2020-03-24

PISA 2018, コンピテンス, そして「翻訳」

以下は、雑誌『みすず』2020年1月/2月号に寄稿したものです。

 「2019年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

PISA2018で日本の子どもたちの読解力がまた下がったと大騒ぎである。また、大学入学共通試験実施に関して、英語の4技能試験や記述式試験の導入を先延ばしにするというニュースがかけめぐっている。そこで問題になっているのは「公平性」である。しかしながら、試験における公平性とはなんであろうか。そこでは社会的、経済的な条件が違っても受験者が臨む試験は唯一無二の神聖な競争の場であり、同じ条件が確保されなければならないという規範が覆っている。試験は差別化のための方法なのだからそれ自体が形容矛盾であり、すでにある「公平な」条件が一人歩きしていることは明らかである。

改めて、渡辺雅子『納得の構造:日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社, 2004)を読み返し、20世紀の日本の教室では子どもたちの自然な発話と共感とが最大の価値であったことを確認した上で、福田誠治『ネオリベラル期教育の思想と構造:書き換えられた教育の原理』東信堂, 2016)を読むと、21世紀になって急に前面に現れたOECDのPISAが追求しているものが、グローバライゼーションに基づく自由主義的競争の下で賢く振る舞うことのできる能力(コンピテンス)であり、この数十年で生じた両者の違いがひしひしと感じられる。受験期の子どもたちはそのギャップを一身に受け止めざるをえない。

今回、文科省の関係者は、高大接続を合い言葉に入試改革を梃子にして念入りに準備をしたはずなのだが、最後は拙速になった 。おそらくそれは、江戸から明治の移行期に、西欧諸国に範をとって、法制度や行政の仕組み、科学技術や学術その他国のインフラになるものすべてを導入しようとしたときに、新しい言葉とともに、概念や言葉に付随するもろもろの制度・文化を無理矢理導入したときに始まったのだろう。「翻訳」が単に二つの異なった言語間の対応関係にとどまらないことは、近年のトランスレーション・スタディーズが示している。長沼美香子『訳された近代;文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版会, 2017)は、明治政府が辞書編纂を通して対応づけを行った記録を分析したものである。ここまで遡らないと、日本の急ぎすぎた近代化が教育にもたらした負の遺産は明らかにできない。そして教育や文化が時間の関数であることを改めて確認したい。

なお、私の専門分野では、デビッド・ボーデン/リン・ロビンソン(塩崎亮訳)『図書館情報学概論』勁草書房, 2019)が出て、他分野からの見通しがつきやすくなったことを報告しておきたい。

2020-03-04

『レファレンスサービスの射程と展開』の刊行


暗い話題ばかりの昨今ですが、少し前向きの(?)話題を。

日本図書館協会から『レファレンスサービスの射程と展開』という本が出ました。












































この論集は2018年3月に逝去された故長澤雅男教授の教え子に当たる人たちを中心として、「レファレンス」をテーマに一冊にまとめたものです。レファレンスというともう古いとか、ネットで代替できているという反応が一般的です。論集でも少し触れられていますが、むしろ「レファレンスって聞いたことがない」「リファレンスというのが正しいでしょう」という人も少なからずいます。そういうなかで、図書館員が自信をもってレファレンスサービスを実施できるようにという思いを込めて、研究者がその重要性を理論的、実践的に明らかにしたものです。

日本の図書館界でレファレンスサービスといえば、第二次大戦後の占領期にアメリカ図書館学の影響を強く受けて導入されたものと考えられています。図書館界では志智嘉九郎の神戸市立図書館での実践がよく知られていように、1950年代60年代には図書館員の専門性を示すサービス戦略としても重要視されていました。しかしながら、その後は知られているように「資料提供」を中心とした人的サービスを前面に出すことでレファレンスはサービスを支える一要素として背後に置かれたとみられています。さらにはネット社会の到来とともに、サーチエンジンやSNS、Wikipedia、 Q&Aサイトで大方の疑問は解決するし、図書館での検索もWebOPACがあれば十分となっています。それとともに質問件数も減りました。

