2025-11-08

ビアウア・ヤアランと知識組織論,ドメイン分析

末尾のスライドは,2025年10月25日(土)午後にオンラインでおこなったシンポジウム「生成AI時代の図書館情報学」で使用したものである。他の登壇者のものを含めた議論の動画やスライドファイル,質疑応答の概要は知識組織論研究会のページで公開されているので,ここでは私が何を主張したかったのかについて書いておきたい。スライドは今年の日本図書館情報学会春季研究集会で報告した発表をベースにしているので合わせてそちらも参照していただきたい。学会ではヤアラン『知識組織論とはなにか』の主題概念と情報探索概念を中心に報告したが,この発表では,それをベースに彼が主張しているドメイン分析とは何なのか,また,もう一つの発表だったニルス・ロン『ドキュメンテーション・スタディーズ入門』との関係について述べた。その上で、「生成AI時代」で図書館とか図書館情報学に何ができるのかについて発言した。しかしながら、時間的制約や議論の枠組みの制約などがあって十分にお話しできなかったこともあるので、そこも含めて書いておきたい。

ヤアランの議論

ヤアラン『知識組織論とはなにか』は2章から4章が主題についての論考であり,5章から7章が情報探索についての論考となっているが,彼の議論は主題概念を踏まえての情報探索論であって,両者は統合的に議論されることになる。彼はドキュメントの主題は,実際にどのようにそのドキュメントが利用されそれによってどのような効果があるのかによって決定されるというプラグマティズムの視点を採用するから,主題は利用者の情報探索行動と密接にからむことになる。彼は,従来の図書館情報学における情報行動論は基本的に個人をベースとする認識論を採用としていたがそれでは限界があるとしている。彼は集団における認識論を解明する手がかりとしてジョン・デューイのプラグマティズム哲学およびレフ・ヴィゴツィーの心理学を基にして集合的認識論をどのように組み立てるかという議論をする。そして,それを知識組織論の方法論として定式化しようとした。ドメイン分析は,彼の知識組織論が表出する場であり,そこで形成される考え方をモデルにして知識組織論を組み立てることになる。


ドメインと知識組織化システムの関係

それを示したのがスライド11に掲載した上の図である。パワーポイントではこの図を動的に表示していて、まず、情報生産者と情報利用者が所属するドメインがあり、そこで両者をつなぐものとしてドキュメントがあって、情報利用者ードキュメントー情報生産者をつなぐ三角形を想定し、つなぐ概念が主題と情報探索の関係によって示される。「主題⇄情報探索」という表現は、両者が相互作用をする関係にあることを示している。そして、以上の関係が成立する場が知識組織化システム(KOS)である。このような関係はドメインごとに成立していて、ドメイン1, ドメイン2...となる。また、ドキュメントはKOS、ドメインに置かれているが実際にはもっと広がりをもつ。ドメインは複数になるが、個々のドキュメントは相互に連関してドキュメント群として様々な現れ方をするので,実は星型のような構造の一部が個々のドメイン(ドメイン1,ドメイン2,...ドメインn)に関わっていると見なされる。(下図 ドキュメントとドメインとの関係)


ドキュメントとドメインとの関係

ヤアランはドメインについて主題領域や学術コミュニティなどの学術や専門的な領域に限定した議論をしている。彼は通常の公共図書館が扱うのがドメインではないのはそこに多様な種類の利用者がいて,決して情報生産者と情報利用者が一つのドメインに納まってはいないからだとする。たとえば,児童サービス,学習資料の提供などは「パターナリズム」の要素が入り込むので彼がいう主題=情報探索の理論では説明しきれないとしている(訳書 p.80-81)。

パターナリズムとは別の領域(通常は上位の管理的政治的領域)による指示が一定の効果をもつものを言う。児童の発達段階に対する配慮やカリキュラム上の指針などを指す。これは重要な指摘であるが,その点についても見直しが必要になるものと思われるが,今後の課題としておきたい。公共図書館においては大人に対してもパターナリズム的な要素が入り込むことは避けがたい。それは公的財源を配分するにあたって政策的な配慮、思惑、議論が存在するからである。ポピュラリズム的資料提供を行うのか、教養書や学術書を中心するかという二項対立があるし、政治的論点(たとえば沖縄基地問題とか、新型コロナウィルス対策の評価とか)を扱った書籍は多数あるが、個々の著述の立場をどのように腑分けして、全体として蔵書に反映することは容易な問題ではない。また、図書館の設置母体である地方自治体やその首長が自らの方針に基づくパターナルなサービスを要求してくることがありうる。

