2023-03-02

NDLデジタルコレクションについてのあれこれ

国立国会図書館のデジタルコレクションが、昨年暮れから今年の初めにかけてさらにヴァージョンアップされました。それは全文テキスト検索とそれによるスニペット表示が可能になったこと、そして、50コマまでの複写が可能になったことです。全文テキストというのは、資料の版面からスキャンして得た画像からOCR技術を通じて文字を抽出して作成するものです。これによってテキストに含まれる文字列での検索が可能になります。従来、書誌事項(タイトルや著者名など)や目次(これが検索対象になったことも重要だが)からの文字列が対象だったのが、本文が検索対象になったことは革命的なものをもたらします。今まで見えなかったものが見えるようになったということです。ただし、検索結果の表示は1行程度の部分的なものです。これは、著作権法(47条の5)に基づく措置です。また、50コマまでの複写が可能になったことも特筆すべきことです。だいたい1コマは見開き2ページ単位なので、実質的に100ページまで複写(あるいはpdfによるダウンロード)が可能になります。前に比べてもさらに使い勝手がよくなったと感じます。

このデジタルコレクションについてすでにブログでも取り上げていますが、それは昨年5月に個人向け送信が利用可能になる前の記事でした。そこで、その後の利用経験とこのシステムのヴァージョンアップを踏まえて、少し考察してみたいと思います。

国立国会図書館デジタルコレクションの凄さ(2021-12-26

この記事ではわざわざ図書館に行ってまで使う価値があるとしたのでしたが、実際に個人向け送信を使ってみて、ネットを通じてどこからでもアクセスできる便利さは何者にも代えがたいと感じています。大げさに言えば、今後の日本人の知識行動を大きく変える可能性をもつものだということです。そのことは図書館員向けの研修などでもお話ししています。

日本人(とくに知識人とされる人たち)には、本を所有することが知を獲得するための要件であるとする傾向があったために、図書館は最後の砦であり、できればお世話になりたくないと考えていた節があります。それは図書館が十分に整備されていなかった時代の記憶が作用しているからかもしれません。しかしながら、NDLがもつ蔵書の古い方(基本的には1968年以前)が一挙にデジタル化され、それらにいつでも安定的にアクセスできるようになったことは、多くの人に驚きを与えました。今のところ、そのあたりを評価する言説は限られていますが、読書猿『独学大全』(2020)、小林昌樹『調べる技術』(2022)といった本が売れていることは、文献資料を使った調査や研究の方法が一般的になり西洋的なものに近づいてきたことを示します。学習指導要領における探究学習の導入も後押ししているかもしれません。「論文の書き方」の類いの本も新書版でけっこうたくさん出版されています。ネットでの安易な情報アクセスに対する批判も背景にあります。


デジタルコレクションの使用例

数年前から学校図書館史の研究を手掛けています。『教育改革のための学校図書館』(2019)の第3章を書き、その後最近になって戦後新教育における学校図書館の振興にかかわる教育課程の展開をテーマにした論文を何本か書きました。そのうちの3本をブログで紹介しています(「学校図書館関係論文の公表」2023-01-20)。これらを書くにあたっては、以前から所属大学の図書館にあった資料を中心に都内のいくつかの図書館で資料を探して分析してきました。現物資料に当たることは重要ですが、戦後間もない時期の出版物で紙や製本の質が悪くすでにかなり劣化していることも気になりました。

同じものは国会図書館にも所蔵されていたのですが、行かなくてはならないし、書庫から出してもらうのに時間がかかるし、と思いおっくうがっていました。しかしあるとき、国会図書館にしかないものなので、行って並んでいる端末で検索するとその場でデジタルコレクションがすぐに利用できることに驚かされました。それが確か2年前くらいのことで、利用するには国会図書館に行くか、最寄りの図書館への送信資料を利用するしかなかったのですが、その大きな可能性に気づきました。先の「凄さ」というブログ記事を書いたのはその頃です。「近代資料デジタルライブラリー」がNDL館内で利用できるようになったのが2010年で、図書館送信が始まったのが2014年ですから、だいぶ遅い気づきでした。図書館関係者としてもちろん知ってはいたのですが、使えるかどうかの判断はやってみないと分からなかったということです。

ブログでも書いたように、このシステムは

 ① 20世紀中頃までの国内出版物のかなりの部分をカヴァーしていること
 ② 検索したコンテンツがすぐに読めること
 ③ 検索が著作物の書誌事項(著者名、タイトル、出版社など)に加えて、目次レベル(章のタイトルや著者名)で可能になったこと

の3点が重要です。とくに③に助けられました。それは従来、ある人の著作が図書や雑誌記事なら検索可能だったのですが、多数の人が寄稿する概説書や論文集、全集などの集合的著作について、個々の章や記事、論文の検索ができなかったからです。デジタルコレクション(NDLオンラインも同様)によってかなりの発見がありました。とくに、上記のテーマでは文部省の初代の学校図書館担当官深川恒喜という人が重要であり、次のようにこの人についての著作目録をつくったのですが、その際に役に立ちました。

「深川恒喜研究のための予備的考察(付 深川恒喜著作目録暫定版)」『図書館文化史研究』第39号, 2022,p.173-200.

そのシステムが昨年から、個人送信で利用可能になり、さらに、全文検索が可能になったということで、さっそく使ってみました。この深川さんについて検索してみると、このシステムで1755件のヒットがあります。旧制大阪高校文科乙類そして東京帝国大学文学部宗教学科の卒業生であることが官報や卒業者名簿によって確認できたり、文部省職員になってからさまざまなところに名前が出てきて足跡を辿りやすくなっています。先の著作目録も改訂が必要になってくるものと思われます。


JEPAセミナー「国立国会図書館デジタルコレクションのリニューアル」

ということで、ヴァージョンアップされたシステムの全容を把握したいと思い、2月28日夕方のJEPAセミナー「国立国会図書館デジタルコレクションのリニューアル」(岡本常将氏 国立国会図書館関西館電子図書館課)に参加しました。その後、映像が公表されています。

https://www.youtube.com/live/7nxUgoRgNgI?feature=share

このセミナーでは、NDL関西館の担当者である岡本氏が要領よく今回のヴァージョンアップの特徴について説明してくれました。

まずリニューアルされた国立国会図書館デジタルコレクションについて、
(1)国立国会図書館におけるデジタル化及びテキスト化の状況
(2)国立国会図書館デジタルコレクションの主な機能
(3)図書館及び個人向けデジタル化資料送信サービス
を説明し、とくに図書館及び個人向けデジタル化資料送信サービスの対象となる資料がどのようなものなのかについて解説しています。そこで重要なのは「入手困難」という概念でそのあたりについてです。
(1)「入手困難」の定義
(2)国立国会図書館で行う入手可能性調査
(3)事前及び事後の除外手続
(4)今後の課題

マニュアル等に書いてあっても理解しにくいことが開発者の視点から説明されたので全体的な理解が進みました。私的なメモとして、

 ・全文検索、2020年までの247万件テキスト化
 ・検索結果の表示の適合度計算について、検索キーワードが書誌データか目次か全文テキストかによって重みづけが異なっている。
 ・個人送信利用登録者数、10万人
 ・俳句、短歌、名簿等のスニペット表示がそれだけで著作物とされるので館内送信のみのものがある(著作権法47条の5)
 ・住所等についてはスニペット表示は個別の要求に応じてマスキング等をする(「忘れられる権利」対応?)
 ・デジタル化の対象資料はNDL蔵書の古い順から資料の価値は考慮に入れず順番に行っている。

