2020-11-10

『公共図書館が消滅する日』への疑問

昨日届いた『図書館界』72巻4号を開き、新出さんによる、薬師院仁志・薬師院はるみ著『公共図書館が消滅する日』(牧野出版, 2020)の書評を読んでみて、喉のつかえがとれた感じがしました。というのは、この本が何を主張しているのかがよく理解できず、もやもやしていたのに対して、すっきりと問題点を整理してくれているからです。この書評をきっかけとして、この本の問題点について論及しようと思います。

戦後の日本の公共図書館界では、国の統制を避けて個々の図書館(員)が住民と連帯しつつ自発的な活動をすることで発展できるという論理を組み立ててきました。ここに関わる団体としては、日本図書館協会(日図協)、全国公共図書館協議会(全公図)、図書館問題研究会(図問研)、日本図書館研究会(日図研)などがあります。日図協は言わずと知れた『中小レポート』と『市民の図書館』というこの考え方を推進した大元の団体です。関わる団体も一枚岩ではないのですが、書評に、全公図が日図協の公共図書館部会から分かれて行政的なプレッシャーグループとして活動することを目的としてつくられたとあるように、相互に関わりをもちます。図問研は日図協が敷いたレールの上で活動する現場図書館員の議論を集約する場であり、日図研は主として関西の図書館員と研究者が関わって日図協の活動を牽引したり後ろから押したりする役割を果たしてきました。

この本の著者らは、日図協を中心とする団体の活動および関係者の言説に対して批判を展開するのですが、私はこうした批判によってどのような対抗的な議論が行われているのかが不明と感じていました。新さんの書評では、本書が大胆に戦後図書館史を分析しようとしていることは評価しつつも、細部に問題が多いことの代表的な例を示し、そもそも土台の部分も怪しいという議論をしています。このあたりはまったく同感であり、こうした分析がされることでなるほど著者たちはこういうことを言いたかったのかと気づかされることも少なくありませんでした。

書評では、「「主流の物語」を批判するために、資料から自説を補強できる部分のみを引用して、別の「物語」を構築しているように受け取れる」(p.196)と述べられています。私には、その構築された「物語」が「本書が批判対象とした既存の図書館の発展史観と似かよっている」というところはよく理解できていませんでした。タイトルは「公共図書館が消滅する日」とありますから、国家的なプランとつながったり、外部からの提案を活かすチャンスは何度かあったのだが、図書館関係者はそれをことごとく自ら潰し、自壊の道を歩んできたと言いたいのかと思います。とすれば、これはとても「発展史観」とはいえないのではないか。というのは、潰してきたプランや提案の主体は、GHQの担当者だったり、図書館協会の理事だったり、図書議員連盟だったり、文部省だったり、日本書籍出版協会や文芸家協会だったりというように、時代が違えば、主張の背景も主体もばらばらだったし、図書館を推進しようという思惑もそれぞれ異なっていたからです。

本書の帯には、「真の目的と存在意義が、いま、失われようとしている」と大きく書かれています。本書に言う、公共図書館の「真の目的」とは何なのか最後までよく分からなかったというのが正直なところです。「はじめに」では、欧米の図書館が公共に開かれたものになっているのに対して、日本の図書館が商業主義的な原理に依拠し、指定管理を導入したり、非正規職員を大量に導入したりして、図書館運営や貸出の多さを競うようなサービス方針になっているが、これでは公共図書館とは言えないと主張しています。けれども、著書全体を通して個別の批判に終始し、このような「目的と存在意義」を実現するための制度とは何なのか、それをどのように実現するのかについては議論されていません。著者らは図書館法の法改正が必要だという議論をしたかったのかもしれません。書評では、著者の一人薬師院はるみさんの論文を引いてそのような読み取り方をしているように見えます。けれども、それは必ずしも前面に出てはいません。

こういう政策的議論には、戦略的な視点をもって歴史的分析を行い、現状分析をする必要があるのですが、本書には戦略的視点も、現状分析もありません。あるのは西欧的な公共性をベースにした個別の歴史的分析と批判だけです。また分析をする際の一貫した歴史観は感じられません。書評でも言われているように、これだけの視野で大量の現代図書館史の文献を集めて分析しようという作業は貴重だとは思います。また、これまで日本の公共図書館論に使える戦略的視点がどれだけ用意されているかというとそれも疑問です。だから、著者らにはここで展開されている論理の枠組みを明確にして、批判のための批判に終わらないポジティブな議論を今後展開されることを期待したいと思います。

