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2023-01-20

学校図書館関係論文の公表(7月4日追記)

ここ数年で学校図書館の研究を進めた。基本的には歴史研究であるが、それはある意味で前からやっている「アーカイブの思想」のケーススタディという性格をもっている。学校のなかで一定の人的配置と予算措置が行われない、つまり、日本の教育において学校図書館に対する期待はそれほど強くはないのはなぜなのかというのは多くの関係者がもっている基本的な疑問である。その疑問に正面から答えてみたいというのがこの研究の最終目標である。やってみて今のところ全体の7割くらいのところまで来ているという感触だ。『教育改革のための学校図書館』(東京大学出版会, 2019)以降に書いた学校図書館関係論文を紹介しながら、どの地点に立っているのかを示してみたい。

根本彰「戦後学校図書館政策のマクロ分析」『日本図書館情報学会誌』VOL.68, NO.2, June 2022, p.112-128.

根本彰「戦後新教育における初期図書館教育モデル」Library and Information Science, No.88, 2022.12, p.25-47.

根本彰「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74, no.5, 2023.01,p.252-264.

根本彰「戦後新教育おける図書館教育の実態:甲府市立南中学校の事例)」『山梨英和大学紀要』No.20, 2023,03,p.37-52.

これらの論文のうち、①は1年のエンバーゴ期間があったが、2023年7月から公開されている。②は完全オンラインジャーナルでオープン化されていない。学会から著者最終版の公開が許諾されたのでそれを提示する。③は日図研から同誌の公開版ファイルが提供されている。図書館情報学の代表的な査読誌のオープンデータ化の対応が三者三様なのはおもしろいが、まだまだ過渡期であることを示しているのだろう。

2023年3月30日に④を示した。こちらも一応「査読付き論文」とされている。完全オンラインでJ-Stageにも掲載されている。

「戦後学校図書館政策のマクロ分析」『日本図書館情報学会誌』vol.68, no.2, June 2022, p.112-128.

【抄録】戦後の学校図書館政策に関する議論の変遷と展開を公共政策論的なマクロ分析によって明らかにした。方法としてジョン・キングダンの「政策の窓」モデルを用いて,1. 戦後教育改革期(1947-1958),2. 日本型教育システム期(1958-1987),3 . 21 世紀型教育改革期(1987- 現在)の 3 つの時期について,学校図書館政策の議論の流れ,政策の流れ,政治の流れを検討した。その結果,各期で政策の流れが中心にあることが認められ,政策で不十分なところが議論の対象とされそれが政治的なアジェンダと一致したときに立法化の動きに結びついたことを確認した。第一期には学校施設整備,第三期には言語力・読書力の向上が政治的アジェンダになり立法化まで進んだが,第二期においては政治的な議論の対立があって立法化できなかった。最後に,次のアジェンダ設定のためには,地域社会における探究カリキュラムと方法に関わる理論的研究が必要なことを述べた。

【解説】全国SLAの『学校図書館五〇年史』や多くの人によって個別に行われている研究を再度見直したメタアナリシス的な歴史研究である。キングダンの「政策の窓」モデルというのは、要するに政策が法や制度として確立されるまでには、議論や政策実行、政治的働きかけがあり、それらがうまく噛み合ったときに制度化が可能になるというものである。学校図書館政策においてこれが可能になったのは1953年の学校図書館法成立と1997年、2014年の学校図書館法改正の3回しかないが、1997年、2014年は一連の流れとみることができるので実質的に2回しかない。

1953年の法成立は、占領軍からの指示で文部省が(しぶしぶ)動き始め、担当官深川恒喜や全国SLAの中心になった松尾彌太郎の尽力で学校図書館が新教育の重要な要素になるとの議論の盛り上がりがあり、それが100万人の署名活動を経て超党派の議員の支持で立法化が可能になった。ただ、このときの議論は戦後間もない時期に学校の校舎も施設も教材教具も不足していたときに、それを国が支援してくれるという点にあった。読書のための「設備」としての学校図書館は現在も変わらないがこの時点で確定している。

1997年、2014年の改正は、子ども読書推進の旗印の下に児童書出版社、児童作家を中心に出版関係者が政治家を動かして成立したものである。このときの論点は言語力や読書力の向上ということであり、背景にはPISAにおける読解力低下があった。これによって読書センターとしての学校図書館の位置づけは確定したと言えるが、それ以上のものではない。むしろ司書教諭は後景に退き、非正規を中心とする学校司書が前景化した。

