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2025-08-22

沖縄のアーカイブ機関訪問(2)—公文書館、歴史編集室,博物館

沖縄県公文書館

先に述べたように、かつて沖縄の歴史資料は図書館を中心にして整備されていた。1990年に大田昌秀が知事に就任して公文書館設置の検討を開始し、1995年に開館したことにより、大きな変化があった。それまで図書館設置の史料編集室が琉球政府文書の管理を行っていたが、これが公文書館に移り、琉球政府文書の管理も公文書館が行うことになった。初期の公文書館の重要な事業に、職員を長期にアメリカに滞在させて、占領統治者だったUSCAR(琉球列島米国民政府)の公文書を連邦政府の公文書館であるNARAから入手するとか、歴代宝案と呼ばれる琉球王朝の外交資料集(原本も写本も沖縄戦や関東大震災で焼失)を中国やタイ王朝のものと対照しながら復元することなどがあった。




沖縄県立公文書館



運営面について言うと,最初は県の直営として始まった同館だったが、現在は指定管理となったことが重要である。開設翌年の1996年から,県がつくった財団法人沖縄県文化振興会(現在は公益財団法人)が基本的な機能を管理運営委託することになり、2007年からはここが指定管理者となった。このあたりの経緯は同館のアーキビストの中心になっていた富永一也氏(当時,沖縄県公文書館資料課主任専門員)がインタビューで詳しい事情を語っている。(「沖縄県公文書館へのインタビュー」『社会科学研究(中京大学)』 32巻1号, 2012. https://www.chukyo-u.ac.jp/research/irss/image/kiyou_60/sado-060132socsci-chukyo.pdfこのなかで富永氏は「指定管理に移る前に 「指定管理者になったら文書の引き渡しが滞る」 ということを言う人もいたのですが、私は指定管理になる前の年から県文書の受入れを担当していていましたが、そのようなことは一切ないですね。」と話していた。実際にはむしろ、民間団体による運営だったから、専任アーキビストの採用とかアメリカでの資料調査とか大胆な方針を立てて進めることができたということも言える。しかしながら,最近になって指定管理者であることが館の方針に重大な影響をもたらすことが起こっている。

今回は2008年訪問以来,2回目の訪問である。事前に質問事項等を送っていたので,すぐに焦点が絞れたやりとりができた。とくに,担当の方から県の公文書管理条例がこの3月に成立して(2026年4月施行),これが大きな転換点になるという話しがあった。この条例によって,従来の公文書館自体が資料の選別機関だった公文書の扱いが,担当部門で選別して保存用とされたものが公文書館に送られる方式に変わるということだ。これは国の制度を含めて日本では一般的とされるやり方だが、本来のアーカイブズの役割を重視しない官優勢の仕組みである。指定管理であることが契約事業者としての位置付けしかないから,意見を挙げにくいことがあってこうなっているようだ。ただ,これにはよい面もあり,従来は知事部局からの公文書しか来ていなかったのに対して,今後は行政委員会の資料や会議資料,外部部局の資料も一律に対象となる。それで,従来は選別されずに資料が年間3000箱来ていたが,今後はそれよりも増えることが予想されているということだ。

こういう選択には理由もあるのだろう。一般的に20世紀末の地方の時代が言われたときに,情報公開条例やオープンガバメントが言われたが,21世紀になると行政組織としてのコンプライアンスやセキュリティ保全,プライバシー保護等々の論理が、オープンにして保存する論理よりも強力に働くようになった。かつて,行政資料を集めて保存提供する図書館もまた広義の情報公開を担う機関との位置付けもあった。しかしながら,行政資料に代わって採用されるオープンデータは行政自らが情報をコントロールするものになり,図書館には行政資料が入りにくくなった。

沖縄においても、失われた歴史を回復するためにアーカイブ機関の役割を強調する考え方は、20世紀のうちは強かったが、徐々に変質せざるをえないことが見て取れた。公文書館ができたときは太田県政のもとで歴史資料を重視する考え方が強かったのに対して,徐々にそれが行政の論理との関係で変化しつつあることを示しているようだ。県の公文書管理条例が施行された後についての問題点は今回訪問した他のアーカイブ機関でも耳にした。

沖縄県教育委員会文化財課史料編集班 

沖縄県史こそ沖縄アーカイブの原点的な位置付けにある。公文書館の建物内にある史料編集班を訪ねる。公文書館は指定管理者であるが,ここは教育委員会の文化財課に所属する県の組織である。復帰前の1967年に琉球政府立沖縄史料編集所が創設され、復帰とともに沖縄県沖縄史料編集所と改称された。1986年に行政改革により県立図書館に併合されて、沖縄県立図書館史料編集室となった。1995年に沖縄県公文書館の設置に伴い移転、翌8年、史料編集業務が教育庁文化課所管の委託業務となり財団法人沖縄県文化振興会公文書館管理部(後に公文書管理部)史料編集室となった。2007年には指定管理者制度導入に伴い財団法人沖縄県文化振興会史料編集室と改名し、2011年に組織改編により教育庁直轄となり、沖縄県教育庁文化財課史料編集班となる。

