ヤアランの議論

図書館情報学の理論とはなにか
ドメイン分析
ドメイン専門家の育成
適切に機能する図書館と適切に機能する情報サービスは、すでに表現されているニーズを満たすだけでなく、そもそもこれらのニーズを認識する表現できるようにするプロセスの一部である。理想的には、情報システムは、利用者の情報ニーズに関して能動的に行動するべきであり、つまり、クエリ表現される前にニーズを認識する必要がある。

適切に機能する図書館と適切に機能する情報サービスは、すでに表現されているニーズを満たすだけでなく、そもそもこれらのニーズを認識する表現できるようにするプロセスの一部である。理想的には、情報システムは、利用者の情報ニーズに関して能動的に行動するべきであり、つまり、クエリ表現される前にニーズを認識する必要がある。
この書評は、Amazon.co.jpの当該書のカスタマーズ・レビュー欄に投稿したのだが、投稿後5日ほどになるのにアップされなかったのでこちらにも掲載した。遅れた理由はよく分からないが、1週間くらいでようやくアップされていた。その間もその後も、こちらを少しずつ書き直したり書き足したりしているので、ふたつの書評は同じではない。こちらが最新ヴァージョンと理解されたい。
中尾茂夫『情報敗戦ー日本近現代史を問いなおす』筑摩書房(筑摩選書) 2025年4月刊
★★★★☆
ポスト団塊世代に属する国際経済学者による近代日本論。評者は、今回、初めて著者の本を手にとった。著者と接触をもったこともない。同年生まれで、同世代の社会科学者の世界と日本への眼差しに親近感を覚えたのが理由である。とくに、かつてウォルフレンの『日本/権力構造の謎』(1990)を読んでこういう外部からの視点が面白かったこともあり、本書もそれが手がかりの一つになっているから期待して読み始めた。
以下、感想を書くが、どうも批判的な調子で展開することが多くなってしまった。しかし、基本的にはたいへん参考になった本として星4つとしている。でなければ、わざわざ書評を書いたりしない。自戒を込めて言うと、世代的なものなのか、同意できるところが大いにあるはずなのにそれはあえて強調せず批判点ばかりを書き連ねる傾向がある。その点で著者のアプローチと似ているとも感じている。そのことはもしかしたら、本書そのものの評価とも関わっているのかもしれない。
日本へのアプローチについて知日派外国人の論はウォルフレン以外読んでいなかったので、今、インバウンドが大挙押し寄せて日本を気に入る人も多いとされるが、本書を読むとその原型がすでに知識人の論として仕込まれていることがわかる。かれらは外からきた内なる批判者になった人たちだろう。そして、ふむふむと読みながら、そうした論があくまでも外からの視線として扱われているところに限界もあると感じた。すでに日本は自らの内懐にそうした異論を溜め込み発動させつつあるのではないか。そのことはこれから書くことに関わる。
内容的にはおもしろく一挙に読んでしまえるような迫力を感じた。要約して言えば、エドワード・サイード、ジャン・ポール・サルトル、ハンナ・アレントらの戦後の代表的知識人の言説を基調にして、イアン・ブルマ、ハリー・ハルトゥーニアン、カレル・ヴァン・ウォルフレン、ターガート・マーフィー、エマニュエル・トッド、ウェンディ・ブラウン、フィリップ・ポンスらの知日派の論を手がかりにし、国内では主に辺見庸と松本清張の論を引き合いにしながら、日本論、日本人論を論じる。
そこで明らかにされるのは、日本は江戸開府以来、現代に至るまで西洋的な近代化とは別の道を歩んでいるということである。そこでは、あくまでも国家的な秩序意識を保つために、維新以降は神権的政治体制を選択し、戦後は「アマテラスのアンクルトムによる代替」(ハルトゥーニアン)によって、アメリカの軍産複合体制への隷属のもとにある。この隷属構造が隠されていることが重要である。それをマーフィは対米従属構図と名付け、「ワシントン⇒高級キャリア官僚&大手メディア&対米投資に熱心な大手財界人⇒政治家、という明確なフローチャートを提示し、この意思伝達経路に妨害が入るときは、検察と大手メディアの強力な結託でもって、当該者は攻撃され、排除される。」と言う(p.161)。だから、日本の論者は「イラク戦争もウクライナ戦争も、それが「ニチベイ」批判だと察した時点で、「言わぬが花」になる。」(p.181)
たとえば日米地位協定の存在などの対米従属の構造は知られていても、大手マスコミ、社会科学者、思想家、文学者はそれを表立って議論しない。その議論をすることが、大きなタブーに触れることになるかのごとく、いつの間にかないことにされるのだ。そこでは政治も思想も幼児性が際立っていて、自らの主体的な判断や意思決定ができず、国際社会との落差がはなはだしい。われわれの世代が馴染んできたような戦後進歩主義(丸山眞男や加藤周一など)にも若干は触れているが、そうした近現代思想史正統にチャレンジする議論は避けているようで、唯一、明治維新についての羽仁五郎=井上清史観(封建勢力間の権力移譲説)を評価している。戦後改革も敗戦によって支配者が入れ替わっただけだから、日本はいまだ封建的中世から脱していないことを強調しているようだ。
だが、依拠している歴史思想的立場はいささか古く、やはり西洋的な啓蒙思想そのものだろう。帯に「なぜ日本は負け続けてるのか?」とある。本書は、欧米の先進国に対して遅れてきた経済大国が今や落ちぶれているというような常識的議論ではなく、それも含めてそもそも「情報戦」において負けているという主張である。ここでいう情報戦の敗北とは、自らの国際的、歴史的立ち位置を十分に理解した上で適切な判断を下すような政治およびそれを支える官僚機構、そしてそこに影響を与えるジャーナリズムや思想、歴史、社会科学の思考がそろって戦えるはずのものが、不在のままだということを指している。だが、その議論を支える歴史認識の基調は、フランス革命からスタートする西洋の市民社会論であり、この啓蒙思想自体が有効期限切れになっている。本書ではサイードやアレント、トッドなども引き合いにだして、西洋vs.非西洋の図式を回避しようとしているのだろうだが、整合性のある議論にはなっていない。
これは別に日本だけの課題ではないし、手本だったはずのアメリカで、現職大統領が大統領選挙で負けが確定したときに民衆に連邦議会突入を指示するという、フランス革命を念頭においた前代未聞の事件が起こった後では、西洋型市民革命を根拠に政治思想は語れなくなったはずである。(もっとも後世の歴史家はこれをもって新しい革命思想の成功例とするのかもしれないが。)この本はアメリカだとバイデン政権、日本だと岸田政権の昨年までの状況を踏まえているが、ロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ・イスラエル戦争、そして、第二次トランプ政権の誕生過程の思想的意義までをきちんと抑えていないので、今、急速にアメリカが国際舞台から撤退し、アメリカの覇権主義が支えていた20世紀の構図が変貌を示している状況に対応できていない。また、アメリカが保守とリベラルが互いの覇権を競っているという図式も、トランプの「ディール政策」以降途絶えようとしていることも重要である。これに対して,思想の全体状況が素朴な保守に回帰し、「未来に過去がやってくる」(辺見庸)事態への警鐘としているのだろうが、この書き方だと説得力がない。というよりも、むしろ反発を引き出すための議論展開をしているようにしか見えない。
