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2020-03-31

言語と知識,国語教育 ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(2)

政権党党首であり総理大臣である人が,国会答弁や記者会見の質疑において質問の意図を「ずら」して答えることで切り抜けようとしていることが話題になった。答えにならない答えをしていても,それについて責任が問われない状況はなぜ生じているのだろうか。これは行政官庁において官僚が公文書の作成をためらい,作られたものを恣意的に管理することと関わっている。話し言葉はずらされ,書き言葉はなかったことにされる。

こうした状況は今に始まったことではないかもしれないが,少なくとも20世紀後半には政治家も官僚ももう少し言葉に対して責任をもっていたと思う。図書館情報学は言語表現された媒体を扱う領域であるから,言葉がこのように軽く扱われることについては大きな危機感を覚える。考えてみれば,日本で公文書管理がずさんであることや公文書館が貧弱であることと,図書館はそれなりにつくられていても司書を専門職としてこなかったこととは密接な関係があるだろう。文書は一回性の事象の証拠となるドキュメントであり,図書は普遍的な知を記録したドキュメントである。どちらも記録して集め組織化してあとで再利用するものである。日本社会は,ドキュメントの再利用に抵抗があるようだ。おそらくは,同質集団における関係が前提となった身体的なコミュニケーションがベースにあるからだろう。

ここ数年,ロゴスという言葉に惹かれてきた。これは,古代ギリシア語に端を発する概念で,言語,理性,法などの意味を有するとされる。この言葉が西欧の哲学のなかでどのような位置づけになるのかは,岩田靖夫・坂口ふみ・柏原啓一・野家啓一『西洋思想のあゆみ―ロゴスの諸相』(有斐閣 1993)に概説されている。重要なのは西欧の思想が今に至るまで一貫して,このロゴス(理性主義)を基軸として形成されてきたということである。この本でも,中世にはキリスト教神学がギリシア哲学のロゴスを否定的に扱ったことが書かれているし,近代以降ロゴスがもたらした科学技術が人間社会に与えた負の遺産が語られている。だが,ロゴスの発動が西欧社会の発展をもたらしたことについていささかもゆらいではいない。

ロゴスが言葉であり理性であるというのは,人は言葉を発し,書き記すことで自らの思想を生み出しそれを他者に伝え,蓄積し,必要に応じて取り出して参照するという,そうした知的営為が結果として社会を発展させる原動力になったということである。そこでは,図書館や文書館のようなアーカイブの機関が重要な役割を果たす。それはアーカイブこそが権力とそれにまつわる知の源泉を示すものだからだ。諸元に帰ることで権力と知のありようについて再考する機会を重視する再帰的な作用が組み込まれている。西欧の近代図書館は,中世以来の教会や修道院の図書館とともに,王侯貴族が宮廷に知識人の交流の場としてつくらせたものであった。そこでは知の言葉を凝縮した書物を置くことで,徹底してロゴスの機関であることを誇った。図書館情報学の出発点もそこにある。

明治政府の近代化路線は西欧社会の模倣で始まった。そこではこうした知的営為は限定されたかたちでしか導入されなかった。なぜならば,知は輸入して翻訳すれば手に入ったからである。帝国大学はそのための機関であり,西欧的な知を導入して日本的なコンテクストに置き換えて再配布することを使命としていた。日本の近代化はロゴスの自律的発動を嫌い,入れるべき知を限定し,国定教科書にまとめ直し,学校で習得させた。暗記中心の教育になるのはそのためである。

私は図書館情報学の研究をするうちに,以上のような日本社会,とくに教育システムがもつ歴史的な特性と限界に気づいた。日本人は江戸期までは中国というモデルがあり,近代以降は欧米というモデルがあり,いずれもその知を自らのコンテクストに合わせて咀嚼しながら導入した。それは現在に至るまで教育システムを支配してきた。これは自ら問題意識を構築し解決する人の出現を妨げてきた。モデルに倣って近代化を進めるうちはよかったが、近代化を達成した後は逆にそれが桎梏となっている。

