2017-09-02

磐梯山の思い出・立体地図の楽しみ

小学校の夏休みの思い出の一つに裏磐梯でのキャンプがある。福島県いわき市(1966年までは平市)で小学校時代を送ったが、夏になると中学校教師をしていた父が指導していたブラスバンド部の夏合宿に家族を連れて行ってくれた。キャンプ場は決まって同じ県内の裏磐梯桧原湖に面した岬バンガローであった。今はもうないが、この夏に裏磐梯に車で行ったら行き先案内の目印にこのキャンプ場の名前が残されていて、懐かしい気がした。

裏磐梯は会津磐梯山の北側に当たり、磐梯高原とも呼ばれている。久しぶりに訪れたら、高原型リゾートとして大手の資本も入り開発されていたが、ところどこに昔の面影が残っていて興味深かった。なによりも自然の景観はそのままで嬉しかった。たとえば、五色沼という沼がある。蔵王の五色沼は一つの沼で時間帯や見る角度によって色が変わるのでこう呼ばれるが、ここの五色沼は複数の連続した沼がそれぞれに微妙に色を変えて並んでいる。小一時間のハイキングコースだが、緑の木々のあいだに緑や青の水面が見えて気持ちのよい散歩道になっている。これは昔とまったく変わらない。

五色沼の一つ瑠璃沼(写真)
青沼(写真)

ここにある湖沼群は、1888年(明治21年)に磐梯山の噴火があり、その際に川が堰き止められてできたものだ。写真の後ろに山が見えるが、雲に隠れてよく見えない右側の峰が大磐梯で左側は櫛ヶ峰と呼ばれる。実はこの峰の間に小磐梯(こばんだい)という峰があったのだが、それが水蒸気爆発と呼ばれる噴火をきっかけにして山崩れを起こして、麓では多数の死者が出る大災害となった。山体がなくなる噴火は珍しく、当時、国内はもとより世界的に報じられたことは、北原糸子『磐梯山噴火:災異から災害の科学へ』に詳しく紹介されている。

残された噴火口付近には、赤い色をした岩の間に銅沼(あかぬま)と呼ばれる酸化鉄を含む赤い水が溜まり、まわりにところどころ噴気が出ていて不気味な感じだった。ところが、その水が流れて込む五色沼は青系統の色となっている。不思議なのだが、土に含まれている鉄分は赤みをもつが、アルミニウムや珪素が化合した成分は青色をもたらすそうだ。これらの色は山体に含まれている金属成分によって表現され、普通なら別の化学反応を起こして目立たないものが、爆発によってそのまま地表面に出てきたことによりもたらされたものであるらしい。

子どもの頃から、磐梯山が表側からみると会津富士などと呼ばれ優美な形をしているのに、その裏側のキャンプ場からみる磐梯山の山体が二つの峰から成り、その間に噴火口があることに何となく不思議な感じをもっていた。

猪苗代湖上空から見た磐梯山(写真)

しかしながら、最近、3Dの地図表現が可能になったことで、表と裏の見え方の違いが直感的にわかるだけでなく地形図と対比できるようになってきた。次の図は、国土地理院がネットで提供している地形図で、磐梯山の山頂付近を切り取って示している。磐梯山(大磐梯)と櫛ヶ峰が並んでいることが分かるだろう。また、南側にはもう一つ赤埴山(あかはにやま)というピークがあることも分かる。今は磐梯山はこれら3つのピークから成り立っている。+の記号があるあたりに小磐梯があったと思われ、この付近で爆発があって山体ごと崩れて爆裂火口ができている様が分かる。「中ノ湯」と書かれた右手に沼があるが、これが銅沼である。

これを今は3Dで表示できるようになっている。まず、次が北側から見たところである。ほぼ五色沼付近から見た景観と一致している。大磐梯と櫛ヶ峰が並んでいる。私が見慣れた景観だ。
 