個別には頷ける議論も少なくない。また、全体としても日本が東アジアの島国で中世以降独自の発展を遂げたという認識の枠組み自体は間違いではない。その枠組に適合する内外の議論を整理しようとしている点には敬意を表したい。(本説末尾の引用一覧を参照のこと)しかし、今では、江戸期の民衆のリテラシーの高さや文化人の知的交流、文芸や芸術表現の高さの研究なども進んできている。参照している知日派の論は基本的にそういう文化的伝統に立脚するものだが、これを西洋的文脈で主体性のなさや国際社会における立ち位置の弱さととるのは正しくない。本書の最後のほうで、昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したことを評価する議論が行われているが、これもとってつけたようだった。繰り返し、日本に彼が描くような歴史的な構図や国際的な位置づけを正確に理解した上で発言できる論者が現れていないことを憂えているように、日本のジャーナリズムや学術・思想状況への批判なのだろう。
もう一点、論旨は明快だが読みやすい本ではないことも付け加えておこう。繰り返しが多いし、本全体の構成が論理的な展開になっていないからだ。最近このたぐいの、強いて言えば長年書き連ねたブログの文章を寄せ集めたような文体の本が目に付く。まことに書き散らしただけで、独りよがりで、(とくに若手の)読者へのサービス精神が欠けたものだ。本書に説得力をもたせるためには論点を整理し、論拠を明確にしながらもっと読みやすい文体と論理構成で表現することに心がけるべきだったろう。そうした工夫を避けているから、Amazonのカスタマーレビューにもあるように、本書自体が日本人の自己表現の幼児性の典型例のようにも見えてしまう。著者が批判するような日本人一般には文字通りの批判をぶつけるのではなく、相手の立場に配慮しつつ論を進めることが必要なのだろう。
こうした出版社選書のシリーズは編集者が形式面に手を入れてもっと読みやすい本にすべきである。だが、それは本来、編集者の仕事ではなく著者が担うべきことのはずだ。たとえば、Amazonの読者評にもあったが、参照文献の書き方がよくない。本文中の初出に書誌事項があるが、まとまった文献一覧がないので、しばらくするとどの文献を指して論じているのかわからなくなる。また、こうした多数の論者を引用し、多数の論点を扱う本には索引が必要なはずだがない。こうした文献や索引を無視するのが日本の知識人の性だろう。
本来、本を書くには、自分が書いたものを再度新たな視点で読み返して編集する行為を伴うものではないか。そのときに手がかりになった文献を見直し、自分が使った言葉を再吟味することが必要になる。そのためには文献一覧や索引が手元にほしくなるではないか。著者自身でそうなのだから、まして読者は他人。手がかりなしに著者の考えを理解できないではないか。しかたないので自分でメモをとりながら読んだ。評者はふつうこういう読み方はしていない。参考までに末尾に付けておいた。
最後に冒頭で書いた本書の文体について再論しておこう。本書は、日本人全体が幼児化した情報弱者だと批判しているのだが、それを言うための自らの情報論的立場が不明確であることが気になる。強い弱いは何を基準にしているのか。ジャーナリストや学者,思想家が発する情報がうまく民衆に伝わらないのは情報そのものについて自ら抑圧しているからなのか,それとも伝わるための論理展開や言論戦略をもっていないからなのか。評者はそれ以上に、日本人の言論構造に欧米のものとの違いがあることを強く感じている。これは別に論じる予定だが、それは伝統的な人間関係や社会構造に変化がないことにあり、それを前提にする限り、いくら情報強者が自分の知見を民衆に説いたところで届かない。
日本人にとっての論理的文章とは「共感」をベースにしたものであるとしているのは、最近出た渡邉雅子『共感の論理ー日本から始まる教育革命』(岩波新書)である。ただ、私はこの本のタイトルがミスリーディングであることを感じている。というのは、彼女が主張する日本の「共感の論理」は、幼少期の情緒的なものをベースにしながらも、それがあるからこそ、発達段階に沿ってその後の論理的思考、抽象的思考、相対化する思考を導き出されるという構想になっている。共感は情緒とイコールでないことが重要である。こうした考え方は一見、弱者の論理展開に思えても実は強靭なものにつながるものなのではないか。だが,最初から論理や抽象化思考からスタートする本書の論理構造は、正反対のもののように思える。
以下、本書を読んだときに気になった部分を引用して示す。
上に書いたように本書には索引がない。これでは、著者がどこで何を言ったのかがまったく辿れない。そのため、本書を読んだときに書き抜いたメモをもとに、この書評を書いたときに参照した部分の典拠を示しておく。もとより、これは評者の読み方で「気になった」ということである。
citations
辺見庸「未来に過去がやってくる」(『完全版 1★9★3★7』) p.17
辺見庸「主体と責任の所在を欠いた,状況への無限の適用方法」p.114
辺見庸「言挙げをせぬ秘儀的なファシズム」p.144
辺見庸「危うい静謐と癇性,どこまでも残忍で胆汁質の情動ーそれらの病勢を小津作品の陰画面に感じる」p.180
エドワード・サイード「オリエンタリストとは書く人間であり,東洋人(オリエンタル)とは書かれる人間である」(オリエンタリズム)p.50
エドワード・サイード「記憶は、アイデンティティを維持するための強力な集団的装置」であり、「それは歴史による抹消の侵食を食い止める防波堤の一つです。それは抵抗の手段」」(『文化と抵抗』)p.268
イアン・ブルマ「ヒトラーはけっして<神輿>ではなかった」(『戦争の記憶』)p.86
イアン・ブルマ「日本の教育は日本帝国のプロパガンダの実践の場だった」(『戦争の記憶』)p.147
ブルマ「最高位の<神輿>を一切関わりなくしておく取引が行われた」p.165
ブルマ「幼児性は、日本だけだと言わないまでも、日本に顕著な文化的特性なのではないか、とつい考えたくなる」p.203
松本清張「古代日本の神権的なデスポット的な大王(おおきみ)に『培養』せんとする大久保[利通]の熱心な意図がここに見える」(『史観宰相論』)p.87
ポール・ジョンソン「軍国無政府社会」(『現代史』)p.104.
