2025-07-30

『知識組織論とはなにか』の訳者解説(8月21日 入手日情報追加)

8月19日(火)

編集部から新しい翻訳書が送られてきた。やはり紙の本を手に取るのはうれしい。

この本がもつ知識組織論的可能性を最大限に引き出すためには,紙の本であることは必須である。加えて全文検索が可能ならなおいいが,全文テキストだけでは紙の本を代替できない。











奥付の発行日は8月20日になっているが,市場に出回るのは8月の最終週になりそうである。


7月25日(金)

すでに出版社のHPやAmazonにも『知識組織論とはなにか』の「訳者解説」が掲載されているので,こちらにも転載しておきたい。
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10143699.html#support

<参考>著者自身による日本語版序文
https://oda-senin.blogspot.com/2025/05/blog-post.html
<参考>訳者によるビアウア・ヤアランについての学会発表
https://oda-senin.blogspot.com/2025/06/birger-hjrland.html










訳者解説

 本書は20世紀末に出た幻の図書館情報学理論書である。ここで本書を発見し訳出した経緯については省略するが,翻訳書として刊行できたことについて,勁草書房の編集,営業の担当の方々の英断あってのことで感謝の言葉を伝えたい。

 さて,本訳書のメインタイトルを『知識組織論とはなにか』としたのは,これから解説するように本書が,(広義の)情報学,心理学,哲学,社会学,科学論などの領域にまたがる知識論のなかで,知識組織論という独自の立ち位置を示す意義を検討したものであるからである。また,サブタイトルの『図書館情報学の展開』は,本書が図書館情報学の系譜から新たな段階を示唆する内容をもつことを表現した。

 原著タイトルを訳せば,『情報探索と主題表象:情報学への活動理論的アプローチ』となる。これは,20世紀末に英語圏の(図書館)情報学関係者に向けた著書として刊行されたときの著者の意図からつけられたものだが,それから30年近い月日が経った現在,図書館情報学分野の翻訳書として出版する際の意義は少し変わってくる。この間の国際的な図書館情報学の展開と著者のその後の研究活動を対比的に見ながら,本書を今,翻訳紹介する意義について述べておこう。

 最初に,著者ビアウア・ヤアランについて紹介する。著者自身が日本語版のための序文を用意してくれ,そこに簡単な経歴と本書を執筆するまでの背景について述べられている。ヤアランは1947年生まれで,コペンハーゲン大学および同大学院で心理学を修めた。同時に王立図書館学校を修了し,同校教員および王立図書館の研究司書として勤めた期間を経て,本書刊行の1997年頃は王立図書館学校人文社会科学情報研究部門(その後,知識組織論部門に名前を変更)に所属していた。王立図書館学校は司書養成の伝統校であったが,1998年に大学と同格の高等教育機関の地位を獲得し,2013年にコペンハーゲン大学と合併し,現在は他の専門と統合されて同大学人文系コミュニケーション部門となっている。現在,ヤアランはその名誉教授である。日本語版序文にあるように,心理学を母体とした図書館情報学への関心は当初からのものであるが,同時に,総合的な人文社会科学にこれを位置付けようという関心はこのような所属組織の変遷を背景にしているのだろう。

 次に本書の意義について述べておこう。本書は出たときにすでに20世紀図書館情報学の古典としての位置づけを獲得すべきものだったと評者は考えるが,それは残念ながら果たされなかったように見える。本書は出版後すぐに多数の書評が出るなどこの領域の理論書として注目されたが,いくつかの理由でその後,表面的には忘れ去られたように思われるからである。

 その理由の一つに,英語圏が中心となっている図書館情報学の学術領域のなかで,それまでデンマーク語で多くの著作を発表していた著者は,マイノリティとされたのかもしれない。しかし,それ以上に,本書が当時図書館情報学の主流だった情報検索論や計量情報学,情報行動論を,その根底的な認識論や方法論のレベルで批判したことが重要である(例えば,p. 64の注5で展開されている従来の分類論に対する科学哲学的批判や,p. 140-142で展開される実証主義的利用者研究に対する批判を参照されたい。)。また,本書が刊行された頃からインターネットが社会的なインフラとなる動きが明確になり,本格的なグローバルデジタルネット社会への移行が始まったことで,この分野の主たる関心はそうした技術的な展開に注がれたこともある。