私は直感的に著者らの批判は、個別にはともかく政策論としては有効でないと感じます。というのは、貸出を熱心に行う図書館も、指定管理の図書館も、居心地の良さを市民にアピールする図書館も、紆余曲折に見えて、日本の図書館が自立するためには必要な過程だったと思われるからです。それだけ日本人には、著者らがいう「図書館」とは何なのかが分かっていなかったとも言えるのですが、この間に、市民は日本的図書館を見いだしてきたのではないでしょうか。その証拠には、コロナ禍で図書館活動がストップしたときに、図書館サービスの復活を望む声が早い時点でさまざまな方面から上がったことが挙げられますし、今、文化庁の審議会で著作権法を改正して図書館が著作物の一部のデジタルデータを公衆送信できるような議論を行おうとしていることにも示されます。これらは、『市民の図書館』から50年目にして、ようやく目に見える動きとして現れたものです。文化的な事象はそれだけ時間を掛かけて熟成するということではないでしょうか。

追記(11月11日):その後、Facebook上で、評者の新さんとも議論して改めて思ったことですが、第一著者薬師院仁志氏が欧米社会および社会学の視点から社会批評をしてきた人であり、橋下行政への批判などもしてきたことを考慮すると、この本は、日本社会が欧米水準から見て不足しているものがあるという視点から、冷戦体制時には保革政治の荒波に揉まれ、その後は新自由主義を背景にした消費社会に変貌していくなかで、図書館関係者が住民要求というワードに脚をとられ、市民的公共性に照準を合わせることができていないことに対する批判であると受け取るべきなのでしょう。





2020-10-23

子どもの本離れは解消されたのか — 飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』を読む

飯田一史『いま、子どもの本が売れる理由』(筑摩選書, 2020年7月刊)に目を通した。読んだとは言えないのは、この本の第1章「子どもの読書環境はいかに形成されてきたか」が目当てで、あとの章はマンガ雑誌が売れている理由や『おしりたんてい』をはじめとするヒット本の分析に充てられているので走り読みしたからだ。それでも1章と「おわりに」は読む価値があると感じた。これまで、出版流通やベストセラーについて書かれた本で図書館が言及されるとすれば、それは図書館での貸出しが作家、出版社、書店などの関係者から問題視されている文脈でのことが多かった。大量の複本貸出が売り上げを損ねているというたぐいのものである。それがこの本はおそらく初めて、子どもの本というジャンルの話しではあるが、図書館(というより公費)が重要な市場を形成する要因となっていることについて論じたものだ。

子どもたちの読書量は増えているのか

本書の帯には「直近20年間で14歳以下人口は約200万人減ったが、児童書は市場規模を堅持、本を読まない子どもは減少し、小学生の読書冊数は倍増!「子どもの本離れ」はいかにして終わったのか?」とある。本離れが終わったというのが初耳なのでこれはどういうことかと思いながら読み始めた。

p11にあるグラフから14歳以下人口が1998年に1920万人だったのが2019年に1520万人であることが読み取れるので、実際の減少はその倍の400万人である。(これは間違い?)同じグラフから、児童書販売額が1998年の1400億円から2001年に1800億円と急に増え、その後は市場規模を維持して2019年に1750億円ということが分かる。p13のグラフ(これと次のグラフは全国SLAの学校読書調査からとったもの)が示す子どもたちの不読者率(5月1か月で1冊も本を読まなかった子どもの割合)は小学生が1998年の15.6%から2019年の6.8%と下がり、中学生に至っては1998年の47.9%から2019年の12.5%へと大幅に下がっている。また、p12のグラフからは、1998年の小学生の5月1か月の書籍の読書冊数が6.3冊だったのが2019年には11.3冊に上がり、中学生は1.8冊から4.7冊へといずれも大幅に増えている。子どもたちの読書について数値上はこの20年間に大幅な増加傾向を示している。

ということで、子どもの数が大幅に減少しているのに、児童書販売額は倍以上になり子どもの読書冊数も延びているというたいへんめでたい状況が示されている。ただし統計値による議論の根拠が怪しいということはありうる。たとえば販売額にコミックが含まれかなりの割合になるはずだが、学校での読書ではコミックは推奨されていないはずだから、これらのマクロなデータでどこまでのことが言えるのか。しかしここで論じたいのは、それでも子どもの読書量はこの20年間で増えているとして、これを手放しで喜んでいいのだろうかということである。

この本の第2章以降では、子どもたちがどのような本を好んで読んでいるのかについて、詳細な分析が行われている。そこで描かれているのは、子どもの本の造り手が子どもたちのニーズをいかに把握しながら商品づくりをしているのかということだ。『コロコロコミック』と『少年ジャンプ』との棲み分けの話しや大ベストセラー『おしりたんてい』がなぜ売れたのか、『かいけつゾロリ』の著者が本を読まない子にどのように読んでもらうような仕掛けをしているのか、子どもの目線から「悪い大人をやっつける」宗田理『ぼくら』シリーズが累計2000万部を売った理由、といったように展開されている。そこで取り上げられているのはマンガ雑誌、絵本、コミック、男子向け・女子向けのジュブナイル本など多様であるが、なるほど、子どもたちの日常生活のストレス解消や身近なところで満たされない夢を追うことなど、明確に存在しているニーズに対応しようと子どもたちが読みたい本を供給していることが分かる。

