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2019-04-20

つくば市旧小田小学校(一部教室)の地域活用を考える会

3月30日と4月19日に開催された標記の会に参加した。これは「小田市街地まちづくり勉強会」の一環として、つくば市都市計画課周辺市街地振興室の呼びかけで開催されたものである。

つくば市南部が東京への電車でのアクセスがいいので人口がどんどん増えているのに比べて、北部は少子高齢化が進む典型的な過疎地域である。そうしたところに住むことを決めたのには理由があるが、その一つには、マージナルなところは層化された歴史の断面が見えやすいという直感による。昨年6月に、北部の公立小中11校が廃校になって統合され、その廃校跡地をどのように使うのかについての説明会があったことはブログに書いた。最近になって新しい動きがあったのでここで報告しておく。

それは都市計画課が後押しして、小田小学校の2教室と運動場を地域の人たちが活用するための団体と事業計画をつくるための準備ということである。すでに、国と市からそのための修繕費が支出されることが決定していて、また、これを進めるための専門のコンサルタント会社を公募することもまもなく始まるということである。これだけのことをして、これを進めようというのは小田地区がいくつかの要素でこういう事業をモデル的に進めるのによい条件が揃っているという判断があったようである。それはたぶん、他の地区(周辺市街活性化の対象地区は全部で市内に8地区ある)に比べて、中世以来の歴史文化があり地理的にまとまっていて独立性が高いこと、小田城趾公園や宝篋山登山などで外部からの訪問客を受け入れている現状があることなどによるものと思われる。

2回の会では職員によるこの事業の趣旨説明があった。要するに、これは最初の1年間は市が面倒をみて小学校の一部を利用した地域再開発の手伝いをするが、あとは地域住民で自由に展開してほしいという仕掛けであることが理解できた。つまり、他の地区にさきがけて廃校利用のモデルケースとなることを期待しているということだ。

提案されている学校施設の利用用途について大まかには二つあり、一つは地域住民のコミュニティ活動の拠点にすることとであり、二つ目には宝篋山の登山客やサイクリングロードを走るサイクリストを引きつける施設として利用することである。話し合いでは、これらの提案にとくに異存はなかったし、それを引き受ける住民協議会に参加したいという人もけっこういた。ただし具体的に何をするのかということになると、いろんな意見があり、その受け皿として汎用的なものをどのようにつくっていくかが議論の中心だった。

たとえば、修繕の一環で簡易シャワーが使える設備をつくるかどうかは、目的にかかわる。そもそも今のところサイクリストはそんなに多くないし、ロードの途中でシャワーを浴びる人はいないだろう。登山道の拠点である駐車場から小学校まではちょっと距離があってわかりにくく、シャワーを使う人がどれだけあるか不明である。車で10分でウェルネスパークという温水施設があるからそこにいけばよい。というように、需要が不明なのに費用がかかり維持するのもたいへんそうな設備をつくるのがいいのかどうか。といった具合である。だからおおざっぱな方針をつくって、あとは地域の意見を集約できる準備会をつくり、さらには運営協議会を発足させるという方針でまとまった。

前にも書いたように、ここには地元のことについては熱く語る人たちがいる。また若い人や女性の参加者もけっこういていろんな意見を出していた。小田の街はふだんはあまり人通りもないが、祭りやイベントのときは盛り上がることを経験してきた。今は小田城跡公園が集まる場所になっている。小学校は地域の拠点の一つであるから、これがなくなったことで、再開発をきっかけとして小学校と小田城趾をうまくつなげるといいと思う。今はあいだに保育所と児童館が入っているが、かなり老朽化しているということなので、いずれは小学校の方に移転することを考えるべきだろう。歴史的保存地区に指定されているので新しい建物は建てられないから、そうなるとすっきりと両方がつながることになる。

