2018-02-17

入試問題出題ミスについて考える(2)

大学入試の在り方について考える


入試問題出題ミスについて考える(1)」の文章を書いたあとに、朝日新聞社のWEBRONZAにこのテーマについての論考が3本掲載されていることに気づいた。(http://webronza.asahi.com/science/themes/2018020800004.html

科学・環境 阪大・京大の出題ミス騒動に巻き込まれて
吉田弘幸 2018年02月13日

入試ミス問題に対する現場の言い分
須藤靖 2018年02月09日

科学・環境 阪大、京大は入試でどこを間違えたか
延與秀人 2018年02月06日

このうち、延與氏のものは出題内容について論じたものであるので措いておいて、吉田氏と須藤氏は出題方法や入試の仕組みを含めて意見を述べている。読んで同感するところがあったので紹介し、コメントしておきたい。

吉田氏は、大阪大学の問題について予備校毎に解答が違っていることを指摘した人である。それが半年以上も過ぎて今回騒ぎになった事情を説明してくれている。大阪大学当局が当初は正面から対応しない態度だったのが文科省への働きかけの後、入試ミスを認めて追加入学者も発表したこと、そして、その間に、知人から京都大学にも入試ミスがあったことを知らされ、それも指摘したので京都大学でも同様の対応になったということである。

こうした処理の過程も興味深いがここではそのことは問題にしない。むしろ、吉田氏は物理を予備校で教えている立場から、物理の問題に間違いがあったことが許せなかったと発言していることに興味をもった。彼は、大学は解答例を公表することがこうしたことを防ぐのに役立ち、それはひいては中等教育の質の向上に貢献すると述べている。

私は、前稿で日本に蔓延している正解主義を批判したが、物理学ならパラダイム転換はそうそう頻繁にあるものではないから、入試問題に正解を設定することはそう難しくないことは認めたい。ミスが生じやすいとすれば、正解を選ぶための選択肢をつくるときであり、それは研究者がそういう考え方に慣れていないからではないかと考える。だから、吉田氏が出題の仕方について、択一式ではなく物理オリンピックのような論述式の問題にすべきで、解法も含めて受験生に論述させることによって出題ミスを防げるということはその通りだと思う。その方が教育改革を進める上での中等教育へのメッセージ効果という意味でも望ましいことは確かだろう。

吉田氏は出題ミス自体を問題視しているのではなくて、学んでいる受験生に混乱がないようにすることが重要だとし、そのために出題方法を変更すべきだと考えているのである。
他方、須藤氏は物理学者で、出題に廻っている立場からの発言だ。 こちらの主張も明快である。

「問題の本質は、"大学入試制度は完璧であるべきで、得点の1点差が重要である"という間違った思い込みにあるのだ。」
「そもそも、入試問題作成は、教員にとっては、労多くして功の少ない業務の典型例である。時間をかけて独創的な問題を作成しても、高校の指導要領の範囲内で本当に解けるのか、他の解答の可能性はないのか、など、すぐにはわからない数々の確認事項がつきまとう。」
「つまり、”大学入試に完璧はありえないし、それを求めること自体が間違っている”こそ私の主張である。総計が500点満点の試験の場合、10点程度の違いは、受験生の能力の違いを反映しているはずはなく、単なる誤差だと考えるべきなのだ。」
「とはいえ、現在の制度では1点差で合否が決まり、受験生個人にとってその違いは無視できない影響を及ぼす。では、どうすべきか。これについてはすでに過去に書いた通りだ。」

として、ボーダー周辺の受験生についてはランダムに選ぶとか、複数の大学の試験を共通化するなどの方法を提案している。ここで前提になっているのは、受験生の学力は評価可能ではあるが、細かく点数化することには意味がないので、おおざっぱに選別する仕組みを大学を超えて共同でつくることで、受験生にも大学にも大きな負担がないようにするということである。

須藤氏は、現行の設問でも入学後に必要な能力を評価することは可能であるという立場だ。ただし500点満点での1点差を問題にすることには意味がないが、もう少し大雑把に、たとえば10点刻みの点数なら合否判定はできるという考えのように受け止められた。吉田氏が出題を論述式に変えることを提案したのに対し、須藤氏は出題方法は変えずに、入試の仕組みを変えるのと評価方法を変えるのとを提案している。出題方法を論述式にすれば採点の手間が大きくなるのに対して、大学への負担を増やさずに今よりはよい方向を目指す考え方だ。

だが、1点単位の点数差を無視してくじ引きにするという考え方は、日本人が試験に抱いてきた、公平な条件の下で受けてその成果が公平に判定されるというだけでなく、努力の結果が合否判定に反映されるという感覚からすると、少々問題ある提案であるかもしれない。日本社会はどれだけの能力があるかではなく、能力は努力次第で代替できるのであり、努力も含めて評価すべきと考えるから、些細な1点差まで評価に含めることが期待されていたのである。

今回、受験産業の所属者が大学受験にクレームをつけたことも注目される。これは入試自体が変質しようとしていることを示しているのだろう。実は、入試に関して大学や高校の教員よりも塾とか予備校の教員の方がしっかりとその本質をつかんでいるはずで、今回のケースは、受験のプロが、アマチュアがつくって固定化したままになっている制度の矛盾を指摘したと考えることもできるだろう。