最後に,国語教育の話をしておきたい。学校教育が自ら考える市民の育成を目的とせず,国に従属する臣民教育であったのは事実である。学校図書館は本来,学校における各教科のための知的基盤を構成するための施設のはずだったが,読書推進の役割しかもてなかったのは,学習者が知を自ら構築するという考え方が欠如していたからである。今,新しい指導要領において「探究」の言葉が散見されるわけだが,教育関係者がどこまで本気でカリキュラムを変更しようとしているのかは疑問である。

読書というと誰もがよいものであるということで思考停止してしまう。ともかく小学生までに読書の習慣を身に付けましょうといい,かなりの国家予算が子ども読書推進に充てられているが,実は,今の中等教育および高等教育を進めるだけでは,本を読み考える市民は生まれない。むしろ本を読ませるべきは中高生,および大学生なのだ。論理国語はこのようなコンテクストにおいてとらえるべきだろう。

私は国語という教科は数学と並んで方法の教科であると理解している。方法の教科というのは言葉や記号を操作することで思考を自ら進めるための手段となるものである。いろんな機会にお話ししているのだが,日本の数学はきわめて高度で,四則演算から始まり,解析学(微分・積分)や線形代数の基礎までをやる。これは理系教育ばかりか社会科学も含めた方法的な基盤を提供している。自然科学系のノーベル賞が連続して出ているのはその有効性を示している。

では,人文的な分野の方法はなにかといえばそれは言語に基づくものである。言語を理解し,発し,やりとりする力である。数学があれほど一貫した体系で進められているのに,国語はそうではない。漢字の読み書きができるようになるとあとは文学的鑑賞を中心とするものに移行していた。本当はクリティカル・シンキングを含めた文章の読み書きの方法を学び大学での学びにつなげていかなければならないのに,そうではなかったのだ。

今後は,これらの問題について,歴史,思想,国際比較の観点から研究を続けていくつもりである。



図書館情報学をおもしろがって ー 35年にわたる大学教員生活を終えるにあたって(1)

3月末日をもって,35年にわたる大学教員生活に終止符を打つことになった。本来であれば,3月21日に予定されていた公開シンポジウムの場で「最終講義」と題して語るべきであったことの一部についてここに書きつけておこうと思う。この公開シンポジウムはこの間のコロナウィルス騒ぎ(この騒ぎがもつ意味についてはまた書いてみたいと思う)で延期になった。これが最終講義として実施されることはおそらくはないだろう。

用意したレジュメ(今のところ非公開)の最後の部分に「役に立つ学問とおもしろがる学問」という表題をつけていた。考えてみると,私がやってきた学問は徹底的に自分だけが「おもしろがる学問」だったと思う。逆に言えば,本来,「役に立つ」ことを要請されていたのに,あまりその方面には関心をもてなかったことがある。そのために関係領域の方々には失望の念を与えたことがあったかもしれない。最近出した『レファレンスサービスの射程と展開』で私は2本の論文を書いたが,そのうちの第4章「レファレンス理論でネット情報資源を読み解く」は私がもつ「おもしろがる資質」が前面に出た論文である。たぶんこれを読んでおもしろがってくれる読者が少数であることは覚悟している。

こういうスタンスで書くのはなぜかというと,これは私の母校であると同時に20年間勤めた東京大学教育学部の性格と関わっている。ここは戦後教育改革で設置された「ポツダム学部」と呼ばれたものの一つであり,戦前の皇国史観を支えた師範教育を否定し,戦後民主主義に基づく教育制度を新たに構築するために帝大系大学に設置されたものである。アカデミズムをベースにして教育の営みを批判的に読み解き新しい教育理論を構築することが要請された。「現場」に寄り添った議論を特色としていたが,よく知られているように冷戦体制下においては教育は保守対革新に分かれた政策論が中心になり,ここの教員は日教組に近い立場をとる人が多かった。また,それに対する反発から逆に極端に保守的な議論をする教員もいた。私はそこで前提になっていた教育政策論が結局は教育を政治的道具と位置づけていることの限界を感じる一方で,戦後新教育において確かに図書館は一定の位置づけがあったはずなのに教育政策においてはまったく語られないことに対する絶望的な気持ちもあり,違ったアプローチをとることにした。