といった点が新しい情報でした。10万人という登録者数が多いのか少ないのか俄には判断がつきません。ただ今後、ますます利用者が増えていくのではないかと思われます。

適合度についてなぜ問うか

検索結果の適合度順表示について、「適合度計算のアルゴリズムは公開されていないのか。もしされていないなら図書館という機関の検索は透明であるべきでは?」という質問と意見を送ってみたら、「重み付け等について公開されていない。要望は担当者に伝えておく」というお答えでした。以前から、「適合度」という言葉の恣意的な使い方に違和感を覚えていたのでこのような質問をした次第です。

適合度(適合性とか関連性とも言う)relevanceは図書館情報学で検索システムの評価に用いる重要な概念です。要するに、検索者が求めるものがどれだけ得られるのかという尺度なのですが、そもそも「求めるもの」とは何なのか、「得られたもの」は検索結果なのでしょうが、「求めたものが得られた」となるのはどのような場合なのか、というような難しい問題があります。

Googleが開発当初、検索結果の表示順(適合度順)に、PageRankと呼ばれる手法を使ったことが知られています。これは、検索におけるウェブサイトの適合度を判断するにあたって、そのサイトへのリンクを貼っているウェブページの数に加えて、そのウェブページの重要度を被リンク数の数に応じた重み付けをしたことが知られています。これはリンク数という量的なものをベースにした適合度判断ですが、これはやればやるほど特定のサイトに集中するという問題があります。他者が求めるものはいいものだからそれを求めるというマーケティングの一つの原理に依存していますが、逆に多数者が求めるものを避けて質的な評価をするのには不適切です。

NDLデジタルコレクションを検索する際に初期画面では「簡易検索」になっており、キーワードを入れると何かが検索されます。その表示はデフォルトでは「適合度順」です。利用者はそれぞれ多様な目的のために検索するわけですが、どのようなキーワードをいれるとどのような結果が得られるのかを理解していれば、適切な検索をしやすくなります。この表示の順序は、タイトル、著者、出版日、請求記号の昇順、降順にも切り替えられます。これらの順序は五十音順だったり、数字や記号の順序ですから分かりやすいのですが、この適合度順というのだけはよく分からないわけです。システムが勝手に適合度を判断しているように見えます。そこで上記のような質問になったわけです。

適合度はシステム開発者の判断でアルゴリズムを決めることが可能ということは、開発者間では共有されているのかもしれないのですが、図書館利用者にとってはそうでないわけです。Googleの検索アルゴリズムが公開されていないことが問題になったことがありますが、図書館ではこの部分は一定程度公開されるべきでないかと考えます。


2023-02-18

軽井沢風越学園の図書館教育コンセプト

 ようやくここを訪ねることができた。話しに聞いていた「図書館を大事にした学校」。ここ何年か学校図書館が戦後教育改革において重要な位置付けにあった痕跡について研究しているが、そこで、「図書館教育」という試みがあって、カリキュラムの展開に大胆に図書館のことを入れようとしたが、結局のところうまくいかなかった。それがなにゆえなのかがずっと気になっていた。そういうなかで、GIGAスクールでもなければ、国際バカロレアでもない試み。いったいそこで何をやっているのか。それはたった数時間の滞在で本当のところを理解できるわけではないだろう。しかしながら大きな期待を抱かせるものであった。その一端を伝えようと思う。

風越学園とはどんなところか

すでにメディアやネットでこの学園の試みは伝えられているので、最初はそこからイメージをつくり出してみよう。基本的な情報はWikipediaにある。軽井沢といっても、駅からバスで30分くらい走った郊外で廻りは森林や原野といった感じのところに3年前に開設された学校である。真北に浅間山が大きくそびえている。その立地の自然環境と景観を活かそうとしている学校のコンセプト自体が日本の教育が都会志向であることと正反対のベクトルをもつことに気づく。この学校に子ども入れるために軽井沢に移住した家族が居るという話しも伝わっている。「東京の家族が「軽井沢風越学園」へ“教育移住”を決断したこれだけのワケ」という記事だ。受験を勝ち抜くために低学年から競争的環境に子どもを入れる選択と異なったものに惹かれる人たちもいるということだ。



こうしたものがどのようにしてつくられたのかについてだが、Wikipediaの記事にあるように楽天の創業時から会社作りにかかわった現理事長本城慎之介氏の個人的資産で始められたということを理解すべきである。これは日経新聞のインタビュー記事に詳しく出てくる。要するに本城氏が創業者利益を自分の夢の実現に充てたということだ。北海道の田舎で育った自らの生い立ちから、日本の教育問題に一石を投じようとアンチテーゼとしての学校をつくろうとしている。国際バカロレアもそうだけど、こういう新しいことをやるためにはかなり大胆な発想と資金そして経営能力が必要であろう。新聞記事には、岩瀬直樹校長(教員から教育実践学研究者になった人)が実践、苫野一徳氏(教育哲学者、教育学のトリックスター)が理念、そして本城氏が資金提供と経営の分担をしているとある。最初は公設民営の経営形態を狙っていたというが、ここで意図している義務教育学校がそのかたちではつくれないし、現時点では公立学校でこういう学校は実現できないだろう。


学校の教育課程


風越学園の学びの様子


学校の特徴は岩瀬校長が語っているインタビュー記事によく現れている。子どもの自然な動きを大事にした学びの場をつくるために、教室の壁はできるだけ取っ払うし、また、個人、グループ、そして学年を超えたグループでの学びを校舎内、校庭、外の森林や自然環境の場を自在に使う。そのときに、カリキュラムに沿うが教科書を使うことは稀れで課題や問題設定に基づいて子どもが自由に学びを展開することを重視する。そこに二年生の時間割があるが午前中は教科融合の「くらし、あそび、えがく」、午後に土台の学びとして「読書家、算数、ことば」がある。いたってシンプルだ。行った日の午後は上の方の学年は「わたしをつくる」(略称わたつく)という自分で課題を解決する学習をしていた子が多いから、なんとなくずっと子どもたちは動いていて自分で勝手なことをやっているようにも見えた。


こういうタイプの学習では教員は最初の指示をした後は子どもたちを見守り必要なときに声がけをするということになる。ふつうの学校だと声がけが指示的になることが多いが、ここではかなりの程度子どもの自由な行動に委ねられている。毎日最後に「帰りのつどい」という場が設けられて一人一人がみずから何をやったのかを記述する。

学校に埋め込まれた図書館、あるいは図書館に埋め込まれた学校


この学校を紹介するときに、学校建築として図書館が中心にあることが強調されることが多い。私もいくつもの学校を見学したなかで、図書館に力を入れている学校を見学したことがあり、そのなかに校舎を入ると正面に図書館がある学校もあったし、図書館を使用した授業に力を入れている学校もあった。しかしながら、ここまで図書館中心の学校は初めてである。学校に図書館が埋め込まれているというよりも図書館に学校が埋め込まれていると言った方がよいかもしれない。上の写真でも書架の間に机があって子どもたちが作業をしている様子が見られるが、それだけではない。


この学校の建築上の特徴は全体は2フロアであるが、体育館とか音楽室や理科実験室等のラボと呼ばれる部屋を除くと一つのオープンスペースを構成しているところにある。北側の浅間山と森がよく見える大きなガラス窓から放射状に書架が伸びた「ライブラリー」があり、グループ学習用のテーブルがおかれて自由に作業をしたり本を読んだりできる。「ホームベース」は区切られた部屋でここもさまざまな作業に使える。机が整然とならんだふつうの学校の教室のような部屋は一つしかなかった。

