今日は6月17日(土)、例年なら梅雨入りして、じめじめした毎日が続くはずなのだが、なぜか今年はまだそうならない。今日の午前中は気温は20度前半で涼しい風が吹く。まるで北欧の感じだ。
鳥の声が美しい。近くではヒヨドリがぴいぴいと鳴いている。ときどきコジュケイが甲高い声で鳴く。やや遠くでウグイスがあの美声を聞かせてくれる。シジュウカラ、ホトトギスやアオジが続く。鳥たちは同時には鳴かないで自分の出番を待って独奏するように鳴いてくれる。
久しぶりに、週末に家にいることができるので、風に吹かれ鳥のさえずりを聞きながら至福のひとときを過ごした。ありがとう。
2017-06-17
河瀬直美「光」をみる
時間に融通がきくようになったので、丸の内TOEIで河瀬直美監督の映画「光」を見てきた。ここに感想を書いておきたい。
以前に仕事の関係で奈良に行く機会が多く、この監督がカンヌで世界デビューした頃から奈良を本拠にして活動していたのを身近に感じ、初期の映画は見ていた。しばらく遠ざかっていたのだが、久しぶりに見る気になった。見て、やはり河瀬直美は力がある人だと感じた。少なくとも五重の映画的な仕掛けを織り込みながら、一貫したテーマを観客に問うている。
一つは、視覚障害者に対する音声ガイドをつくる女性が悩む、映像と言葉との関係である。これはこの映画のストーリーの起点になっている。視覚障害者に対してどのような言葉を用いることが、ハンディキャップを補うことになるのか。映画の最初で女性のナレーションの言葉に対して「それはあなたの押しつけではないか、主観ではないか」というような障害者からの問いがつきつけられていたが、これは映像と文字言語の関係にとどまらない、映画と文学との関係という普遍的なテーマでもある。
二つ目は、映画のなかで映画作成を行っていて、いわば劇中劇の体裁をとることで、観客は二重の虚構のなかで視点を定めにくくされている。劇中劇で、妻の首を絞めることでその妻との一体感を表現した男の最後の行動をどのような言葉で表現するかをめぐり、女性が監督にインタビューするシーンがあるが、監督は沈黙してしまう。これで観客もまた宙づりにされる。
三つ目に、時折差し込まれる視覚障害の男性の視野を通して表現される世界である。定まらない焦点のカメラワークを使ったぼやけた画像が多用され、また、視界が徐々に狭まっていって、最後の方ではまっ黒になっていくことによって観客もまた闇の世界に連れ込まれる。
四つ目は、女性と男性との関係の対立と和解である。最初は音声ガイドの仕方をめぐる対立から始まるのだが、女性自身が父親の失踪と母親の認知症という経験を通じて不安定な心理状態にあり、カメラマンだった男性が視覚を求めている部分と共鳴し合う展開がある。女性は彼に映像世界の成功者としてのあこがれを見いだし、男性は彼女に新しい人生の希望を見いだすという調和的なエンディングを演出するためだったのだろう。
そして五つ目に、だが女性と男性が異なった光を見ていることは、それぞれのエピソードが示唆している。女性が彼に重ね合わせているのが父親のイメージであることは、認知症の母親を追って迷い込んだ奈良の山のなかで、失踪した父親とかわす幼児期の会話の幻想シーンがあることで示される。他方、男性は、自分の愛用の仕事道具だったライカのカメラを最後には放り投げることで(実はその前にこのカメラが盗まれるシーンがあるがこれは何だか唐突でしっくりこなかった)、新しい世界に入る決断をしたことが示唆される。
これらは二人が直接に向き合う関係には描かれていない。とくに男性は女性に対していささかも内面を吐露するシーンはなかった。ふたりをつなぐのは、男性が階段の下から呼びかける「待っていて」という言葉とその後のキスのみである。男性にとっては視覚喪失の苦しみを一時的にでも理解してくれる女性、そして、女性にとっては父の喪失を埋めてくれる男性という捻れた関係の提示がそこにはある。女性も、男性も、劇中劇の男性も、そして音声ガイドのスクリプトも、最後の部分でそれぞれの「光」の方向に収斂してエンディングになる。ドラマとして一見、男女の恋愛劇のように扱っているところが不可解なところではあり、ポスターも含めて商業映画にするための妥協が織り込まれているように見えた。
私はこういう多重の仕掛けがほどこされた映画が好きだったが、久しぶりにそういうものを堪能できた。また、それ自体が映画とは何か、映画に何ができるのかを問うているのも好ましい。それを見て感想を書くことは、このブログで何を伝えようとしているかの意味を問うことにもなる。