 だが,著者は本書出版後,活躍の場を国際的な学会に求め,自らの理論を展開し,この分野の国際的有力誌に英語論文を発表する方針に転換した。つまり,技術的インフラの変化を検討するよりも,その根底にある原理を究める方向を選んだわけである。

 図書館情報学とは,ドキュメントを組織化して求める人に提示するための一連の仕組みおよび過程の分析のことであるが,ドキュメントが知を媒介することに焦点を当てることで,これは知識の理論と密接な関連をもつ。著者は原著のサブタイトルにあるように,本書を情報学に対する新しい理論的貢献としている。ただし,本文中では図書館情報学の用語もほぼ同じ意味で用いている。英語圏の図書館情報学では,図書館学→図書館情報学→情報学という名称の変化があるとされているが,日本では情報学という表現は限定されたところでしか使われていない。そのため,デビッド・ボーデン,ジェーン・ロビンソン『図書館情報学概論』(塩崎亮訳,田村俊作監訳 第2版2024,勁草書房)の原著タイトルがIntroduction to Information Scienceでありながら,この邦訳タイトルを選ばざるをえなかった。本書の著者ヤアランもまだ情報学の理論的基盤が弱いと感じており,これを同時代のアカデミズムの水準に照らして徹底的に論じて見せようとした。訳者が本書を取り上げたのは,著者の試みが,他に例がない厳密な理論的展開を行っていて,生成AIの時代の情報学を考えるのに大いに貢献すると考えたからである。英語圏での著者のその後の活動を読み解く上でもこの本が基礎にあることは明らかであり,訳出する価値がある。

 ここで,本書の論旨について簡単にまとめておこう。第1章では序論の後,本書の構成と内容がきれいに整理されているので,まずここを読むべきである。その後は,2章以降4章までの「主題表象論」の部分と5章から7章までの「情報探索論」の部分とに分けられる。前半では,主題をドキュメントとその利用者との媒介過程ととらえて,ドキュメントの主題の解釈について,合理論,経験論の限界の指摘を経てプラグマティズム哲学にひとまずの足場を求める。後半では,利用者の情報探索について,それまでの図書館情報学が依拠していた方法論的個人主義を批判し,方法論的集合主義を採用して,それを科学コミュニティの発展につなげるための戦略を論じる。

 従来の図書館情報学は,「主題」を分類や件名標目,データベースの索引語,図書の巻末索引などによってドキュメントとその利用者とを結びつけるための一連の操作概念と理解してきた。これに対して,著者は英語のsubjectの原義が物事の原材料の意であるギリシア語(本書のp. 123で触れられているように,アリストテレスのヒポケイメノン)に由来し,そこから派生したり,転用されたり,反転したりして,さまざまな意味として現れたとする。これは,日本語でsubjectを主体,主観,主語,主題と訳し分けることが必要になる理由でもあるし,sub-は「下に」を意味する接頭語なのに,日本語だと「主」が付く転倒が起こる理由でもある。著者は,原義に戻るべきことを主張し,ドキュメントの利用者の立場を重視して,知識利用に関わる認識論を検討した結果,利用者がドキュメントを材料として何らかの行動を行うときの目的や予想される結果を基準にし,これを主題と考えるべきだと述べる。だからドキュメントの主題はドキュメント自体に含まれるとも,書いた著者が決めるとも言えず,それを利用する人の目的やその効果を基準に考えるべきだと言う。このプラグマティズム的認識論に基づいた書籍分類の思考実験例が第4章の最後(p. 116以降)にあるので,それをご覧いただければ,著者の意図は理解できよう。

 後半では,まず20世紀後半の図書館情報学の主たる関心が図書館や情報システムの利用者行動(情報行動)とその利用に対する計量情報学的評価にあったが,著者は,情報行動論についてはそこで採用される個人を単位とした心理主義(認知主義)の限界,そして計量情報学的方法についてはその実証主義的な方法の限界を指摘する。そこで新たに採用するのが,方法論的集合主義としてのジョン・デューイ=ヴィゴツキーによる活動理論である。プラグマティズムが個人の認識論をベースにするのに対して,活動理論は,集団における個人の関係を対象にした認識論とコミュニケーションをベースにするものであり,科学者コミュニティにおける情報探索を分析するのに使えるとしている。そして,従来から用いられる情報ニーズという概念については,利用者個人が所属するコミュニティのなかで認知的発達を遂げることで明確になるという点で動的なものであり,また,それがコミュニティ自体の知識発達に貢献するものとしている。