では、レファレンスサービスの重要性は下がったのでしょうか。この本ではむしろネット社会の普及によって日本人が初めて、外部情報源の存在を知ることができるようになったという立場をとります。そして外部情報源(というのはむろん図書館資料も含みます)へのアクセスも含めた情報アクセス全体を考えるのが図書館のレファレンスであり、その意味では課題解決サービスも、展示やイベントも、ビブリオバトルも、読書相談も、ネットでの情報発信もすべてレファレンスと捉えようというものです。そのため扱っている内容は多岐にわたっていて、一方では、知識哲学や記号論を援用した議論があり、 他方では、情報システムの解説や情報を知識として扱うための手法の説明、さらには図書館でのレファレンスサービスの運営法や情報リテラシー教育についての議論があります。


『レファレンスサービスの射程と展開』(根本彰・齋藤泰則編)

Ⅰ部 理論・技術
1章 知識の論理とレファレンスサービス (明治大学文学部教授 齋藤泰則)
2章 レファレンスサービスの要素技術 (筑波大学図書館情報メディア系准教授 高久雅生)
3章 レファレンスサービスの自動化可能性(南山大学人文学部准教授 浅石卓真)
4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)

Ⅱ部 情報資源の管理と提供
5)章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界 (慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子) 
6章 知識資源のナショナルな組織化 (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)
7章 パーソナルデジタルアーカイブは100 年後も「参照」されうるか(聖学院大学基礎総合教育部准教授 塩崎亮)
8章 『広辞苑』に用いられた媒体の移り変わり (鳥取大学講師 石黒祐子)
    
Ⅲ部 図書館レファレンスサービスと利用者
9章 日本のレファレンスサービス 七つの疑問(慶應義塾大学名誉教授 糸賀雅児)
10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)
11章 米国の大学図書館界における教育を担当する図書館員に期待される役割と能力の変化(帝京大学高等教育開発センター准教授 上岡真紀子)
12章 探究学習における学校図書館の役割(京都ノートルダム女子大学国際言語文化学部教授 岩崎れい)

私が書いた序文を読めるようにしておきます。
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序文

17世紀バロック期に微積分学の基礎をつくった万能の天才ライプニッツはハノーバー宮廷の司書を務めていた人である。彼が構想した「普遍百科事典」は今インターネットとGoogleの組み合わせとして実現されようとしている。というのは、Googleはそもそも開発者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジによって、所属していたスタンフォード大学のデジタル図書館計画として構想されたものに起源があるからだ。「ページランク」と呼ばれるその検索アルゴリズムは、被引用回数、引用メディアの重要性、引用者の重要性など学術論文評価システムの考え方をそのまま踏襲していた。インターネットが検索エンジンと組み合わされて普遍百科事典あるいは巨大な図書館となっているというのは、単なる隠喩ではなくて、実際にそれを実現しようという構想からスタートしているのである。 これにより、 図書とその他の情報源の区別をするのが難しくなっている今日、何を調べるのにもまずGoogleを検索するのが日常になっている。

続く

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論集のなかで私が注目しているおもしろい論文を2本紹介しておきます。

 5章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界(慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子)

橋詰さんは 、IFLA LRM(図書館参照マニュアル)を中心とした、書誌記述の新しい動向を研究した論文で慶應義塾大学で博士号をとりました。LRMのRはReferenceのことで参照と訳されています。参照とは何であるのかは、私が書いた4章「レファレンス理論でネット情報源を読み解く」の中心的テーマですが、IFLA LRMでは従来の書誌記述が著作の標題紙にあるようなデータに加えて内容を概括的に把握した主題や分類記号を付与するのにとどまっていたのに対して、著作がもつ内部構造や他の著作ともつ関係を記述する方向に向けて踏み出しています。これまでも著作と著作との関係は版や翻訳、シリーズものなどで表現されていたわけですが、さらには、原著作の解説書やインスピレーションを受けて発展させてできた著作(翻案)、映画やコミックなど同じ原作をもとにするものなどの多様な「関連」が表現できるというものです。書誌や目録の世界とレファレンスの世界が思いのほか近いことがわかります。

10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)

