「報告」(2)に書いたことが、今回の集会の背景である。私の個人的な思いから開かせていただいた。要するに、オープンガバメントという理念を図書館関係者がどれほど意識しまた実践しているのかを確認したいということである。ワークショップという形式を標榜して出席者に質問や意見を書いていただきたいというところが重要であり、それについては実際にさまざまな書き込みが40件以上得られた。これをHPに出したところから、次の過程が始まる。ワークショップという意味では非常に不十分なものに終わったことは率直にお詫びしたい。だが、参加者の多くはこの問題には解決策が用意されているのではなくて、これから皆でつくっていくべき性質のものであることをご理解いただいたのではないかと思う。
豊田さんが「これは行政支援ではありません」というタイトルでした講演がいみじくも示しているように、図書館が実施するサービスは公費で実施するものである限り、すべてが行政支援の性格をもっている。日野市の市政図書室の担当者は、うちでは行政支援サービスはしていませんと明言されているのだが、これが意味することは、日野市の図書館が「資料提供」モデルを提示したことに市政図書室のサービスも含まれているのであり、そこでは市民も行政職員も議員も等しく利用者として扱うのだということだ。つまり広義の資料提供は必然的に行政資料サービスや行政支援を含むのだということだろう。
私が残念に思うのは、日野市は「市民の図書館」モデルの原点にある図書館であり、市政図書室までつくってモデルが完成したはずなのだが、市民の図書館とは貸出を中心とするサービスなのだという誤解を与えてすでに40年の月日が過ぎていることである。それはもちろん日野市立図書館の責任ではない。日野市は貸出だけでなくレファレンスサービス、地域資料サービスも十全以上に実施している。
私が自著で何度も書いてきたように、資料提供論の原点となった『市民の図書館』(日本図書館協会 1970)は、日野が移動図書館と地域図書館だけでサービスをしていたものをベースに書かれている。その後、中央図書館(1973)ができ、また、市政図書室(1977)ができて、日野市立図書館サービスの全体像が完成した。しかし、それを踏まえての「資料提供論改訂版」は示されなかったのである。1980年代には前川恒雄『われらの図書館』、竹内紀𠮷『図書館の街浦安』が読まれて「資料提供論」が定着したと思われるが、そこで示される図書館論は貸出を中心とした資料提供論の枠を出ることはできなかった。 貸出を中心とすることは、図書館を地域社会に定着させるための戦略だったという解釈も成り立つのだが、それなら状況に合わせての戦略変更があってしかるべきだった。21世紀になって、文科省が「これからの図書館像」(2006)や「図書館の設置及び運営の基準」(2012)を出して新しいタイプの図書館運営モデルを出した。しかし、出た時点で貸出図書館モデルはすでに日本社会の深いところに染み込んでしまっていて、容易に変更できないものになっている。
先に触れた情報公開と図書館の関係の議論の根底には、日野が市政図書室を設置したことのインパクトがあった。つまり、地域行政資料を集め、行政職員の身近なところで行政支援的なサービスをすることが図書館の自然な発展であったということである。市政図書室は正規職員が3人ついてサービスを実施している。当該自治体、周辺自治体、都道府県までを含んだ行政資料の収集と蓄積・保存、行政職員に対する積極的な予約、貸出、配送、専門性を生かしたレファレンスサービス、新聞記事の切り抜きの各課への配送、新聞記事見出しのデータベース化とそのインターネット配信などが行われている。日野市職員の意識調査を実施したところ、予想以上に利用があることがわかった。その結果の一部は、当日配付資料に掲載しているが、本格的には別のかたちで公表する予定にしている。
日野は特別だという声もある。市政図書室が可能だったのは、初代市長有山崧氏がいたからだとか、できた当時、前川恒雄氏が助役をやっていたとかいうことである。政治あるいは行政の判断が大きな力をもつことは確かだろうが、その二人は日野市立図書館、ひいては「資料提供論」の産みの親なのだから、その延長で市政図書室を他でもまねてもよかったのになぜできなかったのか。逆に言うと、日野市であのような実践を可能にした力が何であったのかについてもっと研究が必要だし、それがその後図書館の世界ではうまく拡がらなかったのがなぜなのかももっと研究すべきであるだろう。
