2024-04-05

クイズ:NHK総合の「時論公論」の背景図書館はどこか?

以前から話題にはなっていたのですが,NHK総合でやっている「時論公論」という解説番組で,タイトルバックの写真が印象的な図書館になっています。NHKの同番組のHPにもその写真が使われています。(画像は解像度を落として掲載しています)これがどこの図書館なのかというのがクイズです。







最初に見たときにストックホルム市の中央図書館と思ったのですが,少し雰囲気が違う感じです。「時論公論 背景 図書館」でググると(という表現を初めて使った国際教養大学中嶋記念図書館という説もありました。そういえば,円形のスペースに木材を組み合わせた感じが最近できた石川県立図書館とか,軽井沢風越学園も似ていてようやくそれらの共通点に気づきました。これらは,「仙田満(+株式会社環境デザイン研究所)」が設計に関わった建築物なのですね。しかし,違います。


さて,正解は。。。。

Google検索でネット上にある情報を手がかりにするとどこまで迫れるかを見てみます。

最初にまとめて出てきた<Yahoo! 知恵袋>には,ストックホルム市立図書館,国際教養大学付属図書館以外に,武雄市立図書館マリア・ラーハ修道院(ドイツ)という情報がありました。ストックホルム市立図書館を挙げるものはにもありました。でもこれは,Yahoo!知恵袋を見てのように思えます。

ネットコミュニティBeachに次のような情報もありました。

「iconすっかり騙されてたかも時論公論の背景の図書館をAIチャットくんに 聞いてみました

(時論公論の背景に使用される図書館は、NHK放送センターの中にある仮設のセットです。実際の図書館ではありません。)」

近いけど違います。

実は正解はインターネットでは得られません。もしかしたら2020年から2021年にかけてのSNSに情報があったかもしれませんが,今は見れませんし,遡っての検索もできません。ここまで挙げられた図書館は似てはいるがよく見ると違うことは明らかです。「違う」とは言えても「同じ」ということはなかなか難しいです。なぜなら,似たような建物の写真はあるし,最近はフェイク写真が横行しています。ネットなどから間接的に「正解」を「得る」ことは思った以上に難しいのです。

さて,正解(らしきもの)を示しましょう。それは,バーチャル映像だということです。

朝日新聞2020年10月27日朝刊に「はてなTV」という欄があり,そこにテレビ好きの間でこの背景画像が話題だけどどこの図書館かを知りたいというクエスチョンがありました。回答として,担当のチーフプロデューサーの発言として,2020年4月から「バーチャル映像」に一新したとあります。また,「背景の図書館は番組オリジナル」だが,「ストックホルム市立図書館,ブラジルの『幻想図書館』,東京の東洋文庫.....」を参考にしたとしています。

正解(らしきもの)としていますが,それは,朝日新聞記事としてあることが理由です。担当者の人名を出しているので取材をしているのだろうと検討をつけることができます。ただ全国紙の記事だから本当に信用できるのかどうかについては留保が必要だということで「(らしきもの)」としました。これについてはメディアリテラシーでさんざん議論されていることですが,間接的な情報に従うより,直接的な取材と新聞社の信用によって裏付けられる例です。

担当者が挙げていたブラジルの『幻想図書館』とは,植民地時代のブラジル・リオデジャネイロにポルトガル移民たちが設立したポルトガル王室閲覧室をかたどった図書館で,その書架の圧倒するような部分をコピーしているのかもしれません。東洋文庫も書架については同じような印象があります。

さて,ネットでは正解にたどりつけないと書きましたが,ではなぜ私は正解らしきものにたどりつけたのか。まず,手がかりはやはりGoogle検索です。先ほどの検索でひっかかったのが,

2020年10月27日朝刊 朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com › shimen
2020/10/27 — (はてなTV)「時論公論」の図書館は? 有料会員記事. Q 本、テレビ好きの間でNHKのニュース解説番組「時論公論」の背景画像が話題です。とても ...

というスニペットです。これをクリックすると

どんなコンテンツをお探しですか?(Page Not Found)
お探しの記事は見つかりませんでした。
URLが誤っているか、公開期間を終了した可能性があります。

となって,それ以上は読めません。つまりすでに削除されているということです。これを読むためには,朝日新聞の有料データベースを使う必要があります。これは,図書館で契約しているところがけっこうあるので,読むことができるというわけです。

以上で分かることは,ネットにある情報は間違いがかなりあるということ,AIも怪しい。また,ネットと図書館とを組み合わせれば,正解(らしきもの)に到達できることです。

なお,Chat GPTを試してみたところ,次のような回答でした。

Q:NHK総合の「時論公論」の背景図書館はどこか?

A: 2022年1月時点での情報に基づいてお答えしますが、NHK総合の番組「時論公論」の背景となる図書館の具体的な場所や名称は、一般的な公式情報として提供されていない可能性があります。番組の制作スタッフや舞台セットのデザイナーが、背景となる図書館のイメージをデザインし、実際の場所をモデルにしたり、架空の設定に基づいて作成したりすることが一般的です。

番組の公式ウェブサイトや公式発表、番組制作に関わるインタビューや舞台裏の情報などが、このような背景設定に関する詳細を提供する可能性があります。しかし、具体的な図書館の場所や名称が番組の中で明示されていない場合もあります。