図書館情報学の理論とはなにか

シンポジウムで参加者より図書館情報学の理論とはどういうものかという質問があった。そのなかで,シャノン=ウィーバーの情報理論,ポパーの「世界3」論,ルーマンの社会システム論を引き合いにだしている。そこで私はヤアランの議論のしかたはこのなかではルーマンの社会システム論に似ていると述べたのだが,もう少し踏み込んで論じておくきたい。

彼は『知識組織論とはなにか』(訳書, p.129-130)で,情報学の理論について,リーベノーとバックハウスを引用して,情報のとらえ方が,物理レベル,エンピリクス(通信の数学的理論),構文論,意味論,語用論,社会レベルのように階層的に示している。このなかでは,情報理論はエンピリクスにあたる。ポパーの存在論的議論はこれらの議論の基盤にあるものであり,ルーマンの議論は記号論の意味論や語用論を踏まえた社会レベルにあたるだろう。そして,ヤアランが活動理論と呼んでいる自らの理論は,ジョン・デューイとヴィゴツキーの理論から来ているものである。構文論,意味論,語用論を踏まえながら,社会レベルの議論として展開していく方向を示している。図書館情報学的には,まず,記号の規則やそれらの組合せであるプロトコルを利用する構文論の位置づけがある。また,意味論や語用論レベルでは,従来の個人の認知を前提にした認知主義的なアプローチではなく,集合的な認知過程を前提とした活動理論の立場をとることで,社会レベルでの相互主義的な認知過程の解明を目指すとする。その際の存在論的立場は科学的ないしプラグマティックな実在論であり,方法的には社会構成主義や解釈学に基づくとしている。そうして展開するのが,次のドメイン分析である。

ドメイン分析

ヤアランは、ドメインは談話コミュニティ(discourse community)であるとする。談話コミュニティとは,単なる親しい人々のグループや地域的な共同体,会社や官庁のような組織ではなく,知識組織化のために一定のルールや規範の基に言葉を介してやりとりをしているコミュニティを指す。このような要件を満たせば,法人組織や地域団体も談話コミュニティになりうるが,言葉でつながって知識開発の組織原理をもつことが特徴ということができる。学会,専門職団体はこれに該当するが,業界団体や会社組織,官庁組織は知識開発よりもビジネスや行政的な目的が先にあることでこのカテゴリーからはずれる。ドメイン分析は先の公共図書館の利用者コミュニティと比較すれば、限定されたコミュニティを想定していることは容易に想像がつく。

ヤアランはこうしたコミュニティを対象にドメイン分析を行うことを推奨する。彼が想定しているのは専門図書館が行うサービスでコミュニティのコミュニケーション状況を把握して、そこでやりとりされる専門知をうまく媒介できるようなサービスである。だから彼はドメイン分析を行う情報専門家はドメイン特有の主題知識と図書館情報学の専門知識の双方を兼ね備えている必要があると言っている(スライド13)。

スライド15にドメインに能動的に働きかける具体的な例を挙げておいた。1つ目は、特定領域コレクションということで、これは専門図書館が当てはまるが、大学図書館や公共図書館にも専門コレクションは多数存在している。これらは単に特別コレクションとしてあるというだけでなく、その図書館の由緒やキャンパス、地域との関係を示す重要なものであり、博物館コレクションにも似て特別展の対象にもなる。それを管理したり、展示の準備をしたりする図書館員はキュレーターということになる。

第二に、デジタルアーカイブと呼ばれる方法は、要するに限定したドメインの資料(これはMLAいずれのものもある)に対して、デジタル化という知識組織論的技法を通して迫るものである。これがMLAのそれぞれから独立した主張をするのは日本のDX政策とタイアップして展開されたからであった。ただ、それを契機にしてMLAが相互に近づく可能性をもたらしていることも事実である。

第三に、地域資料(地域というドメインの知識組織化)である。これもまたMLAそれぞれにあるし、歴史学でも郷土資料や地域資料はそれ自体が重要なテーマとなっている。私が地域資料の重要性を言い始めてすでに40年以上になるが、最近になってようやくこの問題が図書館界でも取り上げられるようになっていることにホッとしている。

第四に、学校図書館(学校という専門組織への知識組織論)である。これは意外に思われる人もいるかもしれないが、少し考えてみれば、学校図書館は学校というドメインを対象にした専門図書館であることは明らかである。学校は、学習者である児童・生徒、学習の手引を行う教員、その外に拡がる親や地域社会のコミュニティを含めて、教育や学習という目的のためにある。これは地域社会においては公共図書館よりもドメイン分析をしやすい。先程のパターナリズムも国とか自治体という単位だと分析が難しいが、特定学校に生じるドメインの要素と考えて分析することは可能だろう。