でライブラリーだが、この図のライブラリーのところだけに本があるのではなくて、ホームベースの外側の壁も書架になっている。二階にも本がある。基本的にNDCで分類された本が分類されて並んでいるというイメージだが、幼稚園児から中学生までいるし、教員用の図書もいっしょに置いてあるのでかなりバラエティに富んでいる。図書館に学校が埋め込まれているといったのは、教科の枠はゆるくて自分で課題を見つけて作業を行う過程で図書館の本への自然なつながりができるようなコンセプトがあるからである。
風越学園の1F

それを可能にしている要因として、すでに述べたように課題解決を中心とした学習ということにある。子どもたちはChromebookをもっているしネット接続環境もあるが、このように書架が主題別になっていて、教科と書架が関係づけられているので課題解決がGoogle検索よりも書架に行くというのが自然な行動になっているという。「土台の学び」が「国語」ではなくて「読書家」となっているところが重要である。ここで「読書」というのは要するに書き言葉を使うためのリテラシーのことを指している。つまり、「読む」「書く」が義務教育のもっとも重要な土台であり、それを一貫して追求しているということだろう。上の学年の「1万ページ読書ノート」というのが置いてあったのを手に取ったところ、著者、書名、ページ数が書いてあってこれを累積して1万ページを目指すということのようだ。先に書いたように、ここでの「読み」は国語ないし文学的な読みに限られず、教科との関連付けがされているのが特徴だ。

学校図書館関係者には周知のことだが、ここには専任の司書教諭が配置されるだけでなく、専任学校司書、豊富な専任司書教諭経験のある国語科教員と計3名の学校図書館関係者がいる。教科カリキュラムが図書館資料と結びつくための仕掛け(選書、資料の分類、目録、排架、レファレンス)があるのはもちろんのこと、カリキュラムをつくるところにそれらの人たちが関わっていることが重要である。開校前から教職員がかなりの時間をかけてそうした話し合いを行いカリキュラムをつくったし、開校後も定期的にそうした研修の機会をもっていると聞いた。

日本の学校教育で探究的な学びというときに、協同的学習やグループ発表が強調される。これはアクティブラーニングとも呼ばれるが、本や資料による外部知に対する配慮が十分にないことが問題だと思う。これは歴史的に教師が学びの内容をコントロールすることが教育だという戦前から染み付いた考え方がいまだもって残っていることを示しているのだろう。ここでは最初からそれが払拭されている。岩瀬校長はここはジョン・デューイの『学校と社会』にあるシカゴ実験学校のイメージ図を意識していると明言されていた。つまりこれである(根本『教育改革のための学校図書館』p.10)。
この学校のモデル図はしばしば参照されるが、これが実現できている学校は少ない。この図で重要なのは、経験主義と呼ばれる子どもたちの経験を中心とした学びを実現するのが、学校内のさまざまな教科的枠組みのなかの経験の場(実験室とか調理室とか)や学校外の社会や自然環境のような直接的な体験の場だけではなくて、図書室や博物室、そして外部の大学や図書館、博物館のような知を提示する場における間接的経験も含んでいるということだ。日本の教育学における経験主義はこの部分が無視されている。とくになぜ図書館や図書室かといえば、そこがメタ的な知を提示する場であるからだ。メタ的の意味は学び手が自分で知を展開するための手がかりを提示することを意味する。日本の学校教育は教育行政や教師がメタ的知を支配している。新しい学びはそれを蹴飛ばすところから出発する。その方法的場として図書館を選ぶのである。あるいは図書館に埋め込まれている学校という意味ではこれをさらに展開しているとも言える。デューイの原点に戻り超えようとする発想である。

コーダ


いささか先に行きすぎたかもしれない。がそうなったのは、戦後間もないときに少数の教師が可能性を探った「図書館教育」の実現形がここにあるのかもしれないと感じたからである。一クラスは20数名程度、軽井沢地区に住むことが要件の通学区、私立学校だからかかるそれなりの授業料、義務教育後への接続というような条件や課題があるにもかかわらず、これが可能になったことを祝福したい。そしてここがどのような教育効果を挙げるのかを見守りたい。



2023-02-13

ChatGPTは図書館の敵か?

ChatGPTという質問応答型のAIサイトが話題になっている。たとえば、朝日新聞Web版には次のような記事が出ている。(https://digital.asahi.com/articles/ASR2B52W9R28UHBI024.html

>ChatGPTが変える検索 グーグルは守る闘い、日本「蚊帳の外」(松尾豊・東京大学教授 聞き手・真田嶺, 2023年2月13日 17時00分)

> 米新興企業「オープンAI」が開発した対話型の人工知能(AI)「ChatGPT(チャットGPT)」が世界で大きな話題となっています。ロイター通信は、金融大手UBSの分析として、昨年11月末に公開されてからわずか2カ月で、月間アクティブユーザーが1億人に達したと報じました。このユーザー数は、人気の動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」でも9カ月かかったとされています。そもそもチャットGPTのどのような点が優れているのでしょうか。また、私たちの生活をどう変えうるのでしょうか。日本におけるAI研究の第一人者、松尾豊・東京大学教授に聞きました。

有料記事なので一部を引用するにとどめる。

> 「チャットGPTは大規模言語モデルといわれる、従来よりも非常に巨大なモデルを用いて学習しているため、従来のAIよりも多くのことを覚え、その覚えた知識を使って答える。そのため、特に自然言語の対話で従来とレベルの違う会話ができるようになっています。これまではほとんど対話になっていませんでしたし、長く対話を続けることが難しかったと思います。SiriやAmazonエコーと日常的に長い対話をしているという人はほとんどいなかったと思いますが、チャットGPTはあっという間に1億ユーザーを超え、調べ物など日常的に使って手放せない人がたくさんいる。何か疑問があるときに質問すると、とても便利ですよ」

> ――GPT―3は研究者の間でも、話題になりました。

> 「パラメーターの数が1750億と超巨大で、性能が非常に良かった。研究者かいわいでは公開された2020年から『すごい』と話題になっていましたね。今後、GPT―4も出ると思われ、またパラメーターが相当大きくなるとみられています。スケール則という法則が知られており、パラメーター数が大きくなると賢くなります。したがってGPT-4は、いまのGPT-3よりさらに賢いことが確実です」

また、弁護士ドットコムという法律サイトでは次のような興味深い実験が行われている。(https://www.bengo4.com/c_18/n_15648/?fbclid=IwAR2rbW0vwn9cj_9PHXKwlKZH9SfuBScSE5kTMcqJam8nxOveTj60W7mpJjA)

>ChatGPTは日本の司法試験に合格できるか 弁護士ドットコムが実験2023年02月13日 10時53分

>米国のベンチャー企業OpenAIが開発した対話型人工知能「ChatGPT」に注目が集まっています。共同通信の報道によると、米医療企業の研究チームが、ChatGPTに米国の医師国家試験を解かせてみたところ、正解率は52~75%で、合格ラインとされる60%前後に達しました。また、司法試験を解かせる米国の実験では、7科目全体の平均こそ人間に負けたものの、2科目では平均を上回る結果をみせています。では、ChatGPTに日本の司法試験を受けさせてみたらどうなるのか。弁護士ドットコムで実験をおこないました。

この実験では、令和4年司法試験の民法の択一試験の全37問についてChatGPTを使って回答させて、約3割の正答率という結果を導いたという。択一式の足切りが4割ということから合格ラインからかなり遠いが、択一式の回答を導くことができることがこのシステムがかなり「実用的」であることを示している。これがアメリカの司法試験だともっと正答率が高いらしいが、それはアメリカの場合には判例が公開されているのに対して、日本の判例で公開されているものの割合が低いことが理由のようである。それは当然で、このタイプのAIは用意されている文字列(知識ベース)の検索を高度に組み合わせて行うものであり、文字列に限界があれば、正解からは遠ざかることになる。