ハリー・ハルトゥーニアン「アマテラスのアンクルトムによる代替」(『歴史と記憶の抗争』)p.112
エマニュエル・トッド「アメリカ・フォビア」p.115
チャルマーズ・ジョンソン「独立した民主主義が発展せず,アメリカの冷戦期の従順な衛星国」(『帝国解体』)p.155.
バリントン・ムーア「ファシズムはドイツにおいてよりも,日本の制度と親和性が高かった」『独裁と民主政治の社会的起源』p.157.
ターガート・マーフィー「マーフィの言う対米従属構図とは,ワシントン⇒高級キャリア官僚&大手メディア&対米投資に熱心な大手財界人⇒政治家,という明確なフローチャートを提示し,この意思伝達経路に妨害が入るときは,検察と大手メディアの強力な結託でもって,当該者は攻撃され,排除される」(『日本‐呪縛の構図:この国の過去、現在、そして未来』)p.161
ターガート・マーフィー「「階層性を通じて社会秩序を維持すること」を最重要視する朱子学の哲学がいまも日本を呪縛する」p.167
ターガート・マーフィー 「1603年江戸開府を起点とする近代化論ー侍階級が主導権を継続した」「東京裁判における日米合作の茶番(「東條が天皇をだました」( p.163-167)
ウォルフレン「日本には時の権力保持者から完全に独立した文筆家および知識人社会は存在しない」(『日本の知識人へ』)p.162
ウォルフレン「日本の大衆文化の際立った特徴は政治的な想像力を掻き立てる内容はすべて抜いてある」(『日本 権力構造の謎』 )p.223
ウォルフレン「システムが朝廷の方を好む政治的理由としては…力の強い論争者が有利になるということである。こうして、現状が維持されるのである。もし多数の訴訟が起こされ、それに対して論理的で公正な結論がくだされれば、<システム>はひとたまりもなく崩壊してしまうにちがいない。」p.243
「日本における官僚機構の驚くべき巨大な権限は…戦後は官僚機構の一人勝ちになり,通常の先進諸国の官僚機構に比べ,統制色の濃い財界も,あるいは官僚出身者の多い政治家も,実質的に官僚と権益を共有する人々が多いからだ。」「「対米従属の可視化を具体的に説く日本人はほとんどいない。」p.166.
「アメリカという国民国家の中枢に,軍産複合体という怪物がいて,その利害が国民国家をリスクに晒すという警鐘は,絶えず戦争を仕掛けてきたアメリカの思惑を理解する上で欠かせない….イラク戦争もウクライナ戦争も,それが「ニチベイ」批判だと察した時点で,「言わぬが花」になる。いずれも辺見の言う「ヌエ的ファシズム」,清張風に評すれば「部族的官僚政治」,アルノーの評する「オメルタ(マフィアによる沈黙の掟)」に共通するだろう」p.181
「なぜ、岩波は清張の版元とならなかったのだろうか。大衆の欲情や怨嗟に通じた清張史観は、岩波流エリートの教養文化とは異質。換言すれば、どちらも権力を批判するものの、活字文化の権威に君臨した岩波文化人と、最後まで大衆のルサンチマンに拘泥した清張の視点はどこまでも違った。同じ時代を生きた丸山眞男と清張はどれほど相手を意識していただろうか。」p.194
「サルトルやアレントに共通するのは、権威や権力に一切媚びず、怯まず、一生を自らの思想や哲学を通して、言葉でもって歴史感や世界観を表わし、時代の権力や不条理と戦ってきた、つまり本当の数少ない知識人だった。」p.200
「説明なき海外投資、原発事故、原発再稼働、能登半島地震に関する政府の情報統制」 p.254
「エイズウィルス感染による血友病、コロナワクチン開発・接種過程の不可解ーコロナは薬害だ」 p. 255
明治維新についての羽仁=井上史観(封建領主間の権力移譲) vs. 司馬史観(下級武士の英雄史観)p.261
サルトル「金持ちが戦争を起こし、、貧乏人が死ぬ」p.274
フィリップ・ポンス 日本には、島国根性とか等質的社会といった欺瞞的パラダイムにはけっして収斂されず、まさに「周縁性」に育まれた風土が存在した。その歴史的潮流として、ボンスはアマテラスの弟で「放浪者の典型」スサノオの神話に始まり、江戸時代の農本主義者安藤昌益、戦後の「無頼派」の作家に至るまで「野生の個人主義」を見出し、「強靭な異議申し立ての血統」をなす「日本の歴史的水脈」を発見した。p.275
ウェンディ・ブラウン 一方では蔓延する過度な市場化や民営化が、還元すれば「市場万能論」が、人間が歴史的に培ってきた民主主義や人権や公共といった誇るべきデモスの要素を破壊する時代の様相に、「文明のの絶望」を感じながらも、けっして、怯まず、抗い抜くという宣言は、胸を打つ。『いかにして民主主義は失われていくのかー新自由主義の見えざる攻撃』 p.302
ハンナ・アレント「戦争が記録されている過去のうちで、もっと古い現象に属するのにたいして、革命は正確にいうと近代以前には存在していなかった」(『革命について』)なるほど、日本の歴史を振り返っても、太古の昔から戦争や紛争は頻発したが、革命は未体験。いまだに前近代という旧弊を脱することができない。p.320
「結論は現下の日本はもはや「ほぼファシズム」だということである。」p322
私が編集責任者を務めた『図書館情報学事典』(丸善出版, 2023)は初学者や一般の人向けの項目として,図書館映画とか図書館文学に目配りをした。ここでは図書館文学を取り上げる。図書館映画については,つのだ由美こ『読書を最高のエンターテインメントに—本が大好きになる図書館の使い方』(秀和システム, 2025)が手広く紹介してくれている。
『図書館情報学事典』の第10部門第27項(10-27)の「図書館をテーマとする文学」では,ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』,スティーヴン・キング『図書館警察』,リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』,村上春樹『海辺のカフカ』,有川浩『図書館戦争』,門井慶喜『おさがしの本は』が紹介されている。いずれも,図書館というものがもつ何らかの性質の一つの側面を切り取ってそれをモチーフに展開をした作品であり,これらを横断的に批評すれば図書館文学批評とも呼べるような知的空間が浮かび上がるのではないかとも思われた。
この事典を企画していたときには気づかなかったのだが,日比嘉高編『図書館情調ーLibrary & Librarian』(皓星社, 2017)という「図書館文学」のアンソロジー集が出ている。図書館文学を集めるという試みは他には聞いたことがない。最近読んで事典編集時にこの本を知っていたらもう少し別のアプローチがあったかと思うのだが,日本人の図書館理解を解く鍵がここにもあるかもしれないと感じた。この本は全10巻の「紙礫」というテーマ別文学アンソロジーのシリーズの一冊である。他のテーマは,闇市,街娼,人魚,テロル,鰻というように,これまでの文学コレクションではテーマとして取り上げられにくいものといっしょに扱われている。これを読んで触発されたことについて,忘れないうちに書いておきたい。
