2018-06-05

米国大学図書館のサブジェクト・ライブラリアン

田中あずさ著『サブジェクト・ライブラリアン:海の向こうアメリカの学術図書館の仕事』(笠間書院, 2017.12)を読んだ。アメリカの専門職図書館員制度については、これまでもたくさんの報告があるが、本書は現職にある人がその職の実態を生々しく伝えてくれる本である。私も含めて日本の図書館界ではアメリカの図書館員養成制度が有力なモデルだったのだが、それが実際にどのように動いているのかが分かるという意味で、これまでなかった情報を提供してくれる本である。

著者はワシントン大学(シアトル校)のアジア図書館でサブジェクト・ライブラリアンをしている人である。 ライブラリアンは図書館における資料の管理や利用者サービス、データベース管理などをしている人というのが一般的なイメージであるが、サブジェクト・ライブラリアンはとくに専門的な分野に特化してそうしたサービスを行っている職員である。とくに専門主題や言語、資料のタイプなど特定の領域のコレクションをつくり、そこの専門研究者であるクライアントにサービスをする人のことである。彼女は、この図書館で日本語資料および韓国語資料を担当している。

本書によると、この大学には部局図書館が法学図書館、数学図書館など10館以上あり、そこにサブジェクト・ライブラリアンが70人以上配置されていて、160の学術分野に対応しているという。アジア図書館は部局図書館の一つで、中国語、韓国語、日本語のコレクションを対象にしている。それぞれの言語に対応して、資料収集担当者、目録担当者、そしてパブリックサービスの担当者がいて総計14人の専門職スタッフがいる。著者はそのなかで、パブリックサービスを担当する日本語研究専門のサブジェクト・ライブラリアンであるが、同時に韓国語資料についても担当しているらしい。サブジェクト・ライブラリアンの仕事は、それぞれの学問領域のコレクション構築、予算管理、レファレンス対応、図書館ワークショップの開催、教員との連携、各国からの来客の対応とされている。

私がこの本で学んだこととして、サブジェクト・ライブラリアンには一定の範囲の選書権限があるということと、一定の研究休暇をとることが認められているということがある。選書権限は、図書館が学部に所属しているのではなくて独立の予算が与えられており、教員が選書するのではなく一定の予算のもとにライブラリアンが選定することができるということである。もちろんコレクション構築の方針や選書基準にしたがうのではあるが、当該分野の資料はこの人に任せるとされているという意味である。だから選書ができることがサブジェクト・ライブラリアンの重要な要件であり、その権限がJob descriptionに規定されているということになる。日本ではこのあたりがあいまいで、研究資料は教員が選び、教育資料は図書館員が選ぶとしても、教員の研究予算と区別する予算枠が小さく、予算枠の使い方が個人ベースでなく集団的に選書することが一般的である。アメリカの大学図書館専門職が個人ベースであることは、研究休暇があることと表裏の関係にある。つまり専門職として研鑽を積むことにより、独立した選書権限が認められているということになる。こうした明確な仕事内容の明記とそれにともなう責任が表裏の関係にあることが指摘できる。

本書はサブジェクト・ライブラリアンにかぎらず、アメリカの大学におけるライブラリアンがどのようなものであるかを理解するのによい本である。このなかには、アメリカの図書館員が女性が多く、専門職と言っても給与は安くあまり尊敬されていない実態も書かれている。とは言え、日本ではアメリカ的な意味での専門職待遇の図書館員がかなり限定されていることを考えるとたいへんに参考になる。

アメリカの大学では、インターネットを通じてオンラインジャーナルや電子書籍、商用データベースにエンドユーザーが直接アクセスできるようになったので、サブジェクトライブラリアンの職が急激に減りつつあるという話しがある。だがそれはたぶん理系の分野の話しであるだろう。本書にもそのことが少し出てくる。しかし、人文社会系はそうはいかないだろう。何よりもこの分野では、図書館は研究情報に加えて研究対象の一次情報を提供する場である。この本が描き出しているように、人文社会系分野の資料の在り方はきわめて多様であり、さらに多言語的であるからだ。それも専門性が高まれば高まるほど、扱いにくいものが対象になる。また、専門性というのはその職場のクライアントの個別性と対応しているので、その意味でも理系のように当該領域のデータやレポート類と世界的なジャーナルにアクセスできればOKというわけにはいかない。

日本の図書館員の養成制度の理想的モデルはアメリカの専門職図書館員制度にあった。私が所属する慶應義塾大学文学部図書館・情報学専攻は1951年の発足当初はJapan Library Schoolと呼ばれアメリカから教員が来てアメリカ流の教育方法で始まった。それはしばらく続き、図書館界にも幾多の人材を送り出したが、今では学部の図書館・情報学専攻の学生で図書館現場に就職する人は毎年数名程度に限定されている。これは、職の募集そのものが少ない上に、民間での就職が先に始まり、こうした公的組織の求人はどうしても遅くなるから、安全側をとりたい学生の希望とずれているからである。アメリカと日本とでは違うと言ったらそれまでなのだが、図書館のような知的インフラをどのようにつくろうとするのかという基本的姿勢に関わる問題を内包しているように思う。

