11月30日(土)に慶應義塾大学三田キャンパスで、公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」が開催された。これについて主催者として報告しておきたい。
まずは、登壇していただいた4名のコメンテーター、司会の河西由美子さん、事務的なことを一切していただいた吉澤小百合さんをはじめとしてスタッフの方に感謝申し上げたい。当日の来場者は81名だった。当初は90名が座れる教室だったが、そこに50名以上入るとけっこう息詰まる感じになることは経験しているので、ずっと大きな部屋に移ったのだったがそれは正解だった。
正式の報告については同じブログで公開しているので、ここでは私の立場からの報告をしておきたい。まず、テーマの説明に拙著のタイトルが挙げてあるように、当初、拙著の合評会というような性格のものにしたいと考えていた。それは私自身が『情報リテラシーのための図書館』と『教育改革のための学校図書館』と2冊の本を書いて、いちおうの区切りをつけて次の課題に移るときに、ここ数年でやったことについて外部評価的なものがあった方がいいと感じたからである。
それをコメンテーターにお願いしたつもりではあったが、本書についての批評的な発言はほとんどなかった。むしろ、本書で記述されていることを出発点にして学校図書館について議論するというような感じに展開した。公開の場での批評というのは昔あったものだが、今はあまりはやらないということがひとつはあるだろうが、もう一つには、本書がきわめて多面的なことを述べているので個々の部分についてのコメントはできても全体を評価することは難しいということはあったかと思われる。とくにコメンテータ個々の持ち時間が15分しかなかったから、十分な議論することは難しかった。その点で、溝上慎一さんにはせっかくスライドを20枚以上ご用意いただいたのだが、かなりはしょって話されたのはもったいなかった。別の機会にゆっくりとお話しいただければと思っている。
コメンテーターは、学校図書館に近いところで活動している稲井達也さんと高橋恵美子さん、そこから少し遠い教育畑の研究者である勝野正章さんと溝上慎一さんの二つのグループに分けられる。学校図書館関係者からはそれぞれのお立場からの率直な現状認識と今後の在り方へのお話しがあった。また、教育学に関わるお二人からは教育現場の困難さが指摘され、しかしながら改革が必要であり学校図書館は重要な場となるというコメントがあった。
多くの参加者は教育学のお二人が何を発言するのかに期待と不安とをもっていたと思われる。だが、あまり踏み込んだ話しがあったわけではなかった。また、その後の質疑応答においてもどちらかというと一般的な議論で終わった。だが、一回だけ緊張が走った場面があった。それは、学校図書館がどのように情報リテラシー教育に関わるべきかという質問が溝上さんに振られたときである。いきなりだったこともあり、少し間を措いてから、ご自分が前に所属していた大学で図書館職員が行っていた情報リテラシー教育の実効性に対して疑問が発せられた。せっかく情報リテラシー教育に熱心に取り組んでいるが、それは学生にとって学習効果はあまりないと理解しているように聞こえた。ただ、それ以上の議論はなく終了した。
教育と図書館が交わる部分をどのように教育者がとらえているかがちらりと見えた瞬間だった。もちろん個別のケースに基づくものではあるが、このような見方は比較的図書館に理解がある教育者からも寄せられることがある。
司会の河西さんがアメリカの例を出していた。アメリカの大学は日本よりはるかに図書館員を専門職として位置づけしてきたが、それでも情報リテラシー教育の在り方については、今もって議論は継続されている。拙著で触れた教育の構成主義を前提とした図書館サービスとは、要するに、教育の場は学習者が自分で学ぶことで成立し、その際に学びの素材を入手することについては教員だけでなく図書館員が関与することが当然のものとなっている考え方に基づく。そうした構成主義を前提とした制度化をしてきたアメリカの大学図書館ですら、情報リテラシーの概念を巡って教育と情報利用のあいだでどのように線引きするかについての長い論争があることは上岡真紀子さんが一連の論文で紹介している。
おそらくは探究的学習と図書館を安易に結びつけることはやめた方がいいのだろう。確かに、図書館を使った学習、図書館の資料やデータベースを使った学習、ネット上の学習資源に対して組織的にアクセして探索する学習など図書館員の手法に近い部分を生かした学習はある。しかし、探究的学習は、図書館関係者のいう文献資料による調べ学習だけでなく、いわゆるアクティブラーニングということになるときわめて多様なものを含み、他方では本格的な学術研究に近いものまできわめて多様なものを含むことが知られている。学習者が自分で知の構築をすることについて、ヴィゴツキー、ピアジェ、ブルーナーをはじめとして、認知科学や教育心理学をベースにしたアクティブラーニングやメタ認知、学習共同体等々の研究の蓄積がある。図書館が関わる学習が多様な探究的学習の一部にすぎないのか、それとももっとも基本的なものであるといってよいのか、そのあたりを教育学的な知見も交えてもっと追求する必要があると感じた。
なお本シンポジウムは、日本学術振興会科学研究費補助金19K12721に基づいて実施したものである。そのテーマは「「知の理論(TOK)」に基づく学校図書館モデル構築の研究」というものである。私の発言のなかでも、国際バカロレア(IB)を採用した学校では探究的学習が中心であると述べた。そして、IB校では図書館の整備は必須の事項となっている。そのなかでTOKは高等学校レベルのIBの中心科目である。つまり、図書館を用いるIBのカリキュラムの中心科目を見ることで、IBでは図書館をどのように位置づけようとしているのかを明らかにしたいというのがこの研究の目的である。いずれ成果が出たらまた報告したい。、