ドメイン専門家の育成

日本でLISの主題専門家といえば、医学、法学、アートあたりだと想定しやすいが、それ以外では難しいとされてきた。上に書いた学校というドメインにおける学校図書館員の専門職化がいかに難しいかについてはさんざん言われてきたし、私自身も何冊かの本でそれについて書いてきた。日本では知識とは人に帰属するものとされる。「知識人」というのはもう死語に近いが、豊富な知識をもつ人が尊ばれるのは変わらない。試験はその時点で再現できる知識の量を問うものであり、受験競争を勝ち上がったスキルをもった「クイズ王」とかいう人がタレント扱いされる。私は知識とはすでにあるものを再現できることが重要なのではなく、知識の相互の関係を自分でたどることで、自らの新しい知識とするような能力が重要と考えている。

今、現れつつある生成AIが示唆しているのは、再現できる知識は機械に委ねることができるということである。すでにあるテキストや画像や動画が知識であり、これらをLLMという技術で組織化することで、人間と類似の知的応答が可能になっている。しかしながら、そこにはたぶんに間違いやバイアスが含まれている。これはAI自体では修正し得ない。なぜなら、AIの情報源は人間が蓄積したテキストであり、それを組み合わせているにすぎないからである。こうした状況に人間はどのように対処すべきなのか。SNSを見れば、間違いもバイアスも含めて平気で発信し、修正しようともしない。だから、情報については一人ひとりの受け手、利用者が自らそれに注意を向けて、誤りやバイアスを認識し自ら訂正していくほかない。

AIの特性については、報告の最後の方で触れたマーティン・フリッケ(根本彰訳)『人工知能とライブラリアンシップ』を参照していただきたい。LISと生成AIについての解説ではこれ以上のものはない。図書館員が何をすべきかについても懇切丁寧に解説してくれている。フリッケの本に出ていないが、なぜドメイン分析を経験した図書館員(情報専門家)にこれが可能なのかについて少し付け加えておきたい。

ヤアランは本書で、結果を予測して働き掛ける能動的情報システム(proactive information system) について述べた。彼は次のように述べる。(p.188)

適切に機能する図書館と適切に機能する情報サービスは、すでに表現されているニーズを満たすだけでなく、そもそもこれらのニーズを認識して表現できるようにするプロセスの一部である。理想的には、情報システムは、利用者の情報ニーズに関して能動的に行動するべきであり、つまり、クエリ表現される前にニーズを認識する必要がある。

この能動的行動とはどういうことなのか。利用者が発する質問に対して、それが文字通りの表現ではなく本当は何を求めているのかを予想することである。こうしてみれば、これはレファレンスサービスで常日頃実施していることではないかと思う人も多いだろう。人は、言葉を通してやりとりするが、その言葉を超えて意図や本質を理解することを行っている。

このことは、プラグマティズムの創始者チャール・サンダース・パースが言うアブダクション(仮説的推論)と密接に結びつく。論理学では、既知の大前提から言葉や記号がもつ論理に基づく規則を適用して結論を得る演繹法(ディダクション)と個別の経験や実験結果などの事象から命題を導く帰納法(インダクション)を重視してきた。科学的な探究はこうした方法に基づいて行われるとされてきたが、パースは、どうしてもこれらだけで説明できない探究方法があることに気付いた。個々の事象と命題をつなぐために、結論となる事象に規則を適用して前提を推論する方法である。

情報システムについて言えば、情報検索によって検索された文献の集合関係をもとにして絞っていく方法はディダクション(演繹法)の原理によるものであり、同じテーマの下に別の検索語を入力することを繰り返して,得られる情報の範囲を推測するのはインダクション(帰納法)である。しかしながら、実際に検索者が行っているのは、これらの2つの方法を組み合わせて最適な結果を得ることである。その際には,当該ドメインに関する知識と情報システムの仕組みやアルゴリズムに関する知識を駆使して、ドメイン内の探索者に対して知ることができる最適な情報を提供することを行っている。これがアブダクションである。何が最適なのかについては推測でしか得られないが、こうした2つの種類の知識を総合することによって、情報専門家は情報の媒介者になることができる。

