すでに出版社のHPやAmazonにも『知識組織論とはなにか』の「訳者解説」が掲載されているので,こちらにも転載しておきたい。
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訳者解説
本書は20世紀末に出た幻の図書館情報学理論書である。ここで本書を発見し訳出した経緯については省略するが,翻訳書として刊行できたことについて,勁草書房の編集,営業の担当の方々の英断あってのことで感謝の言葉を伝えたい。
さて,本訳書のメインタイトルを『知識組織論とはなにか』としたのは,これから解説するように本書が,(広義の)情報学,心理学,哲学,社会学,科学論などの領域にまたがる知識論のなかで,知識組織論という独自の立ち位置を示す意義を検討したものであるからである。また,サブタイトルの『図書館情報学の展開』は,本書が図書館情報学の系譜から新たな段階を示唆する内容をもつことを表現した。
原著タイトルを訳せば,『情報探索と主題表象:情報学への活動理論的アプローチ』となる。これは,20世紀末に英語圏の(図書館)情報学関係者に向けた著書として刊行されたときの著者の意図からつけられたものだが,それから30年近い月日が経った現在,図書館情報学分野の翻訳書として出版する際の意義は少し変わってくる。この間の国際的な図書館情報学の展開と著者のその後の研究活動を対比的に見ながら,本書を今,翻訳紹介する意義について述べておこう。
最初に,著者ビアウア・ヤアランについて紹介する。著者自身が日本語版のための序文を用意してくれ,そこに簡単な経歴と本書を執筆するまでの背景について述べられている。ヤアランは1947年生まれで,コペンハーゲン大学および同大学院で心理学を修めた。同時に王立図書館学校を修了し,同校教員および王立図書館の研究司書として勤めた期間を経て,本書刊行の1997年頃は王立図書館学校人文社会科学情報研究部門(その後,知識組織論部門に名前を変更)に所属していた。王立図書館学校は司書養成の伝統校であったが,1998年に大学と同格の高等教育機関の地位を獲得し,2013年にコペンハーゲン大学と合併し,現在は他の専門と統合されて同大学人文系コミュニケーション部門となっている。現在,ヤアランはその名誉教授である。日本語版序文にあるように,心理学を母体とした図書館情報学への関心は当初からのものであるが,同時に,総合的な人文社会科学にこれを位置付けようという関心はこのような所属組織の変遷を背景にしているのだろう。
次に本書の意義について述べておこう。本書は出たときにすでに20世紀図書館情報学の古典としての位置づけを獲得すべきものだったと評者は考えるが,それは残念ながら果たされなかったように見える。本書は出版後すぐに多数の書評が出るなどこの領域の理論書として注目されたが,いくつかの理由でその後,表面的には忘れ去られたように思われるからである。
その理由の一つに,英語圏が中心となっている図書館情報学の学術領域のなかで,それまでデンマーク語で多くの著作を発表していた著者は,マイノリティとされたのかもしれない。しかし,それ以上に,本書が当時図書館情報学の主流だった情報検索論や計量情報学,情報行動論を,その根底的な認識論や方法論のレベルで批判したことが重要である(例えば,p. 64の注5で展開されている従来の分類論に対する科学哲学的批判や,p. 140-142で展開される実証主義的利用者研究に対する批判を参照されたい。)。また,本書が刊行された頃からインターネットが社会的なインフラとなる動きが明確になり,本格的なグローバルデジタルネット社会への移行が始まったことで,この分野の主たる関心はそうした技術的な展開に注がれたこともある。
だが,著者は本書出版後,活躍の場を国際的な学会に求め,自らの理論を展開し,この分野の国際的有力誌に英語論文を発表する方針に転換した。つまり,技術的インフラの変化を検討するよりも,その根底にある原理を究める方向を選んだわけである。
図書館情報学とは,ドキュメントを組織化して求める人に提示するための一連の仕組みおよび過程の分析のことであるが,ドキュメントが知を媒介することに焦点を当てることで,これは知識の理論と密接な関連をもつ。著者は原著のサブタイトルにあるように,本書を情報学に対する新しい理論的貢献としている。ただし,本文中では図書館情報学の用語もほぼ同じ意味で用いている。英語圏の図書館情報学では,図書館学→図書館情報学→情報学という名称の変化があるとされているが,日本では情報学という表現は限定されたところでしか使われていない。そのため,デビッド・ボーデン,ジェーン・ロビンソン『図書館情報学概論』(塩崎亮訳,田村俊作監訳 第2版2024,勁草書房)の原著タイトルがIntroduction to Information Scienceでありながら,この邦訳タイトルを選ばざるをえなかった。本書の著者ヤアランもまだ情報学の理論的基盤が弱いと感じており,これを同時代のアカデミズムの水準に照らして徹底的に論じて見せようとした。訳者が本書を取り上げたのは,著者の試みが,他に例がない厳密な理論的展開を行っていて,生成AIの時代の情報学を考えるのに大いに貢献すると考えたからである。英語圏での著者のその後の活動を読み解く上でもこの本が基礎にあることは明らかであり,訳出する価値がある。