 それに対して同じ地図を反対の猪苗代湖側から3Dで表現したのが次の図である。上の猪苗代湖上空から見た磐梯山の写真とほぼ同じ角度から見たものに相当する。真上からの地形図と比較しながらよく見ると3つのピークがあることが分かる。一番高いのが左側の大磐梯であり真ん中が赤埴山、そして右が櫛ヶ峰である。標高は赤埴山が一番低いはずだが、手前にあり下から見上げる角度になるので櫛ヶ峰より高く見えるのだ。また、裏から見るとピークが二つに分かれるが、表からは大磐梯が中心で他の二つのピークははっきりしないことも分かる。3Dで見ると遠近法と山の重なりで見え方が違ってくることが分かるのだ。


同じ地形図からこのように立体的に地形を見せることができる。地図の表現技術はすごいものになっている。昔、山好き、地図好き少年だった頃の思い出に耽りながら新しいものの可能性を感じた。

今はつくばにある国土地理院が常時、全国の測量データや航空写真によるデータを集めながら、それを表現する情報技術を駆使して提供してくれている。私たちはそれをネット上で気軽に利用できるようになっている。ありがたい。

いずれ国土地理院に付設された地図と測量の科学館についても書くことにしたい。

<参考> 

北原糸子『磐梯山噴火:災異から災害の科学へ』吉川弘文館 1998

<追記>
小磐梯がどのように見えたかについての記事をネット上で探して、次のものを見つけた。2番目の米地文夫氏の論文が求めているものだった。この論文のなかで、大塚専一「磐梯山噴火調査報告」(1890)に掲載された図が小磐梯の山容を示していることが紹介されているので、ここに再掲しておく。このうち左から2番目のピークが小磐梯である。こうしたものに基づき米地氏は噴火前の磐梯山の模型までつくっている。



米地文夫『磐梯山爆発』 (シリーズ日本の歴史災害) 古今書院 2006

米地文夫「絵画資料の分析による小磐梯山山頂の旧形と1888年噴火経過の再検討」
東北地理 Vol.41(1989)PP.133~147
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1948/41/3/41_3_133/_pdf

ブラタモリ 2016年7月16日放送 会津磐梯山は宝の山?

磐梯山噴火と小磐梯推測図 livedoor blog

2017-08-15

日本で刊行された書籍のGoogle Books対応について

 8月2日にアマゾンに、ヴァイディアナサン『グーグル化の見えざる代償:ウェブ・知識・書籍・記憶の変容』(インプレス, 2012)という本の簡単な評を書いた。それは、次のものである。

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Googleは、短期的な情報やデータをやりとりするメディアとしてはきわめてすぐれているが、米国社会が長期的に蓄積してきた出版や大学、図書館のような知識の制度を企業ベースの論理で扱うことによりそれらを破壊する可能性があるという。Googleブックス裁判のありようによっては、Googleは「知」の世界をコントロール可能であり、できて20年に満たない企業にそんな覇権をとらせることは危険だという主張である。

実際に、2016年4月の連邦最高裁の決定でGoogleの勝利が確定した。本書が今品切れになっているのは裁判途中の議論を前提にしているせいなのかもしれない。だが、その事実さえ何らかの力が働いているのではないかと思われるくらい、迫真性をもった記述になっている。

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Google Books裁判は全世界が固唾をのんで見守っていたものだが、結局、Google側の勝利で終わった。アメリカの連邦著作権法が前提とするフェアユースの考え方は、著作物の自由な流通が最終的には著作権者の権利保障につながることを前提にしている。情報流通のインフラ整備は、図書館での閲覧・貸出や複写物提供などと同様にフェアユースの範囲にあるものであり、Google Booksもまた著作者の許諾なしに複製して全文検索可能にすることは著作物の流通につながることを裁判所で認定した。

ただインフラ開発は鉄道がそうであり、鉄鋼業がそうであり、石油掘削がそうであったように、常に資本の独占という問題と関わっている。まして、情報や知識を流通させる仕組みが単一の企業によってコントロールされる状況をつくるのでよいのか、というのが本書のテーマであった。

この問題については、さまざまな角度から検討することができる。評でも触れたように、この本の原書は2011年に出ていて、その後に裁判が確定したから、本書で警告されていることは実際に起こっている可能性がある。また日本への影響は別に検討しなければならない。