2019-12-27
2019-12-26
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の配付資料と記録
2019年11月30日(土)午後に慶應義塾大学三田キャンパスで開催された公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の当日配付資料と記録を以下に公開します。
【配付資料】
根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)+参考資料
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
【シンポジウム記録】
公開シンポジウム「教育改革のための学校図書館」の記録
*根本による私的なコメントが12月27日付けブログにあります。
2019-08-31
公開シンポジウム 「教育改革のための学校図書館」参加者募集中
このシンポジウムは終了しました。(2020年2月9日)
記録は12月26日づけブログで見られます。
私見は12月27日づけブログで見られます。
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来場者が増えたために会場を変更しました。(10月28日)
会場において、本書を2割引で販売します。(11月15日)
公開シンポジウム 「教育改革のための学校図書館」
日時:2019年11月30日(土)午後2時〜5時
場所:慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎527に変更しました
アクセス https://www.keio.ac.jp/ja/maps/mita.html
(キャンパスマップ5番の建物、正門入って左手奥に進んだところ)
参加無料
事前登録制:希望者はここで登録してください
会場において、本書を2割引(税込み4,000円)で販売します。
話題提供者:根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
登壇者
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
司会:河西由美子(鶴見大学文学部ドキュメンテーション学科教授)
スタッフ:吉澤小百合(筑波大学図書館情報メディア研究科博士課程)
*本会合は、日本学術振興会科学研究費補助金(19K12721)の資金援助による。
<話題提供者>
根本彰(慶應義塾大学文学部教授)
図書館研究を40年行い、今回、学校図書館論をまとめることができた。今後は、これを継続するとともに、『情報リテラシーのための図書館』(2017)以来の近代日本の知識資源管理システムの研究にも取り組む予定である。具体的には「明治政府の知識資源システム」「知の1940年体制論」など。
<登壇者>
稲井達也(日本女子体育大学教授・附属図書館長)
学校現場と連携し、国語科教育を実践的に研究する。『学校図書館活用デザイン』(学事出版刊)で学校図書館を生かした授業デザインを提案した。都立高校3校と都立小石川中等教育学校(設置準備から従事)で教員25年、その間に都教委指導主事も1年務めた。
勝野正章(東京大学大学院教育学研究科教授)
教育行政学、学校経営学を専門にしている。子どもにとっての意味というだけでなく、教職員にとっての意味(専門性が育まれ、発揮される条件)という観点からも、学校図書館について考えてみたい。
高橋恵美子(日本図書館協会学校図書館部会長)
元神奈川県立高校学校司書。定年退職後、東京大学大学院修士課程に入学、現在博士課程に在籍(休学中)。学校司書配置の歴史と実践に関心があり、『学校司書という仕事』(青弓社 2017)にまとめた。
溝上慎一(学校法人桐蔭学園理事長・桐蔭横浜大学特任教授)
発達心理学研究から始まり、ここ20年ほど高等教育におけるアクティブラーニングやキャリア発達などを論じてきた。しかし発達の観点からは大学生では遅いというデータや論を得て、小学校の学びから中等教育、高大接続、そして仕事・社会へのトランジション論までを研究的・実践的に展開している。
<司会>
河西由美子(鶴見大学文学部ドキュメンテーション学科教授)
1990年代後半から、メディアセンター化した学校図書館の設計と運営に関わり(京都・同志社国際中高、東京・玉川学園等)2000年より社会人大学院生として情報リテラシー・子どもの情報行動について研究を始める。博士(学際情報学)。2017年度より広島県立広島叡智学園アカデミックアドバイザー(図書館)
2019-08-29
蛭田廣一著『地域資料サービスの実践』の刊行