この問題を解決するには、大学に入学するための能力評価はいかにあるべきか、 それをどのように測定するのか、その際の公平さとはなにか、受験生やその親も含めた社会に対して説得的な変更は可能なのか、変更するにあたっての大学側のコストはどのようなものなのか等々の困難な課題に直面する。だが、私も含めてそれぞれの表現の違いはあるが、学習者の能力を測定する仕組みとしての入学者選抜の方法は、徐々に変化すべきだし、変化しつつあるとしている点では共通していると思われる。

今が受験シーズンであり、その渦中にいる受験生にあまり幻滅するメッセージを与えたくないという配慮がいろんなところで見られる。だが、本来、高等教育を志向するものは、受験という制度が抱えるこうした課題を直視することもまた必要である。言うまでもなく、教育関係者もメディア関係者も大きな流れを意識すべきだと考える。



 

入試問題出題ミスについて考える(1)

正解主義への傾斜を憂える


今、大学受験シーズンのまっただ中にいる。そこでは、受験生はその結果によって4月以降の身の振り方が決定される。当の受験生もその保護者も、甘んじてそれに参加することを余儀なくされていることからくるぴりぴりとした感覚がただよってくる。2020年入試改革をめぐる議論も盛んだが、そんなものはどこかに行ってしまったように年中行事が繰り返されている。

私は今、進行中の教育改革と一見すると逆行するような動きが見られるのが気になっている。以下、拙著『情報リテラシーのための図書館』(みすず書房)に書いたものの延長上で論じてみたい。

大阪大学、次いで京都大学で、昨年度実施した入試問題に誤りがあったことが報道された。センター入試ではムーミンの故郷をめぐって出題ミスではないかとの指摘もあった。もちろん、問題に誤りがあってはならないし、誤りに対して適切な処置をとるべきとの意見にも異存はない。しかしながら、「ポスト真実」が問題にされる時代だからこそ、「正解」の存在を前提に瑕疵をあれこれ指摘する風潮には釈然としないものを感じる。

何よりも試験問題を作成している大学教員は、教員である前に研究者であって、正解がない世界を日夜探究している人たちだ。科学理論はとりあえず多くの研究者が認めたものを「真理」としているのにすぎない。だから、真理は更新されうる(これはトマス・クーンのパラダイム論に基づく)。そういうところに参加している人たちにとって、正解のある問題をつくること自体が不得手である。

自然科学ですらそうなのだから、人文社会科学が関わる領域において唯一の正解が想定されることはありえない。今回の教育改革は高大接続を前面にだして、中等教育までの学びと高等教育の学びを連続させることを究極の目標にしている。そのため、一人一人の学習者が自ら「正解のない問題」を解決する力を養うことが今回の教育改革の目標となったし、それを問うための入試は、「思考力・判断力・表現力」を総合的に試すものにするものに変えていくという合意があったはずである。なので、今の時点で、一つの正解をめぐってこれほど大きな問題になるのは意外であった。

日本人の試験へのこだわりは明治初年に遡ることができる。斉藤利彦『試験と競争の学校史』(講談社学術文庫)を読むと、明治5年の学制発布後まもなくの時点で、地域を問わず全国で試験による統制方法が採用されていたことが分かる。明治政府は四民平等の原理のもとで、国づくりの基本原則として富国強兵と殖産興業、そしてその手段としての国民皆学を掲げた。これはまたたくまに全国に行き渡った。福沢諭吉『学問のすすめ』が読まれ、自発的な学びが奨励されたとしても、学校での学びを進める力となったのは、試験による競争原理であった。それ以前の身分制から脱することができた民衆にとって、学ぶことは立身出世の道とされるようになった。

こうして日本の近代社会では、学ぶこと、そして知識を身につけることよりも、その結果としての学歴および学校歴が重視されることが当たり前のようになった。また、試験とセットになった、唯一の正しさを追求する競争的正解主義は、官僚主義的な組織原理と密接な関わりをもつ。東大法科が文系エリートが選ぶ場であったのは、国家官僚と司法が国を統制する原理をつくっていたからである。企業も終身雇用を前提として人を取り、そこでは組織人としての規律が要求された。

だが、これらが経済大国日本をつくりあげる原動力になってきたことは確かであるが、今になって社会の至る所で軋轢と窮屈さとをもたらしていることは言うまでもない。だからこそ、今時の教育改革はこの原理の見直しを国家的に進めるものと理解できる。

しかしながら学ぶことが目的になるのではなく、社会的地位確保の手段とする傾向は、今に至るまで、受験偏差値によって序列化された大学リストが作成されてメディアを通じて共有され、それが大学選びの際に重視されていることに現れている。大学教育に携わるものとしては、そんなリストに基づき予備校等で無理やり引き伸ばされた学生の「学力」など、信用できないと常日頃感じているのであるが。

入試ミスの指摘の多くは受験産業から寄せられたものであった。試験問題の間違いなどこれまでいくらでもあったはずなのに、今の時点でこれだけ大問題になったのは、正解主義を志向する人たちが少なからずいることを示している。

今、私たちは、正解主義的組織原理に揺さぶりをかけることで、明治国家建設、そして、戦後改革に並ぶ大きな社会的実験を行う時期にいる。これにより、私たちは自ら誤りを修正しながら進んでいくことのできる人材を育成する方向への切り替えを試みているのである。ささいなことに足をとられて大きな歴史の流れを見失うことのないようにしたい。

「入試出題ミスについて考える(2)」に続く)