ここで、図書館のレファレンスサービスがChatGPTによってどのような影響を受けるのかについて考察してみよう。図書館員がオープンになっている知識ベースを使っていることは確かであり、もしそうしたネット情報だけで回答するならChatGPTで済んでしまうことになるからである。そこで次のような質問をしてみた。

>Q: 「日本の出版市場におけるアマゾンのシェアを知りたい」

この質問に対するChatGPTの回答は次のようなものだった。

>A:アマゾンは、日本の出版市場においても非常に大きなプレイヤーとなっています。しかし、具体的なシェア数に関しては正確なデータが公開されていないことが多いです。

>近年、日本でもデジタル書籍が人気となっており、アマゾンはこのセグメントでも強い地位を占めています。また、アマゾンのKindleストアを活用することで、多くの読者がデジタル書籍を手軽に購入・閲覧することができるというメリットもあります。

>一方で、出版業界ではアマゾンの大きな圧力に対して批判的な意見もあります。出版社や書店がアマゾンとの競争にあっているという声もあります。

>このような背景から、アマゾンが日本の出版市場で占めるシェアについては明確な数字はありませんが、非常に大きな影響力を持っていることは間違いありません。

以上は入力データも出力データもそのままである。質問に対する回答が自然な日本語であり、まったく違和感がないことに驚かされる。しかしながら回答については満足のいくものではなかった。これはアマゾンのシェアは業界レベルで共有されていても基本的には公開されていないからである。たとえば『出版物販売額の実態 2022』(日本出版販売, 2021.11)には、販売ルート別のシェアが掲載されているが、そこではインターネット販売のシェアは19.4%となっていて、それ以上のことは分からない。(https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20221209-00327379)可能なのは、そのなかのかなりの部分がアマゾンが占めるのではないかと推測できる程度である。日販はより詳細なデータをもっていて、それ自体がビジネスデータとして個別に提供されるなり販売されるなりしているのかもしれない。

「日本の出版流通におけるインターネット販売のシェアを知りたい」とすれば簡単に回答が得られるはずと思ったが、やってみると「申し訳ございませんが、具体的な数字については私が持っていません。このような情報は常に変化しており、最新の情報は市場調査会社や業界専門家に問い合わせることが最善の方法かもしれません。」という回答だった。上記のデータがオープンになっていないからなのだろう。正直なものである。英語で同様の質問をしてみたが、結果は日本語の場合と同じだったし、アメリカのアマゾンのシェアについて聞いても同様だった。以上のことから、AI怖るに足らずということは言える。

公開された情報やデータを基にしているという意味では図書館員もAIも同じものに依存しているわけであって、それだけなら回答のスピードを考えれば勝負にならない。しかしながら、実はオープンになっていないデータは大量にある。図書館はそれらを収集提供することでそうしたデータへのアクセス手段をもちうるから、AIよりも有利な位置づけにある。また、視点を変えればChatGPTはGoogleとかWikipediaと同様のレファレンスツールの一つと考えることができる。これらはメタ・レファレンスツールと呼ぶべきもので、図書館(員)はこれらの信頼性を検証しながら、独自の評価とサービスの付加価値をつけることが可能である。

図書館員の強みは、AI的ツールを使って次の段階に進めるというところにある。逆に言えば、そうした評価や工夫ができなければChatGPTとは勝負にならないということにもなる。『朝日新聞』の記事に「「チャットGPT」で法律相談 弁護士ドットコム、今春開始へ」というのがあった。先ほどの実験をやった弁護士ドットコム(株)はこれまで蓄積した100万件以上の法律相談のやり取りをChatGPTに学ばせて、新たな無料法律相談サービスを今春に始める方針を明らかにしたというものである。ここは無料の法律相談DBの蓄積があり、これを活かそうということのようだが、これはこのビジネスが法律の問題で何らかの問題を抱えている人に対して最終的には専門の弁護士の紹介を目的としているから成立するものだろう。

同じ発想でレファレンス協同データベースに適用することができるように思われる。ここにはすでに15万件のレファレンス質問の蓄積がある。これをAIを挟んで以前より踏み込んだ質問と回答につなげ、それで足りない部分を図書館員がサポートするということになる。AIはここまで来ているのだから図書館は次の段階に進むことが必須なのである。

追記1(2023年2月14日)

その翌日、朝日新聞のWebにAIに強いプログラマー清水亮氏へのインタビューが追加された。ここで最後に次のようなことが語られた。

>――私たちはチャットGPTと、どう向き合っていくのが良いでしょうか。

>「残念ながら完璧とはほど遠いものですから、それを触って『こんなものか』と思ってほしくない。研究途上のものであるということは意識して向き合ってほしいです。まだまだAI研究の可能性はとても広い。チャットGPTが注目されたことで、これまで無関心だった人の中でもAIに急に興味を持った人が増えました。プレーヤーの絶対数が増えれば、新しいイノベーションは確実に生まれてくると思います。一番大事なのは、(人とAIをつなぐ)インターフェースがどうあるべきかを考えることだと思います」(聞き手・真田嶺)

AIについては過度な期待をもつべきではないことはいろんな人が言っていることである。Chat GHPはそれを如実に示す教材として我々の目の前に現れた。清水氏が発信している「なぜ人々は、ChatGPTという“トリック"に振り回されるのか? Google「Bard」参戦、チャットAI戦争の行方」も参照されたい。

追記2(2023年2月16日)

このブログはインターネットでオープンになっているから、ここで以上のように書いたことから、ChatGPTが日本におけるアマゾンのシェアのデータについての推測を行う可能性があるのかもしれない。しばらくその質問をやってみて、回答に反映されるのかどうかを見てみたい。(このページのアクセス数はもう少しで1000件になろうとしている。そのことも影響するのかもしれない。あるいは誰かがそれを見て同じ質問したり、別の回答を書き込んだりしているかもしれない。)

と、ここまで書いてから同じ質問をしたところ、

>Q: 日本の出版市場におけるアマゾンのシェアを知りたい

>A: 日本の出版市場におけるアマゾンのシェアは、年度やカテゴリーによって異なりますが、一般的には高いとされています。

>日本出版販売株式会社の調査によると、2019年の日本の書籍販売市場におけるアマゾンのシェアは約31%で、トップシェアの書店チェーンである紀伊國屋書店の約26%を上回っています。また、アマゾンは電子書籍市場でも強い地位を持っており、2019年には国内電子書籍市場におけるシェアは約60%でした。

>ただし、2020年には新型コロナウイルスの影響により、オンライン書店の需要が急増したことから、アマゾン以外のオンライン書店も成長しています。今後も市場の変化により、アマゾンのシェアがどのように変化するか注目されています。

と返してきた。3日前には何度やっても数値を返すことはなかったから、この間に何かの変化がある。この31%という数値だが、前の推測値よりかなり高い。理由は前のが「出版市場」であるのに対して「書籍販売市場」であるからだろう。日販の調査データとしているので同じものだろうが、ネット上にはアマゾンのシェアについての数字はなかったはずだ。誰かが教えたのかもしれないし、これが正しいかどうかわからない。しかしながら、何らかの「学習」をしているらしいことは確かである。





2023-02-07

情報活用能力の歴史と未来を語る会に参加してみて

今、教育DXとかGIGAスクール構想が教育行政の場で語られ,実施され始めている。デジタル庁の誕生とともに国の産業政策の一環として導入されたものであるが、そこでは、子どもたちの情報環境や学校が位置するメディア装置の大きな変化に関わって情報教育をどのように展開するかという教育の問題だけで動いているのでないのは明らかである。教育市場をめぐるさまざまな業界の思惑やICT産業育成の今後に関わる省庁間の人材育成の場をめぐる駆け引きなどの側面は無視できない。