番組の制作側が背景として使用する図書館についての情報を入手したい場合は、NHKや番組制作会社に直接問い合わせることが適切な方法となります。

こちらは「AIチャットくん」よりは分からないことを分からないと言っている点で誠実で親切ですが,やはりネットにない情報を提供することはできないということでしょう。

以上,ネットリテラシー,メディアリテラシーのおさらいを兼ねた図書館建築論でした。先の,プロデューサーの言に「14年間続いている番組なので,その積み重ねを表す『知の集積』として,図書館というモチーフを選択しました」とあります。しかしながら,これには疑問をもたざるを得ません。テレビ番組のどこに「積み重ね」があるのだろうかという疑問です。14年続いても今見れないのなら,積み重ねとは言えないでしょうに。

もしかしたら,番組作りが知の集積をベースにしているという意味なのかもしれません。数年前に,朝日新聞社の資料室担当の方に話しを聞きに本社ビルに行ったことがあります。そこでは,政治部とか社会部,経済部といった現場取材の記者のフロアと別のフロアに,資料室と解説員室がありました。つまり,生の情報を処理する部門とそれらをもとにして解説的な情報発信は分けられていて,資料室は解説報道といっしょにされています。NHKの場合も実際に資料室等が置かれているのかは知りませんが,少なくともこの写真は,解説報道のシンボルとして図書館を表象しているのかもしれません。






2024-03-29

読書アンケート2023:識者が選んだ,この一年の本

昨年まで,月刊『みすず』の1/2月合併号というかたちで出ていた「読書アンケート」が今年から,単行書『読書アンケート2023:識者が選んだ,この一年の本』というかたちでまとめられるようになった。今回は139人が寄稿しているそうだ。私が選んだ本を他の人が選ぶことはこれまでなかったと記憶するが,今回は1の日野さんの情報公開の本を選んでいる人がいた。丘沢静也さんというドイツ文学の方だ。それが読み方が私のと似ていて,この本は何よりも著者が情報公開請求を厭わずに繰り返している様子が描かれ,多くの人が情報公開請求をすればお自ずといろんなものが変わってくるという点を強調している。口先の批判は誰でもできるが,それを汗をかいてするのかどうかが大事だという点は肝に銘じたい。

3月も終わろうとしているので,私が書いたものをここに公開する。


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根本彰(図書館情報学,教育学)


1. 日野行介『情報公開が社会を変える:調査報道記者の公文書道』筑摩書房,  2023 (ちくま新書)

 情報公開制度は20世紀末に地方自治体から始まり,2001年に公文書公開法ができ,2011年に公文書管理法ができて国の制度が整った。この制度により,公的機関が自らの意思決定過程を明らかにして行政手続きの透明度を増すことが期待されたが,実際にはその通りになっていない。長年,新聞社でこの制度を活用して調査報道を行ってきた著者は,これを利用するコツを懇切丁寧に語ってくれる。敷居が高いように見える制度も基本的には使いようであり,多くの人が使って調査や研究を行うことで開かれた政府の実現という当初の目的が実現されるはずだと言う。

 それにしても,著者が苛立ちをもって語る行政の「知らしむべからず」の体質は,個々の担当官の判断を超えて組織に染み付いているもののように思われる。

2. 八鍬友広『読み書きの日本史』岩波書店, 2023 (岩波新書)

 幕末に日本を訪れた西洋人が,江戸市中でふつうの庶民が本を読んでいるのを見て驚いたという手記がたくさん残され,日本人のリテラシーが高いことが言われてきた。しかし,本書は書物にはかな文字による往来物と呼ばれる読み本と,漢字読み下し文(漢文訓読体)のものとがあって両者を区別すべきであるという。つまりリテラシーと社会階層は関連しており,高いリテラシーは前者についてあてはまるが,後者は必ずしもそうではない。これは上記の体質と密接に関わる。

 再編集版として刊行された岡田英弘『漢字とは何か:日本とモンゴルから見る』(藤原書店, 2021)によると,中国の歴代王朝は漢字をもって全土統一を果たしただけで,地方の話し言葉はばらばらだった。東アジアにおいて書き言葉が統治のツールだったことは確かだが,明治の言文一致ナショナリズムはむしろそれを強めたのではないか。書き言葉を操るエリートが国家を運営し,庶民は教科書で与えられた範囲の知の下に日常を生きるという枠組みは,時代を超えて現在に及んでいる。

3. 渡邉雅子『「論理的思考」の文化的基盤:4つの思考表現スタイル』岩波書店, 2023

 21世紀になってから,文部科学省は教育課程に総合的学習の時間や探究学習を取り入れた。「主体的対話的で深い学び」は現行学習指導要領の合い言葉になっている。だが,そこではどのような人間像が想定されているのだろうか。本書は,「論理的に書く」行為が日本,アメリカ,フランス,イランの4カ国でどのように違うのかに焦点を当てた,これまでにない国際比較研究の成果を示してくれている。日本の子どもたちの行為の特徴を挙げれば,感想文や小論文の執筆指導を通じて,社会のなかで間主観的な「共感」を表現することが強調される。これは大正自由教育以来の綴り方や戦後の作文教育から何も変わっていない。日本の国語教育は漢字の読み書きができるところで止まっていて,その先にそれをどのように使うか,使ってどうするのかの議論がないように思える。

4. デニス・ダンカン(小野木明恵訳)『索引 〜の歴史:書物史を変えた大発明』光文社, 2023

 読む行為に解釈の揺れや幅があるのは当たり前である。主体的に学ぶには批判的な読みは避けられないが,学校で「批判」は避けられやすい。本書はイギリスで出た「索引」をテーマにした本であるが,この本から読み取れるのは,索引をつける行為は批評の第一歩だということである。索引は,書物の内容に分け入って言葉を分析し情報を取り出しやすくするためのツールである。索引が必要になるということは,書き言葉の言説空間に参与するのに共感だけではなく,批評・批判の精神を合わせもつべきことを示唆している。