追記(これはfacebookに書いたもの):ここに一つ書き忘れたことがあります。それは笠間書院という文学・歴史学系の出版社がこの本を出したことの意味ですね。アメリカのこうした人文社会系の研究環境が日本ではほとんど知られていなかったということです。日本では人文系の研究者も出版関係者も資料を研究者自身が抱え込むことを常態にしていましたが、図書館とか文書館、博物館による総合的な資料利用環境を考えるべきときだと思います。それは国家的にデジタルアーカイブをつくる前提条件のはずです。

追記2(2020年10月20日):著者と連絡がとれ、現職はJapanese Studies Librarianで韓国は職務範囲に入っていないとのことです。

新治地区のコミュニティセンター

最近、土浦市の施設に行くことが増えている。昔、子どもたちが小さかったときには亀城公園プラザのホールで楽器の演奏会が毎年あってそこに通うことが多かったが、その後は土浦にまで脚を伸ばすことはなくっていた。小田に移り住むようになってあらためて土浦との縁が出てきた。というのは、つくば市小田地区は江戸時代は土浦藩小田村だったところであり、また、現在は国道125号線で小田と土浦は結ばれているからだ。さらには、昔、筑波鉄道筑波線という気動車が土浦と岩瀬駅を結んで走っていて、その途中に常陸小田という駅もあった。今は、小田城の史跡公園になっている。

鉄道は1980年代末に廃線となり軌道は撤去されたが、その跡はサイクリングロードとなっていて、快適なサイクリングが楽しめる。今は霞ヶ浦から筑波山までまっすぐに続いているので、何も考えないで自転車を走らせるのにいい。家からこのロードで自転車を走らせて30分ほど行って125号線に入るとまもなくJA新治が見えてくる。ここはJAの直売所で野菜類を安く買うことができる。

新治という地名は、日本書紀に、日本武尊が蝦夷を制定して「新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠み、それに家来が答えて「かがなべて 夜には九夜 日には十日」と唱和したというのが出てくる。今は分からないが、私が高校の頃はこの一節が国語の教科書に出ていたから今でも覚えている。これは甲府で読んだ連歌とされるものであるが、この歌に出てくる新治の地がここである。この地は蝦夷征伐の最前線だったのだ。その新治は周りの町村が土浦市に統合されても新治村であり続けたのだが、 平成の大合併で土浦との合併を余儀なくされたようだ。


JA新治からちょっと東に入ったところに、土浦市の新治コミュニティセンターの建物がある。前からJAにはときどき行っていたので建物は目についていたが、なかに入ったことはなかったのだが、先日入ってみた。コミュニティセンターってなんだろうと素朴な疑問が沸いたからである。そこはけっこうしっかりとした公共施設で、なか には公民館を中心として図書館もあった。しかしこれが、公民館とも図書館とも表示がないので中に入らないとわからないのである。JAに来る人は多いのに、 あそこの存在に気づいている人はそんなに多くないのではないか。なんだかもったいないと感じた。

中は必要最小限の公共図書館の機能と公民館の機能が存在していた。ときどきここに行くものとしてはありがたい。また、土浦市は他市の市民にも貸出しをしてくれるのもありがたい。しかし、地元の人達のニーズにどの程度、見合ったものになっているのかはまだよくわからない。だが、想像するに地元の住民が直接、要求したというよりは、おそらくは合併の「褒美」がこのコミュニティセンターなのだろう。合併特例債でつくったことはここの職員の方に聞いて確認した。

こういう施設こそは地域住民の文化的な発展のために利用すべきではないのか。地元で地域的アイデンティティを主張する動きがあるのかどうかはよくはわからない。たとえば、合併関係の行政資料をきちんと後世に残すための拠点として機能すべきではないのか。とくに、公民館との併設であるから、双方のノウハウを駆使して、そうした当地にとって不可欠な資料(今のはやりの用語で言えばオーセンティックな資料)とそれに関わる解説や展示などのサービスがあってしかるべきではないだろうか。

土浦市図書館では郷土資料を重視しているのはありがたい。だが、これまで、地域資料や郷土資料というと、市の中心館が担うという考えが強かったが、ここのように合併して編入された地域では、また独自の地域資料サービスがあってよいと感じる。

2018-04-20

「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」報告(3)

「報告」(2)に書いたことが、今回の集会の背景である。私の個人的な思いから開かせていただいた。要するに、オープンガバメントという理念を図書館関係者がどれほど意識しまた実践しているのかを確認したいということである。ワークショップという形式を標榜して出席者に質問や意見を書いていただきたいというところが重要であり、それについては実際にさまざまな書き込みが40件以上得られた。これをHPに出したところから、次の過程が始まる。ワークショップという意味では非常に不十分なものに終わったことは率直にお詫びしたい。だが、参加者の多くはこの問題には解決策が用意されているのではなくて、これから皆でつくっていくべき性質のものであることをご理解いただいたのではないかと思う。