私は、GIGAスクール構想が学校図書館とどのような関係にあるのかについてウォッチしてきたのだが、そのときの主たる関心はハードや通信などのインフラが整いつつある学校において、教育コンテンツがどのように提示されるのかということである。電子教科書、デジタル教材、電子新聞、電子書籍などと呼ばれるもの教育課程のなかでどのように提示されるべきなのか、それらの管理をするのは誰なのか、また教員はそれらを用いて教育課程をどのように展開するのかといったことである。誤解されやすいが、そうしたコンテンツ自体は今回のGIGAスクール構想の直接の対象にはなっていない。

情報活用能力の歴史と未来を語る会

今回、オンラインで開催された「情報活用能力の歴史と未来を語る会」に参加してみた。情報教育や教育工学の分野でコンテンツの問題に対してどのような関心をもたれているのかを見ておきたかったからである。(なお、2月8日に「見逃し配信」がアップされた。)

■日時:2023年2月5日(日)13:45〜17:00
■場所:オンライン
■プログラム
 1.開会挨拶: 大久保昇氏(内田洋行教育総合研究所・顧問)
 2.講演: 清水康敬氏(東京工業大学名誉教授)
      永野和男氏(聖心女子大学名誉教授、法人本部参与)
      堀田龍也氏(東北大学大学院、東京学芸大学大学院・教授)
 3.講演者によるパネルディスカッション
    コーディネーター:高橋純氏(東京学芸大学・教授)
 4.閉会挨拶:山西潤一氏(日本教育情報化振興会・会長)
■主催:New Education Expo実行委員会、内田洋行教育総合研究所
■共催:日本教育工学協会(JAET)
■後援:(一社)日本教育工学会(JSET)、(一社)日本教育情報化振興会(JAPET&CEC)、(公財)パナソニック教育財団
■協力;文部科学省

講演のなかで清水康敬氏は、上記協力者会議が出発点であったことに言及している。情報教育の目標を、
①情報活用の実践力、
②情報の科学的な理解、
③情報社会に参画する態度
としたことについて触れて、それ自体は今見直す必要はあるかもしれないと述べた。だが、協力者会議の後、英米の関係者と協議することがあったときに、日本の情報活用能力(情報リテラシーの言い換え)の考え方はよくできているとの評価があり、自信を深めたとの発言があった。周知のように英米のinformation literacyの定義は図書館関係者が主導している部分があったが、それに不満をもつ教育関係者がいたとのことだろう。図書館関係者は目標の①情報活用の実践力を中心に情報活用能力を考えがちだが、教育工学やメディア教育の専門家が考える情報活用能力は、②情報の科学的な理解、③情報社会に参画する態度も含めたものを考える。米国では21世紀型スキルの議論のなかで、日本の情報活用能力の考え方を取り入れたような政策が展開された。

また、永野和男氏は協力者会議報告の成果は次の学習指導要領に反映されたと述べた。総合的な学習の時間や中学校「情報とコンピュータ」の時間などである。また、情報活用能力の育成法として、具体的な問題解決場面における情報収集、分析・処理、編集・加工。伝達・発信といった探究学習のプロセスや教科における演習について触れ、実践的場面での方法知と内容知の組み合わせが重要という話しをした。

堀田龍也氏がその後の情報教育の展開を引き受けた話しをした上で、パネルディスカッションに移った。次のような指摘が記憶に残ったものである。
・従来の教科を中心とした教育課程の制度が堅くてなかなか情報教育のような越境するような方法知の分野が入り込むことが難しい、
・学習指導要領では総則のところでは確かに情報活用能力という言葉は入っているが、各教科のところではそれぞれの教科に委ねられている、
・情報活用能力と教科との関係を整理していくべきである、
・そのためにはカリキュラムの整理と評価の実証データを整理することが必要である、
・教育委員会あるいは学校の教育マネジメントに反映できるようにする、
・研究者、先進的な指導主事、実践的カリキュラムを実施している教員、参加関係企業の人たちの相互の関係をつくっていく、
・文科省を動かすためには有識者会議で議論することが必要だが、そのためにはまず外部的な指針として明示することや実証的研究データの蓄積があって初めて可能になる。

LIPER学校図書館班の学校内情報メディア専門職提言

なぜこのイベントに関心をもったのかというと、かつてLIPERプロジェクトの学校図書館班の研究のなかで、講演者のなかのお二人清水康敬氏と永野和男氏にインタビューを行ったことがあるからである。そのあたりの経緯についてはここで説明しきれないので、拙著『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会, 2017)の第9章「学校内情報メディア専門職の可能性」を参照されたい。そのときは、文部省の情報教育政策と学校図書館政策をうまくつなげることができないかと考えていた。

そのインタビューは、2003年から2004年にかけて、教育工学やメディア教育の専門家5人に対して行ったものである。というのは、これらの人たちが参加した文部省「情報化の進展に対応した初等中等教育における情報教育の推進などに関する調査研究協力者会議」最終報告(1998)にて、学校内に配置すべき「メディア専門職」として司書教諭の職を充てることを想定した提言があったからである。この報告書は現在でも見ることができる。とくにそのなかで、学校図書館を学習情報センター、司書教諭を「メディア専門職」と見立てる図があってインパクトがあった。

学校内の体制と外部からの支援体制(図)

・現在(ないし近い将来)の学校にはメディアに関する専門的知識を持った人が不可欠である. 
・それは単なる技術者ではなく、メディアおよび情報の利用に関して指導のできる人物. 
・しかし財政緊縮の折、時代と学校現場の要請とはいえ学校内に新たな職種を設けることの困難さを痛感する.
・よって、すでに学校図書館法に規定されている司書教諭が、時代の要請に合わせて発展し、十全に機能することとなれば、望ましい.そうした動きが図書館情報学分野から出てくるようであれば、教育工学分野からも応援・協力が可能であろう. 

しかしながら、インタビューのときに聞いた話しでは、協力者会議報告書であのように学校図書館や司書教諭の可能性について新しい提言をしたのに、学校図書館関係者から積極的な応答がなかったので「司書教諭=メディア専門職」の部分はとくに展開されることはなかったとのことである。また、このインタビューが行われたのは提言が出てからすでに4年以上が経過していて、この方向での検討を始めてもすでに手遅れの感があった。さらに、LIPER学校図書館班はこのことを意識して、提言として司書教諭を「学校内メディア情報専門職」とするための方策について検討しLIPER報告書に含めた。しかしながら、LIPER自体がその後、こうした新しい専門職の在り方を議論するよりも、司書課程と図書館情報学専門課程の新しい関係構築を検討するものに方針変更をしたこともあって、このプランがその後具体的に展開されることはなかった。(以上の学校図書館関係者の行動やLIPERの顛末についてはきちんと論じておく必要があるが、それはまたの機会にする)

ちょうど1997年の学校図書館法改正後で、学校図書館関係者の関心は司書教諭の実質的な制度化をどうするかという方向の議論と、そのあとに来るべき学校司書の制度化の議論に集中していた。その意味で、関係者の議論の方向は読書センターとしての学校図書館の在り方を中心とするものであり、情報センターや学習センターの部分は後回しとされたともいうことができる。

学校図書館と情報教育の接点と乖離

講演とその後パネルディスカッションの議論は学校図書館にはまったく触れていないが、学校図書館政策を論じるときにもたいへん参考になる。というのは、情報教育も学校図書館を用いた教育(図書館教育)も、日本の学校教育における学習観、知識観と異なった伝統に置かれているからである。それは知が教師を超えた外部から直接学習者に届けられるという考え方である。学校図書館は読書センターという道を選ぶことによってそれを可能にし、情報教育は20世紀末から21世紀初頭のネット社会の到来という期において情報活用能力という仕掛けによって困難さを乗り越えようとしたのである。ただ、両者の道はまったく異なるものであり、協力者会議で示された両者の関係は実現されないことになる。