索引作成は索引家(indexer)と呼ばれる専門家が請け負うことが多い。実はかつてイギリスに倣って日本にも日本索引家協会という団体ができていた。1977年に設立され1996年に解散してしまったのだが,少々早まったのではないか。というのは,こういう本の翻訳が出るのは,サーチエンジンや生成AI全盛の時代のアンチテーゼでもあり,今,索引家のような言葉の達人が求められていることを示すのだ。(「TBS系列テレビ番組「プレバト」を見ていて,俳人と索引家の共通点と違いに思いを致した。)


2024-02-21

市川沙央『ハンチバック』と読書のバリアフリー

ふだん小説はほとんど読まない。そんな私が 最近,市川沙央『ハンチバック』という本を読んだ。芥川賞受賞作を受賞後1年以内に購入して読むことなど初めての体験だ。それというのも,この本が身体障害者の読書バリアフリーを一つのテーマにしているという声がさまざまなところから聞こえてきたからだが,もう一つ,かねてより『文藝年鑑』という定期刊行物にこの1年間の「図書館」についての短い報告を書くことになっており,そこにこのことがもつ意味について書いてみたいと考えたからだ。なので,これから書くのは,『文藝年鑑』(6月末刊行予定)で書き足りなかったことを補足するものである。

この物語の主人公は,首や背中に重い障害をもっていて,常に人工呼吸器をつけ痰吸引が必要であることによって車椅子生活を余儀なくされている。その彼女はウェブにポルノ記事を書くことを趣味(生活費の足し?:といっても主人公は親からのかなりの財産を遺贈されており生活に困っていないという設定)とし,他方では,大学通信課程で卒業論文を書いている。この短い小説では,彼女のリアルな生活空間の描写のなかに,彼女が執筆しているハプバ(ハプニングバー)記事や女性向け官能ライトノベルの妄想空間の描写が散りばめられ,最後の部分では両者が同一空間に集約されることになる。そして,市川氏自身がこの主人公と類似の障害をもっていることが同書の奥付にある著者紹介に明記されているし,それはメディアを通じて表出されている。ということは,この小説を手に取った読者は,リアルな著者の人となり,そして著者が描く主人公の言動,さらに,主人公が執筆する記事と少なくとも三重構造を読み解く必要がある。

小説としては,重度の障害をもつ女性の性の(ということは生の)欲望が一つのテーマである。そのことが障害者が生きることにどのような負荷を与え,そのためにどのような過程が語られているのかについてはここでは触れない。だが,著者がそして著者が描く主人公が読んで書く行為を中心に生活が廻っていることは明らかであり,それが性(生)の描写と密接な関係をもつ。読み書くことそのものが生きることに組み込まれるとき,読書のバリアフリーがもう一つの大きなテーマとなる。彼女自身が授賞式の記者会見においてそれを強く訴え掛けた。そしてその重要性は文学関係者にも波紋を呼び起こした。日本ペンクラブでは「読書バリアフリーとは何か―読書を取り巻く「壁」を壊すために」というシンポジウムを開催した。マスメディアでも,たとえば朝日新聞の社説(2023年8月4日付)は,「市川さんの訴えは、本を自由に読めない人々の苦境を厳しく世に問うものだ。多数派は現状で十分でも、一部の人が切実な困難を抱えている場面は読書に限らないだろう。特にデジタル化がバリアフリーの実現に果たす役割は大きい。少数派の人々が置かれた状況に広く考えを巡らせる機会としたい。」とまとめている。そのことに異存はない。

だが,著者が次のように書くとき,バリアフリーというよく使われる表現で済ますことができない,厳しい指摘がそこにあることを感じることができる。

私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、―5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない『本好き』たちの無知な傲慢さを憎んでいた。(市川沙央『ハンチバック』2023, 文藝春秋, p.27)

こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに,紙の匂いが好き,とかページをめくる感触が好き,などと宣(のたま)い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい...出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ,と私はフォーラムに書き込んだ。(同書, p.34-35)

著者は,授賞式や前後のマスメディアの取材に対して,小説の主人公と類似の障害を自ら晒すことで読書という行為を支えてきた「健常性」が無意識の差別となっていることを訴えた。それは,2019年6月成立の「視覚障害者等の読書環境の整備の推進に関する法律」(通称「読書バリアフリー法」)が,障害の有無に関わらず、すべての人が読書による文字・活字文化の恩恵を受けられるようにするとしたことへのアンチテーゼでもあった。新法で目標とされる「読書のバリアフリー」は特定のタイプの障害への対応とはなっても,読書行為において生じる多様な障害を救うものとは必ずしもならないからである。

図書館(公立図書館,点字図書館)もかねてより「障害者サービス」を実施することによって自覚的に読書のバリアフリーに取り組んできた。とくに視覚障害者のための点字資料や録音資料,大活字本,拡大読書機の提供や,対面朗読サービス,DAISYやサピエ図書館などの電子的な仕組みを提供してきたが,これらで「健常性」との格差を埋めることはできない。5つの健常性のどれもが当たり前としてきたものの一つか二つに対して手を差し延べるくらいしかできていない。それどころか,著者は主人公に次のように語らせている。

5000円以上する専門書だろうが,新品が流通していれば私は新品の本を買う。図書館の本は汚くて触れないし,そもそも図書館に行く体力もない。(同書, p.43)