豊田さんが「これは行政支援ではありません」というタイトルでした講演がいみじくも示しているように、図書館が実施するサービスは公費で実施するものである限り、すべてが行政支援の性格をもっている。日野市の市政図書室の担当者は、うちでは行政支援サービスはしていませんと明言されているのだが、これが意味することは、日野市の図書館が「資料提供」モデルを提示したことに市政図書室のサービスも含まれているのであり、そこでは市民も行政職員も議員も等しく利用者として扱うのだということだ。つまり広義の資料提供は必然的に行政資料サービスや行政支援を含むのだということだろう。

私が残念に思うのは、日野市は「市民の図書館」モデルの原点にある図書館であり、市政図書室までつくってモデルが完成したはずなのだが、市民の図書館とは貸出を中心とするサービスなのだという誤解を与えてすでに40年の月日が過ぎていることである。それはもちろん日野市立図書館の責任ではない。日野市は貸出だけでなくレファレンスサービス、地域資料サービスも十全以上に実施している。

私が自著で何度も書いてきたように、資料提供論の原点となった『市民の図書館』(日本図書館協会 1970)は、日野が移動図書館と地域図書館だけでサービスをしていたものをベースに書かれている。その後、中央図書館(1973)ができ、また、市政図書室(1977)ができて、日野市立図書館サービスの全体像が完成した。しかし、それを踏まえての「資料提供論改訂版」は示されなかったのである。1980年代には前川恒雄『われらの図書館』、竹内紀𠮷『図書館の街浦安』が読まれて「資料提供論」が定着したと思われるが、そこで示される図書館論は貸出を中心とした資料提供論の枠を出ることはできなかった。 貸出を中心とすることは、図書館を地域社会に定着させるための戦略だったという解釈も成り立つのだが、それなら状況に合わせての戦略変更があってしかるべきだった。21世紀になって、文科省が「これからの図書館像」(2006)や「図書館の設置及び運営の基準」(2012)を出して新しいタイプの図書館運営モデルを出した。しかし、出た時点で貸出図書館モデルはすでに日本社会の深いところに染み込んでしまっていて、容易に変更できないものになっている。

先に触れた情報公開と図書館の関係の議論の根底には、日野が市政図書室を設置したことのインパクトがあった。つまり、地域行政資料を集め、行政職員の身近なところで行政支援的なサービスをすることが図書館の自然な発展であったということである。市政図書室は正規職員が3人ついてサービスを実施している。当該自治体、周辺自治体、都道府県までを含んだ行政資料の収集と蓄積・保存、行政職員に対する積極的な予約、貸出、配送、専門性を生かしたレファレンスサービス、新聞記事の切り抜きの各課への配送、新聞記事見出しのデータベース化とそのインターネット配信などが行われている。日野市職員の意識調査を実施したところ、予想以上に利用があることがわかった。その結果の一部は、当日配付資料に掲載しているが、本格的には別のかたちで公表する予定にしている。

日野は特別だという声もある。市政図書室が可能だったのは、初代市長有山崧氏がいたからだとか、できた当時、前川恒雄氏が助役をやっていたとかいうことである。政治あるいは行政の判断が大きな力をもつことは確かだろうが、その二人は日野市立図書館、ひいては「資料提供論」の産みの親なのだから、その延長で市政図書室を他でもまねてもよかったのになぜできなかったのか。逆に言うと、日野市であのような実践を可能にした力が何であったのかについてもっと研究が必要だし、それがその後図書館の世界ではうまく拡がらなかったのがなぜなのかももっと研究すべきであるだろう。

今回、日野市を調査して、図書館がネット時代においても重要な役割を果たすのは、資料や情報をストックする機能にあることを痛感した。当日報告したように、調査によって職位が上の職員ほど市政図書室を利用していることが示されていた。これが年配の人ほどネットではなくて紙資料に頼るからだという見方もあるがそうではない。課長クラスの人はネットを使うのは当たり前で、それで不足するものを市政図書室で補っている。何が不足するかと言えば、過去の資料であり、時系列的な蓄積であり、また、日野を中心に多摩地域、東京都、関東一円というように同心円状に拡がる地域的な資料情報の構造である。市政図書室のサービスはそうしたローカルな情報ニーズに対応したサービスをしている。これらはグローバルなネットでは決して実現できない。もちろん、庁内イントラネットなどで実現することは可能であるが、そうしたものを企画するのが図書館のはずである。

行政情報の扱いと行政支援はこのように相互にかかわる。日野にこだわってきたのは、現代公共図書館サービスの出発点である図書館がすでに1970年代にそのような仕掛けをしていることにもっと気づくべきだと思うからだ。足下を見よと。