ここで,本書の論旨について簡単にまとめておこう。第1章では序論の後,本書の構成と内容がきれいに整理されているので,まずここを読むべきである。その後は,2章以降4章までの「主題表象論」の部分と5章から7章までの「情報探索論」の部分とに分けられる。前半では,主題をドキュメントとその利用者との媒介過程ととらえて,ドキュメントの主題の解釈について,合理論,経験論の限界の指摘を経てプラグマティズム哲学にひとまずの足場を求める。後半では,利用者の情報探索について,それまでの図書館情報学が依拠していた方法論的個人主義を批判し,方法論的集合主義を採用して,それを科学コミュニティの発展につなげるための戦略を論じる。
従来の図書館情報学は,「主題」を分類や件名標目,データベースの索引語,図書の巻末索引などによってドキュメントとその利用者とを結びつけるための一連の操作概念と理解してきた。これに対して,著者は英語のsubjectの原義が物事の原材料の意であるギリシア語(本書のp. 123で触れられているように,アリストテレスのヒポケイメノン)に由来し,そこから派生したり,転用されたり,反転したりして,さまざまな意味として現れたとする。これは,日本語でsubjectを主体,主観,主語,主題と訳し分けることが必要になる理由でもあるし,sub-は「下に」を意味する接頭語なのに,日本語だと「主」が付く転倒が起こる理由でもある。著者は,原義に戻るべきことを主張し,ドキュメントの利用者の立場を重視して,知識利用に関わる認識論を検討した結果,利用者がドキュメントを材料として何らかの行動を行うときの目的や予想される結果を基準にし,これを主題と考えるべきだと述べる。だからドキュメントの主題はドキュメント自体に含まれるとも,書いた著者が決めるとも言えず,それを利用する人の目的やその効果を基準に考えるべきだと言う。このプラグマティズム的認識論に基づいた書籍分類の思考実験例が第4章の最後(p. 116以降)にあるので,それをご覧いただければ,著者の意図は理解できよう。
後半では,まず20世紀後半の図書館情報学の主たる関心が図書館や情報システムの利用者行動(情報行動)とその利用に対する計量情報学的評価にあったが,著者は,情報行動論についてはそこで採用される個人を単位とした心理主義(認知主義)の限界,そして計量情報学的方法についてはその実証主義的な方法の限界を指摘する。そこで新たに採用するのが,方法論的集合主義としてのジョン・デューイ=ヴィゴツキーによる活動理論である。プラグマティズムが個人の認識論をベースにするのに対して,活動理論は,集団における個人の関係を対象にした認識論とコミュニケーションをベースにするものであり,科学者コミュニティにおける情報探索を分析するのに使えるとしている。そして,従来から用いられる情報ニーズという概念については,利用者個人が所属するコミュニティのなかで認知的発達を遂げることで明確になるという点で動的なものであり,また,それがコミュニティ自体の知識発達に貢献するものとしている。
さきほど本書が20世紀図書館情報学の古典となるべき著作だったと書いた。本書のもつ意義を改めて指摘しておくと次のようになる。
まず図書館情報学に対して,心理学,認識論や科学論の哲学を中心にした学術的水準での理論的整理と批判を行ったことである。図書館情報学はそもそも図書館で働く職員養成のためのノウハウをカリキュラム化したものから出発したという点で,プロフェッションの学であった。プロフェッションの学は諸学からの知を取り入れるという点で学際的な性格をもつが,他方で,一旦制度的に確立されたプロフェッションは,知識や技術がマニュアル化すると同時に専門知に対する守勢の力が働き,新しい知の導入を妨げる傾向がある。20世紀前半までに確立された知識組織論の原則は目録規則や分類法としてマニュアル化されたのに対して,著者は再度,理論的な批判を行って知識組織論的方法を提案している。また,20世紀後半の図書館情報学主流派が採用した実証主義に対してその認識論的限界を指摘して,自身のプラグマティズムと活動理論に基づく対抗的な考え方を提示している。