このように、独立組織→県立図書館→公文書館での委託業務→公文書館の指定管理→教育委員会直轄と、変転を遂げている。公文書館が業務委託されたときは同様に委託されたのに、公文書館が同じ組織に指定管理となったときに直轄業務になったのがなぜなのかについて聞きそびれたが、おそらくは歴代宝案の編さん事業が沖縄県教育委員会と中国第一歴史档案館との「協議書」に基づく交流事業でずっと継続していることが理由だろう。これはかつての琉球王朝と中国王朝との外交関係をベースにしていると考えられるからである。その意味で,中国の歴史観との関係で歴史編纂は行政(あるいは国家)の仕事であるとの姿勢を保持しているのだろう。これはアーカイブを考えるときに重要な視点である。

過去,沖縄県史は1965-1977年に編纂された旧県史と1995年以降に継続刊行されている「資料編」,そして,2000年代になって始まった「図説編」および「各論編」によって出版が続いている。これを見ると,旧県史は,通史から始まって,各論が書かれ,まもなく資料編が出された。本土復帰後は,再度,資料編,図説編,各論編をシリーズで出し続けている。各論編「沖縄戦」や「女性史」など,資料の発掘だけでなく,体験者に対する聴き取り調査の結果を活かした構成になっている。現在の県史編纂は沖縄百科事典のようなものだ。


〇琉球政府編 沖縄県史 琉球政府,  沖縄県, 1965-1977.
第1巻 通史 
第2巻 各論編 1 政治 
第3巻 各論編 2 経済 
第4巻 各論編 3 教育 
第5巻 各論編 4 文化 1 
第6巻 各論編 5 文化 2 
第7巻 各論編 6 移民 
第8巻 各論編 7 沖縄戦通史 
第9巻 各論編 8 沖縄戦記録 1 
第10巻 各論編 9 沖縄戦記録 2 
第11巻 資料編1 上杉県令関係日誌 
第12巻 資料編2 沖縄県関係各省公文書 1 
第13巻 資料編3 沖縄県関係各省公文書 2 
第14巻 資料編4 雑纂 
第15巻 資料編5 雑纂 
第16巻 資料編6 新聞集成(政治経済1) 
第17巻 資料編7 新聞集成(政治経済2) 
第18巻 資料編8 新聞集成(教育) 
第19巻 資料編9 新聞集成(社会文化) 
第20巻 資料編10 沖縄県統計集成 
第21巻 資料編11 旧慣調査資料 
第22巻 各論編 10 民俗 1 
第23巻 各論編 11 民俗 2 別巻 沖縄近代史辞典

○資料編
沖縄県史 資料編1  民事ハンドブック(沖縄戦1)(原文編、和訳編) 1995(H7)年 3月31日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編2  琉球列島の沖縄人・他(沖縄戦2)(原文編、和訳編) 1996(H8)年 3月29日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編3  米国新聞にみる沖縄戦報道(沖縄戦3)(原文編、和訳編) 1997(H9)年 3月28日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編4  10th Army Operation Iceberg (沖縄戦4)(原文編) 1997(H9)年 3月31日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編5  染織関係近代新聞資料 (技術1) 1997(H9)年 3月31日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編6  移民会社取扱移民名簿 自一九一二至一九一八(近代1) 1998(H10)年 3月31日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編7  伊江親方日々記(近世1) 1999(H11)年 2月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編8  自由移民名簿 自一九〇八至一九二〇(近代2) 1999(H11)年 2月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編9  Military Government Activities Reports(現代1)(原文編) 2000(H12)年 1月11日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編10 遺跡総覧(先史時代)(考古1) 2000(H12)年 3月13日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編11 移民会社取扱移民名簿(自一九一九至一九二六)(近代3) 2000(H12)年12月15日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編12 アイスバーグ作戦(沖縄戦5)(和訳編) 2001(H13)年 2月28日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編13 硫黄鳥島(自然環境1) 2002(H14)年 3月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編14 琉球列島の軍政 1945~1950(現代2)(和訳編) 2002(H14)年 2月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編15 旧南洋群島関係写真資料(上)2分冊(近代4) 2002(H14)年 3月15日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編16 女性史新聞資料 明治編(上)(下) (女性史1) 2003(H15)年 3月20日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編17 旧南洋群島関係資料 (近代5)
           別冊:サイパン/テニアン収容所捕虜名簿  付録:市街地復元図(十葉) 2003(H15)年 3月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編18 キャンプススッペ(和訳編)(現代3)サイパンにおける軍政府の作戦の写真記録 2004(H16)年 3月31日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編19 自由移民名簿  自一九二一年至一九二五年(近代6) 2005(H17)年 3月25日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編20 軍政活動報告(和訳編)(現代4) 2005(H17)年 3月25日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編21 The Journal and Officail Correspondence of Bernard Jean Bettelheim 1845-54 PartⅠ(1845-51) (近世2) 2005(H17)年 3月30日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編22 The Journal and Official Correspondence of Bernard Jean Bettelheim 1845-54 PartⅡ(1852-54) (近世3) 2012(H24)年 3月30日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編23 沖縄戦日本軍史料 (沖縄戦6) 2012(H24)年 3月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編24 自然環境新聞資料 (自然環境2) 2014(H26)年 3月24日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編25 女性史新聞資料 大正・昭和戦前編 (女性史2) 2015(H27)年 3月20日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 資料編26 ベッテルハイム日誌および公式書簡Part1(1845-51) (近世4) 2022(R4)年 3月18日 沖縄県教育委員会

