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2025-09-25

図書館文学を振り返る—日比嘉高編『図書館情調』を読んで

私が編集責任者を務めた『図書館情報学事典』(丸善出版, 2023)は初学者や一般の人向けの項目として,図書館映画とか図書館文学に目配りをした。同書の第10部門第27項(10-27)の「図書館をテーマとする文学」では,ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』,スティーヴン・キング『図書館警察』,リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』,村上春樹『海辺のカフカ』,有川浩『図書館戦争』,門井慶喜『おさがしの本は』が紹介されている。いずれも,図書館というものがもつ何らかの性質の一つの側面を切り取ってそれをモチーフに展開をした作品であり,これらを横断的に批評すれば図書館文学批評とも呼べるような知的空間が浮かび上がるのではないかとも思われた。

この事典を企画していたときには気づかなかったのだが,日比嘉高編『図書館情調ーLibrary & Librarian』(皓星社, 2017)という「図書館文学」のアンソロジー集が出ている。図書館文学を集めるという試みは他には聞いたことがない。最近読んで事典編集時にこの本を知っていたらもう少し別のアプローチがあったかと思うのだが,日本人の図書館理解を解く鍵がここにもあるかもしれないと感じた。この本は全10巻の「紙礫」というテーマ別文学アンソロジーのシリーズの一冊である。他のテーマは,闇市,街娼,人魚,テロル,鰻というように,これまでの文学コレクションではテーマとして取り上げられにくいものといっしょに扱われている。これを読んで触発されたことについて,忘れないうちに書いておきたい。


図書館情調とはなにか

まず,図書館情調とは何だろうか。「情調」という言葉自体,今となってはあまり聞き慣れない。たとえば小学館『日本国語大辞典』には,「あるものに接したとき、そのものからにじみ出て、人をしみじみと感じさせるようなおもむき」という定義があり,用例として「*それから〔1909〕〈夏目漱石〉五「自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調(ジャウテウ)に居りたかった」」というのが載っている。「情緒」とも似ているが,情調は「調べ」を含むように,感性をもって包み込むニュアンスがより強い。図書館情調とは,図書館がそれ自体が場でもあるので,そこに居る人々が建物や内装,利用者や図書館員から受け取る感覚や趣きと理解すべきなのだろう。

書名の「図書館情調」は,アンソロジーの冒頭にある萩原朔太郎の同名の短文から取られている。このなかで朔太郎は,独逸式の図書館が世界の思想,科学,哲学,芸術が納められた権威主義的で重々しい場だが,同時に崇高さを感じさせるものである一方で,米国式の図書館は全景がからりと晴れて明るい日光が差しこみ,手頃な小説本や気の利いて面白い「愉快な娯楽」を感じさせるような場であると述べる。一見,ドイツとアメリカの図書館を対比しているように見えるが実はそうとばかりも言えない。両者においてそれぞれの人々は「彼らの環境と彼らの気分との溶けあった満足を味わっている」としているのに対し,日本の図書館は独逸式図書館を模倣して設計されたが「重鬱で陰気くさいというだけであって,肝心の精神を高翔させる気分がない」というように、批判的に扱われている。西洋がモデルになった日本の近代化というテーマの一部がはっきりと顔を見せている。

現在,図書館が出てくる文学としてよく取り上げられる作品に,村上春樹『ノルウェーの森』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や,有川浩『図書館戦争』がある。村上作品だと,分断された自己意識に何らかの意味を与えるための場として図書館が存在している。描かれる図書館は現実のものではなく,ある種のメタファーである。『図書館戦争』であれば,図書館の自由を守るために武器を取るという行為が強調され一人歩きしているエンターテイメントとして描かれる。これらは朔太郎の描く過去の図書館の情調とは異なっている。メタファーとしても現実の延長としても,ネガティブに描かれてはいない。それだけ図書館が変化したことは確かだろう。だが,それらに精神の高翔が感じられるかと言えばそれは違うだろう。朔太郎の時代に作家が図書館に抱いた本来的なイメージと,現代において作家が図書館に重ね合わせるものとは異なっている。それは何だろうか。

リアルな図書館の描かれ方

本書『図書館情調』で取り上げられる文学作品は大きく「第1部 図書館を使う」「第2部 図書館で働く」「第3部 図書館幻想」に分かれる。このうち第1部と第2部の作品の多くは戦前から戦後間もない時期にかけて発表されたものであり,そこで描かれる上野や日比谷の図書館やそこで働く図書館員は暗く,また貧しい。多くの場合,エリート予備軍たる作家志望者から見て,陰惨でつっけんどんで居心地の悪い場所というのが図書館の描かれ方であった。