2018-02-06

ネット時代の国会図書館の納本制度

1月27日に、三田図書館・情報学会月例研究会の「国立国会図書館の役割と電子書籍・電子雑誌収集実証実験」(発表者:小熊美幸氏(国立国会図書館収集書誌部))に出席した。前に話題にした「書籍のナショナルアーカイブ」の議論を補うものとして、国立国会図書館(NDL)の納本制度に基づくサービスがどうなっているのかについて書いておきたい。これは小熊氏の発表内容とNDLのHP上の公式の見解を前提に、私の独自調査と解釈・意見を加えたものである。

松田政行弁護士の「書籍のナショナルアーカイブ」論においては、Google Books裁判を通して、Googleが少なくとも英語圏の書籍をすべてデジタル化してそこからテキストを取り出し、そこからつくった全文データベースをもとに、全文検索と版面の一部をスニペット表示することを可能にするシステムを提供する合法的な根拠が得られたことが述べられている。そして、日本政府はこれへの対抗措置として、著作権法と国立国会図書館法を改正して、NDLが書籍をデジタル化して保存すること可能にし、これによって同館がGoogleと同じことが制度的には可能になっているのだと述べている。

昨年10月26日の研究会では、それに加えて、最近になって日本政府は知的財産戦略推進本部が文化資源のデジタルアーカイブ政策を進め、そのなかでは同館が重要な役割を果たす位置づけにあることや、文化庁が著作権の権利制限規定の柔軟化を進めていることについても議論された。あのときには、同弁護士から後者の法制化が準備されているとの発言があったが、実際に今国会に上程される予定であると聞いている。

さて、今回の研究会では、NDLが実際にこれをどう進めているのかについての概略をうかがった。私自身先の研究会を準備するにあたり、これを勉強してたいへんな難物だと感じていたので、まとめて伺うことができたのはありがたかった。NDLのホームページには「資料収集保存」「電子図書館事業」のページがあるが、そこには「資料のデジタル化」「インターネット収集(WARP)」があり、さらに「オンライン資料収集(e-デポ)」がある。これらの相互関係はどうなっていて、ここ10年で著作権法や国立国会図書館法が立て続けに改正されているのとどのような関係になるのか、といったことを理解するのはけっこうたいへんだった。私自身の関心はさらに、「書籍のナショナルアーカイブとは何か」にあるのだが、それについては他日を期すことにして、NDLのデジタルアーカイブ戦略がどのあたりにあるのかについて把握したことを書いておく。

昨日の話しは予想通り次の図が引き合いにだされた。これはHPのここにあるものである。
納本制度というのは、NDLが法に基づいて出版物の発行者に出版物の納入を義務づけることのできる制度である。それは、国や自治体などの政府機関のもの(青い破線の上の部分)と民間のもの(同下)に分かれ、さらに「有形のもの」と「無形のもの」に分かれる。無形のものというのが、ネット上にあるコンテンツのことで、そのなかで「図書・逐次刊行物に相当するもの」が「オンライン資料」である。この図では赤い破線で囲まれているところである。

インターネット資料のうち青線の上の国等のものは館法25条の3に基づく収集対象で、これをソフトウェアで自動収集する事業はインターネット収集(WARP)と呼ばれている。オンライン資料とはネット上にある書籍や雑誌のことであり、そのうち青い線の上は政府系のものだから、WARPで自動収集することができるようになっている。

問題は青い線の下の民間のものである。電子書籍や電子雑誌の納入を義務づけるものだ。民間のものは無償/有償、DRMあり/なしによって4つ(AからD)に分かれている。DRMとはDigital Rights Managementの略で、利用にあたって何らかの制限措置を施すことで、DRMありとは利用にあたり何らかの手続きを要するもので、ネット上での自由な閲覧や複写はできない。このうち、Aの無償でDRMなしのものが当面の収集対象となっている。BからDが対象とならない理由を考えてみると次のようになるだろう。

NDLは伝統的に有償で販売される民間出版物の納入には代償金を支払ってきた。概ね定価の半額を支払うものである。そのため、これらについても代償金を支払うことが想定されていて、そのためには金額をどのように設定するのかを決める必要がある。だが、そもそもまだ電子書籍市場が安定してつくられていないし、まして図書館への販売についても市場は未成熟である。そのため、代償金をどうするのかについて出版界との合意をつくりにくい。ということで、「電子書籍・電子雑誌収集実証実験」というのをやって、技術的な問題の検証やNDL館内での利用実態の調査などをしているということである。

研究会では、この実験をやる意義などについて疑問が出されていた。だが、BからDをはずす措置は「当分の間」のものであり、この実験は将来的に納入の対象になるはずの商業的な電子書籍・電子雑誌について、制度を始めるにあたっての出版界との合意形成のために必要ということで実施されていると理解している。

私はAの無償でDRMなしのオンライン資料の収集について関心をもってきた。なぜなら、ネット上で誰でも情報を発信可能であって、ありとあらゆるコンテンツがある。だから、多様なコンテンツのうちどれが電子書籍あるいは電子雑誌なのかという素朴な疑問をもってきたからである。これは、そもそも納本制度の対象である図書とか逐次刊行物とは何かという問題に戻るものである。

国立国会図書館法の第24条第1項には納本対象資料が列挙されているが、そこには図書や逐次刊行物以外に「九 電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつては認識することができない方法により文字、映像、音又はプログラムを記録した物」がある。電子的方法で文字ないし映像を記録した物はネット上に無数にあるのだが、納本対象である電子書籍や電子雑誌と言えるものは何なのだろうか。紙のものだと出版物として発行されているものを中心としてきたが、どこまで含むのかについては「灰色文献」などと呼ばれて問題にされてきた。