図書館情報学はもともと図書館員(司書)を養成するための領域であった。私がここ5年間所属した慶應義塾大学文学部図書館・情報学専攻は,戦後改革の時期の1951年に占領軍の後押しでできたJapan Library Schoolを発展させたものであり,大学で図書館員を養成するための拠点として設置されたものである。それは慶應義塾がもつ本質的に実用主義(プラグマティック)な性格とも合っていた。設置当初から1970年代くらいまではその役割を果たしていたと思われる。当時の企業はここを卒業した学生を図書館や情報の仕事をする専門職として雇用してくれていた。だがそれも高度成長からバブル経済の時期までである。その後,企業に経営の体力がなくなるとそうした雇用はなくなった。戦後社会と図書館員養成との関係については,1979年に開学して2004年に廃止になった国立図書館情報大学の運命といっしょに語らなくてはならないのだが,それもいずれかの機会にということにしておきたい。ともかく,今では慶應の図書館・情報学専攻を卒業して図書館員になる学生は卒業生の1割もおらず,そもそもの設置目的からするとだいぶずれてきている。


私は,これを日本社会において(西欧的な意味での)図書館は必要とされる機関ではなかったと考えている。なぜそうなったのかについてはすでにいろんなところで書いたし,今後はこれを歴史をさかのぼって検討する予定である。ともかく,私はこのような状況そのものを「おもしろがる」ことにしたのである。文科省や東大教育学部を含んだ日本の教育関係者が図書館を無視してきたことは事実であり,そのこと自体が今後の教育政策を考える上で重要なテーマとなるのではないかと考えた。それを追及した『情報リテラシーのための図書館』『教育改革のための学校図書館』の二冊の本は教育学の総本山から離れたことで書くことができた。


教育と図書館との関係を考えるためにはいくつかの媒介項が必要になる。言語,情報,カリキュラム,学習方法,教材・教具,教育評価といったものである。これらの全体の最新の理論研究を見てきて,これが図書館情報学が対象としてしてきたものを別の角度から見ていると考えるようになった。ただし,米国経由で入ってきた日本の図書館情報学と同じように,教育政策の議論でも欠けているように見えるのが,言語と知識との関係の捉え方が欧米と日本とでかなり異なることである。これについて,次のブログで簡単に述べておきたい。

2020-03-24

PISA 2018, コンピテンス, そして「翻訳」

以下は、雑誌『みすず』2020年1月/2月号に寄稿したものです。

 「2019年に読んだ本 根本彰(図書館情報学、教育学)」

PISA2018で日本の子どもたちの読解力がまた下がったと大騒ぎである。また、大学入学共通試験実施に関して、英語の4技能試験や記述式試験の導入を先延ばしにするというニュースがかけめぐっている。そこで問題になっているのは「公平性」である。しかしながら、試験における公平性とはなんであろうか。そこでは社会的、経済的な条件が違っても受験者が臨む試験は唯一無二の神聖な競争の場であり、同じ条件が確保されなければならないという規範が覆っている。試験は差別化のための方法なのだからそれ自体が形容矛盾であり、すでにある「公平な」条件が一人歩きしていることは明らかである。

改めて、渡辺雅子『納得の構造:日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(東洋館出版社, 2004)を読み返し、20世紀の日本の教室では子どもたちの自然な発話と共感とが最大の価値であったことを確認した上で、福田誠治『ネオリベラル期教育の思想と構造:書き換えられた教育の原理』東信堂, 2016)を読むと、21世紀になって急に前面に現れたOECDのPISAが追求しているものが、グローバライゼーションに基づく自由主義的競争の下で賢く振る舞うことのできる能力(コンピテンス)であり、この数十年で生じた両者の違いがひしひしと感じられる。受験期の子どもたちはそのギャップを一身に受け止めざるをえない。