図書館の本を利用することはそこに行って手に取って借りてくるという行為を前提としているのに,どちらもできないという。行くことについては何らかの対策はあるだろうが,汚くて触れないということについてはどうしようもないが,これは電子書籍の可能性を訴える伏線でもある。

博物館や図書館や,保存された歴史的建造物が,私は嫌いだ。完成された姿でそこにある古いものが嫌いだ。壊れずに残って古びていくことに価値のあるものたちが嫌いなのだ。生きれば生きるほど私の身体はいびつに壊れていく。死に向かって壊れるのではない。生きるために壊れる,生き抜いた時間の証しとして破壊されていく。そこが健常者のかかる重い死病とは決定的に違うし,多少の時間差があるだけで皆で一様に同じ壊れ方をしていく健常者の老化とも違う。(同書, p.46)

ここに至って,主人公(著者?)が憎んでいるのが,古いものが時間を超える特性をもっており自らの身体が常に壊れやすいことにこれを対置していることが分かる。図書館の本が汚いというのも,古さのマイナス面を象徴的に示そうというものだろう。著者は,その意味で電子書籍は福音であり,だが,文芸でも学術でも多くの著作が電子的に流通していないことを問題だと発言している。(NHK「バリバラ」2023年7月28日 愛と憎しみの読書バリアフリー)その主張は,自身が他方で特定の文芸作品をテーマに学術論文を書いていたことに関わる。彼女にとって,論文を書くに当たり参照すべき資料がすべて電子的に提供されることが必要なのだが,必ずしもそうなっていない。

彼女の訴えの正当性を認めた上で,ここで敢えてこれを拡張する議論をしてみよう。それは,デジタル化が唯一の解決策であるという誤解を避けたいからである。先の5つの読書の健常性である「目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること。」これらを前提とした社会は確かにある種の身体障害をもつ人にとって超えにくいバリアになっている。しかしながら,読書のバリアフリーは電子書籍を整備することで解決するのだろうか。電子書籍化が進まない理由としていくつも挙げることができる。まずは,著作(権)者や出版者が積極的にデジタル化を推進しなければ進まない。また,これを図書館などの公的費用で提供するためには,従来の紙資料が定価販売を前提としていたのに対して,紙資料の2〜3倍の価格設定で提供しなくてはならないが,その財源をどうするのかの議論が不足している。

そうした流通や経済面の問題を解決しなくてはならない。点字図書館も含め図書館が行う障害者サービスは公的仕組みで可能な範囲で実施されている。近年,学術論文のオープン化が進み,国会図書館デジタルコレクションが充実している。これはあらゆる人にとって朗報であり,そうした仕組み外にある比較的新しい本の電子図書館的仕組みや地域資料や郷土資料のデジタル化は図書館の大きな課題になりつつある。

だが読書のバリアフリー問題は,そのような制度や仕組みの問題を超えて,文芸とか学術とかを支える前提に本質的な問いを突きつけ,解決することが要請されているととらえるべきではないか。つまり,バリアーはもっと多様に存在し,その解決法ももっと多様なのではないか。たとえば,ディスクレクシアの人はどうなのか,日本に住んでいる日本語を母語としない人はどうなのか,生まれてまもなくスマホとかタブレットの動画やゲームがお守り役となって育てられた子どもはどうなのか。

要するに現代社会においてリテレートであるために必要な条件は何なのかという問いが浮かび上がってくる。あるいはリテレートであることが本当に必要なのかも含められる。ネットリテラシー,メディアリテラシー,科学リテラシー,医学リテラシー,経済リテラシー等々の重要性が説かれる。しかしそれ以前に,読み書き能力と呼ばれるもともとの意味のリテラシーそのもののとらえ方すら,一様ではなくなっている。

最近,今井むつみ, 秋田喜美著『言語の本質-ことばはどう生まれ、進化したか』 (中公新書)が話題になった。乳児が生まれてまもない時期に発するオノマトペに対して,母親や周囲の人がどのように応えるかが言葉の獲得に大きな影響を与えるという話しである。かつて「文学国語」と「論理国語」を対立的にとらえる議論があった。市川氏の問いかけはすでに一定のリテラシーを獲得した人のものであって,現実にはリテラシー自体の獲得が危うくなっている可能性があるし,その存立基盤である家族や社会,近隣コミュニティがきわめて多様化している。SNSで新しい言語環境がつくられると言われるが,電子書籍を読む行為と紙の本を読む行為は別物であり,その言語環境に本を読むという行為は位置付けられていないのかもしれない。読書のバリアフリーあるいはリテラシーという概念そのものが危うくなっているのではないか。

市川氏の問いかけから発して話しが拡がってしまった。彼女のように作家活動を中心にSNSも自らの発信手段として重視している人が,文学出版における新人の登竜門とされる芥川賞を受賞したことの意味は大きい。これは身体障害者が自らの障害に対するバリアフリーを訴える機会になるだけでなく,著作そのもの表出の仕方を通じて読み書きという行為そのものの現代的意義を考える機会になるのではないかと考える次第である。



2024-01-16

2023年の業績一覧(付:これまでの業績一覧)

2023年(暦年)に、次の文章を公表しました。

[図書]
『図書館情報学事典』(日本図書館情報学会編、編集委員長)丸善,2023.07. 
執筆項目 ①「データ・情報・知識」、②「アーカイブ」、③「レファレンス」、④「図書館情報学」、⑤「J. H. シェラ」、⑥「ポール・オトレ」、⑦「メディアとしての紙」、⑧「文芸共和国」、⑨「普遍図書館の夢」

[図書の一部]
「知は蓄積可能か:アーカイブを考える」『2022年度極東証券講座 文献学の世界 書物と社会の記憶』慶應義塾大学, 2023.05, p.99-115.