NDLはこれを次のような図でわかりやすく説明している。出典は前の図と同じである。

















「電子書籍・電子雑誌」の納入については、NDLは「よくあるご質問:オンライン資料の納入」というQ&Aのページを設けてそこで基準を示している。ここにNDLの運用上の考え方はすべて示されているといってよい。以下、そこから重要なものを紹介する。


納入義務対象であるが、「納入の対象となるのは、私人(国等の公的機関は含みません)がインターネット等で出版(公開)した電子書籍・電子雑誌等のうち、
        (1)特定のコード(ISBN、ISSN、DOI)が付与されたもの
        (2)特定のフォーマット(PDF、EPUB、DAISY)で作成されたもの
    のいずれかで、そのうち無償かつDRMのないもののみです。」
となっている。私は二つの特性のいずれも満たすものを収集するとしていると思っていたが、いずれかとなっている。特定のコードはいずれも国際的な標準として使われているコンテンツを特定化するもので、ISBNは図書、ISSNは逐次刊行物、そしてDOIは論文や資料を特定化するコードである。これが意味するのは、誰かがこうしたコードを付与したものであり、それなりに図書、逐次刊行物、論文・資料として配布することを意図したものと考えられる。しかしながら、(2)でEPUB、DAISYはともかく、PDFが入っているので、ここで一気に範囲は拡がることになる。なお、無償かつDRMのないものというのは先ほどの図のAを示している。

また、「Q    オンライン資料のうち、どのようなものが納入義務対象外となりますか?
A    ①簡易なもの、②内容に増減・変更がないもの、③電子商取引等における申込み・承諾等の事務が目的であるもの、④紙の図書・雑誌と同一版面である旨の申出があったもの、⑤長期利用目的でかつ消去されないもの、等が納入義務対象外となります。」
とある。これは先ほどの図の左側にあったもので、対象外とするカテゴリーの資料が挙げられている。ただ、ここに挙げられているものは、排除するものとしては比較的わかりやすいものであるだろう。図には、法施行前というのも納入対象外となっていたが、これは当然である。

さらに対象外の資料のなかで、「簡易なもの」が最初に掲げられているが、これの説明として、「Q    簡易なものとはどのようなものですか?
A    各種案内、ブログ、ツイッター、商品カタログ、学級通信、日記等を想定しています。
    基本的に会議資料や講演会資料は簡易なものとして扱います。ただし、学会の報告などは学術的なものとして納入対象として扱っています。
    具体的な判断で困った場合にはお問い合わせください。」
がある。本ブログも簡易なものであり、納入を免れているということになるわけだ。

こうして、最初にかなり拡げられたものが、「電子図書・電子雑誌」の全貌が見えてくるにつれて、限定されたり排除されたりして対象が狭まってきたことがわかる。この図でもその具体例として、「年報、年鑑、要覧、機関誌、広報誌、紀要、論文集[中略]CSR報告書、社史、統計書、その他図書や逐次刊行物に相当するもの」が挙げられている。まあ、従来からNDLが収集してきた出版物に近いものということができる。先ほどから参照している「オンライン資料(e-デポ)」のページの最後の方に、「一般のウェブサイト、ニュースサイト、電子書籍アプリ、携帯電話向けコンテンツ等は、納入義務対象として定めるコード、フォーマットに該当する場合を除き、おおむね納入義務対象外です。」という注意書きがあることも、それを示している。

しかしながら、実はそれですまされない問題があることを研究会の場でも指摘しておいた。それは、J-STAGEやCiNii、そして機関リポジトリに登録されているオンラインジャーナルが納本からはずれているということである。次のQ&Aを見てほしい。

「Q    J-STAGE、CiNii等で公開している資料も納入する必要がありますか?
A    J-STAGEやCiNiiで公開されている資料は、私人が出版した資料であっても、JSTやNIIという公的機関のサービスにより公衆に利用可能とされた資料であるため、国立国会図書館法第25条の3に基づく公的機関のインターネット資料収集の対象となり、私人の方が納入する必要はありません。
    なお、J-STAGEやCiNiiで公開されている資料は、「国立国会図書館法によるインターネット資料の記録に関する規程」(平成21年国立国会図書館規程第5号)第1条第2号の「長期間にわたり継続して公衆に利用可能とすることを目的としているものであって、かつ、特段の事情なく消去されないと認められるもの」として、収集していません。」

J-STAGE、CiNii等で公開している資料はもともと、学会や研究団体が発行した資料であるので先ほどの青い線の下に入るのだが、JSTやNIIのような公的機関のサービスとして提供され、WARPの対象となるから納入の対象でないと言っている。ではWARPとしてNDLが収集しているかといえばしていないというのである。

次に機関リポジトリであるが 、これは政府機関のものと民間の機関のものがある。

「Q    機関リポジトリで公開している資料も納入する必要がありますか?
A    機関リポジトリで公開している資料は、「長期間にわたり継続して公衆に利用可能とすることを目的としているものであって、かつ、特段の事情なく消去されないと認められるもの」と考えられるので、納入する必要はありません」。