小平市図書館の蛭田さんにお会いしたきっかけは、彼が三多摩郷土資料研究会(三郷研)の幹事役をやっていて、この研究会が10年に一度、多摩地域の郷土資料サービスの調査をするのにあたって協力してほしいということであった。私は大学院生時代から、日本図書館協会の図書館の自由に関する調査委員会の委員をしていた。すでに「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」と「図書館員の倫理綱領」(1980)が出たあとで、次の課題として個人情報保護とともに情報公開が話題になっていたときだった。山形県金山町で日本で最初の公文書公開条例(1982)が出され、自治体が保持する情報を住民に向けて提供することが図書館でも課題になりかかっていたときだった。私は自治体行政における図書館の位置づけを検証するのに、郷土資料や地方行政資料を手がかりにすればいいと考えて、生意気にも委員会が出していた「図書館と自由」のシリーズの編集を担当することになった。当時、関西の委員だった石塚英二さんや塩見昇さんがバックアップがしてくれたからできたことであった。こうして刊行できたのが、『情報公開制度と図書館の自由』(1987)という本である。この本のことや図書館の行政情報提供については、当ブログ「図書館はオープンガバメントに貢献できるか(2)」に書いたのでそちらも参照していただきたい。
この本に私は「戦後公共図書館と地域資料ーその歴史的素描」という論文を書いた。これはこの分野ではそれまでもその後もあまり書かれていない戦後の郷土資料に関わる実践をまとめたものである。これを見て蛭田さんが連絡をくれたのである。この当時、日野市の実践から始まった資料提供サービス論が公共図書館界で主流になった時期であり、その意味で郷土資料サービスは後ろ向きのサービスと見られがちだったのに対して、私がこれは現代的な意義があるという趣旨の論文を書いたので声を掛けてくださったわけだ。
三郷研は東京の多摩地域(東京都の区部以外の地域)の自治体図書館の郷土資料担当者の繋がりの研修と親睦の場だった。明治百年(1968)あたりをきっかけにして、自治体市編纂の動きや急速に都市化が進められたことに対して地域の歴史や民俗、文化活動を継続するために図書館が果たす役割についての議論があった時期である。「地方の時代」が合言葉だった。それぞれの自治体の中央図書館にはレファレンス担当と一緒だったり、別に担当する場合もあったが、郷土資料担当者は必ずいた。そして互いにノウハウを交換する研究会活動を繰り広げていた。10年に一度の郷土資料サービス調査は現在まで継続されている。
この場で、直接図書館員の活動に触れることができたことは私にとって財産になっている。まもなくつくばの図書館情報大学に就職してアメリカに研究に行くことにしたために、図書館の自由に関する調査委員会は辞めることになったが、三郷研との付き合いはその後もしばらく続いた。そのなかで、『地域資料入門』(1999)の執筆に参加できたこともよい思い出である。この本は、この領域では唯一の指南書として読まれたものである。この本は日図協の「図書館員選書」シリーズの一冊として出たものであるが、このシリーズはまもなく、「図書館実践シリーズ」と名前を変えてすでに40点あまり出ている。前のものから20年後の改訂というのは遅きに失する感じもある。私もいろんな場で、地域資料サービスを学ぶのには『地域資料入門』が最適なのだがすでに古くなっていると触れざるをえず、改訂版がほしいですねと話したりしていた。
なぜ、20年もかかったのか、これについて語ればそれはまた長い物語になる。一言で言えば、バブル崩壊後の図書館界の疲弊がこういう本質的に専門的な領域に出てしまったとしか言いようがない。この間、国立国会図書館(2007)と全国公共図書館協議会(2016)と2回の地域資料サービスに関する調査に参加してわかってきたのは、20世紀のうちは各自治体にいた郷土資料専任担当者が21世紀になると兼務体制に変化したということである。郷土資料や地域資料サービスは通常のサービス体制でも実施することは可能である。図書館サービスは「資料」に依存する。ネット上のものまでとは言わなくとも、当該自治体の資料や地域の企業、商店、学校、NPO、病院などの組織の資料を含めれば、地域では日々膨大な量の資料が発生している。それをどこまで丁寧に声を掛けて収集して組織化し提供するか。『地域資料入門』はそうしたアイディアとそのためのノウハウを提案したものだ。かつての郷土資料はとくに歴史資料に目配りしていたのだが、それが同時代的に発生するものまで含めて地域資料と呼び替えようと提案した。この時期が同時に、自治体経営論に転換する時期と重なったわけであり、これが正規職員の減少を招き、そうした新しい専門的なことに乗り出すことを妨げ、兼務体制による最低限のサービスしかできない状況をつくりだした。
三郷研は『地域資料入門』を刊行した頃に三多摩地域資料研究会(三資研)と名前を変えた。21世紀になってからは、多摩地域であってもこうしたサービスに人を振り向けることができにくくなっている。今回、改訂版をということで蛭田さんに相談したらあのときの執筆者は退職したり、図書館とは別のところに転出したりしていて、結局、唯一図書館に戻って来られていた蛭田さんご自身の単独の著ということになった。彼がいる小平市立図書館はしっかりとこの方面のサービスを継続していたところであり、その実践を踏まえてまとめられたものである。シリーズ名にふさわしいこの本が出せたことをともに歓びたい。今後、この本を出発点としてどれだけ新しい課題に取り組めるかについても検討したいと思っている。
2019-07-01
『教育改革のための学校図書館』のスニペット表示
教育改革のための学校図書館 新刊
根本 彰 著
東京大学出版会
ISBN978-4-13-001008-5発売日:2019年06月27日
判型:A5
ページ数:344頁
内容紹介
中途半端な制度化に終わった戦後日本の学校図書館の苦闘と挫折の歴史をたどり直し,すぐそこに来つつある「主体的・対話的で深い学び」が求められる知識社会に対応するために,学習情報センターとしての学校図書館と司書のヴィジョンを浮かび上がらせる.