「図書館」日本文藝家協会編『文藝年鑑 2023』新潮社, 2023.06, p.61-63.

[学会発表]
「ナショナルアーカイブと地域アーカイブの間:図書館情報学における方法的検討」『日本図書館情報学会研究大会発表論文集』第71回 2023年10月07日 p.17-20.

[論文]
「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74, no.5, 2023.01,p.252-264.


「地域アーカイブの実践を福島に見る:集合的記憶をさぐるための方法的検討」『日本の科学者』vol.58, no.5, 2023年5月, p.4-10.

「文部省初代学校図書館担当深川恒喜の図書館認識」『図書館文化史研究』第40号, 2023,p.103-146.

「知のメディアとしての書物:アナログ vs.デジタル」『情報の科学と技術』73巻, 10号, 2023年, p.416-422.

[口述]
「日本図書館情報学会オンラインチュートリアル「学校図書館研究への新しい入り方」」日本図書館情報学会, オンライン, 2023年3月18日

SLIL講演会「学校図書館改革を戦略的に考える:探究学習、教育DX、情報リテラシー、読解力...」 2023年3月26日(日)

「アーカイブズ特集を終えて:補足とコメント」(平野泉、富樫幸一と)『日本の科学者』vol.58, no.5, 2023年5月, p.41-49

「図書館が地域アーカイブ機関であること」2023関東地区公共図書館協議会研究発表大会 山梨県立図書館, 2023年6月28日-29日

「北海道のアイデンティティを確認するための地域アーカイブという考え方」第63回(令和5年度)北海道図書館大会 2023年9月7日

「公共図書館の地域資料サービス:日野市立図書館の実践から考える」Jissen Librarianhipの会 特別シンポジウム 2023年9月30日

[その他]
「2022年読書アンケート」『みすず』65巻1号, 2023年1/2月号, p.31-32.

「伝統への真の理解とは」『図書館学教育研究グループ50周年記念誌』日本図書館研究会図書館学教育研究グループ, 2023, p.77.

「書評:W. A. ウィーガンド著 アメリカ公立学校図書館史」『図書館界』vol.75, no.4, 2023, p.269-270.

「日野市立図書館市政図書室とは何か:現代公共図書館論を考えるための一里塚」https://oda-senin.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

「資料保存をめぐって今思うこと」『追悼 安江明夫』編集発行 安江いずみ 2023, p.236-238.


2023-11-18

『市民活動資料』収集・整理・活用の現場から(追記11月25日)

 本日、「『市民活動資料』収集・整理・活用の現場から—法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズ、立教大学共生社会研究センター、市民アーカイブ多摩」に行った。一番印象深かったのは、なぜこれらの活動が2000年代に始まったのかという話しである。その後にNPO法人市民科学研究室の人たちとも話したのだが,次のような要因が複合的にからんでいるのではないかということになった。

1)1960年代の高度経済成長期以降の矛盾やそれへの対応を要求する運動が一段落し、当事者が亡くなったり世代交代したりしたこと

2)20世紀のうちは公的セクターがある程度対応したりもしてきた部分がNPMにより成果主義に陥り対応できなくなったこと

3)阪神淡路などの大災害に対するアーカイブ活動が注目されたこと

要するに,これらの資料は20世紀中盤から後半にかけての激動の時代に直接市民が経験したことを発信する行為が記録されたものだったが,作成されてからしばらくはそれぞれの発信元にあったりしたものがまとまってコレクションとなって寄託されたというものだろう。

ここで、2)について書いてみると、1972年に東京都立多摩社会教育会館で開始された市民活動サービスコーナーは2002年に廃止になり、収集されていた資料をどうするかということになった。しばらくの議論のあと,2011〜2012年に法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズに移された。一方,資料収集は市民グループの手で継続されており,それが現在「市民アーカイブ多摩」となっている。

この経緯について今日の議論では、「美濃部から石原へ」という言葉で表現されていた。都政のトップの考え方によって開始されたり廃止されたりした背景はそうである。しかし、そもそもミニコミやチラシ、パンフレットなどの市民活動資料は図書館においても重要な地域資料であるはずなのに、なぜ社会教育という枠内で扱い、図書館が対応できないのかという問題を感じた。本日の議論でも再三、図書館の役割を問う意見があった。

ただ、この場のやりとりを聞いていて、図書館がなぜこの種の資料に積極的でないのかの理由が分かってきた。それは、政治的イシューが背後にあったり、個人情報や人権問題などのセンシティブな情報を含んでいたりして扱いにくいと感じられるからだろう。もちろん、放っておいてひとりでに集まる資料でもないので何らかの働き掛けをしなければならない。その際に,当事者とどのような関係をとりつけるかでも難しい判断を迫られる可能性もある。今回の3つの団体の活動はいずれも過去にどこかで集められた資料を譲り受けたかたちで始まり、新規の資料受入れをしているのは市民アーカイブ多摩だけだった。つまり、ライブラリーよりアーカイブズの性格を強くしているように思われる。これだと、資料収集時の問題は比較的軽減される。収集と公開のあいだの時間的な調整を機関がコントロールできるからだ。