福永さんのこの論文は、読書相談サービスがレファレンスサービスの一部なのか、別物なのかという、かつてあった議論を受けてこれを厳密に検討しようとしたものです。その際に、レファレンスサービスは回答するにあたって典拠(情報源)を示すことが必要となる のに対して、読書相談は相談員自体のもつ専門的知識が回答の根拠になることが求められると述べられています。これは第1章の齋藤泰則さんの議論や第4章の私の議論で、レファレンスサービスが成立するためには何らかの「権威authority」に寄り添う必要があり、その権威は一つには典拠とするレファレンスブックやレファレンスツールにあるが、もう一つはそれを使うための図書館員のスキルにあるとしていることに関わります。読書相談において何らかの図書の推薦を求められた場合に、やりとりによって当該相談者がどういう人であり、何を求めているのかを理解することに関してはレファレンスサービスのスキルと同様のものが求められますが、その後はレファレンスサービスではツールをもとに回答を出すのに対して、読書相談ではツールから相談者に適合するものを選択するという行為が必要になります。この行為のトレーニングができるのかどうかについて、選書、調査業務、児童図書館員の行為などを参考にしながら論じています。

以上の2本は、著作と著作との関係や著作と人間の関係に関わる問題を扱っていることは明らかであり、レファレンスサービスはすぐれて応用知識学と呼べるような領域をカバーしていることに気づきます。1章、4章は知識それ自体の在り方を議論しているものです。こちらにもチャレンジしてみてください。





2020-02-11

iPad Mini+キーボード(携帯用の文字入力機・続編)

この記事は2019年4月20日のブログから継続している。

今の学生はスマートフォンで配布された教材を読み、また、入力もスマホですませる。しかしこの歳になると小さな字を読むことがつらくて、とてもスマホを文字入力の機械として使うことはかなわない。前から、通勤途上で使う軽くて入力しやすい端末機を試すことが課題であった。

紆余曲折の後、昨年の4月にはポメラDM200という文字入力機で再度、落ち着こうとしていたことは報告した。ポメラは文字入力に特化した携帯機器で確かに小さくて軽く持ち運びがしやすいし、何より、開くととすぐに入力を始められる簡便性がよかった。ATOKが搭載されていて文字入力も快適である。けれども問題はそこで入力したテクストをPCに取り込んで使うための連携性である。PomeraSyncというファイルを同期するためのソフトやBlueToothやWifiで送信することがうたい文句になっていた。

しかしながら、使えない。入力してから同期するために一手間も二手間も必要になる。この機器は文字入力専用機であるから価値があるというファンが多い。ネットに接続されているとすぐにネット検索をするのに気が散るというのだが、私にとってはネット接続は必要であり、また、ファイルが他のPC等とすぐに同期することが重要なのだ。

実は、ハードウェアの進歩ばかりに気をとられているうちに、ネットワーク技術が飛躍的に進展していたことにあまり気づかないでいた。このあたりについて詳しく書く必要はないだろう。要するに、PC、タブレット、スマホを結びつけるクラウド型ネットワーク技術によって、ファイルの同期や文字入力環境が飛躍的に向上していたことを知らないでいたのである。

昨年春に、iPad Miniを購入した。これは8インチ弱で重量300gの小さな筐体だが一通りのタブレット機能をもっている。タブレットとは小さなPCであり、入力こそ画面上のインターフェースによるが、それ以外はMacに準じる働きをするというものだ。これを試してみようと思った。ただし、最初はポメラに置き換えて使うつもりはなかった。何よりもキーボードがないから文字入力には不利だと考えていた。また、以前からタブレットとキーボードを組み合わせるやり方があることは知っていたが、立てると不安定で膝の上での安定した入力には向かないと思っていた。

だが、導入してみてまずiCloudでファイルを同期できることに気づいた。これが最初の設定を行えばかなり楽なのである。Macが自宅と研究室にあるのだが、ファイルをクラウド上にフォルダ構造をつくりファイルを読み書きすればそれがそのままどちらからでも読み書きして修正できる。これは2011年からサービスが始まっていたらしいのだが、そういう使い方はしておらず、USBでファイルを持ち歩いていた。何よりも自分のファイルをネット上に置いておくということの不安が先立って積極的にやろうと思わなかった。しかし、考えてみればUSBという物理的なファイルもなくしたり、破損したりという危険性と隣り合わせであり、どちらがいいと一概に言えないところがあったことも自覚していた。