読書推進の行政的働きかけ

他方、第1章の後半で強調されているのは、学校図書館行政の仕掛けである。学校図書館は戦後教育改革で一時的に注目されたがその後はあまり光が当たらない存在だった。しかし、世紀の変わり目に政治的働きかけから子ども読書活動推進法(2001)ができて、それ以来、国の資金が自治体行政に入ったことにより公立図書館や学校図書館での児童書購入が増え、また、ブックスタート、朝の読書や読書のアニマシオンが行われ、子ども読書へのインセンティブが強まった。とくに朝の読書は学校の生活時間に読書の時間が組み込まれている訳だから、その効果はきわめて高い。職員配置がなかった学校図書館にも複数校配置の非正規職員にせよ人的サービスが始まった。これらの仕掛けが相まって子どもたちは本を読むようになった。要するに、学校図書館が整備され、さらに学校教育の枠組みのなかで朝読のような読書推進の時間が設けられたことが、子どもたちの読書意欲を高めていることは確かだ。子どもの本が売れた理由は公的な財政支援の効果が大きいということを示している。

ただ、先に挙げたような本の購入に公費が充てられているのだとすれば、それでいいのだろうかという疑問が沸いてくる。二つの論点がある。ひとつは、児童書市場と大人書籍市場とに分けて考えたときに児童書市場だけが政策的に支えられている状況が望ましいのかということがある。他方では図書館に当てられた公費が出版市場に負の影響を与えているという主張もあるように、大人書籍の市場関係者から異論はないのだろうかという疑問である。もう一つはそれと関わるが、こうした本は短期的な読書量を増やすのに貢献しているのだろうが、本当に読書振興につながっているのかという疑問である。こうした本を読んだ子どもたちが成長し大人になっても本を読み続け、出版市場を支える人になるのだろうか。

子どもの本が売れているといっても、売れているのは子どものニーズに寄り添う娯楽的な本が中心であり、公費投入によって結果的に推進されることになるのはどちらかというと消費的な読書である。それでも、こうした子どもの読書行為が将来の出版市場の買い手を育成することにつながっているなら正当化されるかもしれないが、読書習慣の育成につながるのかどうかはかなり怪しいのではないだろうか。そもそも子ども読書推進の動きは、子どもたちがゲームやスマホに浸かっているよりも、どんな本であれ読書する行為そのものを無条件に肯定する考え方が背後にあるように思える。

ところが、著者は、2010年代になって一般家庭での児童書購入の割合が増えていると言う。それは教育改革によって学校図書館が調べ学習や総合学習の場に転換しつつあり、それにともなって学校図書館の資料購入が読み物中心から調べるための資料にシフトしつつあり、その分、家庭での購入に廻ったからだという。(p.128-130)学校図書館の本の貸出しの統計データはつくられていないし、ここで購入資料が調べ学習や総合学習用にシフトしているというのも特定の事例に基づく論なので、どうも根拠がはっきりせず、著者の推測によるとしか言えない。

だが、学習指導要領で探究学習が明示されつつあり、学校図書館が学校図書館法で規定する本来のかたちであれば、読書振興だけでなくて教科の学習を支援することが必要であり、そちらの方向に進むことは自然である。本書で著者は、どちらかというと子どもの本離れが解消されつつあることと、本の造り手が子どもの視点を重視しているという点を強調している。だが、その裏でこのような移行が進行していることをも示してくれている。また、最初に書いたように、この本が出版市場における公費による支援や図書館市場、学校市場の存在を明確に示し、児童書出版ではそれがかなり大きいことを示唆したことは重要な指摘だと思う。

高校以降の読書

小中学校の「読書量」が増えているというのは確認できたが、高校、大学、そして大人にそれがつながっていない。先ほどの2019年学校読書調査で5月の1ヶ月で一冊も本を読まなかった不読者の率は高校生だと55.3%である。過半数は不読者ということになる。平均読書冊数も1.4冊であり、これらの数値は1998年とあまり変わっていない。また、全国大学生協連が実施した2019年の「学生生活実態調査」で、大学生の48.1%が1ヶ月の読書時間が0分で、平均読書時間は30分という数字が公表されている。高校が受験その他で忙しく読書の余裕がないとはよく聞く話しだが、大学生になっても変化はない。小中生の読書とのギャップはあまりにも大きい。さらに2019年(平成30年)の文化庁「国語に関する世論調査」は16歳以上の男女に対して読書についても尋ねているが、回答者の47.3%は1ヶ月に1冊も読まないと回答している。これらの統計は、高校以降の人たちの半数は読書をしないことを示している。

実は、読書をしない回答者が半数という読書に関する大学生の状況は1998年の中学生の状況に近い。一番いいのは、大学受験と読書を結びつけるようなプログラムがもっと豊富にあるべきだということである。高校で始まる「総合的探究の時間」はそれを可能にするものになるのだろうか。しかしながら、やはり大学がもっと「知の在り方」をきちんと教育する場であることが求められているのではないか。教養科目や一般教育科目が軽視され、専門科目の下請け的な位置づけになっている今の大学の現状では、読書と知、そして専門教育が結びつけられていない。大学教員に、大学が総合的な知を育成する場という意識があまりないのが最大の問題であると思う。