ここでは、日本で刊行された書籍に対して、Google Booksがどのような影響をもっているのかについて書いておきたい。訴訟の過程で和解案が提示されたが、そのなかでは当初すべての書籍が対象だったのが、英語圏の4カ国で刊行されたものに絞られることになったために、日本で刊行された書籍はその対象になっていない。その後、この和解案は連邦地裁で棄却されたことにより、和解不成立になった。とはいえ、2011年の新和解案以降は、Googleは米国、英国、カナダ、オーストラリアで刊行されたものを対象としたビジネスモデルを選択したために、日本で刊行されたものは基本的に対象になっていない。

しかしながらそれで安心することはできない。というのは、当初は全世界の書籍を検索対象にするプロジェクトとして開始され、その時点では日本で刊行された書籍も対象になっていたからである。その当時テキスト化されて検索可能になった書籍は今でもGoogle Booksで利用可能になっている。

それを筆者が関わった書籍で見ておこう。まず、私の名前で検索すると筆者が関わった本が8冊登録されていることがわかる。
いずれも日本の出版社から出た本であり、一番古いものは1998年で新しいものは2015年である。だが、私が関わった出版物はほかにもあるから、なぜこれらのものだけが登録されているのかはわからない。

そのなかで全文が検索可能になっているものが2冊ある。「スニペット表示」という表記がある『文献世界の構造』と『情報基盤としての図書館』である。2009年までは全世界対象だったわけだから、これらのなかでは『続・情報基盤としての図書館』も全文検索の対象になっていてもよさそうなものだが、そうなっていないようだ。

このなかで 『文献世界の構造:書誌コントロール論序説』という本をみておく。この本は1998年に勁草書房から刊行された。まず次のカバー付き表紙の画像と書誌事項が表示される。白く光っているのはこの本がもともとビニールカバー付きだったことを示しているのだが、だから図書館の蔵書とは思えず、どこか別のところで撮影されたものらしい。

下のほうに、詳しい書誌事項が表示されている。
これでわかるのは、2010年6月にデジタル化され、「書籍の提供元」がカリフォルニア大学だということである。このプロジェクトに全米の主要な大学図書館が関わっていたことが公表されている。カリフォルニア大学はキャンパスが複数あるので、そのなかのどこの蔵書なのかはこれだけではわからない。

肝心の全文テキストだが、「スニペット表示」であり、一部しか見えない。見るための手がかりとしては「目次」と「多く使われている語句」がある


目次はごく一部にすぎないし、ここからリンクが貼られているわけでもなく、あまり役にたたない。多く使われている語句は出現頻度等の解析をおこなって重要度の高いものはフォントの大きさが変えられている。このなかで、「書誌コントロール」の用語をクリックしてみる。


となる。これも、この用語の使われている例の一部にすぎず、その前後の文章が表示されているというものだ。文脈付きで重要な用語が検索可能であるのは、当該の書籍がどのような内容なのかを知るのには役に立つ。だから、これらは本書のテキスト提供するためのものではなくて、あくまでも例示にすぎない。

以上のことから確認できるのは、Google Books裁判の途中の段階(おそらくは新和解案が出されてGoogle自体の方針が確定された時期)まで、米国の大学図書館の協力が得られた日本語の書籍の一部がスキャンされ、さらにテキスト変換されたということだ。私の当該書がその対象になっている。また、一連の作業によっておそらくは全文がテキスト化されたらしいこと、また、そこから索引化(キーワードの切り出し)が行われたことが分かる。

テキスト変換の精度はある程度高いとは言えるが、細かいところではミスが見られる。句読点や引用符、大文字・小文字の使い分け、小文字の読み取りなどに問題があるようだ。とくに、この本で扱っている書誌コントロール論で重要な貢献をしたJesse H. Sheraという人の名前は、本書では[シェラ」と表記しているが、この名前で検索できない。なぜかと思っていろいろとやってみると「シエラ」と表示されていた。これは単純な変換ミスであるが、日本語OCR技術はこのレベルなのだろう。