ここではその区別が行われていないが、政府機関(国の研究機関や国立大学等)のものは先ほどのJ-STAGEやNIIと同じ扱いになるのだろう。ただし、WARPの対象からはずされているのかどうかはこれだけではわからない。ここに書いてあるのは、民間機関(民間の研究機関や私立大学等)の方であるが、「長期間にわたり継続して公衆に利用可能とすることを目的としているものであって、かつ、特段の事情なく消去されないと認められるもの」と先ほどのインターネット収集と同じ理由で収集しないとなっている。同じ理由ではあるが、根拠は「国立国会図書館法によるオンライン資料の記録に関する規程」(平成21年国立国会図書館規程第5号)第3条第3号に基づくものである

かなり捻れた論理ではあると思うが、これらの学術資料を「長期間にわたり継続して公衆に利用可能とすることを目的としているものであって、かつ、特段の事情なく消去されないと認められるもの」という内部規程にもとづいて収集しないというのだ。これまでも、納本制度の枠組みにおいて、映画フィルムの納入が免除されたままにされていて、実質的には国立近代美術館フィルムセンターがその役割を果たしたというように、納本制度の資料の種類ごとの分担が存在していたことは確かだ。図書館で扱うのが難しい資料であり、専門的な政府機関が担当することには合理性があったと考えられる。

しかしながら、これまでNDLが網羅的に収集し保存してきた図書や逐次刊行物の話である。それを分担して、大学や研究機関のリポジトリがそれなりの永続性をもって扱うことが想定されているようであるが、これは本当に確かなのだろうか。法的根拠がない機関リポジトリという制度がいつまで安定して存在し続けるのだろうか。少子化で大学の統合や消滅もありうるなかで、そうした危険性をどの程度想定しているのだろうか。研究会で「これまで紙で発行されていた大学の紀要は当然納本されていたはずだが、機関リポジトリ登録に変更になって紙では出なくなると、NDLではもう収集保存はしなくなるのですね」と確認したが、現行の制度ではそうなるということだ。

ともかく、納本制度はデジタルネットワーク化において、かなり大きな変貌を遂げようとしていることは確かである。他機関との分担体制はオープンデータ時代において自然な流れとなっていることではあるが、それで、国内で刊行された出版物の納本制度による、収集保存とその記録化(全国書誌作成)の機能が果たせるのか、再度問いかける必要があるだろう。






2018-01-27

公開ワークショップ「 図書館はオープンガバメントに貢献できるか?」開催予定

次のイベントを開催します。無料で誰でも参加できます。 


*会場が同じ建物の1階から3階に変更になっています。(2/1)
*公式のサイトができました。同じものですが、そちらを参照してください 。http://user.keio.ac.jp/~lis_m/  (2/1)
*会場の都合で参加者の人数を先着150人までとさせていただきます。(2/11)

 

公開ワークショップ

図書館はオープンガバメントに貢献できるか?

ー行政情報提供と行政支援ー


日時:2018年3月25日(日)13時〜16時(開場12時30分)
場所:慶應義塾大学三田キャンパス第1校舎131-B教室
     https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html 
(キャンパスマップの9番の建物、3階)
参加:無料

図書館が行政資料や行政情報を提供する必要性は以前から言われているが、実施は容易ではない。とくに、ICT環境のもとでオープンガバメントあるいはオープンデータが叫ばれている今日、図書館はそれらに対応できるかどうかが問われる。また図書館界では、行政支援サービスの必要性も言われてきたところではあるが、本格的実施は一部の自治体に限られているようだ。

このワークショップでは、1980年代からこの問題に取り組んできた基調報告者が、日野市市政図書室調査や行政支援サービス調査を踏まえて、図書館における行政との関係について述べる。講演の豊田氏は静岡市御幸町図書館でのビジネス支援サービスの経験と田原市図書館での行政・議会支援サービスの経験から、図書館と行政との関係についてお話しする。コメンテータの伊藤氏は、図書館での勤務経験をもつ行政職員として、この問題をどのように考えるかについて語る。後半では、参加者の経験を持ち寄って、問題を整理し、克服するための方法を皆で考えることにする。


<プログラム>       

基調報告:根本 彰(慶應義塾大学文学部教授)

講演:豊田高広(愛知県田原市図書館長)

コメンテータ:    伊藤丈晃(東京都小平市企画政策部秘書広報課) 

               <休憩>                    

    議論  (休憩時間にご意見を書いていただきます)   

司会:松本直樹(慶應義塾大学文学部准教授)
        
  問い合わせ:anemoto@keio.jp  (根本まで)

本ワークショップは慶應義塾大学学事振興資金にて実施します。

<補足>
オープンガバメントとオープンデータ
デジタルネットワークを用いて政府機関の透明性を高め、情報やデータを市民に提供して政府機能への参加を推進する考え方である。オープンガバメントはオバマ前米国大統領が就任当初に提唱して話題になった。日本では経済産業省が音頭を取って推進しようとしたが、トランプ政権に代わってからこの用語はあまり使われなくなっている。オープンデータは、政府機関のデータに限らず、さまざまな機関がデータをネットで相互に交換できるようにする考え方であるが、とくに「官民データ活用推進基本法」(平成28年法律第103号)が制定されて、中央政府、地方公共団体が積極的に機関内のデータを公開していく方針が示されている。