大学図書館に対して資料費や職員配置のための財政補助を行い、カリキュラムに教養書や学術書を読むための枠を設けることを積極的に行ったり、ビブリオバトルや作家や著作者の講演会他のイベントを行うなどの積極策をとれば効果があることは確かだろう。実は、アメリカの大学は1960年代に大学進学率が50%を超えて大衆化が進行したときに、政府の資金により大学図書館を整備し、授業で大量の文献を読ませる方法を積極的に導入した。研究図書館と別に学部生図書館(Undergraduate Library)を設置したところも多く、大学の授業はともかく書物や論文を読むことを中心にすることが改めて確認された。

日本でも国が子ども読書振興にそれほどまでにこだわるなら、それを高校や大学まで継続するためのビジョンをもつべきではないだろうか。大学は国がカリキュラムや大学生に読ませるべき書籍の内容に口を出すのは拒否するだろうが、読書振興を名目に補助金を出すことは歓迎だろう。私は電子書籍の導入やネット環境の整備にもましてこういうことの方が大学生の学習意欲向上と環境整備に効果があると考える。

『教育改革のための学校図書館』を書いた私としては、本を読む機会が与えられればいいというだけの考え方には与したくない。図書館、学校図書館は出版市場という民間セクターに公的資金が導入されている場であり、その意味で知の公共性に関わっている。






2020-10-04

国際バカロレアと学校図書館との関係

大学をやめてから半年が経過して、ブログの更新も停止していましたが、そろそろ再開しようと考えています。本日は、日本図書館情報学会研究大会があり、そこで「国際バカロレアにおける図書館の位置づけ」という報告をしたので、これについて、この場で公開したいと思います。

抄録

日本でも,50校ほどで導入されている国際バカロレアディプロマプログラム(IBDP)の歴史と現状,学校図書館がどのように位置づけられているのかについて,IB本部の公式文書および外国での研究成果を基に整理した。1970年代から始まったプログラムは探究学習を中心とし,学校図書館は必置であるが,専門職員配置については曖昧であった。2000年代に進められたA. Tilkeの研究及び実践は専門職員配置について一定の成果をもたらしつつある。


本文ファイル

パワーポイントファイル


いくつか質問があったのでお答えしました。補足しながらまとめておきます。

Q アメリカの一般的学校のカリキュラムと学校図書館との関係と、IBのカリキュラムと学校図書館との関係は同じようなものと考えてよいのか。

A アメリカの学校といっても公立か私立か、州の違いなど個別のケースによってかなり違うが、20世紀後半以降、カリキュラムは探究型に転換しつつある。IBはアメリカのみならず欧米の学校カリキュラムで採用されている構成主義をもとにした探究的な学習法の動向を先取りしている。探究とは学習資源(これは、人、教材、学校図書館資料、データベース、ネット上の情報資源を問わず)を素材として使って自らの知を構築することである。この学習資源全体の管理と仲介機能を果たすのがlibrary/ianの役割とすれば、探究学習をするのにlibrary/ianは必須であるという理解は共通している。IBはそのような動向を先取りして制度化しつつあると言える。


Q 国際バカロレアのカリキュラムの推進に図書館が関わるという考え方はどこから来ているのか。それが日本で定着する必然性はあるのか。

A もちろんカリキュラムの推進は教員の役割であり、司書や司書教諭はそれを支援するというのは他の学校図書館とも同様である。発表でも述べたように、IBの本部は学校図書館員を専門職とみなして要求しているので、日本も含めて総じて図書館員の専門性、独立性は認められており、そのために教員と対等の立場で支援することがしやすいのだろう。定着するかどうかは今後の展開次第であり、そのためにこうした研究を行っている。


Q 国際バカロレアが日本の教育改革にどのような影響をもたらすと考えるか。そのときに学校図書館への影響は。

A IBのカリキュラムは2020年代の学習指導要領の方向性とぴったり合うものであり、その意味ではIBが国内の一般的な学校の実践に何らかの波及効果をもたらす可能性はある。その場合に、学校図書館にもよい影響を与えるかもしれない。とは言え、文科省が率先して導入をはかろうとしているが、これはカリキュラム改革というよりも国際教育という文脈で考えたほうが理解しやすい。なぜなら、IBを担当しているのは大臣官房の国際教育のセクションであり、カリキュラムは初等中等教育局の管轄なので別だからだ。だから、公立学校でIBを導入したところも県の教育委員会肝いりの特別の位置付けにある実験校にな(ってい)る可能性は高く、IB校が教育改革に対してプラスの影響を与える存在なのかはまだよくわかっていない。けれども、数十年単位での長期的展望を言えば、今後の学習方法のモデルを提示することは間違いないと思われる。







2020-03-31

言語と知識,国語教育 ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(2)