○図説編
沖縄県史 図説編 県土のすがた 2006(H18)年 3月30日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 図説編 前近代 2019(H31)年 3月15日 沖縄県教育委員会

○各論編
沖縄県史 各論編1 自然環境 2015(H27)年 3月25日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編2 考古 2000(H12)年12月25日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編3 古琉球 2010(H22)年 2月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編4 近世 2005(H17)年 2月25日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編5 近代 2011(H23)年 2月26日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編6 沖縄戦 2017(H29)年 3月10日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編7 現代 2022(R4)年 7月15日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編8 女性史 2016(H28)年 3月18日 沖縄県教育委員会
沖縄県史 各論編9 民俗 2020(R2)年 3月24日 沖縄県教育委員会

今回、県史編さんの現状について、担当者の方から他の都道府県や市町村との関係を含めて,詳しく伺った。まず,都道府県史については全国の連絡会があるが,その編さんが終わると通常,資料は図書館,文書館に入るか,デジタル化されるかであり,利用できないケースもあるという。現在、県史事務局が継続しているところは8県あり,さらに3〜4県で最近新しい事務局が立ち上がったが,他は中断しているということだ。廃藩置県から100周年で一度ブーム(明治百年)になったが,150年はほとんど県史はつくられていない。それは、100年史を補うためには現代史を書くことになるからである。おそらく次にブームとなるのは200周年の2070年頃かと思われるが、沖縄県が長期的展望をもって各論的な歴史執筆や資料収集編集を継続することで県史編さん業務を行っていることは,特筆すべきことであると感じられた。

沖縄県内で歴史資料をもっているところは平和祈念資料館、公文書館、図書館であるが,失われた資料を補うという意味で,沖縄戦関係は,防衛庁での開示資料(防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室)、外交史料館、国立公文書館アジア歴史資料センター(デジタルアーカイブ)のデータ,国会図書館あたりと関係をもっている。

従来の県史、市町村史は歴史学者が近世の庄屋文書などを解読して研究し,それにもとづいて研究者がトップダウン的に書いてきた。また地方史研究協議会がそうした研究者の横のつながりとなっていた。が,沖縄は少し違う。内地で歴史学を学んだ研究者が沖縄に帰ってきてそうした市町村史の編集者を務め,その後大学に転出するという循環があった。前に見た浦添市立図書館長高良倉吉氏もそういう人で館長職の後、琉球大学教授に着任している。その際に編集も継続しているのが特徴だ。他に拠点として那覇市立博物館,宜野湾博物館、名護博物館、具志川市史は史書編纂が継続しているということだ。


沖縄県立博物館・美術館(オキミュー)


県のミュージアムは那覇の副都心的な位置づけのおもろまちというところにある。ここは全体が博物館と美術館に分かれていて,入館料も別々に取る。威容を誇る構えだった。ここはその意味で沖縄的なものとモダニズムが融合した場で圧倒されてしまう。今回は博物館の方だけしかみていないが,なかで歴史だけでなく,考古学,民俗,自然史の部門がそれぞれで展示をしている総合博物館になっている。自己紹介のビデオがある。

ここでうかがったお話しでは,この博物館はもともとは占領初期に沖縄戦の遺品等を米軍が集めて展示施設をつくろうとしたところから始まっている。その後琉球政府の施設となり,復帰後沖縄県の施設になった。ここが教育委員会ではなく,知事部局の下にあることも一つの要因ではある。また,県内では市町村がそれぞれ博物館・資料館をもち,それらが市町村史の拠点になっている例も多いということで,博物館どおしの横の連携は強い。同様に,地方史協議会,図書館協議会があってそれぞれ横にはつながる傾向があるが,歴史を扱うからといってその枠を超えたつながりは学会等の個人的な付き合いしかないそうだ。

国の博物館行政は文化庁が一部京都に移ったことや博物館法改正で変質しつつある。それに合わせて,文化芸術基本法の考え方が入り,文化観光が前面に出やすくなった。もともと博物館には専門研究者としての学芸員が配置されることで,資料調査やキュレーションがしやすい側面はあったが,さらには博物館を教育,地域連携,文化経営などの面でも専門家を育成する方向が打ち出されている。沖縄県立博物館はその意味でも先行するものとなっている。ただし,その側面を強化する際に,沖縄のアイデンティティのような側面は他の機関(沖縄平和祈念資料館や図書館,公文書館)と調整されるのかもしれない。