参照:政府CIOポータル「オープンデータ」
https://cio.go.jp/policy-opendata 

このワークショップでは、ビッグデータ時代のための使い勝手のよい データの公開促進という立場ではなく、政府・自治体の透明性や行政の効率性を進展させ、市民の政府・自治体への情報アクセスと職員の職務情報へのアクセスを向上させるのに、図書館がもつ資料や情報・データを収集し、蓄積し、提供する機能の再評価が有効であるととらえる立場に立つ。従来から図書館は、地方行政資料を収集してきたし、近年ではボーンデジタルの行政情報を収集しているところも増えている。日野市の市政図書室や鳥取県県庁内図書室を始め、庁内に図書館機能が組み込まれているところもある。また、地方自治法で議会図書室の設置が規定され、庁内に行政資料室が設置されている自治体も少なくない。オープンガバメント、オープンデータ時代において、これらが果たす図書館的機能について考えてみたい。

 <想定している参加者>
図書館関係者:地域行政資料担当、課題解決支援担当、レファレンス担当など
自治体関係者:情報システム、広報、情報公開、行政資料室、議会事務局担当者など
それ以外:地域情報、行政情報、オープンガバメントに関心をもつ市民の方

<参考文献>
全国公共図書館協議会『公立図書館における地域資料サービスに関する実態調査報告書』2016年度
全国公共図書館協議会『公立図書館における課題解決支援サービスに関する報告書』2015年度

日本図書館協会図書館の自由に関する調査委員会編 『情報公開制度と図書館の自由』 (図書館と自由 第8集) 日本図書館協会, 1987.

片山善博・糸賀雅児『地方自治と図書館:「知の地域づくり」を地方再生の切り札に』勁草書房, 2016.

根本彰『続・情報基盤としての図書館』勁草書房, 2004
根本彰「政府情報の提供体制と図書館:その法的根拠の検討」 『図書館研究シリーズ』 no.37, 2002. p.1-33.
三多摩郷土資料研究会編 『地域資料入門』 日本図書館協会, 1999. (共著)

豊田高広「成熟期にして転換期 : 田原市図書館の実践」『図書館界』vol. 64, no.3, 2012,
p. 206-211
竹内比呂也, 豊田高広, 平野雅彦著『図書館はまちの真ん中-静岡市立御幸町図書館の挑戦』 勁草書房 2007
豊田高広「私の「図書館経営学」事始」『現代の図書館』 vol.39, no.2, 2001, p.78-82
   

                          

2018-01-14

新土浦市立図書館に行ってみる

昨年12月に開館したのは知っていたがまだ訪れていなかった新土浦市立図書館に行ってみた。アルカス土浦という名前の複合ビルの中心的施設で、土浦駅前の空洞化現象に対する活性化策としてつくられた。

最近のこうした事例では指定管理制度を採用する自治体も増えているのだが、ここはそうせずに、直営の図書館として開館した。そのあたりの覚悟のほどと、どの程度のできばえかを確認しに行ったのだ。

結論から言うと、けっこういいのかもというところだ。日曜日の午前中であったが、すでにかなりの利用者が来ていた。家族連れも多い。車で行ったのだが、駐車場が同じビルにあって2時間までは無料で駐車できる。駐車券のチェックしてもらう際に前にいた家族連れが2時間でなくもっと長くしてほしい、2時間なんてあっという間に過ぎてしまうからと職員に話していた。駅ビルの駐車場の台数はそれほどなく、あとはちょっと歩くことになるが駅の東西の市営駐車場に入れればもっと長く停められるらしい。

施設は5200㎡あるということで、3層の館内も吹き抜けをつくってゆったりした感じとなっていた。入った階(2階)が雑誌と児童コーナー、その上がメインの書架と閲覧席があるところであり、一番上の階はロフトと呼ばれる自由に使えるスペースと自習室がある。こういう施設が、ある程度自習に対応せざるをえないことは確かで、予約制の自習スペースもかなりとってあった。

この図書館の特徴はあくまでも図書館の基本に徹することだと理解した。要するに資料提供機能である。資料の最大収容冊数は全自動書庫も含めて56万冊という。この図書館は歴史があって資料の蓄積がある。とくに4階のメインのフロアにはこの図書館の基本資料20万冊近くが並んでいるし、雑誌のタイトル数もかなり多い。地域資料のコーナーをじっくり見たが、歴史的な資料を中心に、以前だったら書架にしまわれていたものが開架で自由に手に取れるようになっている。600席ある座席数も魅力の一つだ。

全体に新しい本が多いので、自分の関心がある書架を見るのが楽しい。この規模の図書館の書架をざっとながめると、何か新しい発見があるのはうれしいものだ。今日もみているうちに、これは使えるというアイディアが浮かんできて、メモをとった。

資料提供は単に資料を並べて利用できるというだけでは完結しない。その中身とそれをどのように見せるのかが重要だ。ちょうど、児童コーナーにあるミニシアターで子どものための読み聞かせや紙芝居、お話し会が開かれようとしていた。けっこう親子づれが入っていて待っていた。

実は先日、10年ぶりくらいにつくば市立中央図書館に行った。いつも近くのつくば駅に出入りしているのに、わざわざ図書館に行きたいという気にはならない。しかし今度できた土浦市立ならまた行ってみたいと思う。なぜかというと、空間の広さと資料の多さにほかならない。たぶん土浦はつくばの2倍以上の広さと資料数があるだろう。もちろん筑波大学中央図書館と比べたら少ないのだが、そもそも大学図書館と公共図書館のコレクションはカバー範囲が違うし、それ以上に、大きすぎる蔵書は一望することができない。知の遠近法が働くためのちょうどいい大きさがあるのだろう。その意味で、ここは知的好奇心を掻き立てるものがある。それが継続的に更新されながら維持されることが必要だ。