そもそも、アルファベットと数字を中心とする記号しかない言語圏のものと、漢字を使用している言語圏のものとでは読み取りの条件がまったく違う。その意味で、簡体字に切り替えた中国も、全面ハングル使用に切り替えた韓国も、日本語の複雑な文字使用環境と比べればだいぶ異なる。

それから、索引については、「多く使われている語句」を見ればわかるように、重要な用語についての切り出しは一定程度成功しているように見えるのだが、他方、文節の語尾やつなぎの言葉、日常用語などでかなり冗長な切り出しが行われていることも確かなようだ。これもワード単位で空白が入る言語とそうでない言語では条件が違っている。

もちろん、シソーラスのような語彙統制の仕組みは使われていない。 そもそもGoogle Booksのプロジェクト自体が日本の出版物には必ずしも適用しにくい面をもっているわけである。


 Googleがしているのは、図書館と協定して書籍を借り出し、これをスキャナーで画像化し、それをテキスト化ソフトにかけて全文をとりだして、索引化してデータベースに蓄積することである。Googleはネット上にある情報をすべて索引化して検索システムで提供しているのだが、これに加えて紙の書籍をデジタル化して同じようにネット上で検索することができるようにしたというのは、日本語の本についてもある程度あてはまるようなのだ。これが著作権法違反だとして訴訟になったのだが、Googleがこの作業をする際に図書館が協力していた。このことは記憶しておいてよい。

この本がこのように全文検索の対象になっていることについて、著者としてどう考えるかということであるが、なかなか複雑な心境である。すでに出てから20年近くになる本だし、本文中のキーワードで検索が可能になれば、今まで以上に読者が増える可能性があると喜んでもよいのかもしれない。しかし、このような不完全な技術のままで全文検索が可能だといわれても困る。自分が書いたものの全文が解析の対象になっているということそのものが、何となく頭の中を探られいじられている感じがするのも否定しがたい。

この本がここにあることについて、Googleに置かないように連絡したらスニペット表示をしないようにはできるだろう。著作権をもつ著者にできるのはこのように表示しないように要求すること(オプトアウトという)だけである。公開された書籍を加工して作成したこのような全文テキストとその索引ファイルについて、削除することを要求する権利はないとされている。

先ほどのインフラについての資本の独占という問題だが、これについて個人情報と結びついたビッグデータの問題点について議論が行われている。だが、それに加えて、書籍に含まれる「知」の独占的なコントロールもまたもう一つの問題だろう。書籍のテキスト化と索引化について、著作者の著作権および人格権との関係でさまざまな操作が可能になる。それらが相互にリンクされたときに、単に知の便利なツールができるのか、それとも、それが一人歩きする「世界頭脳」(H. G. ウェルズ)ができるのか。

*なお、この問題はこの秋に何度か取り上げる予定にしています。
 


 









2017-07-31

故子安美知子さんの追悼会

7月30日(日)の午後、早稲田大学国際会議場で開催された故子安美知子さんの追悼会に出席してきた。子安さんは、早稲田大学でドイツ語を担当するかたわら、ミヒャエル・エンデの紹介やシュタイナー教育の紹介・実践で知られた人である。

本日のプログラムについては夫の子安宣邦さんのブログにあるので参照いただきたい。http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/

登壇者のお話しによると、子安さんは最後のお仕事である『日本のシュタイナー学校が始まった日』(精巧舎出版)が刊行される直前の6月10日に倒れて、3週間ほどの集中治療室での治療のあと7月2日未明に亡くなった。最後のこの本にかけた執念はすごいものがあったということだが、それで無理がたたった部分もあったのではないかということだった。

ここでは子安美知子さんの業績やシュタイナー教育あるいはエンデについて語ろうとは思わない。今日あったことを淡々と語ることにしたい。前半が子安さんの薫陶を受けた人たちの話しで、後半が宣邦さんと娘の子安ふみさんのお話し、そして、彼女が出演したNHKのドキュメンタリーの短縮版の上映であった。