博物館も確かに歴史だけでもなく多分野にまたがるので内部では逆に学芸員どおしのつながりもつくりにくところがあるのかもしれない。かつて,学芸員は県の教員異動のサイクルに入っていた時期があったが,それだと5年くらいで異動になる。学芸員は5年サイクルくらいで特別展を担当することになるが,これだと一つをやった頃に異動になり,そのノウハウが継承されないという問題があった。最近は教員が忙しくなり,そういう人事は少なくなったという話しである。

沖縄の歴史アーカイブ

沖縄においては沖縄戦で貴重な資料が失われたこともあり,歴史資料に対する意識がきわめて高いが,公文書館と図書館,博物館,平和祈念資料館,文化財課史料編集班などとの機能分担の状況だが,2007年〜2013年に,沖縄で地域史協議会をつくり市町村史編集や公文書館 県立図書館 博物館が連絡会議をつくり、収集対象の調整や住み分けをしようとした。実際には資料ジャンルの強い弱いで自然に棲み分けができている。しかしながら、県史編さん業務について聞いてきたが、歴史資料の収集・保存・提供のような業務は指定管理でよいとしても、歴史書の編纂や執筆刊行は県の直轄業務としているところが、西洋的なアーカイブズよりも東洋的な史書重視の考え方が現れているように思われる。

沖縄の歴史編纂のもう一つの特徴として,字史(あざし)の存在がある。字は集落の単位であるが,戦後の1970年代以降,これを書こうという動きが活発になった。字史が重要なのは字が沖縄人のアイデンティティを構成する重要な要素となっているからである。これは墓を守っている長男や関係の教員や公務員をやっていた人などが担い手となって書かれているという。それだけ,沖縄は現在に至るまで家族や同族に対する意識が強く残っている。県立図書館でやっている移民のルーツ調査もそれがあるからだ。移民も3世,4世の時代になって日本語ができない人が大半になってもその意識が残っているからルーツを探る人たちからの問い合わせが継続しているということである。

このように復帰後ボトムアップ的な歴史編纂が行われているのは,沖縄戦で身近な人が多くなくなったり被害にあったりしていて,その体験や記憶をしっかりと歴史として残しておきたいという考え方があるからだ。沖縄特有のアーカイブとは,もともと家や字を単位とした同族意識が強かったところに,戦争で多くの人がなくなり,また家に伝えられていた資料も失われたことに対する危機感がもたらした部分が大きい。図書館や公文書館はそうした空白を埋めるための機関であり,今でも利用者は多い。実際に,公文書館を訪ねたときに,父親が南方で亡くなったのでそのことについて調査したいという人の話しが聞こえていた。

沖縄の関係者のからの話しで,沖縄の公共施設が沖縄らしさの仕掛けは国の補助金や交付金などが豊富に使われることで成り立っているという。長い占領期間や現在でも基地が本島面積の4分の1を占めることに対する「迷惑料」的な措置として「沖縄振興一括交付金」があり,沖縄らしさを強調することが交付の重要な要素となっているようだ。そういえば,電源交付金と呼ばれた原発設置に対する国から設置自治体への財政措置も類似の性格をもっていた。さらに言えば,東日本大震災後の国の復興計画の筆頭に復興のためのアーカイブを整備することが含まれ,それに基づいて被害があった地域に国の助成金で災害伝承施設が多数建設されているのにも同様の思想がうかがわれる。

アーカイブズは歴史資料を保持するという機能と行政や組織の行動について監視するための情報公開的な機能の二つをもつ。ここは前者の目的のためにつくられたが,後者についても沖縄特有の人間関係の近さ故にそれも含んできた。しかしながら,情報の扱い方に関する考え方が変わるにつれて,それではすまなくなって公文書管理条例ができたのだろう。それにより,二つの機能にも大きな影響があるだろう。

<謝辞>

今回,訪問した機関の皆様および直接お話しをうかがった皆様の話しを総合してここに記述した。訪問するにあたっては私の方で一定の仮説にあたる考え方をもっていたが,見学したり,お話しをうかがうことによって修正したり深化させたりといったことが可能になった。ここにお名前(敬称略)だけを挙げさせていただき,謝意を示したい。とくに,沖縄国際大学の山口真也さんにはこれらの人たちへの橋渡しをしていただいた。

麻生清香, 天久美鈴, 岩下喜博, 大城直也, 小野まさ子, 新城恵理, 津覇美那子, 遠山亨史, 西山絵里子, 野里純, 原裕昭, 前田勇樹, 望月道浩, 山口真也





 