政権党党首であり総理大臣である人が,国会答弁や記者会見の質疑において質問の意図を「ずら」して答えることで切り抜けようとしていることが話題になった。答えにならない答えをしていても,それについて責任が問われない状況はなぜ生じているのだろうか。これは行政官庁において官僚が公文書の作成をためらい,作られたものを恣意的に管理することと関わっている。話し言葉はずらされ,書き言葉はなかったことにされる。

こうした状況は今に始まったことではないかもしれないが,少なくとも20世紀後半には政治家も官僚ももう少し言葉に対して責任をもっていたと思う。図書館情報学は言語表現された媒体を扱う領域であるから,言葉がこのように軽く扱われることについては大きな危機感を覚える。考えてみれば,日本で公文書管理がずさんであることや公文書館が貧弱であることと,図書館はそれなりにつくられていても司書を専門職としてこなかったこととは密接な関係があるだろう。文書は一回性の事象の証拠となるドキュメントであり,図書は普遍的な知を記録したドキュメントである。どちらも記録して集め組織化してあとで再利用するものである。日本社会は,ドキュメントの再利用に抵抗があるようだ。おそらくは,同質集団における関係が前提となった身体的なコミュニケーションがベースにあるからだろう。

ここ数年,ロゴスという言葉に惹かれてきた。これは,古代ギリシア語に端を発する概念で,言語,理性,法などの意味を有するとされる。この言葉が西欧の哲学のなかでどのような位置づけになるのかは,岩田靖夫・坂口ふみ・柏原啓一・野家啓一『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(有斐閣 1993)に概説されている。重要なのは西欧の思想が今に至るまで一貫して,このロゴス(理性主義)を基軸として形成されてきたということである。この本でも,中世にはキリスト教神学がギリシア哲学のロゴスを否定的に扱ったことが書かれているし,近代以降ロゴスがもたらした科学技術が人間社会に与えた負の遺産が語られている。だが,ロゴスの発動が西欧社会の発展をもたらしたことについていささかもゆらいではいない。

ロゴスが言葉であり理性であるというのは,人は言葉を発し,書き記すことで自らの思想を生み出しそれを他者に伝え,蓄積し,必要に応じて取り出して参照するという,そうした知的営為が結果として社会を発展させる原動力になったということである。そこでは,図書館や文書館のようなアーカイブの機関が重要な役割を果たす。それはアーカイブこそが権力とそれにまつわる知の源泉を示すものだからだ。諸元に帰ることで権力と知のありようについて再考する機会を重視する再帰的な作用が組み込まれている。西欧の近代図書館は,中世以来の教会や修道院の図書館とともに,王侯貴族が宮廷に知識人の交流の場としてつくらせたものであった。そこでは知の言葉を凝縮した書物を置くことで,徹底してロゴスの機関であることを誇った。図書館情報学の出発点もそこにある。

明治政府の近代化路線は西欧社会の模倣で始まった。そこではこうした知的営為は限定されたかたちでしか導入されなかった。なぜならば,知は輸入して翻訳すれば手に入ったからである。帝国大学はそのための機関であり,西欧的な知を導入して日本的なコンテクストに置き換えて再配布することを使命としていた。日本の近代化はロゴスの自律的発動を嫌い,入れるべき知を限定し,国定教科書にまとめ直し,学校で習得させた。暗記中心の教育になるのはそのためである。

私は図書館情報学の研究をするうちに,以上のような日本社会,とくに教育システムがもつ歴史的な特性と限界に気づいた。日本人は江戸期までは中国というモデルがあり,近代以降は欧米というモデルがあり,いずれもその知を自らのコンテクストに合わせて咀嚼しながら導入した。それは現在に至るまで教育システムを支配してきた。これは自ら問題意識を構築し解決する人の出現を妨げてきた。モデルに倣って近代化を進めるうちはよかったが、近代化を達成した後は逆にそれが桎梏となっている。

最後に,国語教育の話をしておきたい。学校教育が自ら考える市民の育成を目的とせず,国に従属する臣民教育であったのは事実である。学校図書館は本来,学校における各教科のための知的基盤を構成するための施設のはずだったが,読書推進の役割しかもてなかったのは,学習者が知を自ら構築するという考え方が欠如していたからである。今,新しい指導要領において「探究」の言葉が散見されるわけだが,教育関係者がどこまで本気でカリキュラムを変更しようとしているのかは疑問である。

読書というと誰もがよいものであるということで思考停止してしまう。ともかく小学生までに読書の習慣を身に付けましょうといい,かなりの国家予算が子ども読書推進に充てられているが,実は,今の中等教育および高等教育を進めるだけでは,本を読み考える市民は生まれない。むしろ本を読ませるべきは中高生,および大学生なのだ。論理国語はこのようなコンテクストにおいてとらえるべきだろう。

私は国語という教科は数学と並んで方法の教科であると理解している。方法の教科というのは言葉や記号を操作することで思考を自ら進めるための手段となるものである。いろんな機会にお話ししているのだが,日本の数学はきわめて高度で,四則演算から始まり,解析学(微分・積分)や線形代数の基礎までをやる。これは理系教育ばかりか社会科学も含めた方法的な基盤を提供している。自然科学系のノーベル賞が連続して出ているのはその有効性を示している。