まず,図書館情調とは何だろうか。「情調」という言葉自体,今となってはあまり聞き慣れない。たとえば小学館『日本国語大辞典』には,「あるものに接したとき、そのものからにじみ出て、人をしみじみと感じさせるようなおもむき」という定義があり,用例として「*それから〔1909〕〈夏目漱石〉五「自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調(ジャウテウ)に居りたかった」」というのが載っている。「情緒」とも似ているが,情調は「調べ」を含むように,感性をもって包み込むニュアンスがより強い。図書館情調とは,図書館がそれ自体が場でもあるので,そこに居る人々が建物や内装,利用者や図書館員から受け取る感覚や趣きと理解すべきなのだろう。
書名の「図書館情調」は,アンソロジーの冒頭にある萩原朔太郎の同名の短文から取られている。このなかで朔太郎は,独逸式の図書館が世界の思想,科学,哲学,芸術が納められた権威主義的で重々しい場だが,同時に崇高さを感じさせるものであるとし,米国式の図書館は全景がからりと晴れて明るい日光が差しこみ,手頃な小説本や気の利いて面白い「愉快な娯楽」を感じさせるような場であると述べる。一見,ドイツとアメリカの図書館を対比しているようだが実はそうとばかりも言えない。両者においてそれぞれの人々は「彼らの環境と彼らの気分との溶けあった満足を味わっている」としているのに対し,日本の図書館は独逸式図書館を模倣して設計されたが「重鬱で陰気くさいというだけであって,肝心の精神を高翔させる気分がない」というように、批判的に扱われている。西洋がモデルになった日本の近代化というテーマの一面がはっきりと顔を見せている。
現在,図書館が出てくる文学としてよく取り上げられる作品に,村上春樹『ノルウェーの森』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や,有川浩『図書館戦争』がある。村上作品だと,分断された自己意識に何らかの意味を与えるための場として図書館が存在している。描かれる図書館は現実のものではなく,ある種のメタファーである。『図書館戦争』であれば,図書館の自由を守るために武器を取るという行為が強調され一人歩きしているエンターテインメントとして描かれる。これらが与えるものは朔太郎の描く過去の図書館の情調とは異なっている。メタファーとしても現実の延長としても,ネガティブに描かれてはいない。それだけ図書館が変化したことは確かだろう。だが,それらに精神の高翔が感じられるかと言えばそれは違うだろう。朔太郎の時代に作家が図書館に抱いた本来的なイメージと,現代において作家が図書館に重ね合わせるものとは異なっている。それは何だろうか。
本書『図書館情調』で取り上げられる文学作品は大きく「第1部 図書館を使う」「第2部 図書館で働く」「第3部 図書館幻想」に分かれる。このうち第1部と第2部の作品の多くは戦前から戦後間もない時期にかけて発表されたものであり,そこで描かれる上野や日比谷の図書館やそこで働く図書館員は暗く,また貧しい。多くの場合,エリート予備軍たる作家志望者から見て,陰惨でつっけんどんで居心地の悪い場所というのが図書館の描かれ方であった。
菊池寛の「出世」は,自らの若い頃の勉学の思い出を重ね合わせて書いた小編で,彼が中学校を卒業後,上京してから学校以外の勉学の場として図書館があったとして,上野図書館(帝国図書館)以外に日比谷図書館,三田の書庫(慶應義塾図書館)が出てくる。とくに大学を卒業してから職にありつくまでの半年間を「図書館で暮らした」。「その時代の図書館通いは,彼に取っては一番みじめなことだった。」としている。タイトルの「出世」は,そうした図書館通いのあと数年して,上野図書館に行ってみたら,かつて通っていた時代に諍いを起こしたりして顔を見知った下足番の男が,閲覧券売り場の業務をしていることを知り,彼も「出世」したのだと思ったというたわいもない話しである。ここでは,彼自身の職がなかった時代の惨めさを下足番の仕事に重ね合わせてとらえ,その後職を得た自分と「出世」したその男の運命を対応させて喜んでいる。
図書館はその存在自体が社会の進展から取り残された苦学生のたまり場のような場所として描かれていたわけだが,ここには宮本百合子が「図書館」で戦争が終わってから同じ上野図書館を回想するのとも共通するテーマがある。閲覧室に来ている利用者はいずれも無表情で何かを読んでいるが,それは新しい時代に向けての準備の行為であることを示唆している。また,かつての婦人閲覧室が利用者どおしが互いに情報交換するような場としてあったことにも触れている。
これは竹内正一の「世界地図を借る男」に出てくる,毎日世界地図を借りて何かを書いているルンペンのような利用者の男の描き方ともつながる。著者は満州のハルピンの満鉄図書館の館長を務めた人であり,近代的図書館の職員から見た利用者像を示している。この小品でも最後は利用者の男は別の職場で働いていることが明かされて終わるのだが,世界地図を見る男が,朔太郎が言及した精神の高翔に近い位置に居たことが示唆されるのは,この図書館が新開地満州にあったことと関係しているのかもしれない。
「図書館の秋」を書いた小林宏は,栃木県立図書館の司書をしながら日仏図書館学会にかかわり,「文庫クセジュ」のアンドレ・マソン, ポール・サルヴァン著 『図書館』(白水社, 1969)の翻訳をした人として記憶される。彼は1964年にパリに渡り,フランス国立図書館(現リシュリュー館)にあった国立高等図書館学校で研修を受けた。小林は朔太郎的意味での西洋文明における図書館の位置付けを体感する立場にあったはずだが,ここで描かれるフランスの大図書館もまた上野の帝国図書館と似て,無機質な書物の蓄積の場でしかなく,精神の高翔はむしろ,11月の暗いパリの街で,花売り娘から赤い薔薇を買ったことや同じクラスに出席する学生たちと一緒にモンパルナスの劇場で観劇し,その薔薇の花束を女優に渡したことなどからくる。昭和戦前期の知識人予備軍はそうした西洋人たちとのやりとりから隔てられ,かろうじて図書館はそうしたつながりをかろじて感じられる書物の拠点であった。だが,戦後間もない時期でもそれはまだ払拭されていないことを思わせる記述であった。