新土浦市立図書館の館長は公募で選考されて着任した人で、もともとは大手広告会社に勤めていたという。今の図書館はどこも居心地の良さをもたらす環境づくりを重視している。ここもその意味で空間作りと対人サービスを重視しているのだろう。今のところ、基本的なサービス体制は提供されていると思う。今後は、これをベースにいかに展開して、単に市民の憩いの場にとどまらない、直営図書館ならではのサービスができるかだろう。展示企画、講演会、地域資料、デジタルアーカイブ等のこの地域特有のものをうまく表現できるといい。また、市民の課題解決支援サービスも次のテーマになる。

土浦駅とペデストリアンデッキでつながれけっこう人の行き来があるように見えた。今のうちは、物珍しさと使い勝手の良さで来館してくれる。しかし、地方都市でここにわざわざ来たいと思わせる要因が何なのかを見きわめる必要があるだろう。


2017-12-16

講演会「小田氏と忍性- 鎌倉期筑波山麓の仏教 -」

12月17日(日)につくば市役所会議室で、糸賀茂男氏(常磐大学名誉教授)の「小田氏と忍性」という題目の講演会があった。行ってみると、驚いたことに部屋がいっぱいになっていて参加者は230人ということだ。ほとんどが高齢者で、この地の歴史に関心をもつ人が多いことを知らされた。

講演では、まず小田氏の歴史が語られた。小田氏は桓武平氏の系譜に連なるが、初代の八田知家が源頼朝の信任が篤くて常陸国の守護職に任じられるという話しから始まる。もともとは宇都宮の出ということだ。糸賀氏は、この時点ではまだ小田氏は小田の場所にはいなかったという説のようだ。そして、小田氏は3代までで系譜が一旦とぎれ、4代目とされる小田時知は陸奥国仙台の近郊小田郷の小田家から来たという。ここで常陸小田氏が守護職として小田館(城)をつくり、その後15代の氏治まで400年ほどここに居た。しかし守護職だった時期は5代目の宗知までとされている。

さて、忍性(1217年〜1303年)は奈良の西大寺の僧であり、一度は鎌倉に使わされ、再度建長4年(1252年)東国に来たときにさらに、宝篋山の東面の三村山極楽寺に入りそれから10年間滞在した。何のために滞在したのか、また北条氏との関係はどうだったのか、あたりが中心的な議論だったはずだが、それらには概略触れられるだけで講演は終わった。用意されていた資料はきわめて詳細な3枚の年表と小田氏の家譜ほかのものから成っていて、氏曰く、準備した資料の10分の1程度しか話せなかったという。しかしながら、最後のまとめと終わってからの聴衆3人からのきわめて適切な質問とその応答により、おっしゃりたいことの概要は伝わった。

まず、当時の西大寺は東大寺に比べて勢力が弱く、忍性はその師叡尊によって東国との関係をつくって同寺の再興をはかるための任務をもって東国に派遣されたという見方をとる。筑波の地元では、忍性はここを拠点に民衆への布教と貧民やハンセン病などの弱者救済を行った人物として知られている。そうした善行を率先して行ったことは確かだろうが、彼は全国で布教活動をしていて、ここは通過地点にすぎない。糸賀氏は、忍性が小田を去るときに人夫80人に「聖教・道具」を持たせて鎌倉に移動したという記録があることに注目し、叡尊から与えられた彼の特別の任務とは、北関東の武士団から経典やその解説書、他に文化的な資料を集め、鎌倉に移してそこを拠点にした布教活動を行うことにあったのではないかという。また、北関東にはそれだけ豊富な文物と文化的伝統がすでにあったということが強調された。

質疑では、そのような豊かな伝統があった茨城県に中世のすぐれた文化財的なものがなぜないのか、そういうものがあれば都道府県別の人気ランキングで最下位ということはないのではないかという、もっともな質問があった。これについて糸賀氏は、それは徳川政権によってもたらされたという説を話された。一つは東国武士団の再興を絶つために徹底的にそういうものを破壊したということ、また、利根川水域は江戸期には新しい開拓地として大々的に開発されたことにより破壊されたという。確かに、小田氏の館跡もかなりの程度開墾されていて地面の下を掘り起こさないと出てこない。

これはなるほどと目をみはらされた。現在、戊辰戦争や明治維新が明治政府による勝者史観で語られてきたことについての見直しがおこなわれている。同様に中世の在り方についてもさまざまな見直しがある。この「東国武士団」がどういう存在だったのかもその一つである。糸賀氏は筑波山の麓の生まれで一貫して地元の歴史を見続けることで、大きな歴史評価の再編に参加されているのであろう。今日の講演は残りの10分の9を含めてぜひ著書としてまとめていただきたいと思った。

とくに、なぜ小田という場所がそうした拠点に選ばれたのかについては十分に窺うことができなかった。神戸、鎌倉が船による交易の場であったことや忍性が小田に来るときに鹿島神宮に詣でたこと(仏教僧と神社の関係についてはよくわからなかったが、神仏混淆がすでにあったのだろう)が引き合いに出されていたが、つながりはあまり理解できなかった。時代は若干下るが、北畠親房が小田城に滞在して『神皇正統記』を書いたきっかけが奥羽に向かっていた船団が嵐にあって小田氏を頼ってきたと説明されているが、これも、海路で近畿圏とつながっていたことを示している。小田が地政学的にどういう位置なのかに、以前から関心があったが、もう少しそれらについて勉強してみたい。