今回、日野市を調査して、図書館がネット時代においても重要な役割を果たすのは、資料や情報をストックする機能にあることを痛感した。当日報告したように、調査によって職位が上の職員ほど市政図書室を利用していることが示されていた。これが年配の人ほどネットではなくて紙資料に頼るからだという見方もあるがそうではない。課長クラスの人はネットを使うのは当たり前で、それで不足するものを市政図書室で補っている。何が不足するかと言えば、過去の資料であり、時系列的な蓄積であり、また、日野を中心に多摩地域、東京都、関東一円というように同心円状に拡がる地域的な資料情報の構造である。市政図書室のサービスはそうしたローカルな情報ニーズに対応したサービスをしている。これらはグローバルなネットでは決して実現できない。もちろん、庁内イントラネットなどで実現することは可能であるが、そうしたものを企画するのが図書館のはずである。
行政情報の扱いと行政支援はこのように相互にかかわる。日野にこだわってきたのは、現代公共図書館サービスの出発点である図書館がすでに1970年代にそのような仕掛けをしていることにもっと気づくべきだと思うからだ。足下を見よと。
私は近年、「情報リテラシー」とか「学校図書館」とか「書籍のナショナルアーカイブ」とかについて発言してきた。「行政情報」「行政支援」とかなり違うものを扱っているように見えるかもしれない。だが、自分としては一貫したテーマを追求しているつもりである。それは、「情報共有体制」をどのようにつくるかということである。国レベルでも地域レベルでも組織レベルでも情報の発生は同じ構造に基づいており、その構造に対して情報共有の仕組みをつくるのが「図書館」(これは制度的な図書館に限らない)であり、それを使いこなすためには人は情報リテラシーをもつ必要があるということだ。
2018-04-20
「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」報告(2)
まだ大学院生および助手だった30年以上前の1980年代の中頃に、私は日本図書館協会の図書館の自由に関する調査委員会の委員を数年務めていた。そこで関西の石塚栄二さん(大阪府立図書館、帝塚山大学)、塩見昇さん(大阪市立図書館、大阪教育大学)たちと知り合う機会があった。当時は「図書館の自由に関する宣言1979年」が出たあとで、解説が出たり「シリーズ図書館の自由」も出ていたので、「図書館の自由」がどういう理念に基づいているのかを勉強した。また、『図書館員の倫理綱領』が出て、単に自由を主張するのでなくて、それを実現するためにひとりひとりの図書館員の社会的責任を明確にしようとする考え方に触れた。日本的な図書館環境のなかで、アメリカ図書館協会と同様に「宣言」と「綱領」を示して社会的な主張をするところに新しい可能性を見たが、同時に、その危うさも感じていた。
当時、『図書館雑誌』(1980年3月号)で 「行政資料の流通と図書館」という特集が組まれて、情報公開の議論を先導していた青山学院大学法学部の清水英夫さんが「 図書館と情報公開 」という文章を書いた。また、石塚栄二さんが法律誌『ジュリスト』(1981年6月)に「情報公開と図書館--図書館の自由に関する宣言との関係において」という論文を発表した。今よりも法学分野と図書館分野は相互の結びつきがあったと言えるだろう。私は、図書館が地域社会で果たす多方面の役割を実現する制度に関心があったのでこの問題を自分で考えてみようと思い、石塚さんや塩見さんたちと相談して、「シリーズ図書館の自由」の一冊として『情報公開制度と図書館の自由』(日本図書館協会, 1987)という論集を出すことにして、編集の中心になり、そこで、行政資料提供と図書館の関係についての論考を書いたり、各地の実践報告を紹介したりした。地域社会の新しい動きに図書館員が敏感に反応して、行政資料提供の実践が行われていた。この時代は、ようやく公立図書館の運営方針が明確になって「市民の図書館」の実現を目指していた時期であり、図書館にさまざまな期待をもつことができた。
私はこの頃、一方では国立国会図書館の機能のなかでも納本制度に基づく全国書誌作成機能が重要だと考えていた。全国書誌はひとつの国で発生する図書や雑誌などの資料を「すべて」記録する機能であり、納本制度はそのために出版者に出版物の納入を義務づける制度である。出版者には政府や地方自治体も含まれる。だから国会図書館は政府刊行物や自治体の行政資料を収集していることになる。図書館法には、政府刊行物や行政資料を図書館を通じて国民に提供することが書いてある。他方、情報公開制度というのは、公文書レベルの情報の開示請求を制度化するもので、1980年代前半に自治体が条例を制定し始め、2001年になってようやく国が「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を制定した。