全体に図書館の描き方は暗いのだが,その暗さは次の何ものかに飛翔するための準備という意味合いがあった。その典型は中野重治「司書の死」である。これが他のものより図書館員に知られているのは,実在の図書館員をモデルにしているからである。その人は戦前に帝国図書館に勤め,占領期に文部省図書館職員養成所の初代所長になった舟木重彦(小説のなかでは高木武夫となっている)である。中野と舟木は旧制高校から東京帝国大学文学部独逸文学科まで同級の仲間であり,ここに語られていることは他の関係者によっても検証されだいたいにおいて正しいということになっている。友の死を悼んでこれを書いたことは確かだろうが,彼の図書館員観は次のようなものである。
大人しい人々,反抗的でない人々,善良でどこかで人間の良さを信じている人々,しかし,消極的なところのある人々,こういう人々が図書館にいるらしかった。考えてみると,高木武夫がその一人でなくはなかった。
これが,中野のような日本共産党(と国際共産主義運動)との確執を武器にしながら文学や政治評論を打ち立てようとした人の口から発せられると,話半分に聞いた方がいいのかもしれない。
だが,一般に図書館員がこのようなステレオタイプで見られるのは別に日本に限らず世界的にある現象だろう。それはおそらくは,図書館員の仕事が外からは理解できない仕組みによって構成されていることが大きい。知識人なら自分の蔵書を自分勝手に置いてそれが一番使い勝手がよいとするのに,なぜ図書館はわざわざ本を分散配置させて,分類や目録によってアクセスするように仕向けるのか。その仕組みの担い手の中心は女性であり,そのジェンダー偏差は図書館のイメージづくりに負の作用をもたらした。メルヴィル・デューイがコロンビア大学に図書館員養成の学校をつくったときの構想が,働く(中産階級出身の)女性の(あり得べき)適性に合わせた職をつくったことにあり,それが世界中に広まったことと関係がある。これについては,20世紀後半のフェミニズム的視点による研究から厳しい批判を浴びた。(注1)
中野は,高木の叔父から,高木がアメリカに特別の使命を帯びて派遣され数ヶ月の滞在ののち,急に帰国することになり,帰りの船で発病して横浜に到着後まもなく亡くなくなったことを知らされたとする。この小説は中野と高木の生前の交流と亡くなった経緯を記述したものであるが,最後に次のように書いている。子供に甘かったマルクスが,二人の娘から好きな仕事は何かと問われて,「本食い虫になることだ」と答えた。
おれも本食い虫になるのが好きだ。[マルクスとは]比べものにならぬが。しかし,それは,質朴,強さ,たたかうこと,ひたむきに結びついていなければならないだろう。司書も図書館員も,これからは一しょに大ごとというわけだろう。これを書いて,司書高木武夫のためにおれは祈ろう。
この文章が『新日本文学』に掲載されたのは1954年8月である。高木の死が朝鮮戦争が勃発した1950年6月のこととし,この後にイデオロギー闘争が始まることを示唆して,このような文章にしたのは中野のフィクションである。実際には舟木は1950年11月にアメリカに発って1951年3月に帰国し,瀕死の状態で横浜港に着きまもなく亡くなった。中野が描きたかった「大人しい」司書ですら急遽帰国して闘おうとした(はず)としたことについて多言は要すまい。
もう一点,マルクスが本の虫だったというのは,彼が大英博物館の閲覧室に籠もって資本論を書いた事実に基づく。この図書館は,大英帝国および資本主義的経済体制についての資料を惜しげもなくすべての人にオープンにした場所であった。そこから資本主義を根底的に批判する書物が書かれたことは皮肉にも思えるが,西洋のアーカイブ思想はそうした自らの基盤を突き崩すようなものを含んでいるから,それは意外でも何でもない。中野がマルクスと「くらべものにならないが」と言っているのは,自らの態度のことだけでなく,日本の図書館にはそれだけの思想もその成果としての理論的蓄積も持ち得ていないことも指しているものと思われる。
これが書かれた時期は日本の図書館界にとっても大きな転換点であった。占領軍の指示により,1948年に国立国会図書館法が制定され,1950年に図書館法,1953年に学校図書館法が成立した。そこには,広義の教育改革としての図書館整備という課題があった。舟木が所長になった図書館職員養成所は,慶應義塾大学に設置されたジャパンライブラリースクール(JLS)とならび,戦後の図書館員養成の強化を担うプロジェクトの一環にあった。慶應とともにJLS設置の候補だった東京大学に,文部省の肝いりで秘かに図書館職員養成所を移すプランがあり,その教官候補として舟木が呼び戻されたことについて,複数の先輩たちの口から伺ったことがある。(注2)
朔太郎あるいは同時代の作家が描いたネガティブな図書館のイメージは,戦後,占領政策に位置付けられることで変化を遂げようとした。そのことについても,ここでは述べない。ひとまずは以前に書いた論文を参照されたい。次に述べようとするのは,そうした現実の図書館とは別の系譜のファンタジー系図書館である。
『図書館情報学事典』には別に「10-25 メタファーとしての図書館」という項目もあって,そこでは,ボルヘス「バベルの図書館」(『伝奇集』),フーコー「幻想の図書館」「ヘテロトピア」,ベンヤミン「蔵書の荷解きをする」,エーコの「迷宮としての図書館」(『薔薇の名前』)について触れられている。これらは現代における代表的な図書館批評であるが,いずれも現実の図書館というよりは,知の蓄積の場としての図書館の表象的作用が扱われる。図書館の書物や雑誌は文や言葉から成り立っている。機能主義的に見れば知識の伝達ととらえる過程も,書き手の表象と読み手の表象が一致するとは限らない。図書館情報学はその伝達を効果的にする機能主義を追求するものであったが,この作用を文学,思想,社会学,歴史学などさまざまな視点から描くこともできることがわかる。挙げられた作品は言語論的転回以降のポストモダン的な立場から書物およびその蓄積の作用を描き出そうとしたものである。
私は事典のこの項目を清水学さんに依頼しておきながら,うかつにも自分でも書いていた。それを転載したのが,当ブログの「2021-09-16 メタファーとしての図書館」である。取り上げた作品は清水さんのものと半分くらい重なっているが,前半で,Human libraryやSeed libraryなど,図書館的手法を取り入れた実際の活動を紹介し,組織における図書館の位置づけを人体や生体の「心臓」とか「尻尾」に喩えるような表現について触れ,また,最後に,宮崎駿の長編コミック「風の谷のナウシカ」(アニメ版とは別物)のラストでAI的な「シュワの墓所」の存在を否定する表現があったことに触れた。文学や思想の立場からは,図書館を知を包含したメディアが蓄積された場としてとらえ,その蓄積が物理的な関係を超えて何らかのシンボリックな相互作用を起こしている様を描くことが多い。
『図書館情調』第3部に収録された宮澤賢治の「図書館幻想」は,「俺」が10階まで上ってようやく「ダルゲ」に会うシーンを切り取った短い文章である。タイトルに図書館とあるから,上ったのは図書館なのだろう。