菊池寛の「出世」は,自らの若い頃の勉学の思い出を重ね合わせて書いた小編で,彼が中学校を卒業後,上京してから学校以外の勉学の場として図書館があったとして,上野図書館(帝国図書館)以外に日比谷図書館,三田の書庫(慶應義塾図書館)が出てくる。とくに大学を卒業してから職にありつくまでの半年間を「図書館で暮らした」。「その時代の図書館通いは,彼に取っては一番みじめなことだった。」としている。タイトルの「出世」は,そうした図書館通いのあと数年して,上野図書館に行ってみたら,かつて通っていた時代に諍いを起こしたりして顔を見知った下足番の男が,閲覧券売り場の業務をしていることを知り,彼も「出世」したのだと思ったというたわいもない話しである。ここには,彼自身の職がなかった時代の惨めさを下足番の仕事に重ね合わせてとらえ,その後職を得た自分と「出世」したその男の運命を対応させて喜んでいる。

図書館はその存在自体が社会の進展から取り残された苦学生のたまり場のような場所として描かれていたわけだが,ここには宮本百合子が「図書館」で戦争が終わってから同じ上野図書館を回想するのとも共通するテーマがある。閲覧室に来ている利用者はいずれも無表情で何かを読んでいるが,それは新しい時代に向けての準備の行為であることを示唆している。また,かつての婦人閲覧室が利用者どおしが互いに情報交換するような場としてあったことにも触れている。

これは竹内正一の「世界地図を借る男」に出てくる,毎日世界地図を借りて何かを書いているルンペンのような利用者の男の描き方ともつながる。著者は満州のハルピンの満鉄図書館の館長を務めた人であり,近代的図書館の職員から見た利用者像を示している。この小品でも最後は利用者の男は別の職場で働いていることが明かされて終わるのだが,世界地図を見る男が,朔太郎が言及した精神の高翔に近い位置に居たことが示唆されるのは,この図書館が新開地満州にあったことと関係しているのかもしれない。

「図書館の秋」を書いた小林宏は,栃木県立図書館の司書をしながら日仏図書館学会にかかわり,「文庫クセジュ」のアンドレ・マソン, ポール・サルヴァン著 『図書館』(白水社, 1969)の翻訳をした人として記憶される。彼は1964年にパリに渡り,フランス国立図書館(現リシュリュー館)にあった国立高等図書館学校で研修を受けた。小林は朔太郎的意味での西洋文明における図書館の位置付けを体感する立場にあったはずだが,ここで描かれるフランスの大図書館もまた上野の帝国図書館と似て,無機質な書物の蓄積の場でしかなく,精神の高翔はむしろ,11月の暗いパリの街で,花売り娘から赤い薔薇を買ったことや同じクラスに出席する学生たちと一緒にモンパルナスの劇場で観劇し,その薔薇の花束を女優に渡したことなどからくる。昭和戦前期の知識人予備軍はそうした西洋人たちとのやりとりから隔てられ,かろうじて図書館はそうしたつながりをかろじて感じられる書物の拠点であったのだが,戦後間もない時期にはそれは払拭されていないことを思わせる記述であった。

中野重治「司書の死」のフィクションとノンフィクション

全体に図書館員の描き方は暗いのだが,その暗さは次の何ものかに飛翔するための準備という意味合いがあった。その典型は中野重治「司書の死」である。これが他のものより図書館員に知られているのは,実在の図書館員をモデルにしているからである。その人は戦前に帝国図書館に勤め,占領期に文部省図書館職員養成所の初代所長になった舟木重彦(小説のなかでは高木武夫となっている)である。この小説で中野と舟木は旧制高校から東京帝国大学文学部独逸文学科まで同級の仲間であり,ここに語られていることは他の関係者によっても検証されだいたいにおいて正しいということになっている。友の死を悼んでこれを書いたことは確かだろうが,彼の図書館員観は次のようなものである。

大人しい人々,反抗的でない人々,善良でどこかで人間の良さを信じている人々,しかし,消極的なところのある人々,こういう人々が図書館にいるらしかった。考えてみると,高木武夫がその一人でなくはなかった。