沖縄のアーカイブ機関訪問(1)—図書館

沖縄の図書館を訪ねる理由

沖縄には何度も来ている。前回は琉球大学で学会があった2018年秋に訪問した。そのときは,学会の日程に合わせて研究仲間と数日前に来て,沖縄国際大学の山口真也さんとその学生さんお二人の車2台に分乗して,学校図書館と公共図書館を中心とした訪問をさせていただいた。車で名護まで北上して2校の学校図書館を見学し,そこから恩納村文化情報センターや沖縄市立図書館,那覇市立那覇中学校までを一気に廻るという強行軍だった。本来,沖縄のヴァナキュラーな風土と図書館はあまり組合せがよくないはずなのに,図書館員がいろんな場で活躍し,沖縄から図書館研究者が多く育っている理由がおぼろげながら掴めた気がした。

このとき,沖縄の学校図書館がしっかりした人的配置を伴ってサービスを展開していることは把握できた。それがあったので,その後,『図書館教育論ー学校図書館の苦闘と可能性の歴史』(東京大学出版会, 2024)を書いたときに,沖縄の学校図書館が本土のそれとどう違うのかに触れることができた(p.233-237)。

しかし,地域アーカイブというテーマからすると,このときちょうど沖縄県立図書館の移転の時期であり,ここが沖縄の図書館の本拠地であるにもかかわらずその入り口までは行けても中に入れなかったことが悔やまれた。というのは,2008年にNDLの地域資料調査の一環で現地調査を行ったとき,沖縄の県立図書館他の図書館,公文書館を訪ねて報告書を書いたなかに次のように書いた。その後,新設移転した館がどうなったのか気になっていた。(https://current.ndl.go.jp/wp-content/uploads/mig/report/no9/lis_rr_09_rev1.pdf)

[沖縄県立図書館] 1910年の創設時に沖縄学の先駆者伊波普猶が館長を務めたことで知られる。当然、地域資料の蓄積は相当あったはずだが、沖縄戦ですべて失われて、戦後の再出発を余儀なくされている。現在の建物は1983年に建てられた際に、1階は通常の開架スペースで、2階は郷土資料とした。このような構造の図書館は少なくないが、建築構造上2階の隅に追いやられているところが多い。ここは、1階ほどの広さはないにせよ2階を全部郷土資料のためのスペースとしたことで、むしろ積極的に沖縄のアイデンティティを表現する場を確保したというように見える。(p.105)

アイデンティティと書いたが,これはナショナリズムと言った方がよいかもしれない。2015年にヨーロッパに数ヶ月間滞在する機会があり,英国(ブリテン島)を車で一周した。英国といっている国はブリテン島にあるイングランド,スコットランド,ウェールズと北アイルランドを合わせた連合国家である。これらはナショナリティという意味では,サッカーやラグビーで別の国として扱われていることからも分かる。イギリスというとイングランドしか思い浮かべないことも多いが,ケルト系民族が中心のスコットランドとウェールズがあり,そこにもナショナルライブラリーがある。

このときに訪ねたヨーロッパの図書館については『場所としての図書館,空間としての図書館』(学文社, 2015)に書いている。とくに印象に残っているのは,ウェールズ国立図書館(Wales National Library)である。これはアベリストウィスという人口12,000人の大学都市にある図書館であるが,堂々たる新古典様式の建築だった。ウェールズ最大の図書館で、650万冊以上の書籍と定期刊行物を所蔵し、ウェールズ最大のアーカイブ、肖像画、地図、写真のコレクションを誇る。また、ウェールズ関係写本のナショナルコレクション、ウェールズ国立映像・音声アーカイブ、ウェールズで最も包括的な肖像画と地図コレクションも収蔵している。隣のアベリストウィス大学の図書館を兼ねることで建てられたらしいが,ウェールズやケルト系民族関係の資料を網羅的に集め展示,提供しているところが最大の見せ場だった。現在の国家の枠組みと別の論理で,ネーションの歴史・文化の伝統を守ることための機関であることがよく分かった。このことは当然,沖縄にも当てはまるから,新設された県立図書館がどのようなものなのかについて,なみなみならぬ関心をもっていたわけである。

今年の6月上旬にたっぷりと時間をとって,沖縄の地域アーカイブ事情について体感しようと再度来訪した。ここでは,まず公立図書館について書き,その後で公文書館,博物館,歴史編纂について書く予定である。最初に書いておくべきことは,沖縄の地域アーカイブは予想していた以上に堅固であり,また,多様な議論がある領域だった。そのことは次の報告で述べるが,図書館は図書館でそのタフな地域アーカイブの一翼を担っていることは確かであった。

沖縄県立図書館 3階, 4階

朝9時に,沖縄県立図書館に入る。空港と那覇市やその近郊をつなぐモノレールの駅の側で,那覇市のバスターミナルビルの上の3階から5階を使用した大きな図書館である。

階下はターミナルやオフィスがあるので雰囲気が異なるが,3階まで上がると文化施設らしい落ち着いたデザインとなる。この後は写真撮影のための許可を得て,内部を撮影した。