その天井の高い部屋で会ったダルゲは「灰色で腰には硝子の簔を厚くまとってゐた。」ダルゲは「俄につめたいすきとほった声で」「西ぞらの ちゞれ羊から おれの崇敬は照り返され (天の海と窓の日覆ひ。) おれの崇敬は照り返され」(スペースは改行)と歌う。「おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。」ダルゲはじっと額に手をかざしたまま動かず,おれは叫んだ。「白堊系の砂岩の斜層理について。」ダルゲは振り向いて冷やかに笑った。
ほとんど全文に近い引用である。ダルゲが何であり,ダルゲに何のために会いに来たのか,ダルゲの歌は何を意味するのか,そしてそれに対して「おれ」が叫んだことは何なのか。これだけでは分からないし,なぜ図書館の場が選ばれているのかも不明である。ただし賢治の没後発見された資料をもとに著作集が出されているのだが,中島京子『夢見る帝国図書館』に,この文章を読み解くヒントとして別の断片(「東京ノート」)があることが出てくる。そこでは,「ダルケ」とされ,おそらくは盛岡高等農林時代の同窓で生涯の心の友であった(中島の著書では名前が出てこないが保阪嘉内であることが分かっている)。賢治は彼に憧れたがすれ違うことも多く,そのあたりがこの文章に表現されている。中島は,「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラとの関係になぞらえて二人の関係を語った。それらを改めて読むと,「図書館幻想」でダルゲが歌った詩に対して,おれは「氷河の棒」(氷河の堆積物を調べるために突き刺す棒)や「砂岩の斜層理」という科学用語で答えるすれ違いが認められる。こうした関係を描写する場として,図書館が選ばれたのだ。賢治にとっては博物館の方がふさわしかったのかもしれないが。。。
『図書館情調』第1部には中島敦の「文字禍」が含まれる。古代ニネヴェのアッシュールバニパル王の文庫で粘土板に書かれた文字の霊が夜な夜な騒ぎ出すという話しである。最終的には文庫管理者の博士は自家の文庫の粘土板の下敷きになって死んでしまうことになる。粘土板という書物形態はもっとも原初的な物理的メディアであるが,そこに書きつけられた文字たちが蠢くというのは今のネットメディアにもそのまま当てはまりそうな警句を含むものである。一節を引用しておこう。
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くくなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
中島のこの物語は, ボルヘスの「バベルの図書館」と並ぶ図書館メタファーの傑作だろう。ただし,「文字」と「図書館」の関係については注意を要する。中島が文字と呼ぶものは今の引用にあったように漢字として表現している。彼は「山月記」や「李陵」のように中国の古典を題材に文学活動をしてきた人であったが,この物語では古代メソポタミアの楔形文字を取り上げている。漢字は音節と意味の対応をもつ表語文字であるが,初期の楔形文字も同様の性質をもつとされている。つまり,一つ一つの文字が何らかの概念を表すことが,この物語の基本的な特性を示している。蠢くのは文字ではなく「語」ということになる。アルファベットのような表音文字をもつ文明だとこのような物語にはしにくい。バベルの図書館は書物自体が多言語で無数の異版をもったかたちで存在していて,決して文字に分解されるものではない。
このような中島の想像力の先に,野生の図書館を描く作家が現れるのは当然のことだろう。20世紀後半以降,日本でも「市民の図書館」が現れる。作家はかつてなら本は買って読むものだといい,自らが図書館の利用者であったことにはあまり触れたがらなかったが,今は図書館も日常化し,作家も利用していることを隠さない。また,自分の本が書店で購入されるのと並んで図書館で借りられることについても率直に吐露する。そういうなかで,図書館に対する作家の想像力は,図書館に納められている書物それ自体が,書いた人のメッセージを超えてみずからを主張し,動きだし,他の書物とともに活動をし始めるものとして展開する。本書に納められた笙野頼子「S倉極楽図書館」は動物の図書館,三崎亜記「図書館」は野生の書物と人間との関係の場として描かれる。
本書は編者のしっかりした解説がつけられていて,周りが何か付け加えられることはあまりない。図書館が文学批評の一つのジャンルとして成立しうることを知っただけでもこれを読んだかいがある。その上で,図書館情報学研究者として付け加えることがあるとすれば,それは西洋の図書館と日本の図書館のギャップというもともとの問題そのものに関することである。
図書館はフーコーが言うところのディスクールを扱うメタディスクールである。そして西洋と日本の図書館の違いを問うことはメタディスクールの在り方そのものを問題にすることである。前半に述べたように,戦前の萩原朔太郎や菊池寛のような文学者はその修業時代に,図書館に西洋文化の香りを嗅ぎつつもそれが制限的にしか得られないことへの不満を自らの生活に重ねて嘆き,図書館を貧しい場として描いた。中野重治のような政治運動の手段として文学をとらえる人は,「大人しい図書館員」に戦後のイデオロギー闘争における行動の場への期待を見たが,それは大いなる錯誤であった。その後の高度経済成長期にフランスに留学した小林宏のように,フランス国立図書館という西洋図書館の核心部分に近づいた人も,翻訳はできてもその本質の部分の把握を避けざるをえず,精神を飛翔させるのは花束だったり友人との交流だった。そのあたりを精算できるようになったのは,20世紀末になって東大駒場に第何世代目かの洋行帰りの人々が教員を務め,西洋文化の本質を明らかにしようとして,表象文化論のコースができてからだと思う。図書館情調の分析的解明が行われるようになったのは,松浦寿輝『知の庭園—19世紀パリの空間装置』の第1部「図書館あるいは知の劇場へ」あたりからである。
そういうなかで,中島敦の「文字禍」は日本人の図書館理解において一頭地を抜いたものだったということができる。そこには,西洋に対するコンプレックスは感じられず,むしろ,自らの拠り所である中国文明と西洋の古代文明とを対比させながら,普遍的な知を追求する姿勢を見せていた。これが書かれたのは1942年という戦時下だった。文字が書庫で蠢くという比喩は,戦時体制下で制限された言論状況において知識人が大政翼賛的な発信をしていたことを指しているという解釈もある。
注
1 ディー・ギャリソン著(田口瑛子訳)『文化の使途—公共図書館・女性・アメリカ社会 1876-1920年』日本図書館研究会, 1996.
