知識処理への発展につながっている。この部分は図書館情報学の役割と密接に関わるものであり,本書がオトレの業績やそれが情報化時代を切り開く役割をしたしたことを紹介する動機ともなったものである。

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