ロンのドキュメンテーション・スタディーズとの関係

ロンのドキュメンテーション・スタディーズとの関係で言えば,彼のドキュメントはきわめて多義的であり,ヤアランのドキュメント概念より広い。あの場でも少し議論になった赤ん坊の泣き声とかワシントンでのデモ行進といったものもドキュメントだとするのは拡張解釈との考え方もありうるが,領域によっては必ずしもそうでないと考える。たとえば,演劇資料を集める資料館のもっとも基本的なドキュメントは一回性の演劇の時空間ないしはパフォーマンスそのものであるだろう。通常は脚本だったり,これを撮影したビデオ資料をドキュメントとして扱うのだろうが,演劇関係者にとっては演劇はその場で行われるものであり,これは原ドキュメント(archi-document)とも呼ぶべきものですべてはそこから出発する。同じことは,音楽演奏とかさまざまな芸能とかに当てはまる。赤ん坊の泣き声もそれが特別な意味をもつ家庭の記録物群にあれば同じ扱いになるし,行進も特定の政治的歴史的意味を込めれば同様である。ドキュメントの語源がラテン語doceo(ドケオ,知らせるの意)であり,これはドクターの語源にもなっていることを知れば,物理的な記録物にこだわる必要はなくなる。

ヤアランの議論とロンの議論は共通点も多いが違いもある。共通点としては,ドキュメントがその発生の場から利用される場までをトータルにとらえようとしているところや専門的領域(ドメイン)でのドキュメントの扱いに着目しているところだろう。違いは,ヤアランが情報専門家の育成を念頭においたプラグマティズムの立場を強調するのに対して,ロンはアナール派の歴史学を出発点にしているように,アカデミズムへの隣接性を意識しているように見えるところである。いずれにしても,従来の図書館情報学が情報利用者とか情報,メディア,ドキュメントを一般化してとらえようとしていたのに対して,これらの議論はより現場に踏み込んで具体的にとらえる視点をもつところに特徴がある。


 






















2025-11-06

書評:中尾茂夫『情報敗戦ー日本近現代史を問いなおす』

この書評は、Amazon.co.jpの当該書のカスタマーズ・レビュー欄に投稿したのだが、投稿後5日ほどになるのにアップされなかったのでこちらにも掲載した。遅れた理由はよく分からないが、アマゾンではそんなものなのだろう。1週間くらいでようやくアップされていた。その間もその後も、こちらを少しずつ書き直したり書き足したりしているので、ふたつの書評は同じではない。こちらが最新ヴァージョンと理解されたい。

中尾茂夫『情報敗戦ー日本近現代史を問いなおす』筑摩書房(筑摩選書) 2025年4月刊

★★★★☆

ポスト団塊世代に属する国際経済学者による近代日本論。評者は、今回、初めて著者の本を手にとった。著者と接触をもったこともない。同年生まれで、同世代の社会科学者の世界と日本への眼差しに親近感を覚えたのが理由である。とくに、かつてカレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』(1990)を読んでこういう外部からの視点が面白かったこともあり、本書もそれが手がかりの一つになっているから期待して読み始めた。

以下、感想を書くが、どうも批判的な調子で展開することが多くなってしまった。しかし、基本的にはたいへん参考になった本として星4つとしている。でなければ、わざわざ書評を書いたりしない。自戒を込めて言うと、世代的なものなのか、同意できるところが大いにあるはずなのにそれはあえて強調せず批判点ばかりを書き連ねる傾向がある。その点で著者のアプローチと似ているとも感じている。そのことはもしかしたら、本書そのものの評価とも関わっているのかもしれない。

日本へのアプローチについて知日派外国人の論はウォルフレン以外読んでいなかったので、今、インバウンドが大挙押し寄せて日本を気に入る人も多いとされるが、本書を読むとその原型がすでに知識人の論として仕込まれていることがわかる。かれらは外からきた内なる批判者になった人たちだろう。そして、ふむふむと読みながら、そうした論があくまでも外からの視線として扱われているところに限界もあると感じた。すでに日本は自らの内懐にそうした異論を溜め込み発動させつつあるのではないか。そのことはこれから書くことに関わる。


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目次
はじめに――「情報のカラクリ」

序章 問題の発見
 1 没落の止まらない日本
 2 グローバルサウスの台頭が揺るがす世界
 3 「blowback(報復・因果応報)」
 4 2024年12月――激震を予兆させる情報

第1章 史観で眺める日本
 1 蔓延するニヒリズム
 2 「和」という階層序列
 3 近代の序曲「脱中世」の有無

第2章 「昭和維新」と満洲
 1 「昭和維新」の衝撃
 2 満洲移民

第3章 清張史観の遺したもの
 1 日本の権力は「神輿」
 2 機能不全の司令塔
 3 ルサンチマン考
 4 日本の孤立

第4章 戦後日本とは何か
 1 象徴という権力
 2 戦争体験者の声
 3 風土は変わるか?
 4 風土に巣食う闇と病み
 5 外から吹く風
 6 多様化する世界

