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2025-12-29

「不思議の国のアリス」のオープン翻訳を比較する

はじめに

年末にお遊びでオープン化されている翻訳テキストを比較してみた。取り上げたのは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)である。この世界的に有名なお話しの由来や評価については多く書かれていて、Wikipedia日本語版にも適切な記述がある。キャロルは本名チャールズ・ラトウィッジ・ドドソンというオクスフォードの数学者のペンネームで、お話しは知人の娘に語ったものを基にしている。そこには、ビクトリア調の気難しい教訓的なものとは異なった奇抜な発想と諧謔味、そしてふんだんに言葉遊びが散りばめられている。

この言葉遊びは翻訳者にとっては困難な壁であるが、別の見方をすれば腕の見せどころということができるだろう。Wikipedia には1998年段階で、続編『鏡の国のアリス』を含めたアリスのシリーズの日本語訳が150種類あるとされている。改めてNDLサーチのタイトル検索で「不思議の国のアリス」を引くと237点あることがわかった。このなかには同じ訳の出版社や形態を変えた別ヴァージョンや絵本、翻案、対訳版、コミック版なども含む。また、これに含まれない(つまり納本されていない)オープンデータの翻訳もある。ここでは、NDLデジタルコレクションと青空文庫などにあるオープンデータ版の『不思議の国のアリス』から、ネズミの長い尻尾を見てアリスが思いついた話しが語られるシーンを見てみよう。

原著

このシーンは、アリスが白ウサギを追いかけて穴に落ちてから、自分が流した涙の池に落ち、衣服を乾かすために徒競走をした後に出会ったネズミと話しをしているところである。最初の頃の1869年マクミラン社バージョンでは次のようになっている。

https://dbooks.bodleian.ox.ac.uk/books/PDFs/590306858.pdf

オクスフォード大学ボードリアン図書館のコレクションでGoogle Booksのスキャンによるものである。




翻訳書

ネズミが「長くて悲しい話し(a long and sad tale)」と言うと、それをアリスは「長い尻尾(tail)」と聞いてなぜそれが悲しいんだろうと考え始める。その後浮かんだ「悲しい尻尾」の話しが描かれる。これを9人の訳者が訳したものを見ておきたい。古い順から行く。

1910 丸山英観訳


愛ちやんの夢物語
内外出版協會
1910(明治43)年2月1日
訳者 丸山英観

丸山英観(まるやま えいかん、1885-1956)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の作家・翻訳家で、特にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の初期の翻訳で知られる。主人公がアリスではなくて「愛ちやんの夢物語」としている。当時は縦書きがふつうだったので縦組みに活字を組んで表現している。原文の最初が"Fury"となっている。これを他は「(獰猛な)犬」としているのは、途中にcurという単語でこれが何であるか推測できるからである。この訳では「福公」としていて中立的にしている。


2. 1927 菊池寛, 芥川竜之介 訳


菊池寛, 芥川竜之介 訳 ほか『アリス物語』,興文社,昭和2. 
菊池寛, 芥川竜之介 訳
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1717293 

芥川龍之介の自殺後の遺構に盟友菊池寛が手を入れて発表したものとされる。ここでは"Let us both go to law"を「裁判遊び」としているところが興味深い。本気ではなくて「ごっこ」であるというニュアンスを入れて和らげている。


1929 長沢才助訳


リユイス・カロル 著 ほか『不思議の国のアリス』,外語研究社,昭和9. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1216310
長沢才助,訳

長沢才助(1899-1953)日吉早苗名義での訳書に『機械の舞踏』(昭和6年/1931年)などがある一方、戦前からユーモア小説・少年少女向け小説を数多く書く。「悲しき神々」で 第23回直木賞(昭和25年/1950年上期)候補に上がる。本書は原文と翻訳が見開き左右で対照されている英語学習書であり、また、「不思議の国のアリス」というタイトルは本書が最初のものとされている。http://www.hp-alice.com/lcj/zatugaku/fushiginokuni.html
横書きなので、原著に近い活字組が可能になっているし、訳もリズムあって読みやすい。