行政刊行物や行政資料と公文書がどのような関係になるのかというと、実はこれがかなりあいまいである。公式報告の私の資料に引用したように、「行政文書」の法律上の定義は次のようになっている。「行政文書とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。
一 官報、白書、新聞、雑誌、書籍その他不特定多数の者に販売することを目的として発行されるもの 」(以下略)」
森友・加計問題で、この定義における「当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」とあることが、さまざまな解釈の余地を与えている。行政職員が機関のアドレスでやりとりするメールは「組織的に用いるもの」なのか、また、「当該行政機関が保有する」ための文書管理の内規をそれぞれの行政部門がつくることによって文書の廃棄が恣意的に行われのではないかといったことである。だがここでは、除かれるものが「販売することを目的として発行されるもの」とあることによって、行政刊行物で販売されないものは行政文書扱いされていることに注意を払うべきだろう。
というのは、たとえば国立国会図書館法24条においては「国の諸機関により又は国の諸機関のため、次の各号のいずれかに該当する出版物(機密扱いのもの及び書式、ひな形その他簡易なものを除く。以下同じ。)が発行されたときは、当該機関は、公用又は外国政府出版物との交換その他の国際的交換の用に供するために、館長の定めるところにより、三十部以下の部数を直ちに国立国会図書館に納入しなければならない。」となっており、出版物全体が納本の対象になっていて、決して販売目的のものだけに限定していない。つまり、国会図書館の納本対象政府刊行物は、行政情報公開法でいう公文書だということになる。行政情報の問題の難しさは、情報公開法の問題と同質であって、法的には公開するしないの判断は行政担当者に委ねられているところにある。昔から図書館関係者には「灰色文献(gray literature)」として知られている問題である。これは国レベルの法的規定だが、地方公共団体においても状況は同じである。
20世紀の自治体情報公開制度の議論においては、政府や自治体は公文書については公文書開示請求制度によって公開するが、公文書とならない印刷物資料は図書館や行政資料室などが行政情報提供制度によって任意に公開することによって分担すればよいという議論が行われた。図書館はこの行政情報提供制度を担うと考えれば、法律や行政の専門家と図書館関係者が共通の場で議論が可能である。私はこの部分に期待することがあった。つまり、情報公開が前提となる自治体行政においては、図書館は行政情報提供を担う機関として役所の各課と交渉し、これを蓄積し市民に提供する役割を果たすという考え方である。先に触れた『情報公開制度と図書館の自由』はこれを実施するための手引き書として作成したものである。
だが、事態は必ずしもそのようには進まなかった。1980年代から90年代には多数の新しい図書館ができたが、そこで実施されるサービスは、市民が求める本屋で買える本を提供することを中心とするものであり、それ以外の資料は後回しにされることが多かった。「市民が求める資料を提供する」というキャッチフレーズが使われたが、そうすると地域資料や行政資料の位置づけは低下してしまう。それらは、商業出版物のように資料リストがあってそこから選択できる類いのものではなくて、資料の存在そのものを突き止めるところから始めなくてはならない。行政資料や地域資料はその図書館だけが集められる唯一性の高い資料だということは分かっていても、実際にはそれを集めるためのノウハウの蓄積は十分ではなかった。また、「市民のニーズが強いから」という理由で貸出中心の図書館運営方針が選択され、こうしたサービスは後回しにされた。
私は、どんな地域の公共図書館においても通常の「資料提供」業務を超えて専門性が必要となるサービスとして、児童サービスと地域資料サービスがあると考えていた。児童サービスについては、日本図書館協会児童青少年委員会、児童図書館問題研究会や東京子ども図書館、国立国際子ども図書館などの研修会などでノウハウの交換と蓄積が行われていたのに、行政資料や地域資料については1960年代に日本図書館協会郷土の資料委員会が時限付きで置かれていただけで、全国的な研究団体や研修についての動きがないのはなぜなのかについても疑問が大きかった。