これが,中野のような日本共産党(と国際共産主義運動)との確執を武器にしながら文学や政治評論を打ち立てようとした人の口から発せられると,話半分に聞いた方がいいのかもしれない。

だが,一般に図書館員がこのようなステレオタイプで見られるのは別に日本に限らず世界的にある現象だろう。それはおそらくは,図書館員の仕事が外からは理解できない仕組みによって構成されていることが大きい。知識人なら自分の蔵書を自分勝手に置いてそれが一番使い勝手がよいとするのに,なぜ図書館はわざわざ本を分散配置させて,分類や目録によってアクセスするように仕向けるのか。その仕組みの担い手の中心は女性であり,そのジェンダー偏差は図書館のイメージづくりに負の作用をもたらした。メルヴィル・デューイがコロンビア大学に図書館員養成の学校をつくったときの構想が,働く(中産階級の)女性の(あり得べき)適性に合わせた職をつくったことにあり,それが世界中に広まったことと関係がある。これについては,20世紀後半のフェミニズム的視点による研究から厳しい批判を浴びた。(注1)

中野は,高木の叔父から,高木がアメリカに特別の使命を帯びて派遣され数ヶ月の滞在ののち,急に帰国することになり,帰りの船で発病して横浜に到着後まもなく亡くなくなったことを知らされたとする。この小説は中野と高木の生前の交流と亡くなった経緯を記述したものであるが,最後に次のように書いている。子供に甘かったマルクスが,二人の娘から好きな仕事は何かと問われて,「本食い虫になることだ」と答えた。

おれも本食い虫になるのが好きだ。[マルクスとは]比べものにならぬが。しかし,それは,質朴,強さ,たたかうこと,ひたむきに結びついていなければならないだろう。司書も図書館員も,これからは一しょに大ごとというわけだろう。これを書いて,司書高木武夫のためにおれは祈ろう。

この文章が『新日本文学』に掲載されたのは1954年8月である。高木の死が朝鮮戦争が勃発した1950年6月のこととし,この後にイデオロギー闘争が始まることを示唆して,このような文章にしたのは中野のフィクションである。実際には舟木は1950年11月にアメリカに発って1951年3月に帰国し,瀕死の状態で横浜港に着きまもなく亡くなった。中野が描きたかった「大人しい」司書ですら急遽帰国して闘おうとした(はず)としたことについて多言は要すまい。

もう一点,マルクスが本の虫だったというのは,彼が大英博物館の閲覧室に籠もって資本論を書いた事実に基づく。この図書館は,大英帝国および資本主義的経済体制についての資料を惜しげもなくすべての人にオープンにした場所であった。そこから資本主義を根底的に批判する書物が書かれたことは皮肉なようにも思えるが,西洋のアーカイブ思想はそうした自らの基盤を見直すようなものを含んでいるから,それは意外でも何でもない。中野がマルクスと「くらべものにならないが」と言っているのは,自らの態度のことだけでなく,日本の図書館にはそれだけの思想もその結果としての蓄積も持ち得ていないことも指しているものと思われる。

戦後の転換点

これが書かれた時期は日本の図書館界にとっても大きな転換点であった。占領軍の指示により,1948年に国立国会図書館法が制定され,1950年に図書館法,1953年に学校図書館法が成立した。そこには,広義の教育改革としての図書館整備という課題があった。舟木が所長になった図書館職員養成所は,慶應義塾大学に設置されたジャパンライブラリースクール(JLS)とならび,戦後の図書館員養成の強化を担うプロジェクトの一環にあった。慶應とともにJLS設置の候補だった東京大学に,文部省の肝いりで秘かに図書館職員養成所を移すプランがあり,その教官候補として舟木が呼び戻されたことについて,複数の先輩たちの口から伺ったことがある。(注2)

朔太郎あるいは同時代の作家が描いたネガティブな図書館のイメージは,戦後,占領政策に位置付けられることで変化を遂げようとした。そのことについても,ここでは述べない。ひとまずは以前に書いた論文を参照されたい。次に(2)で述べようとするのは,そうした現実の図書館とは別の系譜のファンタジー系図書館である。