 さきほど本書が20世紀図書館情報学の古典となるべき著作だったと書いた。本書のもつ意義を改めて指摘しておくと次のようになる。

 まず図書館情報学に対して,心理学,認識論や科学論の哲学を中心にした学術的水準での理論的整理と批判を行ったことである。図書館情報学はそもそも図書館で働く職員養成のためのノウハウをカリキュラム化したものから出発したという点で,プロフェッションの学であった。プロフェッションの学は諸学からの知を取り入れるという点で学際的な性格をもつが,他方で,一旦制度的に確立されたプロフェッションは,知識や技術がマニュアル化すると同時に専門知に対する守勢の力が働き,新しい知の導入を妨げる傾向がある。20世紀前半までに確立された知識組織論の原則は目録規則や分類法としてマニュアル化されたのに対して,著者は再度,理論的な批判を行って知識組織論的方法を提案している。また,20世紀後半の図書館情報学主流派が採用した実証主義に対してその認識論的限界を指摘して,自身のプラグマティズムと活動理論に基づく対抗的な考え方を提示している。

 ただし,著者の議論は全く単独で行われたのではなくて,20世紀の図書館情報学の理論家の議論を批判的に継承しようとしていることも指摘しておかなければならない。知識組織論については,ランガナータン,ラングリッジ,スワンソン,ヴィッカリー,パトリック・ウィルソン,バックランド,情報検索論についてはクレヴァードン,ハッチンズ,ソーゲル,ランカスター,情報行動論についてはテイラー,ベルキン,イングヴェルセン,クールソーといった人たちの業績について議論の前提として踏まえて,自らの論の展開を行っている。展開の際にミクサとフローマンを重要な導き手としている。以上の論者の主張とそれに対する著者の考え方については巻末索引を用いて確認していただきたい。ちなみに,巻末索引も重要な知識組織化のツールである。

 では,彼の議論にどのような新規性があったのかについてであるが,すでに指摘したように,ドキュメント概念の有効性を確認した上で,それを探索(検索)し提示する行為の場を主題探索とし,これを認識論の展開との関係から整理したところにある。その際に,人が情報を求める行為について,ドキュメント中心の合理論や著者や利用者の行動に焦点を当てる経験論の見方よりも,プラグマティズムとそれを展開した活動理論の立場から,著者と利用者がつくるコミュニティの作用を動的にとらえた。原著タイトルにsubject representationとあったが,re-presentationはもともとラテン語から来ていて本来「再現前」と訳すべき概念で,ポストモダニズムや記号学のコンテキストでは「表象」と訳されるのが一般的であるのでそれにならった。本質的なものを再度別の方法で示すという意味をもつが,ヤアランはその方法としてプラグマティズムを選んだということができる。それは,情報学の使命を知的コミュニティに対する支援ととらえているからである。だから,パラダイム論との関係で,個人の知識発達と科学者コミュニティの知識発達とを密接に関わるものとすることで,同一知識ドメインに属する個人と社会とを架橋する科学コミュニケーション論への道を示唆している。

 この議論に対して,本書の書評のなかには,ドキュメントとその著者,そしてそれを利用する人との関係に対するそのような見方は図書館情報学に従来からあったもので,ヤアランが言うほどの新規性はないという批判的なものもあった。しかしながら,著者はそれらを人文系アカデミズムで通用する理論として提示したところに価値があったと思われる。図書館情報学コミュニティは,そうした著者の意図を理解して自らの議論のなかに取り込むことができなかったのだろう。しかしながら,著者がジョン・デューイについて,忘れられた時期の後に再評価があったと書いているように,これはどの分野でも起こりうることではある。その分野に革命を起こすような業績の評価はこのようにして進行することについても著者は触れている。