情報活用能力という用語が世界的に見ても先進的だったというのは、確かにそうだったのかもしれない。PISAがコンピテンシーやリテラシーという概念で何かができるようになるための基礎能力の議論をするのは20世紀末であって、ちょうど協力者会議報告が出る頃である。情報活用能力もそうした基礎能力の概念に近いものがある。今回の会議で方法知と内容知という言葉が使われていたが、実際には両者は簡単に分離できないものだろう。この会ではそこまで踏み込んだ議論はされていないが、情報活用能力という概念は方法知と内容知の両方を含んでいたことが困難さをもたらしたと思われる。なぜならそれを育成するために教科と組み合わせるときの難しさがあるからである。日本の教科教育では教科毎に内容知と方法知を結びつけてカリキュラムを構築するという議論をしているから、そこから切り離して情報活用能力だけを取り出すことは避けられていた。ただし、総合的学習の時間や総合的探究の時間がこの能力を育成するのに適切な枠組みであることは議論されていた。

次に、すでにある教科や教育課程の制度の壁を壊すことは難しいことが何度も語られた。永野氏が最後に「遺言」として、評価の問題とつなげて「情報活用能力は、実際に情報を活用させる場面でなければ、測れない。だから、一番いいのは情報端末とネットワークの活用を前提とした試験を制度化することだ」という発言をしていた。これはまったく同感であるが、日本の試験制度の趣旨からすると理想論にすぎない。それは結局のところ、正解があることが前提になる内容知の評価法から、学習者がどのように知にアプローチしたかを問う方法知の評価法への移行を意味する。

しかしながら、学校図書館とここで論じられた情報活用能力との関係についてはかなり難しいとも感じた。司書教諭をメディア専門職として学校に配置するというLIPER学校図書館班のプランは決して今でも無効ではないが、すでに大きく舵を切った後なのでかなり厳しくなっている。そもそも、協力者会議のまとめに「メディア専門職」は「単なる技術者ではなく、メディアおよび情報の利用に関して指導のできる人物」と言っているが、それは当時の情報教育の関係者には情報技術に関わる人が多く、①のなかのコンピュータの使い方と②の情報の科学的な理解を中心とする考え方が強かったのに対して、協力者会議報告では、コンピュータの使い方にとどまらない情報やメディアの利用の重要性を指摘したことと、新しい専門職をつくることは困難であったから一番近い司書教諭を仮に充てようとしたことの二つの理由があったからである。

だがその後本格的なネット社会の出現で、コンピュータや通信環境は容易に接続して情報を取り出すせるものになった。だから、①のみならず②や③が重要だと言うことになった。②や③は方法知よりも内容知に近いものだが、これも含めて主張するのは教育課程行政のなかでの戦略であろう。これに対して、学校図書館や司書教諭(あるいは学校司書)の任務は学習者の学びにおける方法知が中心になる。方法知についての見直しが先ほどの「壁」のために難しいとなると、司書教諭を発展的にメディア専門職とするという論理は通しにくくなっている。何よりも、学校図書館関係者のあいだでも、学習情報センターとしての学校図書館とそこにかかわる専門職員の役割が何なのかについて共有された考え方がないとすればそれ自体が問題なのだろう。

おわりに

方法知を前提とした情報教育は学校図書館の問題と近いところがあることも確かである。どちらも学習者の外部世界との関係や問題解決行動、課題解決、メタ認知といった学習科学や認知心理学の課題と関わる。その意味で学校図書館が読書と学習と情報の三センターに分けてとらえるようになって久しいが、それらの三つは別々のものではなくてそうした学習行動のいくつかの側面であるという視点をもつことが重要であるだろう。

もう一つ参加して得られた教訓として、政策を論じるためには過去を参照しつつそこから次の方向を見定めることである。その意味で学校図書館については、20世紀末にひとまず読書センターとしての道を選んだわけだが、これを今の状況に合わないとして否定するのではなくてこれを活かしながら次の道を選択することである。情報教育の人たちがなぜ司書教諭に言及したかといえば、それは曲がりなりにもすでに法制度の裏付けをもつ教育職だったからに他ならない。司書教諭は教員の兼職にすぎず機能していないと批判するのではなくて、どうすれば機能するのかを考えるべきだろう。読書と学習と情報が分離しがたいものだとすれば、そこからスタートすることも一つのやり方である。

(2023年2月7日公表、同2月8日修正)








2023-02-01

学校図書館についてのイベント2件

3月に学校図書館研究についてのイベントを2件予定しています。

二つは自分自身の最近の学校図書館研究を踏まえてお話しするもので、相互に関連しています。学会のものは会員限定です。


水戸二高図書館1


日本図書館情報学会 

第2回オンラインチュートリアルセミナーの開催について(2023年3月18日)

以下のとおり、セミナーをオンラインで開催します。正会員・学生会員のみ参加可能です(無料)。

タイトル:学校図書館研究への新しい入り方

日時:2023年3月18日(土)14:00開始で、1~2時間程度

場所:Zoomでの開催

講師:根本 彰(東京大学名誉教授)

内容:誰もが使ったことがある学校図書館は、実は新しい学びを推進する機関になりうるものです。改革を志向する研究について、その歴史、方法、今ホットなテーマなどについてお話しし、参加者とやりとりします。

参加申込フォーム:https://forms.gle/1NBFeLRBcTpQ4p9t6

申込締切:3月11日(土)

水戸二高図書館2

終了しました。

結果報告はこちら


SLIL講演会

「学校図書館改革を戦略的に考える:探究学習、教育DX、情報リテラシー、読解力...」

日時:2023年3月26日(日)14:00-16:00(約80分ほどの講演の後、40分ほどの質疑応答)

講師:根本 彰

開催方法:Zoomによるオンライン会議方式、事前登録制 有料500円

ここにきて,学校図書館を「探究学習」とか「教育DX(デジタルトランスフォーメーション)」と関わらせて論じる動きが急になっている。だが,学校図書館を学習センターとか情報センターであると主張しても説得力をもたないのは,教育関係者の学校図書館に対する見方が「子ども読書推進」の場に固定されていることが大きい。

戦後間もない時期の学校図書館は「図書館教育」の場,あるいは「教材センター(資料センター)」であるという考え方と実践があり,文部省そして各県の教育委員会で推進されたがまもなく主流の教育政策のなかで消えていった。学校図書館が資料や情報という外部的・間接的な知を媒介する教育の場ととらえる視点を教育関係者と共有するために、こうした戦後の歴史に学びその反省に立った主張をする必要がある。ここでは政策論的な観点から学校図書館改革の課題についてお話しする。

申込締め切り:2023年3月24日(金)午後12時(24時)まで

SLILのHP:https://sites.google.com/view/slil-inquiry/home

(SLILは学校における探究学習と学校図書館との関係を研究しているグループです。)

申し込み: https://peatix.com/event/3488810/view



2023-01-20

学校図書館関係論文の公表(7月4日追記)

ここ数年で学校図書館の研究を進めた。基本的には歴史研究であるが、それはある意味で前からやっている「アーカイブの思想」のケーススタディという性格をもっている。学校のなかで一定の人的配置と予算措置が行われない、つまり、日本の教育において学校図書館に対する期待はそれほど強くはないのはなぜなのかというのは多くの関係者がもっている基本的な疑問である。その疑問に正面から答えてみたいというのがこの研究の最終目標である。やってみて今のところ全体の7割くらいのところまで来ているという感触だ。『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会, 2019)以降に書いた学校図書館関係論文を紹介しながら、どの地点に立っているのかを示してみたい。

根本彰「戦後学校図書館政策のマクロ分析」『日本図書館情報学会誌』VOL.68, NO.2, June 2022, p.112-128.