私は近年、「情報リテラシー」とか「学校図書館」とか「書籍のナショナルアーカイブ」とかについて発言してきた。「行政情報」「行政支援」とかなり違うものを扱っているように見えるかもしれない。だが、自分としては一貫したテーマを追求しているつもりである。それは、「情報共有体制」をどのようにつくるかということである。国レベルでも地域レベルでも組織レベルでも情報の発生は同じ構造に基づいており、その構造に対して情報共有の仕組みをつくるのが「図書館」(これは制度的な図書館に限らない)であり、それを使いこなすためには人は情報リテラシーをもつ必要があるということだ。



「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」報告(2)

まだ大学院生および助手だった30年以上前の1980年代の中頃に、私は日本図書館協会の図書館の自由に関する調査委員会の委員を数年務めていた。そこで関西の石塚栄二さん(大阪府立図書館、帝塚山大学)、塩見昇さん(大阪市立図書館、大阪教育大学)たちと知り合う機会があった。当時は「図書館の自由に関する宣言1979年」が出たあとで、解説が出たり「シリーズ図書館の自由」も出ていたので、「図書館の自由」がどういう理念に基づいているのかを勉強した。また、『図書館員の倫理綱領』が出て、単に自由を主張するのでなくて、それを実現するためにひとりひとりの図書館員の社会的責任を明確にしようとする考え方に触れた。日本的な図書館環境のなかで、アメリカ図書館協会と同様に「宣言」と「綱領」を示して社会的な主張をするところに新しい可能性を見たが、同時に、その危うさも感じていた。

当時、『図書館雑誌』(1980年3月号)で 「行政資料の流通と図書館」という特集が組まれて、情報公開の議論を先導していた青山学院大学法学部の清水英夫さんが「 図書館と情報公開 」という文章を書いた。また、石塚栄二さんが法律誌『ジュリスト』(1981年6月)に「情報公開と図書館--図書館の自由に関する宣言との関係において」という論文を発表した。今よりも法学分野と図書館分野は相互の結びつきがあったと言えるだろう。私は、図書館が地域社会で果たす多方面の役割を実現する制度に関心があったのでこの問題を自分で考えてみようと思い、石塚さんや塩見さんたちと相談して、「シリーズ図書館の自由」の一冊として『情報公開制度と図書館の自由』(日本図書館協会, 1987)という論集を出すことにして、編集の中心になり、そこで、行政資料提供と図書館の関係についての論考を書いたり、各地の実践報告を紹介したりした。地域社会の新しい動きに図書館員が敏感に反応して、行政資料提供の実践が行われていた。この時代は、ようやく公立図書館の運営方針が明確になって「市民の図書館」の実現を目指していた時期であり、図書館にさまざまな期待をもつことができた。

私はこの頃、一方では国立国会図書館の機能のなかでも納本制度に基づく全国書誌作成機能が重要だと考えていた。全国書誌はひとつの国で発生する図書や雑誌などの資料を「すべて」記録する機能であり、納本制度はそのために出版者に出版物の納入を義務づける制度である。出版者には政府や地方自治体も含まれる。だから国会図書館は政府刊行物や自治体の行政資料を収集していることになる。図書館法には、政府刊行物や行政資料を図書館を通じて国民に提供することが書いてある。他方、情報公開制度というのは、公文書レベルの情報の開示請求を制度化するもので、1980年代前半に自治体が条例を制定し始め、2001年になってようやく国が「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を制定した。

行政刊行物や行政資料と公文書がどのような関係になるのかというと、実はこれがかなりあいまいである。公式報告の私の資料に引用したように、「行政文書」の法律上の定義は次のようになっている。「行政文書とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。
 一 官報、白書、新聞、雑誌、書籍その他不特定多数の者に販売することを目的として発行されるもの 」(以下略)」

森友・加計問題で、この定義における「当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」とあることが、さまざまな解釈の余地を与えている。行政職員が機関のアドレスでやりとりするメールは「組織的に用いるもの」なのか、また、「当該行政機関が保有する」ための文書管理の内規をそれぞれの行政部門がつくることによって文書の廃棄が恣意的に行われのではないかといったことである。だがここでは、除かれるものが「販売することを目的として発行されるもの」とあることによって、行政刊行物で販売されないものは行政文書扱いされていることに注意を払うべきだろう。

というのは、たとえば国立国会図書館法24条においては「国の諸機関により又は国の諸機関のため、次の各号のいずれかに該当する出版物(機密扱いのもの及び書式、ひな形その他簡易なものを除く。以下同じ。)が発行されたときは、当該機関は、公用又は外国政府出版物との交換その他の国際的交換の用に供するために、館長の定めるところにより、三十部以下の部数を直ちに国立国会図書館に納入しなければならない。」となっており、出版物全体が納本の対象になっていて、決して販売目的のものだけに限定していない。つまり、国会図書館の納本対象政府刊行物は、行政情報公開法でいう公文書だということになる。行政情報の問題の難しさは、情報公開法の問題と同質であって、法的には公開するしないの判断は行政担当者に委ねられているところにある。昔から図書館関係者には「灰色文献(gray literature)」として知られている問題である。これは国レベルの法的規定だが、地方公共団体においても状況は同じである。