今回、文科省の関係者は、高大接続を合い言葉に入試改革を梃子にして念入りに準備をしたはずなのだが、最後は拙速になった 。おそらくそれは、江戸から明治の移行期に、西欧諸国に範をとって、法制度や行政の仕組み、科学技術や学術その他国のインフラになるものすべてを導入しようとしたときに、新しい言葉とともに、概念や言葉に付随するもろもろの制度・文化を無理矢理導入したときに始まったのだろう。「翻訳」が単に二つの異なった言語間の対応関係にとどまらないことは、近年のトランスレーション・スタディーズが示している。長沼美香子『訳された近代;文部省『百科全書』の翻訳学』法政大学出版会, 2017)は、明治政府が辞書編纂を通して対応づけを行った記録を分析したものである。ここまで遡らないと、日本の急ぎすぎた近代化が教育にもたらした負の遺産は明らかにできない。そして教育や文化が時間の関数であることを改めて確認したい。

なお、私の専門分野では、デビッド・ボーデン/リン・ロビンソン(塩崎亮訳)『図書館情報学概論』勁草書房, 2019)が出て、他分野からの見通しがつきやすくなったことを報告しておきたい。

2020-03-04

『レファレンスサービスの射程と展開』の刊行


暗い話題ばかりの昨今ですが、少し前向きの(?)話題を。

日本図書館協会から『レファレンスサービスの射程と展開』という本が出ました。












































この論集は2018年3月に逝去された故長澤雅男教授の教え子に当たる人たちを中心として、「レファレンス」をテーマに一冊にまとめたものです。レファレンスというともう古いとか、ネットで代替できているという反応が一般的です。論集でも少し触れられていますが、むしろ「レファレンスって聞いたことがない」「リファレンスというのが正しいでしょう」という人も少なからずいます。そういうなかで、図書館員が自信をもってレファレンスサービスを実施できるようにという思いを込めて、研究者がその重要性を理論的、実践的に明らかにしたものです。

日本の図書館界でレファレンスサービスといえば、第二次大戦後の占領期にアメリカ図書館学の影響を強く受けて導入されたものと考えられています。図書館界では志智嘉九郎の神戸市立図書館での実践がよく知られていように、1950年代60年代には図書館員の専門性を示すサービス戦略としても重要視されていました。しかしながら、その後は知られているように「資料提供」を中心とした人的サービスを前面に出すことでレファレンスはサービスを支える一要素として背後に置かれたとみられています。さらにはネット社会の到来とともに、サーチエンジンやSNS、Wikipedia、 Q&Aサイトで大方の疑問は解決するし、図書館での検索もWebOPACがあれば十分となっています。それとともに質問件数も減りました。

では、レファレンスサービスの重要性は下がったのでしょうか。この本ではむしろネット社会の普及によって日本人が初めて、外部情報源の存在を知ることができるようになったという立場をとります。そして外部情報源(というのはむろん図書館資料も含みます)へのアクセスも含めた情報アクセス全体を考えるのが図書館のレファレンスであり、その意味では課題解決サービスも、展示やイベントも、ビブリオバトルも、読書相談も、ネットでの情報発信もすべてレファレンスと捉えようというものです。そのため扱っている内容は多岐にわたっていて、一方では、知識哲学や記号論を援用した議論があり、 他方では、情報システムの解説や情報を知識として扱うための手法の説明、さらには図書館でのレファレンスサービスの運営法や情報リテラシー教育についての議論があります。


『レファレンスサービスの射程と展開』(根本彰・齋藤泰則編)

Ⅰ部 理論・技術
1章 知識の論理とレファレンスサービス (明治大学文学部教授 齋藤泰則)
2章 レファレンスサービスの要素技術 (筑波大学図書館情報メディア系准教授 高久雅生)
3章 レファレンスサービスの自動化可能性(南山大学人文学部准教授 浅石卓真)
4章 レファレンス理論でネット情報源を読み解く (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)

Ⅱ部 情報資源の管理と提供
5)章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界 (慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子) 
6章 知識資源のナショナルな組織化 (慶應義塾大学文学部教授 根本彰)
7章 パーソナルデジタルアーカイブは100 年後も「参照」されうるか(聖学院大学基礎総合教育部准教授 塩崎亮)
8章 『広辞苑』に用いられた媒体の移り変わり (鳥取大学講師 石黒祐子)
    