   エントランス(3階)




3階のロビーから入ったところ



フロアの平面図(https://www.library.pref.okinawa.jp/guide/cat11/index.html

図書館の総床面積は11,510㎡でそのうち3階がエントランス,資料展示スペース,児童資料など,4階がレファレンスやビジネス資料も含めた一般資料,5階が沖縄資料のスペースである。上記の図では5階の一部しか示されていないが,ほぼ4階と同じ面積があり,見えていないスペースは事務室と閉架書庫である。後で書庫にも案内していただいたが,かなりのスペースをとって将来的な資料の蓄積に備えようとしている。

エントランスから入って3階,4階,5階と上がっていった。まず感じたのは,ゆったりとした空間だが,書架周りはけっこう密度が高く様々な仕掛けが施されているということだ。一つは,テーマ展示である。書架の一部にテーマを掲げてそこに特化した資料を平らに並べたり,解説をつけたりするものである。新館に移ってからまだ数年なので,書架に余裕があるから可能なのだろうが,最初から展示スペースがかなり用意されてもいた。「空飛ぶ図書館」(飛行機で離島に資料を運ぶことを言っているようだ),沖縄県の21世紀ビジョン計画,教科書センター,6/4で虫の日の展示(ディーンズ展示コーナー)など。NIE,沖縄JICAとか放送大学,東アジア出版人会議など関連機関との連携展示コーナーもあった。







フロアに入ったところ





沖縄21世紀ビジョン基本計画関連の資料展示(3階)






学校図書館支援コーナー(3階)








JICA沖縄コーナー(3階)




チラシやリーフレットを配るだけでなく,このように大きく見せるのは効果がある。4階のレファレンス展示とか「資料の探しかた」の展示もいい。6月は沖縄戦があった月なので5階ではその方面の展示も充実していた。4階は全体が開架スペースでビジネス資料が別置となっている他は全体がNDCで並んでいる。





データベースコーナー(4階)





レファレンス展示(4階)



ただし,この図書館の資料費は2000万円程度で県立図書館としては必ずしも多くない。その意味は幾様にも考えられるし,この図書館の本質を示していることについては最後に触れたい。少ない資料費をそれをさまざまな工夫で埋めているように思える。むしろ,資料が書庫に入ったり,開架でも大量の本が詰まって全体像が見えない集積になっていると,利用者にとって使えているのかどうかという疑問にもつながる。むしろ,この図書館のように,所蔵資料をさまざまにアレンジして見せることによって,利用者にとっての未知の資料の発見や図書館資料の多様性の表現が可能になるのではないかとも考えられる。これは博物館の手法に近いキュレーションである。

沖縄資料(5階)


5階の沖縄資料は地域で発生する資料を蓄積してキュレーションを行う手法がみごとだった。地域資料の多くは購入費用がかからない資料だと思われるが,ていねいに収集しようとしなければ集まらないという意味で労働集約的サービスが必要になる。この図書館の要覧(令和5年度版)によると,正規職員29名のうち,資料班の12名は,「図書館資料の収集・整理・保存」,「郷土資料関係レファレンス」「5階閲覧室の運営」を担当することになっている。つまりそれだけ人手をかけて沖縄資料に力を入れてきたということを意味する。

5階は貸出資料スペースと開架の閲覧資料室とに分かれている。貸出スペースに2カ所の特別展示のスペース(4段書架2連がワンセットとなり3セットで空間を取り巻いている)があり、「沖縄戦」と「戦争関連展示2025」をやっていた。毎年どこでも夏は戦争=平和展示のシーズンだが、沖縄はとくに6月が沖縄戦があったときなので力が入っている。県立図書館では沖縄戦の展示だけでなく,現在起こっている戦争までの関連資料を並べることで,強いメッセージ性を感じた。移民資料コーナーや「私のルーツを探る」というのはここが力を入れているもので,沖縄から海外に移住した人たちの歴史とそのルーツ探しの支援をするというものだ。

 
沖縄戦の展示(5階)

移民資料コーナー(5階)

移民資料コーナー(5階)

 
沖縄資料開架閲覧室(5階)

ここで発見した郷土資料のなかに,前の県立図書館建設にあたっての「設計競技作品集」があった。これを見ると,県からの提案書にはあまり郷土資料に力を入れている様子はなかった。2000平米のオープンスペースのうち郷土資料は230平米,図書2万冊,20席となっており,最初の当選案では一階の奥が郷土資料で2階は閉架書庫になっていた。しかし完成したものでは2階に郷土資料を移している。これは実際の設計において変更があったことを示している。旧館をみて,NDL調査で来たときに驚いたのだが,現在の新館は5階が4300㎡で開架だけでも3000㎡近くはありそうだから,その思想をそのまま引き継ぎ,拡張しているように思われる。