 著者は,本書執筆以降,現在にいたるまでJournal of Association for Information Science & TechnologyJASIS&T),Journal of DocumentationJ.Doc)Knowledge OrganizationKO)といった学術誌上で,これまでの議論を批判的に整理しながら,本書の論点をさらに展開しようとしてきた。これらのなかで,最後のKOの発行元は国際知識組織論学会(International Society for Knowledge Organization: ISKO)である。この学会はもともと英国とドイツにあった分類に関する学会のメンバーの発意で,1989年にドイツ語のWissensorganisationの英訳としてのKOを標榜する国際学会になった。会員は図書館情報学の関係者が多いが,認識論,科学哲学や心理学等の分野の人たちも少なくない。そしてヤアランは同学会を主たる活動の場とし,学会が2016年からスタートさせた国際知識組織論事典(ISKO Encyclopedia of Knowledge Organization: IEKO)の編集長となった。これはオープン化されたオンライン専門事典であり,一つの項目が査読付きレビュー論文となっているもので,ヤアラン自身が30項目以上を執筆している。その多くは,本書で扱われた個々の概念をさらに展開する理論的な論考である。彼がIEKOを活動拠点にして,自らの理論を深め拡げるオープンな議論の場をつくろうとしていることについては,IEKOのHP(https://www.isko.org/cyclo/index.html)をご覧いただきたい。

 本書で,著者は活動理論の情報学的展開としてドメイン分析という方法を提唱し,その具体的な展開に向けても議論をしている。彼は,IEKOの“Domain analysis”の項目でドメインを「社会的かつ理論的に,存在論的および認識論的コミットメントを共有する人々のグループの知識として定義される知識体系」とし,その際に,哲学者,歴史学者,社会学者は特定のドメイン(たとえば医療)を対象に研究するが,その目的や関心,対象,方法は異なるとする。それに対して情報専門家はドメインに対して理論的アプローチをするが,方法や対象はドメイン内の成員による特有のコミュニケーション行動や情報の共有の仕方などに着目して,それを対象化し,分析し,効果的なツールの作成や介入を行うとしている。彼は,協力者による美術史領域のドメイン分析の結果から,この領域でのパラダイムに対応したKO的な展開を考えるには,美術展に着目することが重要であることを指摘している。このように個々のドメイン内の専門的な主題知識を合わせることで,これまでの汎用的な組織化の手法で対応できないような問題を扱うことができるという。逆に,ドメイン内の人々も当該領域の哲学,社会学,歴史学的研究が自らの活動に貢献するのと同様に,KOの知識をもつことで活動が活性化するはずだと述べる。

 最後に,著者の議論が現代のネット利用を前提とした社会においてどのような意味をもつのかについて述べておこう。軍事技術だったインターネットが民生化され,Windows95が出た1995年がネット元年とすれば,本書はその2年後に出た。著者も本書ですでに変化が生じていることに触れている。たとえば複数館の図書館蔵書を横断検索できる総合目録や,書誌データ以外の記述的要素(抄録,目次など)や画像(書影等)を含む検索システム,ドキュメントの全文検索,ドキュメント間のハイパーリンク,そして引用索引データベースなどである。

 それから30年の時が過ぎて,ネットでサーチエンジンを使うことはふつうのこととなり,図書館も蔵書やデータベース,電子ジャーナルなどの情報を1つの検索画面で検索できるようにするディスカバリーサービスの導入が進んでいる。さらにそこに生成AIの仕組みが加わることによって,デジタルネットワークそのものが知識組織化の前提となる日がきている。利用者は居ながらにして,主題にアプローチするための近似的方法として,これらを常用する現実が出現している。

 今のところ,生成AIにさまざまな弱点があることが指摘されている。基本的な仕組みは,大規模テキストから取り出したトークンやその集合体の相互関係をベクトル空間で表象し,その関係を数値計算によって学習させることで言語表象を可能にするものだが,用いられる言語ベースの規模の大きさと多段階の深層学習というプロセスが加わることで,「意味」を表象するとされる。それは,従来の情報検索システムが語と語とのマッチングによってクエリとの関連を見ていたのに対して,各段に人間の学習に近いものが実現されているとされる。しかしながら幻覚(ハルシネーション),フェイク,知的財産権に関わる問題,プライバシー侵害,サイバーセキュリティ,透明性の欠如,環境コスト,推論に弱いなどの問題点が指摘されている。また,すでにあるテキストやドキュメントの蓄積から学習したものであるという意味で,いかに自然言語に近い表現でそれらしい回答を出しても,それは過去の知の再現ないし寄せ集めでしかない。

 ただし,これはまだ発展途上の技術であり,今後技術的な進展と利用者側の情報リテラシーの向上によってそうした問題点を一定程度克服することができる可能性は高い。とすれば,情報探索が過去の知を求めることだとしても,生成AIの適用でかなりのものが解決できることが予想される。プラグマティズムの立場を取る著者にしても,これを否定する理由は存在しないだろう。