そうなると、このブログを開設した2年前に書いた「緑と城の小田郷学」プロジェクト案の一部は実現することになるだろう。 念のためにここに再度書き出しておく。

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2017423
の小田郷学」プロジェクト案
 
以下は、小田に住み始めて数年、小田に定着し、何か貢献できないかと思ったときにやるべきことについて個人的にまとめたものです。

 ・ 長島尉信(江戸末期の小田在住の農政学者)に/を学ぶ
 この人が小田で何をしていたのか
 とりあえず、小田城趾公園案内所を借りての勉強会

・ 小田小学校廃校対策
 小田小校舎と保育所・児童館を統合する。
  城跡の公園とを結ぶ子どもから大人の学びの場をつくる
   (体育館の利用・小ホールをつくる。ライブラリーによる広場機能)
 紫峰学園筑波義務教育学校にとっての地域学習の拠点の一つとする

・ 小田城公園との連動
  小田保育所=小田小学校跡地との一体的開発
  公園案内所のミュージアム化(小田城の歴史と小田地区の歴史(長島家文書))
  農と食との連動(筑波農場、武平ファームとの協働)による休憩施設
  りんりんロードの拠点休憩所づくり(土浦、霞ヶ浦、北条、筑波山麓との連携)
  つくバス小田シャトルの連絡の向上
  (つくば駅からりんりんロードにつながる自転車道の整備)

・ 小田地区との連関
  宝篋山への登山道入り口 (小田休憩所との連携)
  小田祭り・どんど焼き等の祭り
  文化財(小田不動磨崖仏、小田前山、極楽寺跡と忍性)
  古民家華の幹、カフェ梟と駐車場との協働
  (前山下の採掘跡地の再利用によるコンサートスペース)

*小学校と保育所との統合、自転車道整備、コンサートスペースはやや夢物語に近いか
テーマ:自然と農、伝統と文化

 「小田」を素材にした人々の交流の場・学びの場・遊びの場にする

 郷学の復活(江戸時代の庶民の私塾、小田小学校の前身は郷学だったのでは?)

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なお、この案をある人に見てもらったときに、小田小学校は車でのアクセスに非常に制限があって問題だという話しをされた。今回の話し合いでも、車道の拡張についてまっさきに市が取り組むべきではないかという意見があった。それに対して、市の担当者は今回の趣旨は市役所が後押しして、地域活性化を住民自らが取り組むための手伝いをすることであり、それがうまくいって実績が上がったら自ずとそうした環境整備のようなものに市が取り組むことがあるだろうということだった。確かに、小田小学校が明治の初期にできてから140年目にして廃校になり、新しい状況が生まれたわけだから、あまり焦らずにじっくりと地域づくりに取り組めばよいと考える。

ポメラDM200を再度利用してみて

2017年6月23日付けのブログに書いたものの続きである。

通勤時に使える軽くて機動性のよい入力機器がないか、というのが2年前のテーマだった。かつて使っていたVAIO Xという軽量薄型のパソコンを引っ張り出したが、やはり非力で使えない。そこで、キングジムのポメラDM200というキーボード付きでテキスト打ちだけができる機器を使ってみると書いていた。しかしながら、これを使ったのは、せいぜい1ヶ月くらいだったと思う。この機器の特徴はテキスト入力オンリーというところにあり、とくに開くとすぐ使えてかつ、ネットにつなげないことがメリットということが広く知られている。だから、文字生産ないし文字入力の専業者であるならこれの使い勝手がよいと感じ、実際にそういう熱心な支持者がいるらしい。