この際ということで自宅のMacを最新のものに入れ替えたついでに、iCloudを全面的に導入したところ、これが使いやすい。現在ではUSBによるファイルの持ち歩きはやめてiCloud上のものを読み書きしている。さらに、カレンダーとメモもiCloudを使い始めた。カレンダーについてはずっと手書きの手帳を使ってきたのだが、2019年にはiCloudと手書きのものを併用し、2020年から手書きをやめた。これもどこかから入力したらそれがすぐに反映されるので便利だ。ただし、スマホについてはAndroidを使っているので連携に問題があった。AndroidでiCloud上のカレンダーを読み書きできるソフト(SmoothSync)を導入していたが、今はGoogleCloud上のカレンダーに切り替えている。これはGoogleの方がカレンダーとリマインダーなどを一つのアプリ上で実現しているので使いやすいからだ。メモは、iCloudのものを使っている。これはシンプルで使いやすく気に入っているからだ。Androidでメモを使うことは諦めている。

さて、いよいよiPad Miniの話しだ。教材提示など仕事上の必要から買ったのだが、同時にプライベートも含めた入力端末として使えるかどうかが問題だ。そこで、キーボードとの組み合わせを再度検討してみたところ、思った以上にいろんなタイプがあるし、価格が下がっていることに気づいた。そして購入したのが、Mini本体を差し込んで二つ折りにすればPCのように使えるキーボードである。ただ物理的に差し込むところがミソで、きわめてシンプルな仕組みだ。キーボードの重さは220g程度で、Miniと合わせると500g少しになる。これは現在キーボードを使える機器の最小重量だろう。Miniの方が重いから開くと不安定になるかと思ったが、そうなるぎりぎりのところ(確か130°)までしか開かず、絶妙なバランスで設計されている。
Arteck超薄型Bluetoothキーボード

この写真はAmazonにある商品写真であるが、ほぼこれと同じように使えている。これを見ると小型PCに見えるが、確かに使い勝手はPCそのものだ。Miniそのもののサイズが小さいから、キートップが小さいことはやむをえないが、それほど違和感なく使えている。通常は二つ折りにしていてそのまま鞄に入れておき、出して開きMiniのボタンを押すとすぐに使える。キーボードとMiniの接続はBluetoothによる。たまにその同期が悪かったりすることがあるし、また、キー入力に関して何かののタイミングで入力されずにやり直すことがあるが、まあ使えるレベルかと思う。

ということで、ここ数ヶ月はこの機器を持ち運びして入力に使用している。なによりも軽さと、開くとすぐ使える使い勝手のよさがある。手帳替わりにメモやカレンダーを使えるし、iPadとして使うときには横向きで立てることができるから、ネット検索や映像・音楽の視聴も問題ない。PDFファイルの文書にタッチペンを使って添削するというような場合はキーボードをはずして使う。当面これで行けそうだが、このブログを前から読んでいる人は、この筆者は移り気だからまた他のものに移るだろうと予測するかもしれない(笑)。

私の執筆活動は最初の卒論、修論までは手書きだったが、1980年代になるとすでにワードプロセッサの時代になって以来、いろんなハード・ソフトを試してきた。移動用の機器の快適さを求めるなどは当初望めなかった贅沢な話しではある。ただ、最近は、そうしたテクノロジーの問題以前のことに関心が移っている。それは、日本語入力に漢字かな変換がある限り、欧米のアルファベットのブラインドタッチは望めないわけで、それが日本語の入力に大きな影響を与えているということが一点。それから、そのことは日本語が漢字とかなを組み合わせた(和漢折衷の)ハイブリッドの記号体系を基盤にしていることを意味し、これが日本人の知的生活にいろんな影響をもたらしているということがもう一点。こうした問題も今後考えていきたい。







2020-02-03

延期になりましたーシンポジウム「近代日本の知識資源システムー図書館、出版、アーカイブの観点から」


このシンポジウムは延期になりました。(2月27日)





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会場が同じ校舎の524教室に変更になりました。(2月14日)

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3月21日(土)午後に公開シンポジウムがあります。

何とも大げさなタイトルと思う方も多いでしょうが、けっこう本気でやろうとしています。なぜこんなことを考えたのかはそのときにお話ししますが、入試改革や公文書の取り扱いで今炙り出されるようになっている問題は、日本の近代化の制度設計にあったある種の偏差がもたらしたものというのが基本的な問題意識です。今後継続して行う共同研究の出発点にあたります。

 今回、日本の出版の事情にお詳しい上智大学の柴野京子さんと日本の政治思想史がご専門で公文書の問題にお詳しい筑波大学中野目徹さんのお二人にも登壇いただき、皆で議論をしたいと思います。