一つは、視覚障害者に対する音声ガイドをつくる女性が悩む、映像と言葉との関係である。これはこの映画のストーリーの起点になっている。視覚障害者に対してどのような言葉を用いることが、ハンディキャップを補うことになるのか。映画の最初で女性のナレーションの言葉に対して「それはあなたの押しつけではないか、主観ではないか」というような障害者からの問いがつきつけられていたが、これは映像と文字言語の関係にとどまらない、映画と文学との関係という普遍的なテーマでもある。
二つ目は、映画のなかで映画作成を行っていて、いわば劇中劇の体裁をとることで、観客は二重の虚構のなかで視点を定めにくくされている。劇中劇で、妻の首を絞めることでその妻との一体感を表現した男の最後の行動をどのような言葉で表現するかをめぐり、女性が監督にインタビューするシーンがあるが、監督は沈黙してしまう。これで観客もまた宙づりにされる。
三つ目に、時折差し込まれる視覚障害の男性の視野を通して表現される世界である。定まらない焦点のカメラワークを使ったぼやけた画像が多用され、また、視界が徐々に狭まっていって、最後の方ではまっ黒になっていくことによって観客もまた闇の世界に連れ込まれる。
四つ目は、女性と男性との関係の対立と和解である。最初は音声ガイドの仕方をめぐる対立から始まるのだが、女性自身が父親の失踪と母親の認知症という経験を通じて不安定な心理状態にあり、カメラマンだった男性が視覚を求めている部分と共鳴し合う展開がある。女性は彼に映像世界の成功者としてのあこがれを見いだし、男性は彼女に新しい人生の希望を見いだすという調和的なエンディングを演出するためだったのだろう。
そして五つ目に、だが女性と男性が異なった光を見ていることは、それぞれのエピソードが示唆している。女性が彼に重ね合わせているのが父親のイメージであることは、認知症の母親を追って迷い込んだ奈良の山のなかで、失踪した父親とかわす幼児期の会話の幻想シーンがあることで示される。他方、男性は、自分の愛用の仕事道具だったライカのカメラを最後には放り投げることで(実はその前にこのカメラが盗まれるシーンがあるがこれは何だか唐突でしっくりこなかった)、新しい世界に入る決断をしたことが示唆される。
これらは二人が直接に向き合う関係には描かれていない。とくに男性は女性に対していささかも内面を吐露するシーンはなかった。ふたりをつなぐのは、男性が階段の下から呼びかける「待っていて」という言葉とその後のキスのみである。男性にとっては視覚喪失の苦しみを一時的にでも理解してくれる女性、そして、女性にとっては父の喪失を埋めてくれる男性という捻れた関係の提示がそこにはある。女性も、男性も、劇中劇の男性も、そして音声ガイドのスクリプトも、最後の部分でそれぞれの「光」の方向に収斂してエンディングになる。ドラマとして一見、男女の恋愛劇のように扱っているところが不可解なところではあり、ポスターも含めて商業映画にするための妥協が織り込まれているように見えた。
私はこういう多重の仕掛けがほどこされた映画が好きだったが、久しぶりにそういうものを堪能できた。また、それ自体が映画とは何か、映画に何ができるのかを問うているのも好ましい。それを見て感想を書くことは、このブログで何を伝えようとしているかの意味を問うことにもなる。
2017-06-04
韓国訪問
5月25日(木)から5月28日(日)まで、仕事で韓国のテグ(大邱)とチョンジュ(全州)を訪問してきた。あちらの人々の熱い歓迎ぶりにとまどいながらも居心地のよさを感じて帰ってきた。
ここでは居心地のよさの一端を書いておこう。まず、言うまでもないがその近さである。私が最初に韓国に行ったのはたしか1980年代初頭で下関から関釜フェリーに乗って一晩かかってプサン(釜山)に着いた。それが当時一番安く外国に行く方法だった。それが今は、LCCを使うと成田からテグまで2時間で、往復12,000円で行くことができる。今でも関釜フェリーがあるのかなと思ってHPをみると同じようにあるのだが、一番安い2等客室で片道9,000円ということだ。ホテル代が倹約できると思えば安くなるとも言えるが、実際は下関まで行くのがたいへんだ。青春18キップを使うにしても1日ではとてもいけずかなり高くつく。よほどの暇がないとこの方法は選べなくなっている。気軽に行けることは心理的負担を小さくする。
2番めに、自然との共生だ。上空から見た韓国の風景は都市部以外は緑の山が続く。それも日本と違って高い山がなく、だいたい数百メートルから 1000メートルちょっとの小さな三角錐の山々が延々と続きそれが国土のかなりの割合を占めている。日本は平地だけでなく山に開発の手が延び、山が切り崩され、そこに団地が形成されたり、ゴルフ場になったりしているが、上空から見る限りあまりそうした開発の跡が見られない。もちろん、林業的な開発はあるのだろうが、きちんと植林をすることできれいな緑を保っているように見えた。