では,人文的な分野の方法はなにかといえばそれは言語に基づくものである。言語を理解し,発し,やりとりする力である。数学があれほど一貫した体系で進められているのに,国語はそうではない。漢字の読み書きができるようになるとあとは文学的鑑賞を中心とするものに移行していた。本当はクリティカル・シンキングを含めた文章の読み書きの方法を学び大学での学びにつなげていかなければならないのに,そうではなかったのだ。

今後は,これらの問題について,歴史,思想,国際比較の観点から研究を続けていくつもりである。



図書館情報学をおもしろがって ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(1)

3月末日をもって,35年にわたる大学教員生活に終止符を打つことになった。本来であれば,3月21日に予定されていた公開シンポジウムの場で「最終講義」と題して語るべきであったことの一部についてここに書きつけておこうと思う。この公開シンポジウムはこの間のコロナウィルス騒ぎ(この騒ぎがもつ意味についてはまた書いてみたいと思う)で延期になった。これが最終講義として実施されることはおそらくはないだろう。

用意したレジュメ(今のところ非公開)の最後の部分に「役に立つ学問とおもしろがる学問」という表題をつけていた。考えてみると,私がやってきた学問は徹底的に自分だけが「おもしろがる学問」だったと思う。逆に言えば,本来,「役に立つ」ことを要請されていたのに,あまりその方面には関心をもてなかったことがある。そのために関係領域の方々には失望の念を与えたことがあったかもしれない。最近出した『レファレンスサービスの射程と展開』で私は2本の論文を書いたが,そのうちの第4章「レファレンス理論でネット情報資源を読み解く」は私がもつ「おもしろがる資質」が前面に出た論文である。たぶんこれを読んでおもしろがってくれる読者が少数であることは覚悟している。

こういうスタンスで書くのはなぜかというと,これは私の母校であると同時に20年間勤めた東京大学教育学部の性格と関わっている。ここは戦後教育改革で設置された「ポツダム学部」と呼ばれたものの一つであり,戦前の皇国史観を支えた師範教育を否定し,戦後民主主義に基づく教育制度を新たに構築するために帝大系大学に設置されたものである。アカデミズムをベースにして教育の営みを批判的に読み解き新しい教育理論を構築することが要請された。「現場」に寄り添った議論を特色としていたが,よく知られているように冷戦体制下においては教育は保守対革新に分かれた政策論が中心になり,ここの教員は日教組に近い立場をとる人が多かった。また,それに対する反発から逆に極端に保守的な議論をする教員もいた。私はそこで前提になっていた教育政策論が結局は教育を政治的道具と位置づけていることの限界を感じる一方で,戦後新教育において確かに図書館は一定の位置づけがあったはずなのに教育政策においてはまったく語られないことに対する絶望的な気持ちもあり,違ったアプローチをとることにした。

図書館情報学はもともと図書館員(司書)を養成するための領域であった。私がここ5年間所属した慶應義塾大学文学部図書館・情報学専攻は,戦後改革の時期の1951年に占領軍の後押しでできたJapan Library Schoolを発展させたものであり,大学で図書館員を養成するための拠点として設置されたものである。それは慶應義塾がもつ本質的に実用主義(プラグマティック)な性格とも合っていた。設置当初から1970年代くらいまではその役割を果たしていたと思われる。当時の企業はここを卒業した学生を図書館や情報の仕事をする専門職として雇用してくれていた。だがそれも高度成長からバブル経済の時期までである。その後,企業に経営の体力がなくなるとそうした雇用はなくなった。戦後社会と図書館員養成との関係については,1979年に開学して2004年に廃止になった国立図書館情報大学の運命といっしょに語らなくてはならないのだが,それもいずれかの機会にということにしておきたい。ともかく,今では慶應の図書館・情報学専攻を卒業して図書館員になる学生は卒業生の1割もおらず,そもそもの設置目的からするとだいぶずれてきている。


私は,これを日本社会において(西欧的な意味での)図書館は必要とされる機関ではなかったと考えている。なぜそうなったのかについてはすでにいろんなところで書いたし,今後はこれを歴史をさかのぼって検討する予定である。ともかく,私はこのような状況そのものを「おもしろがる」ことにしたのである。文科省や東大教育学部を含んだ日本の教育関係者が図書館を無視してきたことは事実であり,そのこと自体が今後の教育政策を考える上で重要なテーマとなるのではないかと考えた。それを追及した『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』の二冊の本は教育学の総本山から離れたことで書くことができた。


教育と図書館との関係を考えるためにはいくつかの媒介項が必要になる。言語,情報,カリキュラム,学習方法,教材・教具,教育評価といったものである。これらの全体の最新の理論研究を見てきて,これが図書館情報学が対象としてしてきたものを別の角度から見ていると考えるようになった。ただし,米国経由で入ってきた日本の図書館情報学と同じように,教育政策の議論でも欠けているように見えるのが,言語と知識との関係の捉え方が欧米と日本とでかなり異なることである。これについて,次のブログで簡単に述べておきたい。

