昨日届いた『図書館界』72巻4号を開き、新出さんによる、薬師院仁志・薬師院はるみ著『公共図書館が消滅する日』(牧野出版, 2020)の書評を読んでみて、喉のつかえがとれた感じがしました。というのは、この本が何を主張しているのかがよく理解できず、もやもやしていたのに対して、すっきりと問題点を整理してくれているからです。この書評をきっかけとして、この本の問題点について論及しようと思います。
戦後の日本の公共図書館界では、国の統制を避けて個々の図書館(員)が住民と連帯しつつ自発的な活動をすることで発展できるという論理を組み立ててきました。ここに関わる団体としては、日本図書館協会(日図協)、全国公共図書館協議会(全公図)、図書館問題研究会(図問研)、日本図書館研究会(日図研)などがあります。日図協は言わずと知れた『中小レポート』と『市民の図書館』というこの考え方を推進した大元の団体です。関わる団体も一枚岩ではないのですが、書評に、全公図が日図協の公共図書館部会から分かれて行政的なプレッシャーグループとして活動することを目的としてつくられたとあるように、相互に関わりをもちます。図問研は日図協が敷いたレールの上で活動する現場図書館員の議論を集約する場であり、日図研は主として関西の図書館員と研究者が関わって日図協の活動を牽引したり後ろから押したりする役割を果たしてきました。
この本の著者らは、日図協を中心とする団体の活動および関係者の言説に対して批判を展開するのですが、私はこうした批判によってどのような対抗的な議論が行われているのかが不明と感じていました。新さんの書評では、本書が大胆に戦後図書館史を分析しようとしていることは評価しつつも、細部に問題が多いことの代表的な例を示し、そもそも土台の部分も怪しいという議論をしています。このあたりはまったく同感であり、こうした分析がされることでなるほど著者たちはこういうことを言いたかったのかと気づかされることも少なくありませんでした。
書評では、「「主流の物語」を批判するために、資料から自説を補強できる部分のみを引用して、別の「物語」を構築しているように受け取れる」(p.196)と述べられています。私には、その構築された「物語」が「本書が批判対象とした既存の図書館の発展史観と似かよっている」というところはよく理解できていませんでした。タイトルは「公共図書館が消滅する日」とありますから、国家的なプランとつながったり、外部からの提案を活かすチャンスは何度かあったのだが、図書館関係者はそれをことごとく自ら潰し、自壊の道を歩んできたと言いたいのかと思います。とすれば、これはとても「発展史観」とはいえないのではないか。というのは、潰してきたプランや提案の主体は、GHQの担当者だったり、図書館協会の理事だったり、図書議員連盟だったり、文部省だったり、日本書籍出版協会や文芸家協会だったりというように、時代が違えば、主張の背景も主体もばらばらだったし、図書館を推進しようという思惑もそれぞれ異なっていたからです。
本書の帯には、「真の目的と存在意義が、いま、失われようとしている」と大きく書かれています。本書に言う、公共図書館の「真の目的」とは何なのか最後までよく分からなかったというのが正直なところです。「はじめに」では、欧米の図書館が公共に開かれたものになっているのに対して、日本の図書館が商業主義的な原理に依拠し、指定管理を導入したり、非正規職員を大量に導入したりして、図書館運営や貸出の多さを競うようなサービス方針になっているが、これでは公共図書館とは言えないと主張しています。けれども、著書全体を通して個別の批判に終始し、このような「目的と存在意義」を実現するための制度とは何なのか、それをどのように実現するのかについては議論されていません。著者らは図書館法の法改正が必要だという議論をしたかったのかもしれません。書評では、著者の一人薬師院はるみさんの論文を引いてそのような読み取り方をしているように見えます。けれども、それは必ずしも前面に出てはいません。
こういう政策的議論には、戦略的な視点をもって歴史的分析を行い、現状分析をする必要があるのですが、本書には戦略的視点も、現状分析もありません。あるのは西欧的な公共性をベースにした個別の歴史的分析と批判だけです。また分析をする際の一貫した歴史観は感じられません。書評でも言われているように、これだけの視野で大量の現代図書館史の文献を集めて分析しようという作業は貴重だとは思います。また、これまで日本の公共図書館論に使える戦略的視点がどれだけ用意されているかというとそれも疑問です。だから、著者らにはここで展開されている論理の枠組みを明確にして、批判のための批判に終わらないポジティブな議論を今後展開されることを期待したいと思います。
私は直感的に著者らの批判は、個別にはともかく政策論としては有効でないと感じます。というのは、貸出を熱心に行う図書館も、指定管理の図書館も、居心地の良さを市民にアピールする図書館も、紆余曲折に見えて、日本の図書館が自立するためには必要な過程だったと思われるからです。それだけ日本人には、著者らがいう「図書館」とは何なのかが分かっていなかったとも言えるのですが、この間に、市民は日本的図書館を見いだしてきたのではないでしょうか。その証拠には、コロナ禍で図書館活動がストップしたときに、図書館サービスの復活を望む声が早い時点でさまざまな方面から上がったことが挙げられますし、今、文化庁の審議会で著作権法を改正して図書館が著作物の一部のデジタルデータを公衆送信できるような議論を行おうとしていることにも示されます。これらは、『市民の図書館』から50年目にして、ようやく目に見える動きとして現れたものです。文化的な事象はそれだけ時間を掛かけて熟成するということではないでしょうか。
追記(11月11日):その後、Facebook上で、評者の新さんとも議論して改めて思ったことですが、第一著者薬師院仁志氏が欧米社会および社会学の視点から社会批評をしてきた人であり、橋下行政への批判などもしてきたことを考慮すると、この本は、日本社会が欧米水準から見て不足しているものがあるという視点から、冷戦体制時には保革政治の荒波に揉まれ、その後は新自由主義を背景にした消費社会に変貌していくなかで、図書館関係者が住民要求というワードに脚をとられ、市民的公共性に照準を合わせることができていないことに対する批判であると受け取るべきなのでしょう。