大学のキャンパス計画も実に上手に山裾の立地を利用している。私が行ったテグの大学は韓国で一番キャンパス面積が広くかつ美しい(と当の大学の人が言っていた)ところだったが、本当に山にかかる部分の広大な敷地の凹凸をうまく活かして植生と建物を配置していた。これは、全州の大学も同様であった。日本の、とくに首都圏の大学が郊外にいったん移転しながら都心回帰現象がはっきりしているのにたいして、あちらは大学の本来の教育研究機能を実現するための環境整備をうまくマネジメントに取り入れているように思われた。
啓明大学校
3番目に都市景観だ。都市部は都市計画が進み、超高層ビルやタワーマンションが林立していてきれいに見える。これは地方都市でもそうだ。おそらくは日本と比べると遅済成長の時期が遅かった分、近代化のスピードが速く、最新技術を反映させた都市計画を実現させやすかったからだろう。また、岩盤が全体に固いために高層ビルを建てやすいという建築技術上のメリットがあるからかもしれない。
その裏側では開発が及んでいない地域がまだまだあることは事実だが、そういうところは逆に昔ながらの懐かしい通りが残されている。伝統や自然を活かした都市開発というようなことをあちらの人に話すと、「隣の芝生は青い」でなんでもよく見えると笑われた。そうかもしれない。が、私の眼には、韓国の人たちが少なくとも日本の戦後の経済開発を反面教師にしてきた部分があるのではないかと思われた。
ここでは居心地のよさの一端を書いておこう。まず、言うまでもないがその近さである。私が最初に韓国に行ったのはたしか1980年代初頭で下関から関釜フェリーに乗って一晩かかってプサン(釜山)に着いた。それが当時一番安く外国に行く方法だった。それが今は、LCCを使うと成田からテグまで2時間で、往復12,000円で行くことができる。今でも関釜フェリーがあるのかなと思ってHPをみると同じようにあるのだが、一番安い2等客室で片道9,000円ということだ。ホテル代が倹約できると思えば安くなるとも言えるが、実際は下関まで行くのがたいへんだ。青春18キップを使うにしても1日ではとてもいけずかなり高くつく。よほどの暇がないとこの方法は選べなくなっている。気軽に行けることは心理的負担を小さくする。
2番めに、自然との共生だ。上空から見た韓国の風景は都市部以外は緑の山が続く。それも日本と違って高い山がなく、だいたい数百メートルから 1000メートルちょっとの小さな三角錐の山々が延々と続きそれが国土のかなりの割合を占めている。日本は平地だけでなく山に開発の手が延び、山が切り崩され、そこに団地が形成されたり、ゴルフ場になったりしているが、上空から見る限りあまりそうした開発の跡が見られない。もちろん、林業的な開発はあるのだろうが、きちんと植林をすることできれいな緑を保っているように見えた。
大学のキャンパス計画も実に上手に山裾の立地を利用している。私が行ったテグの大学は韓国で一番キャンパス面積が広くかつ美しい(と当の大学の人が言っていた)ところだったが、本当に山にかかる部分の広大な敷地の凹凸をうまく活かして植生と建物を配置していた。これは、全州の大学も同様であった。日本の、とくに首都圏の大学が郊外にいったん移転しながら都心回帰現象がはっきりしているのにたいして、あちらは大学の本来の教育研究機能を実現するための環境整備をうまくマネジメントに取り入れているように思われた。
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3番目に都市景観だ。都市部は都市計画が進み、超高層ビルやタワーマンションが林立していてきれいに見える。これは地方都市でもそうだ。おそらくは日本と比べると遅済成長の時期が遅かった分、近代化のスピードが速く、最新技術を反映させた都市計画を実現させやすかったからだろう。また、岩盤が全体に固いために高層ビルを建てやすいという建築技術上のメリットがあるからかもしれない。
その裏側では開発が及んでいない地域がまだまだあることは事実だが、そういうところは逆に昔ながらの懐かしい通りが残されている。伝統や自然を活かした都市開発というようなことをあちらの人に話すと、「隣の芝生は青い」でなんでもよく見えると笑われた。そうかもしれない。が、私の眼には、韓国の人たちが少なくとも日本の戦後の経済開発を反面教師にしてきた部分があるのではないかと思われた。
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