著者による自著紹介記事(2019年11月21日追加)
https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00187.html
目次
(序、1章1節、10章4節は読むことが可能です)
序
第I部 戦後の出発点の確認
第1章 戦後学校図書館制度成立期研究の現状
1 戦後初期教育改革と学校図書館の関係
2 戦後初期教育改革の全体像
3 占領期の学校図書館改革
4 学校図書館制度へのアメリカの影響
5 戦後初期教育改革期の学校図書館史
第2章 占領期における教育改革と学校図書館職員問題
1 学校図書館の法制度
2 占領初期の教育改革と図書館
3 学校図書館基準における「人」の問題
4 teacher librarian と司書教諭,学校司書
5 学校図書館法立法時における司書教諭像
6 学校図書館問題の困難さの淵源
第3章 戦後教育学の出発と学校図書館の関係
1 教育学と学校図書館を結びつけて考える意義
2 戦後教育初期改革と学校図書館
3 戦後初期の学校図書館構想
4 戦後教育学と学校図書館
5 IFEL図書館
6 まとめと課題
第II部 教育改革と学校図書館
第4章 学校図書館における「人」の問題
1 議論の設定と背景
2 戦後初期教育改革と図書館職員の問題
3 学校教育興隆期の学校図書館
4 教育改革と学校図書館法改正
5 ニ職種配置状況の完成
第5章 教育改革と学校図書館の関係を考える
1 学校図書館と図書館の関係に寄せて――物語と情報リテラシー
2 2008年版学習指導要領を読む
3 学校図書館問題への一つの視点
4 21世紀の学校図書館理論は可能か
第6章 教育改革と学校図書館制度確立のための調査報告
1 総合学習・探究型学習と学校図書館
2 探究型学習と学校図書館の関係の実際
3 「調べる学習コンクール」の効果
第III部 外国の学校図書館と専門職員制度
第7章 フランス教育における学校図書館CDI
1 フランス教育の概要
2 フランスの教育改革と学校図書館の沿革
3 学校図書館の実地調査に入って
4 おわりに
第8章 米国ハワイ州の図書館サービスと専門職養成システム
1 図書館員数の概略
2 ハワイ州の図書館と図書館員
3 図書館員制度と養成
4 書物文化の公的装置としての図書館
第IV部 日本の政策的課題
第9章 学校内情報メディア専門職の可能性
1 日本の図書館員養成課程
2 LIPER図書館情報学カリキュラム
3 LIPER学校図書館班中間報告
4 学校内情報メディア専門職の養成案について
5 その後の学校内情報メディア専門職論
第10章 日本の教育改革の課題と学校図書館の可能性
1 歴史的展開のまとめ
2 構成主義学習論と学校図書館
3 教育政策との整合性
4 来るべき学校図書館職員論のためのメモ
あとがき
索引
2019-06-15
映画「ニューヨーク公共図書館エクス・リブリス」を観る
6月13日(木)の夜に岩波ホールで「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観た。200人は入るホールに50人程度の入りだった。言われている評判より少ない感じだが、それはどうも終了時刻が21時50分に設定されていることに原因があるようだ。上映時間が3時間25分で途中で5分ほどの休憩が入るのでこういう時間になる。同館のサイトによれば、昼はそれなりの入りのようなので、この時間帯だと見合わせる人が多いのだろう。複数の観た人の話しでは、長いので座布団が必携とか、だんだんと疲れてくる、くらくらしてくるというのと、長いけれども飽きないで観られるというのとがあった。
というわけで、最近こんなに長い映画を観たことがないのでどうなることかと戦々恐々ではあったが、結果的には集中して観続けることができた。しかし、最近は名画座系でも座席は快適なところが多いから、前の座席の人の頭が画面の一部を遮る可能性があるこのホールのつくりの古さは少々気になった。
映画について
さて、映画そのものだが、「ドキュメンタリーの巨匠」フレデリック・ワイズマン監督が比較的短時間のあいだに、この図書館(NYPL)で起こっていることを撮影し、断片をつないで編集して見せてくれるものだ。本館、複数の分館、地域館の建物や内装、イベント(とくに何人もの作家が自著について語る様子)、内部でのサービスの有り様、経営面の議論などを紹介している。図書館という地味に思えるものを紹介したドキュメンタリーがなぜ一本の商業映画になるのか、また、それがなぜ数々のドキュメンタリー部門の映画賞を受賞しているのか、さらには、それがなぜ日本でも上映され、多くの人が見にくるのか。このあたりが長年日本の図書館の不遇さに嘆いていた私には不思議に思われたので、どう見えたかについて書いておく。
まず、ワイズマンは別のインタビューに答えて、この図書館の利用者でも何でもないという。人に紹介されて、ここのおもしろさを知り撮ってみようと思ったと発言している。その「おもしろさ」は確かにこの映画全体にあふれていた。だが、監督がおもしろいと思て取り上げ、私も同様の感想をもったものが、映画評論家に高く評価され、日本のメディアでも取り上げられるのかについては考えてみる必要があるだろう。それをあえて説明すれば、ネット社会の到来による情報アクセスの利便性と、その裏側で生じている経済格差、そして、さらにはアメリカが抱えている人種問題が扱われ、それが現代の状況と対局にある論理にまとめ上げられているからである。つまり、ポストトゥルースの状況において、図書館が知の真理性の最後の砦になることを主張しているのである。この観点はアメリカでならニューヨークや西海岸の知識人に支持されるだろう。しかし、日本ではどうなのか。
映画から読み取れる同館の活動内容