メタファーとしての図書館

『図書館情報学事典』には別に「10-25 メタファーとしての図書館」という項目もあって,そこでは,ボルヘス「バベルの図書館」(『伝奇集』),フーコー「幻想の図書館」「ヘテロトピア」,ベンヤミン「蔵書の荷解きをする」,エーコの「迷宮としての図書館」(『薔薇の名前』)について触れられている。これらは現代における代表的な図書館批評であるが,いずれも現実の図書館というよりは,知の蓄積の場としての図書館の表象的作用が扱われる。図書館の書物や雑誌は文や言葉から成り立っている。それらはそれ自体が書き手の表象であり,読み手はそれを受け取るが一致するとは限らない。機能主義的に見れば知識の伝達ととらえることができる。図書館情報学はその伝達を効果的にする機能主義を追求するものであったが,この作用を文学,思想,社会学,歴史学などさまざまな視点から描くこともできる。挙げられた作品は言語論的転回以降のポストモダン的な立場から書物およびその蓄積の作用を描き出そうとしたものである。

私は事典のこの項目を清水学さんに依頼しておきながら,うかつにも自分でも書いていた。それを転載したのが,当ブログの「2021-09-16 メタファーとしての図書館」である。取り上げた作品は清水さんのものと半分くらい重なっているが,前半で,Human libraryやSeed libraryなど,図書館的手法を取り入れた実際の活動を紹介し,組織における図書館の位置づけを人体や生体の「心臓」とか「尻尾」に喩えるような表現について触れ,また,最後に,宮崎駿の長編コミック「風の谷のナウシカ」(アニメ版とは別物)のラストでAI的な「シュワの墓所」の存在を否定する表現があったことに触れた。文学や思想の立場からは,図書館を知を包含したメディアが蓄積された場としてとらえ,その蓄積が物理的な関係を超えて何らかのシンボリックな相互作用を起こしている様を描くことが多い。

近代文学の図書館ファンタジー

『図書館情調』第3部に収録された宮澤賢治の「図書館幻想」は,「俺」が10階まで上ってようやく「ダルゲ」に会うシーンを切り取った短い文章である。タイトルに図書館とあるから,上ったのは図書館なのだろう。

その天井の高い部屋で会ったダルゲは「灰色で腰には硝子の簔を厚くまとってゐた。」ダルゲは「俄につめたいすきとほった声で」「西ぞらの ちゞれ羊から おれの崇敬は照り返され (天の海と窓の日覆ひ。) おれの崇敬は照り返され」(スペースは改行)と歌う。「おれは空の向ふにある氷河の棒をおもってゐた。」ダルゲはじっと額に手をかざしたまま動かず,おれは叫んだ。「白堊系の砂岩の斜層理について。」ダルゲは振り向いて冷やかに笑った。

ほとんど全文に近い引用である。ダルゲが何であり,ダルゲに何のために会いに来たのか,ダルゲの歌は何を意味するのか,そしてそれに対して「おれ」が叫んだことは何なのか。これだけでは分からないし,なぜ図書館の場が選ばれているのかも不明である。ただし賢治の没後発見された資料をもとに著作集が出されているのだが,中島京子『夢見る帝国図書館』に,この文章を読み解くヒントとして別の断片(「東京ノート」)があることが出てくる。そこでは,「ダルケ」とされ,おそらくは盛岡高等農林時代の同窓で生涯の心の友であった(中島の著書では名前が出てこないが保阪嘉内であることが分かっている)。賢治は彼に憧れたがすれ違うことも多く,そのあたりがこの文章に表現されている。中島は,「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラとの関係になぞらえて二人の関係を語った。それらを改めて読むと,「図書館幻想」でダルゲが歌った詩に対して,おれは「氷河の棒」(氷河の堆積物を調べるために突き刺す棒)や「砂岩の斜層理」という科学用語で答えるすれ違いが認められる。こうした関係を描写する場として,図書館が選ばれたのだ。賢治にとっては博物館の方がふさわしかったのかもしれないが。。。

『図書館情調』第1部には中島敦の「文字禍」が含まれる。古代ニネヴェのアッシュールバニパル王の文庫で粘土板に書かれた文字の霊が夜な夜な騒ぎ出すという話しである。最終的には文庫管理者の博士は自家の文庫の粘土板の下敷きになって死んでしまうことになる。粘土板という書物形態はもっとも原初的な物理的メディアであるが,そこに書きつけられた文字たちが蠢くというのは今のネットメディアにもそのまま当てはまりそうな警句を含むものである。一節を引用しておこう。

獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くくなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。

 