午後に郷土資料の担当者の方と面談していくつかのことをうかがった。先ほど述べたように,全体の資料費が2000万円ほどで,その1割〜1.5割の年間2〜300万円ほどが沖縄資料の購入費である。その際に,沖縄資料の購入としては郷土資料を最優先にして購入し,残りを他の資料購入に充てているということだった。郷土資料の収集にとくに専門の部門があるわけでなくて,資料・情報班が収集,蔵書管理を行い,調査・サービス班がレファレンスや展示などに対応するということだ。沖縄資料は3部収集し,1部は開架用,1部は貸出用,1部は保存用ということだ。県庁資料については県庁内の行政資料センターが受け取った分のうち3部を図書館が受け取ることになっている。デジタル化された資料についてはとくにプリントするようなことも,デジタルのまま収集するということも実施していない。市町村発行の資料もとくに基準を設けて収集しているわけではなくて,送付してくれるものを受け入れているだけだという。(他日,県庁の行政情報センターに立ち寄った。閉館10分前だったが,責任者がいたので概要の話を聞いた。大雑把には情報公開窓口と行政資料の公開を担っている。行政資料は13部を提出してもらい,うち,図書館に3部とか公文書館に2部とか決まっていた。センターの資料保存は5年とか10年と決まっていて終わると廃棄処分になるという。また,行政資料は公文書ではあるが,扱いは他のものとは異なっている。さらには会議資料なども扱いは別の規則がって運用されているということだった。

最後に保存用書庫を見せてもらった。基本的には開架にでているから書庫は保存用のものと雑誌のバックナンバー,そして貴重資料に限られるようだ。保存用書庫は特別な気体による消火設備になっていて,ここだけは間違いなく保存できるようにする工夫がある。全体として感じられたのは,郷土資料の収集保存提供についてはとくに地域アーカイブとして特別なことをしているというよりは,アーカイブを創っていくことが自然に追求されているということである。

浦添市立図書館沖縄学研究室

 浦添市立図書館があるのは,文化施設が集まっているゾーンで,中央の広場の周りに文化会館,美術館,図書館が配置されている。それらはモダンなものであるが,同一のレンガ色が施され,たおやかな沖縄建築様式を取り入れていて安心感がある。だが,それらのなかでは図書館が一番くすんでいるように見えたのは,ここが一番使われる施設だからか。これは,1980年代にこれらが構想されたときの市長の考え方で進められたそうだ。当時,図書館には博物館的な機能も求められており,今の郷土資料室(沖縄学研究室)の側面には展示用のガラスケースが置かれているが,今は使われておらず敷居で隠されていた。このあたりも,時間の経過とともに役割が少しずつ変化したことを意味している。










浦添市立図書館





沖縄学研究室(図書館HPより)



1980年代末に,沖縄史研究者高良倉吉氏が市史編さんの責任者からここの館長になったときに市史編さんで集めた資料の保存,提供,研究の場として沖縄学研究室ができた。1980年代の県立図書館と同じで,どちらかというと文書館的な性格を強めることになった。ここでは研究紀要(『浦添市立図書館紀要』第1号~15号 1989年12月~2004年3月,その後『浦添市文化部紀要 よのつぢ』第1号~12号 2005年3月~2016年3月に継承)を出して,浦添市史編纂の拠点になっていた。史料の悉皆的な収集をベースにして市史を編纂する方法は「浦添方式」とも呼ばれており,一時期は6人の正規職がいたこともあったという話しだが,現在は調査レファレンス担当の司書がいて,会計年度任用職員として司書資格をもたない2名が専門職員として勤務している。彼らの言によれば,歴史資料整備にまでは現在はなかなか手が回らず,入ってくる資料の整理,レファレンスで手一杯ということだった。資料を見せていただいたが,確かに市史編さんで集まってきた多様な資料,文書資料,他館所蔵資料のコピー,写真,絵図,雑誌,新聞などが蓄積されている。しかしながら,沖縄歴史研究協議会に参加しているが研究的な仕事はなかなかできないということのようだ。

全体としては,こうしたアーカイブ的な仕掛けが40年の歴史の最初の15年くらいは強くあったが,その後は徐々に縮退の方向付けになっていったようだ。これは,初期の理念に基づく歴史資料収集と市史編纂については一応の成果が得られたことが大きいし,首長が変わればこういうものの評価も変わってくることなどによる。全体としては財政が厳しくなっているだけでなく,行政評価が求められるようになり,郷土資料は数値評価にかかりにくいものであり,かつてのような予算がつきにくくなっていることが背景にある。