近代日本の知識資源システム

―図書館,出版,アーカイブの観点から―

  • 開催趣旨
  • 幕末期から明治期に時代が移ってゆく中で、政府によって、またそれ以外のルートの影響も受け、日本における知識、それを用いるためのメディア(知識資源)、そしてそれを蓄積、流通させるためのしくみ(知識資源システム)のありようは大きく変わっていった。本シンポジウムでは、(1)明治期になって知識資源システムがどのように変容していき、(2)それが現代に対してどのような影響を与えたのかについて、アーカイブ、出版、そして図書館という3つの分野を中心に見て行く。それぞれの分野のエキスパートとして、アーカイブ:中野目徹、出版:柴野京子、図書館:根本彰の3氏を招き、それぞれの分野について発表をいただき、その後パネルディスカッションを行う。

  • 日時:2020年3月21日(土)14時〜17時(開場13時30分)
  • 場所:慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎524教室  https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html (キャンパスマップの5番の建物)
  • 参加:無料。ウェブから事前にお申込みください。https://forms.gle/7TtVPitG1K5yV8SQ9
  • 主催:知識資源システム研究会
  • 後援:日本図書館協会,三田図書館・情報学会
  • プログラム
  • 最終講義:根本 彰(慶應義塾大学文学部教授)
    「図書館情報学の新たな射程:知識資源システムの提案」
  • 報告1:柴野京子(上智大学文学部准教授)
  • 報告2:中野目徹(筑波大学人文社会系教授)
<休憩>
  • ディスカッション
司会:河村俊太郎(東京大学大学院教育学研究科准教授)




2020-01-27

三田図書館・情報学会月例会「教育と図書館との関係を考える」(改訂版)


三田図書館・情報学会月例会(202021日(土) 慶應義塾大学三田キャンパス)のために用意した原稿をアップする。A4で8ページあり、今後これをもっと展開する予定であるが、現時点で一区切りのものをお示しする次第である。(2月9日改訂)


内容的には、西欧の情報哲学と図書館理論が密接なかかわりをもつことを示した上で、西欧から移入された図書館が日本でうまくいかない理由は、知識をどのように獲得するかの考え方が大きく違っていたことにあったと論ずる。現行の教育改革に抵抗が大きいのは、拙速に進めたことの問題である以前に、知識の獲得方法が社会成立の根幹にかかわることであり、明治から100年以上かけてつくられたものを容易に修正できないことを意味する。


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教育と図書館の関係について考える


       慶應義塾大学文学部 根本彰

1    はじめに
『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』の2冊の本に取り組んでみて、図書館の問題を図書館の文脈だけで考えても非力だと思えるようになった。また、図書館情報学がもともとアメリカのプロフェッショナルスクールから来ているものであり、アメリカ社会特有の状況を離れないと理論化は難しいと考えるようになった。これはとくに情報行動や制度にかかわる領域でそうである。また、その際に知をパッケージとして扱う従来の図書館情報学の方法では限界があることは明らかである。本日は、教育と図書館の関係を情報の哲学の理論を用いながら議論することで、この問題の一つの展開可能性をお話してみたい...

<以下リンクへ>

2019-12-27

私見:公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」

11月30日(土)に慶應義塾大学三田キャンパスで、公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」が開催された。これについて主催者として報告しておきたい。

まずは、登壇していただいた4名のコメンテーター、司会の河西由美子さん、事務的なことを一切していただいた吉澤小百合さんをはじめとしてスタッフの方に感謝申し上げたい。当日の来場者は81名だった。当初は90名が座れる教室だったが、そこに50名以上入るとけっこう息詰まる感じになることは経験しているので、ずっと大きな部屋に移ったのだったがそれは正解だった。

正式の報告については同じブログで公開しているので、ここでは私の立場からの報告をしておきたい。まず、テーマの説明に拙著のタイトルが挙げてあるように、当初、拙著の合評会というような性格のものにしたいと考えていた。それは私自身が『情報リテラシーのための図書館』と『教育改革のための学校図書館』と2冊の本を書いて、いちおうの区切りをつけて次の課題に移るときに、ここ数年でやったことについて外部評価的なものがあった方がいいと感じたからである。