1952 岩崎民平訳
ルーイス・キャロル 著 ほか『不思議の国のアリス』,角川書店,1952. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1674859 
岩崎民平訳

岩崎民平(1892-1971)は英語辞書編纂で知られる英語学者。多数の翻訳や英語学習書でも知られる。この訳は昭和4年から10年にかけて研究社から『不思議國のアリス』として出ていた対訳本から翻訳だけを取り出して戦後出版したもの。菊地・芥川訳が「裁判遊び」としていたところを直截的に「警察に来ねえ」としている。


1953 楠山正雄訳

ルイス・キャロル 著 ほか『不思議の国のアリス』,創元社,1953. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1660201
楠山,正雄訳
楠山正雄(1884-1950)は、演劇論を中心とする近代文学論を書いたが、鈴木三重吉が立ち上げた『赤い鳥』にも参与し、日本をはじめ様々な国の童話の邦訳・再話作品を発表した。訳は語りのリズムが心地よい。


1980 石川,澄子訳

ルイス・キャロル 著 ほか『不思議の国のアリス』,東京図書,1980.4. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12584152
石川,澄子訳

石川澄子は児童文学翻訳者で「赤毛のアン」シリーズや「マザーグース」「魔法使いのオズ」などの訳業もある。この訳は、語り部的な話術が前面に出ている。Furyを「家主のフュウリー」としているのもおもしろい。先程の「福公」もそうだが、英語圏でも子どもにfuryの意味はすぐにわからないのではないか。


1982 福島正実訳


ルイス・キャロル 作 ほか『不思議の国のアリス』,立風書房,1982.6. 
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12584254
福島正実訳

福島正実(1929-1976)はSF分野の編集者、作家、翻訳者として知られているが、積極的に児童文学の翻訳もおこなっている。訳の調子はストレートでわかりやすい。しかし、このレイアウトだとネズミの尻尾には見えない。


1999 山形浩生訳

© 1999 山形浩生
プロジェクト杉田玄白 正式参加作品

山形浩生(1964-)は、ピケティ『21世紀の資本』の翻訳や『新教養主義宣言』の評論で知られる。原文に忠実だが、wasting our breathは言葉をやりとりするだけ無駄という意味では?


2015 大久保ゆう訳

作品名:アリスはふしぎの国で
訳者名:大久保 ゆう
初登録:2015-06-20

大久保ゆう(1982-)は、パブリックドメインになった文芸の訳を青空文庫を中心にオープン作品として提供しつづけている。一方、本名大久保友博名義で翻訳研究(Translation Studies)を進める。タイトルが「アリスはふしぎの国で」となっているのは、原著でAliceから始まるのを反映させているという。このあたりは、英語の主語と日本語の主語との違いという面倒な議論があるのかもしれない。「イカリ―のわんわん」で始まる訳も個性的だが、ちょっとやりすぎか。「イカリ―」はFuryなのだろうが、最初わからなかった。でも、最後の部分、「はんけつは出たぞ。言いわたす、お前は死刑。」はこの訳がいいように思われる。他の訳だと、犬の大家はネズミを警察か裁判所に連れて行くように読めるが、これだけがその場で裁いて死刑判決を出すことになっている。アリスはすぐさま悲しさにたどり着き、尻尾がだんだん細くなっていく。

まとめ

改めて、近代初期の日本の英語学ないし英文学のレベルの高さとそれ以前からあった日本語の表現の豊かさに驚かされた。ここにコピーした最初の丸山英観の訳(1910(明治43)年)は、原著からほぼ半世紀後に出たものである。日本での初訳は、須磨子(永代静雄)訳の『アリス物語』で、1908年(明治41年)から翌年にかけて『少女の友』誌に掲載されたものとされる。これは12回の連載で、最初の3回が『不思議の国のアリス』の大まかな訳、以降は須磨子の創作になっているということだ。そしてこれが出てからすぐに、丸山訳も含めてさまざまな訳ないし翻案ものが出たという。 その時点でこのような訳本が出版され、その後多数の翻訳が続いている。