20世紀の自治体情報公開制度の議論においては、政府や自治体は公文書については公文書開示請求制度によって公開するが、公文書とならない印刷物資料は図書館や行政資料室などが行政情報提供制度によって任意に公開することによって分担すればよいという議論が行われた。図書館はこの行政情報提供制度を担うと考えれば、法律や行政の専門家と図書館関係者が共通の場で議論が可能である。私はこの部分に期待することがあった。つまり、情報公開が前提となる自治体行政においては、図書館は行政情報提供を担う機関として役所の各課と交渉し、これを蓄積し市民に提供する役割を果たすという考え方である。先に触れた『情報公開制度と図書館の自由』はこれを実施するための手引き書として作成したものである。

だが、事態は必ずしもそのようには進まなかった。1980年代から90年代には多数の新しい図書館ができたが、そこで実施されるサービスは、市民が求める本屋で買える本を提供することを中心とするものであり、それ以外の資料は後回しにされることが多かった。「市民が求める資料を提供する」というキャッチフレーズが使われたが、そうすると地域資料や行政資料の位置づけは低下してしまう。それらは、商業出版物のように資料リストがあってそこから選択できる類いのものではなくて、資料の存在そのものを突き止めるところから始めなくてはならない。行政資料や地域資料はその図書館だけが集められる唯一性の高い資料だということは分かっていても、実際にはそれを集めるためのノウハウの蓄積は十分ではなかった。また、「市民のニーズが強いから」という理由で貸出中心の図書館運営方針が選択され、こうしたサービスは後回しにされた。

私は、どんな地域の公共図書館においても通常の「資料提供」業務を超えて専門性が必要となるサービスとして、児童サービスと地域資料サービスがあると考えていた。児童サービスについては、日本図書館協会児童青少年委員会、児童図書館問題研究会や東京子ども図書館、国立国際子ども図書館などの研修会などでノウハウの交換と蓄積が行われていたのに、行政資料や地域資料については1960年代に日本図書館協会郷土の資料委員会が時限付きで置かれていただけで、全国的な研究団体や研修についての動きがないのはなぜなのかについても疑問が大きかった。

図書館の自由に関する調査委員会は図書館のもつ本質的理念的立場から、行政資料に取り組んだが、その後、これを展開することはできなかった。私は、東京都多摩地区の図書館員たちとこの問題に取り組んで、図書館協会から『地域資料入門』(1999)を出すことができたが、その後は散発的にかかわっただけである。

今回、行政情報提供について行政学とか地方自治、自治体経営などでどのように議論されているのかを調べてみた。30年前にあれだけ情報公開や行政情報提供が論じられていたのにほとんど見られなくなっている。今は、情報公開、情報システム、ネットを使った広報がそれぞれ別々に議論されているだけである。昔、清水英夫さんや堀部政男さんのような人が熱心に市民自治のための行政情報共有の考え方を説いていたのだが、それに当たる議論がどこに行ったのかなくなっているように見える。おそらくは、ネット社会のインパクトが大きくて多くの情報がネットを通じて提供されているように見えていること、そして、NPM的な状況においては行政情報を開示するよりも経営評価が中心になり、経営にかかわる情報は出さざるをえないが評価に不利になりそうな情報は隠しがちなこと、といった理由があるように思われる。

残念ではあるが、これが実態だろう。だからこそ図書館がオープンガバメントに貢献するべきなのであるが、それができるかといえば難しいという状況があるのだ。

















「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」報告(1)

3月25日(日)の午後1時から4時まで慶應大学三田キャンパスで、公開ワークショップ「図書館はオープンガバメントに貢献できるか」を開催した。終了してからすでに4週間近くになるが、新学期になっていろんなことに時間をとられて書けなかった報告をここでしておきたい。公式の報告はホームページで行っているので、ここは個人的な視点からの報告である。

まず年度末の日曜日のお忙しいところ、ご参加いただいた講演者の豊田高広さん、コメンテータの伊藤丈晃さんに感謝申し上げる。研究者的な観点からではまったく成り立たないこのテーマについて、図書館現場、自治体行政現場からの生の声を届けてくれたので、議論はかなり現実に迫るものになった。そのことは後で報告する。