図書館は、単に書物のコレクションを提供する場ではないことが繰り返し示されている。まず何よりもマンハッタンの中心部にあるという立地条件と、そのボザール様式という大理石造りのがっちりした建物がある。室内は広く天井は高い。家具調度品は豪華である。過度なきらびやかさは排除されているものの、知と美に対する最高の敬意が示され、それに伴う巨額の資金がつぎ込まれていることは一目瞭然である。古典古代、そしてルネサンスやバロックのヨーロッパの知的伝統をそのまま継承し、アメリカ資本主義によってニューヨークという都市に発展させようという意気込みがここに見られる。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけての白人中産階級の文化構築の意思から始まったが、それにとどまってはいなかった。20世紀後半には、差別撤廃の社会的議論を反映させた多文化主義が採用される。何度か出てくる黒人文化研究図書館はNYPLの分館の一つであり、ここがもつアーカイブ的な資料は作家や研究者に黒人差別の実態を伝えるものとして重要な研究拠点になっている。19世紀にあった奴隷制と資本主義、共和主義の関係についてのレクチャーのシーンでは、マルクスがリンカーンに送ったという書簡が取り上げられていて、ここから共産主義者のマルクスが共和主義者のリンカーンを支持したのが、黒人の奴隷からの解放と労働者の解放を重ねて見ていたことが語られる。チャイナタウンに近い分館では、中国系移民に対する中国語でのサービスが行われている。また障害者サービスとしての点字や録音図書作成のシーンがある。手話通訳のボランティアを養成する講座のシーンがあり、「アメリカ独立宣言」の一節を、懇願するように読む場合と怒りを込めて読む場合とで手話通訳の動作が違っていると言って、実際にやってみせるシーンがおもしろかった。
ハイカルチャーの文字資料をあつかっているだけではない。ポピュラーカルチャーへの配慮が示される。写真コレクションは20世紀までのアメリカ人のコマーシャリズムや日常生活をそのまま写し取って蓄積したものである。先ほどの手話通訳のシーンは舞台芸術図書館のものだが、ここはメトロポリタン歌劇場に隣接している。舞台芸術から大衆芸能にいたる、台本・脚本や楽譜、映像資料、録音資料だけでなく、舞台装置のミニチュアセットや衣装デザイン、プログラム、ポスターなどの資料を集めて提供している。単なる印刷出版された資料だけでなくて、個々のパフォーマンスに対応する複製資料を集めている場である。
こうした図書館の活動を支える仕組みであるが、よく知られているようにここは非営利法人組織になっている。ニューヨーク市からの助成金と民間から寄付金が半分ずつという説明がされていた。もともと、アスター、レノックス、ティルデンの3財団の資金を統合して始まり、それにカーネギー財団からの寄付金が加わって、これらを基金としたものである。だが活動資金は自動的に入るようなものではなく、獲得するための説明がきわめて重要になる。
映画で何度も登場するのが、この図書館の経営会議である。運営資金をいかに調達するか、それから、どのような方面に向けてどのようなサービスを拡張していくかについて、侃々諤々の議論が行われている。重点をおいて描かれているのが、ネット弱者への対応である。そのなかでは、20世紀にカーネギーが無料公共図書館を寄付することによって印刷本の普及を図ったように、図書館がPCやネットへのアクセスをネット難民に無料で提供することによって、紙とデジタルとを問わず知へのアクセスを保証するという考え方をとっていることが強調される。しかしながら、図書館が実際に提供するコンテンツとして、紙かデジタルか、また提供するものが要求の多いものか価値あるものにするかというような、以前からある議論は継続して行われていることもわかる。
こうした図書館を支える人たちがどういう人なのかについては、あまり説明はなかった。今の経営会議への出席者は館長、渉外担当役員、主任司書などであり、彼らの間でも方針について差異が見られた。また、それぞれの専門図書館の責任者は司書というよりはキュレーターのような主題分野の専門家のようだ。分館や実際の資料コレクションの担当者になってはじめて図書館資料の利用について直接語る役回りになっている。これらについて知るためには、800円で売られている映画解説のパンフレットが役に立った。
映画が示唆する図書館の在り方
まず、この映画は最初から最後まで、誰かが話す、あるいは語るシーンで成り立っている。静謐な読書環境というステレオタイプの図書館観からすると意外なことに、声が横溢している。電話レファレンスの応対、作家の講演やインタビュー、カウンターでのやりとり、経営会議での議論等々。閲覧室で利用者が資料を繰ったり、読んだりしているシーンがないわけではないが、それはごく一部である。これは図書館がもつ膨大な資料がもたらす作用であると考えることもできる。図書館という場を描く以上、建物の内外の映像以外にメッセージを伝えようとすれば、声を中心にせざるを得ない。図書館は声が発生する場として描かれているのである。資料に含まれるメッセージはそれが読まれなくともそこにあるだけで何らかの作用をもたらし、作家はこの場で話しをすることで自分の言葉が他の資料に含まれる言葉と共鳴して自由な発想が可能になると主張しているかのようだ。
また、図書館の活動が来館者に何らかの資料やサービスを提供することに加えて、「場所の効果」と「資料がもたらす作用」自体に価値があるという考え方がとられている。 図書館がそこにあるだけで社会に対して何ものかを生み出している。本館の神殿のような建物がそういう効果をもつことは言うまでもない。そういう場所で調査研究することで西欧の学術の奥義に触れるような気にさせられることもまた否定できない。公共図書館がPeople's Universityと言われることがあるが、それは大学の知的権威性をそのまま反映させたこのような場所でないと実感はわかない。
「資料がもたらす作用」の典型は先程示した「声」である。映画で作家の声として示されているものは、図書館の資料を読む市民の内面の比喩的な表現である。つまり、利用者は資料を使うことでそこに含まれている「知」の声を聴くのである。さきほど、パフォーミングアーツの大量の一次資料があると書いたが、それらもまた演劇や朗読、ダンス、音楽ショー、バレエといった声と身体表現による言葉の表現である。それらの資料があることで、次の作品が生み出される。日本ではようやくそうした舞台芸術や音楽、映画などの資料をアーカイブとして残すことへの注目が始まっているが、それはデジタル化とセットで議論されている。しかし、ニューヨークではデジタル化以前に一回性のパフォーマンスについての資料を残すことも行われている。さきほど紹介した手話通訳の話しは、同じテクストが朗読者に媒介され、さらに通訳者によって表現されるという話しであるが、資料がもたらす作用とはテクストがこのようなパフォーマンスを通してつくる表現空間において現れるものである。作用が社会的なものに向けられれば、差別の問題や経済格差の問題に向けられることになる。