図書館の自由に関する調査委員会は図書館のもつ本質的理念的立場から、行政資料に取り組んだが、その後、これを展開することはできなかった。私は、東京都多摩地区の図書館員たちとこの問題に取り組んで、図書館協会から『地域資料入門』(1999)を出すことができたが、その後は散発的にかかわっただけである。
今回、行政情報提供について行政学とか地方自治、自治体経営などでどのように議論されているのかを調べてみた。30年前にあれだけ情報公開や行政情報提供が論じられていたのにほとんど見られなくなっている。今は、情報公開、情報システム、ネットを使った広報がそれぞれ別々に議論されているだけである。昔、清水英夫さんや堀部政男さんのような人が熱心に市民自治のための行政情報共有の考え方を説いていたのだが、それに当たる議論がどこに行ったのかなくなっているように見える。おそらくは、ネット社会のインパクトが大きくて多くの情報がネットを通じて提供されているように見えていること、そして、NPM的な状況においては行政情報を開示するよりも経営評価が中心になり、経営にかかわる情報は出さざるをえないが評価に不利になりそうな情報は隠しがちなこと、といった理由があるように思われる。
残念ではあるが、これが実態だろう。だからこそ図書館がオープンガバメントに貢献するべきなのであるが、それができるかといえば難しいという状況があるのだ。
当時、『図書館雑誌』(1980年3月号)で 「行政資料の流通と図書館」という特集が組まれて、情報公開の議論を先導していた青山学院大学法学部の清水英夫さんが「 図書館と情報公開 」という文章を書いた。また、石塚栄二さんが法律誌『ジュリスト』(1981年6月)に「情報公開と図書館--図書館の自由に関する宣言との関係において」という論文を発表した。今よりも法学分野と図書館分野は相互の結びつきがあったと言えるだろう。私は、図書館が地域社会で果たす多方面の役割を実現する制度に関心があったのでこの問題を自分で考えてみようと思い、石塚さんや塩見さんたちと相談して、「シリーズ図書館の自由」の一冊として『情報公開制度と図書館の自由』(日本図書館協会, 1987)という論集を出すことにして、編集の中心になり、そこで、行政資料提供と図書館の関係についての論考を書いたり、各地の実践報告を紹介したりした。地域社会の新しい動きに図書館員が敏感に反応して、行政資料提供の実践が行われていた。この時代は、ようやく公立図書館の運営方針が明確になって「市民の図書館」の実現を目指していた時期であり、図書館にさまざまな期待をもつことができた。
私はこの頃、一方では国立国会図書館の機能のなかでも納本制度に基づく全国書誌作成機能が重要だと考えていた。全国書誌はひとつの国で発生する図書や雑誌などの資料を「すべて」記録する機能であり、納本制度はそのために出版者に出版物の納入を義務づける制度である。出版者には政府や地方自治体も含まれる。だから国会図書館は政府刊行物や自治体の行政資料を収集していることになる。図書館法には、政府刊行物や行政資料を図書館を通じて国民に提供することが書いてある。他方、情報公開制度というのは、公文書レベルの情報の開示請求を制度化するもので、1980年代前半に自治体が条例を制定し始め、2001年になってようやく国が「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を制定した。
行政刊行物や行政資料と公文書がどのような関係になるのかというと、実はこれがかなりあいまいである。公式報告の私の資料に引用したように、「行政文書」の法律上の定義は次のようになっている。「行政文書とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。
一 官報、白書、新聞、雑誌、書籍その他不特定多数の者に販売することを目的として発行されるもの 」(以下略)」
森友・加計問題で、この定義における「当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」とあることが、さまざまな解釈の余地を与えている。行政職員が機関のアドレスでやりとりするメールは「組織的に用いるもの」なのか、また、「当該行政機関が保有する」ための文書管理の内規をそれぞれの行政部門がつくることによって文書の廃棄が恣意的に行われのではないかといったことである。だがここでは、除かれるものが「販売することを目的として発行されるもの」とあることによって、行政刊行物で販売されないものは行政文書扱いされていることに注意を払うべきだろう。