とくに事前登録もなしに開催したので、どのくらいの人が来てくれるのか読めず、いったん確保した70人規模の部屋を倍の人数が入る部屋に変更した。実際の参加者が70人だったので、この変更をしてよかったと胸をなでおろした。前のままだったら、参加者には窮屈な思いをさせてしまっただろう。ただ、あの部屋は二つの教室を縦につないだような変に細長い形をしていて、議論する場としてはふさわしくなかった。誰かがこの部屋は試験にちょうどいいと言っていたが、確かに一斉に答案を配布して一斉に回収するのに向いていた。

登壇者の発言については公式HPにまとめておいたのでご覧いただきたい。今回オープンガバメントという用語を使ったのは戦略的なように見えたかもしれないが、実を言えば単なる思いつきだった。今さら、行政情報とか行政支援サービスとかいったところで、それほど多くの人の関心をもつようには思えなかった。少し頭をひねって、最近、オープンデータとか、オープンアクセスとかの言葉がよく聞かれるので、これを使おうと思った。オープンデータが話題ではあるが、それ自体は私自身の関心事ではない。ただそのノリでちょっと前に話題になったオープンガバメントだと、関係者が共有する「ある部分」に働きかけるのではないかと思いついたのだ。

「ある部分」とは、図書館がもつ組織からの中立性という理念である。思想や言論、情報、知識といったものを扱う機関は、母体となる親機関から独立した作用をもつ必要がある、という考え方である。これは図書館関係者には「知的自由」(アメリカ)、「図書館の自由」(日本)という概念で理解されている。その実現に関してはさまざまな難しいものがあるとしても、そこから出発する図書館サービスは政府の透明性を説くオープンガバメントの考え方と相性がいいように思われた。その読みが正しかったかどうかはまだ判断できない。しかしながら、それなりに多くの人の関心を引いたことも事実である。

行政情報とか、行政支援サービスといった表現を使っても、図書館関係者の受け止め方は「とてもそんな余裕はない」か「そんなことはすでにやっている」のいずれかになる。多くは前者で、そんなところまではなかなか手がまわらないというものだと思う。だが、所属自治体の行政資料を集めていない図書館はないだろうし、私の報告でも触れた全国公共図書館協議会の「課題解決支援調査」では42%の自治体が何らかの行政支援サービスを実施していると回答している。図書館は自治体行政の一部であって、常に行政との何らかの関係はあるから、こうしたサービスをいくぶんは行っているのである。しかし、どのようなサービスをすれば、行政情報を市民に提供していることになるのか。それが、これに参加した人たちの中心的な関心であったと思う。

それに応える議論ができたかというと、残念ながらそういう展開にはならなかった。それはいくつかの理由があったと反省している。ひとつはワークショップ方式を謳ったが、やり方が中途半端だったことである。前半はシンポジウム、後半は参加者によるワークショップと考えていたが、後半は議論する前に終わってしまった。参加者には多数の質問・意見を書いていただいてそれを整理してお答えしたり、議論したりしようと思っていたが、思った以上に多数の質問や意見の数が多く、とても処理しきれなかったのである。この点、登壇者や参加者、とくに質問、意見をお寄せくださった方には失望感を与えたのではないかと反省している。

ただ、こういう事態はあらかじめ予想できたとも言える。参加者の3分の2の方が質問・意見を積極的に寄せてくれたということは、この問題が1時間程度の議論で解決できるようなものではなくて、今後とも長期的に議論していかなくてはならないような性格のものだったからである。そのためもあって、質問や意見はまとめてHPに掲載した。今後のこの種の議論はここから出発すべきだろう。そういう生の素材を集める役割を果たしたことで最低限の役割を果たしたと考えている。

素材の今後の扱い方についての私の考えを次に書いておく。





2018-02-17

入試問題出題ミスについて考える(2)

大学入試の在り方について考える


入試問題出題ミスについて考える(1)」の文章を書いたあとに、朝日新聞社のWEBRONZAにこのテーマについての論考が3本掲載されていることに気づいた。(http://webronza.asahi.com/science/themes/2018020800004.html

科学・環境 阪大・京大の出題ミス騒動に巻き込まれて
吉田弘幸 2018年02月13日

入試ミス問題に対する現場の言い分
須藤靖 2018年02月09日

科学・環境 阪大、京大は入試でどこを間違えたか
延與秀人 2018年02月06日

このうち、延與氏のものは出題内容について論じたものであるので措いておいて、吉田氏と須藤氏は出題方法や入試の仕組みを含めて意見を述べている。読んで同感するところがあったので紹介し、コメントしておきたい。

吉田氏は、大阪大学の問題について予備校毎に解答が違っていることを指摘した人である。それが半年以上も過ぎて今回騒ぎになった事情を説明してくれている。大阪大学当局が当初は正面から対応しない態度だったのが文科省への働きかけの後、入試ミスを認めて追加入学者も発表したこと、そして、その間に、知人から京都大学にも入試ミスがあったことを知らされ、それも指摘したので京都大学でも同様の対応になったということである。