根本彰「戦後新教育における初期図書館教育モデル」Library and Information Science, No.88, 2022.12, p.25-47.

根本彰「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74, no.5, 2023.01,p.252-264.

根本彰「戦後新教育おける図書館教育の実態:甲府市立南中学校の事例)」『山梨英和大学紀要』No.20, 2023,03,p.37-52.

これらの論文のうち、①は1年のエンバーゴ期間があったが、2023年7月から公開されている。②は完全オンラインジャーナルでオープン化されていない。学会から著者最終版の公開が許諾されたのでそれを提示する。③は日図研から同誌の公開版ファイルが提供されている。図書館情報学の代表的な査読誌のオープンデータ化の対応が三者三様なのはおもしろいが、まだまだ過渡期であることを示しているのだろう。

2023年3月30日に④を示した。こちらも一応「査読付き論文」とされている。完全オンラインでJ-Stageにも掲載されている。

「戦後学校図書館政策のマクロ分析」『日本図書館情報学会誌』vol.68, no.2, June 2022, p.112-128.

【抄録】戦後の学校図書館政策に関する議論の変遷と展開を公共政策論的なマクロ分析によって明らかにした。方法としてジョン・キングダンの「政策の窓」モデルを用いて,1. 戦後教育改革期(1947-1958),2. 日本型教育システム期(1958-1987),3 . 21 世紀型教育改革期(1987- 現在)の 3 つの時期について,学校図書館政策の議論の流れ,政策の流れ,政治の流れを検討した。その結果,各期で政策の流れが中心にあることが認められ,政策で不十分なところが議論の対象とされそれが政治的なアジェンダと一致したときに立法化の動きに結びついたことを確認した。第一期には学校施設整備,第三期には言語力・読書力の向上が政治的アジェンダになり立法化まで進んだが,第二期においては政治的な議論の対立があって立法化できなかった。最後に,次のアジェンダ設定のためには,地域社会における探究カリキュラムと方法に関わる理論的研究が必要なことを述べた。

【解説】全国SLAの『学校図書館五〇年史』や多くの人によって個別に行われている研究を再度見直したメタアナリシス的な歴史研究である。キングダンの「政策の窓」モデルというのは、要するに政策が法や制度として確立されるまでには、議論や政策実行、政治的働きかけがあり、それらがうまく噛み合ったときに制度化が可能になるというものである。学校図書館政策においてこれが可能になったのは1953年の学校図書館法成立と1997年、2014年の学校図書館法改正の3回しかないが、1997年、2014年は一連の流れとみることができるので実質的に2回しかない。

1953年の法成立は、占領軍からの指示で文部省が(しぶしぶ)動き始め、担当官深川恒喜や全国SLAの中心になった松尾彌太郎の尽力で学校図書館が新教育の重要な要素になるとの議論の盛り上がりがあり、それが100万人の署名活動を経て超党派の議員の支持で立法化が可能になった。ただ、このときの議論は戦後間もない時期に学校の校舎も施設も教材教具も不足していたときに、それを国が支援してくれるという点にあった。読書のための「設備」としての学校図書館は現在も変わらないがこの時点で確定している。

1997年、2014年の改正は、子ども読書推進の旗印の下に児童書出版社、児童作家を中心に出版関係者が政治家を動かして成立したものである。このときの論点は言語力や読書力の向上ということであり、背景にはPISAにおける読解力低下があった。これによって読書センターとしての学校図書館の位置づけは確定したと言えるが、それ以上のものではない。むしろ司書教諭は後景に退き、非正規を中心とする学校司書が前景化した。

現在、学校図書館関係者には、探究学習を実行する拠点としての学習センターとしての学校図書館やGIGAスクールを支援する情報センターとしての学校図書館の位置づけを望む声が強いが、これらを可能にするためには別のプロセスとして、議論、政策、政治の流れをつくっていく必要があるということになる。

「戦後新教育における初期図書館教育モデル」Library and Information Science, no.88, 2022.12, p.25-47.(著者最終版)

【抄録】[目的]学校図書館が読書や図書館利用指導の場であることを超えて,教育課程に全面的に関わる可 能性を追究することが求められている。本研究は,戦後初期の教育改革において,学校図書館を教育 課程に位置付けるために「図書館教育」が提唱され実施されようとした事例を分析して,学校図書館 に関わるカリキュラムモデルが形成されようとしていたことを検討する。
[方法]文部省『学校図書館の手引』(1948)刊行から『学校図書館運営の手びき』(1959)が刊行さ れるまでの期間において,文部省,実験学校,雑誌『図書教育』,図書館教育研究会などの議論や実 践報告において図書館教育がどのようにとらえられたのかについて,文献研究を行う。
[結果]『学校図書館の手引』に「図書および図書館利用法の指導」として示されたものは東京学芸大学第一師範学校男子部附属小学校での実践的検討により『小学校の図書館教育』(1949)として具体化された。これは図書館教育研究会による『図書館教育』(1952)に引き継がれ,読書指導と図書および図書館利用指導をつなぐ図書館教育モデルとして提示された。同時に各地の学校で『学校図書館の手引』を元にした実践が行われ,雑誌『図書教育』上での議論でこれが検証されようとしていた。 主唱者東京学芸大学教授阪本一郎は,アメリカから来た図書及び図書館利用法の考え方に心理学的な 発達理論を加えて図書館教育を構築したが,1951 年の講和条約締結後にはそれらを分離して読書指導が教育課程に適するものとした。国の教育課程が系統主義に転換するなかで,1953 年学校図書館法で成立した司書教諭が教員の充て職となり,学校図書館は読書の場とされた。最終的に『学校図書館運営の手びき』に示された図書館教育モデルは学校現場の状況に合わないものだった。

【解説】探究学習を支える学習センターとしての学校図書館の可能性をどのように考えるかについて、戦後新教育で「図書館教育」というカリキュラムモデルが検討され実施されたことを取り上げ、現在の問題にどのように引き継げるかを検討する手がかりにしようとした。

戦後新教育の最初の文部省の学習指導要領は(試行)とされて、実質的には各教育委員会や学校に委ねられた形をとった。それで文部省はアメリカの教育関係者の支援を得ながら、アメリカの学校で行われているカリキュラムや教育方法を日本に移そうとした。そのときに、コア・カリキュラムや単元という考え方が導入された。コア・カリキュラムは教員の教育運動としてさまざまなプランが提案されて実施され大きな影響力をもった。図書館教育はこの時期に導入されたものの一つであり、東京学芸大学附属小学校(世田谷校)が実験学校となって、阪本一郎を中心に検討が行われ、彼によって読書指導や子どもの心理的発達過程を含めた図書館教育として提案された。

その後、図書館教育は教員の研究グループで継続して検討されたし、いくつかの雑誌の誌上で議論の対象になった。県によっては教育委員会が積極的に図書館教育を振興するための実験学校を設けて推進しようとしもした。しかしながら、1953年学校図書館法は司書教諭を当分の間置かないことができるとし、図書館教育は占領終了後の文部省の教育課程や教員養成制度に組み込まれることはなかった。その頃から系統主義カリキュラムに切り替える動きが急になることにより、カリキュラム運動としての図書館教育は読書指導と図書及び図書館利用法に分離され、後者のみを図書館教育とする見方が中心になった。