残念ながら私はそうではなかった。確かにテキストだけを入力することも多いのだが、どうしても書くのは論文や著書の一部分なので、図表と組み合わせることが少なくない。ネットにつないで調べたり確認したりすることもしばしばある。最終的にテキストはPCのワープロソフトで編集することになるので、PCとの連携がきわめて重要なのだが、接続がよくないのが最大の問題だった。前のブログで触れたように、無線LANやSDカード、そしてUSBケーブルも使えるのだがどれも今ひとつだ。このなかではUSBケーブルがあればすぐにつなげるので一番使い勝手がよいのだが、それでもケーブルを用意していちいち二つの機器をつなげなければならない。通勤とか外に出ているときに使うものなので、帰ってからいちいちつないでファイルにコピーアンドペーストするのはけっこう面倒になる。PCで一番使い勝手がよいUSBメモリを差して使うやりかたができないのが困る。この頃は、ネット上のドライブを使うことはまだ一般的ではなかったので使っていなかったが、DM200はそれには対応していない。

前のブログで、DM200のサイズでWordファイルを扱えるPCがあればいいのだがと書いた。以前に使っていたVAIO Xはそういうものだったし、同じ頃にソニーはVAIO Pというモデルも出していた。DM200はVAIO Pの横長のデザインを真似ているように見える。だが、しばらくそういう、携帯に便利で軽いPCをみなかったところ、ここ数年でそのたぐいのものが普及している。一つはタブレットの性能があがり、PC並の処理能力をもつようになっている。それでも画面上のヴァーチャルなキーボードは使う気になれない。(若い人はスマートフォンでけっこう長いものも書くというからこのあたりは慣れの問題なのかもしれない。)ところが、タブレットにキーボードを組み合わせたものが出始めていてけっこう使っている人を見かける。重量と起動性という意味ではこれはいいのかもしれないが、PCに置き換わるものにはならないだろう。別のものの組み合わせだから不安定であり、これを膝の上に乗せて使っているのは見たことがない。

最近のPCの薄型化・軽量化の動向も見過ごせない。DM200の重さは600グラムくらいで、それに近いPCが現れている。富士通やNECからは12〜13インチPCで700グラムから800グラムくらいのものが出ていて、これなら持ち運べるかもしれない。画面が大きくてよいが、値段はけっこう高いし車内で使うには大きすぎる。高くていいなら、AppleのMacbookの最近出たものも候補になるかもしれない。それと、輸入物だが超小型PCというのも出ている。GPDとかOne-Netbookと呼ばれるブランドだ。これらは7インチくらいの画面で本当に小さいが、重さは1キログラムを超えるようで意外に重い。なによりもキーボードサイズが小さいので打ちにくいことは否めないだろう。

実は、この数ヶ月、再度、DM200を取り出して使っている。というのは日記を書くのにいいからだ。つまりこの機械を日記やメモ入力の専用機として使い、PCとの接続はたまにしかしないとすれば、これはこれでけっこう使えるのかもしれないと考えたからだ。バスや電車に乗ってすぐにとりだし、テキスト打ちだけをやるのには適していて、今でも使っている。前にも書いたように、本当はこのブログの入力ができればいいのだが、直接はできない。テキストで書いてPCに移してアップすることになる。また、たとえば超小型PCというのがあったはずだがそれはどういうブランドだったっけなどと調べようとしても、PCならすぐできるが、DM200ではできない。ネットに接続しない専用機のメリットを生かせることはそんなにはない。

ということで、これを使うのがどのくらい続くのかはわからない。大きすぎても小さすぎてもだめで、持ち運びやすく作業がしやすいものというのはなかなかない。また、ネットにつなげない方がいい場合と、つなげた方がいい場合があり、その使い分けも難しい。何ともわがままなものだと我ながらあきれてしまう。

この記事の続きは2020年2月11日のブログ

2019-04-03

【書評(根本彰)】稲垣行子著『公立図書館の無料原則と公貸権制度』

【書評(根本彰)】稲垣行子著『公立図書館の無料原則と公貸権制度』日本評論社,2016,421p.