Ⅲ部 図書館レファレンスサービスと利用者
9章 日本のレファレンスサービス 七つの疑問(慶應義塾大学名誉教授 糸賀雅児)
10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)
11章 米国の大学図書館界における教育を担当する図書館員に期待される役割と能力の変化(帝京大学高等教育開発センター准教授 上岡真紀子)
12章 探究学習における学校図書館の役割(京都ノートルダム女子大学国際言語文化学部教授 岩崎れい)

私が書いた序文を読めるようにしておきます。
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序文

17世紀バロック期に微積分学の基礎をつくった万能の天才ライプニッツはハノーバー宮廷の司書を務めていた人である。彼が構想した「普遍百科事典」は今インターネットとGoogleの組み合わせとして実現されようとしている。というのは、Googleはそもそも開発者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジによって、所属していたスタンフォード大学のデジタル図書館計画として構想されたものに起源があるからだ。「ページランク」と呼ばれるその検索アルゴリズムは、被引用回数、引用メディアの重要性、引用者の重要性など学術論文評価システムの考え方をそのまま踏襲していた。インターネットが検索エンジンと組み合わされて普遍百科事典あるいは巨大な図書館となっているというのは、単なる隠喩ではなくて、実際にそれを実現しようという構想からスタートしているのである。 これにより、 図書とその他の情報源の区別をするのが難しくなっている今日、何を調べるのにもまずGoogleを検索するのが日常になっている。

続く

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論集のなかで私が注目しているおもしろい論文を2本紹介しておきます。

 5章 レファレンスサービスからみたIFLA LRMの情報資源の世界(慶應義塾大学大学院文学研究科 橋詰秋子)

橋詰さんは 、IFLA LRM(図書館参照マニュアル)を中心とした、書誌記述の新しい動向を研究した論文で慶應義塾大学で博士号をとりました。LRMのRはReferenceのことで参照と訳されています。参照とは何であるのかは、私が書いた4章「レファレンス理論でネット情報源を読み解く」の中心的テーマですが、IFLA LRMでは従来の書誌記述が著作の標題紙にあるようなデータに加えて内容を概括的に把握した主題や分類記号を付与するのにとどまっていたのに対して、著作がもつ内部構造や他の著作ともつ関係を記述する方向に向けて踏み出しています。これまでも著作と著作との関係は版や翻訳、シリーズものなどで表現されていたわけですが、さらには、原著作の解説書やインスピレーションを受けて発展させてできた著作(翻案)、映画やコミックなど同じ原作をもとにするものなどの多様な「関連」が表現できるというものです。書誌や目録の世界とレファレンスの世界が思いのほか近いことがわかります。

10章 公共図書館における読書相談サービスの再構築(椙山女学園大学文化情報学部教授 福永智子)

福永さんのこの論文は、読書相談サービスがレファレンスサービスの一部なのか、別物なのかという、かつてあった議論を受けてこれを厳密に検討しようとしたものです。その際に、レファレンスサービスは回答するにあたって典拠(情報源)を示すことが必要となる のに対して、読書相談は相談員自体のもつ専門的知識が回答の根拠になることが求められると述べられています。これは第1章の齋藤泰則さんの議論や第4章の私の議論で、レファレンスサービスが成立するためには何らかの「権威authority」に寄り添う必要があり、その権威は一つには典拠とするレファレンスブックやレファレンスツールにあるが、もう一つはそれを使うための図書館員のスキルにあるとしていることに関わります。読書相談において何らかの図書の推薦を求められた場合に、やりとりによって当該相談者がどういう人であり、何を求めているのかを理解することに関してはレファレンスサービスのスキルと同様のものが求められますが、その後はレファレンスサービスではツールをもとに回答を出すのに対して、読書相談ではツールから相談者に適合するものを選択するという行為が必要になります。この行為のトレーニングができるのかどうかについて、選書、調査業務、児童図書館員の行為などを参考にしながら論じています。

以上の2本は、著作と著作との関係や著作と人間の関係に関わる問題を扱っていることは明らかであり、レファレンスサービスはすぐれて応用知識学と呼べるような領域をカバーしていることに気づきます。1章、4章は知識それ自体の在り方を議論しているものです。こちらにもチャレンジしてみてください。