2017-05-21

小田の地形学的位置づけ

このブログの自己紹介欄に「小田は関東平野の東側の壁に位置する」と書いた。小田がどういうところかについては、今後追々書いていこうと思っている。その際に、この「東側の壁」という認識が正しいのかどうかについて、やや不安があり、地図を改めて見てみることにした。


次はYahoo! Mapから地形を表示するオプションを選んで関東平野を示したものである。地図の薄い緑色のところは平野部で、濃い緑と茶色は山岳部である。これでみると、房総半島と三浦半島を除いた関東平野は長方形に近い形をしていて、北側と西側が山岳部で、東側と南側は海である。つくば市はその関東平野の真ん中にあるように見える。


これをさらに拡大してつくば市小田周辺をみてみる。下の地図のチェックがついているところが小田なのだが、そのすぐ東側から北に向かって山塊が細長く上の方にあることに気づく。実は上の地図では記号に隠れてよく見えないが、これは長方形の北の辺から真下に伸びて付きだしている低山群である。



筑波山はそのなかの代表的な山である。江戸時代に、江戸から見える山として西の富士山、北の日光男体山とならんで、筑波山がよく眺められ、浮世絵にも描かれたりしていた。1000㍍にも満たない山がなぜ、それほど目立つのかというと、関東平野に突きだしている独立峰だからだ。


ただそれだけでなく、このあたりが軍事的に重要な地であったことも知られているが、それはこの山塊が敵の襲来を防ぐ壁として、そして、いざというときの逃げ道として重要であったからだろう。一方、江戸は長方形の西の端から東に突きだした武蔵野台地の末端にある。江戸城はそうした地形を利用してつくられた。軍事的にそうした地形の利用が重要であったということだ。


こうしたことを小田氏の興亡と関連づけてみていくことにしたい。また、この地が古代から大和政権との交渉があった地域だったのはなぜなのかも地形がからんでいるとにらんでいる。地形と歴史、そして現在の地域を重ね合わせてみる視点を大事にしていきたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...