 ここで,著者がプラグマティズムに基づいて,主題は事後的にしか決まらないと言っていたことを思い出そう(第4章)。また,活動理論に基づき,一定のコミュニティ(ドメイン)においては,情報利用者の知的発達とコミュニティ自体の知識の展開は対応して相互に向上すると言っていたことを思い出そう(第7章)。これらが意味するのは,ドキュメント利用による知識コミュニケーションの支援という情報専門職の活動は能動的媒介行為であり,それがあって始めて知的創造が可能になるということである。それはサーチエンジンや生成AIから受動的に得た擬似的な知識では得られない点である。本書で著者は,知識組織論における個人の認識論とコミュニティの認識論の相互関係に焦点を当てることで,AI的な知の限界を言い当てるとともに,さらにそれを補うことの意義を明確にすることでしか真の知は得られないことを主張している。

 本書はかつて非主流的な図書館情報学理論書と見なされたかもしれないが,著者による情報学と認識論,心理学,科学哲学,科学社会学を架橋する試みは,生成AIに隠されがちな知を獲得する人の営為およびその社会システムについての知識哲学として重要な成果を挙げたと考えられる。IEKOを拠点にして著者を中心に進められている知識組織論の理論的言説の蓄積は,新たな情報環境においても有効となるはずで,本書はそれを理解するためのもっとも基本的な書物である。


2025-07-27

索引を翻訳すること:『知識組織論とはなにか』の巻末索引

索引と知識組織論

 知識組織論研究会(KORG_J)では組織化の方法として,分類,書誌,索引などを取り上げている。ここに目録がないのは,通常,図書館目録は所蔵している資料の書誌であり,個別項目を排列する原理として分類があり,項目を分析する手法として語(メタデータ)を付与する索引があると理解するからである。

書誌と分類と索引は相互に排他的な概念ではない。たとえば,ある図書館の目録データベースがあるとすると,対象とする資料単位ごとに書誌データがつくられるからこれは書誌である。また,物理的な資料が排列されるために何らかの分類記号をつけるから,そこには分類の概念が存在する。たとえ,自動書庫において資料が物理的な位置は移動単位のボックスとそのなかの相対的な位置として識別されるとしても,そのID記号が(動的にしか決められない場合でも)分類記号ということになる。そして,目録データベースの書誌データにおいて,何を検索語とするかについて編成原理と検索原理から成る索引のシステムが存在する。これは通常は目録規則と呼ばれるものであるが,索引システムに包含されるものである。

知識組織論ではこのように従来の資料組織の考え方を相対化して,より大きな枠組みの下で考察しようとする。多くの人はすでにネット上のサーチエンジン,データベース,生成AIなどのツールをみずからの知識組織化のために使用しているからである。言うまでもないが,こうしたネット上のテクノロジーが現れる以前から,手作りの書誌や,新聞記事のクリッピングやその索引,パスファインダー,文献レビューなどがつくられていたし,百科事典や専門事典の編纂や専門領域のハンドブックや年鑑などで今でも行われている。これらは従来の図書館情報学では資料組織論やレファレンスサービス論のなかで検討されていたが,今では古くなった領域と見なされることも多い。後でも触れるが,日本索引家協会が20世紀末に解散したことはそれを象徴的に示している。

それは図書館情報学が医学や法学などの一部の領域を除いて知の専門領域に踏み込むことを忌避してきたことと関わる。多くの分野を対象にしたデータベースがつくらればそれで足りるという発想は知識組織論的に問題が多い。「神は細部に宿る」という箴言に倣えば「知は細部に宿る」というのが,ビアウア・ヤアランの思想である。そうしたgeneralismは今後の司書養成の本質と関わっている。それらは生成AIに駆逐されてしまうのではないかと。

巻末索引について

さて,ここでは書籍につけられた巻末索引がどのような索引システムであるのかについて考えてみたい。昔からよくある議論として,日本で出る専門書には巻末索引がついていないものが多いというのがある。以前よりも人文社会系の博士論文が出版される機会が増え,その意味で専門書が増えている状況があるなかで,索引がついている書籍は増えているという実感をもっている。だが,多くの思想書,専門書,大学の教科書には索引はついていない。ついていても人名索引,著者索引,作品(書名)索引しかついていない書籍は多い。これらは,固有名詞を抜き出せばよいから,比較的作成は容易である。問題は,事項索引と呼ばれる主題語の索引がつく例が多くないということである。

