中尾茂夫『情報敗戦ー日本近現代史を問いなおす』筑摩書房(筑摩選書) 2025年4月刊
★★★★☆
ポスト団塊世代に属する国際経済学者による近代日本論。評者は、著者と同年生まれなので、同世代の社会科学者の世界と日本への眼差しに親近感を覚えて手にとった。とくに、かつてウォルフレンの『日本/権力構造の謎』(1990)を読んでこういう外部からの視点が面白かったこともあり、本書もそれが手がかりになっているから期待して読み始めた。
以下、感想を書くが、どうも批判的に展開することが多くなってはいるが、基本的にはたいへん参考になった本として星4つとする。でなければ、わざわざ書評を書いたりしない。日本へのアプローチについてとくに知日派外国人の論はウォルフレン以外読んでいなかったので、今、インバウンドが大挙押し寄せて日本を気に入る人も多いとされるが、その原型がすでに知識人の論としてあることがわかるからである。かれらは外からきた内なる批判者になりうる人たちだろう。そして、ふむふむと読みながら、そうした論があくまでも外からの視線として扱われているところに限界もあると感じた。すでに日本は自らの内懐にそうした異論を溜め込みつつあるのではないか。
議論は明快だが、あまり読みやすい本ではない。繰り返しが多いし、本全体の構成が論理的な展開になっていないからだ。最近このたぐいの、強いて言えば長年書き連ねたブログの文章を寄せ集めたような文体の本が目に付く。それと、どこかの書評にもあったが、参照文献の書き方がよくない。本文中の初出に書誌事項があるが、まとまった文献一覧がないので、しばらくするとどの文献を指しているのかわからなくなる。また、こうした多数の論者を引用し、多数の論点を扱う本には索引が必要なはずだがない。まことに書き散らしただけで、読者へのサービス精神が欠けたものだ。こうした出版社選書のシリーズは編集者が形式面にもっと手を入れて読みやすい本にすべきではないか。
内容的には、一方に、エドワード・サイード、サルトル、ハンナ・アレントらの戦後の代表的知識人の言説を基調にして、イアン・ブルマ、ハリー・ハルトゥーニアン、、カレル・ヴァン・ウォルフレン、ターガート・マーフィー、エマニュエル・トッド、ウェンディ・ブラウン、フィリプ・ボンスらの知日派の論を手がかりにし、国内では主に辺見庸と松本清張の論を引き合いにだしながら、日本論、日本人論を論じる。
そこで明らかにされるのは、日本は江戸開府以来、現代に至るまで西洋的な近代化とは別の道を歩んでいて、あくまでもナショナルな秩序意識を保つために、維新以降は神権的な権威主義政治体制を選択し、戦後は「アマテラスのアンクルトムによる代替」(ハルトゥーニアン)によって、アメリカの軍産複合体制への隷属のもとにあることである。そこでは政治も思想も幼児性が際立っていて、自らの主体的な判断や意思決定ができず、国際社会との落差がはなはだしい。対米従属の深層構造は一部では知られているが、大手マスコミ、社会科学者、思想家、文学者はそれを表立って議論しない。
われわれの世代が馴染んできたような戦後進歩主義(丸山眞男や加藤周一など)にも若干は触れているが、本質的な議論を避けているとしているようで、唯一、明治維新についての羽仁五郎=井上清史観(封建勢力間の権力移譲説)を評価している。さらに戦後改革も敗戦による支配者が入れ替わっただけだから、日本はいまだ封建的中世から脱していないということのようだ。
だが、依拠している歴史的立場はいささか古く、やはり西洋的な啓蒙思想そのものだろう。それをとりつくろうためにサイードやアレント、トッドなども引き合いにだしているようだが、整合性のある議論にはなっていない。この本はアメリカだとバイデン政権、日本だと岸田政権の昨年までの状況を踏まえているが、ロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ・イスラエル戦争、そして、第二次トランプ政権の誕生過程までを抑えていないので、今、急速にアメリカが国際舞台から撤退し、アメリカの覇権主義が支えていた20世紀の構図が変貌を示している状況に対応できていない。
思想の全状況が素朴な保守に回帰し、「未来に過去がやってくる」(辺見庸)事態への警鐘としたいのだろうが、この書き方だと説得力がない。というよりも、むしろ反発を引き出すための議論展開をしているようにしか見えない。日本人全体が幼児化した情報弱者だと批判しているのだが、それを言うための自らの情報論的立場が不明確であることが気になる。最初に指摘したように、本書に説得力をもたせるためには論点を整理し、論拠を明確にしながらもっと読みやすい文体で表現することに心がけるべきだろう。そうした工夫を避けているから、Amazonの他の書評にもあるように、本書自体が日本人の自己表現の幼児性の典型例のようにも見えてしまう。
個別には頷ける議論も少なくない。日本が東アジアの島国で中世以降独自の発展を遂げたという認識の枠組み自体は間違いではない。今では、幼児性で切り捨てるべきではない江戸の知的表現方法の研究なども進んできている。知日派の論は基本的にそういうところに立脚するものだが、これを西洋的文脈で主体性のなさや国際社会における立ち位置の弱さととるのかどうかだろう。本書の最後のほうで、昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したことを評価する議論が行われているが、これもとってつけたようだった。繰り返し、日本に彼が描くような歴史的な構図や国際的な位置づけを正確に理解した上で発言できる論者が現れていないことを憂えているように、日本のジャーナリズムや思想状況への批判なのだろう。