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2022-05-15

早坂信子『司書になった本の虫』を読む


早坂信子『司書になった本の虫』(郵研, 2021)を昨年のうちに著者からいただいていたので、遅くなったがここに感想を書いておこう。感想というよりも本書を読んで考えたことと言ったほうがよいだろう。

早坂さんは1969年に宮城県立図書館に司書として採用され、37年勤めて2006年に退職した根っからの司書である。今でも本の虫が図書館に勤めるケースは少なくないだろうが、まず司書職採用が減っているから司書で勤め上げられる人がかなり減っている。まして公務員改革で法的な根拠のない専門的な職種は減らす方向にあるから、全国的に見てこういう働き方がかなり制限されることは間違いない。司書採用の人もどこかで管理職になるために他の部門に移ることを余儀なくされることもあり、そういう人はいずれ図書館に戻ってくるとしても、図書館だけにいる専任司書といえる人はほんとうに少なくなった。

そういう彼女がご自分がやられてきたことを振り返りながらも、それを近代日本の歴史的文脈のなかに位置づけた書物論、図書館論になっている本である。その期間は1970年代から1990年代という公立図書館の現代的発展期にぴたり重なっている。この時期の県立図書館で何があったのか。本書はかつて図書館にあって今はないものの話しから始まっている。製本、古書筆写、目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与、マイクロフィルム撮影といったものが挙げられている。もちろんこのなかで目録カード、図書台帳、押印・背ラベル、請求記号付与は現在は図書館システム上での作業に置き換わっていて仕事そのものがなくなったわけではないが、MARCとシステム導入によって図書館員が資料そのものに向き合う機会はだいぶ減っている。製本、古書筆写、マイクロフィルム撮影もなくなったわけではないだろうが、図書館員自体がやることは稀だろう。外注するなり、デジタル複写で代替するなりの方法が採用される。

彼女が図書館員であった時代は図書館システム導入を進めそれによって仕事が軽減化された時代であった。彼女自身もシステム設計にも関わり、その移行の過程を直接知っている。と同時に、図書館員が資料そのものを直接手に取り検討する過程がなくなっていった状況についてもご存じであり、それに伴う図書館界の変貌に対して批判的であることも確かだ。だから、本書は図書館員がいかに資料に向き合うべきなのかを訴える後身への伝言となっている。

そのなかでは、たとえば、彼女が先輩から口酸っぱいほど言われたこととして、宮城県立図書館の蔵書が空襲で焼かれたことに対する責任ということがある。戦前の宮城県図書館は全館レンガ造り三階建ての書庫に13万冊の貴重な蔵書が置かれていた。そのなかには古典として養賢堂(仙台藩の藩校)本や藩から県庁に引き継ぎ移管された本などの貴重書が多数あったのだが、そのうち5千冊だけは疎開させたが残りは1945年7月10日の仙台空襲で全焼した。それはもちろん米軍の非軍事施設を対象にした無差別攻撃という文明に対する罪をまず第一に非難しなければならない。しかし、戦後の図書館員はむしろアメリカから恩恵を受けた面が強いからそのことについては忘れ、自らが救出できなかったことに対して後悔の念を強くもっていたという。それだけ管理する資料に対して強い責任感をもっていたからだ。

彼女がご自分の研究テーマとして、仙台藩の青柳文庫をはじめとして個人文庫に関心を寄せるのも、それぞれの文庫に収められた資料は単なる印刷本の集合体ではなくて集められた来歴とその後使用履歴が負荷され、全体として知的な営みがあることの重要性を感じているからである。青柳文庫は、仙台出身の商人青柳文蔵が、仙台藩に書籍3千部1万冊と文庫開設資金1000両を献上し、それを広く活用させるために藩の医学校があった場所に公開の文庫として設けたもので、明治以前に日本にあった公共図書館的機関として重要なものであった。

自らの研究テーマをもって研究することで資料への関心が深まるというのはかつての図書館員にとって普通のことだったが、これに対して1970年代以降の図書館員たちは批判的だった。最近でこそようやく郷土資料や地域資料に関心が向き、また、近世の文庫や戦前の図書館にも眼を向け始めているが、あまりにも高度成長以降の機能主義的図書館論に惑わされてきたのではないか。その機能主義にシステム化が加わると、周りの者からは図書館員の仕事は矮小なものとしてしか映らない。だから、何よりも資料の収集、保存、提供の一連の過程で資料に対峙することが重要である。この本から資料の専門家であることの重要性というメッセージを読み取ることができた。ここで資料というのは、デジタル化とまったく矛盾しない。デジタル化以前と以後、あるいはボーンデジタルも含めた資料(すなわちコンテンツ)そのものに向かい合わなければ専門職とは言えないだろうと思う。

全体としては日本の図書館に巣くうアンチインテレクチュアリズムに対する警告と受け止めた。先に書いたような専門職司書が減った理由が、日本社会全体がとくに新自由主義を背景にこのアンチインテレクチャリズムに走ったことにあり、図書館員も遺憾ながらそれに乗ってしまったのだろう。このテーマは私も別の関心から強い危機感をもっている。そのことについてまた書きたい。


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