2020-03-24

PISA 2018, コンピテンス, そして「翻訳」

以下は、雑誌『みすず』2020年1月/2月号に寄稿したものです。

 「2019年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

PISA2018で日本の子どもたちの読解力がまた下がったと大騒ぎである。また、大学入学共通試験実施に関して、英語の4技能試験や記述式試験の導入を先延ばしにするというニュースがかけめぐっている。そこで問題になっているのは「公平性」である。しかしながら、試験における公平性とはなんであろうか。そこでは社会的、経済的な条件が違っても受験者が臨む試験は唯一無二の神聖な競争の場であり、同じ条件が確保されなければならないという規範が覆っている。試験は差別化のための方法なのだからそれ自体が形容矛盾であり、すでにある「公平な」条件が一人歩きしていることは明らかである。

改めて、渡辺雅子『納得の構造:日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社, 2004)を読み返し、20世紀の日本の教室では子どもたちの自然な発話と共感とが最大の価値であったことを確認した上で、福田誠治『ネオリベラル期教育の思想と構造:書き換えられた教育の原理』東信堂, 2016)を読むと、21世紀になって急に前面に現れたOECDのPISAが追求しているものが、グローバライゼーションに基づく自由主義的競争の下で賢く振る舞うことのできる能力(コンピテンス)であり、この数十年で生じた両者の違いがひしひしと感じられる。受験期の子どもたちはそのギャップを一身に受け止めざるをえない。

今回、文科省の関係者は、高大接続を合い言葉に入試改革を梃子にして念入りに準備をしたはずなのだが、最後は拙速になった 。おそらくそれは、江戸から明治の移行期に、西欧諸国に範をとって、法制度や行政の仕組み、科学技術や学術その他国のインフラになるものすべてを導入しようとしたときに、新しい言葉とともに、概念や言葉に付随するもろもろの制度・文化を無理矢理導入したときに始まったのだろう。「翻訳」が単に二つの異なった言語間の対応関係にとどまらないことは、近年のトランスレーション・スタディーズが示している。長沼美香子『訳された近代;文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版会, 2017)は、明治政府が辞書編纂を通して対応づけを行った記録を分析したものである。ここまで遡らないと、日本の急ぎすぎた近代化が教育にもたらした負の遺産は明らかにできない。そして教育や文化が時間の関数であることを改めて確認したい。

なお、私の専門分野では、デビッド・ボーデン/リン・ロビンソン(塩崎亮訳)『図書館情報学概論』勁草書房, 2019)が出て、他分野からの見通しがつきやすくなったことを報告しておきたい。

2020-03-04

『レファレンスサービスの射程と展開』の刊行


暗い話題ばかりの昨今ですが、少し前向きの(?)話題を。

日本図書館協会から『レファレンスサービスの射程と展開』という本が出ました。












































この論集は2018年3月に逝去された故長澤雅男教授の教え子に当たる人たちを中心として、「レファレンス」をテーマに一冊にまとめたものです。レファレンスというともう古いとか、ネットで代替できているという反応が一般的です。論集でも少し触れられていますが、むしろ「レファレンスって聞いたことがない」「リファレンスというのが正しいでしょう」という人も少なからずいます。そういうなかで、図書館員が自信をもってレファレンスサービスを実施できるようにという思いを込めて、研究者がその重要性を理論的、実践的に明らかにしたものです。

日本の図書館界でレファレンスサービスといえば、第二次大戦後の占領期にアメリカ図書館学の影響を強く受けて導入されたものと考えられています。図書館界では志智嘉九郎の神戸市立図書館での実践がよく知られていように、1950年代60年代には図書館員の専門性を示すサービス戦略としても重要視されていました。しかしながら、その後は知られているように「資料提供」を中心とした人的サービスを前面に出すことでレファレンスはサービスを支える一要素として背後に置かれたとみられています。さらにはネット社会の到来とともに、サーチエンジンやSNS、Wikipedia、 Q&Aサイトで大方の疑問は解決するし、図書館での検索もWebOPACがあれば十分となっています。それとともに質問件数も減りました。

では、レファレンスサービスの重要性は下がったのでしょうか。この本ではむしろネット社会の普及によって日本人が初めて、外部情報源の存在を知ることができるようになったという立場をとります。そして外部情報源(というのはむろん図書館資料も含みます)へのアクセスも含めた情報アクセス全体を考えるのが図書館のレファレンスであり、その意味では課題解決サービスも、展示やイベントも、ビブリオバトルも、読書相談も、ネットでの情報発信もすべてレファレンスと捉えようというものです。そのため扱っている内容は多岐にわたっていて、一方では、知識哲学や記号論を援用した議論があり、 他方では、情報システムの解説や情報を知識として扱うための手法の説明、さらには図書館でのレファレンスサービスの運営法や情報リテラシー教育についての議論があります。