現在、学校図書館関係者には、探究学習を実行する拠点としての学習センターとしての学校図書館やGIGAスクールを支援する情報センターとしての学校図書館の位置づけを望む声が強いが、これらを可能にするためには別のプロセスとして、議論、政策、政治の流れをつくっていく必要があるということになる。

「戦後新教育における初期図書館教育モデル」Library and Information Science, no.88, 2022.12, p.25-47.(著者最終版)

【抄録】[目的]学校図書館が読書や図書館利用指導の場であることを超えて,教育課程に全面的に関わる可 能性を追究することが求められている。本研究は,戦後初期の教育改革において,学校図書館を教育 課程に位置付けるために「図書館教育」が提唱され実施されようとした事例を分析して,学校図書館 に関わるカリキュラムモデルが形成されようとしていたことを検討する。
[方法]文部省『学校図書館の手引』(1948)刊行から『学校図書館運営の手びき』(1959)が刊行さ れるまでの期間において,文部省,実験学校,雑誌『図書教育』,図書館教育研究会などの議論や実 践報告において図書館教育がどのようにとらえられたのかについて,文献研究を行う。
[結果]『学校図書館の手引』に「図書および図書館利用法の指導」として示されたものは東京学芸大学第一師範学校男子部附属小学校での実践的検討により『小学校の図書館教育』(1949)として具体化された。これは図書館教育研究会による『図書館教育』(1952)に引き継がれ,読書指導と図書および図書館利用指導をつなぐ図書館教育モデルとして提示された。同時に各地の学校で『学校図書館の手引』を元にした実践が行われ,雑誌『図書教育』上での議論でこれが検証されようとしていた。 主唱者東京学芸大学教授阪本一郎は,アメリカから来た図書及び図書館利用法の考え方に心理学的な 発達理論を加えて図書館教育を構築したが,1951 年の講和条約締結後にはそれらを分離して読書指導が教育課程に適するものとした。国の教育課程が系統主義に転換するなかで,1953 年学校図書館法で成立した司書教諭が教員の充て職となり,学校図書館は読書の場とされた。最終的に『学校図書館運営の手びき』に示された図書館教育モデルは学校現場の状況に合わないものだった。

【解説】探究学習を支える学習センターとしての学校図書館の可能性をどのように考えるかについて、戦後新教育で「図書館教育」というカリキュラムモデルが検討され実施されたことを取り上げ、現在の問題にどのように引き継げるかを検討する手がかりにしようとした。

戦後新教育の最初の文部省の学習指導要領は(試行)とされて、実質的には各教育委員会や学校に委ねられた形をとった。それで文部省はアメリカの教育関係者の支援を得ながら、アメリカの学校で行われているカリキュラムや教育方法を日本に移そうとした。そのときに、コア・カリキュラムや単元という考え方が導入された。コア・カリキュラムは教員の教育運動としてさまざまなプランが提案されて実施され大きな影響力をもった。図書館教育はこの時期に導入されたものの一つであり、東京学芸大学附属小学校(世田谷校)が実験学校となって、阪本一郎を中心に検討が行われ、彼によって読書指導や子どもの心理的発達過程を含めた図書館教育として提案された。

その後、図書館教育は教員の研究グループで継続して検討されたし、いくつかの雑誌の誌上で議論の対象になった。県によっては教育委員会が積極的に図書館教育を振興するための実験学校を設けて推進しようとしもした。しかしながら、1953年学校図書館法は司書教諭を当分の間置かないことができるとし、図書館教育は占領終了後の文部省の教育課程や教員養成制度に組み込まれることはなかった。その頃から系統主義カリキュラムに切り替える動きが急になることにより、カリキュラム運動としての図書館教育は読書指導と図書及び図書館利用法に分離され、後者のみを図書館教育とする見方が中心になった。

「文部省実験学校における図書館教育」『図書館界』vol.74, no.5, 2023.01,p.252-264.(日図研提供版)