さらに考察を進めると、これらの活動が私立大学だったり、民間の団体だったりによって行われていることをどう考えるかである。都立多摩社会教育会館が「市民活動サービスコーナー」をつくっていた理由は,社会教育法に基づき地方教育委員会が社会教育団体の活動を支援する役割をもっていたことに関わる。そうした団体が発行する資料を集め,それを整理提供することでその団体間の相互交流をはかり,市民の自治意識を高めるというのが目的であった。ところがそこには都政に対する批判的なグループも含まれており,「石原都政」はそうしたところを支援することを避けたというのが言われている理由である。このことは,愛知県であった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由」展で展示物をめぐって,政治的な介入があり,中止に追い込まれたことと密接な関連がある。「アーカイブズ」は原資料であるからそれ自体の政治性がもともと高いのである。(このことについては別に論じたい。)

図書館だと資料収集の中立性というような概念があり,そのあたりのバランスをとろうとする。だから一方的な主張のものは入れないという判断が起こりがちである。しかし,社会教育だとそういうものもそれ自体が学習資料であり,社会教育を推進するものという考え方をしていた。その意味で,社会教育会館の閉館は政治的な決定であった。そして,それを引き受けるのが民間機関になるのは避けがたかった。逆に言うと,図書館はそうした政治的なところに踏み込まれることを避けて,最初から中立の立場を決め込みがちである。それはある種の保守主義であるが,(それこそ「図書館戦争」のような)状況をどこまで想定しているかが問われる。

ただそうした民間の機関は,必ずしも組織的財政的に安定的な基盤にはないことが見て取れた。実際、やりとりのなかからも十年後に存続しているかどうか分からないという声も聞こえてきた。これに対しては、違う論理を対峙させておくべきだろう。欧米のアーカイブズの作り方をみていておもしろいと思ったのは、資料コレクションの一部が市場に出て高く買い取られたり、途中で行方不明になったりしても、数十年後にどこかの図書館,博物館,美術館とか大学のコレクションにきちんと入っていて、だれでもがアクセスできるようになる方向付けがあることだ。このことは「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ:ニュートン資料を通してみる」(『アーカイブズ学研究』No. 37, 2022.12. p.4-18.)に書いた。(もう少しでエンバーゴが解除になる。)

以上のことについて日本の安倍=菅=岸田政権の状況下で、今後の見通しを語ることが難しいとは思う。都政も大阪府政も保守派の牙城として運営されている。しかしながら、ことアーカイブ関連については長期的にものごとを考える必要がある。ひとまず,江戸後期以降(あるいは中世以来)の「文明の進歩」については蛇行しながらも続いているという「啓蒙主義」の立場をとりたいと思う。(以上,11月25日に文体を変えた。ご容赦下さい。)

ーーーーーーーー以下,2023年11月25日追記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この会が終わって会場を出たところで手渡されたチラシが,新曜社から『社会運動史研究』というシリーズ本が出ていることを知らせるものだった。それがすでに5号出ていて,各号に「社会運動アーカイブズ インタビュー」が掲載されている。そこにはこのときに登壇した平野泉氏(立教大学共生社会研究センター)のものも掲載されている。前に,公害資料館ネットワークの存在が気になったこともあり,社会運動資料が話題になる背景に何があるのかとも思い,この本を見て,社会運動史アーカイブの議論が活況を呈していることを知った。

各号は次のようになっている。いずれも大野光昭,小杉亮子,松井隆志編,新曜社刊で,

1『運動史とは何か』2019
2『「1968」を編みなおす』2020
3『メディアがひらく運動史』2021
4『越境と連帯』2022
5『直接行動の想像力』2023

編者3人は歴史社会学や社会運動論を専門とする社会学者で,最初の号の編集の意図などを読むと20世紀の1950年代から1970年代くらいまでに世界中を襲った市民運動,労働運動,学生運動などを取り上げて再評価しようとしていると受け取れた。そのなかの各号では次のアーカイブズが紹介され担当者がインタビューに応じている。

1 エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)谷合佳代子氏
アナキズム文献センター 古屋 淳二氏

とくに2号に「1968」が取り挙げられているように,学生運動さらに絞れば日本の全共闘運動が重要な契機として取り上げられるとしている。2号にかつて全共闘の議長を務めた山本義隆氏が寄稿していて,小熊英二氏の『1968』(2009, 新曜社)に対して,事実誤認が多いこと,そしてその誤認が「現場」に踏み込んでいないことから生じていることなどを指摘している(山本義隆「闘争を記憶し記録するということ」)。これは同書の書評でも指摘されていたことである。同書および彼の他の著書も含めて,社会背景や歴史的な文脈を精密にとらえようとしても資料的な限界をいかに超えるかが問われる。あわせて,「運動」にコミットした人が生存中に,アカデミックな総括がどのようにすれば可能なのかが問われているように思われた。その際に,そしてそのために,ここにはその資料を集め保存し提供体制をつくっていくかが重要であるということについて,一貫した視点がある。つまりアーカイブ的な方法である。ここでアーカイブというのは,原資料や当事者の発言も含めてそれをどのように保存し,また,次の世代のリサーチや思想に活かすかということである。

山本氏らは当時の学生運動に関わった人たちから直接,ポスター,ビラやチラシ,機関紙・誌,写真,手紙,日誌,新聞や雑誌の報道記事などを集めた。また,それとは別に1968年10月8日の「羽田闘争」と呼ばれる運動の同様の関係資料を収集した。これは当時の佐藤栄作首相が南ベトナム政府訪問するのを阻止しようと羽田に集まった学生と機動隊が揉みあって,死者が出たという事件である。政府側が学生同士の暴力事件として処理したのに対して,実際には機動隊が警棒で殴ったのが致命傷となったというのが学生側の言い分だった。