「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74, no.5, 2023.01,p.252-264.(日図研提供版)

【抄録】戦後教育改革において,文部省は学校図書館を教育課程に組み込む実験学校の指定を行った。東京学芸大学附属小学校(世田谷校)が最初の図書館教育モデルを提示したことを確認した上で,東京都港区立氷川小学校,川崎市立富士見中学校,栃木県立栃木女子高等学校の3校の実験内容を検討した。その結果,図書館教育自体の困難さに引き換え短期間で成果を挙げることが要請されたこと,校種によって教育課程において生じている事情があったことや学校図書館専属の教職員が置けなかったことなどの理由で,図書館教育を継続させることは困難であったことを明らかにした。

【解説】1950年前後の文部省内部での検討では、学校図書館を教育課程に組み込むことの是非を見極めようとしていて、そのなかには司書教諭を専任化して教科教員とともに養成するプランも含まれていた(これはフランスで行われている司書教諭養成と同じ)。それは、「幻の学校図書館法案」と言われる1953年3月国会提出法案に残されている(拙著『教育改革のための学校図書館』第2章)同じ頃に、文部省が3つの公立学校を対象にして、学校図書館に関する研究を行う実験学校を指定した。この論文ではこれらの学校が発表した資料を基にして図書館教育を各校ともどのように実施していたか解明しようとした。

このなかで、氷川小学校では専任の司書教諭を配置するなど条件が整っていたが、校長の異動やカリキュラム変更などでうまくいかなかったし、富士見中学校ではカリキュラムの検討を行い教科教育と組み合わせた図書館教育を積極的に位置付けようとの検討は行われたが、その実験期間のみの試行に終わった。学校図書館法成立前までは各校とも真剣に図書館教育をカリキュラムに組み込むための検討を行っていたが、その後は専任の担当者を置けなかったりして、図書館教育はうまくいっていない実態が明らかになった。やはり短期的な準備で導入するには、図書館教育は日本の学校教育カリキュラムとの隔たりは大きかったことが分かる。


【要旨】戦後占領期に,連合国軍総司令部の指示により,教育改革の一環として学校図書館を設置して教育課程を支援する取り組み(図書館教育)が試行された。本稿では全国の教育委員会に先駆けて 山梨県教育委員会が 1949 年から実施した実験学校プログラム参加校のうちで,甲府市立南中学校 が4年間実施した事例を同校報告書に基づいて検討する。初年度に文部省資料と先行事例を参考 にしながら図書館指導を織り込む計画を立て,これを2年目にはリーディングガイダンスと名付 けて実施しようとした。しかし3年目には生徒指導を中心とするガイダンスと名称を変え,4年 目には事実上図書館教育の実施はうまくいかなかったと報告した。うまくいかなかった理由として,発足したばかりの新制中学校における生徒指導など,より困難な問題への対応を優先したこと,教員全体が合意して取り組んだものではなくまた実施するための専任職員が配置されたわけではなかったことがあった。

【解説】ここ3年ばかり山梨英和大学で夏の集中講義を行っている。一昨年度、昨年度はちょうどコロナ禍でオンライン授業だったが、今年度初めて現地甲府市での授業となった。前から図書館教育の実験学校のなかに山梨県の学校が多いことに気づいていたので、この際に現地調査をしてみようと当該学校や教育センターに問い合わせてみたが手応えがない。そこで何か手がかりがないかと、山梨県立図書館にレファレンスをお願いした。そうしたら、甲府市立南中学校が1949年から4年間続けた図書館教育の実験学校プロジェクトの経過を示す地域資料がここに入っているとの答えだった。授業の合間に図書館に通って集めた資料で書いたのがこの論文である。せっかくの機会なのでこの大学の紀要に投稿してみた。ちょうど、創立20周年記念号ということだ。

甲府南中学校は県教育委員会の実験学校として学校図書館のプロジェクトに手を挙げた。新制中学校はできたばかりで、施設・設備は不足しており、文部省が力を入れようとしている学校図書館に関わることで展望が開けるとの期待があったと思われる。しかしながら、資料を読むと、カリキュラムを進める4年間に教員が対処しなければならない現実的な問題が大きくなり、図書館教育を進めることができなくっていった事情が生々しく語られていることが分かる。前の論文で扱った川崎市立富士見中学校のケースも同様であるのだろうが、新制中学校が教科カリキュラムや生徒指導への対応で精一杯であり、図書館教育のような異質の教育方法を十分に検討する余裕がなかったものと思われる。戦後の学校図書館運動がうまくいかなかった理由の一端を明らかにできた。


2023-01-18

最近の業績一覧(付:これまでの業績一覧)

最近、査読付き論文を書くことにしています。『日本図書館情報学会誌』『図書館文化史研究』『Library and Information Science』『図書館界』に投稿していずれも掲載されました。ずっと査読論文を書いていなかったのですが、書くことにしたのはこうした雑誌の査読を引き受けることも多く、査読の効用も分かったからです。実際、査読してもらって、査読者からの指摘、アドバイスは有効でした。博論への条件のみで査読誌に投稿することが常態化していますが、これは残念なことだと感じます。今後も論文執筆を続けたいと思います。

以下は、昨年一年で発表した論文の一覧です。ここに入らないのは1月になって出た「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74,no.5, 2023,01,p.252-284.です。


【図書の一部】
「図書館」日本文藝家協会編『文藝年鑑 2022』新潮社, 2022.06, p.61-64.
 
【論文】
「知のアーカイブ装置としての図書館を考える:ニュートン関係資料について」『短期大学図書館研究』40/41合併号 2022.3 p.103-110.
「戦後学校図書館政策のマクロ分析」『日本図書館情報学会誌』VOL.68, NO.2, June 2022, p.112-128.
「深川恒喜研究のための予備的考察(付 深川恒喜著作目録暫定版)」『図書館文化史研究』第39号, 2022,p.173-200.
「戦後新教育における初期図書館教育モデル」Library and Information Science, No.88, 2022.12, p.25-47.
「GIGAスクールと学校図書館」『図書館雑誌』vol.116, no.121, 2022年12月, p.697-699.
「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ:ニュートン資料を通してみる」『アーカイブズ学研究』No. 37, 2022.12. p.4-18.

【講演】
「リテラシーと情報リテラシーのあいだー今後の図書館を考える」「九州沖縄地区図書館員研修」宮崎県立図書館 1月19日
「知のアーカイブ、歴史のアーカイブ―『アーカイブの思想』を書いてみて」日本アーカイブズ学会 基調講演 オンライン 4月23日
「アーカイブの思想: 知、歴史、美を時間軸で考える」東京芸術大学「創造と継承とアーカイヴ: 領域横断的思考実践」 6月9日
「知は蓄積可能か: アーカイブを考える」慶應義塾大学文学部「文献学の世界」7月6日

【その他】
「2021年読書アンケート」『みすず』64巻1号, 2022年1/2月号, p.27-28.
「(時代の栞)「移動図書館ひまわり号」1988年刊・前川恒雄 「知」を身近なものへ」朝日新聞2022年4月13日朝刊(コメント)
「図書館の可能性」『朝日新聞』2022年5月28日, 書評欄


以上のものを含めて、これまでの業績一覧を公表することにします。

根本彰 業績一覧(2024年 1 月 16 日現在)




 

新著『知の図書館情報学―ドキュメント・アーカイブ・レファレンスの本質』(11月1 日追加修正)

10月30日付けで表記の本が丸善出版から刊行されました。11月1日には店頭に並べられたようです。また, 丸善出版のページ や Amazon では一部のページの見本を見ることができます。Amazonではさらに,「はじめに」「目次」「第一章の途中まで」を読むことができます。 本書の目...