日本図書館情報学会誌 63巻1号, 2017.p. 45-46,の再掲載


本書は,著者が中央大学に提出し,2014年7月に博士(法学)を授与された論文をもとに加筆訂正され出版にいたったもので,図書館をめぐる法的状況に取り組んだ意欲作である。

これまで出された図書館法規の解説書の多くは実務家向けのものであったが,近年,図書館についての法学研究が出始めている。法学研究には大きく分けて,法制史や法哲学などの基礎法学と,実定法を扱う実証法学があり,後者はさらに法解釈論と立法論に分けられる。多くの法学研究および法学教育は,実定法を法源として検討する解釈論をベースにして行われている。他方,立法論は現行法では十分でない領域について,法解釈に加えて,法改正や新たな立法をするための発展的議論を行うものである。本書は立法論の立場から,図書館が関わるサービス領域を外国法も含めて法学的観点から検討し,最終的には公貸権(公共貸出権)を規定した法律をつくることを提言している。

本書は,全体で4部,14章から成る。全体の流れは,公立図書館(以下図書館とする)が憲法上の知る自由という原則に寄りそってつくられている位置づけを検討した後(第I部),それを実際の法において実現させる際に無料公開制を中心とする構えとなっていることを確認する(第II 部)。そして図書館の無料原則をめぐる状況を総合的に検討し、著作者の権利の一部との調整が必要になっていることを明らかにする(第III部)。その調整のための具体的方法として公貸権を法制度として確立することを提案している(第IV部)。具体的に,内容を見ておこう。

第I部「国民の知る自由と図書館」では,まず国民の知る自由は憲法に内包されるか,少なくともそこからの派生的保護法益であると述べて,公立図書館は,“国民の知る自由を確保する社会的装置のうち,一番身近な装置”であるとする(p. 30)。そしてアメリカの「知的自由」と日本の「図書館の自由」を比較し,情報公開法による知る権利の法制化の状況を述べ,判例を検討した上で,著作物が図書館を通じて読まれることに法的利益があるとする。最後にアメリカと日本の図書館史を検討した上で,近代図書館を貫く原則として,法的根拠をもつ公開,公費支弁,無料制を挙げている。

第II部「パブリックライブラリー要件と図書館制度の関係」では,これら3つの原則を日本の法制度を中心に欧米各国の制度も含めて検討を加えている。まず,公開の法的な根拠についてである。図書館法は憲法,教育基本法,社会教育法の系列に位置づけられ,教育基本法の機会均等の規定や,社会教育法における国民の社会教育活動に対する国,自治体の支援する規定に基づいて,サービス法である図書館法がつくられているとする。他方,地方教育行政法では図書館は教育機関に位置づけられ,地方自治法において教育機関は教育委員会の専決事項とされている。また,地方自治法では公の施設が定義され,住民の福祉を増進する目的をもって利用に供するための施設で,なおかつすべての住民に対して公開されていることと公平な取扱いを規定している。著者によれば,図書館が教育法と地方自治法と二つの法系列に位置づけされることに問題の淵源がある。

図書館の公費支弁と利用の公開制はこの二つの法系列のいずれにも規定されているが,とくに図書館法17条で無料制が最初から規定されていることが重要である。というのは,図書館の無料制は外国では必ずしも普遍的な原理ではなく,歴史的に形成されて,財政的な状況や経済政策によって変化してきたからである。ドイツやオランダの図書館は年間登録料のようなかたちの有料制が一般的で,それは法的な根拠をもっている。

第III部「図書館の無料原則が及ぼす今日的課題とその調整の考え方」では,図書館の無料原則が著作者の権利を制限する役割を果たしていることについて検討している。1984年に著作権法に貸与権が導入されたが,書籍に関しては,同法附則に「書籍または雑誌の貸与は当分のあいだ適用しない」とする制限規定があったために適用されていなかった。だが2005年に附則が撤廃されて,書籍やコミックのレンタルは貸与権の対象になった。しかしながら,図書館の貸出しは無料で貸出している限り,貸与権の対象にならない。

ところがこの状況に変化が見られるようになっている。それは,地方自治法改正で公の施設に指定管理制を導入することができるようになり,公設民営の図書館が現れ,その数は増加している。それを導入した自治体の一部は「図書館法によらない図書館」を公の施設として開設するという解釈をしている。とすると図書館法の無料原則によらない自治体図書館が現れる可能性がある。  