こうして集められた資料(多くは手書きかガリ版刷りのもの)から電子コピーをとって整理して製本し資料集とした。東大闘争関係のものは

『東大闘争資料集』全24巻別巻5巻 マイクロフィルム5本, 1994

である。これは国立国会図書館に納本された。

また,マイクロフィルム3本と総目録が東京大学文書館と法政大学大原社会問題研究所,国立歴史民俗博物館に寄贈された。さらに,これらを再度スキャンし,新たな資料(そこには東京大学文学部図書室職員作成の「68年東大問題に関する新聞記事索引」234p.も含まれる)を加えて,2019年に

六八・六九を記録する会編『東大闘争資料集. DVD増補改訂版』

がつくられて配布されている。この資料集には収録件数5400点,総ページ数13000ページの資料が含まれている。

また,羽田闘争については同様に資料を集めさらには当事者からの手記を集めて次の資料集を作成し印刷刊行した。

10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった: 山﨑博昭追悼50周年記念』〔記録資料篇〕合同フォレスト,  2018
10・8山﨑博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった: 山﨑博昭追悼50周年記念』〔寄稿篇〕合同フォレスト,  2017

山本氏の論考によると,こちらの収集資料は国立歴史民俗博物館に寄贈されている。というわけで,このように東大闘争と羽田闘争に関するものについては,アーカイブズとその編集物が配布されて利用可能になっていることが分かる。ただし,東大闘争関係資料で配付されたアーカイブズはあくまでもコピーであって,原資料のコレクションがどうなっているのかについてはこの論考には書かれていなかった。

今,全共闘運動を中心とした1960年代後半の学生運動に関する運動史アーカイブの状況について見てきたが,これらが成立した条件はいくつもありうるだろう。一つは,当時の運動の当事者が積極的に発言し現在でも歴史的社会的意味を問い続けていること,また日本の高等教育の牙城である東京大学での運動であり注目されつづけてきたこと,さらには,先ほどの小熊氏が文献を中心に書いた『1968』に対して,編集委員の一人小杉亮子氏がインタビューによって『東大闘争の語り: 社会運動の予示と戦略 』(新曜社 2018)を書いてさらに方法的に新しいものを提示するということがあった。小杉さんが社会学の雑誌の書評に一連の資料の扱いとインタビューなどの方法についてまとめている論考「書評に応えて : 生活史聞き取りと予示的政治をめぐって」(社会学研究 104, 2020)があるのでリンクしておく。

筆者にとっても,原資料,その編集と資料集の出版,原資料のアーカイブズ,そして,資料集や原資料のメタデータのデータベース化などを考えるためにもさまざまな手がかりを与えてくれるものだった。この文章の前半との関係で言うと,図書館が政治的なものを避けようとすること,そして,政治的なアーカイブズでも資料集なりまとまったコレクションとして整理されることで,公的な機関としても受け入れやすくなることを示唆しているように思われる。





2023-11-15

国の学校図書館図書整備費はなぜ公立小中学校のみが対象なのか

Facebook上でSさんからのご質問があったのでお答えしました。 

Question:

うちの学生からのシンプルな質問です。

文部省(当時)が平成5年に示した「学校図書館図書標準」は公立義務教育諸学校に対してのものだったのだということですが、本来「学校図書館」とは小中高までの図書館を指します。義務教育ではないにせよ、なぜ高校には「学校図書館図書標準」のようなものがないのでしょうか?今後示される予定もないのでしょうか?

シンプルですが、確かになぜ?と言われると答えられません。どなたかわかる方、教えてください!

Answer:

これは,1993年に文部省が「学校図書館図書標準」を定めて「学校図書館の図書整備新5か年計画」を開始したときから,対象は公立の小中学校でした。なぜ高校が入らなかったのかについては,さらに遡って戦後の教育財政制度全体をみる必要があります。もともと,図書費は,義務教育費国庫負担法第3条に規定する教材費の規定と,学校図書館法13条の設備および図書が基準に達していないときに国が経費の2分の1補助するという規定に基づいて国が経費負担をすることになっていました。これがまもなく学校図書館法の規定の適用からはずれ,図書費は1958年から義務教育費国庫負担法のみの規定に基づいて国が補助することになりました。義務教育とあるように小中学校の経費を市町村ではなく国と都道府県が負担することを定めたものです。これに加えて,1985年から,義務教育費国庫負担制度から図書費を含む教材費が外され一般財源化しました。ここから地方交付税交付金のなかに含められ,図書費が交付税措置額どおりに使われていないという問題が生じています。1993年以降は学校図書館図書整備5か年計画によってさらに上乗せした額(現在第6次で単年度480億円)が地方交付税措置となっていますが,市町村のみが対象です。つまり国から市町村への財政措置に図書整備のためのものが含められているということです。

学校図書館法制定後最初の5年間は高校も対象だったはずですが,なにぶん予算が少額ですぐに打ち切られたのでほとんど効果はなかったと思われます。その後は,義務教育費国庫負担法に基づき市町村だけが対象の状態が,今に至るまで続いています。背景には,市町村の財政基盤が弱いので教育の均等化をはかるために,義務教育費を都道府県と国で負担することがありました。戦後のこういう問題を整理した論文(「戦後学校図書館政策のマクロ分析」)を書いたことがあるのでよろしかったどうぞ。また,このあたりは,松本直樹さんの「学校図書館費の負担変更にともなう影響に関する研究」(日本教育情報学会27回年会論文集 106 - 109, 2011)にまとめて書いてあります。