沖縄アーカイブの場としての沖縄の公立図書館

現在の県立図書館の前身である戦前の沖縄県立図書館の初代館長伊波普猷は,沖縄学の父と呼ばれる人である。その後も二代目館長真境名安興以降五代目館長までの館長はいずれも郷土資料の収集に熱心だった。この場合の郷土資料は古文書や古記録等の一次史料を含んだアーカイブズであった。これは,戦前に沖縄には学術機関がなくて図書館が歴史研究の拠点とされたからである。その目録として,『郷土史料目録』第一版(大正13年),第二版(昭和4年)が作成された。第三版の編集も進んでいたが出されずに終わったが,その草稿が発見され,それらを合わせた目録が法政大学沖縄文化研究所から1982年に刊行された。現在は,NDLデジタルコレクションで見ることができる。所長の外間守善による序文でそのあたりの経緯が分かる。(以上,富島壮英「沖繩県立図書館の沿革と現況 : 郷土資料を中心に」『参考書誌研究』(17), 1979, 国立国会図書館. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3051062 (参照 2025-05-14)等を参照)

しかしながら,蓄積された琉球・沖縄資料は3万冊に及んだとされるが,アジア太平洋戦争では一部が疎開されただけで,ほとんどが沖縄戦で焼失している。これは大きな損失であり,戦後の沖縄の課題の一つは失われた歴史(資料)をどのようにして復興させるかだった。本土復帰の1972年以降,沖縄県が手掛けた重要な事業として沖縄県史の編纂があった。これは現在に到るまで継続されている。一般的に県史や市町村史は記念出版のような形式をとり,編纂室も臨時的に設置されなものが多いが,沖縄の県史は県の組織としてに専任のスタッフが配置あるされることで継続的な編集体制をとっている。同様の組織は市町村史にも少なくない。県史編集室は,復帰前の1967年に琉球政府立沖縄史料編集所が創設され、復帰とともに沖縄県沖縄史料編集所と改称される。1986年には行政改革により県立図書館に併合され、沖縄県立図書館史料編集室と改組された。その後1995年に沖縄県公文書館の設置に伴い移転するまで,10年ほどは県立図書館に県史編集室が置かれていたのは戦前の伝統を継承したものであり,その後歴史家だった大田昌秀知事が公文書館設置を進めたので県史編纂は図書館からそちらに移った。(県史編纂や公文書館運営については別に述べることにしたい。

戦前の沖縄県立図書館は焼失してしまったが,その蔵書目録は残されている。それで訪問時に県立図書館内部で蔵書目録掲載資料のどこまでが再現(再取得)できているのか調べたりはしていないかとうかがってみたが,そういう歴史的観点を強く反映した運営ではないようだった。博物館から人事異動で学芸員資格をもった職員が来ているという話しも聞いたが,博物館,公文書館,史料編集班との関係も必要があればやりとりするが,最初から何かの協議をするような関係にはなっていないということだった。

今回,県立図書館と浦添市立図書館を訪問してみて,郷土資料の収集保存提供の意識が強くあることは伺えた。それはこれらの図書館全体から伝わってきた。県立図書館は,戦前に沖縄資料の唯一と言っても良い拠点であり,それが沖縄戦で失われたあともしばらくの間は歴史資料収集と歴史編修の拠点であった。2018年に現在の地に移転したときの設計構想には,それを継承しようとする意欲がみなぎっていることが感じ取れる。その後の図書館活動はそれを想起させ,実際に資料を手に取って利用するのにふさわしい場として機能している。浦添市立図書館の沖縄学研究室も,基礎自治体レベルの郷土資料サービスの可能性を最大限に示す試みであったことは十分に伝わるものだった。だが,両館とも,歴史研究という課題に対してはすでに過去のもののとなっている。

今回,最初の方に書いたウェールズのナショナルライブラリーと同様の位置づけがあるのではないかとの期待をもって訪問したわけだが,同様の意図を感じた。県立図書館の設計思想は3,4階はヤマトンチュ資料,5階はウチナンチュ資料を扱うとしているのは,やはり沖縄のアイデンティティ(敢えて言えばナショナリズム)を強調している。資料担当職員はヤマト(内地)も沖縄も区別せずにローテンションを組んで仕事に当たっているということだった。ただ,歴史研究の場との考え方を前面に出していないのは,おそらくは,戦前の県立図書館が守ってきた歴史資料が失われ,県史編集室や公文書館がそれぞれ独立した機関として活動しているなかで,図書館機能のみとなったものの必然的な結果なのだろう。

アーカイブ機関はそれが唯一無二の「原資料=アーカイブズ」を守る姿勢にあるとき決定的な役割を果たすのかもしれない。それは,かつて当ブログ「三つの私設図書館と「舌なめずりする図書館員」」で書いたように,創始者の設置運営の意思をどれだけ活かそうとするのかということでもある。だが,現在の図書館は歴史というよりも,設置者のアーカイブ思想を継承しつつさまざまなキュレーションを行う場になっているように思われる。

2025-08-10

学校図書館賞受賞発表会「図書館教育の現代的課題」

 昨年出した『図書館教育論』に対して,2025年度の(公社)全国学校図書館協議会主催の学校図書館賞(論文の部)が授与され,8月8日に授与式と受賞記念の発表会がありました。そのとき作成したスライドを少し編集し,ノートをつけて下記に公表します。