今日の会は早稲田大学でやったので、前半は彼女の教え子たちが登壇することになったのだろう。前半の話しの最初の二人は彼女の下でドイツ語を学びそれを活かした仕事についたひとたちであった。後の二人はドイツ語を学ぶだけでなくさらに、その後にそれぞれエンデそして、シュタイナー教育との関係に関わることになった人たちだった。今日初めて知ったこととして、子安さんが早稲田の言語文化研究所のドイツ語を担当していて、そこに来た若い学生たちがその後、彼女がエンデやシュタイナー教育に関わる際の大きな力となっていったということである。学生時代にドイツ語を学んだことが単に言葉を学ぶのにとどまらず、一生涯、ドイツとの関係で仕事をし続けることなったことについて、それぞれの話者が自分たちの生い立ちを含めて熱くあるいは淡々と語ってくれた。

  日本のシュタイナー学校について語る鈴木一博氏

シュタイナー思想は日本のアカデミズムや教育の現場でまだ異端的な扱いしか受けていないのは、日本社会の根源的なところに作用するパワーを秘めているからで、子安さんも含め本日登場の人たちは何らかの意味でその一端に触れて、魅せられたのではないかと思う。子安さんはその紹介者そして実践者として、後半生のすべてを費やした。今日参加者した人たちの多くはそれに連なる人たちだったと思われる。

彼女がやりかけたことはあまりにも大きく、それは短期的に実現することは難しかった部分もあった。ご本人が「終活」とおっしゃっていたさきほどの本は、その関係者の貴重な証言集である。新しい組織を立ち上げることの困難さが生々しく伝わってくる。

だが、世代交代のなかで着実に次の担い手に引き継がれつつある。本日はそのような継承の儀式でもあった。今日、最後に登壇した子安ふみさんは、ほとんど日本人と思えない話しぶりで意外な感じをもったが、彼女こそが実践的後継者になるのではないかとの予感ももった。それは、あの追悼の場に娘として登壇しながら、何度も「母親に反発を感じて」という発言があったことから伺われる。彼女流の追悼の仕方ではなかったのかと思われるのだ。


*2020年12月19日追記
たまたま、子安宣邦氏の著書『日本近代思想批判—国知の成立』『漢字論』を読みながら、この方は今どうしているのだろうと思って検索をかけてみたら、同氏のTwitterおよびブログでお元気で講演や執筆活動を続けておられることことを知った。また、ブログにおいてこの追悼会のために用意された文章がアップされていることも分かった。それが「2017年08月01日「偲ぶ会」で話すに及ばなかった私の話」である。私の文章と前後してアップされていたので、存在に気づかなかったのであるが、二人の思想家の魂のふれあいを感じさせる文章でありリンクしておきたい。

2017-07-16

小田の祇園夏祭り

朝、7時に花火が打ち上がった。7月15日は小田の祇園祭りがあるしらせだ。これに4年ぶりに参加した。小田の街はふだんは人通りもあまりないのだが、このときばかりはどこから来るのかと思うほど人がいっぱいになる。

夕方6時くらいから、太鼓の音が聞こえ始まる。そして男たちのかけ声が聞こえるので行ってみる。前は小田の真ん中の通り沿いに屋台が出ていたが、昨年、長島家跡地が広い駐車場になったので、そこにたくさんの屋台が置かれていた。

この祭りの最大のイベントは、小田中部の大獅子と小田西町の神輿が通りのこちら側と向こうから近づき激しくぶつかり合った後に退却するのを何度か繰り返すというものだ。今夜は6時くらいから始まって、終わったのは9時半過ぎだった。詳しい考証は省くが、獅子舞はさまざまな形式が各地に伝わるが、これは神楽系ということだ。獅子の胴体部分は人が入るほどではなく、棒で高い位置で担ぐようになっている、長崎くんちの龍踊り(じゃおどり)に似た感じだ。

祇園祭りというと京都八坂神社のそれが有名で、山鉾巡行をはじめ様々な行列が繰り出すというイメージなのだが、ここはまったく違っていて、大獅子と神輿が本当に戦うのだ。神輿は土地の神様の遣いで大獅子は異国から来た異形のものであり両者がぶつかりながら、国を造っていったことを表現しているのだろうか。伎楽においてこのような闘うものが全国的にどのように分布しているのかはよくわからない。しかし、小田という土地は平安から戦国時代にかけて戦乱で明け暮れた時期を経ているから、江戸期になって落ち着いた時期につくられたものではないだろうか。