これに限らず,図書館政策について,実践報告を運動論的な観点でまとめるだけでは歯が立たないことは明らかで,このような財政や政策決定についての研究が欠かせません。教育学には,教育哲学や教育史,教育心理学,教育社会学などに加えて,教育行政学や教育法という分野があり,専門の研究者がいます。

2023-11-02

板橋区立中央図書館と区政会議資料の公開

公園と図書館

去る10月24日に横浜のパシフィコ横浜で開かれた図書館総合展でのARGのイベント「図書館×公園」でもっと考えたいことに出るために横浜に向かう途中に,池袋から東武東上線に乗って上板橋駅近くの板橋区立中央図書館に立ち寄った。ここが,最近できた,公園に面した図書館と聞いたからである。

駅から数分で公園に近づくとわあわあというたくさんの子どもたちの声が聞こえるのが新鮮だった。田舎暮らしの身では久しく体験できなかったものである。天気も上々で広い公園で遠足にでも来たのだろう,小学校中学年くらいの子どもたちが百人以上も元気に遊んでいた。近くの幼稚園か保育所の子どもたちも遊んでいる。(子どもを「元気に遊んでいる」と記述するのはステレオタイプかとも思うが,そのように表現せざるをえないような情景だった。)

講演の一角に図書館が建っていた。これも今風の建築でなかなかスマートで気持ちがいい。公園から図書館にすぐ入れて,中に入ると1階は公園側に張り出していて,ガラス越しにすぐ前から芝生が見え自然に公園につながる。

公園と図書館との組み合わせは確かにこういう部分で相性がいい。誰も拒まず何をやっていてもいい空間が連続的につながる。午後に対談したぎふメディアコスモスの吉成信夫氏が言う「図書館は屋根のある公園」という表現も自然に納得させられる。



2階も同じような展望のよいガラス窓が続いていて,そこではけっこう仕事をしている人もいた。窓の外側にはテラス席もあり,こういう晴天の日は気持ちがいい。


ただ,この図書館はメディアコスモスのようなワンフロアで広い空間が拡がるようなつくりではなくて,上に積み上がっている。1階には児童コーナーやおはなしの部屋以外に外国の絵本が揃っている「いたばしボローニャ絵本館」がある。

ボローニャは子どもの本の見本市が開かれるところで,そこから寄贈されたということである。また,1階の公園に面するところにはカフェがあるのはお定まりの構えとも言えるが,妙に嵌まっている。

2階と3階は大人向けの図書館スペースである。ここで目を引いたのは「インデックスコーナー」と天井からの吊りボードに書いてあるところである。図書館でインデックスと言えば「索引」のことだがと思って行ってもそれらしきものはない。そこのスタッフに聞いてみると,資料展示をしているところだと言う。どうもよく理解できないままに行ってみると,秋の食シーズンにちなんだ展示をしているということで,野菜や食品の見本品の展示があり,関連した本が置かれてあった。それにしても「インデックス」という言葉は何に由来するのだろうか。


区政資料コーナー

さて,3階だが,ここには地域行政資料のコーナーがあった。そこで,あまり見たことのない資料を見つけたのでここで報告しておきたい。それは,区政資料のところにあったもので,区役所の会議資料のリストと,会議資料の現物がファイルされたフォルダが並んでいる一画である。次の写真がそれである。


写真の上の段の左側にあるフォルダには次のような会議リストがあった。これは一部で,全部で106の会議がリスト化されている。番号は会議リストの番号と対応している。そして,会議名,設置の法的根拠,主管課,問い合わせ先,年間開催予定回数(開催時期)の情報が書かれている。

さらに下の段からずっと番号がついたファイルフォルダが並んでいる。フォルダには会議資料が綴じられているが,何もないものもあり,これは今年度の会議がまだ開催されていないものを指すらしい。フォルダのトップには,先ほどの会議毎に,資料名称,公表開始日,そして閲覧場所(区政資料室,図書館,主管課)というリストがある。閲覧場所は○がついているところで閲覧できるという意味らしい。

公立図書館で,区役所の会議全体を把握し,その資料を収集しているという例を聞いたことがなかったので,さっそく,そこのレファレンスでどういう性格のものなのか尋ねてみた。いろいろと館内職員のあいだで確認していたが,結局のところは分からないということだった。要するにここは指定管理で運営しているのだが,(分担は不明だが)区の職員も運営に参加しており,この資料についてはその職員に聞かないと分からないということだった。

後日,その職員から連絡があって話して分かったことは,この資料はかなり前からこのようなかたちで図書館で収集し,リストも図書館で作成しているということである。ただし,1年過ぎたら廃棄することになっており,保存資料にはなっていないらしい。こうした活動がどのような経緯で始まったのか,資料収集にあたってどのような連絡や広報をしているのか,作成部局は協力的なのか,保存は原部門でするのだろうが,なぜ図書館でしていないのか,公文書公開制度との関係などの疑問をぶつけたかったが,電話でのやりとりだったので,後日,調査することにした。

ということで,横浜に行く前の回り道だったが,大いなる収穫があった。最近,関西を中心に行政資料や行政情報に対する関心が高まっているように見える。前のブログでも触れたカレントアウェアネス(No.357)の竹田芳則「自治体発行オンライン資料の収集:近年の公立図書館の取り組みを中心に」の記事などである。オープンガバメントに向けての動きとして,図書館としてこういう実践もあるのだということをここに記録しておきたい。







探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...