これを経済学の用語を使うと外部効果ということもできる。図書館が静的なイメージから動的なイメージへと転換するという描写は、経営会議のシーンで表現される。そこで論じられているのはまさしく外部効果といってよい。ニューヨーク市の財務当局と掛け合うため、そして民間の寄付者から資金獲得のためにどのような戦略を練るのか。向けられている視線は徹頭徹尾、直接図書館を利用する人ではなくて、その資金がどのように使われ、どのような効果をもつのかに関心を寄せる人たちである。外部効果をいかにうまく説明できるかで資金獲得の如何が決まるといってよいだろう。これは非営利法人に共通する課題であるが、日本の公的セクターでもガバナンスが問題になるなら、こうした説得力をもつ必要がある。つまり、利用者や担当部門の職員、議員といった直接の関係者だけでなく、「外部」にいかにその存在をアピールし外部効果をもつ機関であることを示せるかにかかっている。
日本では菅谷明子が『未来をつくる図書館』(岩波新書)でニューヨーク公共図書館を紹介したのは2003年であり、この本はそれからずっと読まれ続けてきた。日本人にはこのような図書館はある種の理想ではあるけれども、何となくアメリカ社会だからあるいはニューヨーク市だから可能な桃源郷のできごとという感じで読まれてきたと思う。少なくとも図書館関係者はそう感じてきた。だがこの映画が描き出すテーマは、新公共経営(NPM)が言われ、指定管理者制が導入された日本の図書館経営とも共通するものである。資金と人員が縮小されるときにサービスポリシーと資金獲得のための説明をどのように行うかが課題である。
とはいえ日本でNYPLのように経営権が独立して存在する図書館がどれだけあるのかを考えてみると絶望的になる。もしこれに近い経営判断をしている図書館があるとすれば、いくつかの非営利法人が運営する専門図書館とNPOや個人ベースで運営されているマイクロライブラリーくらいだろうか。あとは、資金の枠が設定されていて、NPMとはその範囲内で効率的な運営をすることと理解されているのではないだろうか。図書館が市民生活のなかにまで入って資料の提供以外のサービスまで積極的に行うことを主張することは難しい。日米の税制の違いや非営利法人の位置付けの違いが大きいのだろうが、今できることは、この映画を見たあとに再度この本を読み、どこからできるのかを考えてみることだろうか。
資料に含まれている「言葉」のもつ作用がきわめて間接的であるが文化の根幹的な部分を規定していることは、図書館という社会機関を考える際に決して無視できないものである。これは美術館や博物館など、同様に外部効果に頼らざるをえない機関とも共通している。日本では、この作用は社会において決して見えるものではなかったが、最近、後藤和子・勝浦正樹編『文化経済学』(有斐閣)が出ているように、美術館や博物館についての学術的議論が始まっている。では、図書館の根幹的な作用とは何であるのか、また外部効果として経済的な価値に置き換えられうるのか。こうしたことを改めて考えさせられた。
おまけ
原題はEx Libris--The New York Public Libraryで、日本のタイトルと逆になっているのはよくあることだ。このEx Librisは蔵書票と訳される。exは「外」を意味し、librisは蔵書のことで、英語にすれば"from the collection"ということである。蔵書家がこれを本に貼り付けたのは、本の貸し借りの慣習があったからである。本が重要な知的財産であると同時に関係者で共有する考え方があったことを示すものだ。タイトルは近代公共図書館思想にこうした共有思想があることを示しているのだろう。
上映館についてはここを参照
岩波ホールは7月5日までで、順次、全国ロードショーとなっている。
大阪ではテアトル梅田で6月21日から上映
というわけで、最近こんなに長い映画を観たことがないのでどうなることかと戦々恐々ではあったが、結果的には集中して観続けることができた。しかし、最近は名画座系でも座席は快適なところが多いから、前の座席の人の頭が画面の一部を遮る可能性があるこのホールのつくりの古さは少々気になった。
映画について
さて、映画そのものだが、「ドキュメンタリーの巨匠」フレデリック・ワイズマン監督が比較的短時間のあいだに、この図書館(NYPL)で起こっていることを撮影し、断片をつないで編集して見せてくれるものだ。本館、複数の分館、地域館の建物や内装、イベント(とくに何人もの作家が自著について語る様子)、内部でのサービスの有り様、経営面の議論などを紹介している。図書館という地味に思えるものを紹介したドキュメンタリーがなぜ一本の商業映画になるのか、また、それがなぜ数々のドキュメンタリー部門の映画賞を受賞しているのか、さらには、それがなぜ日本でも上映され、多くの人が見にくるのか。このあたりが長年日本の図書館の不遇さに嘆いていた私には不思議に思われたので、どう見えたかについて書いておく。
まず、ワイズマンは別のインタビューに答えて、この図書館の利用者でも何でもないという。人に紹介されて、ここのおもしろさを知り撮ってみようと思ったと発言している。その「おもしろさ」は確かにこの映画全体にあふれていた。だが、監督がおもしろいと思て取り上げ、私も同様の感想をもったものが、映画評論家に高く評価され、日本のメディアでも取り上げられるのかについては考えてみる必要があるだろう。それをあえて説明すれば、ネット社会の到来による情報アクセスの利便性と、その裏側で生じている経済格差、そして、さらにはアメリカが抱えている人種問題が扱われ、それが現代の状況と対局にある論理にまとめ上げられているからである。つまり、ポストトゥルースの状況において、図書館が知の真理性の最後の砦になることを主張しているのである。この観点はアメリカでならニューヨークや西海岸の知識人に支持されるだろう。しかし、日本ではどうなのか。