というのは、たとえば国立国会図書館法24条においては「国の諸機関により又は国の諸機関のため、次の各号のいずれかに該当する出版物(機密扱いのもの及び書式、ひな形その他簡易なものを除く。以下同じ。)が発行されたときは、当該機関は、公用又は外国政府出版物との交換その他の国際的交換の用に供するために、館長の定めるところにより、三十部以下の部数を直ちに国立国会図書館に納入しなければならない。」となっており、出版物全体が納本の対象になっていて、決して販売目的のものだけに限定していない。つまり、国会図書館の納本対象政府刊行物は、行政情報公開法でいう公文書だということになる。行政情報の問題の難しさは、情報公開法の問題と同質であって、法的には公開するしないの判断は行政担当者に委ねられているところにある。昔から図書館関係者には「灰色文献(gray literature)」として知られている問題である。これは国レベルの法的規定だが、地方公共団体においても状況は同じである。
20世紀の自治体情報公開制度の議論においては、政府や自治体は公文書については公文書開示請求制度によって公開するが、公文書とならない印刷物資料は図書館や行政資料室などが行政情報提供制度によって任意に公開することによって分担すればよいという議論が行われた。図書館はこの行政情報提供制度を担うと考えれば、法律や行政の専門家と図書館関係者が共通の場で議論が可能である。私はこの部分に期待することがあった。つまり、情報公開が前提となる自治体行政においては、図書館は行政情報提供を担う機関として役所の各課と交渉し、これを蓄積し市民に提供する役割を果たすという考え方である。先に触れた『情報公開制度と図書館の自由』はこれを実施するための手引き書として作成したものである。
だが、事態は必ずしもそのようには進まなかった。1980年代から90年代には多数の新しい図書館ができたが、そこで実施されるサービスは、市民が求める本屋で買える本を提供することを中心とするものであり、それ以外の資料は後回しにされることが多かった。「市民が求める資料を提供する」というキャッチフレーズが使われたが、そうすると地域資料や行政資料の位置づけは低下してしまう。それらは、商業出版物のように資料リストがあってそこから選択できる類いのものではなくて、資料の存在そのものを突き止めるところから始めなくてはならない。行政資料や地域資料はその図書館だけが集められる唯一性の高い資料だということは分かっていても、実際にはそれを集めるためのノウハウの蓄積は十分ではなかった。また、「市民のニーズが強いから」という理由で貸出中心の図書館運営方針が選択され、こうしたサービスは後回しにされた。
私は、どんな地域の公共図書館においても通常の「資料提供」業務を超えて専門性が必要となるサービスとして、児童サービスと地域資料サービスがあると考えていた。児童サービスについては、日本図書館協会児童青少年委員会、児童図書館問題研究会や東京子ども図書館、国立国際子ども図書館などの研修会などでノウハウの交換と蓄積が行われていたのに、行政資料や地域資料については1960年代に日本図書館協会郷土の資料委員会が時限付きで置かれていただけで、全国的な研究団体や研修についての動きがないのはなぜなのかについても疑問が大きかった。
図書館の自由に関する調査委員会は図書館のもつ本質的理念的立場から、行政資料に取り組んだが、その後、これを展開することはできなかった。私は、東京都多摩地区の図書館員たちとこの問題に取り組んで、図書館協会から『地域資料入門』(1999)を出すことができたが、その後は散発的にかかわっただけである。
今回、行政情報提供について行政学とか地方自治、自治体経営などでどのように議論されているのかを調べてみた。30年前にあれだけ情報公開や行政情報提供が論じられていたのにほとんど見られなくなっている。今は、情報公開、情報システム、ネットを使った広報がそれぞれ別々に議論されているだけである。昔、清水英夫さんや堀部政男さんのような人が熱心に市民自治のための行政情報共有の考え方を説いていたのだが、それに当たる議論がどこに行ったのかなくなっているように見える。おそらくは、ネット社会のインパクトが大きくて多くの情報がネットを通じて提供されているように見えていること、そして、NPM的な状況においては行政情報を開示するよりも経営評価が中心になり、経営にかかわる情報は出さざるをえないが評価に不利になりそうな情報は隠しがちなこと、といった理由があるように思われる。
残念ではあるが、これが実態だろう。だからこそ図書館がオープンガバメントに貢献するべきなのであるが、それができるかといえば難しいという状況があるのだ。
「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」報告(1)