ただし,著者の議論は全く単独で行われたのではなくて,20世紀の図書館情報学の理論家の議論を批判的に継承しようとしていることも指摘しておかなければならない。知識組織論については,ランガナータン,ラングリッジ,スワンソン,ヴィッカリー,パトリック・ウィルソン,バックランド,情報検索論についてはクレヴァードン,ハッチンズ,ソーゲル,ランカスター,情報行動論についてはテイラー,ベルキン,イングヴェルセン,クールソーといった人たちの業績について議論の前提として踏まえて,自らの論の展開を行っている。展開の際にミクサとフローマンを重要な導き手としている。以上の論者の主張とそれに対する著者の考え方については巻末索引を用いて確認していただきたい。ちなみに,巻末索引も重要な知識組織化のツールである。
では,彼の議論にどのような新規性があったのかについてであるが,すでに指摘したように,ドキュメント概念の有効性を確認した上で,それを探索(検索)し提示する行為の場を主題探索とし,これを認識論の展開との関係から整理したところにある。その際に,人が情報を求める行為について,ドキュメント中心の合理論や著者や利用者の行動に焦点を当てる経験論の見方よりも,プラグマティズムとそれを展開した活動理論の立場から,著者と利用者がつくるコミュニティの作用を動的にとらえた。原著タイトルにsubject representationとあったが,re-presentationはもともとラテン語から来ていて本来「再現前」と訳すべき概念で,ポストモダニズムや記号学のコンテキストでは「表象」と訳されるのが一般的であるのでそれにならった。本質的なものを再度別の方法で示すという意味をもつが,ヤアランはその方法としてプラグマティズムを選んだということができる。それは,情報学の使命を知的コミュニティに対する支援ととらえているからである。だから,パラダイム論との関係で,個人の知識発達と科学者コミュニティの知識発達とを密接に関わるものとすることで,同一知識ドメインに属する個人と社会とを架橋する科学コミュニケーション論への道を示唆している。
この議論に対して,本書の書評のなかには,ドキュメントとその著者,そしてそれを利用する人との関係に対するそのような見方は図書館情報学に従来からあったもので,ヤアランが言うほどの新規性はないという批判的なものもあった。しかしながら,著者はそれらを人文系アカデミズムで通用する理論として提示したところに価値があったと思われる。図書館情報学コミュニティは,そうした著者の意図を理解して自らの議論のなかに取り込むことができなかったのだろう。しかしながら,著者がジョン・デューイについて,忘れられた時期の後に再評価があったと書いているように,これはどの分野でも起こりうることではある。その分野に革命を起こすような業績の評価はこのようにして進行することについても著者は触れている。
著者は,本書執筆以降,現在にいたるまでJournal of Association for Information Science & Technology(JASIS&T),Journal of Documentation(J.Doc),Knowledge Organization(KO)といった学術誌上で,これまでの議論を批判的に整理しながら,本書の論点をさらに展開しようとしてきた。これらのなかで,最後のKOの発行元は国際知識組織論学会(International Society for Knowledge Organization: ISKO)である。この学会はもともと英国とドイツにあった分類に関する学会のメンバーの発意で,1989年にドイツ語のWissensorganisationの英訳としてのKOを標榜する国際学会になった。会員は図書館情報学の関係者が多いが,認識論,科学哲学や心理学等の分野の人たちも少なくない。そしてヤアランは同学会を主たる活動の場とし,学会が2016年からスタートさせた国際知識組織論事典(ISKO Encyclopedia of Knowledge Organization: IEKO)の編集長となった。これはオープン化されたオンライン専門事典であり,一つの項目が査読付きレビュー論文となっているもので,ヤアラン自身が30項目以上を執筆している。その多くは,本書で扱われた個々の概念をさらに展開する理論的な論考である。彼がIEKOを活動拠点にして,自らの理論を深め拡げるオープンな議論の場をつくろうとしていることについては,IEKOのHP(https://www.isko.org/cyclo/index.html)をご覧いただきたい。