第5章 世界史的大転換
 1 戦後80年(2025年8月)を前に
 2 可視化された従属
 3 歴史に学ばず
 4 日本の情報空間の闇

第6章 人間とは何か
 1 説明不能な日本
 2 「オメルタ(マフィアによる沈黙の掟)」
 3 世界を知らず、己も知らず
 4 「和」というイデオロギー
 5 消えた「大人」

第7章 「民主主義は暗闇の中で死ぬ」(Democracy Dies in Darkness)
 1 会社主義の顛末
 2 野蛮な「イエ社会」
 3 つくられた「幼児性」
 4 「731」残党から韓国激震までを読む
 5 「法治」なき社会を生きる
 6 鳴り響く警鐘
 7 官僚制は民意を無視する
 8 「史観」の攻防
 9 「庶民」というアイデンティティ
 10 大学の凋落(高等教育の空洞化)

結章 絶望に抗う
 1 ブラウンとカズンズ
 2 変わらない自画像
 3 情報のメッセージを読む
 4 存亡の危機迫る時代を突破できるか?

あとがき――なき妻へ
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内容的にはおもしろく一挙に読んでしまえるような迫力を感じた。要約して言えば、エドワード・サイード、ジャン・ポール・サルトル、ハンナ・アレントらの戦後の代表的知識人の言説を基調にして、イアン・ブルマ、ハリー・ハルトゥーニアン、カレル・ヴァン・ウォルフレン、ターガート・マーフィー、エマニュエル・トッド、ウェンディ・ブラウン、フィリップ・ポンスらの知日派の論を手がかりにし、国内では主に辺見庸と松本清張の論を引き合いにしながら、日本論、日本人論を論じる。

そこで明らかにされるのは、日本は江戸開府以来、現代に至るまで西洋的な近代化とは別の道を歩んでいるということである。そこでは、あくまでも国家的な秩序意識を保つために、維新以降は神権的政治体制を選択し、戦後は「アマテラスのアンクルトムによる代替」(ハルトゥーニアン)によって、アメリカの軍産複合体制への隷属のもとにある。この隷属構造が隠されていることが重要である。それをマーフィは対米従属構図と名付け、「ワシントン⇒高級キャリア官僚&大手メディア&対米投資に熱心な大手財界人⇒政治家、という明確なフローチャートを提示し、この意思伝達経路に妨害が入るときは、検察と大手メディアの強力な結託でもって、当該者は攻撃され、排除される。」と言う(p.161)。だから、日本の論者は「イラク戦争もウクライナ戦争も、それが「ニチベイ」批判だと察した時点で、「言わぬが花」になる。」(p.181)

たとえば日米地位協定の存在などの対米従属の構造は知られていても、大手マスコミ、社会科学者、思想家、文学者はそれを表立って議論しない。その議論をすることが、大きなタブーに触れることになるかのごとく、いつの間にかないことにされるのだ。そこでは政治も思想も幼児性が際立っていて、自らの主体的な判断や意思決定ができず、国際社会との落差がはなはだしい。われわれの世代が馴染んできたような戦後進歩主義(丸山眞男や加藤周一など)にも若干は触れているが、そうした近現代思想史正統にチャレンジする議論は避けているようで、唯一、明治維新についての羽仁五郎=井上清史観(封建勢力間の権力移譲説)を評価している。戦後改革も敗戦によって支配者が入れ替わっただけだから、日本はいまだ封建的中世から脱していないことを強調しているようだ。

だが、依拠している歴史思想的立場はいささか古く、やはり西洋的な啓蒙思想そのものだろう。帯に「なぜ日本は負け続けてるのか?」とある。本書は、欧米の先進国に対して遅れてきた経済大国が今や落ちぶれているというような常識的議論ではなく、それも含めてそもそも「情報戦」において負けているという主張である。ここでいう情報戦の敗北とは、自らの国際的、歴史的立ち位置を十分に理解した上で適切な判断を下すような政治およびそれを支える官僚機構、そしてそこに影響を与えるジャーナリズムや思想、歴史、社会科学の思考がそろって戦えるはずのものが、不在のままだということを指している。だが、その議論を支える歴史認識の基調は、フランス革命からスタートする西洋の市民社会論であり、この啓蒙思想自体が有効期限切れになっている。本書ではサイードやアレント、トッドなども引き合いにだして、西洋vs.非西洋の図式を回避しようとしているのだろうだが、整合性のある議論にはなっていない。