それをコメンテーターにお願いしたつもりではあったが、本書についての批評的な発言はほとんどなかった。むしろ、本書で記述されていることを出発点にして学校図書館について議論するというような感じに展開した。公開の場での批評というのは昔あったものだが、今はあまりはやらないということがひとつはあるだろうが、もう一つには、本書がきわめて多面的なことを述べているので個々の部分についてのコメントはできても全体を評価することは難しいということはあったかと思われる。とくにコメンテータ個々の持ち時間が15分しかなかったから、十分な議論することは難しかった。その点で、溝上慎一さんにはせっかくスライドを20枚以上ご用意いただいたのだが、かなりはしょって話されたのはもったいなかった。別の機会にゆっくりとお話しいただければと思っている。

コメンテーターは、学校図書館に近いところで活動している稲井達也さんと高橋恵美子さん、そこから少し遠い教育畑の研究者である勝野正章さんと溝上慎一さんの二つのグループに分けられる。学校図書館関係者からはそれぞれのお立場からの率直な現状認識と今後の在り方へのお話しがあった。また、教育学に関わるお二人からは教育現場の困難さが指摘され、しかしながら改革が必要であり学校図書館は重要な場となるというコメントがあった。

多くの参加者は教育学のお二人が何を発言するのかに期待と不安とをもっていたと思われる。だが、あまり踏み込んだ話しがあったわけではなかった。また、その後の質疑応答においてもどちらかというと一般的な議論で終わった。だが、一回だけ緊張が走った場面があった。それは、学校図書館がどのように情報リテラシー教育に関わるべきかという質問が溝上さんに振られたときである。いきなりだったこともあり、少し間を措いてから、ご自分が前に所属していた大学で図書館職員が行っていた情報リテラシー教育の実効性に対して疑問が発せられた。せっかく情報リテラシー教育に熱心に取り組んでいるが、それは学生にとって学習効果はあまりないと理解しているように聞こえた。ただ、それ以上の議論はなく終了した。

教育と図書館が交わる部分をどのように教育者がとらえているかがちらりと見えた瞬間だった。もちろん個別のケースに基づくものではあるが、このような見方は比較的図書館に理解がある教育者からも寄せられることがある。

司会の河西さんがアメリカの例を出していた。アメリカの大学は日本よりはるかに図書館員を専門職として位置づけしてきたが、それでも情報リテラシー教育の在り方については、今もって議論は継続されている。拙著で触れた教育の構成主義を前提とした図書館サービスとは、要するに、教育の場は学習者が自分で学ぶことで成立し、その際に学びの素材を入手することについては教員だけでなく図書館員が関与することが当然のものとなっている考え方に基づく。そうした構成主義を前提とした制度化をしてきたアメリカの大学図書館ですら、情報リテラシーの概念を巡って教育と情報利用のあいだでどのように線引きするかについての長い論争があることは上岡真紀子さんが一連の論文で紹介している。

おそらくは探究的学習と図書館を安易に結びつけることはやめた方がいいのだろう。確かに、図書館を使った学習、図書館の資料やデータベースを使った学習、ネット上の学習資源に対して組織的にアクセして探索する学習など図書館員の手法に近い部分を生かした学習はある。しかし、探究的学習は、図書館関係者のいう文献資料による調べ学習だけでなく、いわゆるアクティブラーニングということになるときわめて多様なものを含み、他方では本格的な学術研究に近いものまできわめて多様なものを含むことが知られている。学習者が自分で知の構築をすることについて、ヴィゴツキー、ピアジェ、ブルーナーをはじめとして、認知科学や教育心理学をベースにしたアクティブラーニングやメタ認知、学習共同体等々の研究の蓄積がある。図書館が関わる学習が多様な探究的学習の一部にすぎないのか、それとももっとも基本的なものであるといってよいのか、そのあたりを教育学的な知見も交えてもっと追求する必要があると感じた。

なお本シンポジウムは、日本学術振興会科学研究費補助金19K12721に基づいて実施したものである。そのテーマは「「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究」というものである。私の発言のなかでも、国際バカロレア(IB)を採用した学校では探究的学習が中心であると述べた。そして、IB校では図書館の整備は必須の事項となっている。そのなかでTOKは高等学校レベルのIBの中心科目である。つまり、図書館を用いるIBのカリキュラムの中心科目を見ることで、IBでは図書館をどのように位置づけようとしているのかを明らかにしたいというのがこの研究の目的である。いずれ成果が出たらまた報告したい。、

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...