最近,経験したことを書いておこう。光文社という出版社は文芸書やコミックスなどの出版物も多いが,光文社古典文庫を出していたり,意外に硬派な専門書も出している。ここが2023年秋に『万物の黎明』と『索引〜の歴史』という2冊の翻訳書を出した。前者はグレーバーというたいへんおもしろい着眼点をもつ人類学者の遺稿で,西洋流の啓蒙主義的歴史観を根幹から批判したものとして世界的ベストセラーになった。後者はタイトル通りの地味な本だが,巻末に原著についていた索引を翻訳したものと,本文のテキストからAIが作成した索引と,日本で新たに作成した索引の3つがついていたのが面白かった(それについてはブログの2024-03-29を参照)。そのときに,『万物の黎明』に(原著には浩瀚な索引がついているのに)索引がついていないのはなぜかと編集部にメッセージを送った。あのように大部で,話題が太古から現在の古今東西の事例を検討するような類いの本は索引がなければ読めないと考えたからである。訳者はグレーバーの本の翻訳や紹介を積極的にしている人だから,索引についての見解もぜひ聞いてみたいと思った。だが,返事はなかった。

索引,とくに事項索引はつくるのが難しい。というよりも,これ自体が知識組織論の大きな問題である。目録とか新聞記事や雑誌記事の索引(抄録も含む)と巻末索引では何がどう違うのかといえば,まず,書誌や図書館目録,記事索引は対象がドキュメントという単位を明確にしているが,巻末索引は著作の部分を対象にするというだけで,部分の範囲は不確定で,その部分を広くとるか狭くとるか,部分をどのような言葉で表現するのかも一切は索引作成者に委ねられている。そして,事項索引を作成する作業自体が作成者がどのように対象ドキュメントを読み込み,それを解釈したのかを示すものである。そこが,全集や著作集の索引だと,特定個人の複数著作に対する索引であって,基本的には同じである。図書館目録や記事索引は対象がドキュメント単位であり,その対象の選定や処理方法が最初から標準化されているものとの違いである。書誌は編纂方針が作成者に委ねられているところは索引に近い。

巻末索引は多くの場合,担当編集者が作成するが,著者ないし訳者が作成する場合もある。いずれにしても,この作業は簡単ではないし,作成してもそれ自体が評価されることも多くないから省略されるのだろう。私はここに,日本人が書物に対して分析的に読むことを避ける考え方が表出していると思う。索引は書物を分析的あるいは批判的に読むときに必要なツールである。このことについては別の機会に書いてみたいが,今手元にある人文系の新刊翻訳書を何冊か取り出してみると,哲学書でもしっかりとした事項索引がついているものもあるが,原著にはあるのに訳書で省略しているもの少なくなかった。その必要性と作成のための労力やコストを比較して,つけなくともよいという判断が先に立つのだろう。


『知識組織論とはなにか』の索引

私が最近取り組んだビアウア・ヤアラン著『知識組織論とはなにかー図書館情報学の展開』という翻訳書で,索引にどのように取り組んだのかについて述べてみよう。この本は本ブログの他のところで何度か取り上げたのでここでは全体の内容について取り上げないが,ともかく先に述べた知識組織論の理論書である。知識組織論に索引の理論が含まれることは先に述べたとおりである。そして彼自身が自分で索引を作成しているから,この索引は彼の理論の応用例ということになる。また,それを翻訳という過程を経て他言語に置き換えたことで,この索引作成は彼の理論とその応用を日本の読者に向けてどのように表現するのかを問われるものとなる。

巻末索引の冒頭に次のように書いた。

本索引は,原著の索引を基にして,日本の読者に合わせて変更を加えたものである。原著には650項目ほどが掲載されているが,本訳書では370項目に絞ってある。副見出しがついている重要項目は,基本的に原著者がつけたものに若干の追加(「ヤアラン」項目の副見出しを含む)をした。本書で展開される主題理論の実践例として利用することができる。

まず,原著の2段組で10ページ分650項目の巻末索引というのは200ページ弱の書籍にしてはずいぶん多い。これは,著者が引用・参照した文献については原則的にすべて(例外はデンマーク語の文献の一部)著者名からの索引が取られているからである。参照文献だけでも19ページで400程度ある。通常は引用文献の著者名が索引の対象になることは多くはないが,著者は誰の論文を引用したのかが本書を読む際に重要な手がかりとなると考えているのだろう。ただ,翻訳でそれをすべて示す必要はないと考えてかなり絞った。