3月25日(日)の午後1時から4時まで慶應大学三田キャンパスで、公開ワークショップ「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」を開催した。終了してからすでに4週間近くになるが、新学期になっていろんなことに時間をとられて書けなかった報告をここでしておきたい。公式の報告はホームページで行っているので、ここは個人的な視点からの報告である。
まず年度末の日曜日のお忙しいところ、ご参加いただいた講演者の豊田高広さん、コメンテータの伊藤丈晃さんに感謝申し上げる。研究者的な観点からではまったく成り立たないこのテーマについて、図書館現場、自治体行政現場からの生の声を届けてくれたので、議論はかなり現実に迫るものになった。そのことは後で報告する。
とくに事前登録もなしに開催したので、どのくらいの人が来てくれるのか読めず、いったん確保した70人規模の部屋を倍の人数が入る部屋に変更した。実際の参加者が70人だったので、この変更をしてよかったと胸をなでおろした。前のままだったら、参加者には窮屈な思いをさせてしまっただろう。ただ、あの部屋は二つの教室を縦につないだような変に細長い形をしていて、議論する場としてはふさわしくなかった。誰かがこの部屋は試験にちょうどいいと言っていたが、確かに一斉に答案を配布して一斉に回収するのに向いていた。
登壇者の発言については公式HPにまとめておいたのでご覧いただきたい。今回オープンガバメントという用語を使ったのは戦略的なように見えたかもしれないが、実を言えば単なる思いつきだった。今さら、行政情報とか行政支援サービスとかいったところで、それほど多くの人の関心をもつようには思えなかった。少し頭をひねって、最近、オープンデータとか、オープンアクセスとかの言葉がよく聞かれるので、これを使おうと思った。オープンデータが話題ではあるが、それ自体は私自身の関心事ではない。ただそのノリでちょっと前に話題になったオープンガバメントだと、関係者が共有する「ある部分」に働きかけるのではないかと思いついたのだ。
「ある部分」とは、図書館がもつ組織からの中立性という理念である。思想や言論、情報、知識といったものを扱う機関は、母体となる親機関から独立した作用をもつ必要がある、という考え方である。これは図書館関係者には「知的自由」(アメリカ)、「図書館の自由」(日本)という概念で理解されている。その実現に関してはさまざまな難しいものがあるとしても、そこから出発する図書館サービスは政府の透明性を説くオープンガバメントの考え方と相性がいいように思われた。その読みが正しかったかどうかはまだ判断できない。しかしながら、それなりに多くの人の関心を引いたことも事実である。
行政情報とか、行政支援サービスといった表現を使っても、図書館関係者の受け止め方は「とてもそんな余裕はない」か「そんなことはすでにやっている」のいずれかになる。多くは前者で、そんなところまではなかなか手がまわらないというものだと思う。だが、所属自治体の行政資料を集めていない図書館はないだろうし、私の報告でも触れた全国公共図書館協議会の「課題解決支援調査」では42%の自治体が何らかの行政支援サービスを実施していると回答している。図書館は自治体行政の一部であって、常に行政との何らかの関係はあるから、こうしたサービスをいくぶんは行っているのである。しかし、どのようなサービスをすれば、行政情報を市民に提供していることになるのか。それが、これに参加した人たちの中心的な関心であったと思う。
それに応える議論ができたかというと、残念ながらそういう展開にはならなかった。それはいくつかの理由があったと反省している。ひとつはワークショップ方式を謳ったが、やり方が中途半端だったことである。前半はシンポジウム、後半は参加者によるワークショップと考えていたが、後半は議論する前に終わってしまった。参加者には多数の質問・意見を書いていただいてそれを整理してお答えしたり、議論したりしようと思っていたが、思った以上に多数の質問や意見の数が多く、とても処理しきれなかったのである。この点、登壇者や参加者、とくに質問、意見をお寄せくださった方には失望感を与えたのではないかと反省している。
ただ、こういう事態はあらかじめ予想できたとも言える。参加者の3分の2の方が質問・意見を積極的に寄せてくれたということは、この問題が1時間程度の議論で解決できるようなものではなくて、今後とも長期的に議論していかなくてはならないような性格のものだったからである。そのためもあって、質問や意見はまとめてHPに掲載した。今後のこの種の議論はここから出発すべきだろう。そういう生の素材を集める役割を果たしたことで最低限の役割を果たしたと考えている。