【抄録】戦後教育改革において,文部省は学校図書館を教育課程に組み込む実験学校の指定を行った。東京学芸大学附属小学校(世田谷校)が最初の図書館教育モデルを提示したことを確認した上で,東京都港区立氷川小学校,川崎市立富士見中学校,栃木県立栃木女子高等学校の3校の実験内容を検討した。その結果,図書館教育自体の困難さに引き換え短期間で成果を挙げることが要請されたこと,校種によって教育課程において生じている事情があったことや学校図書館専属の教職員が置けなかったことなどの理由で,図書館教育を継続させることは困難であったことを明らかにした。

【解説】1950年前後の文部省内部での検討では、学校図書館を教育課程に組み込むことの是非を見極めようとしていて、そのなかには司書教諭を専任化して教科教員とともに養成するプランも含まれていた(これはフランスで行われている司書教諭養成と同じ)。それは、「幻の学校図書館法案」と言われる1953年3月国会提出法案に残されている(拙著『教育改革のための学校図書館』第2章)同じ頃に、文部省が3つの公立学校を対象にして、学校図書館に関する研究を行う実験学校を指定した。この論文ではこれらの学校が発表した資料を基にして図書館教育を各校ともどのように実施していたか解明しようとした。

このなかで、氷川小学校では専任の司書教諭を配置するなど条件が整っていたが、校長の異動やカリキュラム変更などでうまくいかなかったし、富士見中学校ではカリキュラムの検討を行い教科教育と組み合わせた図書館教育を積極的に位置付けようとの検討は行われたが、その実験期間のみの試行に終わった。学校図書館法成立前までは各校とも真剣に図書館教育をカリキュラムに組み込むための検討を行っていたが、その後は専任の担当者を置けなかったりして、図書館教育はうまくいっていない実態が明らかになった。やはり短期的な準備で導入するには、図書館教育は日本の学校教育カリキュラムとの隔たりは大きかったことが分かる。


【要旨】戦後占領期に,連合国軍総司令部の指示により,教育改革の一環として学校図書館を設置して教育課程を支援する取り組み(図書館教育)が試行された。本稿では全国の教育委員会に先駆けて 山梨県教育委員会が 1949 年から実施した実験学校プログラム参加校のうちで,甲府市立南中学校 が4年間実施した事例を同校報告書に基づいて検討する。初年度に文部省資料と先行事例を参考 にしながら図書館指導を織り込む計画を立て,これを2年目にはリーディングガイダンスと名付 けて実施しようとした。しかし3年目には生徒指導を中心とするガイダンスと名称を変え,4年 目には事実上図書館教育の実施はうまくいかなかったと報告した。うまくいかなかった理由として,発足したばかりの新制中学校における生徒指導など,より困難な問題への対応を優先したこと,教員全体が合意して取り組んだものではなくまた実施するための専任職員が配置されたわけではなかったことがあった。

【解説】ここ3年ばかり山梨英和大学で夏の集中講義を行っている。一昨年度、昨年度はちょうどコロナ禍でオンライン授業だったが、今年度初めて現地甲府市での授業となった。前から図書館教育の実験学校のなかに山梨県の学校が多いことに気づいていたので、この際に現地調査をしてみようと当該学校や教育センターに問い合わせてみたが手応えがない。そこで何か手がかりがないかと、山梨県立図書館にレファレンスをお願いした。そうしたら、甲府市立南中学校が1949年から4年間続けた図書館教育の実験学校プロジェクトの経過を示す地域資料がここに入っているとの答えだった。授業の合間に図書館に通って集めた資料で書いたのがこの論文である。せっかくの機会なのでこの大学の紀要に投稿してみた。ちょうど、創立20周年記念号ということだ。

甲府南中学校は県教育委員会の実験学校として学校図書館のプロジェクトに手を挙げた。新制中学校はできたばかりで、施設・設備は不足しており、文部省が力を入れようとしている学校図書館に関わることで展望が開けるとの期待があったと思われる。しかしながら、資料を読むと、カリキュラムを進める4年間に教員が対処しなければならない現実的な問題が大きくなり、図書館教育を進めることができなくっていった事情が生々しく語られていることが分かる。前の論文で扱った川崎市立富士見中学校のケースも同様であるのだろうが、新制中学校が教科カリキュラムや生徒指導への対応で精一杯であり、図書館教育のような異質の教育方法を十分に検討する余裕がなかったものと思われる。戦後の学校図書館運動がうまくいかなかった理由の一端を明らかにできた。


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