映画から読み取れる同館の活動内容
図書館は、単に書物のコレクションを提供する場ではないことが繰り返し示されている。まず何よりもマンハッタンの中心部にあるという立地条件と、そのボザール様式という大理石造りのがっちりした建物がある。室内は広く天井は高い。家具調度品は豪華である。過度なきらびやかさは排除されているものの、知と美に対する最高の敬意が示され、それに伴う巨額の資金がつぎ込まれていることは一目瞭然である。古典古代、そしてルネサンスやバロックのヨーロッパの知的伝統をそのまま継承し、アメリカ資本主義によってニューヨークという都市に発展させようという意気込みがここに見られる。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけての白人中産階級の文化構築の意思から始まったが、それにとどまってはいなかった。20世紀後半には、差別撤廃の社会的議論を反映させた多文化主義が採用される。何度か出てくる黒人文化研究図書館はNYPLの分館の一つであり、ここがもつアーカイブ的な資料は作家や研究者に黒人差別の実態を伝えるものとして重要な研究拠点になっている。19世紀にあった奴隷制と資本主義、共和主義の関係についてのレクチャーのシーンでは、マルクスがリンカーンに送ったという書簡が取り上げられていて、ここから共産主義者のマルクスが共和主義者のリンカーンを支持したのが、黒人の奴隷からの解放と労働者の解放を重ねて見ていたことが語られる。チャイナタウンに近い分館では、中国系移民に対する中国語でのサービスが行われている。また障害者サービスとしての点字や録音図書作成のシーンがある。手話通訳のボランティアを養成する講座のシーンがあり、「アメリカ独立宣言」の一節を、懇願するように読む場合と怒りを込めて読む場合とで手話通訳の動作が違っていると言って、実際にやってみせるシーンがおもしろかった。
ハイカルチャーの文字資料をあつかっているだけではない。ポピュラーカルチャーへの配慮が示される。写真コレクションは20世紀までのアメリカ人のコマーシャリズムや日常生活をそのまま写し取って蓄積したものである。先ほどの手話通訳のシーンは舞台芸術図書館のものだが、ここはメトロポリタン歌劇場に隣接している。舞台芸術から大衆芸能にいたる、台本・脚本や楽譜、映像資料、録音資料だけでなく、舞台装置のミニチュアセットや衣装デザイン、プログラム、ポスターなどの資料を集めて提供している。単なる印刷出版された資料だけでなくて、個々のパフォーマンスに対応する複製資料を集めている場である。
こうした図書館の活動を支える仕組みであるが、よく知られているようにここは非営利法人組織になっている。ニューヨーク市からの助成金と民間から寄付金が半分ずつという説明がされていた。もともと、アスター、レノックス、ティルデンの3財団の資金を統合して始まり、それにカーネギー財団からの寄付金が加わって、これらを基金としたものである。だが活動資金は自動的に入るようなものではなく、獲得するための説明がきわめて重要になる。
映画で何度も登場するのが、この図書館の経営会議である。運営資金をいかに調達するか、それから、どのような方面に向けてどのようなサービスを拡張していくかについて、侃々諤々の議論が行われている。重点をおいて描かれているのが、ネット弱者への対応である。そのなかでは、20世紀にカーネギーが無料公共図書館を寄付することによって印刷本の普及を図ったように、図書館がPCやネットへのアクセスをネット難民に無料で提供することによって、紙とデジタルとを問わず知へのアクセスを保証するという考え方をとっていることが強調される。しかしながら、図書館が実際に提供するコンテンツとして、紙かデジタルか、また提供するものが要求の多いものか価値あるものにするかというような、以前からある議論は継続して行われていることもわかる。
こうした図書館を支える人たちがどういう人なのかについては、あまり説明はなかった。今の経営会議への出席者は館長、渉外担当役員、主任司書などであり、彼らの間でも方針について差異が見られた。また、それぞれの専門図書館の責任者は司書というよりはキュレーターのような主題分野の専門家のようだ。分館や実際の資料コレクションの担当者になってはじめて図書館資料の利用について直接語る役回りになっている。これらについて知るためには、800円で売られている映画解説のパンフレットが役に立った。
映画が示唆する図書館の在り方
まず、この映画は最初から最後まで、誰かが話す、あるいは語るシーンで成り立っている。静謐な読書環境というステレオタイプの図書館観からすると意外なことに、声が横溢している。電話レファレンスの応対、作家の講演やインタビュー、カウンターでのやりとり、経営会議での議論等々。閲覧室で利用者が資料を繰ったり、読んだりしているシーンがないわけではないが、それはごく一部である。これは図書館がもつ膨大な資料がもたらす作用であると考えることもできる。図書館という場を描く以上、建物の内外の映像以外にメッセージを伝えようとすれば、声を中心にせざるを得ない。図書館は声が発生する場として描かれているのである。資料に含まれるメッセージはそれが読まれなくともそこにあるだけで何らかの作用をもたらし、作家はこの場で話しをすることで自分の言葉が他の資料に含まれる言葉と共鳴して自由な発想が可能になると主張しているかのようだ。
また、図書館の活動が来館者に何らかの資料やサービスを提供することに加えて、「場所の効果」と「資料がもたらす作用」自体に価値があるという考え方がとられている。 図書館がそこにあるだけで社会に対して何ものかを生み出している。本館の神殿のような建物がそういう効果をもつことは言うまでもない。そういう場所で調査研究することで西欧の学術の奥義に触れるような気にさせられることもまた否定できない。公共図書館がPeople's Universityと言われることがあるが、それは大学の知的権威性をそのまま反映させたこのような場所でないと実感はわかない。