こうした処理の過程も興味深いがここではそのことは問題にしない。むしろ、吉田氏は物理を予備校で教えている立場から、物理の問題に間違いがあったことが許せなかったと発言していることに興味をもった。彼は、大学は解答例を公表することがこうしたことを防ぐのに役立ち、それはひいては中等教育の質の向上に貢献すると述べている。

私は、前稿で日本に蔓延している正解主義を批判したが、物理学ならパラダイム転換はそうそう頻繁にあるものではないから、入試問題に正解を設定することはそう難しくないことは認めたい。ミスが生じやすいとすれば、正解を選ぶための選択肢をつくるときであり、それは研究者がそういう考え方に慣れていないからではないかと考える。だから、吉田氏が出題の仕方について、択一式ではなく物理オリンピックのような論述式の問題にすべきで、解法も含めて受験生に論述させることによって出題ミスを防げるということはその通りだと思う。その方が教育改革を進める上での中等教育へのメッセージ効果という意味でも望ましいことは確かだろう。

吉田氏は出題ミス自体を問題視しているのではなくて、学んでいる受験生に混乱がないようにすることが重要だとし、そのために出題方法を変更すべきだと考えているのである。
他方、須藤氏は物理学者で、出題に廻っている立場からの発言だ。 こちらの主張も明快である。

「問題の本質は、"大学入試制度は完璧であるべきで、得点の1点差が重要である"という間違った思い込みにあるのだ。」
「そもそも、入試問題作成は、教員にとっては、労多くして功の少ない業務の典型例である。時間をかけて独創的な問題を作成しても、高校の指導要領の範囲内で本当に解けるのか、他の解答の可能性はないのか、など、すぐにはわからない数々の確認事項がつきまとう。」
「つまり、”大学入試に完璧はありえないし、それを求めること自体が間違っている”こそ私の主張である。総計が500点満点の試験の場合、10点程度の違いは、受験生の能力の違いを反映しているはずはなく、単なる誤差だと考えるべきなのだ。」
「とはいえ、現在の制度では1点差で合否が決まり、受験生個人にとってその違いは無視できない影響を及ぼす。では、どうすべきか。これについてはすでに過去に書いた通りだ。」

として、ボーダー周辺の受験生についてはランダムに選ぶとか、複数の大学の試験を共通化するなどの方法を提案している。ここで前提になっているのは、受験生の学力は評価可能ではあるが、細かく点数化することには意味がないので、おおざっぱに選別する仕組みを大学を超えて共同でつくることで、受験生にも大学にも大きな負担がないようにするということである。

須藤氏は、現行の設問でも入学後に必要な能力を評価することは可能であるという立場だ。ただし500点満点での1点差を問題にすることには意味がないが、もう少し大雑把に、たとえば10点刻みの点数なら合否判定はできるという考えのように受け止められた。吉田氏が出題を論述式に変えることを提案したのに対し、須藤氏は出題方法は変えずに、入試の仕組みを変えるのと評価方法を変えるのとを提案している。出題方法を論述式にすれば採点の手間が大きくなるのに対して、大学への負担を増やさずに今よりはよい方向を目指す考え方だ。

だが、1点単位の点数差を無視してくじ引きにするという考え方は、日本人が試験に抱いてきた、公平な条件の下で受けてその成果が公平に判定されるというだけでなく、努力の結果が合否判定に反映されるという感覚からすると、少々問題ある提案であるかもしれない。日本社会はどれだけの能力があるかではなく、能力は努力次第で代替できるのであり、努力も含めて評価すべきと考えるから、些細な1点差まで評価に含めることが期待されていたのである。

今回、受験産業の所属者が大学受験にクレームをつけたことも注目される。これは入試自体が変質しようとしていることを示しているのだろう。実は、入試に関して大学や高校の教員よりも塾とか予備校の教員の方がしっかりとその本質をつかんでいるはずで、今回のケースは、受験のプロが、アマチュアがつくって固定化したままになっている制度の矛盾を指摘したと考えることもできるだろう。

この問題を解決するには、大学に入学するための能力評価はいかにあるべきか、 それをどのように測定するのか、その際の公平さとはなにか、受験生やその親も含めた社会に対して説得的な変更は可能なのか、変更するにあたっての大学側のコストはどのようなものなのか等々の困難な課題に直面する。だが、私も含めてそれぞれの表現の違いはあるが、学習者の能力を測定する仕組みとしての入学者選抜の方法は、徐々に変化すべきだし、変化しつつあるとしている点では共通していると思われる。

今が受験シーズンであり、その渦中にいる受験生にあまり幻滅するメッセージを与えたくないという配慮がいろんなところで見られる。だが、本来、高等教育を志向するものは、受験という制度が抱えるこうした課題を直視することもまた必要である。言うまでもなく、教育関係者もメディア関係者も大きな流れを意識すべきだと考える。



 

入試問題出題ミスについて考える(1)