教育政策としても,生涯学習社会において住民自身の学習活動について受益者負担が進行しつつある。また,有料制をとっているドイツやオランダ以外の国の図書館でも,資料予約,オンライン情報検索,集会室利用,区域外居住利用者への課金が行われることは一般的になっている。無料貸出しが多いフィクションや児童書の著作者が職業的な著作者であることを考慮するときに,このように無料でない図書館が現れることも考慮に入れて,著作者の権利と図書館利用の関係を調整することが必要であるという。

第IV章「図書館の無料原則と著作者の権利との調整方法の検討および提案」では,公貸権制度の導入が検討され,それが日本でも導入されるべきことを提案している。EU加盟国では1990年代に貸与権と貸出権の導入を進め,著作者の権利を守ろうとしたが,その際に公共の貸出しは制限の対象となっている。こうして各国は,公貸権を著作権法に含めるか独自の立法をするかのいずれかで制度化し,図書館による資料の無料貸出しによる著作者の経済的損失を補填することになった。

そして,EU各国の公貸権制度を検討し,アメリカ合衆国では導入できなかった事情を検討した上で,日本では英国型の独自立法による公貸権制度をつくることが望ましいと結論づけている。それは,著作者の報酬請求権として設定し,利用料の支払いは国の基金で行うというものである。

以上,複雑な構造をもつ本書の論旨をつないでみた。最初に述べたように本書は立法論の立場で書かれている。公立図書館による無料の公共サービスとしての資料貸出しの進行が著作者の権利との関係で相容れないものが生じているときに,その調整を行うのにあたり公貸権導入に意義があると主張するために,かなり広範囲の領域の議論を整理検討して,論理的に組み立てようとしている。

本書の第一の貢献は,公貸権制度の必要性を立法論的に検証したことが挙げられる。これまで,立法の動きとしては2005年に文化審議会著作権分科会での審議が行われたことがあったが,同じ時期に制度の紹介が行われている程度で,法学的に十分な研究が行われていたとは言えない。行政法・教育法と著作権法との隙間にあった領域に光をあてて綿密に検討し,最終的に著作者の権利としての公貸権制度化を提言したことは重要な業績であると考える。

第二に,とは言え,本書は単に公貸権を法制度として確立するための議論整理にとどまらず,図書館情報学的に言っても,不十分であった公立図書館の法的な位置づけを体系的に明らかにする著作である。従来の公立図書館に対する法的な解釈は,知る自由をもつ住民のために資料を収集保存提供する役割を強調していた。その際に,図書館の資料提供が著作者の権利を制限して行われていることは指摘されてはいたが,その二つを結びつけて展開した議論は少なかった。それだけに,本書が,図書館と利用者との関係のみならず著作者との関係を含んだ総合的な見方を提示したことは重要な貢献である。

本書は多方面にわたる戦線を張っているがために、残した課題も大きい。法的な枠組みの議論を中心としているので,具体的な問題について十分に検討されていないところがある。たとえば,公貸権の制度設計の記述に,唐突に“新刊資料の館外貸出については,貸出禁止期間を設定し,その期間中について利用者は館内閲覧のみとする”(p. 395)という提案がある。著者は知る自由の保障に図書館の無料貸出しが一定の役割を果たしていることを強調し,許諾権ではなく報酬請求権としての公貸権を提案しているだけに,これがどのような論理に基づいているのか理解しにくい。

日本における公貸権の議論はまだ緒についたばかりである。ここ10年ほど論じられてきた,図書館の資料貸出しが本当に著作者の収入減につながっているのかといった議論をもとに,本書の枠組みで精緻化していく必要があるだろう。その意味で議論の礎をつくった本書の意義は大きい。

【根本彰,慶應義塾大学文学部,2017年1月6日受理】