翻訳とは、モンゴメリ著、大久保友博訳『翻訳論のダイナミクス:時代と文化を貫く知の運動』(白水社, 2016)が述べるように、単なる言葉の置き換えではなくて、概念と概念、言説と言説、そして、文化と文化の対応を包含するものである。ルイス・キャロルが活動した時代背景、社会構造、生い立ち、キャリア、言動と、翻訳者が生きた時代、社会、思想、行動との関係をすべて反映させて考察することが求められる。そんなことは至難なことではあるが、このように、オープン化されたドキュメントないしテキストとその背後のコンテキストがつかめればある程度の推測は可能である。

最後のセリフの話者を指すcunning old Furyをそれぞれがどう訳しているかを見てみよう。
        丸山英観 年をとってずるいヤマイヌ
菊池寛, 芥川竜之介 年をとったずるい犬
長沢才助訳 老獪至極ののら犬
岩崎民平訳 そこはぬからぬ野良犬どん
楠山正雄訳 年とってずるいヤマイヌ
石川澄子訳 したたかもののフュウリーが甘くみられてたまるかと
福島正実訳 ずる賢いのら犬
山形浩生訳 ずるい老犬
大久保ゆう訳 うらかく犬ころ
これは、アリスがネズミの言葉から抱くネズミと犬の想像上の会話の地の文にあたる。実際、物語はアリスが動物からトランプの王様までさまざまな異世界に住む登場者とのやりとりが中心になっていて、それぞれは生育や社会環境を反映しており、それは言葉遣いにも明確に現れる。アリスの語りということになるのだが、ずいぶんと下品な言葉遣いとなっていて、上流家庭育ちのアリスはcunningのような語は普段は使わない。

つまり、「動物との会話」という文脈において、「動物から連想されたやりとり」における「地の文」をどのように表現しているかを把握してどのように訳すかが、訳者に与えられた使命である。このなかでは、まず、長沢訳は漢語を使った講談調の硬い表現である。岩崎訳と石川訳は日本の民話や伝説の語り口をつかってユーモアを交えた表現を使っている。それ以外は、「ずるい」「ずる賢い」「ヤマイヌ」「(のら)犬(ころ)」という通常の(直訳的な)書き言葉表現になっている。別にどれがいいということではなくて、訳者の読みがそうしたものだということである。講談調や民話調はそれぞれの語りの調子が一定の音声的な枠組みを構成するが、それは理解を進めることにも妨げることにもなる。それ以外の書き言葉表現は取りようによっては突き放したように聞こえることも確かである。かつて「ヤマイヌ」はもとより「イヌ」もあまりよいイメージがついていなかった言葉であった(「幕府のイヌ」「野良犬」など)。

このブログを読み、またWikipediaを読んだ人は本書がそうしたことで理解しきれない複雑な文化構造的な位置づけにあったことに気づいただろう。少女にこのような異世界の住人との会話をさせるこの作品の明らかになっていなかった陰の部分も見えてくる。アリスは児童文学の古典とされ、絵本にも翻案されて、新しい絵が描かれて子どもたちにとっては何やら魅力的な世界を表現しているものとされる。しかしWikipediaにはキャロルが多数の少女を撮った写真を残していて、秘かに幼児性愛の指向性をもった人であったとの疑いは否定されていないことが述べられている。それは今となっては指弾される可能性もあるが、逆にその部分が本書に何らかの魅力を与えているのかもしれない。

また、このようにオープンデータ化された過去の書物が手に入ることによって、今までなかなか比較できなかったようなものが比較対照できるようになった。このことがもたらるものは大きい。青空文庫国会図書館デジタルコレクションに感謝したい。




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