著者名とか図書館名や大学名などの固有名詞は全文検索で引っかかるので扱いやすいことは先に述べた。著者名については単に文献を参照しているだけでなく,当該著者が論じている内容が本文中に存在していることを基準にして絞り込むことができた。その場合に,著者名をカナ表記にするので,カナ表記のラストネームのみを索引語にした(フルネームは原綴りで示してある)。北欧の人のラストネームをカナ表記にすることに苦心したが,最近はそれを可能にするツールがネット上にいくつも存在するので何とかこなした。また,デンマーク人の名前の表記は『デンマーク語固有名詞 カナ表記小辞典』があって助けられた。(ただし,この辞典に合わせるのがいいのかどうかについて悩むところも少なくなかった。というのは,Hjørlandを「ヤアラン」とするのか「ヨーラン」とするのかは微妙なところなのだが,その違いでカナ表記だとかなりの位置の違いが生じてしまうからである。ヘボン式ローマ字のヘボンとオードリー・ヘップバーンのヘップバーンは同じHepburnだと言うと驚く人は多い。このことは原綴りの検索では問題にならないが,異文化間の「翻訳トランスレーション」問題がそこにある。)

ここで述べたいのは事項索引である。著者がその本でどのような用語を使って何を主張しているのか,使用する概念間の関係はどうなっているのか,同義語,類義語をどのように扱っているのか,といったあたりは最初に気をつけなければならないことである。さらに本書が哲学的な議論をしているところが多いので,概念をどのくらいの深さで論じているのかについても用語間の関係を理解する上で無視できない。なぜこれを強調するかというと,著者が索引を作成するときにそのあたりのことを意識しているからである。

原著の索引を基本的には「翻訳」する方針で作成した。これにより,著者の用語間の関係の理解を翻訳する際に行った作業とは別の文脈から再度行うことになる。言い換えると,テキストの直線的な流れの翻訳を行ったあとに索引を翻訳することは,著者が概念間の関係や議論の流れの関係を用語(索引語)で再度確認することである。これが逐語的な翻訳とはまた別の理解を要求する作業だった。具体的には,抽象的な用語を一語一語原著のページにもどって確認し,その対訳語で翻訳を検索する。固有名詞なら原ページにもどらなくともいいが,概念や哲学用語などの場合,どの語が対応しているのか分からない場合もあり,その対照作業はけっこうたいへんだった。これは1週間くらいかかりかなり疲弊した。

たとえば,サンプルページに「意味(meaning)」という索引語がある。この翻訳と原著を並べて表示すると次のようになる。


基本的に対応していることが分かるだろう。この作業を行うためには,まず原著と翻訳書ゲラのテキストファイルで「meaning」と「意味」を検索して,多数あるその用語のうち,ここに示されたページを見て,意味の対応関係がその通りになっていることを確認する必要がある。とくに複数ページにまたがる言葉の場合は最初と最後がどのページにあたるかを見極める必要がある。例にある副見出し「活動理論(in activity theory)」に対応するのは,原文ではp.80-81であるが,翻訳書ではp.99-101と3ページにまたがっている。

こうした作業を行うことで次のようなことが可能になった。

・ 用語の区別と統一 たとえば,information seekingとinformation searchはほぼ同義語として使用しているようだが,information retrievalは類義語ではあるがやはり機械検索を前提としているらしい。なので,前者は「情報探索」で統一し,後者は「情報検索」とする。

・ 用語構造の理解 用語を通じて著者の思想を理解するということで,たとえば,キーワードであるsubject representationは最初は「情報表現」としていた。しかしながら,expressionを使用することもあり,その違いがどこにあるのか最初は分からなかった。しかし区別しているらしいことに気づいたとき,representationは哲学や記号学で「再現前」あるいは「表象」とする用語であり,単なる(外に示すという意味での)表現ではなく,一度表現されたものが再度別の形で立ち現れるという意味であると理解した。それで最終的に「主題表象」という用語を使用した。