2 1950年から1951年にかけて,図書館職員養成所が東京大学に吸収されることが企図され,舟木がその教授候補であったことについては,石山洋の証言が残っている。「石山洋氏インタビュー」日本図書館情報学会50周年記念事業実行委員会編.『日本図書館情報学会 創立50周年記念誌』.愛知,日本図書館情報学会(発行),2003,p.32.その後,このプランは頓挫したが,同大学教育学部に図書館学講座ができて1953年に裏田武夫が講師として赴任した。図書館職員養成所は1964年に図書館短期大学になり,1979年に図書館情報大学になる。
「2025-02-27 国立国会図書館の納本制度について」で国会図書館(以下NDL)の納本制度について述べた。NDLは日本という国を単位とした範囲で刊行される図書や逐次刊行物を中心とする出版物を納本対象としている。これが意味するのは,同館は国レベルの仕事をすることにより,地域レベルで出ているもの(郷土出版物など)や特定組織中心で出ているもの(法人組織,NPO,任意団体),個人出版物については力が入っていないということである。これから述べるように国レベルでも地方レベルでも何が出ているのかの把握が困難なことが多いから,自主的に納入されたものが中心になるし,納入に関して罰則規定(第25条の2)があっても発動されたことがないから,網羅性を期待できない。
以上はデジタルコンテンツがネットワークで流通する以前の状況であったが,21世紀になって電子書籍,電子雑誌がネット上のデータとして流通することになり,同館では対応しようとして,何度かの法改正を行って現行のオンライン出版物の納入制度がつくられている。そこで重要なのは,NDLに収集資料の即時デジタル化が認められる規定(著作権法第31条第6項)が置かれていることである。これは,資料保存を目的とするものであり,とくに戦後の出版事情が悪かった時代に資質が悪く保存に堪えない出版物が多かったことへの対策とされた。しかし同時に,Google Books問題が起きたときに国としてデジタルコンテンツ戦略として位置付けたものでもあった。これにより,同館で絶版等資料をデジタル送信するために同館資料のデジタル化を可能にし,デジタルコレクションの提供の原資ともなっている。私はこれらが可能になったのは,国のICT政策においてデジタルコンテンツ整備が遅れているという認識のもとに,NDLをそのための拠点と位置付ける考え方があったからだととらえている。
その一環で,オンライン資料と名付けられた電子書籍,電子雑誌の納入規定(国立国会図書館法第25条の4第1項)ももうけられている。これも義務的な納入制度であるが,紙の出版物の納入制度より運用が難しいのは,それ自体が不定形なものでありながら外形的にしか定義できないことからである。たとえば,このブログはHTMLフォーマットで書かれているからオンライン資料でないということになるが,書いている本人として外部に公開した文章であり出版に準ずる行為と考えている。このなかには自分で発信したPDFを埋め込むことも多いし,逆にここに書いたものを原稿として図書や雑誌にすることもある。昨年,マーティン・フリッケ『人工知能とライブラリアンシップ』を訳出して公開した。公開したものはオンライン資料としてNDLに納入したが,その解説や意義についての文章も合わせてブログ公開したので,これらも含めてワンセットでとらえられる。
オンライン資料の要件はコンテンツの固定にある。HTMLでは常に編集可能であるから常に変化しうるがそうするとどの時点で収集し保存するのかの判断が必要となる。だから,ネット上にある多数のオンラインジャーナリズムやオンライン小説,SNSでの情報発信はオンライン資料とはならないようだ。しかし,かつて出ていた週刊誌や月刊誌が今,ネット上のサイトに移行しているように見えるが,紙のものは納入されてNDLで永久保存されていたのに,それに対応するデジタルコンテンツを保存の対象にしないでよいのか。つまり,オンライン資料の納入制度の目的「文化財の蓄積及びその利用に資するため」(国立国会図書館法第25条の4第1項)に照らして,これらは文化財ではないのかという疑問である。
このあたりは図書,書物とか書籍と呼ぶものの定義にかかわる。(ちなみに,図書は図書館用語,書物は人文系で用いられる一般的な用語,書籍は出版用語。互いに重なるが同じではない。)出版物には商品としての出版物とそれ以外の出版物がある。商品としての出版物を扱う市場には新刊市場と中古市場がある。同じ商品が新刊市場と中古市場で二重に流通する場合もある。新刊市場の在庫がなくなっても中古市場では販売され続ける場合もある。出版物は誰もが企画,編集,執筆,制作,販売することができるのだが,出版社と呼ばれるそれを専業とする者があり,ふつうはそうした出版社からでるものが全国的に流通する。商品としての出版物以外に,組織内部やその関係者に配布したり,個人で自費出版したりする出版物も多くある。それらは有料で販売される場合もあるし,ISBNやISSNがついて流通される場合もある。
以上のように,出版物は多様な生産と流通の形をもっており,その全容は把握できていない。国立国会図書館の納本制度はこれを把握するために,図書や逐次刊行物が発行されたら納入することを義務づけている。しかし組織出版物や自費出版物を含めたら,原理的に把握は困難であり,したがってすべてのものが納入されないからNDLが作成する全国書誌(NDLサーチ)は網羅的にならない。
出版業界で書籍と言えば,標準図書コード(ISBN)が付与されて,取次を通じて全国の書店の店頭に並ぶものを想定している。しかしながら,そうでないものがいろいろとある。ムックと呼ばれる書籍と雑誌の両方の特徴をもつものがある一方,郷土出版物の一部は全国的に流通させる仕組みはあるが,当該地域の書店店頭に並ぶだけのものも少なくない。要するにISBNは販売する商品として流通させるものでしかなく,価格がついていて販売意図があると見なせる組織出版物,自費出版物なども商業的な販売ルートには載らないことが多い。
かつてブログ「2023-11-18 市民活動資料』収集・整理・活用の現場から」で,運動系資料のコレクションの扱いの難しさについて書いた。それらは一点ごとに図書と呼んでもいいものも含まれる。また,そうした資料がコレクションとしてDVDにまとめられて国会図書館に納入されたケースについても触れた。現在,国会図書館の納入対象資料とされているオンライン資料があるが,その要件は,ISBNかISSN,DOIがついているか,PDFやE-Pub, DAISYでフォーマットされている図書や逐次刊行物相当の資料ということである。この「相当」がくせ者である。NDLのHPにはそれに該当しないものが列挙されており,そこには,「書式、ひな型その他簡易なもの(各種案内、ブログ、ツイッター、商品カタログ、学級通信、日記等)」があって,さらに「簡易なもの」の追加説明として「基本的に会議資料や講演会資料は簡易なものとして扱います。ただし、学会の報告などは学術的なものとして納入対象としています。」とある。NDLは,納入対象資料に入らないものを形式で示し,それ以外は全部対象だとしている。
ここでは次のことが指摘できる。まず,会議資料や講演会資料は簡易なものとして扱うとしているが,学会報告は納入対象としている。つまりアカデミズムの資料を優先すると言うことである。ここには,「納入資料」 vs. 「簡易な資料」という対立軸に「学術的」という言葉を用いて内容の価値判断の要素を加えていることが見てとれる。従来の民間出版物の納本制度の運用にあたり納入しなくとも過料を科していないのは,言論出版の自由という憲法的な原理に基づき,検閲につながるような国の機関による出版物の選別を控えていることを意味する。だから,かつては形式的に網をかけることに終始し,内容的なことを前面に出すことは控えていた。しかしオンライン資料には学術的,これは学術的でないという区別をすることになる。