素材の今後の扱い方についての私の考えを次に書いておく。
まず年度末の日曜日のお忙しいところ、ご参加いただいた講演者の豊田高広さん、コメンテータの伊藤丈晃さんに感謝申し上げる。研究者的な観点からではまったく成り立たないこのテーマについて、図書館現場、自治体行政現場からの生の声を届けてくれたので、議論はかなり現実に迫るものになった。そのことは後で報告する。
とくに事前登録もなしに開催したので、どのくらいの人が来てくれるのか読めず、いったん確保した70人規模の部屋を倍の人数が入る部屋に変更した。実際の参加者が70人だったので、この変更をしてよかったと胸をなでおろした。前のままだったら、参加者には窮屈な思いをさせてしまっただろう。ただ、あの部屋は二つの教室を縦につないだような変に細長い形をしていて、議論する場としてはふさわしくなかった。誰かがこの部屋は試験にちょうどいいと言っていたが、確かに一斉に答案を配布して一斉に回収するのに向いていた。
登壇者の発言については公式HPにまとめておいたのでご覧いただきたい。今回オープンガバメントという用語を使ったのは戦略的なように見えたかもしれないが、実を言えば単なる思いつきだった。今さら、行政情報とか行政支援サービスとかいったところで、それほど多くの人の関心をもつようには思えなかった。少し頭をひねって、最近、オープンデータとか、オープンアクセスとかの言葉がよく聞かれるので、これを使おうと思った。オープンデータが話題ではあるが、それ自体は私自身の関心事ではない。ただそのノリでちょっと前に話題になったオープンガバメントだと、関係者が共有する「ある部分」に働きかけるのではないかと思いついたのだ。
「ある部分」とは、図書館がもつ組織からの中立性という理念である。思想や言論、情報、知識といったものを扱う機関は、母体となる親機関から独立した作用をもつ必要がある、という考え方である。これは図書館関係者には「知的自由」(アメリカ)、「図書館の自由」(日本)という概念で理解されている。その実現に関してはさまざまな難しいものがあるとしても、そこから出発する図書館サービスは政府の透明性を説くオープンガバメントの考え方と相性がいいように思われた。その読みが正しかったかどうかはまだ判断できない。しかしながら、それなりに多くの人の関心を引いたことも事実である。
行政情報とか、行政支援サービスといった表現を使っても、図書館関係者の受け止め方は「とてもそんな余裕はない」か「そんなことはすでにやっている」のいずれかになる。多くは前者で、そんなところまではなかなか手がまわらないというものだと思う。だが、所属自治体の行政資料を集めていない図書館はないだろうし、私の報告でも触れた全国公共図書館協議会の「課題解決支援調査」では42%の自治体が何らかの行政支援サービスを実施していると回答している。図書館は自治体行政の一部であって、常に行政との何らかの関係はあるから、こうしたサービスをいくぶんは行っているのである。しかし、どのようなサービスをすれば、行政情報を市民に提供していることになるのか。それが、これに参加した人たちの中心的な関心であったと思う。
それに応える議論ができたかというと、残念ながらそういう展開にはならなかった。それはいくつかの理由があったと反省している。ひとつはワークショップ方式を謳ったが、やり方が中途半端だったことである。前半はシンポジウム、後半は参加者によるワークショップと考えていたが、後半は議論する前に終わってしまった。参加者には多数の質問・意見を書いていただいてそれを整理してお答えしたり、議論したりしようと思っていたが、思った以上に多数の質問や意見の数が多く、とても処理しきれなかったのである。この点、登壇者や参加者、とくに質問、意見をお寄せくださった方には失望感を与えたのではないかと反省している。
ただ、こういう事態はあらかじめ予想できたとも言える。参加者の3分の2の方が質問・意見を積極的に寄せてくれたということは、この問題が1時間程度の議論で解決できるようなものではなくて、今後とも長期的に議論していかなくてはならないような性格のものだったからである。そのためもあって、質問や意見はまとめてHPに掲載した。今後のこの種の議論はここから出発すべきだろう。そういう生の素材を集める役割を果たしたことで最低限の役割を果たしたと考えている。
素材の今後の扱い方についての私の考えを次に書いておく。
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