聴衆が多数で熱心、かつレベルが高いことに驚かされた。外は寒いのに、エアコンは冷房が付いていた。ということで、2時間くらいだったがきわめて密度の濃い議論が行われたことを記しておく。

学校図書館シンポジウム『学校図書館員の将来像:求められるコンピテンシー』の報告

12月3日(日)に、青山学院大学総合研究棟で

『学校図書館員の将来像:求められるコンピテンシー』

という研究集会があった。プログラムについてはこちらを参照のこと。パネリストとして登壇したので報告する。

プログラムのなかでメインの講演者米国ウェイン州立大学のヘルミナ・アンゲレスク教授は、筑波大学に客員教授として滞在している方だが、共産制下のルーマニアで若い時期を過ごし、チャウシェスク政権崩壊後にアメリカに渡りそのまま図書館情報学研究者になった人だという。図書館専門誌Library Trendsの特集「ポスト共産主義世界の図書館:中央・東ヨーロッパ及びロシアにおける四半世紀」の編集者を務めたりしている。

この人の大学があるミシガン州のデトロイト界隈の図書館の事情について話してくれたのだが、rust beltの一画であり雇用事情は厳しいということだ。私が今から30年前に近隣のアナーバーに滞在していたときはまだこのあたりの地域は希望に満ちていた。今では、学校司書の配置が一人が2校を掛け持ちということも一般的だそうだ。それなら、日本と同じに聞こえる。しかし基本的に学校司書はAASLの認定を受けた学校司書資格をもっていてフルタイム雇用の人たちだ。そこを分かった上で話しを聞かないととんでもない誤解をすることになる。やはりアメリカはprofessionalismの国であり、大学院の課程認定をしているAASLを傘下に置くALAはかなり政治的に強力であり、本部はシカゴにあるが首都ワシントンに事務所を置いて政治活動をしているという話しもあった。

私は、日本の登壇者の最後に概略次のような話しをした。注1)

今の大学入試改革=学習指導要領改訂は、図書館職にとってその位置づけを明確にするチャンスである。なぜなら、グローバライゼーション、デジタルネットワーク社会においては日本人ひとりひとりが知的に独立すること注2)が求められているからであり、そのことは文部科学省も理解はしていて、その仕掛けは1980年代から指導要領の改訂として行われていた。しかし今回は大学入試と組み合わされているところが新しい。日本の教育は高大接続がネックだった。入試改革は教育評価の改革である。センター入試を含めて大学入試が細かい知識を問う問題を出すことで、指導要領改訂の趣旨が徹底しないどころか元のものに戻す役割を果たしていた。大学は本来学問研究の府であるはずなのに、そこにうまく接続できない問題をかかえていたわけである。しかしながら、今回は入試を変えることをともなうことで大きく変化する可能性をもつ。

今回の指導要領改訂では、「アクティブ・ラーニング(主体的、対話的で深い学習)」をスローガンとしている。ここにおいて学校図書館は重要な役割を果たす。また、カリキュラム・マネジメントを教育委員会、学校、教員レベルで実施することを提案していて、これは指導要領の規制緩和とともとれる動きである。こういうことで、学校図書館の機能を教育課程と連動させ、それを担当する職員を「(学校内)情報メディア専門職」と位置づけることを提案する。具体的には、通常の図書館的な仕事の他に、次のことを担当するものとする。

1) 読書教育の担当者
2) 各教科における探究型学習の支援
3) 総合的な学習の時間等の横断的な学習活動の支援
4) 教科教員と連携して情報メディア教材(コンテンツ)を整備し活用できるようにする
5) 学校内での教室外学習の整備
6) 情報メディア教育を推進する担当者

これを実現するために、学校図書館関係者・研究者に加えて、学校教育研究者、教育行政担当者とのコラボレーションを行いつつ、政策的な議論を行い、実際に働きかけを行う。

以上である。現状を無視した乱暴な意見のように受け止められたと思う。質疑のなかで、学校のおそらく司書教諭として務めておられる方から、今現在でも忙しいのにこれ以上そのような仕事が増えたらとてもこなしきれないという感想が寄せられた。しかしながら、これは制度全体を大きく変えて専任の「情報メディア専門職」を配置することを想定しての話しである。

私の資料の最初にある「図書館の二重の中抜き構造の始まり」というのは、大学図書館においてデジタルネットワークで資料が提供できる体制が整えば、図書館そのものは「自習室」と「閉架書庫」によって構成されるものになるという話しであり、これを書いた方は、図書館員の必要性があるとすれば、所属大学での研究教育上発生したり流通したりするデータや情報の管理以外にないとしている。これはまったくそのとおりだと思うが、これは大学図書館だけでなく、公共図書館でも学校図書館でも早かれ遅かれ課題になるはずである。

実は日本の学校図書館は、戦後まもなく、この中抜き制度的構造を強いられてきた。それを何とかやりくりして今に至っているのだが、現在はこれを動かすチャンスでもある。ALAがさまざまな政治的働きをしているという話しを聞きながら、日本では何ができるのかと考えてみたものである。このくらいのことを視野において置かなければ、今のラジカル変動する社会状況に対応できないということである。

注1) 資料はここを参照。
注2)「ひとりひとりが知的に独立すること」これは私の近著のテーマである。『情報リテラシーのための図書館:教育制度と図書館の改革』(みすず書房) を参照のこと。


探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...