本書で,著者は活動理論の情報学的展開としてドメイン分析という方法を提唱し,その具体的な展開に向けても議論をしている。彼は,IEKOの“Domain analysis”の項目でドメインを「社会的かつ理論的に,存在論的および認識論的コミットメントを共有する人々のグループの知識として定義される知識体系」とし,その際に,哲学者,歴史学者,社会学者は特定のドメイン(たとえば医療)を対象に研究するが,その目的や関心,対象,方法は異なるとする。それに対して情報専門家はドメインに対して理論的アプローチをするが,方法や対象はドメイン内の成員による特有のコミュニケーション行動や情報の共有の仕方などに着目して,それを対象化し,分析し,効果的なツールの作成や介入を行うとしている。彼は,協力者による美術史領域のドメイン分析の結果から,この領域でのパラダイムに対応したKO的な展開を考えるには,美術展に着目することが重要であることを指摘している。このように個々のドメイン内の専門的な主題知識を合わせることで,これまでの汎用的な組織化の手法で対応できないような問題を扱うことができるという。逆に,ドメイン内の人々も当該領域の哲学,社会学,歴史学的研究が自らの活動に貢献するのと同様に,KOの知識をもつことで活動が活性化するはずだと述べる。
最後に,著者の議論が現代のネット利用を前提とした社会においてどのような意味をもつのかについて述べておこう。軍事技術だったインターネットが民生化され,Windows95が出た1995年がネット元年とすれば,本書はその2年後に出た。著者も本書ですでに変化が生じていることに触れている。たとえば複数館の図書館蔵書を横断検索できる総合目録や,書誌データ以外の記述的要素(抄録,目次など)や画像(書影等)を含む検索システム,ドキュメントの全文検索,ドキュメント間のハイパーリンク,そして引用索引データベースなどである。
それから30年の時が過ぎて,ネットでサーチエンジンを使うことはふつうのこととなり,図書館も蔵書やデータベース,電子ジャーナルなどの情報を1つの検索画面で検索できるようにするディスカバリーサービスの導入が進んでいる。さらにそこに生成AIの仕組みが加わることによって,デジタルネットワークそのものが知識組織化の前提となる日がきている。利用者は居ながらにして,主題にアプローチするための近似的方法として,これらを常用する現実が出現している。
今のところ,生成AIにさまざまな弱点があることが指摘されている。基本的な仕組みは,大規模テキストから取り出したトークンやその集合体の相互関係をベクトル空間で表象し,その関係を数値計算によって学習させることで言語表象を可能にするものだが,用いられる言語ベースの規模の大きさと多段階の深層学習というプロセスが加わることで,「意味」を表象するとされる。それは,従来の情報検索システムが語と語とのマッチングによってクエリとの関連を見ていたのに対して,各段に人間の学習に近いものが実現されているとされる。しかしながら幻覚(ハルシネーション),フェイク,知的財産権に関わる問題,プライバシー侵害,サイバーセキュリティ,透明性の欠如,環境コスト,推論に弱いなどの問題点が指摘されている。また,すでにあるテキストやドキュメントの蓄積から学習したものであるという意味で,いかに自然言語に近い表現でそれらしい回答を出しても,それは過去の知の再現ないし寄せ集めでしかない。
ただし,これはまだ発展途上の技術であり,今後技術的な進展と利用者側の情報リテラシーの向上によってそうした問題点を一定程度克服することができる可能性は高い。とすれば,情報探索が過去の知を求めることだとしても,生成AIの適用でかなりのものが解決できることが予想される。プラグマティズムの立場を取る著者にしても,これを否定する理由は存在しないだろう。
ここで,著者がプラグマティズムに基づいて,主題は事後的にしか決まらないと言っていたことを思い出そう(第4章)。また,活動理論に基づき,一定のコミュニティ(ドメイン)においては,情報利用者の知的発達とコミュニティ自体の知識の展開は対応して相互に向上すると言っていたことを思い出そう(第7章)。これらが意味するのは,ドキュメント利用による知識コミュニケーションの支援という情報専門職の活動は能動的媒介行為であり,それがあって始めて知的創造が可能になるということである。それはサーチエンジンや生成AIから受動的に得た擬似的な知識では得られない点である。本書で著者は,知識組織論における個人の認識論とコミュニティの認識論の相互関係に焦点を当てることで,AI的な知の限界を言い当てるとともに,さらにそれを補うことの意義を明確にすることでしか真の知は得られないことを主張している。
本書はかつて非主流的な図書館情報学理論書と見なされたかもしれないが,著者による情報学と認識論,心理学,科学哲学,科学社会学を架橋する試みは,生成AIに隠されがちな知を獲得する人の営為およびその社会システムについての知識哲学として重要な成果を挙げたと考えられる。IEKOを拠点にして著者を中心に進められている知識組織論の理論的言説の蓄積は,新たな情報環境においても有効となるはずで,本書はそれを理解するためのもっとも基本的な書物である。