『レファレンスサービスの射程と展開』(根本彰・齋藤泰則編)

Ⅰ部 理論・技術
1章 知識の論理とレファレンスサービス (明治大学文学部教授 齋藤泰則)
2章 レファレンスサービスの要素技術 (筑波大学図書館情報メディア系准教授 高久雅生)
3章 レファレンスサービスの自動化可能性(南山大学人文学部准教授 浅石卓真)
4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)

Ⅱ部 情報資源の管理と提供
5)章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界 (慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子) 
6章 知識資源のナショナルな組織化 (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)
7章 パーソナルデジタルアーカイブは100 年後も「参照」されうるか(聖学院大学基礎総合教育部准教授 塩崎亮)
8章 『広辞苑』に用いられた媒体の移り変わり (鳥取大学講師 石黒祐子)
    
Ⅲ部 図書館レファレンスサービスと利用者
9章 日本のレファレンスサービス 七つの疑問(慶應義塾大学名誉教授 糸賀雅児)
10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)
11章 米国の大学図書館界における教育を担当する図書館員に期待される役割と能力の変化(帝京大学高等教育開発センター准教授 上岡真紀子)
12章 探究学習における学校図書館の役割(京都ノートルダム女子大学国際言語文化学部教授 岩崎れい)

私が書いた序文を読めるようにしておきます。
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序文

17世紀バロック期に微積分学の基礎をつくった万能の天才ライプニッツはハノーバー宮廷の司書を務めていた人である。彼が構想した「普遍百科事典」は今インターネットとGoogleの組み合わせとして実現されようとしている。というのは、Googleはそもそも開発者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジによって、所属していたスタンフォード大学のデジタル図書館計画として構想されたものに起源があるからだ。「ページランク」と呼ばれるその検索アルゴリズムは、被引用回数、引用メディアの重要性、引用者の重要性など学術論文評価システムの考え方をそのまま踏襲していた。インターネットが検索エンジンと組み合わされて普遍百科事典あるいは巨大な図書館となっているというのは、単なる隠喩ではなくて、実際にそれを実現しようという構想からスタートしているのである。 これにより、 図書とその他の情報源の区別をするのが難しくなっている今日、何を調べるのにもまずGoogleを検索するのが日常になっている。

続く

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論集のなかで私が注目しているおもしろい論文を2本紹介しておきます。

 5章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界(慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子)

橋詰さんは 、IFLA LRM(図書館参照マニュアル)を中心とした、書誌記述の新しい動向を研究した論文で慶應義塾大学で博士号をとりました。LRMのRはReferenceのことで参照と訳されています。参照とは何であるのかは、私が書いた4章「レファレンス理論でネット情報源を読み解く」の中心的テーマですが、IFLA LRMでは従来の書誌記述が著作の標題紙にあるようなデータに加えて内容を概括的に把握した主題や分類記号を付与するのにとどまっていたのに対して、著作がもつ内部構造や他の著作ともつ関係を記述する方向に向けて踏み出しています。これまでも著作と著作との関係は版や翻訳、シリーズものなどで表現されていたわけですが、さらには、原著作の解説書やインスピレーションを受けて発展させてできた著作(翻案)、映画やコミックなど同じ原作をもとにするものなどの多様な「関連」が表現できるというものです。書誌や目録の世界とレファレンスの世界が思いのほか近いことがわかります。

10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)

福永さんのこの論文は、読書相談サービスがレファレンスサービスの一部なのか、別物なのかという、かつてあった議論を受けてこれを厳密に検討しようとしたものです。その際に、レファレンスサービスは回答するにあたって典拠(情報源)を示すことが必要となる のに対して、読書相談は相談員自体のもつ専門的知識が回答の根拠になることが求められると述べられています。これは第1章の齋藤泰則さんの議論や第4章の私の議論で、レファレンスサービスが成立するためには何らかの「権威authority」に寄り添う必要があり、その権威は一つには典拠とするレファレンスブックやレファレンスツールにあるが、もう一つはそれを使うための図書館員のスキルにあるとしていることに関わります。読書相談において何らかの図書の推薦を求められた場合に、やりとりによって当該相談者がどういう人であり、何を求めているのかを理解することに関してはレファレンスサービスのスキルと同様のものが求められますが、その後はレファレンスサービスではツールをもとに回答を出すのに対して、読書相談ではツールから相談者に適合するものを選択するという行為が必要になります。この行為のトレーニングができるのかどうかについて、選書、調査業務、児童図書館員の行為などを参考にしながら論じています。

以上の2本は、著作と著作との関係や著作と人間の関係に関わる問題を扱っていることは明らかであり、レファレンスサービスはすぐれて応用知識学と呼べるような領域をカバーしていることに気づきます。1章、4章は知識それ自体の在り方を議論しているものです。こちらにもチャレンジしてみてください。





なぜこの本を翻訳したのか:生成AIと図書館(2)

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