・著者の理解の深さを意識しながら用語を選ぶ これは,著者の主題についての考え方と密接な関係がある。先ほどの「主題表現」と「主題表象」もそうした例の一つであるが,これは,著者の思想に寄り添うか, 日本の読者を意識するかという問題でもある。日本の図書館情報学関係の読者を意識するだけなら,表現と表象の区別はそれほど大きな問題にならないだろう。しかしながら,これが一旦哲学や人文学一般の読者の存在を意識すると,それを区別した訳は必須となる。著者はプラグマティズムの立場から,主題は将来的な読者に向けて表象すべきことを主張する。とすると,本書が今の図書館情報学の読者だけでなく,将来的には人文学に通用するレベルで知識組織論を理解する手がかりとするものならば,ここではその区別をしなければならない。

このように索引の翻訳を理解し,それに基づいた作業をすることで,索引についての理解が深まった。たとえば,特定の重要語について,著者が強調したい部分のみの索引となっている。これは,本書では同じ概念が何度も何度も輻湊されて論じられるから繰り返しが多いが,著者はそういう場合にその文脈でもっとも強調したいところのみを索引項目としている。たとえば,「主題表象データ」という索引語は1カ所しか現れていない。この用語は第2章の標題にもあるように何度も使われているが,当該1カ所を見ればこの用語の内容,意義,著者の考えが示されているとということである。他にも,重要語の索引項目は多くはなかった。

場合によっては,当該用語が使われていなくとも,その概念にあてはまる記述があるときにはそのページを索引としている。たとえば,「能動的情報システム(proactive information systems)」は3カ所に索引参照がある。そのうち,「理想的には,情報システムは,利用者の情報ニーズに関して能動的に行動するべきであり」(p.188)とした部分と,「したがって,情報ニーズを経験的に研究する取り組みは,認識論的観点からの問題領域,および専門分野およびその下位分野と傾向の分析によって補完されるべきである。これが,情報システムがニーズに対応して能動的になれる唯一の方法である。」(p.211)の部分では,「能動的」の言葉が使われている。しかしながら,p.204には「能動的」という言葉は出てこない。おそらく索引者は次の部分を「能動的情報システム」としているのだろう。

情報ニーズの概念の最も中心的な部分は,上記のようにドキュメントの適合性基準に関わるが,それ以上のことも含まれる。情報ニーズの研究では,公式および非公式のコミュニケーション,科学会議,専門誌,図書館,データベースなど,情報源と情報チャネルの適合性がしばしば考慮される。私は,この概念の最も中心的な部分は情報に関する適合性基準であると主張するが,情報/ドキュメントへのアクセスを仲介するさまざまな情報チャネルに関する適合性基準も含めよう。情報ニーズの概念をこのように拡張することは望ましい。なぜなら,これは情報専門家にとって最も中心的なものの拡張になるからである。

まとめ

以上,私が関わった翻訳書の索引作成を例にとって書籍の巻末索引の意義と方法について考えてみた。翻訳もまた知識組織化の方法の一つであり,ヤアランによればその方法の基本にはプラグマティズムの考え方が適用されるべきだということになる。ということは,それは著者の意図や書かれているテキストの個々の主張以上に,日本の読者がどのようにこの本を読み解くのかを基準に訳語を選定し,訳文をつくるべきだということになるし,索引もそういう著者を想定したものとするべきである。実際にそういう翻訳書に仕立て上げたつもりだが,そのようなものとして受け入れられるかどうかは分からない。

また,翻訳という行為や索引作成の行為をこのように知識組織論としてとらえる考え方も新しいものだろう。翻訳については「トランスレーションスタディーズ」のような研究領域が生まれているからこうした議論も日本でもある。しかし,索引作成については,先の翻訳書のようにぽっと出るものもあるが,それすら日本でかつてあった日本索引家協会の伝統とつながっていないように思われる。『索引 〜の歴史』では,索引作成の専用ソフトが役立たないという主張だったが,現在の技術水準だとかなり精度は上がっているのではないだろうか。ここに書いたような索引の考え方と生成AIのアプローチはどのような関係になるのかといったことも含めて,まだまだ議論を詰める必要があるだろう。




学校図書館賞受賞発表会「図書館教育の現代的課題」

 昨年出した『図書館教育論』に対して,2025年度の(公社)全国学校図書館協議会主催の 学校図書館賞 (論文の部)が授与され,8月8日に授与式と受賞記念の発表会がありました。そのとき作成したスライドを少し編集し,ノートをつけて下記に公表します。