これは別に日本だけの課題ではないし、手本だったはずのアメリカで、現職大統領が大統領選挙で負けが確定したときに民衆に連邦議会突入を指示するという、フランス革命を念頭においた前代未聞の事件が起こった後では、西洋型市民革命を根拠に政治思想は語れなくなったはずである。(もっとも後世の歴史家はこれをもって新しい革命思想の成功例とするのかもしれないが。)この本はアメリカだとバイデン政権、日本だと岸田政権の昨年までの状況を踏まえているが、ロシア・ウクライナ戦争、パレスチナ・イスラエル戦争、そして、第二次トランプ政権の誕生過程の思想的意義までをきちんと抑えていないので、今、急速にアメリカが国際舞台から撤退し、アメリカの覇権主義が支えていた20世紀の構図が変貌を示している状況に対応できていない。また、アメリカが保守とリベラルが互いの覇権を競っているという図式も、トランプの「ディール政策」以降途絶えようとしていることも重要である。これに対して,思想の全体状況が素朴な保守に回帰し、「未来に過去がやってくる」(辺見庸)事態への警鐘としているのだろうが、この書き方だと説得力がない。というよりも、むしろ反発を引き出すための議論展開をしているようにしか見えない。

個別には頷ける議論も少なくない。また、全体としても日本が東アジアの島国で中世以降独自の発展を遂げたという認識の枠組み自体は間違いではない。その枠組に適合する内外の議論を整理しようとしている点には敬意を表したい。(本説末尾の引用一覧を参照のこと)しかし、今では、江戸期の民衆のリテラシーの高さや文化人の知的交流、文芸や芸術表現の高さの研究なども進んできている。参照している知日派の論は基本的にそういう文化的伝統に立脚するものだが、これを西洋的文脈で主体性のなさや国際社会における立ち位置の弱さととるのは正しくない。本書の最後のほうで、昨年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞を受賞したことを評価する議論が行われているが、これもとってつけたようだった。繰り返し、日本に彼が描くような歴史的な構図や国際的な位置づけを正確に理解した上で発言できる論者が現れていないことを憂えているように、日本のジャーナリズムや学術・思想状況への批判なのだろう。

もう一点、論旨は明快だが読みやすい本ではないことも付け加えておこう。繰り返しが多いし、本全体の構成が論理的な展開になっていないからだ。最近このたぐいの、強いて言えば長年書き連ねたブログの文章を寄せ集めたような文体の本が目に付く。まことに書き散らしただけで、独りよがりで読者へのサービス精神が欠けたものだ。本書に説得力をもたせるためには論点を整理し、論拠を明確にしながらもっと読みやすい文体と論理構成で表現することに心がけるべきだったろう。そうした工夫を避けているから、Amazonのカスタマーレビューにもあるように、本書自体が日本人の自己表現の幼児性の典型例のようにも見えてしまう。著者が批判するような日本人一般には文字通りの批判をぶつけるのではなく、相手の立場に配慮しつつ論を進めることが必要なのだろう。

こうした出版社選書のシリーズは編集者が形式面に手を入れてもっと読みやすい本にすべきである。だが、それは本来、編集者の仕事ではなく著者が担うべきことのはずだ。たとえば、Amazonの読者評にもあったが、参照文献の書き方がよくない。本文中の初出に書誌事項があるが、まとまった文献一覧がないので、しばらくするとどの文献を指して論じているのかわからなくなる。また、こうした多数の論者を引用し、多数の論点を扱う本には索引が必要なはずだがない。こうした文献や索引を無視するのが日本の知識人の性だろう。

本来、本を書くには、自分が書いたものを再度新たな視点で読み返して,繰り返し編集する行為を伴うものではないか。そのときに手がかりになった文献を見直し、自分が使った言葉を再吟味することが必要になる。そのためには文献一覧や索引が手元にほしくなる。著者自身でそうなのだから、まして読者は他人。手がかりなしに著者の考えを理解できない。しかたがないので自分でメモをとりながら読んだ。評者はふつうこういう読み方はしていないが,こうでもしなければ文脈を含んで全体を把握することができなかった。なので,書評では参考までに末尾にこれを付けておいた。