中島のこの物語は, ボルヘスの「バベルの図書館」と並ぶ図書館メタファーの傑作だろう。ただし,「文字」と「図書館」の関係については注意を要する。中島が文字と呼ぶものは今の引用にあったように漢字として表現している。彼は「山月記」や「李陵」のように中国の古典を題材に文学活動をしてきた人であったが,この物語では古代メソポタミアの楔形文字を取り上げている。漢字は音節と意味の対応をもつ表語文字であるが,初期の楔形文字も同様の性質をもつとされている。つまり,一つ一つの文字が何らかの概念を表すことが,この物語の基本的な特性を示している。逆に言えば,アルファベットのような表音文字をもつ文明だとこのような物語にはしにくい。蠢くのは文字ではなく「語」ということになる。バベルの図書館は書物自体が多言語で無数の異版をもったかたちで存在していて,決して文字に分解されるものではない。

このような中島の想像力の先に,野生の図書館を描く作家が現れるのは当然のことだろう。20世紀後半以降,日本でも「市民の図書館」が現れる。作家はかつてなら本は買って読むものだといい,自らが図書館の利用者であったことにはあまり触れたがらなかったが,今は図書館も日常化し,作家も利用していることを隠さない。また,自分の本が書店で購入されるのと並んで図書館で借りられることについても率直に吐露する。そういうなかで,図書館に対する作家の想像力は,図書館に納められている書物それ自体が,書いた人のメッセージを超えてみずからを主張し,動きだし,他の書物とともに活動をし始めるものとして展開する。本書に納められた笙野頼子「S倉極楽図書館」は動物の図書館,三崎亜記「図書館」は野生の書物と人間との関係の場として描かれる。

「図書館情調」再考

本書は編者のしっかりした解説がつけられていて,周りが何か付け加えられることはあまりない。図書館が文学批評の一つのジャンルとしてありうることを知っただけでもこれを読んだかいがある。その上で,図書館情報学研究者として付け加えることがあるとすれば,それは西洋の図書館と日本の図書館のギャップというもともとの問題そのものに関することである。

図書館はフーコーが言うところのディスクールを扱うメタディスクールである。そして西洋と日本の図書館の違いを問うことはメタディスクールの在り方そのものを問題にすることである。前半に述べたように,戦前の萩原朔太郎や菊池寛のような文学者はその修業時代に,図書館に西洋文化の香りを嗅ぎつつもそれが制限的にしか得られないことへの不満を自らの生活に重ねて嘆き,図書館を貧しい場として描いた。中野重治のような政治運動の手段として文学をとらえる人は,「大人しい図書館員」に戦後のイデオロギー闘争における行動の場への期待を見たが,それは大いなる錯誤であった。その後の高度経済成長期にフランスに留学した小林宏のように,フランス国立図書館という西洋図書館の根幹部分に近づいた人も,翻訳はしてもその本質の部分の把握を避けざるをえず,精神を飛翔させるのは花束だったり友人との交流だった。そのあたりを精算できるようになったのは,20世紀末になって東大駒場に第何世代目かの洋行帰りの人々が教員を務め,西洋文化の本質を明らかにしようとして,表象文化論のコースができてからだと思う。図書館情調の分析的解明が行われるようになったのは,松浦寿輝『知の庭園—19世紀パリの空間装置』の第1部「図書館あるいは知の劇場へ」あたりからである。

そういうなかで,中島敦の「文字禍」は日本人の図書館理解において一頭地を抜いたものだったということができる。そこには,西洋に対するコンプレックスは感じられず,むしろ,自らの拠り所である中国文明と西洋の古代文明とを対比させながら,普遍的な知を追求する姿勢を見せていた。これが書かれたのが1942年という戦時下だった。文字が書庫で蠢くという比喩は,戦時体制下で制限された言論状況において知識人が大政翼賛的な発信をしていたことを指しているという解釈もある。

1 ディー・ギャリソン著(田口瑛子訳)『文化の使途—公共図書館・女性・アメリカ社会 1876-1920年』日本図書館研究会, 1996.

2 1950年から1951年にかけて,図書館職員養成所が東京大学に吸収されることが企図され,舟木がその教授候補であったことについては,石山洋の証言が残っている。「石山洋氏インタビュー」日本図書館情報学会50周年記念事業実行委員会編.『日本図書館情報学会 創立50周年記念誌』.愛知,日本図書館情報学会(発行),2003,p.32.その後,このプランは頓挫したが,同大学教育学部に図書館学講座ができて1953年に裏田武夫が講師として赴任した。図書館職員養成所は1964年に図書館短期大学になり,1979年に図書館情報大学になる。



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