これにより懸念されるのは,誤情報,偽情報,フェイクのようなコンテンツの公正性や信頼性にかかわることが問題になっている現在,何が学術になるのかの判別が難しくなっていることである。たとえば,学術性を隠れ蓑にして意図的にフェイク情報を流す団体の出版物の納入を拒否できるかという問題がある。NDLが納入を受け入れることが学術性の担保として使われるかもしれない。
すいれん舎 https://suirensha.co.jp/pages/76/
不二出版 https://www.fujishuppan.co.jp/newbooks/
クロスカルチャー出版 http://www.crosscull.com/search/?search_series=16628
ゆまに書房 https://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843370209
図書館市場を想定した大型資料集がこういうかたちで多数販売されていることに意外な感じをもった。先にも述べたように,これらは少数の専門研究者およびその研究室を除けば,図書館が購入することを想定している。しかしながら,これらを購入できる図書館が多いとはいえないし,年年数が減っていっていると思われる。それには,使える資料費に比べて価格が高額だという事情に加えて,こうした資料集が大判で冊数も多いから保存スペースを確保することも難しいという問題もある。
その解決策としては,電子書籍化がある。先ほど挙げたゆまに書房が出している『中曽根政権期 靖国神社公式参拝関係資料』を見ておこう
https://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843370209戦後対アジア外交の転機となった、中曽根首相による靖国神社公式参拝。新たに発見された「靖国懇議事録」から合憲論への道筋を明らかにする。外務省の関連資料も合わせて収録。
これには,電子書籍版があって,KinoDen/Maruzen eBook Libraryを経由で購入するとなっている。価格は,「電子書籍=同時1アクセス:本体143,000円+税╱同時3アクセス:本体286,000円+税」となっているので,同時1アクセスなら紙版と同価格で購入できるようである。これなら,資料購入の資力をもちながら,保存スペースを気にする場合には電子書籍版に魅力があるだろう。紙版にしてもこうした大型書籍だとブラウジング利用はあまり考えられず,資料についてよく知っている利用者が何らかの方法で特定のページを探して参照するものだろうから,電子書籍版と使い勝手に大きな差はない。むしろ,検索のメタデータ付与を工夫すれば,どこからでもアクセスできる点でこの方がいいかもしれない。
ということで,今後,この手の書籍は電子版が中心になる可能性は高いように思われる。そこで気になるのは,NDLへの納本である。民間のオンライン資料は納入の義務がある。例外は紙版が入っていてそれと同じ版面なら納入が免除されるということである。だから同時に両方が出たら,紙版が納入されることになる。だが,今,書いたように電子版が中心になり紙版が出ないときにどうなるかだが,原則的に電子版が納入対象になる。
その例外はリポジトリに収録されて公開される場合である。このリポジトリはJ-Stage(JST)や大学の機関リポジトリが想定されている。つまり,それだけの公益性があるもので半永久的に保存され,オープンアクセス性が保証されるものである。民間のものについては,
営利企業で構成される組織が運営するリポジトリで公開している資料は、要件に合致すると当館が認定した場合は納入義務の対象から除外されます。認定に際しては、当該リポジトリの長期継続性、利用の担保、コンテンツの保全の観点から適否を確認し、コンテンツの散逸防止やメタデータ連携について覚書等により担保します。(https://www.ndl.go.jp/jp/help/online.html#anchor13)
となっている。現在,民間で提供されている有償オンライン資料を扱う機関でこれに該当するものは,「電書連・機関リポジトリ」であり,これは一般社団法人デジタル出版者連盟(電書連)が運営するもので,そのメタデータは,出版情報登録センター(JPRO)の部分集合に対応するとされる。(国内の電子書籍・電子雑誌書誌データ検索の表1-1 https://ndlsearch.ndl.go.jp/bib/help/dom-ebej)KinoDen/Maruzen eBook Libraryで販売される電子書籍はここに含まれるはずなのだが,それは確認できなかった。有償電子書籍の機関リポジトリについては不明な点が多い。
2025年2月27日の第39回納本制度審議会で配布された「有償オンライン資料の把握状況」(資料7 https://www.ndl.go.jp/jp/collect/deposit/council/39noushin_shiryo.pdf)には,JPROに登録された電子書籍(すなわち納入免除)12万点に対して,NDLが収集したもの1400点,同一版面による納入免除1600点という数値が掲載されている。つまり,現在のところ民間の有償オンライン資料の98%はNDLに納入されていないということである。これらは,電書連・機関リポジトリが責任をもって保存することをNDLが承認してこうなっているのだろうが,本当にそれでよいのか疑問なしとしない。NDLの納入と機関リポジトリでは保存に対する責任体制の点で同じではないし,何よりも民間機関のリポジトリへのアクセスは有料である点で,違いがある。JPROのデータベースであるBooks-Proが公開されていないので,電書連リポジトリの実態がつかめないことにも不安がある。今後,電子版のみのオンライン資料が増えたときにこのままでよいのかどうかの検討が必要かもしれない。
オンライン版 内調資料(近代史料データベース)
日本の代表的なインテリジェンス機関である内閣調査室に関する史料群。内調創立時のメンバーであり、後に主幹を務めた志垣民郎(1922−2020)の旧蔵資料で構成される。
① 従来の文書管理の考え方では,実務家が自らの活動の記録を残し,そのなかで意図的に残す価値があるとされたものが機関内のコレクションとして保存される。② さらに,外部の研究者などによって整理して公開する価値があるとされるときに,コクレションとしてまとめられて公開の手続きがとられる。文書館や博物館,図書館などに移すときもある。③ コレクションがさらに複製されて多くの人の目に停まる価値があれば出版されることがある。その際に使いやすいように整理されたり,目次や索引がつけられたり,解説が書かれたりする。④ 紙版の出版物はさらにデジタルデータ化されて,メタデータが付与された上で電子書籍として提供される。⑤ さらにデータベース化されて提供される。⑥ OCRによるテキスト化による全文データベースが提供される。
本資料は、志垣が 2020(令和 2)年 5 月に 97 歳で亡くなるまで手元に保管していた内調の資料 377 点と、志垣が小学校 5 年生の頃から書き続けていた日記のうち、内閣総理大臣官房調査室勤務を命じられた 1952 年から国民出版協会会長を退任した 1990 年までの分を整理しデジタル化して公開するものである。(岸俊光「「志垣民郎旧蔵 内調資料」解題」)
末尾のスライドは,2025年10月25日(土)午後にオンラインでおこなったシンポジウム 「生成AI時代の図書館情報学」 で使用したものである。他の登壇者のものを含めた議論の動画やスライドファイル,質疑応答の概要は 知識組織論研究会のページ で公開されているので,ここでは私が何を主...