最後に冒頭で書いた本書の文体について再論しておこう。本書は、日本人全体が幼児化した情報弱者だと批判しているのだが、それを言うための自らの情報論的立場が不明確であることが気になる。強い弱いは何を基準にしているのか。ジャーナリストや学者,思想家が発する情報がうまく民衆に伝わらないのは情報そのものについて自ら抑圧しているからなのか,それとも伝わるための論理展開や言論戦略をもっていないからなのか。評者はそれ以上に、日本人の言論構造に欧米のものとの違いがあることを強く感じている。これは別に論じる予定だが、それは伝統的な人間関係や社会構造に変化がないことにあり、それを前提にする限り、いくら情報強者が自分の知見を民衆に説いたところで届かない。

日本人にとっての論理的文章とは「共感」をベースにしたものであるとしているのは、最近出た渡邉雅子『共感の論理ー日本から始まる教育革命』(岩波新書)である。ただ、私はこの本のタイトルがミスリーディングであることを感じている。というのは、彼女が主張する日本の「共感の論理」は、幼少期の情緒的なものをベースにしながらも、それがあるからこそ、発達段階に沿ってその後の論理的思考、抽象的思考、相対化する思考を導き出されるという構想になっている。共感は情緒とイコールでないことが重要である。こうした考え方は一見、弱者の論理展開に思えても実は強靭なものにつながるものなのではないか。だが,最初から論理や抽象化思考からスタートする本書の論理構造は、正反対のもののように思える。


以下、本書を読んだときに気になった部分を引用して示す。

上に書いたように本書には索引がない。目次を見ても何を論じているのかは判然とせず。これでは、著者がどこで何を言ったのかがまったく辿れない。そのため、本書を読んだときに書き抜いたメモをもとに、この書評を書いたときに参照した部分の典拠を示しておく。もとより、これは外部からの視線に焦点を当てるという評者が「気になった」ということである。

citations

辺見庸「未来に過去がやってくる」(『完全版   1★9★3★7』) p.17

辺見庸「主体と責任の所在を欠いた,状況への無限の適用方法」p.114

辺見庸「言挙げをせぬ秘儀的なファシズム」p.144

辺見庸「危うい静謐と癇性,どこまでも残忍で胆汁質の情動ーそれらの病勢を小津作品の陰画面に感じる」p.180


エドワード・サイード「オリエンタリストとは書く人間であり,東洋人(オリエンタル)とは書かれる人間である」(オリエンタリズム)p.50

エドワード・サイード「記憶は、アイデンティティを維持するための強力な集団的装置」であり、「それは歴史による抹消の侵食を食い止める防波堤の一つです。それは抵抗の手段」」(『文化と抵抗』)p.268

イアン・ブルマ「ヒトラーはけっして<神輿>ではなかった」(『戦争の記憶』)p.86

イアン・ブルマ「日本の教育は日本帝国のプロパガンダの実践の場だった」(『戦争の記憶』)p.147

ブルマ「最高位の<神輿>を一切関わりなくしておく取引が行われた」p.165

ブルマ「幼児性は、日本だけだと言わないまでも、日本に顕著な文化的特性なのではないか、とつい考えたくなる」p.203


松本清張「古代日本の神権的なデスポット的な大王(おおきみ)に『培養』せんとする大久保[利通]の熱心な意図がここに見える」(『史観宰相論』)p.87


ポール・ジョンソン「軍国無政府社会」(『現代史』)p.104.


ハリー・ハルトゥーニアン「アマテラスのアンクルトムによる代替」(『歴史と記憶の抗争』)p.112


エマニュエル・トッド「アメリカ・フォビア」p.115


チャルマーズ・ジョンソン「独立した民主主義が発展せず,アメリカの冷戦期の従順な衛星国」(『帝国解体』)p.155.


バリントン・ムーア「ファシズムはドイツにおいてよりも,日本の制度と親和性が高かった」『独裁と民主政治の社会的起源』p.157.


ターガート・マーフィー「マーフィの言う対米従属構図とは,ワシントン⇒高級キャリア官僚&大手メディア&対米投資に熱心な大手財界人⇒政治家,という明確なフローチャートを提示し,この意思伝達経路に妨害が入るときは,検察と大手メディアの強力な結託でもって,当該者は攻撃され,排除される」(『日本‐呪縛の構図:この国の過去、現在、そして未来』)p.161

ターガート・マーフィー「「階層性を通じて社会秩序を維持すること」を最重要視する朱子学の哲学がいまも日本を呪縛する」p.167

ターガート・マーフィー 「1603年江戸開府を起点とする近代化論ー侍階級が主導権を継続した」「東京裁判における日米合作の茶番(「東條が天皇をだました」( p.163-167)


カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本には時の権力保持者から完全に独立した文筆家および知識人社会は存在しない」(『日本の知識人へ』)p.162

カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本の大衆文化の際立った特徴は政治的な想像力を掻き立てる内容はすべて抜いてある」(『日本 権力構造の謎』)p.223

カレル・ヴァン・ウォルフレン「システムが朝廷の方を好む政治的理由としては…力の強い論争者が有利になるということである。こうして、現状が維持されるのである。もし多数の訴訟が起こされ、それに対して論理的で公正な結論がくだされれば、<システム>はひとたまりもなく崩壊してしまうにちがいない。」」(『日本 権力構造の謎』)p.243


「日本における官僚機構の驚くべき巨大な権限は…戦後は官僚機構の一人勝ちになり,通常の先進諸国の官僚機構に比べ,統制色の濃い財界も,あるいは官僚出身者の多い政治家も,実質的に官僚と権益を共有する人々が多いからだ。」「「対米従属の可視化を具体的に説く日本人はほとんどいない。」p.166. 


「アメリカという国民国家の中枢に,軍産複合体という怪物がいて,その利害が国民国家をリスクに晒すという警鐘は,絶えず戦争を仕掛けてきたアメリカの思惑を理解する上で欠かせない….イラク戦争もウクライナ戦争も,それが「ニチベイ」批判だと察した時点で,「言わぬが花」になる。いずれも辺見の言う「ヌエ的ファシズム」,清張風に評すれば「部族的官僚政治」,アルノーの評する「オメルタ(マフィアによる沈黙の掟)」に共通するだろう」p.181


「なぜ、岩波は清張の版元とならなかったのだろうか。大衆の欲情や怨嗟に通じた清張史観は、岩波流エリートの教養文化とは異質。換言すれば、どちらも権力を批判するものの、活字文化の権威に君臨した岩波文化人と、最後まで大衆のルサンチマンに拘泥した清張の視点はどこまでも違った。同じ時代を生きた丸山眞男と清張はどれほど相手を意識していただろうか。」p.194


「サルトルやアレントに共通するのは、権威や権力に一切媚びず、怯まず、一生を自らの思想や哲学を通して、言葉でもって歴史感や世界観を表わし、時代の権力や不条理と戦ってきた、つまり本当の数少ない知識人だった。」p.200


「説明なき海外投資、原発事故、原発再稼働、能登半島地震に関する政府の情報統制」 p.254

「エイズウィルス感染による血友病、コロナワクチン開発・接種過程の不可解ーコロナは薬害だ」 p. 255


明治維新についての羽仁=井上史観(封建領主間の権力移譲) vs. 司馬史観(下級武士の英雄史観)p.261


サルトル「金持ちが戦争を起こし、、貧乏人が死ぬ」p.274


フィリップ・ポンス『裏社会の日本史』 日本には、島国根性とか等質的社会といった欺瞞的パラダイムにはけっして収斂されず、まさに「周縁性」に育まれた風土が存在した。その歴史的潮流として、ボンスはアマテラスの弟で「放浪者の典型」スサノオの神話に始まり、江戸時代の農本主義者安藤昌益、戦後の「無頼派」の作家に至るまで「野生の個人主義」を見出し、「強靭な異議申し立ての血統」をなす「日本の歴史的水脈」を発見した。p.275


ウェンディ・ブラウン 一方では蔓延する過度な市場化や民営化が、還元すれば「市場万能論」が、人間が歴史的に培ってきた民主主義や人権や公共といった誇るべきデモスの要素を破壊する時代の様相に、「文明のの絶望」を感じながらも、けっして、怯まず、抗い抜くという宣言は、胸を打つ。『いかにして民主主義は失われていくのかー新自由主義の見えざる攻撃』 p.302


ハンナ・アレント「戦争が記録されている過去のうちで、もっと古い現象に属するのにたいして、革命は正確にいうと近代以前には存在していなかった」(『革命について』)なるほど、日本の歴史を振り返っても、太古の昔から戦争や紛争は頻発したが、革命は未体験。いまだに前近代という旧弊を脱することができない。p.320 


「結論は現下の日本はもはや「ほぼファシズム」だということである。」p322



ビアウア・ヤアランと知識組織論,ドメイン分析

末尾のスライドは,2025年10月25日(土)午後にオンラインでおこなったシンポジウム 「生成AI時代の図書館情報学」 で使用したものである。他の登壇者のものを含めた議論の動画やスライドファイル,質疑応答の概要は 知識組織論研究会のページ で公開されているので,ここでは私が何を主...