YouTubeにある小田祇園祭りの映像



2017-07-09

ノウゼンカズラの花とクロアゲハ

夏になると、うちのゲートのところにはノウゼンカズラの花がいっぱいに咲く。花はオレンジ色で大きい。これがどんどん蕾をつけて競うように咲く。なかなかにぎやかな演出だ。

この花の写真を撮ろうと近づいたら、クロアゲハがやってきて花の蜜を吸っている。これはと思いシャッターチャンスを待った。それで撮ったのが次の2枚である。



今日も30℃を超え快晴の日が続く。もう梅雨明けなのかもしれない。幸いなのは、夜が涼しいことだ。夕べは満月が煌々と照っているのに誘われ外にでると夜風が気持ちよかった。


2017-07-02

ヤマモモの収穫

気を取り直して。

庭のヤマモモが赤い実をつけていたので収穫した。

今年は梅の実はあまり収穫できなかった。これは他でも聞いたのでこのあたりでは一般的な傾向なのだろう。その代わり、ヤマモモが大量になった。




それほど大きくはない木だが数百個の実がなっている。食べられそうな熟した実だけでもボールで4つ分くらいを収穫できた。これを食べご近所にも上げたりしたが、それでもかなり残ったので、ジャムにするのと、焼酎に漬けるのとをやろうとしているところだ。

以前に漬けた梅酒や梅果汁を漬けたものがかなりボトルに入っている。夏の時期に漬けたものが 何年もかけてさらに熟成が進むのを待つのは楽しみなものだ。前の梅をとりだしてボトルを空ける必要がある。

2017-07-01

ジャスミンの香り(すみません。タイトルを裏切る内容です。不快に思われる方がいるかもしれません。ご注意ください)

最近、匂いに敏感になっている。職場の部屋が3階にあり、季節によってどうも煙臭い感じが漂っている感じがするのだが、同僚に聞くと特に感じないという。とくに冬の時期に感じていて、外を歩いていても感じるときがある。車の排気ガス、あるいは焚火の煙などのような気もしたが、まあ、気のせいだということにしていた。

ある日、屋外のその建物の側に喫煙コーナーがあり、そこで継続的にタバコを吸っている人がいるのが原因ではないかと気づいた。その場所と部屋は高さも違うし、通路が一直線にあってかなり離れているのでつなげて考えていなかったのだが、ちょうど3階に通気口があり、風向き等によってはそこから吸引された煙が廊下を伝わって入ってくるのではないかと思ったのだ。真相は不明だが、嗅覚が異常に敏感になっているのは確かなようだ。

一方、季節季節に街を歩きながら花の芳しい香りを楽しみにしている。初春の梅から始まって、沈丁花、白檀、バラ、クチナシ、金木犀、山茶花といったものである。しかしなかには、これはどうもというのもあり、代表的なものはクリとかスダジイの花が発する匂いだろう。

今の季節にどうも好きになれない匂いがある。それが白い花を可憐に咲かせるジャスミンだ。ジャスミンは香水にも使われているくらいだから一般にはよい香りとされるのだろうし、私自身もよい香りと感じるときもある。だが、どうにも動物の糞が腐敗しているような匂いと感じられることが多い。

前からこの匂いがする場所があり、まさかあの瀟洒な家の門側の生け垣の白い花から来るものではないだろうと思って鼻を近づけるとまさにこれだった。たぶん、芳香を放つものとして植えられているのだろうから、やはり私の嗅覚が人と違うのだろう。

調べてみると、ジャスミンに含まれる成分にスカトールという物質があり、これがその匂いの元らしい。スカトールはスカトロジーという言葉と共通の語素をもつ。だが、低濃度だと芳香と感じられるということだ。香りあるいは匂いが物質を介して嗅覚に何らかの生理的刺激を与えるものだとすれば、それを快ととるか不快ととるかはほんの僅かな差でしかなく、容易に逆転もしうることを示しているのかもしれない。



探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...