正解主義への傾斜を憂える


今、大学受験シーズンのまっただ中にいる。そこでは、受験生はその結果によって4月以降の身の振り方が決定される。当の受験生もその保護者も、甘んじてそれに参加することを余儀なくされていることからくるぴりぴりとした感覚がただよってくる。2020年入試改革をめぐる議論も盛んだが、そんなものはどこかに行ってしまったように年中行事が繰り返されている。

私は今、進行中の教育改革と一見すると逆行するような動きが見られるのが気になっている。以下、拙著『情報リテラシーのための図書館』(みすず書房)に書いたものの延長上で論じてみたい。

大阪大学、次いで京都大学で、昨年度実施した入試問題に誤りがあったことが報道された。センター入試ではムーミンの故郷をめぐって出題ミスではないかとの指摘もあった。もちろん、問題に誤りがあってはならないし、誤りに対して適切な処置をとるべきとの意見にも異存はない。しかしながら、「ポスト真実」が問題にされる時代だからこそ、「正解」の存在を前提に瑕疵をあれこれ指摘する風潮には釈然としないものを感じる。

何よりも試験問題を作成している大学教員は、教員である前に研究者であって、正解がない世界を日夜探究している人たちだ。科学理論はとりあえず多くの研究者が認めたものを「真理」としているのにすぎない。だから、真理は更新されうる(これはトマス・クーンのパラダイム論に基づく)。そういうところに参加している人たちにとって、正解のある問題をつくること自体が不得手である。

自然科学ですらそうなのだから、人文社会科学が関わる領域において唯一の正解が想定されることはありえない。今回の教育改革は高大接続を前面にだして、中等教育までの学びと高等教育の学びを連続させることを究極の目標にしている。そのため、一人一人の学習者が自ら「正解のない問題」を解決する力を養うことが今回の教育改革の目標となったし、それを問うための入試は、「思考力・判断力・表現力」を総合的に試すものにするものに変えていくという合意があったはずである。なので、今の時点で、一つの正解をめぐってこれほど大きな問題になるのは意外であった。

日本人の試験へのこだわりは明治初年に遡ることができる。斉藤利彦『試験と競争の学校史』(講談社学術文庫)を読むと、明治5年の学制発布後まもなくの時点で、地域を問わず全国で試験による統制方法が採用されていたことが分かる。明治政府は四民平等の原理のもとで、国づくりの基本原則として富国強兵と殖産興業、そしてその手段としての国民皆学を掲げた。これはまたたくまに全国に行き渡った。福沢諭吉『学問のすすめ』が読まれ、自発的な学びが奨励されたとしても、学校での学びを進める力となったのは、試験による競争原理であった。それ以前の身分制から脱することができた民衆にとって、学ぶことは立身出世の道とされるようになった。

こうして日本の近代社会では、学ぶこと、そして知識を身につけることよりも、その結果としての学歴および学校歴が重視されることが当たり前のようになった。また、試験とセットになった、唯一の正しさを追求する競争的正解主義は、官僚主義的な組織原理と密接な関わりをもつ。東大法科が文系エリートが選ぶ場であったのは、国家官僚と司法が国を統制する原理をつくっていたからである。企業も終身雇用を前提として人を取り、そこでは組織人としての規律が要求された。

だが、これらが経済大国日本をつくりあげる原動力になってきたことは確かであるが、今になって社会の至る所で軋轢と窮屈さとをもたらしていることは言うまでもない。だからこそ、今時の教育改革はこの原理の見直しを国家的に進めるものと理解できる。

しかしながら学ぶことが目的になるのではなく、社会的地位確保の手段とする傾向は、今に至るまで、受験偏差値によって序列化された大学リストが作成されてメディアを通じて共有され、それが大学選びの際に重視されていることに現れている。大学教育に携わるものとしては、そんなリストに基づき予備校等で無理やり引き伸ばされた学生の「学力」など、信用できないと常日頃感じているのであるが。

入試ミスの指摘の多くは受験産業から寄せられたものであった。試験問題の間違いなどこれまでいくらでもあったはずなのに、今の時点でこれだけ大問題になったのは、正解主義を志向する人たちが少なからずいることを示している。

今、私たちは、正解主義的組織原理に揺さぶりをかけることで、明治国家建設、そして、戦後改革に並ぶ大きな社会的実験を行う時期にいる。これにより、私たちは自ら誤りを修正しながら進んでいくことのできる人材を育成する方向への切り替えを試みているのである。ささいなことに足をとられて大きな歴史の流れを見失うことのないようにしたい。

「入試出題ミスについて考える(2)」に続く)

探究を世界知につなげる:教育学と図書館情報学のあいだ

表題の論文が5月中旬に出版されることになっている。それに参加した感想をここに残しておこう。それは今までにない学術コミュニケーションの経験であったからである。 大学を退職したあとのここ数年間で,かつてならできないような発想で新しいものをやってみようと思った。といってもまったく新しい...