「資料がもたらす作用」の典型は先程示した「声」である。映画で作家の声として示されているものは、図書館の資料を読む市民の内面の比喩的な表現である。つまり、利用者は資料を使うことでそこに含まれている「知」の声を聴くのである。さきほど、パフォーミングアーツの大量の一次資料があると書いたが、それらもまた演劇や朗読、ダンス、音楽ショー、バレエといった声と身体表現による言葉の表現である。それらの資料があることで、次の作品が生み出される。日本ではようやくそうした舞台芸術や音楽、映画などの資料をアーカイブとして残すことへの注目が始まっているが、それはデジタル化とセットで議論されている。しかし、ニューヨークではデジタル化以前に一回性のパフォーマンスについての資料を残すことも行われている。さきほど紹介した手話通訳の話しは、同じテクストが朗読者に媒介され、さらに通訳者によって表現されるという話しであるが、資料がもたらす作用とはテクストがこのようなパフォーマンスを通してつくる表現空間において現れるものである。作用が社会的なものに向けられれば、差別の問題や経済格差の問題に向けられることになる。
これを経済学の用語を使うと外部効果ということもできる。図書館が静的なイメージから動的なイメージへと転換するという描写は、経営会議のシーンで表現される。そこで論じられているのはまさしく外部効果といってよい。ニューヨーク市の財務当局と掛け合うため、そして民間の寄付者から資金獲得のためにどのような戦略を練るのか。向けられている視線は徹頭徹尾、直接図書館を利用する人ではなくて、その資金がどのように使われ、どのような効果をもつのかに関心を寄せる人たちである。外部効果をいかにうまく説明できるかで資金獲得の如何が決まるといってよいだろう。これは非営利法人に共通する課題であるが、日本の公的セクターでもガバナンスが問題になるなら、こうした説得力をもつ必要がある。つまり、利用者や担当部門の職員、議員といった直接の関係者だけでなく、「外部」にいかにその存在をアピールし外部効果をもつ機関であることを示せるかにかかっている。
日本では菅谷明子が『未来をつくる図書館』(岩波新書)でニューヨーク公共図書館を紹介したのは2003年であり、この本はそれからずっと読まれ続けてきた。日本人にはこのような図書館はある種の理想ではあるけれども、何となくアメリカ社会だからあるいはニューヨーク市だから可能な桃源郷のできごとという感じで読まれてきたと思う。少なくとも図書館関係者はそう感じてきた。だがこの映画が描き出すテーマは、新公共経営(NPM)が言われ、指定管理者制が導入された日本の図書館経営とも共通するものである。資金と人員が縮小されるときにサービスポリシーと資金獲得のための説明をどのように行うかが課題である。
とはいえ日本でNYPLのように経営権が独立して存在する図書館がどれだけあるのかを考えてみると絶望的になる。もしこれに近い経営判断をしている図書館があるとすれば、いくつかの非営利法人が運営する専門図書館とNPOや個人ベースで運営されているマイクロライブラリーくらいだろうか。あとは、資金の枠が設定されていて、NPMとはその範囲内で効率的な運営をすることと理解されているのではないだろうか。図書館が市民生活のなかにまで入って資料の提供以外のサービスまで積極的に行うことを主張することは難しい。日米の税制の違いや非営利法人の位置付けの違いが大きいのだろうが、今できることは、この映画を見たあとに再度この本を読み、どこからできるのかを考えてみることだろうか。
資料に含まれている「言葉」のもつ作用がきわめて間接的であるが文化の根幹的な部分を規定していることは、図書館という社会機関を考える際に決して無視できないものである。これは美術館や博物館など、同様に外部効果に頼らざるをえない機関とも共通している。日本では、この作用は社会において決して見えるものではなかったが、最近、後藤和子・勝浦正樹編『文化経済学』(有斐閣)が出ているように、美術館や博物館についての学術的議論が始まっている。では、図書館の根幹的な作用とは何であるのか、また外部効果として経済的な価値に置き換えられうるのか。こうしたことを改めて考えさせられた。
おまけ
原題はEx Libris--The New York Public Libraryで、日本のタイトルと逆になっているのはよくあることだ。このEx Librisは蔵書票と訳される。exは「外」を意味し、librisは蔵書のことで、英語にすれば"from the collection"ということである。蔵書家がこれを本に貼り付けたのは、本の貸し借りの慣習があったからである。本が重要な知的財産であると同時に関係者で共有する考え方があったことを示すものだ。タイトルは近代公共図書館思想にこうした共有思想があることを示しているのだろう。
上映館についてはここを参照
岩波ホールは7月5日までで、順次、全国ロードショーとなっている。
大阪ではテアトル梅田で6月21日から上映
2019-06-09
「日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策」
2019年6月8日(土)に帝京大学で開催の日本図書館情報学会春季研究集会での発表原稿です。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策日・米・仏のカリキュラム改革史における学校図書館政策
<抄録>
アメリカでは 1960 年代から 1970 年代にかけてスクールライブラリアン養成の制度 化が行われ、フランスでは 1980 年代末にドキュマンタリスト教員配置の法制度整備 が行われた。これは教育課程上の経験主義および知識構成主義に基づき、それが国の 教育改革と結びついて生じたものである。現在の日本の教育改革も、長期的にみれば学校図書館およびその専門職員の制度化をもたらす可能性をもつことを述べた。
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